聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

評論

福田恆在『人間・この劇的なるもの』(劇・死・花)



福田恆在さんの『人間・この劇的なるもの』読了。
いやはやとにかく素晴らしい読書体験でした。


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私ごときが偉大な先人の偉大な思想を論評するなんてもってのほか。

だから、この本のどういうフレーズにグッと来たか、そこだけを書き記したいと思います。(言葉通りではありません。主観的な採録ですのであしからず)


「個性などというものを容易に信用してはならない。そんなものは自分が演じたい『役割』にすぎぬ」

「死によって生は完結する。死によってしか完結しえない」

「古代の人々が祭儀に託したのは、生きながら死を経験することだったのではないか。祭儀は自らの生を燃えあがらせるためにあったのではないか」

「演劇は祭儀でなければならない。劇作家は祭祀であり、主人公もまた祭祀でなければならない」

「劇は究極において宗教的なものであった。その本質は今日もなお失われてはならぬ」

「自由ということ、そのことに間違いがあるのではないか。自由とはしょせん奴隷の思想ではないのか」

「自然は厳しい『形式』をもっている。太陽や月の運行によって私たちは生かされている。だから形式を否定する自由というものはそもそも間違っている。私たちは形式によって初めて人生全体と交合できる。初めて『生きている』と言えるのではないか」



シェイクスピア研究や自ら劇作に励むなかで、人生を演劇として見つめる独特の人生観、人間観が展開されています。

自然という「形式」の枠組みの中で生を謳歌するのが本当の人生だ、と。決して自由になってはならない。自由は個人主義の限界をあらわにするだけだ、形式こそ「全体」へと至る道である、みたいなことも書かれています。

福田恆在さんの言う「全体」とは、宗教や祭儀という言葉から察するに、おそらく「神」ということなんでしょうね。そんなワードはひとつも出てきませんが。

そして、私が一番グッと来たフレーズは、以下のもの。

「我々は博物学でも博物学者でもなく、生きた『花』を求めているはずだ」

本書でもちらっと触れられる世阿弥の『風姿花伝』の一節、

「鬼しか演じられないのはその程度の役者。花を演じられてこそ本当の役者」

を思い出しました。




山田宏一に売文家としての矜持はないのか(『ハワード・ホークス映画読本』をめぐって)

まったくもって理解に苦しむというか腹が立つというか。

山田宏一氏の『ハワード・ホークス映画読本』。

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開巻早々こうあります。

「ハワード・ホークスとは一目瞭然の映画だ。(中略)「映画」への確信にみちたホークス的な明快さ、明晰さに対しては、いかなる批評的言説も無効のように思える。そこに映画がある、それが映画なのだ、と言うしかない。そして、それだけで充分なのだ」

これって何を言ってるのかよくわかりませんよね?

いや、こう言いたい気持ちはよくわかるんですよ。私だって『リオ・ブラボー』や『赤い河』や『僕は戦争花嫁』を見たときの感動ってこういうことだったんだな、と改めて思いましたし。

でもね、それは映画ファンが口にすることであって、一冊2500円もする本で書くことではないはず。

「いかなる批評的言説も無効のように思える」って、批評家がそんなこと言っちゃってどうするの? 売文家としての矜持はないの? 

蓮實重彦との対談にしたって、

「『カサブランカ』と『脱出』を比較して、『カサブランカ』には意味や思想があるけど、『脱出』のほうは意味や思想をきれいに消してしまっている」 

と蓮實が語っていますが、これにも異論はありません。(私は『カサブランカ』も大好きですが)

いま書いてる脚本だって『カサブランカ』より『脱出』みたいな活劇を目指してますから。でも監督である友人はどうも『カサブランカ』のような映画を撮りたいらしい。そこはせめぎあいというか、お互いの色を出し合ってどう妥協点を見出すかが問題。(そうです。映画というのは「妥協の産物」なのです。監督一人で映画を作ってるんじゃないよ)

閑話休題。

問題は、意味や思想が込められた映画よりもそういうものをきれいに消し去った映画のほうが「なぜすぐれているのか」、そこを語ってもらわないと読んでるこっちは時間と金の浪費だし、そこを語ってこその「批評」じゃないの? ちゃんと批評できないから「いかなる批評的言説も無効のように思える」って言い訳してるだけに読めてしまいます。

それから、『ゴダールの探偵』で、9がひっくり返って6になるというギャグについて、

「あんなつまらないギャグをゴダールがやるわけがない、ならば、出典があるはずだ、ヒッチコックはやるまい、フォードにもなかろう、ならホークスだというのがゴダールを見る人の見方だと思う」

という蓮實の発言に対して山田さんはほぼ全面肯定していますが、これもどうなんでしょうか。

ギャグとしてつまらないのなら誰へのオマージュであろうとその時点でダメだと思うんですがね。シネフィルに向けて作られた映画も、シネフィルに向けて発言する批評家も、私はまったく好きになれません。

先日亡くなった松本俊夫監督の名著、『映像の発見』と『表現の世界』を読み直したくなってきました。


 

『人はなぜ不倫をするのか』(学校化するニッポン)

亀市早苗さんというフリーライターの著した『人はなぜ不倫をするのか』を読みました。

去年のベッキーや乙武君をはじめ不倫だけで叩かれまくる人を見て違和感を覚えた著者がさまざまな学者たちに「人はなぜ不倫をするのか」を問うたインタビュー集です。


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画像の帯にもあるように、学者たちは誰一人不倫を否定しなかったんですね。

自分の遺伝子を少しでも多く残すためには一夫一婦制がそぐわないという生物学者もいれば、不倫は結婚していることが前提だけれど、結婚という「生涯この人としかセックスしません」という誓いをそもそもなぜしてしまうのか理解できないというフェミニストもいれば、恋愛なんてたかだか脳のバグにすぎないと身も蓋もないことを放言してしまう脳科学者もいます。

一番興味深かったのは、宗教学者の島田裕巳さんの意見ですね。

島田さんによると、

「敗戦までは姦通罪というのがあって法律で不倫は禁じられていた。それは不倫した女性だけを罰するもので妻子ある男性が不倫しても罪には問われなかった。その根底には家父長制があり、そのさらに根底には仏教、キリスト教、儒教の姦淫を禁じる宗教があった」

「しかし、いまの日本に宗教はない。宗教がないのに社会をまとめるには人の動きを止める必要があった。日本では副業をもつことを禁じる企業が多く、これは世界的に見てまれなこと。周りが納得する理由がないと転職してはいけないという暗黙の了解もある。それらは『神』ではなく『会社』に忠誠心をもたせようとしてできた戦後の新しい『世間体』だ」

「そうやって社会が流動的になるのを嫌う社会ができあがり、自由に動き回る人を『信用できない』と自然に思わされるようになったのがいまの日本人だ

ここで著者によるまとめ(終章)を援用すると、

「古代日本では一夫多妻制だったうえに、招婿婚・妻問婚という社会制度だった。夫がいつも本妻の家にいるわけではなかった。夫が妻とは別の女性の家に行っているとき、別の男性がその妻の家に来ることもあったり、男性が恋人の家に行くとすでに別の男性が来ていることもあった」

という、かなり流動的な社会だったらしいのです。

じゃあ、なぜ現代の日本は流動的な社会を嫌うようになってしまったのか。

ここでまた島田裕巳さんの意見に戻ると、

「その理由に、学校の掃除があると思う」という意外な答えが!


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「日本では宗教が廃れ、共同体(世間体)の力も弱くなった。その結果としてすべてを学校に集約せねばならなくなったのでしょう。学校では軍隊のごとく徹底的に集団行動を取らされる。その象徴が掃除です。さぼれば叱られる。幼い頃から『みんなのために』を強要されるんです」

「いまの日本は社会全体が『学校化』していると感じます。少しでも集団のルールから外れると叩かれる。宗教や共同体の規範がなくなったがゆえに、個人の好悪の感情や妬みやっかみだけで非難される恐ろしい社会です」

うーん、これを卓見と言わずして何といいましょうぞ。



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なるほど、彼らが(この二人だけじゃないけど)非難されていた劇場の名は、あの懐かしき「終わりの会」だったんだ。

いまテレビでやってるワイドショーにしてもツイッターなどでの非難合戦もすべては小学校の「終わりの会」なんだと気づく。

ちゃんと自分の頭で考えて非難していたわけでもされていたわけでもなかった。ただ「それがルールだから」という理由だけで非難合戦が行われていた。

なるほど、いまの日本は学校なのか。

そう考えるといろんなことのつじつまが合ってきて恐ろしくなってきたので今日はこのへんで。


 

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