アクション

2019年11月16日

ジェームズ・キャメロンが製作陣に復帰し、28年前の『ターミネーター2』の正統的続編と宣伝されている最新作『ターミネーター:ニュー・フェイト』。うーん、実に残念な映画でした。面白い面白くない以前に辻褄が合わなさすぎ。世界観に異議あり! と言いたい。(以下ネタバレあります)


terminator-dark-fate1

スカイネットを滅ぼしてもリージョンが、ジョンを殺してもダニーが
いきなりジョン・コナーが殺される冒頭はガツンとやられましたが、「え、で、ターミネーターは誰を殺しに来るの?」と見た人ならすぐ思ったはず。一世一代の当たり役サラ・コナーとしてリンダ・ハミルトンが復帰することも知っていたし、シュワがT-800としてまた登場することも知っていた者としては、ジョン・コナーが殺された時点でいやな予感が漂いました。悪役ターミネーターは誰かを殺しに来るんでしょうが、そこにサラ・コナーとT-800がどう関わってくるのか、と。

T-800がジョン・コナー殺害後、20年間隠遁生活をしていたというのは笑いました。確かに、1作目で現代にやってきたシュワもマイケル・ビーンも「もう帰れない」と言ってましたし、ジョン・コナー殺害の指令だけを受けたT-800が指令を完遂した以上、何をしようと勝手だし、別にこれはこれでいいのではないでしょうか。

サイボーグ兵士グレースがメキシコ人の「新たな救世主の母ダニー」を助けにやってくるんですが、問題は、『2』でサラ・コナーとT-800が消滅させたスカイネットが「リージョン」という新たなAIにとって代わり、リージョンと人類の最終戦争がダニーの息子という「新たなジョン・コナー」によって人類側の勝利に終わりそうだという未来設定ですね。

これって完全におかしいでしょ。

いまチラシを見てみると、「時代は変わった。運命はどうだ」というキャッチコピーがあります。確かにこの30年近くでヒスパニック系の割合が格段に多くなったアメリカ社会が反映されていますが、運命に関しては「審判の日は起きなかったが、人類の運命は変わらない⁉」などと書かれています。

そうなんですよね。スカイネットを滅ぼしてもリージョンが開発される。そこには「人類は結局、自分自身の首を絞めるとんでもないものを開発してしまう」という文明批評的なものが感じられます。が、「人類の運命は変わらない」のはここまでにしておかないといけなかったのではないでしょうか。

ジョン・コナーを殺しても新たなジョン・コナーが生まれる。こんなに「人類の運命は変わらない」ことにしてしまうと、『ターミネーター』シリーズの面白さや魅力が完全に損なわれてしまっているのではないでしょうか。

スカイネットだろうとリージョンだろうと他のAIだろうと、人類側の救世主の本を絶つためにターミネーターを過去に派遣してその母親を殺そうとする。仮に首尾よく殺せたとしても、新たな救世主が生まれるだけじゃないんでしょうか。

だって、ジョン・コナーを殺しても新たなジョン・コナーが……という世界観なんですよ。この『ニュー・フェイト』でダニーを殺せたとしても、新たなダニーが登場するだけなんじゃないんですか? 『2』でスカイネットの本を根絶してもリージョンが開発されてしまったのと同じ。


最終戦争は起こらない!?
で、ですよ。そういう世界観ならば、もう人類とAIの最終戦争は起こらないと思います。

参照記事⇒AI自動運転社会は不可能・絶対無理と思う件

AIは通常「人工知能」と訳されますが、いまだに本当の意味での「人工知能」は開発されていません。現在「AI」と呼ばれているものは「恐ろしく計算の速い電卓」にすぎず、できることは四則演算だけです。最近話題の「量子コンピュータ」も異常に計算が速いだけで自分で問題を設定することはできません。

しかし、スカイネットやリージョンは自分の意思でターミネーターを開発し、過去に派遣して勝利しようと目論むのですから、真の意味での「AI」なのでしょう。

が、それならば、最終戦争は起こりません。

なぜなら、自分たちを敗北に追い込む救世主の本を絶とうとしてその母親を殺しても、結局新たな救世主が現れるなら遅かれ早かれAIは敗北します。

AIならそういことを素早く計算して「人類に戦争を仕掛けるのは得策ではない」という結論を弾き出すはずなんです。

だから、「運命は変わらない」のは、スカイネットを滅ぼしてもリージョンが……というところで止めないといけなかった。それなら誰を殺しにくればいいのかって? そんなのジョン・コナーに決まってるじゃないですか。


人類の救世主「ジョン・コナー」
john-conner

『2』でせっかく救ったジョン・コナーをあんなにすぐに殺してしまうなんて、という声がたくさんあるようですが、そういう感情論よりも、救世主はジョン・コナーひとりにしておかないとシリーズの物語が起動しないからダメだと思うわけです。

スカイネットを滅ぼしてもリージョンが開発される。リージョンを滅ぼしても新たなAIが開発される。それほど人類は愚かである。そんな人類の希望の星がジョン・コナー。AIはジョン・コナーの本を絶ってしまえばと何度もターミネーターを過去に送り込んで最終戦争に勝利しようと画策する。

それがキャメロンが監督した2本に共通する世界観だったはずなんです。

だから、このシリーズは『2』で終わるべきだったと強く思います。個人的には『1』だけで充分かな、と。『2』も好きですですけどね。

今回、仮にジョン・コナーを母親とT-800が救う話にしたら『2』と同じになってしまうし、何よりエドワード・ファーロングの顔が変わっちゃってるし。(つづく)


続きの記事
見せ方にも疑問 『ターミネーター:ニュー・フェイト』感想②


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ターミネーター(字幕版)
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2019-07-01





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2019年07月09日

ついに今週末からロードショーされる『トイ・ストーリー4』公開に先立ち、前作『3』がテレビ放映されました。


ToyStory3-3

前回、『新聞記者』の感想(⇒こちら)で、「善と善」の対立にしないといけないという私の主張(というかおおもとはある高名な脚本家)がわからないと友人に言われまして。

言葉が足らなかったかもしれませんが「善」というのは「善人」という意味ではありません。「その人の言い分に納得できる」「その人にも同等の理がある」ということです。どうしても安倍政権を批判している映画だから政権側にも理があるというと反安倍派の人たちは「そんなものがあるか!」と感情的になってしまうみたいで。どうしても政治のことになると頭に血が上ってしまうのが人間という生き物のようです。

そんなときに『トイ・ストーリー3』の放映。劇場で見て以来の鑑賞でしたが、これがすばらしく「善と善」の対立になっていて、いい見本だと筆を執りました。


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「悪意」のないドラマ
このロッツォという名のクマのぬいぐるみがとんでもなく悪い奴なんですが、彼が悪い奴になってしまったのには理由があるんですよね。

ウディにとってのアンディのような、素敵な持ち主の女の子にかわいがってもらっていたのに、ハイキングに出かけたときその子が眠ってしまい、親が寝かせたままおもちゃを全部置いたまま帰宅してしまった。ひたすら待つが持ち主は来ない。自分たちの足で何とか帰ると、同じぬいぐるみの新しいのを買ってもらっていた。

捨てられたと思ったロッツォは一緒に捨てられた仲間たちと「捨てられたおもちゃの帝国」を作り上げ、そこの支配者として君臨している、と。

確かにウディが指摘するように、持ち主に新しい代わりができたのはロッツォだけで他のおもちゃは帰る余地があった。それを一緒にダークサイドに道連れにしたのはロッツォの悪意でしょうが、ハイキングで置き去りにされてダークサイドに堕ちたからそうなったわけで、じゃあ、置き去りにしたのはなぜかというと、女の子が寝てしまったから。両親はおもちゃのことなんて頭にないし、なくしたら新しいのを買えばいいと思っている。子どもは子どもの原理、親は親の原理で行動しているだけ。

誰にも悪意がない。悪意によって対立を生むのではなく、そういうのなしでドラマを組み立てろよ、というのがくだんの脚本家の指導でした。『新聞記者』では生物兵器という世界中を敵に回しかねない極悪を根っこに設定しているので「無理やり感」があるんですよね。『トイ・ストーリー3』は見事にそれを体現しています。


底流する「別れの予感」
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ここからは純粋に『トイ・ストーリー3』の感想ですが、アンディが大学に行く年齢になり、ウディやバズと遊ぶことがないという背景が何とも哀しいですね。「出会いは別れのはじまり」とhwvあよく言いますが、いつかはおもちゃ離れしなきゃいけないときが来る。いつかは親元を離れないといけないときがくる。いつかは親しい者との死別のときがやってくる。(飼い犬が老犬になっているのが死別の暗示になっています)

とはいえ、アンディはウディたちが慕うだけあって、用済みだと捨てたりはしません。ただウディだけは別にして他のおもちゃを屋根裏に保管しておこうと思っただけ。なのに、ひょんなことから母親がゴミとして出してしまう。ここにも悪意はありません。ロッツォの持ち主の両親と同じく「大人はおもちゃのことなどこれっぽっちも気にしていない」というのが『トイ・ストーリー』の世界観だからです。

考えてみれば、このシリーズは目的地へ向かってまっしぐら! という内容ですね。1作目から3作目まで見事に自分たちの家に帰るお話です。


「運命」に逆らうドラマ
が、この『3』が異色なのは、逃げる唯一の道が溶鉱炉へ通じるゴミ箱というところです。「おもちゃはいずれ飽きられるか壊れるかして捨てられ燃やされる運命だ」とロッツォは言いますが、ウディたちは何とかその運命に抗います。ただの物理的な脱出ではなく、「運命」という神の掌からの脱出になっていて、2作目までとは一線を画す壮大な脱出劇となっています。

では、『4』はどういう脱出劇なのでしょうか? それとも脱出劇ではなく違う趣向の物語なのか。私は『3』を超える新しい脱出劇を見せてほしいと切望しています。「運命」以上の壁はあるのか。いずれにしても予想をはるかに超えるものを見せてくれるはず。

期待してまっせ!






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2019年03月10日

アニー賞を獲ったとかアカデミー賞を獲ったとか、それだけの理由で見に行ったのでどんなお話なのかまったく知らず、そのためにあまり乗れなかった『スパイダーマン:スパイダーバース』。

話には乗れなかったけど、存分に楽しみました。

まず、ピーター・パーカーの語りから始まって、すぐマイルスという少年に話の焦点が移り、いったいどっちの話なのかと思っているとピーター・パーカーが死んでしまう。なるほど、『エグゼクティブ・デシジョン』みたいなのを狙ったのかな、と思っていたらば、何とピーター・B・パーカーというスパイダーマンが出てきて、このあたり乗れませんでした。中盤で、並行世界のスパイダーマンが集結しているというのがわかって、あ、なるほど、そういう世界観なのね、とは思ったものの、前半で乗れなかったツケで物語には最後まで乗れませんでした。というか、あまり大した話じゃなかったような……?

それよりも「垂直方向を意識したアクション」がとても気に入りました。

こんなのとか、
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こんなのとか、
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こんなのも。
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何か似たようなアングルばかりですが、ほしい画像が見つからなくて。

サム・ライミの『スパイダーマン』シリーズがどうだったか定かには憶えていないんですが(『アメイジング・スパイダーマン』とその次のシリーズにいたっては1本も見ていません)この『スパイダーマン:スパイダーバース』はアクションも垂直方向なら、人物の配置もできるだけ垂直の関係になるように設計されています。

ある高名な脚本家から教わった大切なことのひとつに「垂直方向のアクションを意識せよ」というのがあって、この映画はまさにそれを実践しているとうれしくなりました。

壁に張り付いた状態で会話するシーンがたくさんありましたけど、絶対に人物を水平方向に並べず、垂直の関係においていました。だからカットバックするには、思いきり仰角か思いきり俯瞰か、ということになる。ビジュアルがとてもよかった。

先月公開された『アクアマン』。あれは水中ばかりだから仕方ないのかもしれないけれど、水平方向の人物配置やアクションになっていましたよね。

こんなのとか、
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こんなの。
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話を『スパイダーマン:スパイダーバース』に戻すと、玉に傷なのが、大乱闘になると、いったい何が起こっているのかよくわからなくなること。私は70年代のアメリカ製アクション映画が大好きなんですが、あの頃の映画ってちゃんと何が起こっているかはっきり見せていたしいまの映画に比べたらゆっくりしたアクションだけれど、それで充分だった。いまのアクション映画は見せ方が派手すぎて好きになれません。

とはいえ、「垂直」を常に意識したこの『スパイダーマン:スパイダーバース』は超美味な映画でございました。


アート・オブ・スパイダーマン:スパイダーバース (SPACE SHOWER BOOKS)
ラミン・ザヘッド
スペースシャワーネットワーク
2019-03-01





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