主義・主張

2020年08月30日

永田希という書評家(女性かと思ってたら男性だった)による『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を読みました。


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印象的なフレーズ
まずは、本書を読んでとても印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。

「本はそれが閉じられている状態と、開かれている状態との『あいだ』にある。その性質は、それを読んでいる時間とそれを読んでいない時間との『あいだ』にある」

なるほど! これは気づかなかった。開かれて読まれている状態だけが本の性質だと思ってましたが、著者はそこを激しく撃ってきます。


「積読である以上は『いつか誰かに読まれたい』という書物の期待に十全に応えることはできない。書物の期待は積読をしている間は保留され続ける。繙かれていない書物の中の情報は、無意味でもなければ意味を特定された状態でもない。特定されていない意味のカオスこそ積読の正体です」

上の文章を難しく言い直したような感じですかね。積読こそが本の性質を保持し続ける、というような意味かな。この本は「常識」とされていることをうっちゃることが目的なので、意味を把握するのがとても難しかった。


「何かを語るために十分な知識の量と体系、要するに『語るための資格』を備えていると自負するのは、結局のところは権威主義的で鼻持ちならない高慢さの表れでもある」

これはツイッター界隈でもよく目にする言葉ですね。映画を語るには古典をちゃんと見てからにしろ、だの、おまえはこの程度の名作も見てないのか、だのといったマウンティング合戦が日常茶飯事的に行われています。
著者はこの権威主義的な考え方も激しく撃ってくる。そりゃま、そうですよね。語るために資格が必要ならいつまでたっても語れませんから。


「ある書物について語ろうとするときに人が躊躇するのは、その書物を自分が完全には読めていないという『うしろめたさ』と、それにもかかわらず自分がその書物の『位置づけ』に関与してしまうという無責任さが『やましい』からです」

書物を完全に読むことはできないと主張する著者ならではの言葉ですね。

以上、小難しいフレーズばかりを選んで愚にもつかない感想を述べましたが、私がこの本を読んで一番画が浮かんだのは、本書の主旨からは外れるかもしれませんが、以下のような場面です。

「この本棚にある本、全部読んだんですか?」
「いや、全部は読んでないんだけど」

というような会話が交わされるときの、すべてを読んでいないことを恥じる後者と、それを聞いて「それはもったいない!」と鬼の首を取ったかのような前者の表情ですね。


蔵書家の言い分
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これは他人様の家の書棚です。私はこんなに本をもってないし、そもそもこんなに部屋が広くない。

冊数もおよそ1000冊くらいでしょうか。本好きなら普通の量か少ないほうでしょう。増える一方だからどんどん売るんですが、売っても売ってもそれ以上のスピードで買うから増えていく。ちょいと前に新しい本棚を買いました。まだぎりぎりもう一個置けそうではありますが、いまの状態を限界と考えるべきかな。

それはさておき、1000冊も本をもっているというと「全部読んでるんですか?」って必ず訊かれるんですよね。

私は恥ずかし気に「いや、全部は」と答える。すると相手は「何割ぐらい読んでないんですか?」と間髪を入れずに訊いてくる。「3割、いや4割くらいかな」「ほとんど半分じゃないですか!」

と鬼の首を取ったかのような顔で突っ込んでくる。うっとうしいったらありゃしない。

以前、ツイッターで「あなたの本棚のあいうえお」「かきくけこ」という自分の本棚の本をさらすハッシュタグがあって、私も結構ツイートしましたが、あのときに思ったのは、

「本棚を一瞥しただけで、自分がこれまでどんな本を読んできたか、これからどんな本を読もうとしているかを一望できる」

ということでした。デジタル書籍には絶対にできない芸当だと。

そして大事なのは、「これまで読んできた本」と「これから読む本」が同居しているということです。

過去の自分と未来の自分の邂逅。

ここにこそ蔵書家が図らずもみな積読してしまう理由があると思う。

私の統計によると、積読状態の本棚を見て鬼の首を取ったかのような顔になる輩ほど決まって「どんな本を読んでいいのかわからない」っていうんですよ。

巷で話題になってるとか、タイトルに惹かれたとか、装丁がきれいとか、何でもいいから気になった者から読んでみたらいい、とアドバイスするんですが、ごにょごにょ言うばかりで結局何も読まない。何も読まないくせに「僕も今年こそは読書に勤しもうと思ってるんですよ」とかいう。

何だそれは。って感じですが、おそらく彼のような人は、「これから読む本」にしか興味がないのだと思います。現在から未来にかけての自分にしか興味がない。現在の自分の土台である過去の自分には興味を示さない。

読書、いや積読というのは、「過去の自分と未来の自分の邂逅」にこそ精髄があります。

それはつまり「歴史」ということです。


積読こそが完全な読書術である
永田 希
イースト・プレス
2020-04-17





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2020年07月17日

職場に鉄ちゃんがいます。7年前の職場にも鉄ちゃんがいました。

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鉄ちゃんといってもいろいろあって、画像のような「撮り鉄」もいれば「録り鉄」といって駅のアナウンスを録音するのが趣味の人もいるとか。

かつて脚本家を目指していた頃、鉄道会社に勤める男が主役の話を書くにあたって読んだ本が『愛した男が鉄道だった』というなかなか秀逸なタイトルの本でした。もちろん、あの「愛した男が極道だった」の『極道の妻たち』のパロディです。

それはさておき、いまの職場の鉄ちゃんは一番オーソドックスな「乗り鉄」です。とにかく鉄道に関する話になるとブレーキが利かなくなるほどどんどん言葉が飛び出てきます。別に鉄道そのものでなくても、ICOCAなどのICカードの話とかでも熱弁をふるいます。

私はなかなか面白いと思うこともあれば、いまは黙って飯食わしてほしいんだけど……とちょっぴり迷惑に思うこともある。ただ、鉄道にほとんど関心がないので、知らない話がどんどん飛び出すから基本的には興味深いことこのうえない。

でも、いまの職場では訊かれないけど、7年前の職場では、「○○さんって電車オタクだからイヤ」などと言うのが時折耳に入ってきました。

私はこの「オタク」という概念が本当にわからない。どこまでがオタクじゃなくてどこからがオタクなのか。

若い子に訊いてみました。

「俺はいままで1万タイトル以上の映画を見ていて、映画のことになると目の色が変わるし、映画にすべてを捧げてもいいという気持ちは脚本家を目指していた頃と何も変わらない。俺は映画オタクなの?」
「いえ、ピッチコックさんはオタクじゃないですよ」
「そうやって間髪入れずにオタクじゃないと言えるということは、どこまでがオタクじゃなくてどこからがオタクか、その境界線がわかっているということだよね。いったいオタクとそれ以外を分ける境界線って何なのだろう」
「それは…(絶句)」

こういう会話を私はいままで記憶にあるだけでも三度はした。今回が四度目。

みんな口々に「あなたはオタクではない」という。でもオタクと非オタクを分ける境界線については「わからない」と口をそろえる。


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結局、他人に「レッテル」を貼りたいだけなんでしょう。よくわからないものにはレッテルを貼って安心したいだけなんでしょう。実際、職場の鉄ちゃんは少しばかり「話の通じない人」と主に女性から思われているみたいだから、ただそれだけの話なんでしょう。

オタクとはしょせんその程度のこと。だって、鉄ちゃんをオタク呼ばわりしていた若い子はかなりのゲームファンらしく、世間で言うところの「ゲームオタク」みたい。でもオタク呼ばわりされるのはいやらしい。

何と自分勝手な!

しかもですよ。アニメやゲーム、映画に鉄道など、そういうものに夢中すぎるほど夢中だとオタクの疑いがあるらしいんですが、音楽ならいくらのめり込んでいてもオタクの範疇に入らないらしい。んなアホな。

最近の若い人は自分のことを誇らしげにオタクと自称することがあるそうな。実際、ツイッターのフォロワーさんでそういう人がいる。でも、現実にそういう人に会ったことがない。会うのは、オタク呼ばわりされるのは嫌がるくせに、他人をオタク呼ばわりしたい人たちばかりだ。

繰り返しますが、他人を「オタク」と呼ぶ人間は、自分の嫌いなもの、理解できないものにレッテルを貼りたいだけ。どちらが幼稚かは火を見るよりも明らか。以上!





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2020年03月20日



精神科医・春日武彦さんの名著『顔面考』をお読みになったことはありますか?


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いま新型コロナウイルスのせいでマスクしている人がたくさんいますが、昔はマスクをしてるだけで電車の自分の両横だけ空席なんてことがありました(花粉症なのでね)。それぐらい「マスクをしてる奴は怪しい」と思われたのに、最近は「伊達マスク」なるものがあるというから時代は変わったものです。

とはいえ、あくまでも日本においてだけみたいですけども。外国ではマスクというのは細菌テロが起こったときにだけ装着する「特別なアイテム」だとか。あとは瓦礫の撤去作業をする人はマスクをしていないと粉塵を吸い込んでしまうので日本人と同じように装着するそうですが、インフルエンザが流行していてもマスクはつけないのが普通とか。

だから伊達マスクなんてもってのほか!

目だけ見せて鼻から下を隠すとかわいく見えるとかで大流行しているみたいですが、自分の顔は隠して他人の顔は見れるって卑怯じゃないか! と最初は思ってたんですけどね、どうも違うな、と。

マスクしてる人の気持ち悪さの正体は何だろうと考えていて、昨日やっと思い至りました。

『顔面考』には次のような記述というか、他の文献からの引用があります。めちゃくちゃ難しい文章のうえにうろ覚えなので(手元に本がない)正確ではない可能性がありますが、だいたい次のような意味です。

「顔というのは自分の鏡である。他人の顔を見たときその人がどういう表情をするかで自分がどう思われているか、つまり社会の中の自分像がわかる。つまり顔とはそれ自体がコミュニケーションツールなのである」

だから、風邪や花粉症でもなく、新型コロナウイルスの予防でもなくマスクで顔を隠している人は、他者とのコミュニケーションを自分から遮断しているわけですね。

なるほど、あのような少しもおしゃれでないファッションが流行しているのはそういうわけだったのか、だからあんなに気持ち悪かったのかとやっと腑に落ちました。いかにも現代ニッポン的。

整形疑惑なんて言葉があります。「誰それは整形している」というそれだけに特化したブログやツイッターアカウントを見たことありますが、整形って世間では悪徳以外の何物でもないんですね。私はそんなに悪いこととは思いませんが。

でも、伊達マスクは正真正銘の悪徳だと思います。他人とコミュニケーション取りたくなければ家の中から出なければいい。

それじゃ生きていけない?

それならちゃんと顔を見せて生きましょう。社会の中で生きる以上、それがルールのはずです。


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食べログ、伊達マスク、高画質ホームムービー


顔面考 (河出文庫)
春日 武彦
河出書房新社
2009-07-03


 

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