聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

社会批評

立川志らくといじめ問題(吉澤ひとみひき逃げ映像に関して)

吉澤ひとみがひき逃げした瞬間の映像が別の車のドライブレコーダーに残っていて、先日それが公開されて物議を醸しました。



轢かれた人は軽傷で済んだと聞いていたので、こんなに吹っ飛ばされていたとは驚きでしたし、あれだけ見事に轢いておきながら逃走した吉澤ひとみの罪は重すぎるほど重い。酩酊して判断力がなかった? それならそれで車を運転するべきではないから、いずれにしても重罪です。

が、同時に多くの人が思ったはずですが、すぐそばで見ていた女子高生らしき女の子たちが、目撃していながら見て見ぬふりをして現場から立ち去ったことに哀しみを憶えました。
つい先日、出勤途中に猛スピードの自転車がこけて乗っていた人がもう少しで後ろから来た車に轢かれそうになったんですが、私や他の人も、そばにいた人はみんな駆け寄りましたよ。外国人だったので「OK?」と訊いたら「大丈夫です。ありがとう」と笑顔で言っていたから会社へ急ぎましたけど、あそこで見て見ぬふりはできないし、もし怪我を負っていたのなら誰かが119番しないといけない。


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吉澤ひとみの事故映像に関して、見て見ぬふりをした女子高生も悪いというまっとうな意見に対し、立川志らくがツイッターで、

「あの子たちも轢かれなくて本当によかったと思う。あの映像はひき逃げ犯の証拠としてだけ扱われるべき」

という意見を披露していました。

この意見は何か胡散臭いと思っていたんですが、やっとその理由がわかりました。

あれっていじめを傍観している人たちと同じですよね。巻き込まれたくないから見て見ぬふりを決め込む。まぁ私も昔はいじめられたこともあるけれど、いじめを傍観していたこともあるのであまり偉そうなことは言えませんが、しかし、志らくの「轢かれなくて本当によかった」というのは、いじめられた子が自殺したにも関わらず、

「うちの子がいじめられなくて本当によかった」

と胸をなでおろす過保護な親と何ら変わりませんよね。

確かにあの映像は吉澤ひとみの悪質なひき逃げを映していますが、同時にそれを見て見ぬふりをした子どもたちもちゃんと映している。もし誰も通報せず、そのせいで被害者が死んでいても同じことを言えるんでしょうか?

志らくは見て見ぬふりをした人間を見て見ぬふりしているだけです。偽善以外の何物でもない。


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本当の「勉強」とは何か

ちょっと前に、博士号を取得した人の数と論文数において日本は先進国中ダントツの最下位という報告が出た際、

「もう大学は職業訓練校になればいい」

というとんでもない意見をツイッターで見かけました。


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努力は嘘をつく?
よくスポーツ選手が「練習は嘘をつかない」と言います。練習をすれば着実に実力が上がる、と。それは確かに真理でしょう。ただし、自分のどこがよくないかを見極め、そこを矯正しつつ同時に長所を伸ばすにはどうしたらいいかを考えてやれば、という条件付きで。それをせずに闇雲に長く練習しても疲弊するだけでしょうが、ちゃんと考えながらやればまさに「練習は嘘をつかない」。

職業訓練校で勉強するのも同じようなものでしょう。
ワードで文書作成できるようになった、エクセルの関数を憶えた、グラフ作成ができるようになった、フォトショップが使えるようになった、ドリームウィーバーを憶えた、フォークリフトの免状を取った、etc.

自分が何を知らないかを見極め、そこを補強する勉強をしていけば、就職の道は勉強時間に比例して広く開けていくはずです。

しかし、本当の勉強というのは「努力が嘘をつく」ものなんですよね。


勉強すればするほど……
本当の勉強というのは、勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされる営みのことです。1冊の本を読めば知らないことがたくさん出てきて、あれもこれも読まないと……という気持ちになる。そして読めば読むほど知らないことがどんどん無尽蔵に増えていき「自分は何もわかっちゃいない」と途方に暮れる……。

私は高卒なので大学の内情についてはまったく知りませんが、本当の勉強がそういうものだということは身をもって知っています。大学は職業訓練校になればいいと本気で言える人は、本当の意味での勉強をしたことのない人なのでしょう。


谷崎潤一郎『神童』



先日、谷崎潤一郎の傑作中編『神童』を再読しました。
主人公は幼くして古今東西の書物に通暁したまさに「神童」で、とにかく学問にしか興味がない。だから学校の授業がつまらなくて眠ってしまう。

しかし、そこが彼の本質的な欠点なのですね。本当の意味での勉強をしていたら学校の授業がつまらないということはありえません。いくら古今東西の書物に通暁していても、目の前の生身の肉体をもった教師が語る言葉には世界中の書物が束になってかかってもかなわない「力」があります。主人公はそれがわかっていない。自分は神童であり、いろんなことを知っていて教師よりも頭がいいという自惚れがあるから授業中に居眠りをしてしまう。最近、「ネットでいろんな情報を仕入れられるから講義が退屈」という学生が増えているらしいですが、彼らはまさに『神童』です。

本当の勉強をしていれば、自分はまだまだ何も知らない、だから誰でもいいから教えてほしいと教師の講義を集中して聴くでしょう。そこには何かがある。つまらないと断じる前にまずは聴いてみる。主人公が神童で終わってしまうのは「たくさん勉強したから自分は賢い」と、勉強時間や読んだ本の冊数に比例して自分の知識や教養が上がっていると勘違いしているからです。

勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされ、したたかに打ちのめされる。そういう「蟻地獄」に自らはまりこむ自虐的な営為にこそ「勉強」というものの本質があります。

だから、大学を職業訓練校にせよ、なんていうのは、「本当の勉強」を実行したことも、その甘美な味わいも知らない者の戯言にすぎないと思うのです。


杉田水脈「LGBTは生産性がない」発言は論理的に誤謬である件

衆議院議員の杉田水脈が「LGBTは子供を産まないから生産性が低い。なぜそのような人たちに税金をつぎ込む必要があるのか」と発言して大炎上しています。


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あきれてものも言えないとはこのことですが、黙っていてはダメだろうといろんな人が非難しています。が、私はその多くの言説が的外れというか、杉田水脈と「同じ穴のムジナ」と思える部分が少なくありません。

非難の多くは「生産性が低いからといって非国民扱いするのはよくない」とか「ナチスの優生思想に通じるからダメ」という論調のものが多いようですが、それらの言説は「LGBTは生産性が低い」という杉田水脈の考え方に同意署名してしまってますよね。

生産性が低いからといって……ということは、LGBTは生産性が低いという考え方自体には異議を唱えていないし、優生思想云々も同じ。劣った人種は断種してすぐれた人種だけを残すべきというのが優生思想でそれはダメだと。でも、その時点で「LGBTは劣った人種である」と言外で言っちゃってます。


子どもは「作る」ものなのか
そもそも子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものです。もうだいぶ前から「子どもを作る」という言い方が流行していますが、私は同意できません。人間が人間を生産するというのは間違いです。だから「LGBTは生産性が低い」という言い方は根本からして間違っています。

しかしながら、いまさら杉田水脈のような人に「子どもは作るんじゃなくて授かるものなんですよ」と諭したところで納得しないでしょう。「そんなの宗教ですよ」と言われておしまい。私は常々、宗教心のない人間はいないと思っていますが、そう思っていない人のほうが多いのが現代ニッポンの現実。

それならば論理的に杉田水脈の言葉が誤謬であると言ったほうがいいのではないか。


人間を生産するとは何か
ここで百歩譲って「人間が人間を生産する」ことを真としましょう。それを真としても「LGBTは生産性が低い」は必ずしも真とはなりません。

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人間が人間を産む、というのは出産だけではありません。その子を一人前の大人に育てることも含みます。
LGBTの人が養子をもらうなどしてきちんと育て上げれば人並みの生産性を上げたということになります。我が子を虐待して苦しめている親から子どもを取り上げ、LGBTや子どもができない人に育ててもらえばいいんじゃないですか。それが政治家の仕事では? そういうことを何もせずにただもっと産め、産まない人間は非国民であると主張するのは「職場放棄」以外の何物でもありません。保育園不足、保育士不足の問題を解消するだけでも「生産性」はかなり上がるはずなのに何もしない。


「数」の問題なのか
それよりももっと大きな問題があります。
杉田水脈は「子どもの数がゼロの人間には何の価値もない」と言ってるわけですが、これって「数」の問題なんでしょうか?

人口さえ増えれば問題が解決するんですかね? そんなことないでしょう。そりゃ「量」も大事だろうけど「質」のほうがもっと大切では?

だからこれもまた教育の話になりますが、まっとうな人間を増やさなければいけないと思うんですよね。
いまは何でも「数値」で測ってばかり。今日もある番組で「カジノ法案の審議時間が○○時間。もっと審議しないと」と言ってましたが、審議時間が長くなればそれでOKなんですか? まさか! 長かろうが短かろうが質の高い議論をすることが肝要なはずなのに。

少子化問題を解決するには、まず行政がいろんな問題を解決するのが先でしょうし、すべて解決できたとしても、子どもの「数」のみを基準にするのはおかしいと思います。5歳の子を虐待死させるような人間を育ててしまったら恐ろしく生産性が低いということになるだろうし、杉田水脈のような国会議員が陸続と生まれてしまったら、いくら人口が増えてもこの国は沈むしかないでしょう。


批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


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批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで、「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



国から助成金をもらって国からの祝意を突っぱねる意義について

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『万引き家族』の是枝裕和監督が、文化庁から助成金をもらって映画を作っておきながら文科相の祝意を突っぱねるなんてダサいとか、カンヌ映画祭はフランス政府の助成金でやっていて、そこの賞はもらうのに助成金を出した国の気持ちは受け取らないのかとか、いろいろと批判がかまびすしいようですが、私はまったく問題ないと思いますね。というか、昨日実際に映画を見てきましたけど、やはりあの映画を作った人なら「公権力とは距離を置きたい」と言ってナンボじゃないかと。

だって、『万引き家族』という映画も、今回の発言も、どちらも「愛国心」の発露でしょうから。


日大アメフト部へのOBの苦言
例えば、日大アメフト部の悪質タックルと、その後の後手後手に回った対応は記憶に新しいですが、あれについて、日大出身の芸能人が何人もテレビのインタビューを受けて「恥ずかしい。フェアプレーの日大はどこへ行ったんだ」と非難していますが、今回、是枝監督を非難している人たちは、あの人たちへも「恩義ある母校に何を言っているんだ」と非難するんでしょうか? まさかね。

あれは母校が嫌いだからじゃなくて母校を愛すればこそ、あえて苦言しているんでしょ。

それと同じで、是枝監督だってこの国を愛しているからこそ、その行く末を案じ『万引き家族』という映画を作った。まぁ実際にはそんなに声高に政権批判をしているわけではなく、一家の闇を掘り下げていくと天下国家を論じることに通じたというまことに理想的な自国批判になっているわけですが。


愛国ゆえの反日
自国批判、だから反日だ、という人もいるようですが、日大を批判するOBがアンチ日大じゃなくて逆に日大シンパであるように、ああいう反日映画を作る人は本当の愛国者だと思います。政権批判をするから即反日ではない。逆のほうが圧倒的に多い。

だから、「公権力とは距離を置きたい」という発言もうなずけるわけです。変に距離が縮まると、次回作以降が政権におもねる内容になりかねない。それなら距離を置いて、きちんと「愛国的反日映画」を作り続ける選択をしたと。

それの何がいけないのでしょう。わたしにはまったくその理路がわからない。

そういえば、この議論とは直接は関係ないですが、日本に万引きで生計を立てている家族なんていないから『万引き家族』という映画にはリアリティがない、と主張している人もいるようです。

何だかなぁ、という感じ。

私はああいう家族、格差が広がりすぎたいまの日本には結構な数いるんじゃないかと思っていますが、仮にいなくてもいいじゃないですか。現実に存在するものしか描いちゃいけないの? じゃあ『バットマン』も『太陽を盗んだ男』も『野獣死すべし』も同じ理由で全部ダメなんですか? んなアホな。

とにもかくにも、政権批判をするから反日なんじゃなくて、愛国心の発露として政権批判をしているんだという理解はもっておきたいものです。


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