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2019年02月24日

深作欣二監督による1975年東映実録映画『仁義の墓場』。


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この映画は石川力夫という実在した狂犬のようなヤクザを主人公にした、映画自体が狂ってるような作品ですが、今回見直してみて、狂っているのは力夫ではなく周りのほうなんだと、力夫はただ純粋な男だったということに初めて気づきました。敗戦直後の政治状況を絡めて実にうまく語っています。


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初めて見たとき『ブギーナイツ』と同じ構造だというのには気づいたんですよ。
父親が父親として機能しておらず、母親が父親の代わりを一生懸命務めようとするあまりヒステリックに怒鳴り散らしてばかりで主人公マーク・ウォールバーグは家出し、ポルノ映画ファミリーを第二の家族としてその家長バート・レイノルズを父親として慕い、反抗し、また家出して、最後には赦しを請う、という「父親探し」の映画でした。

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『仁義の墓場』も同じですよね。石川力夫の実の父は描写がないので、映画内世界に関してだけ言えばハナ肇が実の親みたいなものでしょう。力夫はハナ肇をかなり慕っていた。それは彼が最初に刑務所に入る傷害事件の理由から明らかです。喧嘩の原因は親分を馬鹿にされたからだと供述したそうです。彼がハナ肇の組に拾われたのは戦中。そのときのハナ肇がどんな人物だったのか、はっきりとは示されませんが、おそらく力夫が慕うほどなのだから大人物だったのでしょう。

『仁義の墓場』は『ブギーナイツ』の冒頭と同じように、親が親としての機能を果たしていないために子どもが苛立ちを募らせる物語です。

ところが、ここからが今回初めて気がついたことなんですが、敗戦を経てアメリカに占領され、ハナ肇は変わってしまった。『ブギーナイツ』との決定的な違いもここからです。


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彼は進駐軍の大佐と懇意で、彼らから仕入れたウィスキーを高く売ってボロ儲けしている。なのに大佐が出ていくと「毛唐が」と馬鹿にしています。戦争に勝ったからって偉そうにしやがってと。力夫はただ黙って聞いています。

馬鹿にするといえば、この映画に出てくる日本人はみな、いわゆる三国人(在日朝鮮人、台湾人、中国人)を馬鹿にしています。宗主国・日本が負けたことで三国人はそれまでの鬱憤晴らしとばかりに街を荒らしまくっている。日本人は敵も味方も警察も全部グルになって、三国人だけブタ箱に入れるという卑劣な手段を取ります。石川力夫はこういう差別にもただ黙って見ているだけ。

アメリカと日本
日本と中国、朝鮮、台湾


この二つは完全な相似形です。かつては日本がアジア諸国の父親として彼らの「庭」を荒らす横暴な振る舞いをしていた。いまはアメリカが日本の父親としてのさばっている。自分たちがやっていたことをやられているだけ。それならそれで三国人のように反抗すればいいものを、愛想笑いでお追従を言い、陰口をきくという卑劣さ。

父と子の正常な関係は、自分を押さえつける父に子が反抗し、父の支配から脱することです。三国人たちは正常に日本の支配から脱した。しかし日本は(いま現在も)アメリカに少しも反抗できず、お追従を言うだけ。これはとても異常な関係です。

正々堂々と喧嘩を売ってくる三国人のほうがよっぽどまし。と石川力夫はたぶん考えていたはず。なぜなら、新宿の街に進出しようとしたヤクザと争って刺したとき「俺はただ自分らの庭を荒らされたからけじめつけようと思って」と、力夫は自分は間違っていないとハナ肇に言います。ハナは「いま奴らとことを構えたらどうなるか、よく考えろ」と諭す。つまり損得勘定をしろということです。庭を荒らされても損をするから喧嘩はしない、そしてあろうことか、くだんの大佐に仲裁してもらう。何とも情けない親。そんな親は力夫をボコボコにしながら「何だその目は。それが親を見る目か!」とさらに打擲する。

筋を通しているのは力夫のほうです。ハナ肇をはじめ他の連中は損得勘定を筋目と勘違いしているだけ。

『ブギーナイツ』のマーク・ウォールバーグは家族を捨てて第二の家族を求めます。しかし力夫はそうしなかった。彼はハナを刺します。常軌を逸した行動に見えますが、「親は親らしくしてほしい」という彼なりの純粋な想いだったのでしょう。

親分を刺した。それがミッドポイントとなって後半はガラリと様相が変わります。もう政治状況とかそういうのは出てこない。ひたすら石川力夫という個人を追いかけます。

所払い10年ということになり、兄弟分でいまは一家を構えている梅宮辰夫の計らいで大阪に身を潜めるんですが、そこでシャブの味を憶えてしまう。そこからはもうごろごろ転がり落ちるだけ。何とかしようと説得する梅宮まで殺してしまう。

しかし保釈になると今度は殊勝に「線香あげさせてほしい」と梅宮の家を訪ねる。妻の池玲子は泣きながら断ります。当然でしょう。それがわかっていながら行ったのか、どうか。自分で殺しておいて線香をあげたいというのは殺された側からすれば残酷、身勝手の一語でしょうが、力夫には筋目だったのでしょう。殺してしまった兄貴に線香をあげたい。何となくだけどわかる気がする。

唯一の理解者で妻の多岐川裕美も自殺してしまい、その遺骨をもって彼はハナ肇のもとへ行きます。一家を構えたいから土地をくれ、事務所も作らないといけないから2000万ほしい。と言いながら遺骨を食べる有名なシーン。

彼がほんとに一家を構えたかったのか、それとも親がどう出るかを試そうと思ったのか定かではありませんが、いずれにしろハナ肇はヒステリックな足取りで出ていくだけ。力夫は最後まで父親に父親らしいことをしてもらえなかった。

彼は多くの人を殺し、傷つけた加害者であることは間違いありません。しかし彼は本当に「狂犬」だったのでしょうか? 私には親に恵まれなかった子どもの悲劇にしか見えない。石川力夫は被害者です。


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とはいえ、大事なのは、彼が被害者面をしないことです。

本を正せば、親のために、一家のために喧嘩をした。なのに……。でも彼は恨み言を言わない。独房の壁に「大笑い 三十年の 馬鹿さわぎ」とだけ書き記し、自殺します。そしてただひとつ遺された彼の墓石には「仁義」の二文字が刻まれている。

一番悪いのがハナ肇なのは明らかです。でも彼はいっさいの弁解を拒み、ただ「仁義」の二文字だけをこの世に遺すことを選んだ。石川力夫の仁義。わかる。いまはもうはっきりわかる。








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2019年02月23日

黒沢清監督が生涯ベストワンに挙げている、リチャード・フライシャー監督による1971年作品『ラスト・ラン/殺しの一匹狼』。

黒沢さんはフライシャーの経済効率にすぐれた映像演出を絶賛していましたが、私がこの映画で一番すごいと思うのは脚本家アラン・シャープによるセリフですね。


背景を説明しない
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まずこの『ラスト・ラン』の最大の特徴は物語や登場人物の背景をほとんど説明しないことです。

舞台もどこなのか判然としない。ヨーロッパ人なら簡単にわかるのかもしれませんが、私は主人公ガームスが船を貸している懇意の漁師がミゲルという名前であることと、彼が「大西洋」と言っていること、そしてフランス税関が出てくることから、バスク地方かもっと下ってポルトガルとの国境あたりなのかな、ぐらいしかわからない。テロップでどこそこと出さないのが大変よろしい。どこで起こった物語かなんてあまり関係ないというか、この3人ならどこで出会ってもこういう展開、結末しかありえなかっただろうという普遍性があります。

ガームスは9年ぶりの仕事に際して息子の墓参りをします。3歳で死んだそうです。でもなぜ死んだか映画は教えてくれません。息子が死んだ直後、奥さんは「胸を膨らませに」と言って家を出ていき、そのまま帰ってこなかったとか。男ができたのか、それとも息子が死んだことで一緒にいたくなくなったのか。映画は最後まで明かしてくれません。

ラストでも、モニークが裏切ったのかどうかもよくわかりません。ミゲルが殺されたのはガームスの船を奪うためでしょうが、だとすると、ガームスを雇った黒幕は最初から彼らが元の町に戻ってくることを予想していたのでしょうか。というか黒幕が最後まで登場しない。

でもそれでいいのだと思います。大事なのはガームスという男が底なしの孤独を抱えていることです。ほとんど夫婦のような関係の娼婦モニークには大事な金を預けたり心を許していますが、いざ仕事に行く直前、彼が行くのは教会。そこで神父にではなく神に直接語りかけます。この告解が実に印象深い。ガームスという男の人柄が一番よく出た場面になっています。

「俺は罪びとです。でも昔とは違います。最近は何もしていません。信仰心は薄い。でも今回の仕事はやり遂げたいんです。俺には運転だけだ。金のためです。でもまっとうしたい。それだけです」


見事な演技のアンサンブル
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刑務所に入っていたリカルドという男をフランスまで逃がすのがガームスの仕事なのですが、思いもよらず彼を待つ女クローディがいて、三角関係が始まります。この三角関係が実に斬新。

クローディはかつてリカルドの弟の恋人だったのに4年前にリカルドにあてがわれます。「弟は麻薬中毒だった」というセリフがあるだけでどういう事情なのか詳細には語ってくれません。大事なのはクローディが「商品」として男と男の取引に使われてきた女だということです。

ガームスはクローディに惚れるのですが、それはクローディが誘惑したからであり、背後で糸を引いているのはリカルドです。ガームスを都合よく利用するために誘惑させた。リカルドはガームスはおろか恋人のクローディも「物」として利用する悪人ですが、このリカルドの人物造形が素晴らしい。アラン・シャープによる脚本にすでに活き活きとした人物が描かれていたのでしょうが、演じるトニー・ムサンテとフライシャーの丁寧な演出(映像演出ではなく演技指導のこと)によってリカルドというキャラクターはリカルド自身の輪郭を常にはみ出す勢いがあります。

それはジョージ・C・スコット演じるガームス、トリッシュ・ヴァン・ディーバー演じるクローディも同様でしょう。3人の芝居がすこぶるうまい。うますぎるほどにうまい。「演技のアンサンブル」とはこういうのを言うのだ、と言わんばかりのフライシャーの演出ぶり。


「娼婦は心悪しき女」
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ガームスは娼婦モニークに金を預けるとき、

「娼婦とは多くの男と床を共にする女のことではない。心悪しき女のことだ」

という印象的なセリフを言います。このときモニークを演じるコリーン・デューハーストがサッとガームスの手を握るんですね。この芝居のつけ方がまた素晴らしい。まるで本当に目の前で彼らが生きているかのようです。

ガームスはモニークのことを少しも疑っていない。だから金を預ける。しかしモニークは心悪しき女と言われてハッとなる。この時点で彼女は黒幕に買収されていたのでしょうか。すべては最初から仕組まれていたのか。どうか。

しかしながら、「娼婦は心悪しき女」というセリフで肝要なのは、それがクローディにも当てはまるのかどうかということです。


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クローディが本気で自分に惚れていると思い込んでいるガームスは、リカルドを捨てて俺と一緒にアメリカへ逃げようと言います。しかしこの前にガームスはリカルドに「彼女を連れて逃げたら許すか」と訊いています。それを知ったクローディは「私にはいつ訊いてくれるの? 男同士で相談してから?」と言います。リカルドとその弟もそうやって男同士で相談してクローディを物としてやり取りしていた。クローディはまだ年端もいかない子どもの頃から「商品」だった。そういう意味では彼女は娼婦です。利用するためにガームスを誘惑するのも彼女が娼婦だからです。

でもガームスの娼婦の定義に彼女が当てはまるかどうかというと、私は違うと思います。

確かにクローディは最後にガームスを振ります。彼女と逃げる気満々だったガームスはショックで硬直し、そして精一杯の笑顔で「知ってたがね!」と言います。このときのクローディの哀しい表情がたまらない。心を痛めている彼女は決して心悪しき女ではない。クローディはガームスのことが少しは好きだと思う。でもそれ以上に「商品として扱われることへの嫌悪」が勝ったのでしょう。ガームスにとっては悲劇でも、クローディにとってはこれまでの自分を脱皮する大事な通過儀礼でした。


射程距離の長いセリフ
その直後、「何を話していた」とリカルドに訊かれた彼女は「彼が聞きたかったこと」と答えるんですね。このセリフの射程距離の長さ! アラン・シャープという脚本家は天才だと思います。

黒幕が誰なのか最後までわからず、なぜ追われていたのかもよくわからないままガームスは殺されます。息子に死なれ、妻には逃げられ、懇意の娼婦に裏切られ、娼婦ではない女には振られ、最後には殺される。そして結局一番得をしたのは身勝手で少しも成長しないリカルドだったという何とも理不尽な、あまりに理不尽な結末。

何とも哀しい。ここまで哀しい映画は他にちょっと思いつきません。

特異な背景を背負った3人のキャラクターという特殊性から、展開や結末の普遍性を導いたアラン・シャープの作劇とそれを実現したセリフのすごみに感服しました。


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2019年01月29日

橋本忍が嫌いだった
私は橋本忍という脚本家が大嫌いでした。『生きる』『切腹』『砂の器』などで押しも押されもせぬ名脚本家と誉れ高い方ですが、『砂の器』はまだしも、『生きる』の奇を衒った構成は思い出しただけで鼻白んでしまうし、『切腹』に関しては「あんな頭だけで作った映画はダメです」と一刀両断にした淀川長治さんの言葉に何度も膝を打ったものです。


『幻の湖』
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それが、先日、日本映画専門チャンネルで、監督もした『幻の湖』を初めて見ていっぺんに好きになってしまいました。それぐらいこの『幻の湖』はめったやたらに面白かった。

世紀の珍作なんて評があるのは知っていたので、少しでもつまらなかったら見るのやめようという軽い気持ちで見始めたんですが、何やら得体の知れない魅力にあふれた映画で、珍作というのもうなずけますが、最後まで見たいま、やはりこの映画にふさわしい言葉は「傑作」だと断言します。


ソープ嬢の復讐物語
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戦国時代をモチーフにしたソープランドで働く主人公は拾ってかわいがっていた犬シロを殺され、その下手人に復讐するというのが物語のあらましです。

特にすごいと思ったのは、犬が死んでから復讐を誓うまで、つまり警察に届けたり、そこで適当にあしらわれたり、会社まで犯人に会いたいと詰め寄っても体よく追い返されたり、はたまた復讐とは関係ないシーンや描写がものすごく長いことです。

復讐物語なのだからそういうところは不自然でない程度にパパッと済ませたくなるじゃないですか。それをかなり長い時間をかけてみっちりねっとり、ときには意味不明に描いていくんですね。警察や弁護士は「犬の放し飼い許可証がなきゃ」みたいなことを言って諦めさせようとしたり(放し飼い許可証なんてあるんだろうか。当時はあったんですかね?)男の会社の受付嬢は写真をくれと言われてなぜか「あなたにあげる写真なんかない!」と突然キレたりします。

復讐物語の主人公は復讐する。これは「映画の原理」です。でも、だからといってすぐ復讐に手を染めるわけではないし、できるわけでもない、周りはそんなことさせてくれない、というのが「世界の原理」です。橋本忍は徹底的に「世界の原理」に忠実に描写を積み重ねていきます。だから意味不明になるのです。復讐に躍起になっているはずなのに銀行の営業マンといい仲になって観光映画みたいになったり、この丁寧すぎるぐらいの描写には唸りました。

え、丁寧? どこが! という声が聞こえてきそうですが、あくまでも「世界の原理」を丁寧に描いていると言いたいのです。復讐志願者だからといって簡単に標的が見つかるなんてありえないし、妙齢の女性なんだから復讐そっちのけで恋に走りもするだろう、変な妄想に囚われることもあるだろう、復讐者だって生活してるんだから復讐という目的に沿って直線的に物語が進むほうがおかしいんだよ、という通俗的娯楽映画への異議申し立て。アメリカのB級映画みたいにパパッとやってしまえば全体が80分くらいに収まっただろうに、興行的に不利になるのを承知で丁寧すぎる描写の積み重ねを選んだ。

時間が飛んで戦国時代のシーンになったりもするし、最後にはスペースシャトルが発射したりもするんですが、そういうぶっ飛んだ内容なのに見ていられるのは丁寧な描写の積み重ねを怠っていないからでしょう。そりゃま、ああいうのをアホだと断じたい気持ちもわからないではありませんが。


ついに復讐を完遂するまさにそのとき!
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ついにシロを殺した男を見つけて追いかけるんですが、他に2度ほど追いかけっこのシーンがあります。それもかなり長いシーンです。ついに追いつけなかったり、最後は追いつきますけど何度も引き離されそうになります。警察や男の会社で体よくあしらわれるのと同じで、橋本忍は主人公になかなか復讐を完遂させません。それが普通だよ、と言わんばかりに。

しかもこの映画、相当狂っています。

ついに男に追いつき、シロを殺した包丁で男を刺し殺すのかと思ったら、何と追い抜いてしまうんです。そして「勝った、勝ったよ、シロ!」

えええええええええええええええええええええ!!!!!!???????

マジっすか。追い詰めて刺し殺すんじゃなくて追い抜くのが目的だったの!? 何これ。いつの間にか復讐映画からマラソン映画に変わってたのか、と思ったら、我らが主人公は首尾よく男を刺すので安心します。しかし!

もう一度とどめに刺した瞬間、スペースシャトルが発射するんですねー。

あまりのぶっ飛びぶりにゲラゲラ笑い転げました。これは面白い!!!


底流する「虐げられた者」への愛情
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本筋の復讐は殺されたシロへの想いで駆動されますし、結構長い時代劇パート(高橋恵子と星野知子が美しい)でも信長の気まぐれのせいで串刺しにされた浅野長政の子ども(万福丸)への哀惜の念が描かれます。虐げられた者への愛情が底流しているからこそぶっ飛んだ描写を楽しく見れるのだと思います。

というか、シロや万福丸のように「理不尽に殺される者」というのがこの『幻の湖』を解き明かすカギでしょう。

世界は理不尽に満ち溢れている。それが「世界の原理」です。だからシロは無残に殺される。警察は少しも親身になってくれない。会社の受付嬢は突然キレる。

「勝った!」という冗談としか思えないセリフもそう考えると腑に落ちます。本来の目的を見失い、別の目的に無意識にすり替えるのも「世界の原理」でしょう。

橋本忍はどこまでも理不尽に満ちた「世界の原理」を描こうとしたのでした。『切腹』もまた理不尽に立ち向かっていく映画でしたが、あの無駄のない緊密な構成、あれでいいのか、という思いがあったんじゃないか。もしなかったのなら、なぜこんな映画を作るのか少しも理解できません。『切腹』みたいなのはしょせん「映画の原理」で貫かれた絵空事なのだという思いがあったから、自己批評として『幻の湖』を作ったんだと思います。

もちろん、『切腹』の脚本を書いていたときはそのようなことは微塵も思っていなかったのでしょう。月日が経つにつれて「あれでよかったのだろうか」と疑問が高じてきたのだと察します。

生涯忘れられない映画との出逢いになりました。未見の方はぜひ見てください。

ただ、一番最後のスペースシャトルの乗組員が地球の琵琶湖の上に笛を置くというのはまったくわかりません。それもペタッと貼り付けるみたいに置いてましたよね。笑うしかなかった。戦国時代と現代と宇宙の破滅までを強引につなぐ豪快な、あまりに豪快な……

あれが何なのかはまったくわかりません。橋本忍という稀代のフィルムメーカーが到達した「神の境地」なのかもしれませんね。


幻の湖
南條玲子
2015-07-01









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