創作

2019年11月10日

横尾忠則現代美術館で開催中の「自我自損展」に行ってきました。


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作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。

タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。

「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。

以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。

つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。

「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。

その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。


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今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。

2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。

――今回のコンセプトは何ですか?

「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」

素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。

腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。

「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」

一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。

「自分の作品の解説はしたくありません」

そりゃそうでしょう。

幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。

ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、

「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです

別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。

その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。

横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。

「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」

その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。

映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。

私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。

「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。






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2019年11月02日

これからシナリオコンクールに応募しようという方、またはすでに応募したことがあっていま現在も頑張っている方にぜひ言っておきたいことがあります。

といっても書き方とかドラマの仕組み方とかではありません。結局プロになれなかった人間なのでそんなことに講釈を垂れる資格はありません。

私が言いたいのは、

親兄弟、恋人、配偶者の類であっても絶対に信用してはいけないときがある。

ということです。

その前に『放浪記』の話をしましょう。

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『放浪記』といっても林芙美子の小説は読んだことがありません。成瀬巳喜男監督が映画化したのを見たことがあるだけです。それほど好きじゃないから一度しか見ていませんしほとんどのシーンを憶えていません。

が、ひとつだけ強烈に憶えている場面があります。

すでに小説家として名を成した高峰秀子演じる林芙美子(自伝的作品です)が、小説家志望の女性から預かった原稿をゴミ箱に捨てるのがそれです。

その女性は小説コンクールに応募しようと必死で書いた。その原稿は今日が締切で絶対に今日中に出さねばならない。でも急用ができたか何かで、林芙美子に投函しておいてほしいと預けて行ってしまうのです。

林芙美子は「甘いのよ」と言ってその原稿を捨てます。

『放浪記』を見たことも読んだこともない友人にこの場面を説明すると「ひどい」と言っていました。

私は林芙美子の「甘い」という言葉の意味がよくわかります。

必死で書いた原稿なら、その原稿に人生を賭けているのなら、絶対に他人に託してはいけません。捨てた林芙美子が悪いなんて少しも思わない。そんな大事なものを他人に、それも将来のライバルになるかもしれない人に託すなんてはっきり言ってアホです。

私は何度もコンクールに応募しましたが、どの原稿も自分で出しに行きました。親が「代わりに出しといてあげようか」と言ってくれたこともあります。しかし私は「こういうことに関しては自分しか信用していない」と言って頼ったりしませんでした。経済的には脛かじりまくりでしたけど。(笑)

親は「自分の親を信用できないなんて」と文句を言っていましたが、無視しました。そういうときは世界の誰も、自分以外の誰も信用してはいけない。

必ず自分の手で出してください。もしその日が締切で消印有効なら、郵便局員がいくらめんどくさがろうと文句を言おうと「目の前で消印を押してください」としつこく言い続けましょう。「今日が締切なんです」と言えば誰でも最後は押してくれます。

押した日付がちゃんと今日の日付になっているかも確かめましょう。誰も信用してはいけません。その原稿にあなたの人生が懸かっているんでしょ。ならば信用などしていいはずがない。

そういうときに誰かを信用するのは「甘い」のです。仮に頼んだ人に裏切られて怒ろうが縁切りしようが何しようが、もうその原稿はダメです。

書いた原稿は必ず自分で出しに行く。徹底してください。


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2019年07月24日

ほぼ2年ぶりに脚本を書いています。

本当は年初から書き始めていたんですが、どうにも書きたい気持ちばかり先走ってしまって、ろくに背景を整える前に書き始めてしまってすぐに頓挫しました。というか、あれは根幹となるアイデアがよくなかった。そんなことすらわからなかったんですね。やはり継続は力なり。ブランクがあると力はどんどん落ちていきます。

そして、新しい仕事が決まり、憶えるのが大変だったのと、ようやく慣れて繁忙期でも普通にこなせるようになった4月頭、そろそろ創作を再開しようかなと思ったんですが、雨が降ってはすぐ晴れ、晴れてはまた降りという天候のせいで体調を崩しがちになり、そのまま5月末の契約期間満了まで書けない日々が続いていました。

幸か不幸か失業したので、いっちょ書いてみよう! と思って考え始めました。来月21日締切の城戸賞に出すつもりです。

その1か月前、7月21日から書き始められれば、内容の是非はともかく、締切には間に合うという計算でした。それが10日ほど早く書き始められたので、スケジュール的には余裕だと安心していました。

が、書き始めるとなかなか進まない。私はかつて京都の専門学校で脚本の先生から、

「書き始めたら絶対最後まで書くこと。つまらなかろうが何だろうが石にかじりついてでも最後まで書くこと。途中で投げ出したら癖になって死ぬまで最後まで書けなくなってしまう」

という恐ろしいことを言われたので、昨日まで書いたところを読み返すこともなく、ひたすら前進することだけを考えていました。

ところが何本も書いているうちに、行きつ戻りつしたほうがいいのではないか。もし最後まで書けなくても、もう何本も書いているのだから二度と最後まで書けなくなることはあるまい。と思うようになりました。

だから、いま書いてるのも、書いては書き直し、そして次のシークエンスへ。というやり方で書いています。

どうしてもブランクがあるから、書き直すところがとても多い。だからなかなか前へ進めなかったのです。

このままではやばいぞ。間に合わないぞ。と思って何とか馬力を入れ直して何とかミッドポイントまで、つまり半分のところまで書きました。

高橋洋さんのこんな言葉があります。

「前半は自動的にできる。勝負は後半なんだ」

その通りですね。何だかんだ言って前半はそれほど難しくない。ここからが本当の難所です。

しかも、先週、京都アニメーションの痛ましすぎる事件が起こり、気持ちが千々に乱れています。裁判なんかなしで死刑にしてしまえという怒り。何とかして防げなかったのかという、いまさら言ってもどうしようもない思い。

やはり私にとって脚本を書くということはセラピー的な意味合いもあるのか、うんざりする気分ばかりではなく、高揚感もあります。もしいま書いていなかったら鬱になっていたかもしれません。

しかも今回書いているのは、4年前に東京であきらめる決断をしていたときに書いていたアイデアなんです。アイデアというか素材ですね。キャラクターはやや違います。シチュエーションはだいぶ違います。だからもちろんプロットもテーマも違います。

でも主人公ほか、主要人物の名前は一緒なんです。一緒にしないとダメなんです。

なぜなら、あのとき放っぽったままにしていたことがずっと心の重荷になっていたので、話は違っても同じ名前の人物(私のかわいい子どもたち)のラストシーンを書くことができれば、重荷から解放される。憑りつかれた亡霊から解放される。

というわけで、いまからまた書きます。




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