創作

2019年06月21日

もう15年以上前のことですが、『インファナル・アフェア』が公開されたとき、うちの親父がこんなことを言いました。

「素晴らしかった! 香港映画ってジャッキー・チェンしかないのかと思ってたけどこういうのもあるんやね」

いやいや、ジャッキーの前にはブルース・リーがいるし、後にはチョウ・ユンファにチャウ・シンチー、ジョン・ウーにウォン・カーウァイなどいっぱいいるぜよ!

なんてことはもちろん主張していません。仮に香港映画界にジャッキーしかいないとして、その何がいけないのか、と心の中で毒づきました。ジャッキーだけでも充分すごいじゃないかと。

でも親父は映画ファンだから別にいいのです。楽しむためにお金を払っているのだから、ジャッキー・チェンなんかつまらないと断じてもそれはそれで尊重せねばならない。

私はイーストウッド作品やヒッチコックの信奉者だけれど、イーストウッドなんか面白くないという人の意見は尊重せねばならない。いつも気に入らない映画は容赦なく貶している私のような人間は、人一倍反対意見を尊重せねばならない。でないと自分の意見を言えなくなっちゃう。

しかし、映画作りをしている人、これから志そうという人がジャッキーを貶すのは我慢ならないというか、そんな輩に映画を作る資格なんかない! というのがこの記事の主旨です。

これがジャッキーじゃなければいいんですよ。「ヒッチコック好きは無能な映画ファン」と断じるタランティーノの意見はそれはそれで傾聴に値するものでしょう。

しかし、ジャッキーだけは別です。なぜかって? 答えは簡単。


JackieChan1

老齢と言っていい最近の作品はともかく、若い頃は一歩間違えば死ぬシーンをノースタントで演じていました。再起不能かと言われるほどの事故に遭っても、治ったらまた同じことに精を出す。文字通り映画作りに命を懸けていました。

そういう姿を見て素直に「すごい!」と思えないような人に映画を作る資格はありません。こんなことは小学生でもわかる理屈です。

でも、多いんですよね、映画人志望者でジャッキー・チェンを軽侮する人。

私が通っていた映画の専門学校でもそういう人はいました。上記のような話をして、「ジャッキーを軽く見る奴はいますぐやめるべきだ」と言ったら暗い顔でうつむいた人間が何人もいました。

あるレストランでバイトしてたときも映画監督志望者がいましたが、「ジャッキー・チェンなんかダメですよ」と言ったので、上記のようなことを滔々と述べて叱ったら真っ赤な顔をしてうなずいていました。(言いたいことはたくさんあったんでしょうけどね)


JackieChan2

とにかく、ジャッキーに限らず、映画作りに命を懸けている人間を軽く見る者に映画を作る資格はないと断言します。




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2019年06月15日

ずっと書く書くと言いながら書くに至らない日々が続いていましたが、ようやく本腰を入れて考えるようになりました。新作シナリオ。

最近は、あまり周りに「書くぞ!」と宣言することが少なかったので(ネット上ではたまに言ってるけど)やっぱり実際に見知っている人に宣言しなくちゃ、と思い、前の職場の人たちに「こんなシナリオをやり始めました」と言いました。これでもう石にかじりついてでも書かねばならない。背水の陣。

基本アイデアは当然秘密ですが、主人公が女性なのです。女性のほうがテーマがより深まると思ったからですが、どうも「男が女を主人公にしてなぜ書けるのか」みたいなことは前々からよく言われるし、前の職場の人たちとは今度ランチに行くんですが、そのときにおそらく聞かれるだろうから、先に書いちゃえ、と思って書きます。


なぜ性別だけを特別視するのか
確かに男は女のことがわからないし、女も男のことがわからないのでしょう。

しかし、それを言ってしまったら、私にはいまどきの中高生のことはわからないし、70歳、80歳の老人の心境なんてもっとわからない。人を殺した人の気持ちもわからないし、不倫バッシングを受けた人の気持ちもわからない。両親がいまだ健在なので幼いころに死別して施設で育った人の気持ちなんて逆立ちしたってわからない。

なのに人は「性別」だけを特別視しすぎなのです。「男と女はわかりあえない」という意識をもちすぎ。


男は男のことがわかるのか
男が女を主人公になぜ……という人は「同性のことならわかる」ことを前提にしていますが、それもおかしい。

よく「男って○○だから」とか「女って××なんですよ」みたいなことを言う人がいるけれど、それは「自分はこうである」と言っているだけでしょ?

日本人だけに限っても、男も女も6000万人くらいいるんですよ。みんな同じなんですか? まさか! 一人一人違うというのは作家たる者なら基本的にもっていないといけない認識でしょう。

だから想像するしかない。自分がこういう境遇ならどうなるか。この人物がこういう出来事を前にしたらどういうリアクションを起こすか。

男が女を主人公になぜ……という人は、想像力の力をほとんど信じていないのです。


「男は男」「若者は若者」は誤り
同様に、男の中には男だけが存在し、女の中には女しか存在していないという誤りも犯していると思う。

男の中にも女性的なものがあるし、逆もまたしかり。若者の心にも来たるべき老人の心の萌芽はあるはず。それに耳を澄ませて自分ではないもう一人の自分の声を聴くことができれば書ける。


キャラクター描写に「主役」も「脇役」もない
男が女を主人公に……という人は、なぜか異性の脇役を描くことに関しては少しも疑問をもたないんですね。これもおかしい。

純粋にキャラクター描写に関していえば、主役だろうと脇役だろうと「その人物ならではの言動」を描写するという意味においては、作家がやることはまったく同じです。誰が主役で誰が脇役かというのは「誰を軸にしているか」という物語全体からくる考え方であって、キャラクター描写というディテールに関しては両者は同じ。もし異性を主人公にしたら書けないという人がいたら、異性の脇役も描けないことになります。


というわけで、頑張ります。






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2019年05月07日

昨日は『早春スケッチブック』の最終回を見て、またも号泣。そして、またぞろ自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪に陥りました。

詳しくはこちらの日記をお読みください⇒『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)

もう脚本家の夢を諦めて早や4年。諦めたといっても友人が監督する短編アクションのシナリオを書いたり、コンクールに出す用のシナリオを書いたり、東京のプロデューサーから企画コンペに参加してと言われてプロットを書いたりしていました。

それでも、やっぱり「もうかなわぬ夢はあきらめたほうがいいのではないか」とも思っていました。

最近じゃ、「こんな話はどうか」と天啓が下ることはほとんどなく、「こんな日記はどうか」とブログのことばかり考えている。

それならそれでいいじゃん。どちらも同じ「書く」ってことなんだから、と。

最近、村田沙耶香の『私が食べた本』という書評集を読んでいたら、「また小説でも書くか」みたいな気持ちが芽生えてきました。

しかし、橋本忍のこんな言葉も同時に思い出すのです。

「脚本家から小説家になった人はたくさんいるが、彼らは逃げたのだ。シナリオは設計図だからはっきりした線を引かねばならない。小説は文章表現だから曖昧な線でも許される。彼らはその曖昧さに逃げたのだ」

私が周囲から「小説は書かないの?」と言われても頑なに書かなかったのはこの言葉が常に付きまとっていたからです。

とか言いながらちょうど一年前に小説を書きました。でも三人称の小説だけは書くまいと思っていたら世にも珍しい二人称小説などに手を出してしまいました。

また小説を書こうか、という気持ちはあるのです。やっぱり自分は評論家ではなく作家になりたい。でもシナリオを志しながら小説を書くのは「逃げる」ことだからやめておこう。

やっぱり自分はドラマをやりたい。文章表現ではなく、具体的な人間が対立葛藤を演じる「劇」をやりたい。

この10連休(正確には8連休プラス1休)には少しは創作ノートを開こうと思っていたのですが、春先の疲れが残っていたのかまったくできず。懸案の台所掃除すらできなかった。

今日は連休明けということでやたら忙しく、帰ったらすぐ寝ようかと思っていたんですけど、アデルのライブアルバムを聴きながらカズオ・イシグロの『日の名残り』なんぞを読んでいたら創作意欲に火がつきました。

というか、東京で最後に書いた、いや書こうとして書けなかったシナリオをアレンジしたアイデアが湧き出てきました。

どんなアイデアかって? それは内緒。

書くのです。永遠の夢に向かって。




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