聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

主義・主張

伊達マスクは整形よりたちが悪いことについて

精神科医・春日武彦の名著『顔面考』はお読みになったことありますか?


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これから花粉症患者には厄介な季節が到来しますが、昔はマスクをしてるだけで電車の自分の両横だけ空席なんてことがありました。それぐらい「マスクをしてる奴は怪しい」と思われたのに、最近は「伊達マスク」なるものがあるというから時代は変わったものです。

目だけ見せて鼻から下を隠すとかわいく見えるとかで大流行しているみたいですが、自分の顔は隠して他人の顔は見れるって卑怯じゃないか! と最初は思ってたんですけどね、どうも違うな、と。

いまの職場でも伊達マスクなのか風邪なのかわからないけども、マスクをしている人がたくさんいて、めちゃ気持ち悪いんですよね。その気持ち悪さの正体は何なんだろうと考えていて、昨日やっと思い至りました。

『顔面考』には次のような記述というか、他の文献からの引用があります。めちゃくちゃ難しい文章のうえにうろ覚えなので(手元に本がない)正確ではない可能性がありますが、だいたい次のような意味です。

「顔というのは自分の鏡である。他人の顔を見たときその人がどういう表情をするかで自分がどう思われているか、つまり社会の中の自分像がわかる。つまり顔とはそれ自体がコミュニケーションツールなのである」

だから、風邪や花粉症でもないのにマスクで顔を隠している人は、他者とのコミュニケーションを自分から遮断しているわけですね。

なるほど、あのような少しもおしゃれでないファッションが流行しているのはそういうわけだったのか、だからあんなに気持ち悪かったのかとやっと腑に落ちました。いかにも現代ニッポン的。

整形疑惑なんて言葉があります。「誰それは整形している」というそれだけに特化したブログやツイッターアカウントを見たことありますが、整形って悪徳以外の何物でもないんですね。

でも、伊達マスクはそれ以上の悪徳だと思います。
そんなに他人とコミュニケーション取りたくなければ家の中から出なければいい。

それじゃ生きていけない?

それならちゃんと顔を見せて生きましょう。
社会の中で生きる以上、それがルールのはずです。


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食べログ、伊達マスク、高画質ホームムービー


 

アニメ『君の名は。』をめぐるバカバカしい言説について

大ヒット街道驀進中の新海誠監督の『君の名は。』ですが、私はこういう感想を書きました。→ご都合主義アニメ『君の名は。』(現実らしさを追求する方向が違うのでは?)

映画には共感できませんでしたが、あの映画をめぐる言説にはもっと共感できません。

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談のことです。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1472797135219.html


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私はいままで『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』など数本しか見てませんが、一度も面白いと思ったことはありません。

しかし、そんなことはこの際どうでもいいことです。

飯田さんと藤田さんの対談を読むと、

「あのエンディングは新海監督が自ら過去のフィルモグラフィを否定している」

と批判しているんですね。これは大いなる問題だと思います。

かつてこんな日記を書きました。→自分自身をジャンル分けする愚かさについて

人間は絶えず変化します。生きるとは変化することです。昨日の自分と今日の自分は別人です。だから当然10年前の自分と現在の自分と10年後の自分はすべて違う人間です。それを「矛盾」とはいいません。

だから「首尾一貫した自分」を前提するのは「幻想」にすぎないのです。新海監督のフィルモグラフィが一貫してなくたって少しも問題じゃない。逆に変わらないほうがおかしい。

『怒りのデス・ロード』で変節してしまったジョージ・ミラーのように、明らかにつまらなくなったのなら批判してもいいでしょうが、あの対談の評論家たちは「面白かったけど」とか「震災から5年たったいまだからこそ描けた作品」みたいな感じである程度の価値を認めながら、過去の作品とはテイストが違うから受け入れられないという。

かつてこんな日記も書きました。→ジャンル分け主義の映画ファン=差別主義者トランプ

飯田さんと藤田さんは、『君の名は。』という一本の映画そのものではなく、「新海誠監督作品というジャンル」について語っているんですよね。

こんな過去作を否定する映画を作られたら、「新海誠監督作品」ジャンルを愛せなくなってしまう。というふうにしか聞こえません。

いろいろほめてる以上は、仮に、『君の名は。』の監督名を伏せて観賞したら素晴らしいと絶賛するんでしょう。でも監督が新海誠とわかったらその途端に否定するんでしょうか? これこそ「矛盾」ですよね。

飯田さんと藤田さんにとって、新海監督の変節が「誰でも知ってる作家になりたい」という欲望から発したものであることがかなり大きいのでしょうが、誰だって名誉欲とか金銭欲はある。

そりゃ、作家性より興行収入のほうが大事なのか、と言いたい気持ちは理解できます。

しかし、だからといって「私はあなたというジャンルが好きだったのにあなたは変わってしまった」と非難するのは完全なお門違いです。

俎上に載せられるべきは「作品」です。決して「作者」ではありません。

作家は評論家のために作品を作っているわけではありません。あくまでも一般のお客さんのために作っているのです。そして一般の観客は『君の名は。』という一本の映画を見に来ているのです。決して「新海誠監督作品というジャンル」を見に来ているわけではありません。

でも評論家って自分たちに向けて作られているという幻想から抜けられないみたいですね。その証拠に「作家論」なんて山のようにありますから。


バロンドールを廃止すべし!(チームを表彰せねば)

昨シーズンのヨーロッパ最優秀選手賞の最終候補3人が発表されたらしいです。

クリスティアーノ・ロナウド
アントワーヌ・グリーズマン
ギャレス・ベイル

の3人。メッシが落ちたことがえらく大きく取り上げられてますが、ルイス・スアレスが落ちたことのほうがよっぽど意外だと思うんですけど。

といいますか、UEFA最優秀選手にしろ、FIFAバロンドールにしろ、ワールドカップのMVPとかでも同じですけど、サッカーはチームプレーなのになぜ個人を表彰するんですかね?

今年のバロンドールはロナウドが獲るんじゃないかともっぱらの噂で、チャンピオンズリーグを獲ったし、ユーロも勝ち取った、ということらしいですが、それもよくわからんのですよ。

メッシはペレやマラドーナを超えたか否かという議論で誰もが口にするのが、

「メッシはまだワールドカップのタイトルを獲っていない」

というもの。

個人を表彰するんだったらチームタイトルなんて必要ないのでは?

というか、チーム全員でタイトルを獲るために戦っているわけだから、チーム全体を表彰すべきだと思いますがね。

チームスポーツなのに個人を表彰すること自体がおかしいのに、個人を表彰するときにチームとしてのタイトルが必要で、チームタイトルとは別に個人を表彰、その個人の評価にはチームタイトルが必要、、、って、何だかウロボロスみたいにぐるぐる回ってませんか?

去年の最優秀チームを選ぶとなると、やはりレスターでしょうか。

選手と監督、その他コーチングスタッフやメディカルスタッフすべてをひっくるめて表彰したらいいのに、とずっと思ってるんですが、なぜ人は「個人」にこだわるのかな。

バロンドールは廃止すべき! 他の個人賞もすべて。ベストイレブンは残してほしいけど。


ジャンル分け主義の映画ファン=差別主義者トランプ

ついに正式な共和党大統領候補として指名されてしまったドナルド・トランプ。

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彼は誰の目にも明らかな差別主義者ですが、「差別」というのはごく些細な日常にもひそんでいると昔から思っています。

例えば私がこの世で一番好きな「映画」。

映画にも差別ははびこっています。

映画における差別とはいったい何なのか。

それは「ジャンル分け」です。

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レンタル屋に行くといろいろジャンル分けされてますよね。ジャンル分けというものの「功」は見たい映画をレンタル屋で探すときに便利ということですね。膨大な量のDVDからピンポイントで探し当てるには、やはりジャンル分けが必要です。

とはいえ、他に何か効用があるのかと考えると、おそらく何もない。それどころか「罪」のほうがよっぽど大きいと思うのですよ。

私は別に好きなジャンル・苦手なジャンルってないですから。映画においてはどこまでも雑食です。だから同じアクション映画なのに『ダーティハリー』は大好きだけど『ダイ・ハード』は好かん、『マッドマックス』は好きだけど『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は好かん、なんてことが起こるので、アクション映画というジャンルが好きな人にとっては「???」らしいのです。

でも私に言わせれば彼らの考え方のほうが「???」なんです。「同じアクション映画なのに」という言い方がね。同じジャンルの映画は全部同じ映画なの? じゃあ1本だけ見ればいいじゃん。



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トランプは「すべてのイスラム教徒の入国を拒否する」という政策を掲げてますが、同じ「イスラム教徒」というジャンルでもテロリストもいればごく普通の人もいる。それを十把一からげにしてしまうのは差別でしょう。

結局、差別というのは「人間をジャンル分け」することです。

「黒人」とか「ユダヤ人」とか「イスラム教徒」とか「女」とか。
一人一人を見ずにジャンルでその人を判断する、それが差別。

翻って映画にそれを当てはめると、一本一本の映画をちゃんと見ずに、「これはアクション映画だから」「これはコメディだから」「ホラーだから」というのもすべて差別です。人間じゃなくて「物」である映画だから別に差別してもいい?

まさか! そういう些末なところから差別感情というのは広がっていくんです。

というかね、やはり一本一本をきちんと見てないと思うんですよ。ジャンル分け主義者というのは。

ジャンルというと、アクションやサスペンス、ラブストーリーやコメディ、ヤクザものとかだけがジャンルだと思ってる人が大半ですが、私はもっと深刻なジャンルがあると思っています。

かつて映画の専門学校に通っていた頃、同期生には黒澤明信奉者がたくさんいたんですね。で、黒澤の作品をすべて肯定するんです。黒澤作品でそれほどでもないと思っているものでも、否定的な言葉を避けるんですね。大好きな黒澤明をけなしてはいけないと思い込んでいる。

私も『蜘蛛巣城』や『七人の侍』『用心棒』に『椿三十郎』『羅生門』など大好きな作品はたくさんあります。でも『生きる』とかは大嫌い。『静かなる決闘』も好きじゃないし、『醜聞(スキャンダル)』にも白ける。

そういうことを言うと、「なぜ同じ黒澤作品なのに大好きなものと大嫌いなものがあるのか」と質問されたんですね。「???」でした。そんなの当り前じゃないですか。一本一本の映画をちゃんと見ればいくら同じ監督の作品であろうと好きなものもあればそうでないものもあるのが普通。

彼らは「黒澤明監督作品というジャンル」を愛しているんです。
監督が同じでも脚本家が違えばそれだけで「作者」は違うし、他に撮影、照明、美術、録音、編集、etc. 「同じ作者の映画」などこの世に一本としてないでしょう。あるとしたら学生の自主製作映画くらいのもの。

それを監督の名前だけで十把一からげにしてしまう。黒澤作品というジャンルが好きであればそのジャンルのすべてが好きじゃないと矛盾が生じる。(と彼らは思っている)ゆえに、それほど好きでなくても肯定的に論じる。という事態が起こる。

私はヒッチコック信奉者ですが、ヒッチコック作品には映画史上の大傑作といえるものがたくさんあり、同時に『トパーズ」や『引き裂かれたカーテン』『舞台恐怖症』に『山羊座のもとに』など少しも面白くないものも結構あります。

でも、プラスとマイナスを差し引きすると断然プラスなのでヒッチコック監督作品というジャンルが私は大好きなのです。

一本一本が好きで、嫌いなものもあるけど差し引きするとプラスになる、だからそのジャンルが好きというのが本当なのに、彼らはまず黒澤作品というジャンルが好きで、だからそのジャンルをすべて愛さねばならないという主客転倒が起こってしまっています。

これも一本一本をちゃんと見ていないという意味で立派な差別です。

黒澤作品はすべて肯定する。それは黒澤作品以外の映画、黒澤作品とは違うタイプの映画をすべて排斥することにつながります。

トランプがやろうとしていることといったい何の違いがあるのでしょうか???


選挙は「顔」で選ぶ! いや選びたい!!!

参議院選挙で始まりましたが、何だか自民党だけで単独過半数の勢いとかで、それだけならまだしも自公合わせて3分の2以上取られることは絶対に阻止せねば! と思ってるんですが、もっているのは1票だけだしどうすればいいの? と途方に暮れてしまいます。

これまで「選挙は『顔』で選ぶ!」が私の信条でした。

選挙権を得た当初は一人一人の政策とか読んでたんですけど、ちゃんと実行しているのかどうかぜんぜんわからないから方針転換。

こういう顔なら何かやってくれそうだ。という顔を選ぶことにしてました。

そんなのポスターなんかいくらでも修正できるじゃないか。とすぐ言われます。


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確かにその通りですね。でも、修正できるからこそポスターの時点でダメな顔は真っ先に×をつけます。

次に、駅前なんかで演説しているところをじっくり見ます。



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聴くんじゃありません。見るんです。

話してる内容なんかどうでもいい。大きな声で堂々と喋っているか。小さな声なら×です。大きな声で堂々と喋っていても自分の演説に酔ってしまって周りの「○○さん頑張って!」という声が聞こえてないような人も×です。自分の主張を堂々と展開しながらそういう声にも会釈したり手を振り返したりうまい感じで対処していると○をつけてその人に投票します。

あ、大事なことを忘れていました。ポスターで顔を見る前にまず自民党の候補者は×です。いままでいろんな政党に入れたことありますが、自民党には入れたことないんです。日本を悪くした元凶だから絶対入れません。

というわけで、以上のような感じで選挙のたびに候補者の顔で選んできました。

しかし、自公で3分の2行きそうだという現在、それを何とか阻止するためには顔で選んじゃダメかなぁ、という気がしてきました。

自民党は論外、公明党も与党だからダメ、おおさか維新の会も嫌い、幸福実現党など視界に入ってこない。

という現実のなかでは、もう民進党か共産党しかなくて(あともうひとつ長い党名の人がいましたっけ)比例代表ならもう少し選択肢はあるんですが、ここ兵庫県では一番手が自民党、二番手が民進党でどちらも現職。三番手を公明と共産が激しいデッドヒート。でも公明候補がかなり票を伸ばしそうだ、というニュース。

となると、公明党の議席を減らすためには共産党に入れたらいいのかな。というか、もう選択肢はそれしかない。

もう顔で選ぶのがいいとも悪いとも言っちゃおれんのです。

で、難しいのが比例代表で、さすがに政党名で投票するから顔では選べないんですよね。党首の顔で選ぶという手もありますが。

12政党のうち、自民党、公明党、幸福実現党、おおさか維新の会など私にとって論外の政党を除いてもいくつか選択肢はあるわけです。

問題は、自公の議席を少しでも減らすにはできるだけ議席を取れそうな政党に入れるのがいいような気がしてきたことです。

小さな政党にも頑張ってほしいですが、入れても1議席も取れないんじゃダメだし、かといって、このような選び方でいいんだろうか、という気もします。

それもこれも安倍某とそのお友だちが悪いんだ! 

そういえば安倍って気持ち悪い顔してますよね。あのニヤけ顔を見るのは本当に健康に悪い。

やはり人間は顔。もちろん政治家も顔。




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こういういい顔がどんどん少なくなってますね。(『男たちの旅路』より 池部良と鶴田浩二)

子どもたちの顔、高校球児の顔なんか昔はもっと精悍だったのに、いまは何だか変な顔が多いと思いませんか? 日本の将来はどうなるんでしょう。


人間は「顔」です。


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