聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

評論

『人はなぜ不倫をするのか』(学校化するニッポン)

亀市早苗さんというフリーライターの著した『人はなぜ不倫をするのか』を読みました。

去年のベッキーや乙武君をはじめ不倫だけで叩かれまくる人を見て違和感を覚えた著者がさまざまな学者たちに「人はなぜ不倫をするのか」を問うたインタビュー集です。


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画像の帯にもあるように、学者たちは誰一人不倫を否定しなかったんですね。

自分の遺伝子を少しでも多く残すためには一夫一婦制がそぐわないという生物学者もいれば、不倫は結婚していることが前提だけれど、結婚という「生涯この人としかセックスしません」という誓いをそもそもなぜしてしまうのか理解できないというフェミニストもいれば、恋愛なんてたかだか脳のバグにすぎないと身も蓋もないことを放言してしまう脳科学者もいます。

一番興味深かったのは、宗教学者の島田裕巳さんの意見ですね。

島田さんによると、

「敗戦までは姦通罪というのがあって法律で不倫は禁じられていた。それは不倫した女性だけを罰するもので妻子ある男性が不倫しても罪には問われなかった。その根底には家父長制があり、そのさらに根底には仏教、キリスト教、儒教の姦淫を禁じる宗教があった」

「しかし、いまの日本に宗教はない。宗教がないのに社会をまとめるには人の動きを止める必要があった。日本では副業をもつことを禁じる企業が多く、これは世界的に見てまれなこと。周りが納得する理由がないと転職してはいけないという暗黙の了解もある。それらは『神』ではなく『会社』に忠誠心をもたせようとしてできた戦後の新しい『世間体』だ」

「そうやって社会が流動的になるのを嫌う社会ができあがり、自由に動き回る人を『信用できない』と自然に思わされるようになったのがいまの日本人だ」

ここで著者によるまとめ(終章)を援用すると、

「古代日本では一夫多妻制だったうえに、招婿婚・妻問婚という社会制度だった。夫がいつも本妻の家にいるわけではなかった。夫が他の女性の家に行っているとき、別の男性がその女性の家に来ることもあったり、男性が恋人の家に行くとすでに別の男性が来ていることもあった」

という、かなり流動的な社会だったらしいのです。

じゃあ、なぜ現代の日本は流動的な社会を嫌うようになってしまったのか。

ここでまた島田裕巳さんの意見に戻ると、

「その理由に、学校の掃除があると思う」という意外な答えが!





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「日本では宗教が廃れ、共同体(世間体)の力も弱くなった。その結果としてすべてを学校に集約せねばならなくなったのでしょう。学校では軍隊のごとく徹底的に集団行動を取らされる。その象徴が掃除です。さぼれば叱られる。幼い頃から『みんなのために』を強要されるんです」

「いまの日本は社会全体が『学校化』していると感じます。少しでも集団のルールから外れると叩かれる。宗教や共同体の規範がなくなったがゆえに、個人の好悪の感情や妬みやっかみだけで非難される恐ろしい社会です」

うーん、これを卓見と言わずして何といいましょうぞ。




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なるほど、彼らが(この二人だけじゃないけど)非難されていた劇場の名は、あの懐かしき「終わりの会」だったんだ。

いまテレビでやってるワイドショーにしてもツイッターなどでの非難合戦もすべては小学校の「終わりの会」なんだと気づく。

ちゃんと自分の頭で考えて非難していたわけでもされていたわけでもなかった。ただ「それがルールだから」という理由だけで非難合戦が行われていた。

なるほど、いまの日本は学校なのか。

そう考えるといろんなことのつじつまが合ってきて恐ろしくなってきたので今日はこのへんで。


 

日本語でネットを使えるのはノルウェー系アメリカ人のおかげ

水村美苗『日本語が亡びるとき ~英語の世紀の中で~』(ちくま文庫)読了。


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2008年に単行本が出たときにも読みましたが、文庫化にあたって大幅増補という惹句に惹かれて読み直しました。

インターネットの登場によって英語が「普遍語」の地位を確立し、日本人が学問や文学をやるには、英語で書かれたものを読み、しかも英語で書かなければならない時代になりつつある。というのが主旨。

そして、叡智を求める人が英語で読み書きするうちに日本語は痩せ細っていく。日本語で書かれた文学は読むに堪えないものになっていく。実際、いま書かれている小説のほとんどは読むに堪えないと。

しかも、その読むに堪えない小説ばかりを載せた国語教科書のあまりの薄っぺらさにも著者は牙を剥いていて、そうなのか、私が子どものころは漱石とか小林秀雄とか石川啄木とかその他もろもろ著者が「奇跡」と呼んではばからない「日本近代文学」のあれやこれやが載っていたんですが、いまは2割ほどなんですって。それはよくない。(とはいえ、私が子どものころでも国語の教科書に載っている文学作品というのはどれもこれも抜粋だった。外国では本を丸ごと一冊読むらしい。そのほうがいい)

著者がもっと毒づくのは、「日本人にとって日本語を普通に漢字・平仮名・片仮名の3種類混じった言葉で書き、読むことが自明のことであること」に対して。

明治維新から戦後まで、英語を公用語にしようとか、話し言葉はそのままで書くときはローマ字でとか、そういう日本語排斥論が絶えず、漢字なんか使っていたら文明開化が遅れるとか、民主主義が根付かないとかの議論があったそうで、この本を読むかぎりでは、漢字・平仮名・片仮名まじり文で日本語を綴れるいまの状況はほとんど偶然に偶然が重なった奇跡に近いことだということ。

ほんのちょっとした神様の匙加減で、この文章もローマ字で書かなければならなかったかもしれないのです。

いや、そもそも仮に英語公用語化運動とかローマ字運動とかがなくても、「日本語は”読まれるべき言葉”である」という認識をもつ人がいなければ、こうやってネットに文章を書くときはローマ字を使う、あるいは英語で書かなければいけない可能性があったというから恐ろしい。

最近、たまたまちょっとした手元不如意のためにウィンドウズ・アップデートができなくなるという困ったことになって検索したらば、マイクロソフト社のページが出てきて、そこに、日本語はこちら、英語はこちら、フランス語はこちら、中国語は、朝鮮語は、ベトナム語は、ドイツ語は、スペイン語は、ポルトガル語は、アラビア語は、ペルシャ語は…と様々な言語でヘルプ画面が読めるようになっていて、「なるほど、世界中の人に対してフォロー体制ができてるのね」と呑気に思ったんですけど、よく考えれば、上から下まで全部スクロールするのに数秒で事足りるほどの言語で「世界中」をフォローできるわけがない。世界にはインドみたいに一国の中で何百、何千という言語をもつ国があったりするわけで、インドでも高学歴の人ならみんな英語ができるんだろうけど、そうじゃない人は自分たちの「現地語」ではネットを使えないということを初めて知ったのでした。

そして、日本語ソフトと端末さえあれば世界のどこにいてもネットに接続できるのが日本人にとっては当たり前のことになっているけれど、ではその日本語ソフトはいったい誰が開発したのか、ということには誰もかれもが無頓着です。

私はこの本の末尾50ページに及ぶ「文庫に寄せて」というあとがきを読んで初めて知りました。

何と漢字・平仮名・片仮名、つまり日本語の文字をアルファベットと同じような普通の文字として認識するソフトを開発したのはノルウェー系アメリカ人らしいのです。

この人がどういう出自、思想の持ち主かは明らかにされてませんが、この本の主旨から推せば、「日本語が亡びてはいけない」と思っている人なのでしょう。「日本語は読まれるべき言葉だ」と信じている人。

それが外国人だったという事実に驚愕しました。彼がいなければ私たちはこうやって日本語で文章を書いたり、日本語で検索して買い物したり、という当たり前と思っていることができなかったのです。この事実にもっと日本人は驚かねばなりません。

誰もが日本語は未来永劫存在しているだろうという楽天的な考えに浸っていることに著者は苛立ちを感じているのですね。私もちょっと恥ずかしくなりました。こうやって日本語で書くことが特権的なことだということを少しも考えたことがありませんでした。

一年の最後のブログが「言葉」に関するものになったという事実を偶然と思ってはいけないでしょう。これは神様のお計らい。

感謝と畏敬の念をもって来年からも精進していきたいと思います。


橘玲『言ってはいけない』と表現の自由について

もう半年ほど近く前に出た本ですが、まだまだ話題の橘玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮社新書)を読みました。

そして、大いなる違和感を覚えずにはいられませんでした。


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この画像にもあるように、だいたい「遺伝」で人生が決まってしまうという「残酷な真実」が語られます。

何でもかんでも遺伝子が決めていることにするというのは、20年ちょっと前の『利己的な遺伝子』を読んだときに感じた違和感と同じで、いや、確かに遺伝子レベルではそうかもしれないけれど、何十兆か何百兆か知りませんが遺伝子の総体として一人の人間という個体があるわけで、もし人体が「部分の総和が全体を超える」ものであるならば、遺伝子の総体としての人間は、遺伝子が考えている以上のことをするんじゃないか。いや絶対そうでしょ、みたいな。

しかしですね、私がこの本を読んで覚えた違和感というのはそういう本文に書いてあることよりも、「あとがき」を読んだときに感じたもののほうがずっと大きいんです。

著者の橘玲さんは、去年の初めにフランスの新聞社シャルリー・エブドがムハンマドの風刺画を載せたことでテロリストから襲撃されたことが本書執筆の大きな動因になったと語っています。

「不愉快なことを言うのがけしからんという風潮に一石を投じたかった。人が不愉快に感じることほど真実を含んでいることが多いし、そこを認めずに表現の自由も言論の自由もありはしない」

みたいな言葉でした。うろ覚えですが。

確かに「人が不愉快に感じることほど真実を含んでいることが多い」という箇所には大いに賛同します。『言っててはいけない』に書かれていることが本当かどうかは別にして、一般論として少しも間違っていないと思います。しかしながら橘氏は「本書に書かれていることにはすべてエビデンスがある」とおっしゃっていますが、そのエビデンスがすべて文献というのはどうなんでしょうか。それってエビデンスなの? ただの伝聞情報では???

それはさておき、シャルリー・エブド事件は表現の自由・言論の自由を脅かすものとして議論が沸騰しました。私はその頃はまだまだ脚本家になる夢を捨てていない「表現の自由は死守すべきと信じている人間」でしたが、シャルリー・エブドには何の同情も感じませんでした。むしろ教祖を貶められたテロリストたちのほうに同情してました。あえてはっきり言いますが、テロリストがシャルリー・エブド社を襲撃したというニュースを聞いて喜びました。天誅が下された、と。

不愉快なことほど真実を含んでいる。それは大概の場合は当てはまりますが、よその宗教の開祖を貶める絵(あれは「風刺」ではありませんが。ただの「愚弄」です)などは、「不愉快」ではあっても「真実」など1ミリもないでしょう。

「他人を不愉快にする自由」など存在しません。

直近の例を出すと、アナウンサーの長谷川豊が「自業自得の透析患者を殺してしまえ」と発言して炎上した末に当の長谷川氏はいくつものレギュラー番組を降ろされました。
本人のブログを読むと、あの日記を読んで気を悪くした人たちが徒党を組み、ありもしないウソ話をでっち上げて話を盛って盛って、そのうえでスポンサーに働きかけて降板させたらしく、それが本当なら「どっちもどっちやなぁ」と思わざるをえませんが、どちらがより悪いかはともかく、この問題の発端は長谷川氏のブログであって、そこには「医者の注意を聞かずに透析が必要になった人間に健康保険が適用されるのはおかしい」と書いてありました。

私は先週の日記で「人間は必ず間違う存在なのだし、何でも真面目にきちんとできる人だけを対象にした制度設計はおかしい」と異議申し立てをしました。私は透析患者でも何でもないし家族にもいませんが、「この人は人間というものがわかっていない」というその一点において「不愉快」になりました。長谷川豊には、自分もそういう「自業自得」な状況に陥ることがあるかもしれない、という想像力が決定的に欠如しています。

シャルリー・エブドの愚弄画も同じでしょう。もしイエス・キリストを辱める愚弄画をイスラム教徒が描いて新聞に載せたらどう感じるかという想像力が欠落している。

相手を思いやることなしに「俺たちには自由がある!」と叫んでも意味がない。いや、意味がないどころか迷惑至極です。それこそ殺されても「自業自得」です。長谷川豊も同様でしょう。

と思っていたら、昨日、小松菜奈出演のあるCMが放送中止の憂き目に遭ったニュースを見て考え込んでしまいました。

クレームをつけた人たちの言い分にはまったく納得いかないけれど、彼らは「不愉快」な思いをしたんですよね。でも私は「なぜその程度が不愉快なの?」と理解できない。

不愉快というものの尺度は千差万別で人によって違います。

ここは難しい。クレーマーたちを愚者となじることは簡単ですが、この問題はもう少し時間をかけて考えてみたいと思っています。


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