聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

主義・主張

松本人志「死んだら負け」を断固支持!(愛情と政治)

ダウンタウン松本が『ワイドナショー』で自殺したご当地アイドルの事件について、「死んだら負け」ということをもっと子どもたちに教えるべきではないかと発言して大炎上しました。というか現在もしているので我慢ならず筆を執りました。


MatsumotoHitoshi

松本は好きじゃない
まず、私はこの男が好きではありません。安倍晋三と会食したことをうれしそうに喋ったときは、アンチ安倍の私はテレビを蹴飛ばしそうになりました。
ワイドナショーを見ているのは裏番組に出てるテリー伊藤のほうがより嫌いなのと、乙武さんが好きだとか、最近古市がやたら笑えるとか、トラウデン直美という子が激カワだとかその程度の理由です。まったく見ないときもあるし、飛ばし見したり、ながら見することもしばしば。


好きじゃない松本の言葉に感動
そんな私が、このたびの「死んだら負け」という言葉には深く感動しました。

おそらくその理由は、松本も私も死のうとしたことがあるからでしょう。

松本が死のうとしたことがある? と言いたい向きもあるでしょうが、私はそう思います。それは次のような発言から明らかです。

「死ぬのって理由はひとつじゃないんですよ。いろんなことが複雑に絡まってしまって逃げられなくなってね」
「あふれそうだったコップの水が寝て起きたら半分になってることってあるから」

まさに私も同じ体験をしています。もうかなり前のことですけど、職場でひどい扱いを受けたことが一番の理由で手首を切りましたが蛮勇が足りず死ねませんでした。松本が言うように、職場以外にもいろいろ理由があって八方ふさがりだったんですね。というか正確には八方ふさがりだと思い込んでいただけだったんですがね。

あふれそうなコップの水が寝て起きたら半分になっていた経験もあります。だから松本も私と同じように死のうとした(かどうかはわからないが少なくとも死のうと思いつめた)ことがあると感じたわけです。

そのうえで「死んだら負け」と言われたら、これはもう感動するほかないわけです。私はあのとき遺書を書きましたが、職場の人のことを書きたかった。書きたかったけど自死を選ぶ以上それは許されないと思った。だから書きませんでした。今回自殺した子が遺書を残さなかったのもそういう葛藤があったからかもしれません。これはもう永久に推測の域を出ませんが。


誰に対して「死んだら負け」なのか
どうも松本の「死んだら負け」に対し「死者に鞭打つのはひどい」と言ってる人が多数見受けられますが、それは違うでしょう。松本はあくまでも「死んだら負けだともっと教えるべきではないか」つまり、生きている子に対して言ってるわけであってね。

それから、不登校児の面倒を見ている組織の人が松本の言葉には違和感を禁じえないと、ある自殺した子の例を挙げていました。
自殺したあとも机の上に「あばよ」みたいなことを英語で書かれ、さらに学校がいじめを目撃したかどうかアンケートを取ったら、ちゃんと「あの子はいじめられていた」と書かれたものはすべて処分され、「いじめはなかった」という報告がなされたとか。そういう「社会的に抹殺されたような子に対して死んだら負けというのは違和感がある」みたいなことを言っていましたが、そういうあまりにひどい境涯の子も「死んだら負け」と教えたら救えるとは、松本も思っていないと思います。


私のような心の弱い子に対して
なぜなら、ワイドナショーの2日後くらいに、「それでも自殺する子を少しでも減らすために俺は死んだら負けと言い続けるよ」とツイートしていましたから。「少しでも減らすために」ということは、すべての子を救えるとは思っていないということです。

では、どういう子なら救えるかといえば、私のような心の弱い子です。上記のような常軌を逸したいじめの場合はもともと心が強い子だって折れてしまうだろうから無理です。そういうひどい環境にいる子に「死んだら負け」と言ったって「はあ?」と返されて逆恨みされるだけでしょう。別のケアが必要だと思います。そういう場合は寝て起きたってコップの水は絶対に減らない。

「死んだら負け」と教えることで救えるのは、寝て起きたらコップの水が半分になる可能性のある子です。八方ふさがりじゃないのに八方ふさがりだと思い込んでいる子です。

私が死のうとしたときの気持ちを冷静に分析すると、「死んだらみんなが守ってくれる。悪い奴らを懲らしめてくれる」という気持ちに近かったと思います。そしてこれも推測にすぎませんが、そういう気持ちで死んでしまう子は結構な数いると思う。

松本の「死んだら負け」はあくまでもそういう子を救おうということでしょ。ごくごく当たり前のこと。それがこんなに大炎上するのはひとえに「政治」に尽きると思います。


PC=政治的な正しさ
最近は政治的に正しいことがまるで唯一絶対の正義のように罷り通っていますが、松本が「死んだらみんながかばうのがいや」というのは政治的に正しくない。というか政治的正しさ=PCへの異議申し立てでしょう。

弱者の味方をするのは政治的に正しい。それに異論はありませんが、自殺というきわめて個人的なことに関して政治的に正しいことを言うのはどうなんでしょうね。

私は幸い死ねませんでしたが、親と友人からめちゃくちゃ怒られました。目に涙をためて「おまえはいったい何を考えているのか」と難詰されました。それが「愛情」というものです。私はそのときは「この人たちひどいことを言うなぁ」と思ってました。それはたぶん「それって政治的に正しくないよ。だって俺は死のうとしたんだよ」ということだったと思います。甘えていたのです。でも、いまはあれぐらい叱ってくれた人たちに感謝しています。こういうときに大事なのはPCよりも愛情の深さであることは言うまでもありません。

今回の炎上で一番不満なのは、誰も自殺を自分の問題として語っていないことです。死のうとしたことがなくても、大切な人が死のうとしたら自分がどういう反応をするかくらいは想像力をめぐらせればわかるんじゃないですか?

あなたは大切な人が死のうとしたとき憐れみますかね。それとも怒りますか? 怒らないという人は偽善者だと思う。というか本当の意味でその人に愛情を抱いてない。


松本の政治的立場
ある人の文章を読むと、これまでの松本の発言をすべて読み返したそうです。調べるのはいいですが、安倍と会食したことを得々としゃべっていたのはけしからんとか、それをなぜ今回の批判文に織り交ぜるのか。それはやはりPCでしょう。

その人は私と同じアンチ安倍で、松本の「死んだらみんなでかばうのはよくない」という言葉は政治的に正しくない。だから自身の政治的正しさをアピールするために安倍云々というまったく関係ない政治的なことを織り交ぜていることは明らかです。


愛情と政治は別物
「死んだらかばうのはよくない」というのは確かにPC的にはアウトでしょう。
でも、あなたが死のうとしたら、周りはものすごい剣幕で襲いかかってきますよ。誰もかばってくれませんよ。かばってくれるのは、実はあなたのことをそれほど大事に思っていない人です。大事に思ってくれている人ほど厳しいことを言ってきます。

愛情と政治的な正しさはまったく別物です。松本はいま生きている子に対して愛情ある言葉を放ったと思います。それを非難する人は自分の政治的な正しさを保持しようとしているようにしか私には感じられません。


本当の「勉強」とは何か

ちょっと前に、博士号を取得した人の数と論文数において日本は先進国中ダントツの最下位という報告が出た際、

「もう大学は職業訓練校になればいい」

というとんでもない意見をツイッターで見かけました。


study_night_boy

努力は嘘をつく?
よくスポーツ選手が「練習は嘘をつかない」と言います。練習をすれば着実に実力が上がる、と。それは確かに真理でしょう。ただし、自分のどこがよくないかを見極め、そこを矯正しつつ同時に長所を伸ばすにはどうしたらいいかを考えてやれば、という条件付きで。それをせずに闇雲に長く練習しても疲弊するだけでしょうが、ちゃんと考えながらやればまさに「練習は嘘をつかない」。

職業訓練校で勉強するのも同じようなものでしょう。
ワードで文書作成できるようになった、エクセルの関数を憶えた、グラフ作成ができるようになった、フォトショップが使えるようになった、ドリームウィーバーを憶えた、フォークリフトの免状を取った、etc.

自分が何を知らないかを見極め、そこを補強する勉強をしていけば、就職の道は勉強時間に比例して広く開けていくはずです。

しかし、本当の勉強というのは「努力が嘘をつく」ものなんですよね。


勉強すればするほど……
本当の勉強というのは、勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされる営みのことです。1冊の本を読めば知らないことがたくさん出てきて、あれもこれも読まないと……という気持ちになる。そして読めば読むほど知らないことがどんどん無尽蔵に増えていき「自分は何もわかっちゃいない」と途方に暮れる……。

私は高卒なので大学の内情についてはまったく知りませんが、本当の勉強がそういうものだということは身をもって知っています。大学は職業訓練校になればいいと本気で言える人は、本当の意味での勉強をしたことのない人なのでしょう。


谷崎潤一郎『神童』



先日、谷崎潤一郎の傑作中編『神童』を再読しました。
主人公は幼くして古今東西の書物に通暁したまさに「神童」で、とにかく学問にしか興味がない。だから学校の授業がつまらなくて眠ってしまう。

しかし、そこが彼の本質的な欠点なのですね。本当の意味での勉強をしていたら学校の授業がつまらないということはありえません。いくら古今東西の書物に通暁していても、目の前の生身の肉体をもった教師が語る言葉には世界中の書物が束になってかかってもかなわない「力」があります。主人公はそれがわかっていない。自分は神童であり、いろんなことを知っていて教師よりも頭がいいという自惚れがあるから授業中に居眠りをしてしまう。最近、「ネットでいろんな情報を仕入れられるから講義が退屈」という学生が増えているらしいですが、彼らはまさに『神童』です。

本当の勉強をしていれば、自分はまだまだ何も知らない、だから誰でもいいから教えてほしいと教師の講義を集中して聴くでしょう。そこには何かがある。つまらないと断じる前にまずは聴いてみる。主人公が神童で終わってしまうのは「たくさん勉強したから自分は賢い」と、勉強時間や読んだ本の冊数に比例して自分の知識や教養が上がっていると勘違いしているからです。

勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされ、したたかに打ちのめされる。そういう「蟻地獄」に自らはまりこむ自虐的な営為にこそ「勉強」というものの本質があります。

だから、大学を職業訓練校にせよ、なんていうのは、「本当の勉強」を実行したことも、その甘美な味わいも知らない者の戯言にすぎないと思うのです。


やはり映画は映画館で見たほうがいいと思う理由

ちょうど1年前にこんな日記を書きました。→映画は映画館で見るべき最大の理由はこれだ!

私の考えは少しも変わりませんが、やはり「べき論」というのはちょっと押しつけがましい気がしないでもないので、今日は「映画館で見たほうがいい」と思う理由を書きます。


eigakan

ちょっと前に誰かのツイートで、
「家で独りで見るよりも、映画館で見たほうが種々雑多なエピソードと一緒に『エピソード記憶』として記憶されるから、映画館で見たほうがいいよ」
みたいなことを言ってる人がいましたが、それには一もにもなく賛同します。が、私の主張はぜんぜん違う角度からです。私の主張といっても偉い人の受け売りですけど。


kurosawakiyoshi

黒沢清監督が、『アカルイミライ』のメイキングで言っていました。

「映画館は自分と世間とのずれを知る場だと思っています。自分は悲しいのに笑っている人がいるとか、思わず笑ってしまったけど他の人は誰も笑っていないとか。人間の価値観は人それぞれだということを映画館で映画を見ることで思い知らされたんです」

確かにそうですね。家で独りで見ているぶんにはこういう感覚は味わえない。

価値観の違いといえば、こないだ驚愕したのが、あと5分で終わるというときにトイレに走る人がいたことです。え、マジで??? いま出ちゃうの、と。

もう一刻の猶予もままならない状態だったのかもしれませんが、もしかすると映画そのものが何分で何時ごろ終わるということを把握せずに見ている人もいるんだろうな、と。

私は構成の勉強のために、始まって何分でどういうエピソードが起こって……と時計で時間を測りながら見るので、予告編が何分で映画本編が何分で終演が何時何分というのは常に把握してから劇場入りしていますが、そういう人はおそらくごくごく少数派なのでしょう。

だから、あと5分でトイレに走る人を見たときに「え、マジで?」と思ったのはもしかすると私だけだったのかもしれない。トイレに走った人が特異なんじゃなくて、その人を特異だと思った私のほうが特異だったという可能性は大いにあります。

自分がどれだけ特異な存在か、またはどれだけ世間と同じ価値観をもっているかを確認できる。それが料金に含まれているのだからお得ですよね。

映画は人間を描くもの。その人間とはどういうものかを映画館で見たほうが深く理解できるのではないか。

だから、家に閉じこもって独りで見るのはもったいないと思うのです。


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