主義・主張

2020年01月18日

先日発表されたアカデミー賞ノミネーションにおいて、演技部門にノミネートされた有色人種が一人だけだったとかで「多様性の欠如」と批判されているとか。

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そこへアカデミー会員でもある小説家のスティーブン・キングが、

「芸術において多様性を考慮したことは私は一度もない。クオリティだけだ。それ以外は間違った行為だと私は思う」

という発言をして非難の集中砲火を浴びているとか。

まったくナンセンス!

キングの発言がじゃなくて、キングが非難されることがです。

キングはちゃんと機会の平等は担保されるべきだって言ってますよね。機会の平等が担保されているかどうかが大事なのであって「結果の平等」まで求めるのは無理筋です。最近はいつでもどこでもPC=政治的正しさばかりを求める人が増えてしまいました。困った風潮だと思います。


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『華氏911』という映画がありました。ジョージ・W・ブッシュを批判することは「政治的に正しい」行為でしょう。しかし、この映画は政治的な主張をすることに躍起になってしまったために致命的な欠陥があります。

それは「ブッシュがアルカイダと結びついている」という作者の言いたいことをナレーションで語るだけ、というもの。映像的な裏付けが何もない。ただ言いたいことを垂れ流しているだけの映画でした。

つまり、政治的主張が正しいからといってその映画が優れていることにはならない、ということです。

多様性というのは大事なことでしょうが、その追求のために作品の質が落ちたんじゃ意味がない。今回ノミネートを逸した作品がそうだとは言いません。ほとんど見てないし、見てない以上は口が裂けても言えない。(しかし世の中には見てない映画のことを語る輩が何と多いことよ)

確かに、結果の不平等は機会の不平等につながります。

「ノミネートされただけでも家が建つ、日本とはえらい違いや」とは、私に映像編集の極意を教えてくださった谷口登司夫さんの言葉ですが、ノミネートされればギャラも上がってオファーも増える。機会の平等を追求するためには白人男性ばかりの会員の構成を是正していくべきです。(すでにいろいろと手は打ってあるみたいですけど)

しかし、それは映画芸術科学アカデミーという「組織」が考えるべきことであって、純粋に「一個人」が投票するときに結果の平等など考えなくていい。

これが面白かった。これもよかったけど、あっちのほうがよかった。

お祭りなんだから無邪気に楽しめばいい。お祭りに政治などもちこんでもらっては困る。






2019年12月19日

新幹線で「一生刑務所に入りたい。でも死刑はいや」などと身勝手な理由から一人を殺害、二人に怪我を負わせた犯人に無期懲役の判決が下りました。


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一生刑務所に入りたいという夢を叶えてやってどうするんだという意見が支配的ですが、まったくもって同感。自分を犠牲にして突っかかっていった男性がいなかったらもっと殺されていたでしょう。

こういう事件が起こると「だから死刑は必要なんだ」という死刑存続派が勢いづきますが、私はそれには与しません。

そりゃま、死刑になりたくない人間なら死刑に処したほうがいいかもしれないけど、最近は死刑になりたかったといって凶行に及ぶ輩も多いし、そもそも「極刑は死刑」というのは固定観念というか、そこを根本から改めるべきと考えます。

私は「残虐刑」の導入を提唱したい。死んで終わりの死刑よりもっと重い刑。

以下にその手順を記します。


①手足20枚の生爪を全部はがし、ハンマーで両手をつぶす。

②歯を全部ぬく。

③両耳に千本通しを突き刺す。

④両目をくりぬく。

⑤アキレス腱を切る。

⑥男は陰茎を切り落とし、万力で睾丸をつぶす。
 女は焼きゴテを膣に挿入する。


ここで終わり。晴れて釈放。死刑になるよりつらい生き地獄を与えるというわけ。

もちろん、これは特別な刑ですよ。今回のような本当に極悪な犯罪者にだけこの刑を科す。

今回の犯人は自分の罪を悔いるどころか、念願の無期懲役の判決が出て万歳三唱したというのだから、これぐらいの刑罰を科してやっと帳尻が合うんじゃないですかね。

死刑になりたいと言って人を殺すような奴らもすべて同様の刑を科すべき。

いまの日本の死刑では、確か死刑囚の足元の床を開けるスイッチを二人の刑務官が入れるんですよね。どっちが本当にオンにしたかわからないように。銃殺があった頃は一人だけ空砲が入っていて「自分が殺した」という罪悪感をなくす工夫をしていた。

この残虐刑では、じゃあ、いったい誰がそんなむごたらしい刑を執行するのかという問題がありますが、答えは簡単。

残虐刑用のロボットを作ればいいんです。それぐらいいまのAIで充分可能でしょう。戦闘機を作って他国に売るよりよっぽどいい。

でも、この残虐刑が実際に執行されることはほぼないでしょう。誰だってこんなむごい刑罰を受けたくないですから。

この残虐刑を死刑より上の極刑に据えれば、今回のような怒りのやり場のない事件はなくなると思います。

執行されることはありえないと思えるくらい残虐な刑罰を極刑として設定する必要があるのではないでしょうか。

万歳三唱した男はいつか出てきて本当にまた人を殺しますよ。少なくともそれまでに、いや、もっと早く残虐刑を導入してほしいと切に願います。




2019年11月30日

最近、「やくざ」という言葉が放送禁止用語になっていると知り、目が点になりました。

これ、本当のことらしいです。

別に「めくら」「つんぼ」「エタ」「非人」みたいな差別される側を指す蔑称じゃないのに、いったいなぜなのか。


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やくざに取材できなくなった
やくざ関連の著書をたくさん出しているジャーナリストの溝口敦氏によると、

・「やくざ」という言葉は江戸時代からある言葉だけども、やくざという存在を認めている人たちが使う言葉である。
・「やくざ」をやめて「暴力団」にするというのは警察の呼称に合わせているだけ。マスコミは警察に牛耳られているから。

ということだそうです。

かつて、やくざ関係の取材をするときは、やくざに直接取材していたそうです。刑事より記者のほうが情報をたくさんもっていて、いろいろ教えてあげたとか。

ところがいまでは反社会勢力との接触を断たなければいけないから、やくざに取材できない。警察が発表することを鵜呑みにしてそのまま発表するしかない。

だから「マスコミは警察に牛耳られている」となるわけですが、だとしたら、これは憲法違反じゃないの?


放送禁止用語とは
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「放送禁止用語」とは、この言葉は放送してはいけないと法律で決められている、と誤解している人がいまだに多いですが、まったく違います。

放送業界が自分たちで「こういう言葉は放送しないようにしましょう」と業界内だけで決めているただの自主規制です。

「この言葉は放送してはいけない」なんて法律は作りたくても作れません。なぜなら言論の自由と表現の自由が憲法で保障されているわけだから明らかな憲法違反です。

そして、これもあまり知られていませんが、法律と憲法の違い。

法律は、人を殺したらこれだけの刑に処すとか、権力者が大衆を縛るもの。

対して憲法は、権力者の暴走を防ぎ、大衆の権利を保障するもの。だから基本的人権も、表現の自由も、集会・結社の自由も、職業選択の自由も憲法に書かれているし、同時に、自白は証拠にならないとか拷問の禁止も刑事訴訟法ではなく憲法に書かれている。(そのとおりに運用されているかは別問題)

だから、警察がマスコミを牛耳った結果として「やくざ」という言葉が放送禁止用語になるなら、これは言論の自由や表現の自由に反するし、何より警察という権力の暴走を促すという、憲法の精神に反したものとなる。

溝口氏はマスコミを牛耳っている警察を一方的に悪者に仕立て上げたいみたいですが、私は警察と結果的に癒着しているマスコミも悪いと思う。

反社がどうとかそんなこと関係なしに取材してどんどん記事を書けばいいと思う。言いなりになったり忖度したりしてはダメ。それが「ジャーナリズム」というものじゃないの?

「やくざ」が放送禁止用語になった今回の憲法違反は、警察とマスコミのコラボレーションでしょう。