社会批評

2020年01月01日

前々から初詣のニュースを見るたびにこういう映像を見ますが、


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お金をたくさん入れたら御利益があると信じている、というのは結局のところ、

「金さえあればどんな問題でも解決できる」

という思想をその人がもっているから、ということですよね。

最初は500円玉ぐらいから始まったはずが、何もうまく行かないからやがて千円札になり、それでもうまく行かないから5千円札になり、そして万札になる。万札も1枚だったのが2枚になり3枚になり…

その人が「金さえあれば…」という誤った思想をもち続けるかぎり、この悪循環は終わることはないでしょう。構造的にそうなっているのだから仕方がない。

断言してもいいです。

賽銭箱に万札を入れる人は不幸から逃れられないと。


 

2019年11月30日

最近、「やくざ」という言葉が放送禁止用語になっていると知り、目が点になりました。

これ、本当のことらしいです。

別に「めくら」「つんぼ」「エタ」「非人」みたいな差別される側を指す蔑称じゃないのに、いったいなぜなのか。


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やくざに取材できなくなった
やくざ関連の著書をたくさん出しているジャーナリストの溝口敦氏によると、

・「やくざ」という言葉は江戸時代からある言葉だけども、やくざという存在を認めている人たちが使う言葉である。
・「やくざ」をやめて「暴力団」にするというのは警察の呼称に合わせているだけ。マスコミは警察に牛耳られているから。

ということだそうです。

かつて、やくざ関係の取材をするときは、やくざに直接取材していたそうです。刑事より記者のほうが情報をたくさんもっていて、いろいろ教えてあげたとか。

ところがいまでは反社会勢力との接触を断たなければいけないから、やくざに取材できない。警察が発表することを鵜呑みにしてそのまま発表するしかない。

だから「マスコミは警察に牛耳られている」となるわけですが、だとしたら、これは憲法違反じゃないの?


放送禁止用語とは
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「放送禁止用語」とは、この言葉は放送してはいけないと法律で決められている、と誤解している人がいまだに多いですが、まったく違います。

放送業界が自分たちで「こういう言葉は放送しないようにしましょう」と業界内だけで決めているただの自主規制です。

「この言葉は放送してはいけない」なんて法律は作りたくても作れません。なぜなら言論の自由と表現の自由が憲法で保障されているわけだから明らかな憲法違反です。

そして、これもあまり知られていませんが、法律と憲法の違い。

法律は、人を殺したらこれだけの刑に処すとか、権力者が大衆を縛るもの。

対して憲法は、権力者の暴走を防ぎ、大衆の権利を保障するもの。だから基本的人権も、表現の自由も、集会・結社の自由も、職業選択の自由も憲法に書かれているし、同時に、自白は証拠にならないとか拷問の禁止も刑事訴訟法ではなく憲法に書かれている。(そのとおりに運用されているかは別問題)

だから、警察がマスコミを牛耳った結果として「やくざ」という言葉が放送禁止用語になるなら、これは言論の自由や表現の自由に反するし、何より警察という権力の暴走を促すという、憲法の精神に反したものとなる。

溝口氏はマスコミを牛耳っている警察を一方的に悪者に仕立て上げたいみたいですが、私は警察と結果的に癒着しているマスコミも悪いと思う。

反社がどうとかそんなこと関係なしに取材してどんどん記事を書けばいいと思う。言いなりになったり忖度したりしてはダメ。それが「ジャーナリズム」というものじゃないの?

「やくざ」が放送禁止用語になった今回の憲法違反は、警察とマスコミのコラボレーションでしょう。


2019年11月05日

高校野球で球数制限のルールが導入するという新潟高野連に対して、日本高野連が再考を求めた問題。

確かに、一人のピッチャーに連日連投させるのは肩や肘によろしくない、将来を嘱望されるピッチャーほど連投を強いられるから制限するのはいいことだという意見と、いやいや、それではエース級が一人しかいない弱小校が圧倒的不利になる、はたまた、高校で野球をやめる生徒を球数だけで交代させていいのか、という感情論も出ているようです。


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私もこの球数制限には大反対ですが、上記のような理由ではありません。

何よりも「100球」というデジタルな数字で区切ることが大いに疑問。個人差があるのになぜ一律100球なのか。

みんな頭の中がデジタルになってしまっていると思います。

球数が問題なんじゃない、大事なのは登板間隔だと、1日おきの投球なら大丈夫と言う人もいますが、それだって結局はデジタルな数字を論拠にしてる点では大差ない。

この問題についての意見を読んでいると、誰それは1試合で何球投げたとか、数字ばかりが前面に出てきています。それっておかしくないですか?

横浜のエースとして延長17回を一人で投げた松坂大輔。あのときの監督は「あいつならまだ投げられる」と確信していたそうです。練習のときから常に全員のコンディションや性格などを頭に入れ、「こいつはまだまだ」「あいつはもう代えてやらないと」と考えていたとか。何球とか何イニングとかそういうことじゃなくアナログな感覚。

結局のところ、指導者がちゃんと気を配っていればいいだけの話で、なぜ「(デジタルな)ルール」として制限せねばならないのかが少しもわからない。

勝つために一人のエースを酷使しないように指導者を教育することのほうが大事だろうし、何より一番大事なのは子どもたちへの体育指導じゃないですか? そこをおろそかにしてルールだけ変えても野球が面白くなくなるだけ。最近の子どもたちは幼い頃から冷房の効いたところで育つから汗腺の数が少ない。だから熱中症になりやすい。学校だけじゃなくて家庭での体育や食育がとても大事。

マウンドに立ってから何球とかそういうことじゃなくて、マウンドに立つまでのほうがよっぽど大事なのに、なぜそういうことを言う人がほとんどいないんでしょうか。

肩を壊す球児を減らしたい。それはわかります。

でもそれなら本から正さないと。試合というのは末端であって、本は日頃の生活ですよ。生活を大人がちゃんと見ていてやることが何より大事なのでは?

2019/11/5追記
来年の選抜では「1週間に500球まで」という制限が設けられるそうです。エース級が一人しかいないチームもあるから一律に1試合ごとに制限を設けられないから1週間で500球。このことについて、去年の夏の甲子園では誰それが何球だった、誰それは何球だった、みんな500球未満だからそんな制限には意味がない、という意見があるそうですが、上記と同じくデジタルな数字だけでいいの悪いのと言っても意味ないと思います。

プロ野球でも「100球投げたら交代」というのが暗黙のルールになっているらしく、先発完投型のピッチャーに与えられる沢村賞は今年は該当者なしでした。同じことを続けていくのならもう永遠に沢村賞を受賞できるピッチャーはいなくなるでしょう。

一人一人限界が違うし、その日の調子だって違うんだから一律に何球という制限はやめたほうがいい。

みんな他人の体調などを見る「目」を失ってしまってるんじゃないですか。医者も血液検査の「数値」しか見てない人がいるし、数値がなければ自分の調子もわからない。もともと日本人は無理するのが大好きだから、デジタルな区切りを設けないと怪我するまでやってしまう。

それはわからなくはないですが、数値にこだわり続けたら「目」を失ってしまいますよ。子どもを見る「目」を失った結果が今回の球数制限でしょう。

残業も国会の審議に関しても話されているのは「〇時間」という「数値」のことばかり。嗚呼。


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