聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

創作

田中陽造と石井輝男と成瀬巳喜男

『田中陽造著作集 人外魔境篇』を読みました。



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この本は前半と後半があまりに違っていてそこが面白いんですけど、後半の「異能人間」や「犯罪調書」ももちろん面白いんですが、私は前半の映画の話のほうが好きです。

なかでも「石井輝男論」が面白かった。

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つい先日、石井監督の『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』を見まして、やや他の猟奇ものに比べて迫力が劣るかなとは思いましたが、やはり面白いことには違いなく、このような題材を扱う(阿部定にインタビューまでしている)人ってどういう人なのか、これまで石井輝男の作品は何本も見てますが、その人となりはまったく知らなかったので、陽造さんの「石井輝男論」を面白く読んだ次第です。



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まったく知りませんでしたが、石井輝男はあの成瀬巳喜男の弟子だったそうです。成瀬の名作に『おかあさん』という田中絹代主演の作品がありますが、石井輝男は『続おかあさん』でデビューするはずだったそうです。

驚き! 結局、会社の都合でその企画は中止になり、まったく違うアクションものでデビューを果たすそうですが、もし『続おかあさん』でデビューしていたら石井輝男という映画監督はまったく違う道を言っていただろうと陽造さんならずとも思ってしまいますね。

そして、石井輝男は成瀬のことをめちゃくちゃ尊敬していて、スタッフを少しも叱らない成瀬が、石井輝男にだけはきつく叱ったことがあるらしく、

「成瀬さんが俺にだけ心を開いてくれた」

と、やたらうれしかったとか。

成瀬が死んだとき、撮影を中止にして社葬に駆けつけたらしく、陽造さんが「それじゃあ、あなたは少しも異常じゃなくてまるっきり正常じゃないですか」と問うと、

「そうです。正常じゃなけりゃ異常に興味は向きませんよ」

とサングラスの奥でニヤッと笑んでいたとか。

含蓄に富んだ言葉ですね。




作家と批評家の違いについて

もう10年くらい前でしょうか、


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蓮實重彦がある講演会で「作家と批評家のどちらが偉いか」というお題で次のようなことをしゃべたらしい。

「作家は教養がなくても許されるが、批評家は教養がないと決して許されない。だから批評家より作家のほうが偉い」

うーん、、、何かわかるようなわからないような。。。

というか、作家と批評家のどっちが偉いか、という問いがそもそもナンセンスじゃないんですかね? 違いはあっても優劣なんかないのでは?

30年以上前の対談だったか鼎談だったかで、蓮實自らが批評家と作家の違いを明確に述べてましたよ。

「なぜ蓮實さんは映画を撮らないんですか、とよく訊かれるんですが、日本には俳優の顔をきれいに撮れるカメラマンがいないんですね」

なぜこれが作家と批評家の違いかというと、今日ある本を読んでいたら、

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作家の高橋源一郎の言葉として次のような一説が紹介されていたから。

「ろくな素材がなくてもとりあえずありあわせのものだけで何か作っちゃうのが作家。これだけのものしかないのか! と怒るのが批評家」

蓮實はまさしく批評家ですね。
だから悪いとか劣っているとか言ってるんじゃないんですよ。問題は優劣ではなく、あくまでも「違い」にすぎないんですがね。ここのところがわからない人がすごく多い。

作家はあまり両者の優劣を気にしませんが、批評家はすごく気にするようです。だから「教養がなくても許されるから偉い」とか、「優秀なカメラマンがいないから撮らない」とか言い訳をする。

かつて淀川長治は、

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「なぜ僕が映画撮らないか、それはお酒が飲めないから。撮り終わって打ち上げにお汁粉! とか言えないでしょ」

何で? 下戸の映画監督なんかいっぱいいるじゃないですか。
作家でないことに劣等感を抱いているのが明白です。


それにくわえて、この人は立派でした。


_AC_US160_(←名前で画像検索をしてもまったくヒットせず。亡くなったのがもう20年前。ネット時代到来の前だからでしょうか)

田山力哉

この人は、山城新伍に、

「批評家というのは実作者になれなかった二流以下の集まり」

と言われたとき大激怒して、

「俺は自分のことを二流以下だなどと思ったことは一度としてない! 批評も立派な仕事だ!!」

と言ってました。己の仕事に誇りをもつ稀有な批評家でした。

だから問題は「作家と批評家の違い」ではないのでしょう、きっと。

「作家に対して劣等感を抱く批評家と抱かない批評家」なんでしょうね。そして、前者のほうが大多数派だというのが本当の「問題」だと思うわけです。

一度見てつまらなかった映画を二度と見ない人について

昔、京都の専門学校時代にこんな人たちがたくさんいました。

「なぜおまえは一度見てつまらなかった映画を二度三度と見るのか。正気の沙汰とは思えない」と。

いやいや、私に言わせれば、一度見てつまらなかった映画を二度と見ないのってものすごく愚かだと思うんですよ。

そりゃ、同様につまらない可能性もありますよ。でも、仮につまらなくても、何か新しい発見があるかもしれないじゃないですか。

私にとって一度目はそれほどじゃなかったけど二度目からがすごかった映画に、

『ダーティハリー』
『ゴッドファーザー』
『グッドフェローズ』
『ザ・フライ』
『レイジング・ケイン』
『天使のはらわた 赤い教室』
『シェルタリング・スカイ』

などなど、錚々たるタイトルが並びます。

一度目はえらく感銘を受けたのに二度三度と見るうちにつまらなくなってしまった映画もありますがね。

なぜこういう現象が起こるかというと、それは「人間が日々刻々と変わっていくから」です。映画は変わりません。あれは「情報」だから。

人間は移ろいゆくものなのに、人間を常に変わらない一個の「情報」として考える、それが「情報化社会」だ、というのが14年前にベストセラーになった養老孟司『バカの壁』の主張でした。

過去の自分といまの自分は別人です。あのときはつまらなかった、でもいま見直してみたら面白いかもしれない。

仮にそうでなくとも…

一度見てつまらなかった映画を二度と見ない人の誤謬は、「自分の判断は常に正しい」と無意識に思っている、というのがこの日記の主旨です。

一度見てつまらなかった映画を二度と見ないというのは、その「つまらなかった」という自分の判断が絶対的に正しいと信じてないとできない芸当でしょ。

私は少しもそんなこと思っていません。
どうしたって見落としていることがあろうし、その日の体調だって影響するし、プライベートのあれやこれやが思考を邪魔して内容が頭に入ってこないから「この映画はつまらない」と思い込んでいる可能性だって高いのです。

仮に体調が絶好調でも、あのときといまでは感じ方が変わってくる。やはり「人は変わる」のだから。

それらすべての可能性を封じ込めて「過去の自分の判断は絶対的に正しい」と信じ込むってどうなんだと。




過剰プロットと喪失プロット②両者を併せもつ傑作群



昨日、過剰プロットと喪失プロットの両方を併せもつ映画に好きなものが多いと書きました。

前回の記事
①「ハイ・コンセプト」とは何か



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例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』

30年前の世界に闖入した主人公マーティは明らかな過剰物として両親の恋路を邪魔します。
が、その前、85年現在の世界で親友のドクが殺されてしまうんですね。


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だから、この映画は過剰プロットを喪失プロットが包摂する形になっています。
どちらがメインプロットでどちらがサブプロットかは判然としませんが、マーティは自身が過剰物であることをやめて両親の仲をとりもつ傍ら、喪失物=ドクを取り戻せるのは過剰物たる自分しかいないと奮闘します。ここがこの映画の面白さでしょう。


あるいは、『ゴッドファーザー』


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ヴィトーが撃たれ、物語から退場することにより映画はエンジンをかけます。同時に、それまでファミリーの仕事と無縁だったマイケルが入ってきます。

ヴィトーが喪失物でマイケルが過剰物ですね。

ここで肝要なのは、ヴィトーもマイケルも同じ「ドン・コルレオーネ」という役割を担っていることです。ドンを喪失し、その穴埋めに新しいドンが入ってくる。

それならそれでいいじゃないか、となりそうですが、父と子の器があまりに違いすぎるため悲劇が起こります。ヴィトーがあまりに偉大だったため、卑小なマイケルではその穴埋めができない。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では過剰プロットと喪失プロットが複雑に絡み合っていましたが、この映画では見事に1本に収まっています。完璧な作劇です。

では、この映画はどうでしょうか。


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『ブレードランナー』

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ゴッドファーザー』では、喪失の理由はどちらも悪漢に撃たれることでしたが、この『ブレードランナー』では少々事情が異なります。

地球に潜入してきたルトガー・ハウアーはじめレプリカントたちは明らかな悪漢たる過剰物であり、主人公ハリソン・フォードは彼らを駆逐していきます。

しかし、彼らが地球にやってきた理由は何でしょうか。

自分たちがたった4年しか生きられないことを知ったからです。いつまで生きられるのか、本当にもうすぐ死んでしまうのか、それが知りたい、もし本当なら俺たちを造った奴を殺してやる!

レプリカントたちは「造物主によってあらかじめ奪われた未来」という喪失プロットを生きており、それがために過剰物として地球にやってくる。

凡百のパニック映画や勧善懲悪映画と一線を画するのは、悪漢たる過剰物キャラクターが喪失プロットを生きている、ということですね。

こういうのはよくありますよね。悪漢のほうにも哀しいいきさつがあったというやつ。
『新幹線大爆破』もその類でしょうが、それをセリフで説明しちゃったらおしまいでは? とも思います。明らかに喪失プロットを生きていながら犯行に至った動機を一切説明しない『ジャガーノート』のほうがよっぽど好きです。

というわけで、どういうふうに分析のメスを入れてもやはり『ゴッドファーザー』は偉大であるという結論に至るわけですが、せめて『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ぐらいのものは書きたいし、できれば『ブレードランナー』級の深い喪失プロットをやってみたい! と思いながら頑張っていきまっしょい。





過剰プロットと喪失プロット①「ハイ・コンセプト」とは何か



東京のプロデューサーから受けたオファーはあえなく散りましたが、なかなかの高評価だったということもあり(結果がすべて? 確かにそうだけど)またぞろ脚本を書こうかなという気になってきています。
というか、もうすでになってるんですけどね。こないだ書いた短編映画の監督たる友人にも「また書いたら」と言われたし、他の人たちからも「書くべきだ」と発破をかけられたし。

というわけで、いろいろ職探しの合間に考えてはいるんですが、どうにもうまい具合に形になってくれない。

ところがゆうべ寝る前に、専門学校時代の恩師の言葉を思い出しまして。

それが、「過剰プロット」と「喪失プロット」という考え方です。

前者は、普段ないもの、それまでなかったものが存在するために物語を駆動するもの。

パニック映画はすべてこれですよね。
『ジョーズ』の鮫、『ジュラシック・パーク』の恐竜、『ゴジラ』のゴジラはすべて「過剰物」として物語を発動させます。

『ドラえもん』も過剰プロットかと。


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ドラえもん自体が過剰物だし、彼が出す道具はすべて過剰物として物語を駆動しますから。

ヒッチコックの数あるサスペンスの傑作群も過剰プロットが多いですね。パニック映画の『鳥』はもちろん、『めまい』はそれまでのジェームズ・スチュワートの生活にはいなかったキム・ノヴァクという過剰物の出現で物語が幕を開けますし、『疑惑の影』ではチャーリーという主人公と同じ名前をもつ殺人鬼の叔父さんが過剰物です。

『北北西に進路を取れ』も過剰プロットなのでしょうか。


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主人公が「ジョージ・カプラン」という名前の架空のスパイに間違われることが物語を起動させますが、このジョージ・カプランという存在が過剰物? 本当はいないのに?

いや、これこそあの有名な「マクガフィン」というものの正体なのでしょう。明らかに過剰物としてプロットを推し進める存在でありながらその実体は何もないという。

ところで、この人物も過剰物でしょうかね。


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『ダーティハリー』の殺人鬼・蠍座の男。

彼の登場によって街は恐怖のどん底に叩きこまれ、主人公はじめ市警の多くの人間が大わらわの状態に追い込まれるのですから。『ジョーズ』の鮫と原理は同じですね。

ただ、ここでふと思うのです。

蠍座の男はもともとあの街に住んでるんですよね? 

例えば、悪漢であろうと正義漢であろうと、よそから誰かがやってきて物語が起動するならそれはまぎれもない過剰プロットです。『ペイルライダー』とか『シェーン』とか『真昼の決闘』とか。

でも蠍座の男はもともとこの町にいながらにして突如狂人という過剰物に変貌する。彼が狂人になった理由は映画内では少しも説明されません。(ベトナム帰還兵だという解説を読んだことがありますが、映画の中でそんな描写があったでしょうか?)

もしかすると、過剰プロットの場合、鮫やエイリアンや『ディープ・インパクト』の隕石とかみたいに、過剰物が出現した「理由」「背景」「動機」などないほうが面白くなるんじゃないか。

ゴジラは水爆実験がもとで眠りから覚めるのですが、あれって東西冷戦というさまざまな政治的思惑が折り重なった、もう一人や二人の人間の力ではどうすることもできない歴史の産物。

だから、理由や背景は一切ない。あるいは、あったとしても人間(主人公)の力ではどうすることもできないもの。

ハリウッド・メソッドでいうところの「ハイ・コンセプト」って、もしかしたらそういうことなのかも、と思います。

逆に、喪失プロットは、いままで存在していたものが突如消えることで物語が駆動されるものを言います。
復讐ものなんかはすべて喪失プロットですが、喪失物もまた過剰物と同じく「理由」「背景」「動機」などないほうがいいのでしょうか? それが「ハイ・コンセプト」なのでしょうか?

喪失プロットをもつ映画を思いつくままに列挙すると、

『裏窓』
『バルカン超特急』
『ひまわり』
『顔のない眼』
『波止場』
『人魚伝説』
『フランティック』
『ツイン・ピークス』

どれもこれも、殺人、誘拐、戦争、事故、など、どうしようもないことがきっかけですね。
いますぐには思いつきませんが、何の理由もない失踪や蒸発が物語を起動させる映画が過去にいろいろあったはず。
『野良犬』も喪失プロットですが、拳銃を盗んだ犯人にいろんな事情があるのが物語を弱くしている気がします。

というか、過剰プロットをもつ映画は多いですが、喪失プロットをもつ映画ってそんなに多くないんですね。過剰プロットのほうが思いつきやすいのでしょうか。

ただ、ここでふと思うのです。


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『ツイン・ピークス』なんかは、ローラ・パーマーが殺されたところから始まる物語ですから明らかな喪失プロットですが、そのことが主人公デイル・クーパー捜査官という過剰物を呼び寄せます。だから、『ツイン・ピークス』は喪失プロットであると同時に過剰プロットでもあるんですね。

そう考えると、私が好きな映画には両方のプロットが絡んだり混在したりしてるものが多いなと気づいたのです。(つづく)




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