聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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『女教師』の神話的構造

1977年製作、中島丈博脚本、田中登監督による名作ロマンポルノ『女教師』を久しぶりに再見しました。

前回の『山の手夫人 性愛の日々』の神話的構造 に続く、ロマンポルノを神話的に読み解くシリーズ第2弾です。


女教師4



もう25年くらい前でしょうか、初めて見たときは、セカンドレイプ問題に日本の教育問題を絡めた傑作だと思いました。時を経たいまもその思いはまったく変わりませんが、これをジョーゼフ・キャンベルの比較神話学などを援用してこの物語を読み解くとどうなるか。

神話的に読み解くということは、誰が問題を解決するか、つまり「ヒーロー」は誰か、また、「問題」は何か、その問題の原因を引き起こしたのは誰か、『クリエイティヴ脚本術』の言葉を借りれば、「ホールドファスト」は誰か、ということになるのですが・・・


女教師5


私は普通に主人公の永島瑛子がヒーロー(ヒロイン)だと思っていました。でも違いますね。彼女はレイプ事件の被害者であり、セカンドレイプも受けるかなり悲惨な人ですが、彼女が問題を解決するわけではない。

さて、その前に、この映画でドラマを駆動する「問題」とは何でしょうか。

永島瑛子がレイプされることではないですよね。それは問題を表面化させるきっかけにすぎません。

上の画像の樹木希林や蟹江敬三も噂に踊らされてセカンドレイプしてしまうひどい教師たちですが・・・



女教師1


やはり問題の原因はこの男でしょう。
レイプ犯・古尾谷雅人(まだこのころは「古尾谷康雅」ですが)の担任にしてレイプ事件の目撃者・砂塚英夫。目撃しておきながら、しかも教師のくせに事件の一部始終をニヤニヤと眺めていただけ。

実はもう一人、永島瑛子の恋敵の女性教師も目撃していたのですが、それは最初は明らかになっていません。最初に問題になるのは、久米明校長をはじめ、穂積隆信教頭、そして砂塚英夫が事件をうやむやにしようとしたことですね。一人、正義感の山田吾一が永島瑛子を擁護して警察に届けるべきだと主張しますが、聞き入れてもらえない。

結果として、教え子を誘惑したとあらぬ噂を立てられた永島瑛子は遠い北海道で自殺未遂を図るに至るのですが、教師からも生徒からもバカにされセカンドレイプの真っただ中で半狂乱になる様子を冷静に観察している男こそこの映画の「ヒーロー」です。




女教師 古尾谷雅人


そう、レイプ犯の古尾谷雅人。

え、彼は問題の原因では? いやいや、問題の原因は事なかれ主義の久米明校長から卑劣漢・砂塚英夫までの教師たちでしょう。もう一人の目撃者たる女性教師・宮井えりなもそうでしょうし、永島瑛子の恋人・鶴岡修だってそう。

古尾谷雅人は、自分が起こした事件をなかったことにした教師たちを成敗する役どころです。
問題の真の原因ではないにしろ、きっかけを作った彼がヒーローに変容するところ、つまり悪の側からヒーローが登場するところがこの映画がいまでも新鮮な理由ではないでしょうか。

そこには、思春期特有の複雑な精神状態も絡んでいたはずです。自分が犯した罪を棚に上げ、その罪を隠蔽した者に怒り狂う。砂塚英夫と母・絵沢萌子がデキていることに息子として不潔感を禁じえないということもあったでしょう。

そして大事なことは、一見ヒーローであるかに見えた正義教師・山田吾一が少しもヒーローでないことですね。

永島瑛子の弟が古尾谷雅人の写真を見せてほしいと山田吾一に頼みに行ったら、「それはできない」と突っぱねる。警察に届けるべきだと主張する彼ですら、被害者の弟に教え子の顔を見せるのはまずいと考えている。

警察にならすべてを明るみにするが、被害者の弟には隠す、というところに、山田吾一教師の「正義の限界」が見え隠れしています。彼は警察や法という権力には従順なのです。しかし警察に届けていない事件のことをいくら被害者の弟であっても話すことはできない。

「正義」を標榜する人間にありがちな陥穽ですね。彼は結局、正義ではなく「権力」が好きなだけなのです。だから、悪の側にいたはずの古尾谷雅人がヒーローとして生まれ変わる必要が出てくる。

ラストシーン、すべてが解決したあと(ほんとは何も解決してないのですが)山田吾一が永島瑛子に「あなたはもう一度教壇に立つべきです」と諭します。

昔はこのクライマックスに感動したものですが、いま見返すと、山田吾一のセリフがかなり空々しく響きます。ヒーローたらんとしながらもヒーローになりきれなかった、不良の古尾谷雅人にヒーローの座を奪われた者の負け惜しみに聞こえてしまいました。





永島瑛子


それにしても永島瑛子は美しい。
中盤、家に帰って弟が迎えてくれるシーンでの真っ赤なチョッキがすごくよかった。

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『曽根崎心中』を見て改めて思う「監督の腕」とは

約20年前に大阪のシネマテークで見たとき、「ものすごいものを見た」としばし呆然としてしまって身動きできなかったことをまるで昨日のことのように憶えています。

白坂依志夫・増村保造脚本、増村保造監督による『曽根崎心中』(1978)。



曽根崎心中1


物語のあらゆる要素が悲劇を高めるためにのみ作用していて、もう見ていて固唾を呑むことしかできないのですが、冷静になって考えてみると、この文語調のセリフばかりのやや仰々しい脚本を凡百の監督が撮ったらそれこそ悲劇にしかならないのでは? と思えます。

何しろ、主役の梶芽衣子が大仰すぎるほどの大芝居だし、悪役の橋本功もあまりにあくどすぎる役で、普通にやったら噴飯ものでしょう。井川比佐志演じる宇崎竜童の主人にして伯父なども、やりすぎずやらなさすぎずの匙加減が難しかったかと。

何よりその宇崎竜童ですよね、一番の問題というか核心は。

彼は俳優じゃないから細かい芝居ができない。なのに、この心中劇の中心に据えるという大胆不敵さ。主役に素人というのは珍しくないけれど、周りが芸達者ばかりのなか、中心にド素人を据えてもイケると踏んだその判断がすごい。何しろもうひとつの中心である梶芽衣子にはものすごい細やかな芝居を要求しているにも関わらず。

そのへんの計算というか、おそらく現場では何度もやり直しがあったと推察されますが、やはり、監督の仕事というのは「演技指導」だな、と改めて思った次第。

どう撮るかはカメラマンに任せても大丈夫。
どう繋ぐかは編集マンに任せても大丈夫。

でも、演技指導を他の人に任せたら・・・もう監督ではなくなってしまう。

「演出」とは「演技を引き出す」と書きます。中国語でも「演技を導く」で「導演」ですものね。

この当たり前の事実を忘れた監督の何と多いことか。
私が昔の映画を好むのはこういうところに理由がある気がします。


『山の手夫人 性愛の日々』の神話的構造

大工原正泰脚本、小沼勝監督による1980年作品『山の手夫人 性愛の日々』を久しぶりに再見しました。


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何度見ても小沼勝監督の端正な画作りにため息をつかざるをえないのですが、このブログではやはり脚本構造に目を向けた感想を書きたいですね。

私は、何よりもこの映画の「神話的構造」が好きでたまらんのです。

以下は、2003年に出版された『クリエイティヴ脚本術』に書いてあることを援用しているのですが・・・



神話というのは、何らかの逆境があって、その逆境を克服すべくヒーロー=ヒロインが活躍して逆境の原因たる悪役を退治し、逆境を順境にしてハッピーエンドを迎える物語のことですが、この『山の手夫人 性愛の日々』では、そこのねじれ具合がものすごく面白い。

物語は、
日本舞踊春日流の理事長の妻・亜津子が主人公で、夫の理事長は前妻を病で亡くし、亜津子が後妻にして弟子。理事長には前妻の間に一人息子がおり、この息子は「母さんが死んだとき妾のところに入り浸っていた」のが理由で父親をひどく恨んでいる。しかも亜津子と生さぬ仲なのをいいことに激しく迫り、亜津子も彼のことが憎からぬ感じで、二人は文字通り性愛の日々を重ねることになる。理事長は、盲目ゆえかそんな二人の仲を鋭く察知しており、稽古の途中で亜津子にビー玉を投げつけて杖で折檻するなど、目にあまる行為をする。

と、ここまで書くと、夫の理事長が悪役で、息子や主人公・亜津子が不幸な目に遭っているのが逆境のように見えますよね。実際、物語の4分の3ぐらいはそんな感じで進むのです。

が、最後の4分の1ですべてがひっくり返ります。

物語の続きを記すと、

息子は、生さぬ仲とはいえ母親と性愛の日々を重ねるのは異常だと悟り、単身オーストラリアへ飛ぶことに決める。が、それを知った亜津子がその体で惑わせ行かせまいとする。理事長は「絶対に入ってはならぬ」と厳しく言い渡していた納戸に亜津子を招じ入れ、息子の母親のアルバムを見せる。
何と! 母親のすべての顔が切り取られているではないか!! おそらく息子自身が母親の顔をわからなくなっているのは必定。彼は切り取られた空白に亜津子の顔を代入して彼女を愛してきたとわかる。つまり、亜津子はただの代用品だった。
理事長は、「あいつがこの家を出て独り暮らしを始めたとき、やっと大人になれると思った。すると、おまえがあいつと関係をもってしまった。おまえがあいつと関係をもっている以上、あいつは一生大人になれない。あいつのために身を引いてくれ」と懇願する。

うーん、悪役だとばかり思っていた理事長が、実は息子のことをどこまでも思いやる愛情深い父親だったことがわかるだけでなく、この映画における「逆境」は、息子がいつまでも亡き母への思慕を断ちきれないことだと判明し、その逆境の原因が何と主人公・亜津子その人だということになるわけですね。

この映画の本当の悪役は主人公だった。

この映画の真のヒーローは、息子でしょう。自分の殻に閉じこもっていたけれど、自分で一人暮らしを始め、そして今度は自分から外国へ行くと言い出した。父親がヒーローのように見えますが、彼はただの庇護者です。息子を支援する役どころ。わかりやすい例を挙げれば、ヨーダやオビワン・ケノービでしょうか。

それはともかく、高圧的な夫に苦しめられているとばかり思っていた主人公が、実は悪の元凶だったという終盤の見事な反転ぶりが素晴らしい。

神話だからといって主人公=ヒーローとはかぎりません。この映画のように主人公がアンチヒーローの場合もある。

だけれど、最後の納戸のシーンで、それまでの「この映画の構造はこうだ」という観客の思い込みをすべて打っちゃってしまう技がすごいと思うわけです。

ロマンポルノにはこういう素晴らしい映画がたくさんあるので、食わず嫌いをやめていろんな人に見てもらいたいものです。

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許せない映画その②『L.A.コンフィデンシャル』


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もう20年も前の作品ということに愕然となってしまいますが、当時世界中で大絶賛された『L.A.コンフィデンシャル』。
私はこの映画が許せないと言ってしまうとちょっと言いすぎかもしれませんが、かなり問題を孕んだ映画だと思っています。


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レストランでの殺人事件から本格的な物語が起動するこの映画は、抜群に面白い。前回の『ダーティハリー2』もあの名作『1』の続編ということを考慮しなければ傑作でしょう。

「許せない映画」とは、面白さがあるにもかかわらず、それを上回る残念なところがある映画のことです。

何といってもこの映画で最も残念だったのは、このシーンです。それまで上がりっぱなしだった私のボルテージが一気に下がりました。
















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ケビン・スペイシーが有力な手掛かりを得る。それを深夜、上司のジェームズ・クロムウェルの自宅に報告に行くと、撃たれてしまう。

確かにこの展開は驚きました。ジェームズ・クロムウェルは悪辣な刑事然としていましたが、どうしても『ベイブ』での好々爺のイメージがあったので悪の本丸とは思いませんでした。このキャスティングは素晴らしい。

しかしながら、この映画で描かれる50年代ロサンゼルスの闇というのは、ジェームズ・クロムウェル一人を成敗すればすべて解決するものとしては描かれていなかったはずです。

複雑に絡み合う問題の諸相のすべてを「個人悪」に帰してしまった、というのは、世界を市場にせねばならないハリウッド映画の宿命と言えば言えますが、しかし、やはり作品のあり方からすると首をひねらざるをえません。

この映画は、巨悪を設定しておきながら、作者が自らその巨悪を矮小化してしまっています。それは、脚本づくりのハードルを高く設定しておきながら自分で低くしたということです。それだけはしてはいけない。

そりゃ、誰か一人を成敗すれば問題が解決するような「普通の映画」も私は好きです。そういう映画は日々の鬱積を晴らすにはもってこいですから。でも、そういう普通の映画は最初から「誰か一人を成敗すれば解決する問題」を設定しているはずなんです。

私はそういう映画を期待して見に行ったのではなかった。全米の批評家絶賛というからには、普通の映画とは違う何かがあるのだろう、と。確かに前半はその期待に充分こたえてくれるものでした。なのに終盤ですべてがぶち壊し・・・

問題の根源を「個人悪」にすり替えてしまったことが、私がこの『L.A.コンフィデンシャル』を「許せない映画」と断じる所以です。

許せない映画その①『ダーティハリー2』

世の中には「許せない映画」というものが存在します。
私にとって最も好きな映画といっても過言ではない『ダーティハリー』の続編とされる『ダーティハリー2』がその代表格です。


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世界一かっこいい男クリント・イーストウッドが再び大活躍するこの映画。何が許せないといって「主人公の強烈なキャラクターを薄めてしまった」ということに尽きます。


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この映画では、最初、脚や顔以外の部位はわからない白バイ警官が汚職政治家などを血祭りに上げていきます。我らが主人公ハリー・キャラハンはその謎の白バイ警官を追うわけですが、ハリーは「自分の影」を追ってるんですよね?


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結局、白バイ警官の正体は、優秀な若い警官たちの集団であることが判明し、その首領格の男が、「あんたも仲間に入れよ」とハリーを誘います。ハリーは断りますが、彼自身、第1作では「悪い奴を射殺して何が悪い」と開き直っていたじゃないですか。私たちはそこに喝采を送ったんじゃないですか。

第1作は大ヒットしましたが、非難の声も多数寄せられたそうです。「悪い奴を殺して何が悪い」なんて主人公は嫌だ、と。それはわからなくもない。

しかし、だからといって、その言い訳のように、ハリーその人の分身のような人を悪役として出して成敗する、という筋立てがいやなんです。


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問題は、「ハリーの分身」にあるのではありません。彼らを「悪」に設定していることです。

彼らはみな同じ制服を身に纏い、サングラスをかけて「顔のない不気味な存在」として物語内を闊歩します。それを顔をさらした主人公がやっつける。勧善懲悪の形を取りながら、主人公と悪役の違いは「顔をさらしているか」「独りか集団か」ということだけです。職務に関する考え方については同根です。

つまり、ハリーは自分と同じ価値観をもつ者たちと闘っている。どちらか一方を「悪」と決めつけずに葛藤を高めていったら、ハリー・キャラハンという稀代のキャラクターがより深まることになって、第1作を超える傑作になったかもしれないのに、と残念でならないのです。(当然、その場合、ハリーの分身は一人でないといけません。ちゃんと顔もさらした普通の男として)

白バイ警官たちも悪なら、ハリー・キャラハンだって歪んだ正義感をもった悪として考察できたはず。そこを怠った、というか、ハリーに分身を処罰させることで、相対的にハリーを善人にした、ハリーの歪んだ正義感を薄めてしまったことがこの映画の最大の罪ではないか、私はそう思うのです。

参照記事
『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!
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