主義・主張

2020年03月20日



精神科医・春日武彦さんの名著『顔面考』をお読みになったことはありますか?


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いま新型コロナウイルスのせいでマスクしている人がたくさんいますが、昔はマスクをしてるだけで電車の自分の両横だけ空席なんてことがありました(花粉症なのでね)。それぐらい「マスクをしてる奴は怪しい」と思われたのに、最近は「伊達マスク」なるものがあるというから時代は変わったものです。

とはいえ、あくまでも日本においてだけみたいですけども。外国ではマスクというのは細菌テロが起こったときにだけ装着する「特別なアイテム」だとか。あとは瓦礫の撤去作業をする人はマスクをしていないと粉塵を吸い込んでしまうので日本人と同じように装着するそうですが、インフルエンザが流行していてもマスクはつけないのが普通とか。

だから伊達マスクなんてもってのほか!

目だけ見せて鼻から下を隠すとかわいく見えるとかで大流行しているみたいですが、自分の顔は隠して他人の顔は見れるって卑怯じゃないか! と最初は思ってたんですけどね、どうも違うな、と。

マスクしてる人の気持ち悪さの正体は何だろうと考えていて、昨日やっと思い至りました。

『顔面考』には次のような記述というか、他の文献からの引用があります。めちゃくちゃ難しい文章のうえにうろ覚えなので(手元に本がない)正確ではない可能性がありますが、だいたい次のような意味です。

「顔というのは自分の鏡である。他人の顔を見たときその人がどういう表情をするかで自分がどう思われているか、つまり社会の中の自分像がわかる。つまり顔とはそれ自体がコミュニケーションツールなのである」

だから、風邪や花粉症でもなく、新型コロナウイルスの予防でもなくマスクで顔を隠している人は、他者とのコミュニケーションを自分から遮断しているわけですね。

なるほど、あのような少しもおしゃれでないファッションが流行しているのはそういうわけだったのか、だからあんなに気持ち悪かったのかとやっと腑に落ちました。いかにも現代ニッポン的。

整形疑惑なんて言葉があります。「誰それは整形している」というそれだけに特化したブログやツイッターアカウントを見たことありますが、整形って世間では悪徳以外の何物でもないんですね。私はそんなに悪いこととは思いませんが。

でも、伊達マスクは正真正銘の悪徳だと思います。他人とコミュニケーション取りたくなければ家の中から出なければいい。

それじゃ生きていけない?

それならちゃんと顔を見せて生きましょう。社会の中で生きる以上、それがルールのはずです。


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顔面考 (河出文庫)
春日 武彦
河出書房新社
2009-07-03


 

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2020年03月15日

内田樹先生の『邪悪なものの鎮め方』を読んでいると、前々から思っていたことが載っていた。

曰く、

「いまの日本人はみんな被害者になりたがっている。被害者になれば文句を言う権利が得られると思っている。つまりはクレーマーである」

この一節を読んだときに思い出したのは小学校の頃の出来事だった。

私は4年生で卓球クラブに所属していた。

え、小学校なのに部活があったの? と訊かれることが多いが、神戸市というか兵庫県には当時「クラブ活動の時間」というのが時間割に組み込まれていたのである。他の地域のことは知らない。

だから中学や高校のように放課後に練習をするのではない。確か金曜日の5時間目か6時間目であった。

そのとき、Hさんという人が部長で、よく「みんなこのクラブをよくしていくために意見を言って」と練習後の学級会みたいな時間に言っていた。

私は引っ込み思案だったから一度も発言したことがなかったけれど、6年生の先輩が毎週のように発言していた。


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曰く、

「僕は下手糞です。うまい人はうまいけどクラブを良くしようとは思っていません。下手糞な人間が発言しているのだからうまい人はもっと何か言うべきだと思います」

うん、確かに正論である。しかし当時の私はこの先輩がこういうことを言うたびにとても胡散臭いものを感じていた。まだ子どもだったから言葉にできなかったけれど。

正論というのは正論であるがゆえにうさん臭いと感じられることが多い。とは、もっと成長してから知ったことだが、直観的にうさん臭いと感じていたのでしょう。

特に「僕は下手糞だから」「下手糞な僕が」云々かんぬんというのが反吐が出るほど嫌いだった。

確かにその人は下手糞だった。うまいのに下手とウソを言っていたわけではない。

しかしながら、自分が下手糞であることを「武器」にしているのがいやだったのだ。違うと思ったのだ。

うまい人は楽しく卓球をすることばかり考えていてクラブ活動を良くしようと考えていない。確かにその通りだったような気がする。発言を求めていたH部長にしてからが、ゲームが始まると卓球のことに熱中してクラブ活動がどうだとかそんな高邁な精神はどこかへ行っていた。小学生だもんね。

しかし、下手糞を武器にする先輩はそれを難じた。下手糞な人間ですらクラブのことを考えているのだからうまい人はもっと考えるべきだ。というのは論理的には正しい。だから反論が難しい。というか、できない。

でも、自分が下手糞であることをアピールし、そのアピールによって自分を絶対安全地帯に置いたうえでうまい人を攻撃するそのやり口は卑怯だと思った。

確かにその先輩の言うことには反論できない。しかし、反論できないように最初から計算しているのである。その計算高さがとてもいやだったのだ。繰り返し言うけれど、当時の私がこういうふうに考えたわけではない。何となく心にモヤモヤしたイヤ~なものがわだかまっていただけ。

クレーマーも同じだと思うんですよね。自分は客であり、客に対して平身低頭することしかできない店員を相手に居丈高にものを言う。絶対安全地帯から正論を繰り出すそのやり口はとても卑怯で卑劣だと思う。

ということを新型コロナのせいか日曜なのにあまりガキどもがいないマクドで考えた次第です。




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2020年02月19日

今朝のニュースで「AI面接」なるものが幅を利かせつつあると言っていました。

婚活なんかでも「マッチングアプリ」というAIを使って人間では測れない「相性の良さ」を掘り当ててカップル成立させているというし、「AI面接」などで驚いてはいけないご時世なのでしょうか。


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しかしですね、結婚だったら「この人と一緒なら楽しいかも」ぐらいの乗りでいいかもしれないが、就職となると話は別でしょう。学生にとっては一生ものだし。

しかも、いま「AI面接」で調べてみると、

「すべての評価結果が数値として表示され、曖昧さがないのが特長です」

と書いてあるが、それってほんとに「特長」? 曖昧なのが人間なんですけど。モヤモヤした何かを抱えているのが人間なんですけど。特に大人未満の年頃にはね。

企業側のメリットは何よりも「コスト削減」。しかも面接できる人材が飛躍的に増える。ニュースでも「人間の面接官なら10人しか会えないところをAIなら100人会える。10人の中の1人より100人の中の1人を選びたい」その気持ちはわかる。

だからといって誰も直接その人を見ないで大丈夫なの? そりゃ最終的には社長など偉い人が実際に会うんでしょうけど、その前に何人も振り落とすんでしょう?

AIがどう考えているかというのは完全にブラックボックスらしく、人間にもわからない。そんなよくわからないもので評価しちゃっていいの? 

お見合いや結婚だって「AIを信じて会ってみたら何となく気が合う」というのが大事なわけでしょう? ここで大事なのは「AIの言っていること」ではなく「とりあえず会ってみた」ということだと思う。AIが偉いんじゃなくて「AIならひょっとして……」というまさに「ブラックボックス」な何かにすがりたくて「実際に会う」ところからスタートしたことが大事なわけですよね。選り好みしてたら何も始まらないし。

しかし、と企業側人事担当者は言うでしょう。

こっちも生身の人間だから会える人材には限度がある。でもAIならその数を飛躍的に伸ばせる。出会いの確率も上がる。

一理ある。でもね、実際に10人に会って1人選ぶとすると、9人を落としたことになる。でも100人から1人を選ぶとすると99人を振るい落とす。でも、落としたほうは9人落としたときと同じ「痛み」しか感じない。なぜならAIが高評価を下した10人にしか会ってないから。

「生身の人間だから限度がある」というのは正当性があるように見えて「罠」だと私は思う。

生身の人間だからこそ実際に会わずに落とした人間には何の痛痒も感じない。そりゃいい人材に巡り合えた企業側は「やっぱりAIはいい!」ということになるんでしょうが、落とされたほうは「会ってもくれなかった」と心に傷を抱えることになる。

生身であることを言い訳にして、結果的に他人の生身を傷つける。(心は生身です)

私がAI面接なるものに「人間としての危機」を感じるのはまさにこの一点においてです。


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人工知能の哲学
松田 雄馬
東海大学出版会
2017-04-25





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