アニメ

2019年09月04日

先日、廉価版DVDが発売された往年の名作アニメ『妖怪人間ベム』。

第2話の感想としてこんなものを書きました。

 

ベムが言う「悪いやつを懲らしめていいことをしていれば俺たちはいつかきっと人間になれる」というのは「宗教」だという主旨でした。

そして今日見た第9話の「すすり泣く鬼婆」。ここでも宗教というか「信仰」の問題が語られます。


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強烈なラストシーン
この「すすり泣く鬼婆」のあらすじは、

土砂降りの中を走る馬車があり、ベロが中に入れてもらう。まだ若い母親と盲目の息子。彼らは一夜の宿を求めて山奥の山荘に入れてもらう。が、そこの女主人に不穏なにおいを嗅ぎつけたベロが忍び込むと、女主人の正体はとんでもない鬼婆だった。ベロはベムに助けを求めて一件落着。

というものです。

いやいや、それじゃ片手落ちだよ! という声が聞こえてきそうです。

そう、この「すすり泣く鬼婆」で一番強烈な場面はラストです。

母子のために骨を折り、絶体絶命のベムを助けて鬼婆を助けたのはベロなのに、指が三本しかないのを咎められ、鬼婆の仲間だったと誤解を受け、号泣するのです。(しかしこのDVDでは「その坊主には指が三本しかないんだぞ」というセリフがカットされてるじゃないですか。「完全版」を謳っておきながら……

それはともかく、私も昔はこのラストが強烈なインパクトをもっていると思っていました。それは今日でも変わりはありませんが、ベムの「いつか人間になれる」という信仰という観点から見ると、別の場面が妙に気になるのです。


鬼婆の信仰(神と悪魔の違いとは?)
鬼婆は牛の生首か何かを祭壇に祀り、次のような祈りを捧げます。

「おお、サタン様、いつになったら私に若い美しい女の顔をくださるのでしょうか。私はこれまで96人の人間を捧げてきました。今日も3人の人間を捧げます」

この鬼婆もまた敬虔な「信者」です。ベムの信仰対象は「神」であり、鬼婆のそれは「悪魔」という違いはあります。しかし、悪魔というのは鬼婆にとっては「神」ですよね? 神を信じる者からすれば悪魔に感じられるだけの話であって、鬼婆の主観ではサタンというのは神です。(そもそもサタンはルシファーという名の元天使)

ベムたちも醜い妖怪人間から普通の人間になりたがっている。
鬼婆も醜い鬼から若くて美しい女になりたがっている。

どこが違うというのでしょう? 

ただ、そのための手段が「無辜の者を殺す」か「そんな悪い奴を懲らしめて弱い者を助ける」かの違いだけ。

その違いは確かに大きすぎるほど大きい。でも、「信じる」という点では何も違いがありません。


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キリスト教徒から見ればイスラム教徒は「テロリスト」にしか見えないのかもしれませんが、彼らのほとんどはごく普通の人間です。しかし、「あいつらは悪魔を信仰している」と偏見の目で見ている人もいるのでしょう。

結局、人間は自分が信じたいものを信じているだけ。アリストテレスの「人間の目には自分の見たいものしか見えない」というのと根っこは同じでしょう。

ベムたちは神を信じたいが、鬼婆は悪魔を信じたい。だから生贄として殺す。


「すすり泣く鬼婆」のテーマ
この「すすり泣く鬼婆」のテーマがようやくわかってきました。

ベロの号泣で幕を閉じるこの回で大事なのは、「それでもやっぱり信じる」ということなんですね。

指が三本しかない。たったそれだけで化け物扱いされ、自分が退治した鬼婆の仲間との誹りを受けたベロは、それがきっかけで人間に強い恨みをもち、悪魔信仰に流されてもおかしくありません。

でもベロにはベムがいます。徹底した有神論者のベムは「涙が涸れたとき、自分の行いが正しかったことを知るだろう」と断定します。

よくそんなこと言えるな、と笑ってしまいましたが、このウソのような信仰心の篤さによってベラもベロも正常でいられるのです。

そう、「信じる者は救われる」というのはこういうことだったのか、という感じですね。強い恨みがあっても、その恨みをポジティブな方向へ舵取りできる者が身近にいれば悪の道に迷い込むことはない。

なるほど、それがこの回のテーマか!


答えのない問題
しかし「正常」とは何でしょうか? 「ポジティブ」とは? はたまた「悪」とは? 「正義」とは?

うーん、わからない。『妖怪人間ベム』が50年たっても古くならないのは、おそらく人類滅亡の日まで答えの出ない問題に果敢に挑戦しているからでしょうか。


蛇足
変身して醜い体になると思っている人が多いですが、醜い体が彼らの正体で、変身して人間の姿になっているんです。だってオープニングの生まれてすぐの彼らは醜い体だったじゃないですか。あれが正体です。もし人間の姿が正体ならなぜ「早く人間になりたい!」のか。もうなってるじゃん。







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2019年07月20日

昔懐かしい『妖怪人間ベム』。10年前の再放送以来の再見です。

第1話「恐怖の貨物列車」はまだ軽いジャブ程度でしたが、この第2話でもう核心部分へ切り込んでいくんですね。何度も見てるのにあまり憶えてない私。何しろ幼い頃は毎週泣きじゃくりながら見てたので、いまも恐怖に耐えるので精いっぱいなのかも。


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さて、この「階段を這う手首」の骨子は、継母が継子を殺し財産を独り占めしようとするのをベムたちが防ぐ、というものです。

雨宿りした廃屋に殺し屋たちが偶然入ってきてその企みを知るんですが、ここでこの『妖怪人間ベム』を貫く重要な主題について語られます。


ベラ「あー、早く人間になりたいよ」
ベム「ベラ、焦るな。俺たちはいつかきっと人間になれる」
ベラ「あたしゃもう待ちくたびれたんだよ」
ベム「その日が来るのを信じるんだ」



このアニメではオープニングの主題歌で「早く人間になりたい!」という有名なフレーズがありますし、ベムが上のようなことをこの回だけでなく再三再四言うので、

「妖怪人間として生まれた三人が人間として生まれ変わることを願って世直しをする物語」

というのは誰の目にも明らかです。そして、妖怪人間のほうがよっぽど真人間であり、人間のほうが妖怪や悪魔のような悪い心をもっている、という逆説も。

ただ、子どもの頃からずっと不思議なのです。ベムはなぜ「悪い人間を懲らしめ、善い人間を助ければ人間になれる」と思っているのか。最終回がどういうものかを知っている者にとっては「早く人間になりたい」「いつか人間になれる」という言葉はとても悲痛なものです。でも、その根拠はいったいどこに?


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上記のベラとのやりとりでも「信じるんだ」と言っている。だから誰かから聞いたわけではない。確証は何もない。はっきり言って「思い込み」です。

最初、殺し屋たちを成敗しようと三人は合意しますが、ベラだけ合点がいかなかったようです。

「あいつらをやっつけるのが、あたしらの目的とどう関わってくるのかねぇ」

ベラはベムの思い込みに否定的です。いい行いをするかしないかなんて、あたしたちが人間になれるかどうかとは関係ないわよ、と。

何だかんだの末にベラが継母の悪事を防ぎ、気を失わせます。ベラはとどめを刺すべきだと主張しますが、ベムが止めます。悪を根絶するのではなく、悪を善に戻すことが俺たちの役割であり、その役割をまっとうしてこそ人間になれるのだ、と言います。継母に殺されかけた子どもは彼女を本当の母親だと思っており、彼女を傷つけたベロに「嫌いだ!」といいます。

仲良くなった男の子に嫌われるベロという、このあとお約束のようになる結末ですが、このときベムが大事なことを言います。

「おまえのやったことはいいことだ。たとえあの子にどう思われようと、おまえのやったことはいいことなんだ」

お天道様はみていてくれる、というやつですね。

ベムが「神」という存在を想定していることが明らかになりました。「全知全能で造物主である神は俺たちの行いを見て必ず人間にしてくれる」

ベムの「いつかきっと人間になれる日が来る」というのは、だから「宗教」なんですね。

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逆に、とどめを刺しちまいなよ、と言ったベラにベムは平手打ちを食らわせるんですが、そのあとくだんの男の子がベロに嫌いだと言うので高笑いします。しょせん人間なんてそんなもんよ、と。ベラは神などいないと主張する無神論者のようです。

しかし、冒頭にも紹介したように、この第2話で真っ先に「早く人間になりたい」と言うのはベラなのです。

ここに、登場人物たちの願いとは別に、作者たちの思想が表れている気がします。

私はかねてから「無神論者なんかいない」と思っています。「神なんか信じてない」という人間にかぎって困ったことがあると決まって神頼みするのをたくさん見てきましたから。

『妖怪人間ベム』の作者たちも同じ思いだったのではないでしょうか。

有神論者ベムと無神論者ベラの対立葛藤を礎にドラマが組まれていますが、ベラも心のどこかで神を信じている。

いや、「信じなきゃやってられない」という気持ちなんでしょう。妖怪人間という異形として生まれてきた者どもの哀しみに彩られた全26話の大河ドラマ。

続きも存分に楽しみたいと思います。


続きの記事
第9話「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)






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2019年07月09日

ついに今週末からロードショーされる『トイ・ストーリー4』公開に先立ち、前作『3』がテレビ放映されました。


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前回、『新聞記者』の感想(⇒こちら)で、「善と善」の対立にしないといけないという私の主張(というかおおもとはある高名な脚本家)がわからないと友人に言われまして。

言葉が足らなかったかもしれませんが「善」というのは「善人」という意味ではありません。「その人の言い分に納得できる」「その人にも同等の理がある」ということです。どうしても安倍政権を批判している映画だから政権側にも理があるというと反安倍派の人たちは「そんなものがあるか!」と感情的になってしまうみたいで。どうしても政治のことになると頭に血が上ってしまうのが人間という生き物のようです。

そんなときに『トイ・ストーリー3』の放映。劇場で見て以来の鑑賞でしたが、これがすばらしく「善と善」の対立になっていて、いい見本だと筆を執りました。


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「悪意」のないドラマ
このロッツォという名のクマのぬいぐるみがとんでもなく悪い奴なんですが、彼が悪い奴になってしまったのには理由があるんですよね。

ウディにとってのアンディのような、素敵な持ち主の女の子にかわいがってもらっていたのに、ハイキングに出かけたときその子が眠ってしまい、親が寝かせたままおもちゃを全部置いたまま帰宅してしまった。ひたすら待つが持ち主は来ない。自分たちの足で何とか帰ると、同じぬいぐるみの新しいのを買ってもらっていた。

捨てられたと思ったロッツォは一緒に捨てられた仲間たちと「捨てられたおもちゃの帝国」を作り上げ、そこの支配者として君臨している、と。

確かにウディが指摘するように、持ち主に新しい代わりができたのはロッツォだけで他のおもちゃは帰る余地があった。それを一緒にダークサイドに道連れにしたのはロッツォの悪意でしょうが、ハイキングで置き去りにされてダークサイドに堕ちたからそうなったわけで、じゃあ、置き去りにしたのはなぜかというと、女の子が寝てしまったから。両親はおもちゃのことなんて頭にないし、なくしたら新しいのを買えばいいと思っている。子どもは子どもの原理、親は親の原理で行動しているだけ。

誰にも悪意がない。悪意によって対立を生むのではなく、そういうのなしでドラマを組み立てろよ、というのがくだんの脚本家の指導でした。『新聞記者』では生物兵器という世界中を敵に回しかねない極悪を根っこに設定しているので「無理やり感」があるんですよね。『トイ・ストーリー3』は見事にそれを体現しています。


底流する「別れの予感」
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ここからは純粋に『トイ・ストーリー3』の感想ですが、アンディが大学に行く年齢になり、ウディやバズと遊ぶことがないという背景が何とも哀しいですね。「出会いは別れのはじまり」とhwvあよく言いますが、いつかはおもちゃ離れしなきゃいけないときが来る。いつかは親元を離れないといけないときがくる。いつかは親しい者との死別のときがやってくる。(飼い犬が老犬になっているのが死別の暗示になっています)

とはいえ、アンディはウディたちが慕うだけあって、用済みだと捨てたりはしません。ただウディだけは別にして他のおもちゃを屋根裏に保管しておこうと思っただけ。なのに、ひょんなことから母親がゴミとして出してしまう。ここにも悪意はありません。ロッツォの持ち主の両親と同じく「大人はおもちゃのことなどこれっぽっちも気にしていない」というのが『トイ・ストーリー』の世界観だからです。

考えてみれば、このシリーズは目的地へ向かってまっしぐら! という内容ですね。1作目から3作目まで見事に自分たちの家に帰るお話です。


「運命」に逆らうドラマ
が、この『3』が異色なのは、逃げる唯一の道が溶鉱炉へ通じるゴミ箱というところです。「おもちゃはいずれ飽きられるか壊れるかして捨てられ燃やされる運命だ」とロッツォは言いますが、ウディたちは何とかその運命に抗います。ただの物理的な脱出ではなく、「運命」という神の掌からの脱出になっていて、2作目までとは一線を画す壮大な脱出劇となっています。

では、『4』はどういう脱出劇なのでしょうか? それとも脱出劇ではなく違う趣向の物語なのか。私は『3』を超える新しい脱出劇を見せてほしいと切望しています。「運命」以上の壁はあるのか。いずれにしても予想をはるかに超えるものを見せてくれるはず。

期待してまっせ!






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