聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

社会批評

杉田水脈「LGBTは生産性がない」発言は論理的に誤謬である件

衆議院議員の杉田水脈が「LGBTは子供を産まないから生産性が低い。なぜそのような人たちに税金をつぎ込む必要があるのか」と発言して大炎上しています。


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あきれてものも言えないとはこのことですが、黙っていてはダメだろうといろんな人が非難しています。が、私はその多くの言説が的外れというか、杉田水脈と「同じ穴のムジナ」と思える部分が少なくありません。

非難の多くは「生産性が低いからといって非国民扱いするのはよくない」とか「ナチスの優生思想に通じるからダメ」という論調のものが多いようですが、それらの言説は「LGBTは生産性が低い」という杉田水脈の考え方に同意署名してしまってますよね。

生産性が低いからといって……ということは、LGBTは生産性が低いという考え方自体には異議を唱えていないし、優生思想云々も同じ。劣った人種は断種してすぐれた人種だけを残すべきというのが優生思想でそれはダメだと。でも、その時点で「LGBTは劣った人種である」と言外で言っちゃってます。


子どもは「作る」ものなのか
そもそも子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものです。もうだいぶ前から「子どもを作る」という言い方が流行していますが、私は同意できません。人間が人間を生産するというのは間違いです。だから「LGBTは生産性が低い」という言い方は根本からして間違っています。

しかしながら、いまさら杉田水脈のような人に「子どもは作るんじゃなくて授かるものなんですよ」と諭したところで納得しないでしょう。「そんなの宗教ですよ」と言われておしまい。私は常々、宗教心のない人間はいないと思っていますが、そう思っていない人のほうが多いのが現代ニッポンの現実。

それならば論理的に杉田水脈の言葉が誤謬であると言ったほうがいいのではないか。


人間を生産するとは何か
ここで百歩譲って「人間が人間を生産する」ことを真としましょう。それを真としても「LGBTは生産性が低い」は必ずしも真とはなりません。

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人間が人間を産む、というのは出産だけではありません。その子を一人前の大人に育てることも含みます。
LGBTの人が養子をもらうなどしてきちんと育て上げれば人並みの生産性を上げたということになります。我が子を虐待して苦しめている親から子どもを取り上げ、LGBTや子どもができない人に育ててもらえばいいんじゃないですか。それが政治家の仕事では? そういうことを何もせずにただもっと産め、産まない人間は非国民であると主張するのは「職場放棄」以外の何物でもありません。保育園不足、保育士不足の問題を解消するだけでも「生産性」はかなり上がるはずなのに何もしない。


「数」の問題なのか
それよりももっと大きな問題があります。
杉田水脈は「子どもの数がゼロの人間には何の価値もない」と言ってるわけですが、これって「数」の問題なんでしょうか?

人口さえ増えれば問題が解決するんですかね? そんなことないでしょう。そりゃ「量」も大事だろうけど「質」のほうがもっと大切では?

だからこれもまた教育の話になりますが、まっとうな人間を増やさなければいけないと思うんですよね。
いまは何でも「数値」で測ってばかり。今日もある番組で「カジノ法案の審議時間が○○時間。もっと審議しないと」と言ってましたが、審議時間が長くなればそれでOKなんですか? まさか! 長かろうが短かろうが質の高い議論をすることが肝要なはずなのに。

少子化問題を解決するには、まず行政がいろんな問題を解決するのが先でしょうし、すべて解決できたとしても、子どもの「数」のみを基準にするのはおかしいと思います。5歳の子を虐待死させるような人間を育ててしまったら恐ろしく生産性が低いということになるだろうし、杉田水脈のような国会議員が陸続と生まれてしまったら、いくら人口が増えてもこの国は沈むしかないでしょう。


批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


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批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで、「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



国から助成金をもらって国からの祝意を突っぱねる意義について

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『万引き家族』の是枝裕和監督が、文化庁から助成金をもらって映画を作っておきながら文科相の祝意を突っぱねるなんてダサいとか、カンヌ映画祭はフランス政府の助成金でやっていて、そこの賞はもらうのに助成金を出した国の気持ちは受け取らないのかとか、いろいろと批判がかまびすしいようですが、私はまったく問題ないと思いますね。というか、昨日実際に映画を見てきましたけど、やはりあの映画を作った人なら「公権力とは距離を置きたい」と言ってナンボじゃないかと。

だって、『万引き家族』という映画も、今回の発言も、どちらも「愛国心」の発露でしょうから。


日大アメフト部へのOBの苦言
例えば、日大アメフト部の悪質タックルと、その後の後手後手に回った対応は記憶に新しいですが、あれについて、日大出身の芸能人が何人もテレビのインタビューを受けて「恥ずかしい。フェアプレーの日大はどこへ行ったんだ」と非難していますが、今回、是枝監督を非難している人たちは、あの人たちへも「恩義ある母校に何を言っているんだ」と非難するんでしょうか? まさかね。

あれは母校が嫌いだからじゃなくて母校を愛すればこそ、あえて苦言しているんでしょ。

それと同じで、是枝監督だってこの国を愛しているからこそ、その行く末を案じ『万引き家族』という映画を作った。まぁ実際にはそんなに声高に政権批判をしているわけではなく、一家の闇を掘り下げていくと天下国家を論じることに通じたというまことに理想的な自国批判になっているわけですが。


愛国ゆえの反日
自国批判、だから反日だ、という人もいるようですが、日大を批判するOBがアンチ日大じゃなくて逆に日大シンパであるように、ああいう反日映画を作る人は本当の愛国者だと思います。政権批判をするから即反日ではない。逆のほうが圧倒的に多い。

だから、「公権力とは距離を置きたい」という発言もうなずけるわけです。変に距離が縮まると、次回作以降が政権におもねる内容になりかねない。それなら距離を置いて、きちんと「愛国的反日映画」を作り続ける選択をしたと。

それの何がいけないのでしょう。わたしにはまったくその理路がわからない。

そういえば、この議論とは直接は関係ないですが、日本に万引きで生計を立てている家族なんていないから『万引き家族』という映画にはリアリティがない、と主張している人もいるようです。

何だかなぁ、という感じ。

私はああいう家族、格差が広がりすぎたいまの日本には結構な数いるんじゃないかと思っていますが、仮にいなくてもいいじゃないですか。現実に存在するものしか描いちゃいけないの? じゃあ『バットマン』も『太陽を盗んだ男』も『野獣死すべし』も同じ理由で全部ダメなんですか? んなアホな。

とにもかくにも、政権批判をするから反日なんじゃなくて、愛国心の発露として政権批判をしているんだという理解はもっておきたいものです。


ネトウヨへの対処法(『万引き家族』をめぐって)

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是枝裕和監督の新作『万引き家族』がカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを獲ったことが世間を騒がせています。

私は「日本映画が受賞したからうれしい」という感情がよくわからないのですが、というか、むしろ是枝監督とは相性が悪いので自分は楽しめないんじゃないかなぁ、という不安のほうが強い。

いずれにしろ、またぞろ「日本スゴイ!」案件が来てしまったなぁ、と思っていたら思わぬ伏兵がいました。

「万引きして生計を立てている家族を主人公に描いた映画など国賊映画だ」とか「コレエダとかいう奴は在日に違いない」とか言ってるネトウヨさんたち。なるほど、そう来たかと。


『壁の中の秘事』
かつて若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン映画祭に出品されたとき、同作がポルノ映画ということで「国辱映画」と言われたそうですが、あのときの騒動もこんな感じだったのかなぁと。

見てから言えや、というか、おそらく劇中で描かれる一家は生活保護を受けたくても受けられないから万引きしているのでしょう。不正受給を許さないと息巻く人たちとネトウヨさんたちはおそらく同じ人たちだと思いますが、あなた方が生活保護の基準を厳しくするから作家的想像力によってこういう一家が生み出されたわけだから、この映画が反日だというなら、あなた方も反日では?

と言いたくなるんですが、映画を見てもないのに非難するなんて、と先日ツイートしたばかりなので内容について云々するのはやめましょう。


もしカンヌで受賞していなかったら
『万引き家族』はちょっと前から予告編やってるし、当然ユーチューブにもあるだろうし、新聞、雑誌、ネットその他で宣伝されてるはずだからカンヌの発表前にすでに知ってる人は知ってましたよね。それがパルムドール受賞となったら途端に「万引き家族映画なんて反日的だ!」となる。

もし同じ金賞でもカンヌじゃなくてロカルノ金賞とかだったらそんなに吠えないんでしょう。だって大したニュースにならないから。

逆に、『万引き家族』という邦題をもつ中国映画や韓国映画がパルムドールだったらどうか。これについてもあまり騒がないはずです。日本のマスコミは日本映画が受賞しなければあっさり伝えるだけですからね。

つまり、ネトウヨって大きなニュースに乗っかってるだけなんですね。いろいろ言いたい放題言ってるように見えて、自分たちの発言で世間が騒ぐような案件にだけヘイト運動をする。

決して自分たちでネタを探してきてるわけじゃない。メディアの記事や有名人の発言に乗っかってるだけ。もしそうじゃないのであれば、出品作に選ばれた時点で騒がないとおかしい。

彼らは自分たちの狂騒をメディアが取り上げてくれるのを待ってるだけだから、相手にしてはいけないと思う。

私も頭がカッカしてしまい、今朝方、ネトウヨさんたちに真剣に反論するツイートや、嗤うツイートなどをリツイートしてしまいましたが、いまは削除しました。彼らが一番痛いのは無視されることでしょう。もちろん、同じ思想の人たちからはリツイートやいいねをたくさんもらえるんでしょうけど、たぶん、彼らに最もエネルギーを備給するのは、私たちのような反ネトウヨの冷静さを欠いた反論のような気がします。これまでにも、反論した人間を「在日」と指差すことで溜飲を下げていましたから。

だから、「ネトウヨはけしからん」という論旨のつぶやきをしない、文章を書かないことが一番肝要だと思いますね。今後同じようなことが起こった場合は、「相手にしない」「完全無視」これ以外にないと思いますね。何事もなかったかのように通り過ぎましょう。

至極当たり前のように見えて、これって実は難しいと思います。みんな頭カッカしてすぐ反論しちゃいますから。

↓実際に映画を見た感想はこちら↓
『万引き家族』(我々はみな許されざる者である)


ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件

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ベネディクト・カンバーバッチが「これから仕事をする現場で、男女が同額のギャラを受け取っていない場合はその仕事を断る」と発言したらしいですが(→こちらの記事)やはりこの男は底が浅いと思いました。というか、まるで自分は純粋なフェミニストみたいに言ってますが、もしかすると無意識の女性差別主義者かもしれないな、と。


なぜ「同額」なのか
記事には「給料や機会の平等こそフェミニズムの根幹」とありますが、半分は間違いです。
確かに「機会」は平等でなくてはいけません。でも「給料」はその人がやった仕事に対する対価なのだから「結果」じゃないですか。機会という「入口」と結果という「出口」を一緒にするのは明らかな間違いです。
能力や成果に応じてギャラは変動するのが普通。入口は誰にも平等に開かれていないといけないけれど、出口が平等っておかしいでしょ。能力が高くて成果も高かった人が、低かった人と同じであってはいけない。特に映画界なんて実力が何よりものを言うんだし。

格差はあるのが当たり前です。格差があるのが問題なのではなく、格差が固定化することが問題のはず。貧乏人の子どもは絶対金持ちになれないとか。しかし、「男女同額」というのは「固定化」に一役買うことになりませんかね?

確かに、これまで男優のほうが女優よりギャラが高額だった傾向が高いのは否めません。能力云々に関係なく「男だから」というだけで女性より給料が高い。これは映画界にかぎった話じゃないと思うし、それを是正するのはとても大事なことです。

しかしそれならば「能力の高い女性は能力の低い男性より高いギャラをもらってしかるべき」とならねば論理的におかしい。なのになぜ「同額」なんでしょう?

カンバーバッチの底が浅いというか、かなり問題だと思うのは、「女性が男性より能力が高い可能性」を最初から排除していることです。それは「無意識の女性差別」と見て間違いない。


テニスにおける男女格差
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テニスでは、ちょっと前まで男女の優勝賞金に差がありましたが、いまは四大大会はすべて男女同額らしく、それより下の大会でもすべてそうなのかは知りませんが、40年前とかは男子のほうが数倍も多かったらしい。(関連記事→『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』

だからといって、まったく同じにする必要なんてないと思います。
優勝賞金って何よりもチケット収入が主な財源なんだから、男子の試合に観客が多ければ男子に多く払い、女子の試合に観客が多ければ女子に多く払えばいいだけの話では? 前年度の男子と女子の観客動員の比率をその年の賞金額の比率と同じにする、とか。

実際には、男子の試合の集客率のほうが3倍ほど高いようです(私は女子のテニスのほうが面白いんですけど、そう思って見ているのは少数派とか)。ただ、大会によってばらつきがあるはずなので、男子が女子より3倍の観客を集めたのなら賞金も3倍にすべきだし、2倍なら2倍、1.5倍なら1.5倍。当然、女子が男子より2倍観客を集めたのなら女子が2倍もらうべきです。「男女平等」ってそういうことじゃないの?

だからやっぱり問題は「固定化」なんですよ。すべてを流動的にすればいい。

それから、フェミニストとか男女平等論者がずれてるなぁと思うのは、「男女が平等であればそれでいい」と思っていることなんですよね。

テニスにおける格差は男女だけではありません。
シングルスとダブルスの格差は男女の格差以上です。そりゃそうだと思います。私もシングルスは好んで見るけれどもダブルスなんてほとんど見たことないですから。観客が呼べないのであれば賞金は少なくて当たり前でしょう。しかし、男女平等論者は「男女の格差は許せない」と息巻くのに、シングルスとダブルスの格差には何も言わない。「結果」の平等を問うのであれば、どちらにも反対の声を上げないといけないはずなのに。


「政治的正しさ」は両刃の剣
いまの世の中、「政治的正しさ」こそが正義と思っている人が多いようですが、それは「手段」にすぎないと思う。男だからという理由だけで高額のギャラをもらうのはおかしい。そこに「男女平等」という政治的正しさをもちだして是正していくのは大事なことです。でも、それが「目的」になってしまったら「男女同額」という歪んだ平等主義に行き着くしかない。女性が男性より能力が高い場合でも、男性と同額のギャラしか受け取れなくなってしまいます。

政治的正しさというのは、だから両刃の剣なんです。そんな危険なものはあまり振り回さないほうがいい。

繰り返しますが、「男女同額」という発想の根底にあるのは「女性が男性を上回る可能性などない」という女性蔑視の思想です。


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