主義・主張

2019年09月15日

1996年に製作されてから今日まで新たなファンを獲得し続ける、鬼才デビッド・クローネンバーグ監督による変態映画の決定版『クラッシュ』。めちゃんこ久しぶりに再見して、またぞろ悶絶してしまいました。


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変態じゃない奴が変態である!
私はかねてから「変態じゃない奴が変態である」と唱えています。どういうことかというと、昔懐かしい岸田理論(『ものぐさ精神分析』)によると「人間は本能が壊れた動物」だから、人間の本性は変態だということ。変態こそ人間の真の姿であって「俺は/私は変態じゃない」とのたまう奴こそが真の変態だという逆説。

実は、かつてこの映画を(まだVHSの頃)親父と一緒に見たことがあって、「あー、少しも理解できない。この変態どもはいったいなんだ⁉」と言っていて、そうなんですよ、あなたみたいな人が本当の変態なんですよ、と声に出さずに言ったものです。

私のあばら骨のあたりはかなり皮膚が固くなって色が変わってるんですが、それは、そのあたりを爪でひっかくと肘にピピピと電気が走って得も言われぬ快感があるからなんです。ひっかきすぎて皮膚が固くなってしまったんですね。


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そのピピピという電気はやや痛みに近いものなので、この映画の痛みに快感を覚えるというのはわかる気がするんです。いや、わからない奴こそが変態なのだ!

「そこだけ何で色変わってるんですか? え、マジで⁉ ウッソー! 信じられない。いったいどこまで変態なんですか!」

などと懇切丁寧に説明した挙げ句、嫌がられます。そういう人間にかぎって「自分は変態じゃない」ときっぱり言えるらしい。そういう人間にこの『クラッシュ』の目くるめく陶酔は永久にわからない。

だからこそ私は主張してるんですよ。「変態じゃない奴こそが変態なんだ」と。

変態人間を差別する真の変態人間も嫌いだし、変態映画を毛嫌いする人間も嫌い。そういう人間たちとの闘争が私の人生そのものと言っても過言じゃない。

しかし、事態はそう単純でもないのです。


同じ変態を描いても……
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この『クラッシュ』はピーター・サシツキーの光と影を巧みに捉えた美しい映像も相俟って「芸術映画」という括りをされています。しかもジェームズ・スペイダー(まだこの頃はイケメンですね)、デボラ・カーラ・アンガー、ロザンナ・アークエット、イライアス・コーティーズなどの一癖も二癖もある役者に真面目で思わせぶりな芝居をさせているので、何だかものすごい高尚な映画の衣をまとっています。変態性欲を真面目に描くとその筋からは「芸術」というお墨つきを得られる。

だから『クラッシュ』はまだいいほうなんです。

例えば、連続殺人鬼を描いた映画なら『サイコ』とか『ヘンリー』とかは「これぞ映画芸術の粋だ!」みたいな言われ方をするのに、同じ連続殺人鬼でもジョン・ウォーターズ老師の『シリアル・ママ』みたいにコメディにしちゃうと途端に総スカンを食らっちゃう。

あの映画、私は最初から最後まで笑いどおしだったので4回も見に行ってしまいました。で、母親からオススメ映画を教えてくれと言われたので薦めたんですよ。そしたら帰ってきた母親は「あんなのをどうして薦めるの!」とものすごいお冠。「万人向けだと思ったんだけど」「あんたみたいな若者にはいいんでしょうけど、私らみたいな50代のオバサンには理解できない」と。

私は「歳の問題ではない」と思った。実際、つい最近60代の人に薦めたけど面白がってましたもん。

結局は「変態じゃない奴が変態である」というまっとうな人間精神をもった人間なら楽しめるんですよ。いくら若くても「自分は変態じゃない」と凝り固まってる人間には永久にわからない。


一番難しい人たち
しかし世の中には『クラッシュ』も『シリアル・ママ』も楽しめるけど「自分だけは変態じゃない」と豪語する輩もいて、うーん、そういう人間が一番難しいんですよね。フィクションの変態は認めるけどリアルな変態は認めない、みたいな。

変態映画をともに楽しんで「同志」だとばかり思っていたら「自分だけは変態じゃない」と言い出す。

あれよりひどい裏切り行為はこの世にない。


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2019年09月09日

『ジョーカー』が金獅子賞を獲ったヴェネチア映画祭について友人が、ノア・バームバックのNetflix作品『マリッジストーリー』も評価が高かったのに無視された、去年は『ROMA/ローマ』が獲ったのに今年はNetflixが冷遇されている、と愚痴をこぼしていました。


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スピルバーグは配信映画を劇場映画と同列に扱ってはならないと発言しています。「劇場で上映しない作品はテレビ映画としてエミー賞の対象にはなるがアカデミー賞の対象にはならない」と。少なくともスピルバーグの目の黒いうちは「ロサンゼルスで連続7日間以上劇場で上映された40分以上の長編劇映画が対象」というアカデミー賞の規約の変更はなさそうです。

カンヌ映画祭でも去年からフランス国内で劇場公開しなかった映画はコンペティション部門には出品できなくなりました。

どうも世間では「Netflix作品をなぜ映画祭から締め出すのか」という論調が支配的なようですが、私は「なぜNetflixは映画祭に出品したがるのか」と問いを立て直すべきだと思う。


Netflix

もともと私もスピルバーグと同じく保守的な考え方なので「配信映画なんて映画じゃないよ」みたいに思ってましたが、いまはTSUTAYAに在庫のない『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見るために30日無料お試しで入会中です。きっちり30日でぬけるつもりですが。だって私みたいなクラシック映画好きには向いてないんですもん。

って、そんなことはどうでもよく、実際に配信で見ていると、特に「こんなの映画じゃない!」とは思いません。テレビ画面で録画した映画を見てるのと同じ。

でも、というか、だからよけいに「なぜNetflixは映画祭に出品したがるのか」と考えてしまうのです。


配信映画専門のネット映画祭
普通に考えて、Netflixなら「配信映画専門のネット映画祭」とか立ち上げられそうじゃないですか。いまはいろんな配信会社があるんでしょ。そういう会社が製作した作品だけに特化した映画祭。

もちろん、配信映画だからカンヌやヴェネチアみたいにリアルな劇場で上映というのではなく、全世界のネットユーザー向けに配信だけする映画祭。

例えば今日9月9日0時から15日24時までのちょうど7日間を期間として、その間に出品作を配信する。他の会社の協力がないなら、自社だけで「映画祭用の映画」を作って配信する。11月に配信予定のスコセッシ最新作『アイリッシュ・マン』を映画祭ユーザー向けに先行配信する、なんてのもいいかもしれない。もちろん、映画祭の作品を見たい人には追加料金を課す。世界中に1億5000万もの会員がいるのだからめちゃたくさんの金が集まるでしょう。かなり規模の大きな映画祭になります。


ネット映画祭の問題
こういう映画祭、Netflixの幹部だって考えたことがあるに違いないんですよね。ついこないだ加入した人間が思いつくくらいなんだから。

でも実際は配信映画祭をやらずに既存の映画祭に出品する。なぜか。

「お祭り」にならないからです。

映画祭で見た作品をSNSで発信してもらったら会員数は増えるでしょうが、みんな見たいときに見たい端末で見るだけだから、場所も時間もバラバラ。

お祭りにするためには「限定された場所」と「限定された時間」が必要なんですよね。このうち「場所」に関しては配信だから最初から限定するのは無理。

じゃあ「時間」はどうか。映画祭での上映なら「9時から」と決まっていたら誰も疑問に思わずその時間に行くでしょうが、配信映画で「9時から」と謳われても「見たいときに見れるから入会してるのに」とそっぽ向く会員がたくさんいると思われます。

仮に時間に関して不評がなくとも、もっと大きな問題があります。それは「映画祭における演劇性」です。


レッドカーペットとティーチ・イン
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リアルな映画祭にあってネット映画祭では実現不可能なもの。それは「レッドカーペット」。有名スターがそろうところをすぐ目の前で目撃できるライブ感覚はネットでは絶対に実現できない。

映画が発明されたとき演劇はなくなると思った人が多かったらしいですが、結局いまも生き永らえている。そして、きっとこれからも。それは生身の俳優が目の前にいるライブ性が一番の要因。映画はしょせん複製芸術。

さらに、通常の映画祭での上映後にはティーチ・インってありますよね。その映画の監督をゲストに迎えて話を聞いて、そのあと質疑応答。ネット映画祭でも配信後に監督がライブ中継で登場してインタビューを受けたり、ということはできましょうが、ライブ感覚がないのは致命的。

しかも質疑応答ができない。仮に質疑応答を受けても見てる人の数が多すぎて対処しきれない。

おそらくお祭りを成立させるには「限定された人数」というのも必要なのです。何千万人が参加するお祭りなんかない。あるとしたら人間の脳内だけ。

やっぱりお祭りには「生身の肉体」が必要なんですよ。もしレッドカーペットもティーチ・インもなしでネット映画祭をやっても「ただの特別上映会」みたいな感じでしょう。しかも独りで見るわけだから何の盛り上がりもない。そんな映画祭には誰も参加しないでしょう。

特定の場所・時間に多数の人間が集まるお祭りが映画祭。でも、これって普通に世界中の劇場で行われていることですよね。ティーチ・インやレッドカーペットはないけど、不特定多数の人が集まるお祭りが劇場での映画鑑賞。


結局、権威がほしいだけ?
Netflixはそういうお祭り性を放棄した映画製作を目指したんでしょう? なのにお祭りに参加したがるっておかしい。ネット映画祭では採算が取れないから無理。いや、そもそもカンヌ金賞やヴェネチア金賞など権威がほしい。だから既存のお祭りに参加させてくれって虫がよすぎる。

Netflixとか配信映画そのものは前述のとおり否定しません。でも映画祭に参加するのはお門違いだと思う。

ヴェネチアがNetflix作品をコンペに選んでるのだって、カンヌとの違いを打ち出そうというだけの話だと思うし。







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2019年09月05日

クローズアップ現代+「“改名”100人 ~私が名前を変えたワケ~」を興味深く見ました。


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何でも、日本では年間に4000人以上もの人が改名しているそうです。1日に11人超も。

番組で取り上げられていたのは、

①キラキラネームだから
②性転換したから
③親に虐待を受けてきて、その親の名前の一部が自分の名前にあるから
④元受刑者で、就職など社会生活に支障をきたすから
⑤出家したから

などなどの理由が主なものでした。


名前は呪い
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この人が一番長い時間をかけて取り上げられていました。元「王子様」という名前の男性。母親が自分にとって王子様のような存在だから、という理由で、父親には無駄で出生届を提出したそうです。

この人が言うには、

「自分の親はバカですって自己紹介するようなものなんですよ」

と言ってて、かねてからキラキラネームに批判的な私はそりゃそうだろうな、と思いました。生まれたばかりの赤ん坊が未来永劫赤ん坊のままだと思っているのです。成人し、社会に出、やがて老年を迎えるという「時間」の概念が決定的に欠落している。「いま」しか見えていない。(しかし、現在の中高生のキラキラネーム保持者のうち改名を望んでいる人はごくわずかとか。でもそれはまだ社会に出ていないからでしょう)

親に虐待を受けていて、その親の名前の一部が自分の名前にもある女性は、

「名前は呪い」

と言っていました。元受刑者は「名前は爆弾」だと。

言葉というのは(特に漢字は)もともと「呪い」だから、どんな名前でも呪いだと思うんですよね。

昔、個人情報の入力業務をしていたとき「止(とどむ)」という名前の人がいました。あぁ、この人は何をやっても中途半端で終わっちゃったんだろうな、と思いました。そんな名前をつけたら暗示にかかってしまう。

「呪い」というのは暗示にかけるための呪文です。だからどんな名前でも暗示にかかる。まともな名前ならまともな暗示にかかるから大丈夫。


これから名前はオープンになる⁉
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クローズアップ現代にいつも出てくる宮田裕章教授。(ネットで「FFキャラ」と書かれていて何だと思ったら「ファイナルファンタジーみたいなキャラ」ということだとか。ふうん)

この宮田教授が「これから名前はもっとオープンになっていくだろう」というんですね。

もともと日本では名前はオープンで、元服や結婚など人生の節目で何度も名前が変わった。それが明治5年の「複名禁止令」で完全にダメになった。「選択的一人一名主義」と言われるもので、要は、明治政府が天皇を父とし国民をその赤子とする中央集権国家を作り、さらに欧米列強に伍していく富国強兵政策を推進していくために、国民を一元的に管理する必要があった。そのために一人にいくつも名前があると管理しきれいないので生まれてから死ぬまでたったひとつの名前しか許されなくなった、と。

しかし、と宮田教授は言います。

個人番号などで一元的に管理する制度は整っているわけだから、もう選択的一人一名主義を貫かなくてもよい。これから名前はもっとオープンになるのではないか。

つまり、昔のように人生の節目節目で自由に改名できるようになるのではないか、と。


女性が強いワケ
昔から思っていることですが、男性より女性のほうが強いとか、結婚した男性は等しく妻の尻に敷かれるとか言われるのは、結婚によって女性の姓が変わるからじゃないかと。

下の名前は変わらないけど、苗字が変わるだけで、やはり内面もまた変わるんじゃないですかね。元服で名前を変えていたように、名前が変わることでより人間として成熟する。

だから夫婦別姓にしたい人はしたらいいけど、私自身は結婚することがあれば自分の苗字を相手の苗字に変えたいと思っています。名前が変わると世界が違って見えるんじゃないかとワクワクするんです。

番組で性転換した男性二人はものすごく幸せだと言ってたじゃないですか。

ということは、もし将来、自由に改名できるようになったら、みんなが人生の節目節目でガラリと内側から変わることができるわけで、この閉塞した時代に風穴を開けることができるんじゃないか、それならいますぐにでも法律を改正して「自由改名OK!」にしてほしいと切に思います。

(宮田教授とセットで出演することの多いノンフィクション作家の石井光太という人は、改名したいと訴える元受刑者に「そのままの名前でいろ。悪いことしたんだから報いを受けるのは当然だろう」みたいなスタンスでものすごく嫌でしたね)






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