主義・主張

2019年05月16日

昼休みにテレビで「ゆたぼん」という10歳のユーチューバーが取り上げられていました。




何でも、宿題をやるのがいやで、やらないと居残りさせられる。さらに、大人の言うことに唯々諾々と従うクラスメイトがロボットに見えて、こんなところにいると自分もロボットになってしまう、というのが不登校の理由だそうです。

同僚さんが「ただのわがまま。いじめを受けていて不登校ならわかるけど、宿題がいやだからってただのわがままじゃないか」と言ってましたが、まったく同意。別に学校に行ったらロボットになるわけじゃない。ロボットにならないという強い決意があれば周りに染まることはない。

親御さんは心理カウンセラーとかで、「子どもを自由に生きさせて何が悪い」と主張しているそうですが、悪いに決まってるじゃないか、というのが本稿の主旨です。


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『バカの壁』の養老孟司先生は、かつてこんなことを言っていました。

「小さい子どもに本音を教えてはいけません。徹底的に建前を教えるべき。学校はそういう場です。建前を押しつけてそれに反発して出てくるのがその子の本当の本音。最初から本音を教えてはいけません」

あるいはこんな言葉もあります。

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フランス現代思想家の内田樹先生は武道家でもあり、師匠から絶対にやってはいけないことを最初に叩き込まれたそうです。

それは、「いいとこ取り」。

いろんな人の教えのいいところだけをチョイスして自分で組み立てるやり方ですね。

なぜこれがダメかというと、いいとこ取りをするためには何が良くて何が悪いか判別する目をもっていることが前提となる。なぜこれから学ぶ者にそんな能力があるのか。最初はすべての人のすべての言葉を受け入れなさい、ということだそうです。

ゆたぼんの父親の言葉で一番だめだと思ったのは、次の一節です。

子どもたちは自ら学ぶべき事を学ぶべきタイミングで自ら学んでいくと信じています 

なぜこれから学ぶ者に「学ぶべきこと」や「学ぶべきタイミング」がわかるのでしょうか?

学校に行けばいろんなことを教えてくれます。

宇宙はどうやって生まれたか。
生物はどのように進化してきたか。
人間はどのような歴史を歩んできたか。
なぜ昼間の空は青く見えるのか。なぜ夕焼けは赤く見えるのか。
2月はなぜ28日までしかないのか。
100チームでトーナメント戦をすると試合数は全部で何試合になるか。

まだ何も知識の詰まっていない子どもにはすべてが新しくて面白いはず。テストで点を取るために勉強している人はテストが終わったら全部忘れてしまいますが、本気で勉強していればたいていのことは憶えています。

だから、ゆたぼんはものすごく損をしていると思う。自分で自分の可能性を狭めてしまっている。そして、あろうことか父親がそれに加担しているという笑えない大損の連鎖。

ゆたぼんはおそらく型にはまるのがいやなのでしょう。その気持ちはよくわかるけれど、型を否定するためには、まずその型にはまってみることが大事。これはある映画監督の教え。

とにかく、まだ年端もいかない子どもに「自由」などを教えては意味をはき違えるだけだからやめたほうがいい。不自由な時間があるから自由な時間が活きてくるのだから。





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2019年04月24日

最近、駅までの通勤路の交差点で、小学生相手に「信号を守りましょう」と声掛けをするボランティアの人たちが急に現れまして。新学期だからかな。

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こういう信号のないところでは必要でしょうが、信号のあるところで赤信号では絶対渡るなと言い、渡ろうとした人間に「信号守ってください」とがなり立てるのは、はっきり言って迷惑です。

調べてみると、道路交通法では歩行者も信号無視をすると刑事罰を問われる可能性ありとか。

しかし、実際にそんなケースはないでしょう。私は何度もパトカーや白バイの目の前で信号無視したことがありますが職質を受けたことすらありません。

ニューヨークに行ったとき一番驚いたのは「信号無視」でした。車はもちろん止まりますが、歩行者は青だろうと赤だろうと左右を見て車が来なければ容赦なく渡っていく。外国で赤信号を律儀に守っている東洋人がいたら間違いなくそれは日本人です。

子どもたちに「ルール」を教えることは大切でしょうが、ルールにさえ従えばいいとまで言ってしまっては「思考停止」の人間を産むだけです。

私は左右を見て車が来ていないから渡った。それでも「信号を守れ」というのは「思考停止していなさい」ということです。ボランティアの人たちは違うというかもしれませんが、そうなのです。

大事なのは、そのルールをいまは守るべきなのか、それとも破るべきときなのか、柔軟に考える頭を育てることのはず。

だいぶん前から「考える力」を重視するとか何とか言ってますが、「信号ファシズム」が横行しているようでは日本の未来は暗いですな。




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2019年04月02日

昨日昼前に新元号が「令和」と発表されました。

何でも、新元号関連のツイートが450万もあったらしく、そのせいなのか休憩時間に覗こうとしてもアクセスできませんでした。

さて、今回の改元で、またぞろ「新元号なんか興味ない」などという人をたくさん見かけましたが、私に言わせれば「カッコつけているだけ」。斜に構えている自分に酔っているだけだと思う。普通の日本人なら興味あるでしょう。

というか、「元号不要論」がまた幅を利かせてきました。役所である外務省が、これからは元号を使わず西暦で行くとか。まぁ外務省は外国が相手だからそれは致し方ない。しかしながら、外国と一口に言っても西暦を使っているところばかりじゃない。イスラム歴の国と文書を交わすときはどうするんだろう(これまでどうしてきたんだろう)という素朴な疑問が湧きます。

元号がないほうが計算をしやすいという利点があるのはわかりますし、コンピュータで何でも処理するようになった現在、改元の度にシステムを変えるのはいろいろと面倒だし金もかかる。

だから元号不要論があるのは理解できます。理解できますが、私は元号はあったほうがいいと思います。

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(平成の画像を使ったのは、単に菅が嫌いだから)

改元という「フィクション」
西暦にしろ和暦にしろ、時間的な区切りというのは「フィクション」にすぎません。

動物を見ればわかります。彼らは日付とか曜日に関係なく生きています。大晦日から元日になる瞬間に何らかの感慨を抱くなどということがありません。世紀末に不安になったり、新世紀を迎えて祝ったり、そんなことをするのは人間だけです。人間にはフィクションが必要なのです。

古来、元号というフィクションに一番求められたのは、「気分を変える」というものでした。飢饉や災害でしょっちゅう改元されていました。暗い時代といまとの間に「結界」を張ったわけですね。

いまは一世一元になりましたが、明治、大正、昭和、平成、ときて、令和。まだ「れいわ」という音の響きと「令和」の字面に馴染めませんが、そのうちに馴れるでしょう。平成だって最初は「ダッセー! 昭和のほうがかっこいい」と思ってましたから。

俗に「景気は気から」と言われますが、改元をきっかけに好景気になるかもしれません。人間は気分で生きているのだから充分ありえることです。


フィクションから意味が生じる
1990年だから平成2年ですか、キネ旬で「80年代ベストテン」という特集がありました。選者の一人である大久保賢一氏が、日本映画界の80年代に関してこんなコメントを寄せていました。

「1980年から1989年までの10年間という区切りには何の意味もない。あえて意味を見出だすなら、それは『ツィゴイネルワイゼン』から『どついたるねん』に至る荒戸源次郎の10年ということになる」

意味がないと言いながら自分で意味を言っちゃってますね。

そうなんですよ。確かに1980年代という区切りには何の意味もありません。フィクションにすぎないのだから。しかし、いったん区切ってしまえば何らかの意味を読み取ってしまうのが人間という生き物の性です。

意味があるから区切るのではありません。
区切るから意味が生じるのです。

意味が生じるということは、その区切られた時代に思い出が生まれるということ。

「80年代」「90年代」「2000年代」「2010年代」「2020年代」という区切りと、「昭和」「平成」「令和」という区切り。

西暦と和暦の両方使えば、人生は豊かになります。

だって、我が身を振り返る回数が増えるのだから。今年2019年は平静を総括し、来年は2010年代を総括する。総括とは反省のこと。反省すればより良い明日がやってくる。

元号が絶対必要だというわけではありません。そのほうがより良い人生が遅れるんじゃないかと申し上げる次第。

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