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2020年05月02日

久しぶりに見ました。不朽の名作『ゴッドファーザー』。


The-Godfather

主人公は誰か
よく、「『ゴッドファーザー』の主人公はマイケル(アル・パチーノ)だ」というと、「ヴィトー(マーロン・ブランド)だろう」と言い返されるんですが、それは明らかな間違いです。

この映画は何よりもマイケル・コルレオーネの「顔の変化」を骨格としています。


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この場面はマイケルが「俺がソロッツォを殺す」と息巻くところですが、まだまだあどけなさが残っています。

それが、最後のほうになると……

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冷徹きわまりない顔になってしまう。

『ゴッドファーザー』はあくまでも父親ヴィトーが撃たれてことをきっかけに堅気だったマイケルがファミリーの仕事に手を染め、下劣なゴッドファーザーに成り下がる映画です。それを筋としてだけでなく、顔の変化という視覚に訴えるやり方で描写しているところが素晴らしい。


クライマックスはどの場面か
一番の見せ場は洗礼式と五大ファミリー殲滅を交錯させたシークエンスですが、やはりこの映画のクライマックスは、マイケルが妹コニーの旦那を平気で殺す冷酷非情なゴッドファーザーになった場面です。

正確には、妻のケイ(ダイアン・キートン)に「ほんとにコニーの旦那さんを殺したの?」と聞かれて「ノー」と答える場面。ファーストシークエンスではあどけない若者として登場したマイケルが最終的に最愛の妻にさえ平気で嘘をつく男になってしまう。

ヴィトーはクライマックスのはるか前に死んでしまうのだから主人公であるはずがありません。


ホームドラマ
この記事には「ホームドラマ」のタグを付けていますが、「『ゴッドファーザー』はホームドラマだ」というと、これにも異議を唱える人がいるんですよね。確かに「マフィア映画」でもあるけれど、それ以上に「ホームドラマ」の側面が大きい。

マイケルが裏の稼業に手を染めるのは父ヴィトーが撃たれ少しでも家族の役に立ちたいと思ったからですが、なぜヴィトーが撃たれたかというと、タッタリア・ファミリーからの「俺たちと組んで麻薬取引をやらないか」という申し出を断ったからです。なぜ断ったか。「麻薬は家族を滅ぼすから」です。

長男ソニー(ジェームズ・カーン)が殺されたのは、コニーが旦那から暴力を振るわれていて助けに行こうとしたからです。

すべての登場人物が「家族のために」行動しているのに、それがすべて裏目に出てしまい家族がバラバラになってしまう物語なのだからホームドラマでなくて何なのでしょう?

ヴィトーは、かわいい三男坊のマイケルにだけは暴力で人を動かす汚れた稼業に手を染めてほしくないと思っていました。それが、マイケルが跡目を継いだばかりか、義理・人情を重んじるヴィトーとは対照的に、マイケルは金しか信じない極悪人になってしまう。ヴィトーの思いをことごとく裏切り、偉大なる父ヴィトー・コルレオーネとは似ても似つかぬゴッドファーザーに成り下がってしまいます。


金では動かない男ヴィトー
「アメリカはいい国です」から始まる印象的なファーストシークエンスで、葬儀屋は娘をレイプした男たちを殺してほしいとヴィトーに依頼に来ます。
「おまえの娘は殺されたわけじゃないから痛めつけるだけで充分だ」
「私は殺してほしいと頼んでいるんです。いったいいくら払えばいいんですか!」
「俺はそんなに情けない男か⁉ おまえが俺を常日頃からゴッドファーザーと呼んで友情を誓っていれば頼まれなくたってそんな奴らは痛めつけてやる」
葬儀屋がかしずいて「ゴッドファーザー」とヴィトーの手にキスをすると、
「これでおまえは友人だ。頼みを聞いてやる」

一方で、ヴィトーが撃たれる直前にソロッツォに殺されるルカ・ブラジという男は、殺し屋としては優秀らしいですが、とても口下手で、コニーの結婚式では「ドン・コルレオーネ、このたびはお招きにあずかりありがとうございます」と口上の練習をしている。

そして練習通りに棒読みでヴィトーに感謝の意を伝えるのですが、ヴィトーはじっくり聞いてやる。「忙しいときに何だ」と直前には言っていたのに、ルカ・ブラジのどうしてもお礼を言いたいという気持ちを汲む度量がヴィトーにはある。ヴィトーにとって大事なのは「気持ち」であって「金」ではない。

そういえば、ずっと以前、山口組の組長がインタビューで「一番恐いものは何ですか?」という質問に「金では絶対に動かない男」と答えてましたっけ。


パン屋がもってくる「ささやかな花束」
撃たれたヴィトーが入院している病院をマイケルが訪れたとき、パン屋が来ますよね。このままでは殺されるからと看護婦と一緒にヴィトーのベッドを廊下の奥に移動させたら足音がして、殺し屋かと思ったら「いつもお世話になってるパン屋です」と。あのパン屋がもってきた「ささやかな花束」もまたヴィトーという男を象徴していると思います。

パン屋だって豪勢な花束を買いたかったはずなんですよ。でも貧しいから小さいのしか買えない。でもヴィトーは何よりも相手の気持ちを汲む男です。金なんてどうでもいい、見舞いに来てくれたことがうれしいと喜んで受け取る男なのでしょう。

しかし!

殺し屋が来たとき「胸元に手を入れて拳銃をもっているふりをしろ」とパン屋に命じるマイケルは、その花束を奪い取って捨てます。別に胸元に隠してたっていいじゃないですか。それを捨ててしまうというのは、マイケルがもしヴィトーと同じ目に遭えば、あんなささやかな花束を受け取らない男だということです。父と子の器の違いが顕わになっています。


フレドーについて口を閉ざすヴィトー
マイケルの次兄はフレドーという能無しの男ですが、そのフレドーについてヴィトーは何も語りません。腹の中では能無しと思っているんでしょうがそれだけは決して口にしない。それを口にしたら終わりだという良識をヴィトーという男はもっていました。薄汚れた仕事に手を染めながらも、人としての矜持を失わない男でした。

しかし、マイケルはドンになった途端、次兄のトム(ロバート・デュバル)を相談役から降ろすと非情な宣告をします。ヴィトーが「わしからそう言ったんだ」と取りなそうとしますが、「力になれる」というトムにマイケルは「無理だ」の一言で片づけてしまう。


Vito and Michael Corleone

主人公はあくまでもマイケルですが、マイケルを通してヴィトーという男の偉大さがどんどん浮き彫りになっていきます。

だから「主役はヴィトーだ」と勘違いしている人が多いのかな、とも感じた次第。


マイケルの悲哀
ただ、マイケルもかわいそうな男なんですよね。もともと極悪人だったわけじゃないから。ヴィトーが撃たれる日、ケイとクリスマスを祝うシーンなどではごく普通の善良な男です。

それがなぜ冷酷非情なゴッドファーザーに成り下がってしまったのか。

それはやはり「裏切り」でしょうね。

ヴィトーが撃たれたのは運転手兼ボディガードのポーリという男が裏切って仮病を使ったためですし、ソロッツォを殺したあとに逃れたシチリアで出逢った女と結婚しますが、彼女もまた裏切り者のせいで爆死してしまう。

だから、コニーの旦那も親父さんの昔からの仲間だったテシオですら裏切った以上は死んでもらう。

『仁義なき戦い』を書いた笠原和夫さんの「骨法十箇条」の要諦は「枷」で、「主人公の心のあり方にこそ求めること」と書かれています。

裏切り者のせいで家族が不幸になった。だから裏切り者は全員根絶やしにしてやる。
それがマイケルを縛る「枷」です。その枷のせいでマイケル自身がどんどん不幸になってしまう。


おまえにだけはこんな仕事はさせたくなかった。おまえにだけは普通の幸せを手にしてほしかったという父親の願いもむなしく……


続き
『ゴッドファーザーPARTⅡ』(『ラストエンペラー』に通底するもの)


ゴッド・ファーザー (字幕版)
マーロン・ブランド
2013-11-26









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2020年04月11日

久しぶりに再見しました。ラリー・コーエン&クリス・モーガン脚本、デビッド・R・エリス監督による『セルラー』。

主人公ジェシカ・マーティンは平和な生活を営む教師で、良き妻であり一児の良き母。
そんな彼女の家に暴漢が侵入し、誘拐され、どこかわからない一室に閉じ込められます。備え付けの電話も壊されますが、必死に回路をつないで…


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ある若い男、ライアンにつながるのですね。彼は巨乳女とやることしか考えてないチャラ男なんですが、このライアンがジェシカが本当に誘拐されて監禁されていることを知り、彼女を助けるために奔走します。

そして、警官ボブの助けもあって、首領である汚職警官イーサンを殺して一件落着というのが物語のあらまし。何の変哲もないサスペンス・アクションのストーリーですが、これを「神話」として読み解いていくといろいろ面白い発見がありました。


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この映画では、「二人のヒーロー」がいます。もちろん、若造ライアンと警官ボブです。二人は「ヒーロー」などとは縁もゆかりもない生活を送っています。ライアンは女のことしか頭になく、ボブは職務そっちのけで副業で奥さんとスパを経営することしか頭にありません。どちらも「汚職警官ライアンをやっつける」ことなど映画が始まるまで少しも考えていません。

ここがまずミソですね。ヒーローとしての心の準備ができていない。それどころかそんなのどうでもいいと思っている。そんな二人が会ったこともない人間のために命を懸けてヒーローになっていく物語です。

この二人の英雄が悪を懲らしめるためにもっている「武器」は何でしょうか。

まず、ライアンにとってのそれはジェシカと通じる携帯電話です。これが最後に活躍することは見ずともわかるわけですが、問題はボブの武器である「拳銃」です。拳銃は、悪役イーサンももっています。
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しかも二人とも同じ警察官。もとは二人とも正義を下すために拳銃をもったのでした。それがいまやイーサンは悪事のために使っており、ボブはただ腰にぶら下げているだけ。しかし、このボブの拳銃が最終的にすべてを解決します。

主人公ジェシカを恐怖のどん底に陥れたのも拳銃なら、彼女の危機を救うのも拳銃です。しかし、その拳銃が別々の人間のものであるところが少し弱いところでしょうか。

『ロード・オブ・ザ・リング』では、暗黒面に堕ちた者の武器も指輪なら、正義を下す者の武器も同じ指輪でした。ひとつの指輪がどちらの手に入るかでこの世界の命運がかかっていました。『ロード・オブ・ザ・リング』の神話的世界はまことに強固なものだったと言えるでしょう。

しかしながら、この『セルラー』でも似たようなことが言えます。ジェシカを襲うのも警官なら救うのも警官だからです。最初は正義に燃えて警察官を志したはずなのに、暗黒面に堕ちてしまったイーサンと、ぎりぎり正義感を忘れていなかったボブとの対照。『セルラー』もまた『ロード・オブ・ザ・リング』と同じ神話的世界を形作っています。

この頃はまだそれほどメジャーな俳優ではなかったとはいえ、この2年前に『トランスポーター』シリーズでヒーロー役をやっているジェイソン・ステイサムを悪役に配したのは、ヒーローであるボブとは対照的に暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーロー(元ヒーロー)として、すでにヒーロー役をやっていたステイサムが必要だったのでしょう。

だから、この映画の最も神話的なところは、過ぎし日には同じ正義感に燃える若者だったボブとイーサンの警察官の関係です。そしてその二人が「脇役でしかない」ところがこの映画のユニークなところです。

この映画の主人公はジェシカです。そしてジェシカが最初に助けを求めるライアンが準主役です。しかしながら、この映画の神話的世界に的を絞ると、彼らはただの脇役にすぎません。ライアンは「英雄ボブと悪の化身イーサンの神話」における援助役にすぎません。ジェシカにいたってはただの被害者です。

この映画では、被害者の「視点」から物語を紡いでいるわけですね。被害者ジェシカから援助役ライアンの登場、そして英雄ボブの登場と神話世界の外から中へ話を進めているのがうまい構成だと思います。

この文章の最初のほうで「ボブがライアンを助ける」みたいなことを書きましたが、神話的世界から見ればまったく逆なのですね。ボブがヒーローとして屹立するための援助をライアンがするわけです(だから「二人のヒーローがいる」と書いたのも実は間違いです。ヒーローはボブただ一人)。映画のプロットとそこに隠された神話の構成は完全に「さかさま」なのです。ヒーローとはまったく違う視点から物語を紡いでいるわけだから当たり前といえば当たり前ですが、とても面白いと思います。

ボブを主人公にしても物語は成り立ちます。しかし、それではあまりに教条的な映画になったことでしょう。

いきなり暴漢に襲われる、被害者が会ったこともない男に電話で助けを求める、その男がさらに助けを求めたやる気のない警官が登場し、暴漢たちが実は彼と同じ警官であることが判明し…

という感じで、小気味いいサスペンス・アクションの物語進行とともに神話的世界観が少しずつあらわになっていき、「真の英雄」が誰かは最後にわかる。

比較神話学の権威ジョーゼフ・キャンベルが見たら大喜びするだろうと思われる「さかさま神話」の傑作だと思います。


セルラー(字幕版)
キム・ベイシンガー
2015-03-1









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2020年03月21日

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。(以下ネタバレあります)



やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしているうえに、主人公が自分の恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。


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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、とても変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを覆しすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが面白い)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。

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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくない、という。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見るほかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思いました。


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陸軍中野学校
市川雷蔵
2015-09-21





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