単発ドラマ

2020年07月11日

WOWOW製作、岡田惠和さんの脚本によるリモート撮影ドラマ『2020年五月の恋』を見たんですが、うーん、やっぱり私はこういうのは面白いと思えません。(以下ネタバレあります)


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別れた夫婦の夫(「元夫」と書いて「もとお」という名前なのは笑いましたが)のほうが間違いなのかそれともわざとなのか、元妻に電話をかけてしまったことから二人のあれやこれやが始まるんですが、やっぱり最初から最後まで画像のように二人が分割画面でしか登場しないというのは致命的じゃないでしょうか。

これはテレビドラマであって映画ではないけど、

「映画とはつまるところ、人と人が出逢うことである」

という蓮實重彦の言葉があります。テレビドラマだって映像作品なのだから同じでしょう。

もともと出逢っていた二人がいまは電話で声だけをやり取りしている。吉田羊の芝居が絶妙で、泣きの芝居などグッとくるシーンもあるにはあるんですけど、どうしても二人が直接出逢わない、触れ合わない、触れ合いたいけど触れ合えない、などの微妙な心理の綾を表現するには声のやり取りだけでは無理があります。

ラスト、どうやって幕を閉じるのかと思ったら、救急車の音が近づいてきて、二人とも同じ音を聞いている。もしや! と思ってベランダへ飛び出すと、向かいのマンションなのか、隣なのか上か下かわかりませんが、二人は意外に近いところに住んでいたことが判明して終幕。

うーん。。。


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結局、最後まで二人はこういう感じですよね。心理的にはかなり近寄ったし、作品世界内では物理的にも近いことがわかるんですが、映像的にはそっぽを向いたまま。どうしてもフレーム外の「出逢い」をそのまま映してしまうと「リモート撮影」ということにならない。

この二人はもともと出逢っている仲ですが、映画史では、まったく出逢っていなかった二人が最後で出逢う作品があります。

『街角(桃色の店)』『ダイ・ハード』『(ハル)』など。

『2020年五月の恋』における二人は最後に物語の「意味」的には出逢う(再会する)ことになるんですが、結局それが物理的に描かれないことに憾みが残ります。

蓮實重彦の講義を受けた黒沢清監督は、ある映画を見てくるように言われ、次の週に「何が見えましたか?」という、見えたものだけを答えなければ叱責される講義に一番衝撃を受けたそうです。

『2020年五月の恋』で、作中人物二人の出逢いが「見えた」でしょうか? 

もうリモートとかそういうことにこだわらずに、二人が抱き合うところまで撮っちゃったらよかったのでは? というのが偽らざる正直な感想です。


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2019年11月15日

私は自分の父親に対して「絶対に許せないこと」があります。

すぐ怒鳴るとか独善的とか子供じみてるとかいろいろ問題のある人ですが、ひとつのことを除いて他はどうでもいいです。

もう8年前になりますが、シナリオコンクールで受賞し、東京の授賞式に行って帰ってきた晩、泊めてくれた友人の悪口を言い始めたので文句を言うと、あれこれ愚痴を言った末に、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

と言いました。私はあれだけは未来永劫絶対に許しません。

ということを今日の今日まで忘れていました。思い出したきっかけは、NHK‐BSプレミアムで再放送された、向田邦子原作、ジェームス三木脚色の『父の詫び状』。


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1986年の作品ですから、映画狂になる前に見ていたんですね。あれ以来33年ぶりの再見。

この作品は向田邦子さんが自分の父親について書いたエッセイがもとになっているのですが、この父親が絵に描いたような「昭和のカミナリ親父」で、すぐ怒鳴る、小言ばかり言う、女房を家政婦としか思ってない、などなどさまざまな問題を抱えている。でも、語り部である長女は最後に「すべてを許そうと思った」というんですね。

父親の母が死に、会社の社長が弔問に来た。すると家では威張り散らしている父親が、平身低頭している。

「父は、こういう卑屈ともいえるお辞儀で外の世界では闘っていたのだ」

それがすべてを許そうと思った理由なのですが、私には自分の父親の「すべてを許す」理由が見当たらない。そもそも「父の詫び状」というものを読んだことがない。

そういえば、あるとき手紙を渡されました。いい成績を取れ、いい大学に入れ、とばかり言われていた私はあるとき突然いやになり進学を拒否。映画の専門学校に行ったのですが、その頃です。

「まず係長、その次に課長、課長の次に営業部長、営業部長から事業部長、あわよくば重役、そして社長。そういうふうに人生を一本のレールとしか考えていなかったのが私の落とし穴だったのかもしれない」

と書かれていました。母に話してみると、

「お父さんはあなたのおかげでいろいろ自分の人生を見つめ直しているのよ。そういう人生もあったのかって」

それを聞いたとき「勝った!」と思わなかったといえば嘘になる。けれど、だから許すとまではいかない。

いや、許してはいるんですよ。

小学校3年のとき、父の日をすっかり忘れていた私は友だちと遅くまで遊び惚け、日が暮れてから帰ってくると兄貴二人はタバコと酒(ワインだったか)を買っていて「おまえ、どうするんだ」とニヤニヤしている。もう店は閉まっている時間だから必死でクレヨンで父の似顔絵を描き、「お父さん、毎日僕たちのために働いてくれてありがとう」と添え書きして、接待ゴルフから帰ってきた父に渡した。

すると、父はそれを見るなりビリビリに破り裂いた。

「プレゼントというものはお金を出して買ってくるものだ。こんなものはプレゼントじゃない!」

私がカネというものにまるで執着心がなく、カネ儲けと聞いただけでいやになるのはこのときのことが原因なんだろうと思う。しかし、ま、それはそれで「カネは汚らわしい」と思い込ませる教育効果はあったのかもしれない。だから許す。

こんなこともあった。

何歳の頃かは忘れたけれど、ある晩のおかずがトンカツだった。いまと違ってトンカツが月に一度しか食べられない結構なごちそうの頃だからおそらく小学生の頃かな。

何よりの大好物なのでむしゃむしゃ食べていると、父が横から箸を出してきて私のトンカツをひとつつまんで食べた。文句を言うと、

「このトンカツはお父さんが働いた給料で買ったものだ。だからお父さんにはおまえたちのものを全部食べる権利がある」

そりゃ、あんたの金で買ったものには違いないが「食べる権利がある」というのはどう考えても間違い。すべてが父の物ならなぜ母は別々の皿に盛りつけたのだろうか。しかし、ま、こういうことも「自分が親になったら絶対にすまい」という反面教師の役割を果たしてくれるだろうから、許そう。

でも、

「そんなくだらない賞はいますぐ東京へ戻って返上してこい!」

これだけは許せる理由がない。おそらく自分が「こんなくだらないものを書くな」と難じたものが栄誉を受けたので恥ずかしかったんでしょう。何よりも体面を重んじる人だから(ゆえに中身がない)「見る目がない」と思われてるんじゃないか、という恐怖もあったのでしょう。

あそこで「俺はあんなシナリオが受賞に値するとは少しも思わない」と言っていれば「骨がある」と思っていただろうけれど、常に多数派でいないと安心できない人だからそんなことが言えるはずもない。

だからといって「そんなくだらない賞はいますぐ返上してこい!」などと言っていいわけではない。

最近は歳も歳なので、体も脳味噌もだいぶガタが来ており、それなりに心配はしているけれど、はっきり申し上げて「どうでもいい」のである。昔は「早く死んでほしい」と思っていたけれど、いまはそれすら思わない。どうでもいい。

とはいえ、よく似た父親が出てくるテレビドラマの感想と称してこんな文章を書いているわけだから、向田さんと同じく「すべてを許す」という気持ちがどこかにあるのかもしれない。本当にどうでもよければ、こんな日記すら書かない。『父の詫び状』を見ても自分の父親のことが頭に浮かぶことすらない。

私がこれまで書いたシナリオで、母親が大きな位置を占める作品はほとんどない。受賞作も含め、父と子の関係が軸になっていることが多い。やはりどこかで父親をずっと意識して生きてきた(いまも)からだろうか。

でも、それは幼少の頃に貪り読んだ『巨人の星』の強い影響かもしれず、本当のところはよくわからない。

確かなのは、私はちょっと前から「父親になりたい」という気持ちがものすごく強くなっていること。「結婚したい」という気持ちももちろん強くあるけれど、それ以上に、父親になりたい。


続きの記事
父親と縁を切った男の戯れ言
忘れていた心の傷が口を開けてしまった件
生きるということは後悔すること

新装版 父の詫び状 (文春文庫)
向田 邦子
文藝春秋
2005-08-03




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2019年03月24日

昨日、放送されたNHKスペシャルドラマ『詐欺の子』。これが実にすばらしい作品でした。


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善と善の対立
このブログでは何度も書いていますが、私がある高名な脚本家から教わった一番大事なことは、

「善と悪の対立にしてはいけない。善と善の対立にしないとドラマは深まらない」

ということです。

中村蒼演じる「かけ子」も、遠山という役名の「見張り」、17歳の女子高生と14歳の中学生の「受け子」、誰も彼も最初は金ほしさで簡単に大金が入ることが楽しくてはまる。しかしやっているうちに、みな「こんなことやっていていいのか」と良心の呵責に耐えかね、結局は逮捕される。


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大元の「オーナー」(『カメ止め』の人ですね)が一番悪いような気もしますが、彼のセリフがとても重要。ゴルフ場で遊ぶ高齢者を睨みつけながらこう言います。

「俺たちに金が回ってこないのはあいつらが蓄えこんでいるからだ。俺たちは社会に金を取り戻さなければならない」

下っ端に発破をかけるときもオーナーは決して「金を盗む」とは言いません。ホワイトボードにでかでかと「金を取り戻す」と書く。実際に逮捕された少年も「社会に還元するためだった」と供述しているようです。

金を取り戻すといっても、結局、年寄りを騙して盗んでるだけじゃないか、という人もいるでしょうが、簡単にそう言える人はすぐにでもテレビのコメンテーターになれるでしょう。

確かに彼らは悪人です。私が「善と善の対立」と言っているのは「善人」という意味ではありません。その人の言い分に理があるということです。


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騙されて亭主が自殺までした桃井かおりは、自分が騙されたとは決して認めません。認めたくないのか、それとも本当に電話の主が息子だと信じているのかは定かではありませんが、「あの子が本当に大輔じゃないってどうして言えるの!?」と法廷で取り乱します。

多くの人は「愚かだ」と断罪するでしょう。実際、騙されただけで周囲から罵られ、さらに裁判であんなことを言ったためにもっと糾弾されたようですが、桃井かおりには彼女なりの「言い分」がある。

そして、「大学に行きたくても行く金がなかった」と主張する中村蒼にも彼なりの言い分がある。奨学金をもらって大学に行く人もたくさんいますが、いまや日本の奨学金はヤミ金と同じだとみんな知っています。持たざる者は持つ者の貧困ビジネスの餌食にされるしかない。だからオレオレがなくならないんだ!

という中村蒼の主張に対し、「でも、あなたのように善良なお年寄りを騙す人はごく一部です。みんなまっとうに生きているんですよ」と諭す検察官の言葉にも(空々しく聞こえるとはいえ)理がある。すべての登場人物の言い分に理があり、みんな正しくてみんな間違っている。深みのある内容でした。

以下はほんの蛇足です。


なぜ顔出しできない人を出すのか
このドラマは実際の事件を扱っているうえに「NHKスペシャル」の枠だからか、事件の当事者が何人も出てきますが、みな顔出しはNG。これから更生してもらわねばならないのだから顔を出せないのは当然ですが、それなら最初から画面に登場させるべきではないと思います。

100%ドキュメンタリーであっても顔出しできない人は出すべきではない。外国人が日本のテレビを見て一様に驚くのが、顔にモザイクをかけた人の言葉を「証言」として放送していることだそうです。そりゃそうですよね。顔は見せない・声は変える、それでは嘘と同じです。


手持ちとフィックス
どうも最近の映画もテレビドラマもむやみやたらに手持ちカメラで撮られているものが多いですが、この『詐欺の子』でも、手持ちで撮られたショットとフィックスで撮られたショットが混在しています。

最初は、14歳の子が受け子として心をゆれさせながら犯罪に手を染めているから手持ちで撮っていて、警察での事情聴取では心が落ち着いているからフィックスで撮っているのかと思ったんですが、話が進むうちにどうもそうではないな、と。

遠山という男が法廷で脅迫に来た弁護士を見たときも手持ちでだいぶ揺れていましたが、その後、だいぶ落ち着いてイッセー尾形と話すシーンでは冒頭のマスターショットだけフィックスで、バストの切り返しになると手持ちになるという、意図不明の演出になっていました。あのシーン全部をフィックスで撮らないと意味がない。


というわけで、いろいろ文句も言いましたが、犯罪者として社会から断罪された人たちを「悪」として裁いたりせず、彼らにも言い分があるのだという製作者たちの心意気に胸を打たれました。

続編として、詐欺とわかっていて名簿を売る名簿業者にフォーカスを当てたドラマを見てみたいです。


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