社会批評

2020年07月24日

雨宮処凛さんの編著による『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)を読みました。

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2016年に起きた相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で19人もの障害者が殺された事件。

犯人は植松聖という、何とその施設の元職員。いったいなぜ??? とはてなマークと憤りが渦巻いてもう4年になります。

雨宮処凛さんが実際の障害者や精神科医と対談したこの本は、決して植松をモンスターとして社会から排除しようとはせず、逆に社会から排除されたのはなぜか、排除されたように思いこんだのはなぜか、その深層にグローバリズムの視点から斬り込んでいきます。


世界経済活性化のために
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植松の犯行の動機は、当時ニュースでもさんざん言われてましたが、

「障害者をもつ親のために」というものでした。障害者の子どもをもった人の負担を減らしてあげたのだと。そして、障害者は何の役にも立たないから殺してもいいのだと。

また、彼はこうも言いました。

「世界経済活性化のため」「日本国の借金をこれ以上増やさないため」

つまり、「生産性」のない人間を亡きものにし、「生産性」をもつ人間だけで経済を回せば日本の借金は減り世界経済が活性化すると。

2004年のイラク人質事件で「自己責任」という言葉が罷り通るようになりました。「おまえたちのせいで税金が使われた」という声があがりました。


神聖なる「税金」
税金といえば、生活保護費は税金から出ていますが、何といま「生活保護を受けるくらいなら自殺する」「税金の世話になってまで生きていようと思わない」と平気で言う人間が増えているとか。

何か「税金」というものを「自分たちのもの」と思いすぎですよね。そりゃ私たちが払った血税なんですけど、それはやはり社会的弱者から優先的に使われねばならないのに、「自分たちの金が使われた」という感覚に陥るというのは解せない。それならまず、自分たちから税という形で収奪している国家を糾弾せねばならないはずなのに、それはせず、逆に為政者の望みそうなことを勝手に推測して実行する「忖度する悪漢」が跋扈している。その最たるものが植松ではないか。ハンナ・アーレントはアイヒマンのことを「凡庸な悪」と総括したが、もしアーレントが植松を観察したらどのように総括するだろうか。

税金の話に戻すと、私もできれば自分の食い扶持は自分で稼いでいきたいと思うけれど、病気になったり障害を負ったらそれができなくなるわけですよね。それでも税金の世話になりたくないというのは想像力の欠如か、あるいは、我々現代日本人が幼少の頃から内面化させられている「他人に迷惑をかけてはいけない」というほとんど「信仰」に近いものが根底にあるからでしょう。

「他人に迷惑をかけるな」と同時に日本人が刷り込まれている価値観に「社会の役に立て」というものがあります。「数学を勉強して何の役に立つのか」と平気で言う子どもが増えているのもそのせいでしょう。

おそらく、植松や植松に共感する人たちは、社会の役に立つ人間は税金を納めることのできる者のことで、納めた者にだけ還元されないとおかしいと考えているのでしょう。俺たちが納めた税金をなぜ納められない人間が横取りするのか、ということだと思う。

そこから一歩か二歩進めれば、役に立たない障害者は殺してもいい、となる。そこまで行かずとも、役に立たない障害者を税金で食わせてやるのは無駄遣いという間違った思想につながっていく。(しかし、彼自身がいまは税金で生かされているという事実をどう考えているのだろうか?

この社会が数十年かけて生み出したのが植松聖というモンスターだというのがこの本の論旨ですが、上述の日本だけの事情だけでなく、先述のとおり、グローバリズムの視点を盛り込んでいるところが素晴らしい。


トランプ
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植松はトランプが大統領になったことに感激したという。

「あれだけ本音をどんどんいう人間はかっこいい」と思ったそうな。下品なだけなのに。


本音と本心は違う
しかしながら、「本音」と「本心」は違う、という話がこの本には出てきます。

「本音と本心は違う。「ぶっちゃけ……」と本音を語っているつもりが、どこかからのコピペであることが多い。その人自身の体験にしか裏付けられていない特別な話なのに共感せざるをえない、それが本心」

だそうですが、ヘイトスピーチなんかも自身の体験に少しも裏づけられていませんよね。2年ほど前に駅前でヘイトスピーチを実際に見ました。というか、ヘイトスピーチをやめましょうという演説に対し、「ヘイトの定義を言ってみろ!」などと罵詈雑言を浴びせていました。

「ヘイトの定義を言ってみろ!」というのは、おそらくネットとか誰か他人の言葉をそのまま口にしてるだけなんでしょうね。それを口にすれば相手が押し黙るのを「成果」として知っている。本人は勝ったつもりなんだろうけど、こちらの心には何も響いてこない。


障害者自身の内なる優生思想
ヘイトといえば、障害者自身が自らの障害をヘイトするようなことがあるらしい。

自分と同じ障害をもつ異性を好きになれない。自分の身体を醜いと思う。

植松自身も整形手術を繰り返したり犯行前に正装した自撮り写真をツイッターにアップしていたそうな。自分が嫌いだ、自分を肯定できないという感情に依存している、それはセルフネグレクト、もしくはセルフヘイトと言っていい、と本書で語られています。

「あなたはもしかすると、自分は役に立たない人間だと思っていたのではないですか」

と面会した人は訊いたそうな。

植松は教師になることに挫折し、しかも自分のせいで教職を追われることになった父親に対し申し訳なく思っているという。でも障害者を大量殺害したことで「役に立てた」と本気で思っている。

私がこの本で一番興味深いと思ったのは、ナチスの優生思想に共感を示す植松に対し「殴ってでもそこから救い出そうとした友人がいた」ということです。

殴ってでも、というのは本当の友人ですよね。生涯の親友になれたかもしれない。でも彼の言葉は植松には届かなかった。

「植松は自分の声すら聞き取ることができなかったんじゃないか」という一節がありましたが、激しく同感!


悦楽人・植松聖
「外にいたときの楽しみは?」と訊かれた植松は、

「おいしいものを食べること、大麻を吸うこと、そしてセックス」

と答えたそうな。もう死ぬまでその三つは無理だね、というと、それでいいと思っていると答えたとか。三大快楽を捨ててでも世界経済活性化のために、日本経済救済のために大量殺人を犯したというのだから、やはりこんな奴はモンスターとしてさっさと処刑すべきではないか、と思ってしまう。

でもそれは早計なんですよね。我々みんなが自らのうちに巣食う「内なる植松」の声に耳をすませなければ。


誰でも「障害者」になりうる
これは誰でもいつ何時、事故に遭遇して障害を負うかわからないという意味ではなく、「障害」というものの定義から来ます。引用してみましょう。

「障害とは、社会と個人の間のミスマッチが生み出すもの。社会構造の急速な変化によって定義上『障害者』にカテゴライズされる人が増えているのではないか。身体上は健常者でも社会モデル的には障害者と呼べるのではないか」

私もこの歳で非正規雇用者だし、社会的にはかなり弱者だと思う。(でも幸福感に包まれていますがね。幸せはカネでは買えんのだよ。おほほ)

でも現在は社会モデル的という意味でも「障害者」ではないと思うけど、この先、社会構造のさらなる変化で「障害者」になる可能性は充分ある。

が、この「社会モデル上の障害者」が何を意味するかは難しい。

まさか役に立たない人、税金を納める人のことじゃないでしょう? それでは植松と同根になってしまう。

おそらくここでいう新たな障害者とは植松自身のことを言っているような気がします。

別の人はこう言います。

「植松個人の成育歴や精神状態を調べると同時に、グローバルな現象の一端として考える必要がある。そのときのキーワードは「剥奪感」と「孤独」。単に雇用や権利だけの問題ではなく、自分が生きる意味とか自分が自分である根拠みたいなものまで失われているという剥奪感」

かつて酒鬼薔薇聖斗と自称した少年は犯行声明に「透明な存在の私」みたいなことを書いた。あれと似たようなものかな。

自分が自分である根拠を失う、という感覚が私にはわからない。

わからないといえば、私は自殺未遂者だけれど、中1のとき誰かが自殺したというニュースを見て、親に「自殺する人の気持ちが少しもわからない」と言った記憶がある。それから数年もたたないうちに自殺願望を有するようになるのだけど、友人たちは「死にたい」という気持ちがわからないという。そのとき、私はどうしようもない「孤独感」に苛まれる。

だから、社会構造の変化によって私自身が植松のような大量殺人犯になる可能性はある。

でも、その可能性はかぎりなく低いとも思う。

なぜなら、先述したように「社会的弱者には違いないが幸福感に包まれている」から。

私は自分自身が好きなのである。自分を肯定しているのである。自分が自分である根拠をもっているのである。


笑顔
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結局、「笑顔でいること」「いつも朗らかでいること」が大事なのではあるまいか。

楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ。とは心理学の常識らしいですが、何があっても笑顔を絶やさずにいれば、自分が自分である根拠を見失わずにすむし、孤独感にさいなまれることもない。

結論はいたって単純でつまらないものになりましたが、「不寛容」の対義語は「寛容」、そしてそれは「笑顔を忘れない」ことだと思います。笑顔でいれば「世界経済活性化のために」なんてパラノイア的なことは決して考えないでしょうから。








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2020年07月17日

職場に鉄ちゃんがいます。7年前の職場にも鉄ちゃんがいました。

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鉄ちゃんといってもいろいろあって、画像のような「撮り鉄」もいれば「録り鉄」といって駅のアナウンスを録音するのが趣味の人もいるとか。

かつて脚本家を目指していた頃、鉄道会社に勤める男が主役の話を書くにあたって読んだ本が『愛した男が鉄道だった』というなかなか秀逸なタイトルの本でした。もちろん、あの「愛した男が極道だった」の『極道の妻たち』のパロディです。

それはさておき、いまの職場の鉄ちゃんは一番オーソドックスな「乗り鉄」です。とにかく鉄道に関する話になるとブレーキが利かなくなるほどどんどん言葉が飛び出てきます。別に鉄道そのものでなくても、ICOCAなどのICカードの話とかでも熱弁をふるいます。

私はなかなか面白いと思うこともあれば、いまは黙って飯食わしてほしいんだけど……とちょっぴり迷惑に思うこともある。ただ、鉄道にほとんど関心がないので、知らない話がどんどん飛び出すから基本的には興味深いことこのうえない。

でも、いまの職場では訊かれないけど、7年前の職場では、「○○さんって電車オタクだからイヤ」などと言うのが時折耳に入ってきました。

私はこの「オタク」という概念が本当にわからない。どこまでがオタクじゃなくてどこからがオタクなのか。

若い子に訊いてみました。

「俺はいままで1万タイトル以上の映画を見ていて、映画のことになると目の色が変わるし、映画にすべてを捧げてもいいという気持ちは脚本家を目指していた頃と何も変わらない。俺は映画オタクなの?」
「いえ、ピッチコックさんはオタクじゃないですよ」
「そうやって間髪入れずにオタクじゃないと言えるということは、どこまでがオタクじゃなくてどこからがオタクか、その境界線がわかっているということだよね。いったいオタクとそれ以外を分ける境界線って何なのだろう」
「それは…(絶句)」

こういう会話を私はいままで記憶にあるだけでも三度はした。今回が四度目。

みんな口々に「あなたはオタクではない」という。でもオタクと非オタクを分ける境界線については「わからない」と口をそろえる。


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結局、他人に「レッテル」を貼りたいだけなんでしょう。よくわからないものにはレッテルを貼って安心したいだけなんでしょう。実際、職場の鉄ちゃんは少しばかり「話の通じない人」と主に女性から思われているみたいだから、ただそれだけの話なんでしょう。

オタクとはしょせんその程度のこと。だって、鉄ちゃんをオタク呼ばわりしていた若い子はかなりのゲームファンらしく、世間で言うところの「ゲームオタク」みたい。でもオタク呼ばわりされるのはいやらしい。

何と自分勝手な!

しかもですよ。アニメやゲーム、映画に鉄道など、そういうものに夢中すぎるほど夢中だとオタクの疑いがあるらしいんですが、音楽ならいくらのめり込んでいてもオタクの範疇に入らないらしい。んなアホな。

最近の若い人は自分のことを誇らしげにオタクと自称することがあるそうな。実際、ツイッターのフォロワーさんでそういう人がいる。でも、現実にそういう人に会ったことがない。会うのは、オタク呼ばわりされるのは嫌がるくせに、他人をオタク呼ばわりしたい人たちばかりだ。

繰り返しますが、他人を「オタク」と呼ぶ人間は、自分の嫌いなもの、理解できないものにレッテルを貼りたいだけ。どちらが幼稚かは火を見るよりも明らか。以上!





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2020年05月31日

手越祐也が無期限活動自粛という処分を下されました。

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自粛期間中に一度ならず二度、三度と酒席を設けていたのが理由だそうで、そりゃできるだけ三密を回避しなくちゃいけないときに軽率すぎるという非難は的を射ているでしょうが、そこまで叩かれないといけないこととは到底思えないんですよね。

社会学者の古市憲寿は、検察庁法改正で危うく定年延長されそうだった黒川某の賭け麻雀のほうがよっぽどヤバい案件であって、手越の件はそこまでバッシングする必要があるのかとまっとうな意見を述べていました。


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山田孝之も活動自粛までは追い込まれてはいないけれど、祖母のいる沖縄に家族で旅行に行っていて非難されましたよね。

先週のワイドナショーで中尾明慶が「高齢の人がいるからこそ行っちゃダメだと思うんですよ。感染させちゃうかもしれないわけだし」と言っていましたが、これも至極まっとうな意見だと思う反面、本当にそうか? と思ってしまったのも事実。

だって、「こういうときだからこそ」会いたかった可能性もあるじゃないですか。山田孝之が会いに行かなくても近隣の誰かから移されて死んでしまうリスクは充分ある。そしてもし感染して死んだらもう二度と対面できないんです。死に顔にも会えないんですよ。その前に会っておきたかったという可能性はある。

私たちは、志村けんが死んだときのニュースにもっと驚き、憤るべきではなかったか。


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死体からも感染する可能性がある。だから対面させない。それは至極まっとうな対処の仕方に見えるけれども、実は至極非人間的な対処ですよね。死に顔にさえ会わせないんだから。まるで戦争で死んだ息子が骨になって帰ってきたみたい。志村けんのお兄さんも、岡江久美子の旦那・大和田獏も同じような苦言を呈していました。それってどうなの、と。

ちょうど一週間前、BS1スペシャルで「コロナ新時代への提言 ~変容する人間・社会・倫理~」(6月3日深夜に再放送予定)という番組が放送されました。


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左から哲学者の國分功一郎さん、霊長類学者で京大総長の山極寿一さん、歴史学者の飯島渉さん。

一番印象的だったのは『中動態の世界』のインパクトがいまだに強烈な國分功一郎さんの言葉でした。

イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが、次のようなことを言ったというんですね。

「生き延びることだけが唯一絶対の正義という社会とはいかがなものだろうか。死者は遺族にも会えず葬儀もしてもらえない。これは『死者の権利』の蹂躙である」

この発言はヨーロッパ中で大炎上したそうです。感染を広げないためには当たり前のことではないか、と。

でも、疫学的には当たり前のことであっても、もう一度そこを疑ってみようよ、というのがアガンベンの主張らしく、國分さんも100%アガンベンの主張に同意しているわけではないみたいですが、「哲学者とは人々にとってのアブのような煙たがられる存在のこと」というソクラテスの言葉を引き合いに出し、いまこういう炎上発言をするアガンベンは本物の哲学者と言っていいだろうということでした。傾聴に値します。

感染を広げないことはいま何よりも重要かもしれない。でも、「それだけが重要」になってはいけないと強く思います。

疫学的なものの見方だけがすべてではない、というのはいま構想中の小説にも活かせそうです。感謝。








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