聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

アニメ

『ペンギン・ハイウェイ』(存在と運動のはざまで)

話題のアニメ『ペンギン・ハイウェイ』を見てきました。これが何だかよくわからない映画でした。(以下ネタバレあります

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小学4年生で「毎日が忙しい」という主人公は日夜勉学に励んでいて、突如現れたペンギンの謎を解こうとします。そこに、見事なおっぱいをもった歯科医院のお姉さんとのあれやこれやとか、クラスメイトとのあれやこれやとか、森の向こうの「海」と名付けられた液状の球体とか、ジャバウォックという邪悪な生き物とか、台風が来て町が騒然となったり、最後はペンギンと当たった「海」が消滅し、「海」と連動していたお姉さんも消えてしまう。

いったい、お姉さんは何者だったのか。
ペンギンは何だったのか。
結局、この映画は何を言いたいのか。

私にはさっぱりわかりませんでした。以下は理解できなかった者の戯言です。


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動かない雲
この森の向こうの草原のシーンで顕著なのが「雲が動かない」ということなんですよね。動いてるカットもありましたがほとんど動いていませんでした。ほんの少しだけ映っている川の流れは常に描かれているのに、雲の動きや風にそよいでいるはずの草の動きもほとんどない。人間の髪が風になびくとかもない。

なんか変だな、と思っていると、クライマックスの台風とか、そのあとお姉さんと一緒に疾走する場面なんかではちゃんと髪がなびいているんですよね。逆に「海」という謎の球体は登場から消滅まで常に動いていました。

予算の問題で、終盤以外は手間暇をかけられないということかな? と思ったのですが、それだと、クラスメイトのお父さんがお姉さんに協力してくれと頭を下げに来る何でもないカットを、わざわざウォーターサーバー越しに描くという手間のかかる演出をしていた説明がつきません。


お姉さんのおっぱい
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このお姉さんのおっぱいに主人公は興味津々なのですが、このおっぱい、実は最後の失踪シーンで揺れていたかどうか見落としてしまいました。しかしながら、それ以外では見事に動かないんですよね。最後、主人公を抱きしめるシーンで彼の頭が胸にうずまって微妙に上下していましたが、しかし、あそこまでおっぱいに執着していた主人公がおっぱいに顔をうずめたというのに何のときめきも示さないのはなぜなのでしょう?


宇宙の本質は「運動」
一昔前、福岡伸一という分子生物学者の表した『生物と無生物のあいだ』という本が話題になりました。生物とは何かを考察した本で、結論は「生物を生物たらしめているのは『時間』だ」というものでした。(←うろ憶え)

最近読んだ業田良家先生の『機械仕掛けの愛』には「この宇宙の本質は『存在』ではなく『運動』なんだ」というセリフがあります。

「時間」と「運動」……前者はともかく後者に関して。

雲が動かない、草木が動かない、おっぱいが動かない。というのは何か意味がありそうな……?

『方丈記』の冒頭、「ゆく川の流れは絶えずして」を思い出させるかのように、この映画の川は絶えず流れています。

「海」はこの宇宙の穴ではないか、と主人公は仮説を立てます。父親から宇宙の果てがどうのこうのというレクチャーを受けたりします。

主人公はペンギンという「存在」、お姉さんという「存在」、そのおっぱいという「存在」を研究対象にします。「存在」というのは「動かない雲」や「そよがない草」「なびかない髪」と同義なのでしょうか。そして、終盤に至って急に髪がなびき草木がゆれ、そして見落としたけどおっぱいもゆれるということであれば、それは作者たちが「この宇宙の本質は『存在』じゃなくて『運動』だよ」と言っている、ということなのでしょうか? 

動かない雲と常に動いている「海」は明らかに対照的ですが、「海」の消滅とともに雲が動き髪がなびくというのは示唆的です。しかしながら何を示唆しているのかはまったくわかりません。

描かれない「勃起という運動」
しかし、この映画は執拗におっぱいにこだわりますが、主人公が興味をもつのは当然としても、あそこまで「おっぱい、おっぱい」とこだわりながら、ついに主人公の「勃起」という「運動」が描かれないのはなぜなんでしょうか?

お姉さんとは何者で、ペンギンや「海」が何を象徴しているのかがわかれば、上記の疑問も解けるのでしょうか。

どなたか教えてください。



アニメDVDについて文句をつけたい二、三の事柄

今年の目下のところのベストワン映画は『リズと青い鳥』でして、アニメはちょいと苦手なんですが、やたら評判がいいのと、もともとのシリーズ『響け! ユーフォニアム』を見てなくても充分わかると教えてくれた人がいたので思い切って見てみたらこれがドンピシャ! あまりのすごさに言葉を失ったのでした。

で、もとのシリーズを見てみようと思ったんですが……



こんな感じで7巻に分かれてるんですよね。1枚に2話ずつ。しかも私はレンタルでしか見ないけど、画像のブルーレイBOXは5万円以上もするんですって。これは在庫切れで値が吊り上ってるのかと思ったら、1枚当たりの定価が7000円ほどで、それなら7枚プラス特典がいろいろ付いてるはずだから5万以上というのは定価でしょう。

ていうか、え? 1枚7000円??? 

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試みに調べてみると、ジブリアニメがだいたい1枚4000円ほど。

高くないですか? 
日本映画のDVDは、というか、ハリウッド映画以外のDVDはほとんどやたら高いですが、それは、ハリウッド映画は全世界が市場だから単価を安くしても充分利益が上がるからでしょう? 
であれば、日本のアニメだって世界中で見られてるんだから単価を安くしてもいいのでは?

FIFAワールドカップがたけなわな今日この頃ですが、サッカー選手には『キャプテン翼』のファンが非常に多い。
というわけで調べてみたところ、『昭和版』というDVD-BOXが24枚、128話分で7930円。1枚あたり330円。それが『ユーフォニアム』は1枚7000円っておかしくないですか? 

そもそもの問題として、1枚になぜ2話しか入ってないの? これは他のすべてのテレビアニメ作品に言えることですけど。詰め込めば2枚だけで足りるだろうに。そりゃ枚数が多いほうが旨味が多いのはわかるけれども、ちょっとファンを馬鹿にしすぎでは?

というわけで私は総集編の劇場版を見ました。いろいろ解説なんかを読むかぎりではテレビシリーズと劇場版では当然ながら構成が大きく違うみたいだし、テレビでは出番の多かったキャラクターが劇場版ではほんのちょっとしか出てこなかったとかいろいろ異動があるみたいで、よけいにテレビシリーズを見たくなってしまった。

繰り返します。
アニメDVDは枚数が多すぎるうえに単価が高い!(一説によるとDVD1枚あたりの原価って100円程度らしいです)


ファーストガンダムの政治学③「戦後」を見据えるシャアの深謀遠慮

『機動戦士ガンダム』全43話の再放送がついに終わってしまいました。最終回で、またまた子どもの頃に見た記憶との相違に驚愕しました。

前回までの記事
①地球連邦軍の非情
②シャアを利用するキシリアの狙いとは 



シャアがザビ家への復讐に燃え、ジオン軍の兵士と戦っているけれどもそれは仮の姿。ザビ家の連中の寝首をかくためにそうしている、というのは憶えていました。

が、最後の最後で唯一生き残ったキシリアをバズーカで仕留めて復讐を完遂させるからか、シャアは最後までザビ家への復讐に燃えていたと勘違いしていました。



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クライマックスの白兵戦で白黒はっきりつけようというシャアは、ララァの弔い合戦をしているのだとばかり思っていました。けれど、今回見てはっきりしたのは、ララァを殺したのはアムロだとシャアが激怒しているのではなく、ララァを戦争に巻き込んだシャアに対してアムロが激怒しているんですね。同じニュータイプとして。

ではシャアはなぜもう戦争が終わろうとしているのにキシリアを殺しに行かずにアムロと戦うのか。

二人の殺し合いを止めるのはシャアの妹セイラですが、そのときシャアは言います。アムロは危険だと。ニュータイプとして覚醒しすぎた。戦争が終わればニュータイプの時代になる。そうなればアムロの天下だ、いまのうちに殺しておかねば。
セイラはまだザビ家への復讐に囚われていますが、シャアは「もうそんなことはどうでもいい」と言いきります。驚きましたねぇ。まさかこんなセリフがあったなんて少しも憶えてなかったというか、そういう物語、そういう最終回だったとは…。


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第二次世界大戦ではアメリカとソ連は同じ連合国で味方同士でしたが、イタリアが負け、日本もドイツもジリ貧状態になったとき、ルーズベルトとスターリンは味方同士として笑顔で語り合いながら同時に腹の探り合いをしていたといいます。

「この戦争が終われば、アメリカとソ連の二大大国が敵国同士としていがみ合う時代になる」と。

そのときのことを考えながら原爆開発競争にアメリカは勝ち、そして日本に投下した。

とまぁ、ちょっと話がそれましたが、シャアという男も名うての兵士だけに同じように「戦後」を見据えていたというわけですね。

しかし、「ザビ家への復讐のためにジオン軍兵士として出世する」というシャアのアクロバティカルな生き方に共感するファンのために、復讐などどうでもいいで終わってはいけないと作者たちは考えたのでしょう。

だから、最後にキシリアをバズーカで仕留めるわけですが、その理由というのが、キシリアが自分だけ部下を置き去りにするつもりで逃げようとしていることをシャアが知って「やはりザビ家の人間は許せん」と討ちに行くんですが、ここの動機づけはちょっと苦しいですね。まるでキシリアはシャアを来させるためにせこいことを言ってるみたい。

シャアの行動は理屈としては筋が通っていますし、そうでなければシャア・アズナブルではない! という思いもあるんですが、常に二手三手先を読んで動いていたシャアが爆死覚悟で…というのはちょっと…いや、だから面白いのか。

よくわかりませんが、やはりこの『機動戦士ガンダム』はシャアぬきには語れませんね。主人公じゃない人物がここまで魅力的になるとは、脚本家も夢にも思っていなかったことでしょう。


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ファーストガンダムの政治学②シャアを利用するキシリアの狙いとは

再放送中の『機動戦士ガンダム』ももうあと2話で終わりです。第14話まで見たときに、ファーストガンダムの政治学①地球連邦軍の非情 と題した日記を書きましたが、今回久しぶりの更新です。

シャアがジオン広告を牛耳るザビ家への復讐に燃えており、まず甘ちゃんの末っ子ガルマを罠に陥れて死なせます。公式には「ガルマを守れなかった」ということで左遷されてしばらくシャアは出てきません。


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シャアがいない間に出てくる魅力的なキャラがランバ・ラルで、グフの最初のパイロットですが、このランバ・ラルは「ガルマ様」と言っているし、ガルマはドズルの直属の部下だったはずだから、ランバ・ラルもドズルの部下なのでしょう。

さて、ガルマ戦士時点でのザビ家の人間は、

父親 デギン
長男 ギレン
長女 キシリア
次男 ドズル 

の4人です。


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この3人の権力争いが面白いわけです。

例えばキシリア直属の部下マ・クベ大佐。


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2週間くらい前の回では、ギャンで出撃してすぐにアムロにやられます。子どもの頃ギャンは弱いとバカにしてましたが、マ・クベやギャンが弱いのではなく、アムロがニュータイプとして覚醒してしまったからなんですね。もしランバ・ラルと戦ったころのアムロだったらいい勝負になっていたでしょう。

それはともかく、マ・クベは地球にいたころ、中央アジアで金鉱を採掘する役目を負っていたんですね。そして大きな鉱脈を発見したことをキシリア派以外の人間(つまりランバ・ラル)に知られてはならぬと部下に厳命します。ここらへんのジオン軍内部での派閥争いが今回の再見で最も面白いところです。子どもの頃は「地球連邦軍vsジオン軍」という構図でしか見てませんでしたから。複雑な政治情勢など少しもわかっていなかった。

シャアもランバ・ラルと同じくドズルの直属の部下でしたが、左遷されたあとに少佐から大佐に昇進して戦列に復帰します。キシリアの直属の部下として大佐になっているという設定ですが、ならばキシリアがシャアを引き上げた理由とは何なのか。

すっかり忘れていたシーンを昨日の第41話で見ました。まさに目から鱗!!!



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キシリアはシャアが自分たち一族に復讐をもくろむ本名キャスバル・レム・ダイクンであることを知っていながら引き抜いたと。シャアがララァというニュータイプを育てていることを知り、復讐よりもニュータイプのほうに興味が向いていることを鑑みたキシリアの判断だったらしいのですが、ここでシャアは恥ずかしそうにうつむいているのでおそらく図星なのでしょう。シャアがあのような表情を見せるのはすごく珍しい。

キシリアの本当の狙いは何なのでしょう? 自分たちの寝首をかこうとしている男をどう利用しようとしているのでしょうか。



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ドズルはすでに数話前にアムロたちに殺されているし、デギンは昨日の回でギレンに殺されました。
連邦軍の最高司令官ネビル将軍のもとへ和平交渉に行ったデギンを「父上は年を取って弱気になられた」とソーラ・レイ・システムで殺すラストシーンでしたが、これは憶えていましたけど……え、ってことはネビル将軍も死んだということですよね。

このへんぜんぜん憶えてない。

というか、ネビル将軍といえば、地球連邦軍もジオン軍に負けず劣らずかなりえげつないんですよね。
軍人ではなく一般市民でしかなかったホワイトベースの連中をむりやり軍人にする。そうしないと軍法会議で死刑にするしかないからでしょう。シャアと互角に戦えるアムロや、アムロたちを統率できるブライトは自軍に引き入れておきたいという政治的思惑が透けて見えます。

とはいえ、ホワイトベースは地球連邦軍にとって「捨て石」にすぎないというところが非情というか、富野由悠季さんの厳しい世界観の顕れです。
昔は、ホワイトベースこそ地球連邦軍の中心だと思って見てましたが、ただの「囮」だったんですね。囮である以上は都合のいいときにやられてくれればいい、とネビル将軍が考えているということであって、中央幹部たちにとってホワイトベースというのはほとんどどうでもいい存在なのです。ジオンの目をそらせてくれさせすればそれでいい。

昨日のラストシーンで、ア・バオア・クー近くに陣取っていた連邦軍の艦隊が全滅したわけだから、ずっと囮として周縁部で戦っていたホワイトベースが、戦いの中心部ア・バオア・クーに乗り込んで最終戦争に至るわけですか。なるほど。

「戦争は血を流す政治であり、政治は血を流さない戦争である」という毛沢東の言葉を思い出すならば、あと2話は全面戦争ですから「血を流す政治」しか見られないのかな。「血を流さない戦争」のほうに興味津々の当方はもうあまり楽しめないのかも。ギレンやキシリアがどういう最期を迎えるかは憶えてるし。

でも、キシリアがシャアを利用しようとした本当の理由は気になる!

続き
③「戦後」を見据えるシャアの深謀遠慮


 

能年玲奈の主演女優賞ノミネートに物申す!

あらかじめ断わっておきますが、私は能年玲奈の大ファンです。だから「のん」などという芸名を認めないので本名で表記します。

毎日映画コンクールに続いて東京スポーツ映画大賞でも『この世界の片隅に』の能年玲奈が主演女優賞にノミネートされたらしいですね。


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3年ほど前には『her/世界でひとつの彼女』でAIの声のみ演じたスカーレット・ヨハンソンがどこかの映画祭で女優賞を取って物議を醸しました。私も疑義を呈したかった一人ですが、どうも自分の意見に説得力がなく、あのときは何も言えませんでした。

毎日映コンのときも「それは絶対おかしい」と思ってたんですよ。でも言えませんでした。

その時の違和感は、『her』のときと同じで、「声だけの演技と、肉体すべてを使う演技とを同列に扱っていいのか」ということでした。アニメの演技はアニメーターと声優の協働作業だと思うんです。だから…

でもこれって何か説得力がないんですよね。

誰かが、『マイ・フェア・レディ』でオードリー・ヘップバーンが歌だけプロの歌手に吹き替えてもらったからアカデミー主演女優賞の資格を剥奪された。あれとは逆で、今回のケースは能年玲奈は声は使っているけど表情など肉体を使った演技をしていない。だからダメだと言っていました。

一見もっともらしいんですが、これはちょっと違うんじゃないかと。確かに能年玲奈は声だけですが、オードリーは歌以外はちゃんと自分の声で芝居をしています。プラス肉体も見せて表現している。『her』や『この世界の片隅に』が『マイ・フェア・レディ』を裏返した作品というのは違うと思うのです。





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 (こういう凛々しい顔も実にいいんですよね。誰だ、こんな素晴らしい顔をもつ女優を干しているのは!)


では、この違和感の正体は何だろうとずっと考えていたんですが、このたび東スポ映画大賞にもノミネートされたと聞いて、はたと気づいたんですね。

東スポ映画大賞はビートたけしが一人で選ぶ映画賞ですが、ノミネートはたけし以外の映画祭ディレクターが選ぶそうです。

だからノミネートをたけしが選んだわけじゃないけれど、たけしが最優秀賞に選ぶ可能性に賭けてディレクターたちは能年玲奈をノミネートしたんじゃないか。

どういうことかというと、彼女はいま干されてますから、「世界のキタノも認める女優をこのまま干していていいのか⁉」という異議申し立てをしたいんじゃないか。そういう政治的配慮が絡んでいるのでは、と思ったわけです。

それが仮に当たっていても、そのこと自体は別に悪いこととは思いません。人間は政治的動物だし、何より私は能年玲奈の大ファンなので早く復帰してほしいと思っているのでね。こういう手を使うのは逆に素晴らしいことじゃないかと。

しかし、そのことと「声のみの演技に演技賞を与えることの是非」とはまた別問題です。

ここで問題提起。
能年玲奈ではなく、一般市民に名の知られていない声優だったら主演女優賞ノミネートなんて事態がありえたでしょうか? 



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答えは否、です。

ついおとといですが、WOWOWで風夏(ふうか)という風変わりな女の子がヒロインの、その名もずばり『風夏』というアニメを見ました。グイグイ引き込まれたから見ている間は「声優さんがいい芝居をしている」なんて少しも思いませんでした。いまこの問題を考えるにあたって思い出すと「確かにいい芝居をしていたな」と思う程度です。

逆に言えばアニメの場合、声優がいい芝居をしていればいるほどキャラクターが本当に生きているように見えるわけです。誰それが声を演じている風夏とかじゃなく、風夏そのものとして。

でも、『この世界の片隅に』を見ているとき、どうしても能年玲奈の顔がちらついてしまうのです。それは『her』でも同じでした。実写なら映っている人と声の主が同じだから何も気になりませんけど、アニメの場合、声の主の顔がわかると映っている顔が本当に「ただの描かれた顔」にしか見えなくなる瞬間がある。しかも能年玲奈はいまかなり特殊な状況に置かれているので、それら煩瑣なあれやこれやのことまでもが頭の中を支配してしまう。

それって作品にとって幸福なことなんでしょうか?  不幸なことなのでは???

能年玲奈の声の芝居が抜群にいいことは認めます。が、そう思えるのは彼女の顔を私たちが知っているからです。すでに女優としてお茶の間の人気者だからです。それに加え、どうにかして復帰してほしいというファン=審査員の思いがあり、今回のノミネートに至ったと思われます。

何度も言いますが、復帰の道筋のためのノミネートは大歓迎なんですよ。
だけど、それは声優さんやアニメというジャンルそのものを不幸にすると思うのです。

でも、『風夏』のようにまったく知らない人が声を演じている場合、あの声優さんは素晴らしい! 演技賞を与えよう。とはならないはずなんです。実際、いままでそういう例はひとつもないはずです。

描かれた絵と声とが渾然一体となって一つのキャラクターを生み出しているのですから、芝居が云々なんてことが頭に浮かばないほうが作品にとってはよっぽど幸福なことだと思います。

もし能年玲奈が最優秀賞を取ればおそらく日本の映画賞史上で初めて声優に演技賞が与えられる。それって一見アニメ大国日本の声優さんたちにとって、とてもいいことのように感じられますが、しかし!

来年でも数年後でもいいですが、声優が演技賞を取ったとして、その人は脚光を浴びるでしょう。テレビに出たりして顔が知られる。そして「あの『○○』という作品で××映画賞で演技賞を取った誰それが主役の声を演じる」と宣伝されたら「あの声が聴きたい」と劇場に駆けつけるファンも大勢いるでしょう。

でもそれって「声」にだけ注目が行って、アニメ本来の楽しみ、つまりアニメーターと声優の協働作業によって描かれた絵が本当に生きているように見える、という幸福を奪ってしまうと思うんです。

一般に顔の知られている有名人がアニメの声優を務めた最初の作品が何かは知りません。もしかしたら『となりのトトロ』の糸井重里かもしれません。あの糸井重里がこれまたいい味出してるんですが、しかし、どうしても見ているときに顔がちらつくし、本来俳優ですらない人がいい味出してるのがたまらん、というのは、ほとんど楽屋オチであって、『トトロ』という作品世界そのものにとっては邪魔物なんじゃないか。




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だから、私は今回の能年玲奈が声優として主演女優賞ノミネートという事態を批判します。
映画本来の楽しみを守るために、絶対に最優秀賞を取らせてはいけないと思います。



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