2020年05月12日

私がこの世で最も愛する詩人、没後5年の長田弘さんの最新詩集が発売されました。

『長田弘全詩集』というのも出ているのになぜ? と思うけれど、何とその『全詩集』にも載っていない詩群なのだそうな。おどろき。


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例によってオサダ節炸裂で最初のページから心を射抜かれてばかりでした。

でも、一番びっくりしたのは、何度も読んでいるうちに、昨今の「政治的発言をする芸能人バッシング」に思いが至ったことでした。


長田弘らしからぬ
まず、私がこの詩集で、ちょいと長田さんには不似合いな詩だなぁ、と思ったものをご紹介しましょう。

例えば、こういうの。

どこにも問いがなかった。
疑いがなかったからである。
誰も疑わなかった。
ただそれだけのことだった。

どこにも疑いがなかった。
信じるか信じないか、でなかった。
疑うの反対は無関心である。
ただそれだけのことだった。

(中略)

どこにも危険はなかった。
危険もまた、最初はただ、
些事としてしか生じないからである。
ただそれだけのことだった。

あらゆることは、ただそれだけの
些事としてはじまる。
戦争だって。


うん、言いたいことはわかります。わかるというか全面的に賛同するにやぶさかではないんですが、どうも政治的な主張をしようとすると長田さんですら「言いたいこと」が先走ってしまうんですね。

誰でも政治的な発言をするときはそうなんでしょうが、長田弘という詩人に私が求めるのはそういう「肉声」ではなく、もっと「透明な何か」なんですよね。


長田弘の真骨頂
例えば、この詩集の最初に置かれたこんな詩。


微笑みがあった。
それが微笑みだと、
はじめ、誰も気づかなかった。
微笑みは苦しんでいたからである。

苦しみがあった。
それが苦しみだと、
周りの、誰も気づかなかった。
苦しみは無言だったからである。


(後略)

このあととんでもない結語に至るんですが、気になる方はどうぞ本書を手に取ってみてくださいな。

それから、こんな詩。

本があった。
しかしそれが本だと、
ここにいる誰も、気づかなかった。
本は読まれなかったからである。


(中略)

意味があった。
しかし意味には、
何の、どんな意味もなかった。
意味を誰も考えなかったからである。

(中略)

智慧があった。
しかしそれが智慧だと、
ここにいる誰も思いもしなかった。
智慧は尋ねられなかったからである。

(後略)

いかがでしょう。

確かにこれらはすべて長田さんの「肉声」ではあるんでしょうが(そりゃ長田さんが書いてるんだから当たり前だ)でも、この世の誰かが発した言葉というよりは、言葉だけがポッと生まれたみたいな感じがしませんか?

肉体をもった誰かが口にしたんじゃなくて、手で書いたんでもなくて、人間が生まれる前から存在していたような、そんな言葉。

聖書にある「はじめに言葉ありき」の「言葉」ってこういうのだったのかな、と。神の言葉。人間の言葉ではない言葉。


芸能人の政治的発言を嫌う風潮
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検察庁法改正案など安倍政権のやりたい放題に小泉今日子やきゃりーぱみゅぱみゅ、その他いろんな芸能人が大声で異を唱えていますが、同じ日本人なのになぜか芸能人だけそういう発言をしたらダメだという人たちがいます。

まことにけしからん! とは思うものの、彼らも私も同根なのかな、と『誰も気づかなかった』を読んで思った次第。

私が長田さんの政治的発言を「透明でない」から何かいやだな、と思ったように、芸能人の政治的発言を嫌う人たちも、映画やテレビの中でしか見ることのない「記号」として消費する対象でしかない人間が「肉声」を発したことに「透明でない」感じがしたんじゃないかと思うわけです。

もしかすると、ここ数年の芸能人の不倫バッシングも根っこは同じなのかも、とも。

透明な記号として存在し続けてほしかった人たちが不倫という肉欲に溺れた行為をしているというのが汚らわしく感じられるんじゃないか。

でもそれって単に幼稚なだけじゃないの?

というわけで、私が長田弘さんに透明な詩を求める心情と、芸能人に透明な記号であってほしいと願う心情は似て非なるものだな、とも思ったのでありました。

来年は七回忌。合掌。



誰も気づかなかった
長田 弘
みすず書房
2020-05-07





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2018年07月18日

名作『夫のちんぽが入らない』の著者こだまさん推薦の『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読みました。
花田菜々子さんという無類の本好きが「X」という出会い系サイトを通して文字通り本をすすめまくる実体験が綴られています。


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最高のビルドゥングス・ロマン
これは面白かったですねぇ。
出会い系サイトというと、どうしても美人局とか、女性だったら変態に犯されたり、とても恐いものだと思いがちですが、いや、確かにこの本で実際に花田さんが最初のほうに会った男たちはセックス目的だったようですが、本をすすめる面白い女性という評価が確立すると、そのような変な人との出会いがなくなり、良きにつけ悪しきにつけ「とても変で面白い人たち」との出会いに変わっていくんですね。

そして、あろうことか、出会い系サイトを飛び出して現実世界で逆ナンするようになったり(もちろん本をすすめるのが目的)挙げ句の果てに本をすすめるイベントを実現してしまう。さらに終章の一文にグッときます。

「そして私は『X』へのショートカットをスマホのホーム画面から削除した」

そうなんですね。この本は奇を衒ったタイトルでキワモノ本を装っていますが、実はとてもまっとうでごくごく普通の教養小説=ビルドゥングス・ロマンなわけです。(ビルドゥングス・ロマンとは、主人公の成長を描く物語のこと)

夫と別居することになった著者が「X」の手を借りて逆境を跳ね返し、ついには「X」の助けを必要としなくなる。リアルな世界で生きる力を取り戻すために「X」というバーチャルなツールが必要だったというのはとても今風ですね。

私もこういうふうに出会い系サイトを活用してみようかな、という気持ちが湧き起こりました。でも、どうしても根が臆病だからか、↓こんなふうになってしまわないかと心配なわけです。


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でも、著者は悪意に絡め捕られる危険よりも新しい出会いに賭けて成功したわけで、怖がっているばかりでは何も変わらないなぁと。

そういえば、こんな言葉があります。

百聞は一見にしかず。百見は一感にしかず。百感は一行にしかず。

つまり、たくさん見てもひとつの感動にはかなわない。そして、たくさん感動してもひとつの行動にはかなわない。だから何か行動を起こそうと思う猛暑日の夕暮れでした。著者もこう言っています。

「私が思ってたよりもこの世界は愉快なのかもしれない」


興味を惹かれる数々の本
それにしても著者の博覧強記ぶりには舌を巻きます。巻末に文中ですすめた本の一覧表が載ってるんですが、読んだことがあるのは4冊だけ。藤子・F・不二雄の『モジャ公』というのさえ知らなかった。『カンビュセスの籤』なら読んでるけど。

早速、谷川俊太郎よりメッセージ性が高くて好きだと著者おすすめの『おんなのことば』(茨木のり子)を読んでみました。

最初の『自分の感受性くらい』という詩にガツンとやられました。

「ばさばさに乾いてゆく心を
 人のせいにはするな 
 みずから水やりを怠っておいて
 (中略)
 自分の感受性くらい 
 自分で守れ 
 ばかものよ」

と読者をアジる内容となっています。

他にも史群アル仙なんて漫画家は名前すら知らなかったし、いろいろ読んでいこうと思います。

花田菜々子さん、素敵な読書体験をどうもありがとうございました。


本書で推薦されていた本の感想
『ワイルドマウンテン』






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2017年07月25日

『僕等がいた』
『心が叫びたがってるんだ。』
『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』
『黒崎君の言いなりになんてならない』
『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』
『兄に愛されすぎて困ってます』

これは最近公開された日本映画のタイトルですが、すべて「文章」になっています。

過去にはこんなのもありました。

『もし高校野球のマネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
『いま、会いにゆきます』
『世界の中心で、愛をさけぶ』
『それでも僕はやってない』

別にすべての文章系タイトルが悪いと言いたいわけではありません。

例えば、

『吾輩は猫である』
『亀は意外と速く泳ぐ』
『殿、利息でござる!』
『白鳥麗子でございます!』
『幕が上がる』
『アリのままでいたい』

これらは「芸」があるから少しも不快に思いません。

しかし、『黒崎君の言いなりになんてならない』『兄に愛されすぎて困ってます』なんかはタイトルを見ただけで不快だし少なくとも私は見に行く気が失せます。

『チア☆ダン ~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~』なんかは厳密には文章ではありませんが、「チアダン」という言葉がメインタイトルとサブタイトルで重複しちゃってて「説明」の匂いがプンプン。

そうなんですよね。文章系タイトルの罪は内容を説明してしまっているところにあると思います。

では、なぜ最近こういう文章系タイトルが増えてきたかを調べてみると、どうやら原作になるラノベやマンガにこういうタイトルのものが増えているから、という答えが載っているサイトがありました。

『ブギーポップは笑わない』
『僕の妹がこんなに可愛いわけがない』

あたりが走りらしいですが、では、なぜラノベやマンガに文章タイトルが増えたのか、についてはよくわからない。

これは、プロデューサーに脚本を読めない人が増えているという事象と通底している気がします。

ある監督さんと話をしたとき、「最近のプロデューサーは本当に読む力がない」と愚痴ってました。

だから読むだけでも修練の要る脚本ではよくわからないから、小説みたいに微細な説明を施した長い長いプロット(もうそれはプロットとは呼べないと思うけど)を書かされるとか。

小説すら普段読まない人たちにダメ出しされるわけだから、書いてる人たちはたまったものじゃないでしょう。

小説といえば、一般的に「文学」といえば「小説」を指す、という現代特有の風潮もあると思いますね。

『幕が上がる』なんて、それだけで一篇の「詩」だと思うし、タイトルを聞いただけで胸が高鳴る。そして内容は一切説明せず象徴に留まる絶妙のタイトルだと思うんですが、『兄に愛されすぎて困ってます』のどこに「詩」があるのでしょうか。どこに「芸」があるのでしょうか。「説明」以外に何があるのでしょうか。

ずっと前の話ですが、ある人に谷川俊太郎の詩集を貸したら「さっぱりわからなかった」と言っていました。その人、結構な読書家なんですけどね。小説(散文)は読めても詩(韻文)が読めない人がものすごく増えている。

タイトルの文章化は内容にも波及してますよね。

昔の映画は、必要最小限の説明しかしませんでした。それがセオリーでしたが、いまの映画は説明してばかり。開巻早々、主人公のナレーションですもんね。それは日本映画よりアメリカ映画のほうが顕著かもしれませんが。

タイトルの文章化と説明過多な作劇は表裏一体と思われます。その根底には「詩」を読まなくなった、「小説」だけが文学だと思われている風潮がある気がしてなりません。







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