聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

マンガ

本秀康『ワイルドマウンテン』(神話の脱構築)

花田菜々子さんの『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(その感想は→こちら)で推薦されていたマンガ『ワイルドマウンテン』全8巻を読んだんですが、これがとてつもなく面白かった。



この↑表紙にあるかわいい顔した男・菅菅彦は(スガ・スガヒコという名前が素晴らしい)実は地球防衛軍の元隊長でなかなかのやり手軍人だった。が、地球に衝突する可能性の高い隕石を破壊する極秘指令を受けたのにちょっとした手元不如意から撃ち落とし損ね、隕石は中野区に落ちて多数の死傷者を出した。
その隕石の塊が山となって新しい町を形成してワイルドマウンテン町ができ、失意の菅菅彦は軍を辞めて町長として町おこしの役を担う。というのが物語の発端部です。

つまり、菅菅彦は「隕石を撃ち落とし損ねた」というつらい過去をもっており、そこがクライマックスでどう解決されるかが物語の主眼となります。

軍で好き合っていたマリという女の子とワイルドマウンテン町で出会う未亡人との三角関係、さらには親から捨てられたも同然の銀造とその祖父・淵野辺さん、軍の部下などが入り乱れます。そこに「ハガレゴッド」なる宇宙人も登場するからこれはれっきとしたSFなんですね。


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菅菅彦を抱っこしている大きな薄っぺらい壁みたいなのがハガレゴッドで、この人物(?)は誰の心の内も読める超能力をもっています。菅菅彦は宇宙人がいるとなると町おこしには最適だと胸躍らせますが、ハガレゴッドや他の奇々怪々な生き物たちと仲良くなってしまい、さらに銀造も彼ら以外に友達がいない。友情を何よりも重んじる菅彦は彼らの存在を隠します。

だから、隕石を撃ち落とし損ねた過去をめぐるメインプロットと、ハガレゴッドたちの存在を隠している現在をめぐるサブプロットと、二つのドラマが描かれているわけです。
はたして菅菅彦は軍人として失敗した逆境を順境にできるのでしょうか。そこにハガレゴッドのサブプロットがどう絡まってくるのか。

と思っていると……

別の宇宙人が出てきて香港まで行ってかなり複雑な展開を見せながら、菅菅彦がやはり軍人としてやたら優秀である一面を見せてくれます。
なんていうと、菅彦がめちゃかっこいい男のようですが、未亡人がジャズシンガーで、ジャズなんか聴いたことないのにジャズマニアを気取る可笑しさを演じるかと思えば、軍時代の同僚マリちゃんに告白してオーケーをもらうもあまりにせこいことを言い出したためにマリちゃんから膝蹴りを食らうなど哀しい面ももち合わせています。主人公にふさわしいキャラクター設定ですね。

さて、ハガレゴッドたちの存在がマスゴミのせいで明るみとなり、そのせいで菅菅彦が隕石撃ち落としに失敗した過去まで明らかになります。メインプロットとサブプロットの危機=クライシスがいっぺんにやってきました。さあ、どうなる!?

と、思っていたら……

あっと驚く結末が待っているんですね。神話的想像力に彩られたメインプロットも解決するうえに、サブプロットも解決する。しかもラスト近くはほとんどのキャラクターが殺されてしまうのにそれすらも解決されてしまう。

しかも菅菅彦の問題が解決するだけではありません。ラストシーンに至っては、別のキャラクターの問題が噴出し、そして一気に解決を見ます。

このマンガは菅菅彦ではなく別のキャラクターのドラマなのでした。え? マジで!? 

いやいや、もしかすると、これはやはり菅菅彦の町長としての物語かもしれないし、同時に別のキャラクターの物語かもしれない。どちらも真なのでしょう。そして両方の物語から浮かび上がる「友情」というテーマ。神話の変奏かと見せかけておいて実は神話以上のものを見せる手腕に拍手。お見事!!!

作中人物が作者の狙いを推量したりするんですが、私は普段ああいうメタフィクション的な仕掛けは好きではないんですが、それすらもあの結末は解決してしまうんですね。あれは作者の語りではなく別のキャラクターの語りだったわけですね。ちゃんと整合性が取れてる。ほんと見事としか言いようがない。

『出会い系サイトで実際に70人と~』を読まなければこのマンガを読むことは一生なかったでしょう。著者の花田菜々子さんに厚く御礼申し上げます。もちろん『ワイルドマウンテン』の作者、本秀康さんにも!



『男の操』全歌詞!(形のないものをあなたにあげる)

もうこの人には何をやられても感動するしかありません。

『自虐の詩』などの隠れた巨匠・業田良家さんの『男の操』。


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といっても、すでに読んだことありましてね。あのときは上下2巻だったのが今回は描き下ろしを含めたうえで再編集して1巻にまとめられたのを読んだんです。

どこがどう変わったのかぜんぜんわからないんですが、やっぱり面白い! おもろぉて、やがて悲しき…というお手本のような物語。『自虐の詩』もまさにそんな名作でしたよね。

このような名作に対して御託を並べるのは野暮というもの。そこで、主人公・五木みさおが歌う「男の操」の全歌詞をここに引用しましょう。歌詞が見事にマンガの内容を代弁してくれています。






男の操 作詞・五木みさお

時は過ぎてゆく
人も過ぎてゆく
だからあなたに約束をした

雲は消えてゆく
人も消えてゆく
だから青空に約束をした

言葉で契り
贈り物をあげる
形のないものを
あなたにあげる

形がなくても
あなたは見えると言った

それが男の操

志を叶えたい
あの場所へ立ちたい
そばにあなたはいるだろうか

くじけて泣いていた
嬉しくて泣いていた
そばにあなたはいるだろうか

歌を捧げて
真心をあげる
形のないものを
あなたにあげる

形がないから
あなたは美しいと言った

それが男の操

あなたを思い
歩き続けたら
高い場所へ出た

あなたを思い
角を曲がったら
広い場所へ出た

あなたを思い
歌い続けたら
・・・・・・・・・・

川のせせらぎよ
風と木の歌よ
気づいた時の美しさ

あなたの笑う声
あなたの話す声
気づいた時の喜びよ

手に手を触れて
この胸を開く
形のないものを
あなたにあげる

形がないから
あなたは消えないと言った

それが男と女の操



昨日の日記で「言葉にできないことを表現したのが『作品』と呼ばれるものだ」と言いましたが、まさにこの『男の操』は言葉にできないもの、形のないものを読者にプレゼントしてくれている真の名作だと思いました。



『機械仕掛けの愛』(「心」と「機能」はどう違うのか)

『自虐の詩』で知られる業田良家さんの連作短編集『機械仕掛けの愛』(小学館)。いま出ている3巻まで読みました。

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どれもこれも面白いんですが、厳選して3篇だけご紹介します。

①『罪と罰の匣』
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ドストエフスキーを「人間の愚かさを描いた笑える小説」と看破する警察ロボットが主人公なんですが、突然ある日彼が逮捕されてしまう。

容疑は偽札作り。貧しい人たちのために偽札を刷っていたのだと。「お金持ちは困るでしょう。でも貧しい人たちは救われます。法律を犯しましたが、間違ったことをしたとは思わない」と言い放つ彼は、虫ロボットにされてしまう。メモリーだけ腹に差して。彼の上司だった男がドストエフスキーの文庫本を差し入れてやって、「私には愛すべき部下がいた」と涙を流す場面で終わる。


②『ロボット心中』
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ある男が人間の女ではなく、女型ロボットと結婚すると言い出して周囲は猛反対。それを押し切って結婚するも、周りから奇異の目で見られて何もかも嫌になった男は「俺と心中しよう」と妻に言う。が、妻ロボットは「私に愛情はありません。ただ機能があるだけです」と心中を拒否。
絶望する男にニュースが届けられる。妻ロボットが別の男型ロボットと心中したと。やっぱりロボットはロボット同士がいいのかと思いきや、おそらく「偽装心中」だろうと結論される。男型ロボットの持ち主の女性も心中を迫っていたらしい。主人の命を守るため二体のロボットは示し合わせて偽装心中したと思われる。そんなプログラミングはしてないのに、主人の命を守ることという機能をまっとうした結果、命懸けで主人を守るという行為に出たのだと。

「機能」だって何だっていい、これ以上の「愛情」が他にあるか。と男は声に出さずに言う。


③『丘の上の阿呆』
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極度の監視社会に生きる男の物語。

体制派と反体制派のどちらもが自分たちの仲間を監視し、裏切り、密告、処刑に明け暮れる毎日。
主人公は、阿呆を装って生きている。そのほうがどちらにつかずにいても笑われるだけですむと。そして、殺された人たちを葬り、花を添えることを自らの責務と考えている。「阿呆のほうが人としてやるべきことをやれる。狂った世の中さ」とネコ型監視ロボットに語る。

そんな彼が、「ああいうどっちつかずが一番ムカつく」と突然殺される。ネコ型ロボットはすでにメモリーを書き換えられており、自分の使命が監視であることを知らない。殺された阿呆を見ながら「俺はいま何をしなければならないのか」と考えた末に、花を一輪ずつ摘んできて阿呆の死体を飾ってやるのだった。

「心」とは何ぞや? 人間とロボットの違いは何ぞや。

人間は心があるが、ロボットにはない。本当にそうだろうか?

ロボットの「機能」と人間の「心」ってひょっとして同じではないのか、人間も神が造ったロボットにすぎないのかも…というのがこの連作短編集に通底する思想・哲学ですね。

言葉では言えない何かがこの3冊のマンガには詰まっています。

はたして、ロボットは言葉では言えない何かを理解することはできるのでしょうか。

第3巻の最後『ロゴスの花』という作品では、ある言葉を繰り返し唱えるようプログラムされたロボットが、自分自身が唱える言葉によってプログラムにない行動に出る姿が描かれます。

言葉によって機能が変わる。言葉によって心が変わる。

ならば、言葉では言えない大切なことをロボットが理解できる日も…?

第4巻ではそのあたりを読みたいですが、どんな傑作が待ってるんでしょう。



福本伸行×かわぐちかいじ『告白<コンフェッション>』

『カイジ』の福本伸行さん原作、『沈黙の艦隊』のかわぐちかいじさん作画による『告白<コンフェッション>』(講談社文庫)を読みました。(以下、ネタバレあります)


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「聞いてしまったあいつが悪いのだ…!!」

という不気味なモノローグで始まるこの物語は、登場人物が二人だけ、そしてまったく同じモノローグで幕を閉じます。

ここで問題なのは、「あいつ」とは誰で、この言葉の主は誰かということなんですが、最後のフレーズにおける「あいつ」が誰で、発語の主が誰かは明白なんですが、最初のフレーズのほうは結末まで読んだいまでも、あいつが誰で主語が誰なのかははっきりとわかりませんね。
おそらく、最後とは真逆なんでしょうけど、もしかしたら最後と同じなのかもしれない。読む人の数だけ答えがあるように思います。

物語は、遭難した二人の男のうち大怪我をしたほうが、大学時代に同級生の女を殺したという告白をするのが発端なのですね。もう一人の元気なほうは驚愕しながらも見捨てることなどできるはずもなく、どうしようかと途方に暮れる。

ここで、私は「ははぁ、この話は殺人者の友人を見捨てるか否かという話なのだな」と予想したんですが、見事に裏切られました。

何と霧が晴れるとすぐ目の前に山荘がある! そこで暖を取りながら救助を待つことになります。

しかし、殺人者の男は、もう死ぬ直前だと思ったから告白したのであり、死なないとなるとさっきの告白はかなり不都合なことになってくる。聞いてしまったあいつが悪いのだ、死んでもらおう、殺してやる!

と、もう一人が心の中で推測するのですね。

ここからしばらく、推測の悪魔に憑りつかれます。俺を殺そうとしているのか、いや、そうではないのか、奴の心の中はどうなっているのかと。

ちょうど中盤で、読者にも「殺意」が明らかになり、今度はどうやって逃げるかが物語の主眼となります。

ここからの追う者と追われる者との腹の探り合いは『カイジ』の作者らしい、ロジカルな推測がベースになっていて読ませてくれます。

結局、追う者の罠にかかった追われる者があと一撃で殺されそうになる。ここで新たな「告白」が行われるのです。

実は、あの女を本当に殺したのは俺なのだと。おまえが首を絞めたあと、息を吹き返したあの女を俺が石で殴って殺したのだ、と。(なぜ殺したのかは、『アメリカの悲劇』というかそれを映画化した「陽のあたる場所』と同じと思ってもらえばいいです。あれをパクった『青春の蹉跌』でもいいですが)

というわけで、立場が逆転。

俺は殺してなかった! と偽殺人者が歓喜のあまり陶酔しているところを本当の殺人者が口封じのために殺してしまうという結末。お見事!

強烈なシチュエーションとまったく矛盾のない展開。物語の結構は堅牢で、少しの穴もないんですが、穴がないがゆえに、ちょっとした不満もあるんですよね。

何というか、もう二度と読む気が起こらないだろうな、というか。面白かったんですけど、あまりに完璧すぎてすべて憶えてしまったんですよね。

憶えたんならいいじゃないかと言われそうですけど、私はあまり好きじゃないんです。面白かったのは憶えてるけど細かい内容はあまり憶えてない、というほうが二度三度鑑賞するにはもってこいじゃないですか。

一度で憶えてしまって二度目以降を楽しめない作品の代表が『インファナル・アフェア』ですかね。あれも物語の結構が完璧すぎるほど完璧な映画でした。

楽しませてもらったのにこの程度のことで不満を言うのは筋違いかもしれませんが、私的にはそこがちょっと残念だったなぁ、と思いましたです。



26年ぶりの再読『ベルサイユのばら』

池田理代子さんの『ベルサイユのばら』を26年ぶりに再読しました。

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いやぁ、やはり真の名作は長い長い年月がたっても色褪せないものなんですね。夢中で読み耽ってしまいました。

昔は「なぜ面白いか」なんてことはまったく考えずに読んでましたが、今回、いろいろとわかりましたね。面白さの謎が。

やはりマリー・アントワネットを世間の通念と同じような稀代の悪女として描かなかったことがミソだと思います。

もしマリー・アントワネットをただの悪女として描いたならば、王室の人間が滅ぼされるべき悪で、革命を志す庶民が絶対的な善になってしまい、『水戸黄門』みたいな勧善懲悪ものとして読む者のいっときの清涼剤になっただけだったでしょう。

しかし、池田理代子さんはそうはしなかった。

「パンがないならケーキを食べればいいのに」という言葉がマリー・アントワネットの悪女ぶりを表す象徴的な言葉として伝えられていますが、この『ベルサイユのばら』では、マリー・アントワネットには悪意などなく、庶民の貧しい暮らしを知らなかっただけの本当は純真無垢な女として描かれています。オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として何不自由のない少女時代を過ごし、ルイ16世に嫁いだあともいくら無駄遣いをしても咎める者がいなかった。財政が破綻寸前、民衆の怒りが爆発してから初めて真相を知る哀れな存在として捉えられています。

しかも、マリー・アントワネットの蕩尽生活は、決して彼女自身の欲望を満たすためではなく、横から彼女を通して国王を意のままに動かそうとするポリニャック伯爵夫人や、マリー・アントワネットの名前を騙って超高額の首飾りを詐取するジャンヌという女のせいだというふうにも描かれています。

だから、民衆には「貧しい俺たちから税金を取って贅沢な暮らしをしている。許せない!」という至極まっとうな言い分がありますが、マリー・アントワネットにも「本当に悪いのは私じゃない」という言い分がある。

悪と善のぶつかり合いからは決して生まれない、善と善のどうしようもないすれ違い、誤解。どちらの言い分にも一理あると思えるからこそドラマが激しく燃え立つのです。

本当にマリー・アントワネットがそういう女だったかどうかはわかりません。池田理代子さんにとってマリー・アントワネットとはそういう女性だったのでしょう。(というか、いくら歴史に材を取った物語であっても、物語である以上はフィクションです。その作者にとっての人物・事件なのだから歴史そのものではない。だからフィクションで歴史を学ぶことほど愚かなことはありません)

この作品は、フランス革命を背景にした、どちらにも言い分のある二つの勢力のぶつかり合いを描いたものです。その二つの勢力の狭間で揺れ動き、どちらの言い分にも加担してしまうのが主人公のオスカルです。だからこそ我々読者はオスカルに感情移入しまくりで読んでしまい、彼女の喜怒哀楽をまるで我が事のように感じてしまう。

見事すぎるほどの大傑作と言うほかありませんね。



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