主義・主張

2019年11月02日

これからシナリオコンクールに応募しようという方、またはすでに応募したことがあっていま現在も頑張っている方にぜひ言っておきたいことがあります。

といっても書き方とかドラマの仕組み方とかではありません。結局プロになれなかった人間なのでそんなことに講釈を垂れる資格はありません。

私が言いたいのは、

親兄弟、恋人、配偶者の類であっても絶対に信用してはいけないときがある。

ということです。

その前に『放浪記』の話をしましょう。

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『放浪記』といっても林芙美子の小説は読んだことがありません。成瀬巳喜男監督が映画化したのを見たことがあるだけです。それほど好きじゃないから一度しか見ていませんしほとんどのシーンを憶えていません。

が、ひとつだけ強烈に憶えている場面があります。

すでに小説家として名を成した高峰秀子演じる林芙美子(自伝的作品です)が、小説家志望の女性から預かった原稿をゴミ箱に捨てるのがそれです。

その女性は小説コンクールに応募しようと必死で書いた。その原稿は今日が締切で絶対に今日中に出さねばならない。でも急用ができたか何かで、林芙美子に投函しておいてほしいと預けて行ってしまうのです。

林芙美子は「甘いのよ」と言ってその原稿を捨てます。

『放浪記』を見たことも読んだこともない友人にこの場面を説明すると「ひどい」と言っていました。

私は林芙美子の「甘い」という言葉の意味がよくわかります。

必死で書いた原稿なら、その原稿に人生を賭けているのなら、絶対に他人に託してはいけません。捨てた林芙美子が悪いなんて少しも思わない。そんな大事なものを他人に、それも将来のライバルになるかもしれない人に託すなんてはっきり言ってアホです。

私は何度もコンクールに応募しましたが、どの原稿も自分で出しに行きました。親が「代わりに出しといてあげようか」と言ってくれたこともあります。しかし私は「こういうことに関しては自分しか信用していない」と言って頼ったりしませんでした。経済的には脛かじりまくりでしたけど。(笑)

親は「自分の親を信用できないなんて」と文句を言っていましたが、無視しました。そういうときは世界の誰も、自分以外の誰も信用してはいけない。

必ず自分の手で出してください。もしその日が締切で消印有効なら、郵便局員がいくらめんどくさがろうと文句を言おうと「目の前で消印を押してください」としつこく言い続けましょう。「今日が締切なんです」と言えば誰でも最後は押してくれます。

押した日付がちゃんと今日の日付になっているかも確かめましょう。誰も信用してはいけません。その原稿にあなたの人生が懸かっているんでしょ。ならば信用などしていいはずがない。

そういうときに誰かを信用するのは「甘い」のです。仮に頼んだ人に裏切られて怒ろうが縁切りしようが何しようが、もうその原稿はダメです。

書いた原稿は必ず自分で出しに行く。徹底してください。


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2019年09月15日

1996年に製作されてから今日まで新たなファンを獲得し続ける、鬼才デビッド・クローネンバーグ監督による変態映画の決定版『クラッシュ』。めちゃんこ久しぶりに再見して、またぞろ悶絶してしまいました。


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変態じゃない奴が変態である!
私はかねてから「変態じゃない奴が変態である」と唱えています。どういうことかというと、昔懐かしい岸田理論(『ものぐさ精神分析』)によると「人間は本能が壊れた動物」だから、人間の本性は変態だということ。変態こそ人間の真の姿であって「俺は/私は変態じゃない」とのたまう奴こそが真の変態だという逆説。

実は、かつてこの映画を(まだVHSの頃)親父と一緒に見たことがあって、「あー、少しも理解できない。この変態どもはいったいなんだ⁉」と言っていて、そうなんですよ、あなたみたいな人が本当の変態なんですよ、と声に出さずに言ったものです。

私のあばら骨のあたりはかなり皮膚が固くなって色が変わってるんですが、それは、そのあたりを爪でひっかくと肘にピピピと電気が走って得も言われぬ快感があるからなんです。ひっかきすぎて皮膚が固くなってしまったんですね。


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そのピピピという電気はやや痛みに近いものなので、この映画の痛みに快感を覚えるというのはわかる気がするんです。いや、わからない奴こそが変態なのだ!

「そこだけ何で色変わってるんですか? え、マジで⁉ ウッソー! 信じられない。いったいどこまで変態なんですか!」

などと懇切丁寧に説明した挙げ句、嫌がられます。そういう人間にかぎって「自分は変態じゃない」ときっぱり言えるらしい。そういう人間にこの『クラッシュ』の目くるめく陶酔は永久にわからない。

だからこそ私は主張してるんですよ。「変態じゃない奴こそが変態なんだ」と。

変態人間を差別する真の変態人間も嫌いだし、変態映画を毛嫌いする人間も嫌い。そういう人間たちとの闘争が私の人生そのものと言っても過言じゃない。

しかし、事態はそう単純でもないのです。


同じ変態を描いても……
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この『クラッシュ』はピーター・サシツキーの光と影を巧みに捉えた美しい映像も相俟って「芸術映画」という括りをされています。しかもジェームズ・スペイダー(まだこの頃はイケメンですね)、デボラ・カーラ・アンガー、ロザンナ・アークエット、イライアス・コーティーズなどの一癖も二癖もある役者に真面目で思わせぶりな芝居をさせているので、何だかものすごい高尚な映画の衣をまとっています。変態性欲を真面目に描くとその筋からは「芸術」というお墨つきを得られる。

だから『クラッシュ』はまだいいほうなんです。

例えば、連続殺人鬼を描いた映画なら『サイコ』とか『ヘンリー』とかは「これぞ映画芸術の粋だ!」みたいな言われ方をするのに、同じ連続殺人鬼でもジョン・ウォーターズ老師の『シリアル・ママ』みたいにコメディにしちゃうと途端に総スカンを食らっちゃう。

あの映画、私は最初から最後まで笑いどおしだったので4回も見に行ってしまいました。で、母親からオススメ映画を教えてくれと言われたので薦めたんですよ。そしたら帰ってきた母親は「あんなのをどうして薦めるの!」とものすごいお冠。「万人向けだと思ったんだけど」「あんたみたいな若者にはいいんでしょうけど、私らみたいな50代のオバサンには理解できない」と。

私は「歳の問題ではない」と思った。実際、つい最近60代の人に薦めたけど面白がってましたもん。

結局は「変態じゃない奴が変態である」というまっとうな人間精神をもった人間なら楽しめるんですよ。いくら若くても「自分は変態じゃない」と凝り固まってる人間には永久にわからない。


一番難しい人たち
しかし世の中には『クラッシュ』も『シリアル・ママ』も楽しめるけど「自分だけは変態じゃない」と豪語する輩もいて、うーん、そういう人間が一番難しいんですよね。フィクションの変態は認めるけどリアルな変態は認めない、みたいな。

変態映画をともに楽しんで「同志」だとばかり思っていたら「自分だけは変態じゃない」と言い出す。

あれよりひどい裏切り行為はこの世にない。


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2019年09月09日

『ジョーカー』が金獅子賞を獲ったヴェネチア映画祭について友人が、ノア・バームバックのNetflix作品『マリッジストーリー』も評価が高かったのに無視された、去年は『ROMA/ローマ』が獲ったのに今年はNetflixが冷遇されている、と愚痴をこぼしていました。


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スピルバーグは配信映画を劇場映画と同列に扱ってはならないと発言しています。「劇場で上映しない作品はテレビ映画としてエミー賞の対象にはなるがアカデミー賞の対象にはならない」と。少なくともスピルバーグの目の黒いうちは「ロサンゼルスで連続7日間以上劇場で上映された40分以上の長編劇映画が対象」というアカデミー賞の規約の変更はなさそうです。

カンヌ映画祭でも去年からフランス国内で劇場公開しなかった映画はコンペティション部門には出品できなくなりました。

どうも世間では「Netflix作品をなぜ映画祭から締め出すのか」という論調が支配的なようですが、私は「なぜNetflixは映画祭に出品したがるのか」と問いを立て直すべきだと思う。


Netflix

もともと私もスピルバーグと同じく保守的な考え方なので「配信映画なんて映画じゃないよ」みたいに思ってましたが、いまはTSUTAYAに在庫のない『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見るために30日無料お試しで入会中です。きっちり30日でぬけるつもりですが。だって私みたいなクラシック映画好きには向いてないんですもん。

って、そんなことはどうでもよく、実際に配信で見ていると、特に「こんなの映画じゃない!」とは思いません。テレビ画面で録画した映画を見てるのと同じ。

でも、というか、だからよけいに「なぜNetflixは映画祭に出品したがるのか」と考えてしまうのです。


配信映画専門のネット映画祭
普通に考えて、Netflixなら「配信映画専門のネット映画祭」とか立ち上げられそうじゃないですか。いまはいろんな配信会社があるんでしょ。そういう会社が製作した作品だけに特化した映画祭。

もちろん、配信映画だからカンヌやヴェネチアみたいにリアルな劇場で上映というのではなく、全世界のネットユーザー向けに配信だけする映画祭。

例えば今日9月9日0時から15日24時までのちょうど7日間を期間として、その間に出品作を配信する。他の会社の協力がないなら、自社だけで「映画祭用の映画」を作って配信する。11月に配信予定のスコセッシ最新作『アイリッシュ・マン』を映画祭ユーザー向けに先行配信する、なんてのもいいかもしれない。もちろん、映画祭の作品を見たい人には追加料金を課す。世界中に1億5000万もの会員がいるのだからめちゃたくさんの金が集まるでしょう。かなり規模の大きな映画祭になります。


ネット映画祭の問題
こういう映画祭、Netflixの幹部だって考えたことがあるに違いないんですよね。ついこないだ加入した人間が思いつくくらいなんだから。

でも実際は配信映画祭をやらずに既存の映画祭に出品する。なぜか。

「お祭り」にならないからです。

映画祭で見た作品をSNSで発信してもらったら会員数は増えるでしょうが、みんな見たいときに見たい端末で見るだけだから、場所も時間もバラバラ。

お祭りにするためには「限定された場所」と「限定された時間」が必要なんですよね。このうち「場所」に関しては配信だから最初から限定するのは無理。

じゃあ「時間」はどうか。映画祭での上映なら「9時から」と決まっていたら誰も疑問に思わずその時間に行くでしょうが、配信映画で「9時から」と謳われても「見たいときに見れるから入会してるのに」とそっぽ向く会員がたくさんいると思われます。

仮に時間に関して不評がなくとも、もっと大きな問題があります。それは「映画祭における演劇性」です。


レッドカーペットとティーチ・イン
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リアルな映画祭にあってネット映画祭では実現不可能なもの。それは「レッドカーペット」。有名スターがそろうところをすぐ目の前で目撃できるライブ感覚はネットでは絶対に実現できない。

映画が発明されたとき演劇はなくなると思った人が多かったらしいですが、結局いまも生き永らえている。そして、きっとこれからも。それは生身の俳優が目の前にいるライブ性が一番の要因。映画はしょせん複製芸術。

さらに、通常の映画祭での上映後にはティーチ・インってありますよね。その映画の監督をゲストに迎えて話を聞いて、そのあと質疑応答。ネット映画祭でも配信後に監督がライブ中継で登場してインタビューを受けたり、ということはできましょうが、ライブ感覚がないのは致命的。

しかも質疑応答ができない。仮に質疑応答を受けても見てる人の数が多すぎて対処しきれない。

おそらくお祭りを成立させるには「限定された人数」というのも必要なのです。何千万人が参加するお祭りなんかない。あるとしたら人間の脳内だけ。

やっぱりお祭りには「生身の肉体」が必要なんですよ。もしレッドカーペットもティーチ・インもなしでネット映画祭をやっても「ただの特別上映会」みたいな感じでしょう。しかも独りで見るわけだから何の盛り上がりもない。そんな映画祭には誰も参加しないでしょう。

特定の場所・時間に多数の人間が集まるお祭りが映画祭。でも、これって普通に世界中の劇場で行われていることですよね。ティーチ・インやレッドカーペットはないけど、不特定多数の人が集まるお祭りが劇場での映画鑑賞。


結局、権威がほしいだけ?
Netflixはそういうお祭り性を放棄した映画製作を目指したんでしょう? なのにお祭りに参加したがるっておかしい。ネット映画祭では採算が取れないから無理。いや、そもそもカンヌ金賞やヴェネチア金賞など権威がほしい。だから既存のお祭りに参加させてくれって虫がよすぎる。

Netflixとか配信映画そのものは前述のとおり否定しません。でも映画祭に参加するのはお門違いだと思う。

ヴェネチアがNetflix作品をコンペに選んでるのだって、カンヌとの違いを打ち出そうというだけの話だと思うし。







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