評論

2020年03月13日

ちょっと前に父親(とあの男を呼ぶことは憚られるけれども)と縁を切った。

なぜかはここには書かない。書いてもわかってもらえない。わかるのは家族だけだろう。あの男がどれだけ幼稚でひどい男かは母親と兄二人ならわかるのかもしれない。

実際、「これまでの人生で、馬鹿にされ、罵倒され、私物のように扱われ、心をずたずたに引き裂かれてきた怨念がついに臨界点に達してしまった」とメールで言ったけれど、それについて何も返事がなかった。「わかった」からだろう。

そして母親と次兄からは年賀状が来た。

「正月は帰ってこないと聞いたから年賀状を出しました。淋しいから月に一度は帰ってきてください。いろいろ腹も立つだろうけど」
「たまには実家の様子を見に行ってほしい」

と綴られていた。

というわけでいまでもたまには帰っているのだけれど、正直いい気持ちがしない。あの男と同じ屋根の下にいるというだけで反吐が出そうになる。

そういえば、私の病気は父親が原因だそうだ。いまの主治医と出逢ってもう30年になるけれども、かかり始めてから10年くらいたったときに「この病気は治るんでしょうか」と訊いたら「少なくともあなたのお父さんが死なないかぎり治らない」と言われた。

あの男がすべての元凶である。あの男のせいでこんな厄介な体になってしまった。

恨んだ。縁を切ったら少しはスッキリすると思った。

が、心にモヤモヤを抱えたまま数か月を過ごしている。先月は体調をよく崩し仕事も休みがちだった。主治医に「父親のことが心にわだかまっているからでしょうか」と訊いたが「それはない」ときっぱり言い切った。あの男が原因ではないらしい。あの主治医が言うなら本当だろう。

さて、「父親がすべての元凶である」「父親のせいで自分はこんな人間になってしまった」というのは「子ども」の言い分であり、そう言い続けるかぎり「父」から逃れることは絶対にできない、という人が現れた。

尊敬してやまない内田樹先生である。

10年前に読んだ『邪悪なものの鎮め方』を再読し始めたら、いきなり最初の文章が「父権制イデオロギー」についてであった。


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村上春樹の『1Q84』について書かれた文章なのであるが、ちょうどこの本が出たのは村上春樹がエルサレム賞を受賞して、あの有名な「壁と卵」のスピーチをした頃で、システムとしての「壁」にぶつけてつぶされる私たちを「卵」と喩えた秀逸なスピーチであった。

しかしながら、システムとしての「壁」を作り上げるのは「卵」である私たちのほうだというのが内田樹先生の卓見である。

村上春樹は初期作品を3冊ほどしか読んでないのでまったくわからないが、内田先生によると春樹作品に「父」が登場することは絶無なのだそう。

「父」とは生物学的な意味のそれではなく、「世界の意味の担保者」であり、世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことだそうな。つまり、神ですね。

そして、村上春樹の「壁」と内田先生の「父」は同じものを意味する。

何かがうまくいかないとき、自分が悲劇の主人公のような気がするとき、私たちは「父」を要請する。その父の責任にして自分を憐れむ。神を恨んだヨブみたいな感じだろうか。

「それは弱い人間にとってはある種の『救い』である」と内田先生は言う。

しかし、である。

「父」を召喚することで救いが得られても、そのような自己都合で「父」を呼び出すうちに「父=システム」はゆっくりと肥大化し、偏在化し、全知全能のものになり、ついにはその人を細部に至るまで支配し始める。

だから、

「私がいまあるような人間になったことについては誰にも責任を求めない」

という言葉を発見した者、その言葉を遂行した者にだけ父の支配から逃れられるチャンスが訪れる、と内田先生は言う。

邪悪なあの男によって苦しめられてきた我が人生を、決してあの男のせいにしてはいけないようである。

何を経験してもすべてを「父」との関わりに基づいて説明してしまう。そのような言葉遣いをしているかぎり「子ども」は決して「父」から逃れることができない、と。

縁を切るという宣言はその一歩かもしれない。でも、本当に最初の一歩なのだ。あの男の支配から逃れるためには……という言葉遣いをしてもいけないのであった。そのような言葉遣いがすでに「父」を要請しているから。このような蜘蛛の糸=「父権制イデオロギー」から逃れるのは本当に難しいと内田先生も言っている。

でもやっぱり縁を切ったのは最初の一歩なのだ。縁を切るときに「父」を召喚してしまったけれど、次に実家に帰るときはそのようなことを考えないようにしよう。

いや、「父」を要請することを考えまいとすることがすでに父権制イデオロギーの虜なのだ。難しい。

そういえば、いまの主治医との最初の出逢いは「脳波」であった。脳波を取るとき、30本ほどの電極を後頭部に突き刺し、ゆっくり枕に頭をつけると目の上にタオルをかけられ「いまから30分間何も考えないでください」と言われた。何も考えるまいと思うことがすでに何かを考えているわけだからめちゃ難しかったが、あの時点ですでに「治療」は始まっていたのかもしれない。

というか、「あなたのお父さんが死なないかぎり治らない」という「父の死」というのは生物学的な意味の「死」ではなく、私が「父」を要請する必要なく自分の人生を語れるようになったとき、という意味だったのかもしれない。

実際、「父親と縁を切りました」と言ったときの主治医の態度は「それがどうした」という感じであった。そして父親に関するあれこれのストレスは体調不良とは一切関係がないという。

もしかすると、私は初めて主治医の言いたいことを理解しえたのかもしれない。30年かかった。

「私がいまあるような人間になったことについては誰にも責任を求めない」

この境地に達するのに、あとどのくらいの年月がかかるのか。できればお父さんの生物学的な死の前に達したいものである。

とりあえず、「親父が死んでも葬式には絶対出ない」などと考えるのはよそう。

うん、まだ間に合う。


関連記事
ドラマ『父の詫び状』(父親になりたい)


邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)
内田 樹
文藝春秋
2014-01-04






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2019年11月02日

ドイツ文学者・池内紀さんの『ヒトラーの時代』を読みました。教えられるところ多でした。


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テーマは、サブタイトルにもあるように「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」。

ヒトラーは「民主的に選ばれた政治家」であることはよく言われます。民主政と独裁政は親和性が高いとは内田樹先生もよく言うこと。

ただ、ナチスが取った戦略は大事なことはすべて国民投票で信を問う。のだけど、反対票を投じられないような仕組みになっているとか、ある日突然共産主義思想が違法になり共産党の議席が全部なくなるとか、ほとんどめちゃくちゃ。でも宣伝相ゲッベルスのやり口が巧みでナチス支持の輪を広げていく。

とはいえ、ナチスのやり方はおかしいと思っていたドイツ国民も多くいて、ある地方ではナチスがいくら勢力を伸ばしても中央党というリベラルな政党が常に一定数の票を集めていた、というなかなか驚くべき記述もありました。

しかし著者の本当に言いたいことは、

「なぜこんな凡庸きわまりない男が史上最悪の独裁者になれたのか。とんでもない手法を取ったとはいえ、多数派でありさえすれば安心できる大衆にこそ真の原因がある」

ということでしょう。

続けてこんなマンガを読みました。橋本ナオキという人の『会社員でぶどり』


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社畜を自認する鶏のでぶどりと、後輩で意識高い系のヒヨコのひよ君の物語。

でぶどりは意味のない会議や、とにかく会社にいることが大事だという部長に心の中で文句を言いながらも毎日終電まで残業し、俺はほんと社畜だなぁなどと自嘲しています。

それに対してひよ君は、さっさと仕事を終わらせて「もう帰るのか」という部長の命令を無視して毎日定時で帰ります。そして先輩のでぶどりに、

「被害者ヅラしてるだけじゃ何も変わりませんよ。いくら命令されたとはいえ残業したのは先輩の意思でしょ。いやな会社でこの先もずっと疲弊するつもりですか。僕は辞めますよ」

といってほんとに辞めてしまう。著者も東京のIT会社を1年半ほどで辞めたそうですが、でぶどりとひよ君は著者自身の心の中の葛藤だったのでしょう。辞めたいけど辞めていいのかと悩みながらも、まず辞めないことには前に進めないというもう一人の自分。

『会社員でぶどり』の一番のキーワードはひよ君が何度も言う「被害者ヅラ」

悪いのは会社である。何かあったら会社のせいにすればいい。

と思って従っているうちに自分を社畜だと笑う人間(鳥?)になってしまった。そうなる前に辞めた著者は偉いと思います。ひよ君のロジックには一点の曇りもないし。


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だから、ヒトラーをあそこまでのさばらせてしまったのは、会社が悪いと言いながら従っていたでぶどりのような大衆なのでしょう。加えて、でぶどりは「会社を辞めたら周りが何と言うか。親に何と言われるか」と自分の気持ちよりどう思われるかを優先している。それは多数派でいたいということ。少数派であることをおそれず自らの意思を貫いたひよ君はやはり偉い。


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この男をこれ以上のさばらせないためにも、ひよ君のように勇気ある行動を取らねばならない。実際にやっているのが山本太郎ですね。私は一票を投じて少額の寄付をしただけ。他に何かできることはないか。

そういえば、最近、瀬戸内寂聴の『97歳の人生相談』という本も読んだんですが、寂聴さんが何度も言うのが、

「青春は恋と革命です」

というフレーズ。世の中の不正と闘って変えていかねばというメッセージ。

大いに知恵と勇気をもらった最近の読書でした。(『でぶどり』はすでに第2巻が出ているらしいので、早く読みたい)



会社員でぶどり
橋本 ナオキ
産業編集センター
2019-03-13





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2019年08月22日

いま、文芸評論家の三浦雅士さんが経済学者・岩井克人さんに聞き書きした『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。




まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白い知見にあふれていて夢中で読んでいます。


奴隷制度は必然だった⁉
この本で一番面白いのは「会社はモノだけれど同時に法人という形でヒトでもあるように、人間もまたヒトであり同時にモノなのだ」というところ。

「人間が生物学的にヒトであるのは自明の理だけれども、社会を営む存在としてのヒトはまず何よりも『法人』という概念によって獲得されたのではないか。つまり、法人である以上は会社と同じくモノでもある。だから奴隷制度は必然だった」

うーん、これはめちゃくちゃ面白い!


ホリエモンの誤算
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ホリエモンのニッポン放送の株買い占めによる乗っ取りが失敗に終わったことが例に出され、次のようなことが語られます。

「堀江さんが『カネで買えないモノはない』といったのは100%正しい。でも、ヒトとしての会社はカネでは買えない」と。

なるほど、あの騒動の本質はそういうことだったのか。


モノとして扱われる体験
今日、病院へ行ってきました。そこでこの本で言われていること「人間はヒトであり同時にモノでもある」を体験したんですね。

精神科なので、最初は↓こんな感じです。

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「人間対人間」といったかんじですね。私の話をよく聞いてくれる。

で、瞳孔の収縮を見ます。いい画像がなかったので、膝関節を見る医者に替えます。

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これは人間をモノとして扱っていますね。このように、人間は相手の人間をヒトとして扱ったりモノとして扱ったりをその場の状況に応じて使い分けていることに初めて気づいたわけです。

よく、ドラマなんかで女が男に「私、あなたの物じゃないから!」とかいう場面がありますが、ああいうふうに、人間をモノとして扱うのは普通よくないこととされています。しかしながら、誰だって人間をモノとして扱ったり扱われたりしている、ということにいまさらながら気づかされた次第。


映画というカウンターカルチャー
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映画も人間をモノとして扱いますよね。特にアクション映画がそうだし、次がポルノ映画かな。いや、どんな映画だって人間の肉体を描いているのだから、すべての映画が人間をモノとして扱っている。

黒沢清監督は、

「愛してると一言つぶやくより、一発ぶん殴るほうが映画においては決定的なのだ」

と言っています。

映画は、人間のヒトとしての心理も描くけれど、同時にモノとして物理的な捉え方もする。映画黎明期のサイレント映画ってどれも役者が不気味で怪奇的じゃないですか。あれは「モノとしての人間」が描かれているからでしょう。

資本主義が花開いた19世紀は近代文学が花開いた時代でもありました。そこでは「個人としての人間」つまり「人間精神」が尊ばれていた。「ヒトとしての人間」ですね。

その19世紀末にモノとしての人間を扱う「映画」というメディアが生まれたのは非常に示唆的ではないでしょうか。

ホリエモンは会社をモノとしてのみ見たために失敗しましたが、近代精神は人間をヒトとしてのみ見ようとした。それもまた片手落ちである。そこに映画というカウンターカルチャーが「モノとしての人間」を復活させた。

「歴史」というものの壮大さを感じるのはこういうときです。岩井さんと三浦さんはしきりと「最終的には文学の問題だ」と言っていますが、私に言わせれば「すべては映画の問題だ」

そういえば、奴隷制度が廃止されたのも19世紀でした。19世紀は「ヒトとしての人間」と「モノとしての人間」のせめぎあいだったのかもしれません。





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