昭和歌謡

2019年10月19日

TSUTAYAでイルカのベストアルバムを激安値で買い、久しぶりに『なごり雪』を聴きました。

あまり歌詞の意味を考えたことがなかったんですけど、今回初めて考えながら聴いてみました。よくよく聴いてみると、これもいままで感想を書いた歌と同じで何だか妙です。




作詞・作曲:伊勢正三

汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
淋しそうに君はつぶやく
なごり雪も降る時を知り
ふざけすぎた季節のあとで
いま春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

動き始めた汽車の窓に顔をつけて
君は何か言おうとしている
君のくちびるが「さようなら」と動くことが
こわくて下を向いてた
時が行けば幼い君も
大人になると気づかないまま
いま春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった

君が去ったホームに残り
落ちてはとける雪を見ていた
いま春が来て君はきれいになった
去年よりずっときれいになった


状況は?
場所は東京ですよね。男は東京に残り、女はどこか地方へ行く。おそらく二度と東京へは戻ってこない。ふざけすぎるほど愛し合っていた二人がやんごとなき理由で別れなければならない悲恋の歌に聞こえます。

しかし、「時が行けば幼い君も大人になると気づかないまま」というところでは、え、これってどういうこと? と思いますよね。これは親が地方に嫁に行く娘を見送る歌なのか。それとも、男と女はかなり年齢差があって、女が成人したころ別れがやってきたのか。

よくわかりません。

というか、そもそも、この歌にそのような「具体的な状況」を考えるのはあまり意味がないことじゃないかと思うんです。


映画『なごり雪』
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2002年に大林宣彦監督によって映画化されましたが、映画では歌詞がそのままセリフになっているところがあります。サビの「いま春が来て君はきれいになった」も「君のくちびるがさようならと動くことが~」なんかも。

で、映画は想いあっているのに別れ別れになった男女の物語にしているんですが、これが決定的につまらない。というか、この歌は映画にしてはいけない、もっといえば映画にできない歌だと思う。ちあきなおみの『喝采』のように。(参照記事⇒ちあきなおみ『喝采』(この歌詞の本当の意味は?)


いま春が来て君はきれいになった
サビの部分はメロディの美しさとイルカの歌声が相まって独特の叙情を醸し出し、歌詞の意味なんかどうでもよくなってしまいます。だから今日までこの歌の意味など考えなかったのでしょう。

でもよく考えてみると「いま春が来て君はきれいになった。去年よりずっときれいになった」って何か変ですよね。

だって、春なんだから3月とか4月でしょ。去年はまだ数か月前ですよ。ほんとに「ずっときれいになった」んですか?

違うと思う。恋人同士の別れだろうと親子の別れだろうと、娘が実際に数か月で「ずっときれいになる」なんてありえない。

「きれいになった君と別れる」んじゃなくて「別れるからきれいに見える」のが本当でしょう。

失われた大切な人や物の想い出がずっと美しいままなのは万人同じはず。いろいろいやなこともあったけど、それらはさっぱり思い出せなくて、きれいな想い出だけが残っている。もう永遠に手が届かないからこそ美しさはますます増していく。この歌はそういう人間の不思議な心理を歌っているんだと思います。

別れの場面そのものを描いているのではなく、別れたあとの「心の中に残っているもの」が本題でしょう。だから「なごり雪=春になっても残っている雪」なんじゃないでしょうか。

「列車を待つ」とか「君が去ったホームに残り」とか、そういう具体的な状況の部分は「口実」だと思います。抽象的な言葉だけで心の中を描くだけでは聴く人の心に響かないから、口実としてそれらしい状況を描いているだけ。

いまのJ-POPはあまり聴きませんが、直截的な表現が多いですよね。もしいまの作り手が歌詞を書いたら心の中を表す抽象的な言葉が氾濫していたんじゃないか。でも、それは「詩」ではないですよね。



イルカベスト
杉並児童合唱団
NIPPON CROWN CO,.LTD.(CR)(M)
2008-01-16





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2019年06月06日

TSUTAYAで渚ゆう子のベストアルバムが500円で売られていたので衝動買いしてしまいました。

渚ゆう子といえば、やはり『さいはて慕情』とか『京都慕情』の人気が高いのでしょう。私も人後に落ちずそういうのが好きでしたが、今回初めて聴いた『大阪慕情』の虜になってしまいました。

あまり有名でないからか渚ゆう子本人が歌った動画がなく、作詞・作曲のみなみらんぼうが歌ったものしかありませんでした。




大阪ミナミの川のほとりの
ぶらり入った飲み屋の女は
手持ち無沙汰の人待ち顔で
一人グラスを傾けていた

酔いにまかせて女が言うには
外は雨だしお客も来ないし
何やあんたにやさしくしたいわ
よけりゃ二階で遊んでゆかないかと

椅子にもたれて片肘ついて
身の上話は九州訛りで
あんたは最初の男に似てるわ
嘘かほんとか悪い気もせず

今夜は悪いがきっとまた来ると
心残りで勘定すませりゃ
首にすがってかぼそい声で
本当にあんたが好きだと泣くよ

三日と置かずに二枚目気取りで
店の女を訪ねてみたら
あの子は二階でいま忙しいと
太った女将が片目をつぶる

大阪ミナミの川のほとりの
ぶらり入った飲み屋の女は
客はみんな最初の男で
よけりゃ二階で遊んでゆけと言う



これはもう解釈がどうとかそんなのはいりませんね。そのまんま。

女の魔性とそれに翻弄される男の哀しい性がユーモアたっぷりに歌われています。

しかし下手糞な歌ですね。ていうか、みなみらんぼうって音楽もやってるんだと驚きました。いまはなにをやってるんだろう、もしかして死んじゃったのかしらと調べてみて「‼‼‼」


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南伸坊と勘違いしてました。アッハッハ!

みなみらんぼうはこちら。

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この二人まぎらわしいんですよ。ずっと前にも勘違いして笑われた記憶が……。

でも、みなみらんぼうってあんな歌声でしたっけ?




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2019年04月29日

昨日、ツイッターでこんなアンケートを実施しました。
ちあきなおみの『喝采』がダントツで1位かと思いきや、得票率は50%。次に多いと思われた「特に何も」は1票だけ。まさかルーベン・マムーリアンの映画に票が入るとは思ってもみませんでした。(あれは傑作ですが知名度は低い)

さて、1972年のレコード大賞で発売からたった3か月で受賞した、ちあきなおみの『喝采』をお聴きください。聴いたことあるよという人もまずは聴いてください。(ユーチューブで「喝采」で検索すると最上位に出てくる二つの動画はなぜか途中がカットされてる不完全版なのでご注意あれ)





作詞:吉田旺 作曲:中村泰士

いつものように幕が開き
恋の歌うたうわたしに
届いた報らせは 黒いふちどりがありました

あれは3年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服のわたしは 祈る言葉さえ 失くしてた

つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた

暗い待合室 話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 


ちあきなおみの実体験
ちあきなおみ自身に同じような体験があったそうです。だからこれは「メタ」ですよね。歌い手自身が「わたし」と語る一人称の歌詞ですが、その「わたし」がフィクションの「わたし」でもあると同時に、歌手・ちあきなおみ自身でもあるという。ちあきなおみが自分で作詞したのならメタとは言わないかもですが、作詞家はそういう事情を知らないで作詞したらしい。歌い終わって嗚咽するちあきなおみは、レコード大賞を受賞して泣いているのか、それとも歌の中の自身の体験を思い出して泣いているのか。おそらくその両方なのでしょう。


映画化できるか!?
さて、この『喝采』に関して「この時代の歌はみんな3分間の映画だなぁ」と言ってる人がいました。確かに波瀾万丈の人生の断面が描かれているという意味ではそうでしょう。でも、この『喝采』は映画にできない。

なぜなら、この歌に含まれる「時間」と「人称」が問題です。

この歌の主人公にとっての「現在」はどこにあるかというと、最後の「それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる」というラストなのは誰の目にも明らか。でも、それは歌が終わるときに初めて分かることですよね?

映画にするとなると、まずファーストシーン、暗い待合室でヒロインが、数日前にかつての恋人の死を知らせる電報が届いたことを思い出し、3年前の別れを回想し、葬式で言葉を失ったことを回想し、それでも恋の歌を歌い続けるという終幕でいいのでは? 『イヴの総て』や『裸足の伯爵夫人』みたいな回想形式の映画にすればいい。

確かにお話をなぞるだけならそれでもいいでしょう。しかしながら、映画も詩も「お話」だけから成っているわけではありません。


主人公の「現在」はどこにある?
虚心坦懐にもう一度聴いてみてください。この歌の主人公の「現在」はどこにあるのか。

最初の「いつのように幕が開き 恋の歌うたうわたしに」のところで、聴き手は歌い手が電報を受け取ったときがまぎれもないヒロインの「いま現在」だと感じます。いま現在のヒロインが電報を受け取って3年前を回想し、葬式に行って言葉を失う。しかし最後で明らかになるのは、聴き手がいま現在だと思っていた時間はすべて過去であり、回想だったということです。

本当のいま現在のヒロインは、恋を捨て、恋人を亡くし自責の念に駆られながらも、今日も恋の歌を歌うことに、歌うことで喝采を浴びることに悦びを感じているのです。

最後の部分の解釈はいろいろありましょう。後悔に苛まれながらも今日も恋の歌を歌う自分って何なの? 偉そうに歌う資格があるの? という意味にも受け取れます。


この歌詞をどう解釈するか
しかしながら、私の耳には、後悔に苛まれながらも歌っている自分が好き、喝采を浴びる自分が好き、だから、3年前あなたを捨てたのよ、という歌に聞こえます。そういうふうに解釈しないと、

暗い待合室 話すひともないわたしの 
耳に私のうたが 通りすぎてゆく


という部分がなぜ必要なのかわからなくなりますし、「それでも歌う」理由もわからなくなります。本当に後悔と自責の念に苛まれているのなら、もう恋の歌なんか歌わないはず。それでも歌うのは3年前恋人を捨てたのと同じように後悔に苛まれた自分をも捨てたからでしょう。

この部分が「あれは3年前~」と同じメロディで歌われていることが肝要です。3年前恋人を捨てたことを後悔しながらも、いま現在どうしても自分の歌が聞こえてきてしまう。彼女は自分の罪に打ちひしがれながらも、後悔した自分をも捨てようとしている。それでも歌いたいのです。自分には歌しかないと思っているのです。

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 

ここで聴き手は、主人公にとっての現在が最初の「いつものように幕が開き」のところではなく、最後の「いつものように幕が開く」ところだと初めてわかるわけですが、その秘訣はこの歌が「一人称」で歌われていることにあります。一人称の語りが独特の時間構造を生んでいます。

だから、時系列では最後のこのシーンを現在として、回想形式で映画にすると、この歌の本来の面白さが損なわれてしまいます。

『喝采』は、ずっとヒロインに寄り添ってきたつもりの聴き手が、最後の最後で突如現れた現在のヒロインによってせせら笑われる歌です。聴き手を嘲笑うかのように、恋人だけでなく後悔する自分をも捨て、今日も恋の歌を歌う女のしたたかさ。

こういうのを「詩」というのです。「3分間の映画」というのも間違いではないでしょうが、私は決して映画にできない詩というものの奥深さを感じるのです。


微吟
ちあきなおみ
テイチクエンタテインメント
2019-04-17





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