聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

アクション

『フレンチ・コネクション』(スマートな自己言及映画)

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私はユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はその意味でも類まれな面白さをもった映画といえると思います。

ユング心理学そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんけど、平たく言うと、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間を考えるそうですが、私は「霊」に関してはそういう映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
frenchconnection3

何といってもこの映画はこのカーチェイスのシーンが有名です。麻薬密輸グループを逮捕しようと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。



②心理の物語
frenchconnection2

問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。



③感情の物語
CUa1snsUwAAK-0f

だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソという役者が演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

「心理の物語」はすでに解決されています。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?



⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出した、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。
はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの疑惑の目にも注目したい。(この疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人に初めて感情的な亀裂が入る)

この逆転は、「身体の物語=アクション映画」を楽しみに来た観客に対してほとんど喧嘩を売っているとさえ思えます。最後の最後で「この映画はアクション映画ではなかったんですよ~」と言っているんですから。

凶悪犯が急増した70年代初頭、「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのか、とこの映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意だった刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをももしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
最後に、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?


frenchconnection1

フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになった者が、逆に撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、この「一般市民から車を強奪する」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


CUa1snsUwAAK-0f

アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。

関連記事
『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!

『奥様は、取り扱い注意』を見終えて

okusamafa0_1


毎週水曜日を楽しみにしていたのも昨日で終わりました。

単に綾瀬はるかが目当てで見始めたから、数回ももたずに見るのやめるんじゃないかと思ってましたが、最初に完走を確信する作品になるとは驚きでした。

ただ、最終回がねぇ・・・


1266a005


西島秀俊は最初から何となくキナ臭かったし、途中、警察に知り合いがいるという挿話があったので、おそらく公安の人間だろうとは思ってましたから夫婦でアクションを演じるのは予想通り。というか、そうでなくてはならない。

途中から「悪役のための悪役」として登場した玉山鉄二は、最初は「何でこんな役出すの?」と不可解でしたし、「つまんねえな。何か面白いことないかな」というセリフも、あの石原裕次郎の隠れた佳作『何か面白いことないか』の二番煎じみたいでちょっと鼻白んでしまいました。





4da9ed6c

ところが、昨日の最終回では、玉山鉄二が綾瀬はるかに「あんたは結局こっち側の人間だ」と語りかけ、最終的にその言葉が証明されます。

なるほど、そのための役だったのか、と、綾瀬はるかがワンカットの見事なアクション(最後のほうはちょっと乱れて映像と効果音がずれてましたが)を見せたあとに「気持ちいい~~~!」と叫ぶ場面で合点がいき、物議を醸しているというラストシーンでも、「なるほど、そう来たか」と、連続11回を見てきてよかった、と思いました。

ラストシーンが物議を醸しているといっても、それは暗転したあとに銃声が鳴るから、綾瀬はるかが殺されたのか、それとも殺すふりをして二人で逃げたか、結局どうなったかわからない、スペシャル版と劇場版があるらしいが、それで明らかになるなんて本当の最終回じゃない! ということなのでしょう?

実際、私は金城一紀脚本作品はこれが初体験なので知りませんでしたが、金城さんのドラマはほとんどこういう終わり方をして次につなげる手法が多いらしいので。

しかしながら、私がこの最終回に疑問をもつのはそういうことではありません。ラストシーンのあとどうなるかわからないなどというのは、すべての物語に付き纏うものです。「物語は永遠に続かなくてはいけない」のが鉄則です。

私が疑問なのは、確かに第1話で、「主婦になって半年で主婦業に飽きてしまった」という綾瀬はるかの言葉がちゃんと伏線として機能しているから、あの「気持ちいい~~~!」は決して唐突なものではないわけですが、やはりそれでも、私たち視聴者に対してではなく、作中人物に対して失礼なセリフではないかと思うのです。

その作中人物とは、当然この人たち。





okusamawa


広末も本田翼も、もう完全に綾瀬はるかがカタギの人間ではないことを知ってしまいました。暴力をふるうことに快感を覚える人間だということも、少なくとも本田翼は知ってしまった。

それでも、これまで困った人を助けていた言動すべてが「スリルを求めるためだった」ということを彼女たちが知ってしまったら、深く失望すると思うんですよね。

まさかそれを劇場版でやるということ?

さすがにそれはダメですね。結末より後のことは観客に委ねていいけど、それまでの問題はラストシーンまでに解決してしまわないと。




『アトミック・ブロンド』(肉体労働としての映画)

シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』が素晴らしかったです。以下ネタバレあります)


64fdf148

ベルリンの壁崩壊前夜。MI6のスパイ、シャーリーズ・セロンが、極秘リストの奪還と二重スパイを見つけ出して始末する命を受けてベルリンに降り立つところから物語は始まります。

ロンドンが舞台だとデビッド・ボウイやクラッシュがかかって、ベルリンに移るとニーナがかかったりする選曲が微笑ましいんですが、それはともかく、この映画では、シャーリーズ・セロンが敵の二重スパイを上回る三重スパイだった(実はCIAのスパイ)というオチが素晴らしく、結局、冷戦が終わって得をしたのはアメリカだけだった、というその後しばらく続くアメリカ一強時代が「パクス・アメリカーナ」だったと言いたいのか、それともその逆なのかは定かではありませんが、最後の最後まで面白く見せてくれるこの脚本は秀逸だと思いました。


bf2af0a2

しかし、この『アトミック・ブロンド』で本当にスゴイのはドラマの内容ではなく、アクション・シークエンスなんですよね。

特に、画像のシーン。あるマンションで始まるアクションは、フロアでの激戦が終わると階段を下りながら下のフロアで激戦をし、さらに下のフロアまで戦闘が続くんですが、およそ1フロア1カットなんですね。

特に最後のカットが凄まじい!
ちょっとカメラを動かしすぎじゃないかというきらいもありますが、それでも、縦横無尽に動き回るシャーリーズ・セロンと敵の男たちの動きをきっちりワンカットに収めきってます。あれは役者もしんどいでしょうがスタッフもしんどい。監督はじめ演出部は芝居を見ないといけないし、撮影部はフォーカスを合わせるのが大変だろうし、よけいなものが写ってないかの確認も大変。録音部はマイクマンが大変でしょう。それとも、ああいう場面ではワイヤレスを使うんですかね?

かつて黒沢清監督がこんなことを言っていました。

「映画はまぎれもない肉体労働です。僕はスタッフと俳優の肉体労働の結果をフィルムに刻みたいと思っています」

と、なぜ長回しが多いかという理由でした。

この『アトミック・ブロンド』も「肉体労働としての映画」を画面に刻みつけてますよね。そこが素晴らしい。

また、「痛みを感じるアクション」という意味でも素晴らしい。
同じスパイ映画でもジェームズ・ボンドなんかはもっとスマートに殺したりするじゃないですか。

でも、この映画のシャーリーズ・セロンは絶叫しながら狂ったように殴ったり蹴ったりするんですよね。この女が活きるか死ぬかの瀬戸際で生きていることがジンジン伝わってきます。それに、人を殴るのも殴られるのも痛いんだということがよくわかるように撮られている。ゲーム感覚で人を殺すような映画が横行している現代においてこういうリアルなアクション映画はとても貴重ではないでしょうか。

「映画を見た」という斬られたような感覚。ごっつぁんです!




許せない映画①『ダーティハリー2』

世の中には「許せない映画」というものが存在します。
私にとって最も好きな映画といっても過言ではない『ダーティハリー』の続編とされる『ダーティハリー2』がその代表格です。


hqdefault

世界一かっこいい男クリント・イーストウッドが再び大活躍するこの映画。何が許せないといって「主人公の強烈なキャラクターを薄めてしまった」ということに尽きます。


5d5bd3e950e4531a1e8bfda3743a52bbd753a804

この映画では、最初、脚や顔以外の部位はわからない白バイ警官が汚職政治家などを血祭りに上げていきます。我らが主人公ハリー・キャラハンはその謎の白バイ警官を追うわけですが、ハリーは「自分の影」を追ってるんですよね?


o0700032010273409711

結局、白バイ警官の正体は、優秀な若い警官たちの集団であることが判明し、その首領格の男が、「あんたも仲間に入れよ」とハリーを誘います。ハリーは断りますが、彼自身、第1作では「悪い奴を射殺して何が悪い」と開き直っていたじゃないですか。私たちはそこに喝采を送ったんじゃないですか。

第1作は大ヒットしましたが、非難の声も多数寄せられたそうです。「悪い奴を殺して何が悪い」なんて主人公は嫌だ、と。それはわからなくもない。

しかし、だからといって、その言い訳のように、ハリーその人の分身のような人を悪役として出して成敗する、という筋立てがいやなんです。


a1b5e342

問題は、「ハリーの分身」にあるのではありません。彼らを「悪」に設定していることです。

彼らはみな同じ制服を身に纏い、サングラスをかけて「顔のない不気味な存在」として物語内を闊歩します。それを顔をさらした主人公がやっつける。勧善懲悪の形を取りながら、主人公と悪役の違いは「顔をさらしているか」「独りか集団か」ということだけです。職務に関する考え方については同根です。

つまり、ハリーは自分と同じ価値観をもつ者たちと闘っている。どちらか一方を「悪」と決めつけずに葛藤を高めていったら、ハリー・キャラハンという稀代のキャラクターがより深まることになって、第1作を超える傑作になったかもしれないのに、と残念でならないのです。(当然、その場合、ハリーの分身は一人でないといけません。ちゃんと顔もさらした普通の男として)

白バイ警官たちも悪なら、ハリー・キャラハンだって歪んだ正義感をもった悪として考察できたはず。そこを怠った、というか、ハリーに分身を処罰させることで、相対的にハリーを善人にした、ハリーの歪んだ正義感を薄めてしまったことがこの映画の最大の罪ではないか、私はそう思うのです。


参照記事
『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!
許せない映画②『L.A.コンフィデンシャル』
許せない映画③『グレイテスト・ショーマン』

『ワンダーウーマン』(もっとドラマチックにできたはず)

アメコミ映画史上初のアカデミー作品賞ノミネートなるか、みたいな記事を見たのでやたら期待値が高くなっていた『ワンダーウーマン』を見てきました。


e5a296fb


うーん、ガル・ガドットは予告編よりもさらにきれいで「美しく、ぶっ飛ばす」というコピー通りの映画でしたが、面白いとは思えなかった。

というか、クローネンバーグの『ザ・フライ』みたいにしたらもっと盛り上がったのに、と思うんです。

『ザ・フライ』の物語を要約すると、「愛する男をこの手で射殺しなければならなくなった女の悲劇」ですよね。

だから、ガル・ガドットがクリス・パインを殺す、という物語にすればよかったんじゃないか、と。

そう、クリス・パインこそ軍神アレスだった、ということにするわけです。映画では、いかにも怪しいデビッド・シューリスがやっぱりか、という感じでアレスを演じていました。それに加えて、ガル・ガドット演じるダイアナは実はゼウスの子で、アレスを倒すために産み落とされたのだと。ゴッドキラーとは剣のことだと思っていたのに、実は自分自身がゴッドキラーだった、となるんですが、あまり面白い展開とは思えません。


fad360fd

ダイアナにとって、生まれて初めて出逢った男、生まれてただ一人愛した男をこの手で殺さなければならない、というほうがよっぽどドラマチックだったと思うんですよね。

そのためには、クリス・パインをドイツ軍の二重スパイか何かに設定し直す必要がありますが、それは簡単にできます。
それ以上に、「それまで男を見たことがなかった女が初めて愛した男を殺す」という物語のもつ盛り上がりのほうが多でしょう。「男を殺したアマゾネス」ということで、ダイアナをめぐる第2章、つまり続編の作り甲斐もあったんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。

他にもいろいろケチをつけ始めたらきりがないほどツッコミどころ満載の映画でしたが、これ以上は何も言わないことにします。

LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。