聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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『ガチ☆ボーイ』(佐藤隆太が泣かせる!)

BSプレミアムドラマの『弟の夫』があまりに素晴らしく、特に佐藤隆太の芝居が素敵すぎるので、10年前のこの作品を再見したくなりました。


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主人公は記憶障害で、眠るとその日一日の記憶を失ってしまう。でもそれ以外の記憶はすべて憶えている。というかなりご都合主義の設定ですが、見ているうちにそんなことは忘れてしまいます。何しろ「頭は忘れても体が憶えている」というのがテーマだし。

大学在学中に司法試験に合格した秀才で将来を嘱望されていたのに、いまは実家の銭湯を手伝うくらいしか生きていく道がない。父親の泉谷しげるは息子の自慢話に明け暮れていたのにそれももう叶わない。妹の仲里依紗は兄貴想いのいい子だけれど兄の苦悩をはたで見守るしかない。

サエコ演じるマドンナ的なマネージャーに佐藤隆太は恋をするんですが、相思相愛かと思いきや彼女は向井理演じる部長が好きで失恋してしまう。ただ失恋するだけでなく、告白するのが4回目で振られるのが2回目だと知った主人公の号泣を見て、「脳に障害があるのにプロレスって…」という疑問が吹き飛んでしまうのです。というか、一緒に号泣するほかないのです。

とにかくこの映画は力強い。それは佐藤隆太という役者だけが出せる力なのだろうと思います。この映画の6年前、『木更津キャッツアイ』で初めて見たとき、正直言っていまのような素敵な役者になるとは夢にも思っていませんでした。そのうち消えるのだろう、ぐらいにしか。

それがいまや、『ウチの夫は仕事ができない』の懐の深い上司役とか、『弟の夫』のシングルファーザー役とか、佐藤隆太にしか出せない味を出せる役者に成長しました。軽く見ていた不明を恥じます。

テレビドラマ的な作りに対して、

「映画的じゃない」
「ただの浪花節」

みたいな批判もありそうですが、私は大好きです。ご都合主義も含めて、ここまで熱いドラマを展開されては、あばたもえくぼです。

すべての映画が映画的じゃないといけないの? 映画で浪花節を歌っちゃいけないの?

同じプロレスを題材にしているからじゃないですが、あの『カリフォルニア・ドールス』のよう、と言ってしまっては褒めすぎですかね。

でもまぁ未見の方は騙されたと思ってご覧になってくださいませ。

ラスト30分、「映画の奇跡」があなたに襲いかかります!!!



『明日に向って撃て!』(どこまでも愚かな男たちの悲劇)

久しぶりにアメリカン・ニューシネマの名作『明日に向って撃て!』を見ました。


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この映画、私にとってかなり特別なものでして。

実は、いままで1万本以上の映画を見ているんですが、そのきっけかになったのがこの映画なんです。
17歳の秋でした。それまで映画などほとんど見てなかったのに、ひょんなことからたまたまビデオ(DVDではなくもちろんVHS)を借りて見たのでした。
そして、その面白さにやられてしまい、「世の中にこんなに素晴らしいものがあるのか!!」と驚愕、それから今日まで狂ったように映画を見続けてきました。

デビッド・フィンチャーもこの映画の大ファンらしく、いままで200回以上見ているらしいです。

他にも周りの友人でこの映画のシンパはたくさんいます。


ラストシーンにおける大きな誤解

しかしながら、この映画に関して大きな誤解をしている人が多く、残念な思いをしているのも事実なのです。(以下、ネタバレあります。ご注意を)

この映画のラストで主人公二人は警官隊が取り巻いているところに飛び出して行き一斉射撃を浴びて死ぬわけですが(あのストップモーションの何と美しいこと!)多くの人が、あの二人が警官隊が取り巻いていることを知っていて自ら撃たれるために飛び出して行った(つまり自殺)と勘違いしている人がとても多いんです。

本当は、二人は警官隊が自分たちを取り巻いていることを知らず、それまで追われ続けた名うての保安官が相手ではないに気づき、それなら勝てる! と飛び出していくのですよね。あれを自殺と思っている人たちは、この映画がヒロイズムを謳っているとでも思っているのでしょうか。

この映画は「愚か者二人が時代の流れを見誤り、蜂の巣にされて死んでいく悲劇」です。ヒロイズムではありません。どこまでも愚かな男たちへの哀切きわまりない挽歌なのです。


新時代の象徴=自転車

時代の流れといえば、この映画の前半部で自転車を売る男が出てきます。「もう馬に乗って走る時代じゃない。これからは自転車の時代だ。自転車こそ未来なんだ」と。主人公たちはこの自転車を買うのですが、時代が馬から自転車、そして車へと移行していく流れを少しもわかっていない。いつまでも馬にまたがって銀行強盗ができると思っている。

最初のほうでポール・ニューマンが、「俺は世界を見通している」と自慢げに言う場面がありますが、少しも見通してなどいないのです。見通してると思い込んでいる愚か者なのです。
だから、名うての保安官に追われて命からがら逃げ延びたあと新天地ボリビアへ旅立つとき、「なにが未来だ、ボロ自転車が!」と自転車を投げ捨てます。(あの場面の自転車のタイヤがカラカラと淋しく空回りするカットの美しさ)

DVDの音声解説では、撮影のコンラッド・L・ホールが、「彼らを追っているのは『20世紀の文明』なんだ」と言っていました。「未来が過去を凌駕する物語なんだ」と。追手たちがいくら巻いても正確にどこまでも追ってくるのはその象徴だと。うーん、なるほど、それにはまったく気づきませんでした。


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ともかく、そういった「自分たちを取り巻く世界の流れが見えていない」ことを象徴するのがこのラストシーンなんですよね。自分たちを取り巻く警官隊にまったく気づかず出ていけば勝てると思い込んでいるという。

どこまでも愚かな男二人の悲劇。

しかし、ただ単に愚かなだけでは、このラストシーンがあんなに美しく衝撃的でいつまでも胸に残るものにはならなかったでしょう。(私が最初見たときはあまりの美しさにしばらく身動きできませんでした)


愚か者から脱却する千載一遇のチャンス

ラストシークエンスの前に、名うての保安官の姿を垣間見た二人は、このままだとあいつに殺られると銀行強盗をやめ、カタギの仕事に手を染めます。労働者に払う給料を運ぶ親方を護衛する仕事です。それまで銀行の金を奪い取っていた彼らが、今度は守る側になる皮肉。

最初の仕事でいきなり親方が山賊に撃ち殺され金を奪われるんですが、二人は金を山分けしている山賊の前に立ちはだかります。そのときのセリフが素晴らしい。

「俺たちはその金を守るのが仕事なんだ。それは俺たちの金じゃないんだ」

それまで他人の金を奪い取ることしか知らなかった男たちが初めて見せる男気。自分たちの金じゃないからこそ命がけで守るんだという。

それまでも二人はとてもチャーミングで観客はみんな彼らのことが好きだったでしょうが、この場面において彼らはただの「悪いけど愛嬌のある奴」から「本当のヒーロー」へ転身するわけです。しかし、そのまま改心すればよかったものを、またぞろ強盗に走ってしまう。

彼らは自分たちを取り巻く世界の流れにも盲目なら、自分たちの心にも盲目でした。己の心に宿った正義に気づかなかった。

どこまでも愚かな男たちの悲劇。

でも、どこまでも愚かな人間を描いているからこそ、いつまでもこの映画が好きなのかもしれません。


『天使のはらわた 赤い教室』は内部告発の映画である

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田中登監督『女教師』、小沼勝監督の『山の手夫人 性愛の日々』と並んで、私がロマンポルノで最も愛する名作中の名作、曽根中生監督『天使のはらわた 赤い教室』。
今回再見してみて思ったのは、この映画は「ポルノがポルノを批判する『内部告発』の映画ではないか」ということです。


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村木は「ヒーロー」なのか
ロマンポルノには珍しく蟹江敬三演じる男・村木が主人公。ちなみに続く『赤い淫画』『赤い眩暈』も男が主人公です。名美シリーズという名前で知られていますが、実際は村木シリーズ。

まずはいつものように比較神話学を援用して解剖してみましょう。

夢に溢れた教育実習生だった名美はブルーフィルムの撮影のためにレイプされ、そのために教師の夢も断たれる。あのフィルムを見たと何人もの男に脅されて体をほしいままにされ、もう男を信じられなくなっている。ダースベイダーと同じように暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーローです。

対して、村木が演じるエロ本のカメラマンは、ブルーフィルムの中のレイプが本当のことだったと直感し名美を探す。仕事で使うホテルの受付嬢だと判明して会い、あんたの写真を撮りたいともちかけ、また会おうと約束して去る。アンチヒーローを暗黒面から救い出そうとするヒーローですね。でも本当に?

でも結局、村木は濡れ衣でブタ箱に入れられてしまい、約束を果たせない。名美は「あの男だけは違うと思ったのにやっぱり……」と自暴自棄になってしまい、さらなる暗黒面に堕ちていく。村木は3年かけてやっとドヤ街にいる名美を見つける。名美はもう誰も信用していない。

「あんたはこんなとこにいちゃいけないよ」
「じゃ、あなたが来る? こっちに」

答えられない村木を見て、名美は静かにドヤ街へ戻っていく。

最終的に名美を救えなかった村木はヒーローではなかったのでしょうか?


村木に濡れ衣を着せたのは誰か
その前に、この映画で最大の「悪」は何でしょうか。名美をレイプした男たちであることは誰に目にも明らかです。彼らがいなければ名美は堕ちることなく教師としての開かれた未来があったわけですから。

しかし、この映画には大きな疑問があります。

村木に濡れ衣を着せたのは誰なのか。
仕事で使っていたヌードモデルが15歳だと発覚して逮捕されるんですが、警察での事情聴取で村木は「万引きで捕まって困っていたのを助けてやって、でも15歳とは知らなかった」と言います。村木が実直な男だというのは観客も知っていますから嘘でないのは明らかです。なのにその15歳の女の手帳には「村木さんに無理やり……」みたいなことが書いてあったと刑事は言います。

そう、村木はハメられたわけです。誰に? 同僚のカメラマンでしょう。村木は俗っぽいエロ写真ではなく芸術的なヌードを撮りたいと切望している男で、そのために同僚からバカにされています。名美との約束を果たせず3年後に時間が飛ぶと村木が編集長になっており、入社したばかりだった若い男も経験を積んだ社員としてバリバリ働いているのにあの同僚カメラマンだけ姿がないので、彼が濡れ衣犯と思われます。

村木は名美をモデルに芸術的な写真を撮りたい。だから彼女を救おうとするのですが、結局その「芸術をやりたい」という気持ちが足枷にもなってしまう。


村木はヒーローにあらず
村木は結局、名美をレイプした男たちと同じ穴のムジナではないか、というのが私の解釈です。確かに彼は名美を救おうとする。でもそれは自分の芸術のためです。本当に名美を愛し自分の身を犠牲にしてでもと思うのなら「あなたが来る? こっちに」というセリフに応えられたはず。それができなかったのは彼が名美を自分の芸術のための「手段」にしようとしただけだったということです。

「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というカント哲学の要諦がありますが、村木は名美を目的として扱っていません。ブルーフィルムを撮影する手段として名美をレイプした男たちと本質は同じです。

村木はヒーローではありません。この映画にヒーローはいません。ヒーローであるかに見えた村木でさえ名美を暗黒面に陥れた側の人間だったことが明らかになって映画は幕を閉じます。

この映画はだから、女の裸を見たい、濡れ場を見たい、という男の欲望を静かに告発する映画でもあると思います。ポルノがポルノを批判する「内部告発の映画」とはそういうわけです。

実に深い映画。やはり真の名作ですね。

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『T2 トレインスポッティング』(悔恨と希望と)

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もともと1作目がそれほど好きではないということもあり、劇場に見に行かなかった『T2 トレインスポッティング』。あまりに評判がいいみたいなので21年前の前作を再見したうえで鑑賞しました。

もう滂沱の涙! 涙で画面がかすんでしまうとは思ってもみませんでした。

まだ若かった彼らはただの愚か者であり、愚か者なりに自分の人生を歩んでいましたが、21年たってもやっぱり愚か者でしかないという厳しい現実が身につまされます。恋仲だった女は立派な弁護士になっているというのに。

我が身を振り返ってみると、1作目を見たのはまだ20代前半のときでした。そして21年たって40代半ばになってわかったことは、「自分はいつまでたっても子どもで愚か者でどうしようもないバカである」という悲しい現実だけです。悔恨と自己嫌悪。

21年前と確実に賢くなったこともあります。それは、

「歳をとらないとわからないことがある」

ということです。

でも、その「歳をとらないとわからないこと」とは何だろう? と考えると途端にわからなくなる。わからないからいまだに愚か者のままなのでしょう。

昔は、40代の人間ってもっと大人だと思っていました。いろんなことを学び、いろんなことを悟り、若造にはわからないことがわかるようになるんだと漠然と思っていました。でも、実際にこの歳になってわかったことは、「人間はいつまでたっても子どもだ」ということです。

おそらく、20代の私がこの映画を見ても少しもよさがわからないでしょう。後悔するという経験をある程度積まないと理解できない『レイジング・ブル』のような映画ですね。

もしかすると、この映画の良さがわかるということは、少しは1作目を見たときより大人になったということかもしれない。うまく言葉にはできないけれど、それが「歳をとらないとわからないことがわかった」ということの正体なのかもしれない。

というわけでユアン・マクレガーと一緒に、21年前の自分の残像とともに踊るのです。

ユアン・マクレガーのように踊れるかどうか。そこにこれからの人生を生き抜いていく鍵がある気がします。そこに「希望」があるのだと。



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一期は夢よ、ただ狂え! 


『フレンチ・コネクション』(スマートな自己言及映画)

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私はユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はその意味でも類まれな面白さをもった映画といえると思います。

ユング心理学そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんけど、平たく言うと、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間を考えるそうですが、私は「霊」に関してはそういう映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
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何といってもこの映画はこのカーチェイスのシーンが有名です。麻薬密輸グループを逮捕しようと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。



②心理の物語
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問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。



③感情の物語
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だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソという役者が演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

「心理の物語」はすでに解決されています。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?



⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出した、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。
はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの疑惑の目にも注目したい。(この疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人に初めて感情的な亀裂が入る)

この逆転は、「身体の物語=アクション映画」を楽しみに来た観客に対してほとんど喧嘩を売っているとさえ思えます。最後の最後で「この映画はアクション映画ではなかったんですよ~」と言っているんですから。

凶悪犯が急増した70年代初頭、「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのか、とこの映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意だった刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをももしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
最後に、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?


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フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになった者が、逆に撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、この「一般市民から車を強奪する」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


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アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。

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