聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

評論

内田樹はサイコパス!?(中野信子『サイコパス』より)

『ホンマでっか⁉ TV』で一躍有名になった中野信子先生(しかしさんまってほんとアゲチンですね)の『サイコパス』(文春新書)を読んでいたら、

織田信長と毛沢東はサイコパス。これはよくわかる。
ケネディとクリントンもサイコパス。これももしかすると…と思う。
マザー・テレサもサイコパス。


ウッソーーーーーーー!!!




しかしこの本には本当にそう書いてあるのですよ。マザー・テレサは慈愛に満ちた100年に1人の聖人ですが、身近なスタッフにはものすごく冷淡だったそうです。

本書ではサイコパスの特徴がたくさん挙げられていましたが、他人への共感が薄い、不安を感じないというのが特に普通の人より顕著だそうです。でも他人への共感が薄ければ困っている人を助けられない気もしますが、それはともかく。

サイコパスっていままでの印象だと「連続殺人犯」とか極端な事件を起こす一握りの人という感じでしたが、この本によると「100人に1人」いるんだとか。それほど珍しいものではなく、何と大企業の経営者や弁護士に特に多いそうです。

リスクを負って大きな決断を下すにはサイコパスの不安の欠如という気質が大いに効力を発揮するそうですし、大嘘を堂々とついて聞く者の関心を引くという気質は弁護士やマスコミ関係の仕事に向いているとか。あとは警察官とかスパイとかにもサイコパスは数多くいるそうです。

警察官?

ここで尊敬してやまないこの人が頭に浮かびました。



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思想家の内田樹先生。

この方はいろんな本で「自分ほど非情な人間はいない」とおっしゃっています。そして「警察官や官僚など権力側の仕事は自分にとても向いているからものすごい力を発揮したと思う。その代わり国民に多大な迷惑がかかっていたと思うけど」とも。

会ったことないからあくまで本に書いてあることしか手がかりにできませんが、「講演に行くときは何も準備せずその場の空気を吸って何となく語り始める」というのは「不安の欠如」の顕れじゃないでしょうか。

『邪悪なものの鎮め方』とか『呪いの時代』なんて本を書いていますが、それってご自身が邪悪だからでは? いや、でも本当に「自分ほど邪悪な人間はいない」って書いてましたよ!
権力側の職につかなかったのは、ご自身のサイコパス気質に気がついて避けたのかも。武道や能をやっているのも、自分の邪悪さを少しでも鎮めるためなんじゃないかしら。

ん? これこそがあの師匠の多田宏先生から教わったとされる「先の先」なんじゃないですかね!? 自分の邪悪さによって世間が迷惑をこうむるのを未然に防ぐという。
いや、これはもう思いつきや冗談ではなく確信に近くなってきました。

何しろあのマザー・テレサですらサイコパスの疑い濃厚なんですから、内田樹先生がサイコパスでも少しも驚きません。それどころか、いつも不安に駆られ取り越し苦労ばかりしている私は爪の垢を煎じて飲ませてもらいたいとさえ思いますね。「勝ち組サイコパス」なわけですから。

いや、決して内田樹先生を貶めようとしてこんなこと書いてるんじゃないんですよ。『サイコパス』を読んでもらえばわかりますが、「サイコパスがいるからこそ人類は進化/深化してきた」というのが趣意ですから。

内田樹バンザイ! サイコパス万歳!!





『うしろめたさの人類学』(「うしろめたさ」と「負い目」の狭間で)

うちの両親は、孫(つまり私の甥っ子)たちに誕生日やクリスマスに現金をプレゼントしています。
お年玉ならいいけどプレゼントを現金でなんて絶対ダメだ、現金がほしいと言ったら怒らなきゃ、といくら私が言っても現金をねだる孫かわいさにいつも現金を贈っています。




松村圭一郎というエチオピアでフィールドワークを重ねた文化人類学者による『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で説かれるのは「贈与」こそが貨幣による商品交換に代わってこの世界を変える契機になりうる、ということです。

「うしろめたさ」とは何かというと、エチオピアでは乞食がぜんぜん珍しくなく、乞食に普通にお金を分け与えることが普通であると。
でも日本では物乞いに現金を与えることを良しとしません。昔イタリアに行ったとき物乞いに少額のお金をあげたんですけど、それを帰国してから言ったらいろんな人から「何でそんなことをしたのか」と非難されました。でも国境なき医師団に寄付しているというと異口同音に「偉い」という。おかしいのでは? 困っている人のためにお金を出す、という意味においては同じなんですけどね。間接的ならよくて直接はよくないというのは理解に苦しむ。

という疑問が本書を読んで氷解しました。

つまり、乞食と自分とでは圧倒的に自分のほうが豊かである。豊かな自分が直接現金を与えると、彼我の格差が顕現してそこに「うしろめたさ」を感じてしまうのだ、と。

仮に、その乞食に家まで荷物をもってもらったとして、その対価としてお金をあげるとなると、これはもう労働力として対価を支払っている、つまり貨幣と商品との交換だから少しも「うしろめたさ」を感じることがない。

寄附金には「対価」という性質はないですが、それはいまは措くとして、現代ニッポンはすべてを貨幣と商品との交換として捉える、つまり「市場」の性格が大きい。それゆえに閉塞感を感じる人が多いのではないか。

著者はまたこうも言います。
社会とは動的なもので、二人の人間の間である「行為」がなされるから「関係」が生まれるのではなく、「関係」という現実が互いの行為によって構築されていくのだ、と。

与える。受け止める。そこに「関係」が生まれる。
蓮實重彦も「映画の中である人物が何かを投げ、それが受け止められるとき、二人の間に親愛の情が生まれる」と言ってましたっけ。蓮實はホークスの『脱出』におけるライターを例に出していましたが、私がこの言葉を読んでいつも想起するのはジャッキー・チェンの『龍拳』。恨み骨髄だったはずの男が実はそれほど悪い男ではなく本当に悪い奴が別にいると悟ったジャッキーに、その男から松葉杖が投げられる。それをしかと受け止めたジャッキーが大逆転勝利を収め、二人は抱き合うという胸のすくラスト。

閑話休題。
いまの日本では「市場」ばかりが幅を利かせていて、だから貨幣と商品との交換だけの関係しかない。

それを克服するには「贈与」することが大事だと。与える。受け止める。そうやって人間と人間の関係を構築していくこと。そうすれば国家と市場経済が一体化して動きが鈍った社会に「スキマ」を作ることができる。この「スキマ」という言葉が「贈与」と並んでこの本のキーワードのようです。交換だけでなくそこに贈与をもちこむことでスキマを作る。それは社会を動かすということ。もともと動的な社会の動きを取り戻すということ。

という著者の主張に一も二もなく賛成なのだけれど、はたしてこれがいまの世の中に有効なのかと考えると途方に暮れてしまうのです。

冒頭に記したとおり、プレゼントさえ現金という形で贈られることがあり、それを当然だと思って育った人間が確実にいます。彼らはもしかすると恋人にプレゼントを渡すとき、将来自分の子どもにプレゼントを与えるときに現金を与えてしまうのではないか、という危惧をもっていました。でもいまはその危惧がもっと大きくなり、与えられる側がプレゼントとして渡された現金を喜んで受け取ってしまうのではないか。つまり、それはおかしいと訴える私のような人間が少数派になりつつあるのではないか、という危惧に変わってきつつあります。

そもそも「贈与」がこれからの社会にとって大事になってくるという主張は、内田樹先生や柄谷行人さんなど私の好きな思想家がすでに言っていることです。
それに、出版元のミシマ社を立ち上げた三島邦弘さんって確か内田樹先生の本の編集者だった人ですよね。
だから、この本を読む人ってもともと「贈与が大事だ」「市場価値だけがすべてじゃない」とわかっている人たちなんですよね。

ツイッターをやっていていつも思うのは、似た考え方の人ばかりフォローしているから真逆の考え方をしている人たち(例えばネトウヨとか)のツイートを読むことがないのです。裏を返せばネトウヨたちは私や私がフォローしているアンチ安倍のツイートを読むことがない。

本来、このような本は、現金をプレゼントとして贈ってもいいと考えるような人たち、「それって何の役に立つんですか?」とすぐ訊くような人たち、金銭に換えられないものは価値がないと信じ込んでいる人たちにこそ読まれないといけないと思うんですが、それは難しい。

著者は「だから少しでも与える側の『うしろめたさ』を受け止める側の『負い目』に転換しない工夫が必要だ」というのですが、うーん、具体的にどうしたらいいのかよくわかりません。

最近は落とした物を拾って渡すと怒る人がいますよね。あれって「負い目」を感じているからなんですね。なるほど。「うしろめたさ」を感じるから乞食にお金を与えない。逆に他人に何かしてもらうと「負い目」を感じてしまってお礼を言うどころか怒る。

しかし、大事なのは「与え続ける」ことなのでしょう。わからないと思考停止してしまってはいけない。大事なのは「動き続けること」。社会は常に動いているのだから身も心も動き続けねば。与え続けねば。それがもしかすると内田樹先生の言う「おせっかい」なのかもしれませんね。




どーかしてるぜ!! 「数値化信仰」の現代ニッポン



内田樹先生の『日本の覚醒のために』という講演集を読みました。


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相変わらずの内田節炸裂ですが、他の本で読んだことばかりだったので読み物としてそんなに面白いものではなかったです。

ただ、ひとつ新しくなるほどと思ったのは、「いまの日本は数値しか価値基準がなくなってしまった」という箇所で、その好個の例として「国会での審議時間」を挙げてらっしゃいました。

「今回成立した法案では〇時間の審議しかなされなかった。消費税導入のときは△△時間、他の法案では☓☓時間もあったのに、という批判が成立してしまうことに危機を感じます。国会での審議が十分かどうかをただ何時間という数値に置換できるという考え方には同意できません」

という言い分で、なるほど、確かにそうだな、と思います。


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おととい、バルサからパリ・サンジェルマンへの移籍が決まったネイマールに関しても、移籍金がこれまでの最高額の2倍以上だとか、妥当な金額かばかりが議論されています。

過去の移籍金トップ10なる記事もあって、移籍金額だけで序列をつけている。そんなことにどれほどの意味があるのか私にはさっぱりわかりません。

金額のほかに、この移籍劇には「10番」をめぐる思惑も背景にあるんですよね。バルサの10番はメッシだから少なくとも彼が引退するまで10番を身に纏うことは不可能。でPSGと契約して念願の10番を手に入れたと。
サッカー選手にとって10番は特別な番号ですけど、今季から新しくレアルの10番に選ばれたモドリッチがいみじくも言っています。「背番号がプレーするわけではない」。
でもネイマールはあくまでも10番という数字にこだわってしまったのですね。そしておそらくバルサ時代の2倍と言われる年俸にも。



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いま働いているコールセンターでも、評価の対象はもっぱら「通話時間」と「後処理時間」そして「保留時間」のみ。

つまり、すべて短ければいい、そして「取った件数」が多ければいい。

しかし、なかには独り暮らしで話し相手がおらず、とにかく話を聞いてほしくてたまらないお婆さんもいれば、情理を尽くして自分の言うことをわかってもらいたい、というお客さんもいます。

そういう人の話に耳を傾けたら通話時間は長くなるし、当然取る件数は減ります。

じゃあ、「聞くべき情報は聞き取りましたので」と電話を切ってもいいの? 違うでしょ。お客さんがどれぐらい満足したか、数値に置換できないことは「なかったこと」にしてしまうなんて、どーかしてるぜ! としか思えません。


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別にこの事件だけじゃないですが、障碍者を「役に立たないから」という理由で迫害しようとする人たちの「役に立つ」という概念はおそらく「数値化できる」ということなのでしょうね。

健常者よりも仕事の「スピード」が遅い。
稼ぐ「お金」が少ない。
そのくせ「医療費」がかかるうえに「自己負担率」は低い。
そのうえ、電車やバスが「無料」になるのは許せない。

数値化できる、ということは普遍化できるということで、先日、クローズアップ現代+で森達也監督が言ってましたが、「どんな事件にも特殊性と普遍性がある」わけですが、森さんは世間ではこの事件の特殊性にばかり目が行っているが普遍性にも目を向けようよ、という主旨の発言でした。

しかし、障碍者を「数値化」して差別しようとする人たちは、決して一人一人の「特殊性」を見ていない、ということでもあると思う。

それは、お客さん一人一人の特殊性をまったく見ずに、一週間でその人が受けた電話の本数、通話時間の総和から平均値を割り出して、それだけを評価の対象にするコールセンターと何も違いはありません。

相模原障碍者大量虐殺事件は、そういうところにも根っこがある気がします。

仄聞するところによると、最近は料理のレシピで「食塩を適量入れる」とか「砂糖少々」などと表現するとクレームがつくらしいです。大さじ一杯、小さじ一杯、5mlとか「数値」で説明してもらわないと料理できないんですって。

まさに「どーかしてるぜ!」な世の中ですな。




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