聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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許せない映画⑥『ダイ・ハード』

許せない映画シリーズ第6弾は『ダイ・ハード』。私はなぜこのような犯罪にも等しい映画がいまだに根強い人気を誇っているのかまったくわかりません。同じ時期に作られたアメリカのアクション映画なら『ビバリーヒルズ・コップ』『ミッドナイト・ラン』『カナディアン・エクスプレス』なんかのほうがずっと面白いと思うんですけどね。

これまでの許せない映画はこちら。
①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』
④『ゴースト・ドッグ』
⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』


等身大のヒーロー
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さて、この『ダイ・ハード』という映画は1988年の製作。当時はスタローンやシュワルツェネッガーの「スーパーヒーロー」が主役のアクション映画が幅を利かせていて、それに対するアンチテーゼとして作られたようです。「等身大のヒーロー」「人間臭いヒーロー」ともてはやされましたね。

確かに、ブルース・ウィリス演じる主人公ジョン・マクレーンはとてもいいと思います。前半は。
刑事だから銃器の扱いには慣れてるし、人一倍正義感も強いけれど、自分一人ではいかんともしがたい、だから外に助けを呼ぶ。「等身大のヒーロー」というのもうなずけます。

が……


なぜ見殺しにするのか
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この、自分の奥さんに横恋慕する男が交渉をもちかけてきたとき、なぜ彼は見殺しにするのでしょうか? このときアラン・リックマンは「起爆剤を返せ」と言っているだけです。返せばいいじゃないですか。確かにあの起爆剤は強盗団が最後に人質を爆死させてその隙に自分たちだけ逃げるためのものですけど、だからといって、それはまだまだ数時間先の話でしょう? いますぐ返さないと確実に一人の人間が殺されるというのになぜ返さないのか。あれのどこが「人間臭い」んでしょうか。

交渉をもちかける奴のほうが悪いという描き方がされていますが、仮にそうだとしても、刑事が民間人を見殺しにするというのが許せない。等身大のヒーローを標榜していながら少しも等身大じゃないのが許せない。

しかも、あろうことか、この直後、アラン・リックマンと遭遇したブルース・ウィリスは足の裏に大怪我を負うとはいうものの、起爆剤を残して逃げてしまい、結局それは強盗団のもとに返ってしまう。

そんな馬鹿な!!!

人ひとり犠牲にしてまで死守した起爆剤をそんな簡単に奪われていいわけがない!


作者の都合で動く映画
今年の映画初めは奇しくもこの映画と同じプロデューサーによる『ストリート・オブ・ファイヤー』でしたが、あの映画でも中盤で銃撃戦を演じたマイケル・パレを警察は逮捕すべきだと言いました。逮捕したら映画がそこで終わってしまうという計算。『ダイ・ハード」でも、あそこで起爆剤を返したらそれを出汁に投降しろとまで言われかねない。投降したら映画がそこで終わってしまうという計算なのでしょうが、そのような計算は百害あって一利なしです。作者たちは「世界の原理」より「映画の原理」を最初から優先してしまっています。

投降したら映画がそこで終わる? まさか!

だって、クライマックスでは、奥さんを人質に取られ、投降したふりをして背中に貼り付けた拳銃でアラン・リックマンを撃ってすべてを解決に導くじゃないですか。あそこであのような振る舞いができる主人公を用意しておきながら、途中の場面ではその振る舞いを封じる。作者の都合で映画が動いてしまっています。

おそらく、あの見殺しにする場面で「しょうがない」と黒人警官と同じ感想をもつ人が多いのは、殺される人質が「嫌な奴」だからでしょう。奥さんに横恋慕するばかりかセクハラ発言もするし、部屋でこっそり麻薬やってるシーンもありました。「ジョン、君が活躍すると僕らが迷惑するんだ」と我らが主人公を邪魔者扱いするキャラクターだから「排除されてもやむなし」と思ってしまうのでしょう。

同時に、「彼が人質を殺したも同然だ」と非難するのが、外の黒人警官の上司で、彼もまた「嫌な奴」として描写されています。黒人警官は「しょうがなかった」と擁護しますが、彼は頼れる主人公の味方。

つまり、主人公を非難する人間はすべて悪い奴だというのが作者たちの考えなのです。

はたしてそうでしょうか?


人質の言い分という「発明」
人質ではっきりキャラクターが描かれるのは、奥さんと社長と交渉する男だけですが、あの交渉する男と同じように「変に活躍されると逆に迷惑だ」と思っていた人は他にもいたと思う。

というか、そういう「現場の人質の思い」をきちんと提示したのはこの『ダイ・ハード』の「発明」だったはずなんです。スタローンやシュワルツェネッガーの映画へのアンチテーゼとして作るのであれば、「活躍されると迷惑だから投降してくれ」という声を嫌な奴・悪い奴の言葉として描写するのではなく、まともな人物の言葉として描写するべきだったと思います。そうすればスタローン映画やシュワ映画への絶妙な批評になったんじゃないでしょうか。

人質たちは、強盗団をテロリストと思っています。政治犯の釈放など要求が受け容れられれば解放されると信じている。でも、ブルース・ウィリスは最終的にあの起爆剤で人質が全員殺される計画だと知っている。この情報量の差をもっと活かすべきだったのではないでしょうか。

人質には人質の言い分があり、主人公には主人公の言い分がある。どちらも間違ったことは言っていない。そういうふうに葛藤を仕組んでくれればかなり乗れたと思います。


見殺しにした苦みを最後まで持続させるべき
終盤、屋上から飛び降りねばならなくなったとき「何で俺がこんな目に遭うんだ」と泣き言を言ったり、首尾よく一室に飛び込めてもホースの重みで落ちそうになったときの顔面蒼白の顔などが描写されます。あれが「等身大のヒーロー」と呼ばれる所以なのでしょうが、それが「点描」でしかないのが一番大きな問題だと思います。

人質を見殺しにせざるをえなかった。百歩譲ってそうだとしても、それならその苦みを最後まで彼は抱えていなければならないはずです。見殺しにしたときに生じたエモーションを最後まで持続させなければ。直後に簡単に起爆剤を奪われるなど絶対にあってはならない。

逆に、見殺しにしてまで死守した起爆剤なのだからと、自分や他の人質の命よりも起爆剤を守る、王より飛車をかわいがるヘボ将棋のようなぎこちない戦い方を見せてくれたら、本当の「人間臭いヒーロー」になったんじゃないかと思います。それぐらいぎりぎりまで「世界の原理」に忠実でありながら、最後の最後で「映画の原理」が勝利して大逆転! となれば大喝采だったんですがね。


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『ストリート・オブ・ファイヤー』(ご都合主義の極み)


『スキャナーズ』(顔と芝居に賭けたクローネンバーグ)

久しぶりにデビッド・クローネンバーグ監督による名作『スキャナーズ』を見たんですが、初めて気づくことが多くて実に楽しい映画体験でした。映画は情報量が多いから何度も見ないとわかりませんね。

「映画とはまず見せ、そのうえで語るものである」とはアレクサンダー・マッケンドリックの教えですが、この『スキャナーズ』は見事な見せ物映画になっています。

しかし、今回わかったのは「ほとんど何も起こらない見せ物映画」ということです。


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脚本
まず、クローネンバーグは脚本家としても一流だと前々から思っていますが、どうもこの『スキャナーズ』の脚本はそれほどよくないですね。
シンプルな善悪二元論によるメロドラマというのは力強いものがありますが、やはり、主人公の父親が開発した妊婦用睡眠薬の副作用のためにスキャナーが生まれた、そして主人公は悪玉スキャナーの実弟だったという情報をクライマックス直前で出すのは遅すぎると思いました。兄弟という情報はクライマックス直前のほうがいいと思いますが、なぜスキャナーが生まれたのかという背景は中盤くらいで説明したほうがよかったのではないかと思います。

ただ結末はすごいですよね。あれで行けると踏んだ作者たちは偉いと思います。笑っていいのかどうなのかいまだに戸惑ってしまいますが。


芝居
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この画像は冒頭10分ぐらいで悪役スキャナーに頭を爆発させられる場面ですが、スキャナーが自分の能力を使うときってよく見るとほとんど何も起こってないんですね。念を送っているほうは目を大きく見開いて威嚇するような顔をするだけだし、被害を受けるほうはこのように苦悶したり鼻血を拭ったりするだけ。あとはハワード・ショアの効果音的な音楽があたかも「不吉なことが起こっている」という空気を作り上げる。

だから画面で起こっているのは念を送られた側の芝居だけということになります。

この無名の役者の芝居がやたらうまい。後半、主人公とジェニファー・オニールを捕まえに来た若い警官が念を送られてジェニファー・オニールが自分の母親に見え、泣き崩れるシーンがあります。このときも警官役の芝居がうまい。昨年のベストテンを選ぶときの基準に「監督の演技指導力と役者の想像力の有無」と言いましたが、クローネンバーグも演技指導の達人だとは今回再見するまで気づきませんでした。

演技指導にもいろいろ計算があったようで、頭爆発のおっさんは鼻血を出しませんでしたが、あとはみんな鼻血を出しますよね。あれが映画を豊かにしてくれています。鼻血を拭うために下を向く、流れないように上を向く、など鼻血に対処するために必然的に顔を上下する必要があり、役者は芝居がしやすかったと思われます。



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上述の警官が泣き崩れる場面。彼の他に映っているのは、ただ黙って立っている主役スティーブン・ラックとジェニファー・オニールと母親役の女優の「顔」だけ。

役者からそれらしい芝居を引き出し、あとは特異な顔に賭ける。クローネンバーグはそう考えたのでしょう。



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ここまで来るともうディック・スミスの特殊メイキャップの力ですが、「顔」であることには違いありません。そして顔とはベラ・バラージュの言葉を借りれば「風景」であって「出来事」ではありません。やはりこの映画ではほとんど何も起こっていないのです。

何かが起こっているように見えるけれども、クライマックスは別にして実はほとんど何も起こっていない。
ほとんど何も起こっていないのに、世界が滅亡するかもという恐怖が生み出されていますが、その恐怖の源は実はセリフです。セリフで説明しているだけなんですが、やはり冒頭で頭爆発というすごい見せ物を見せられているうえに、鼻血を出す場面で特異な顔とうまい芝居が相俟ってちゃんと恐怖を感じられる。説明されている気がしない。

やはりクローネンバーグは脚本家としても一流だとの結論に至りました。こんな脚本をシナリオコンクールに応募しても絶対二次ぐらいで落ちると思いますが、商業映画としては上出来(しょせん大衆コンクールなんてその程度のものです)。頭で計算してるんじゃなくて「嗅覚」だと思いますが。

最近のクローネンバーグはつまらないというのが映画ファンのほぼ一致した見解ですが、クローネンバーグは「映画の嗅覚」を失ってしまったのでしょう。死ぬまでに取り戻してほしい!

そんなことも思った久しぶりの再見でした。




黒澤明『天国と地獄』の疑問点

久しぶりに黒澤明監督『天国と地獄』を見ました。

最初がVHS、次が劇場、次がテレビで今回もテレビ。この映画については面白かったりそうでもなかったり、そのときによって見方がえらく変わるんですが、今回初めて感じた疑問点を記します。


「持つ者」と「持たざる者」
この映画の肝は、黒澤自身が言っていたように、

「脅迫対象者の子どもでなく、別の子どもを誘拐したとしても脅迫は成立する」

ということでしょう。そこから次の本当の肝が出てきます。

「三船敏郎演じる権藤常務は、いま使わなければ意味のない大金を身代金として支払ってしまい、会社を追放される」

最終的に身代金はほぼ全額返ってきますが、時すでに遅し。権藤は会社を追放され、邸宅は競売にかけられることが決定しています。

誘拐して脅迫するのは医学生の山崎努ですが、彼は夏は暑くて眠れない、冬は寒くて眠れないところに住み、丘の上の冷暖房完備の豪邸を見て憎しみを募らせて犯行に及んだと最後に明かされます。つまりこれは「持つ者」と「持たざる者」との葛藤劇なんですよね。

なのに、その持つ者が他人の子どものために身代金を払うような情に厚い人間に設定していいのだろうか、という疑問が湧きます。

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三船は最初は「身代金は絶対払わない」と断言しますよね。出資者から募った5千万で頑固者の社長やろくでもない靴を作って儲ければそれでいいと考える最低な重役たちから会社を守らなくてはならない。町工場の東野英治郎の言葉にあるように、三船は厳しいけれど一生懸命働く従業員のことをちゃんと見る目をもった人間で、株の買い占めをひそかに進めていたマキャベリスト的な側面もあるけれども、基本的に頑丈な靴とファッショナブルな靴は両立しうると考えるロマンチストであり、それを実行する力も技術もある。

三船はとてもいい人なのです。だから結局、情にほだされて身代金を払ってしまう。重役たちみたいに悪い奴じゃないし、三橋達也のように常にどちらにつくほうが得かを考える卑劣な性格でもない。一本気すぎるから敵が多いだけ。

だから、持たざる者・山崎努はなぜ三船の子どもを狙ったのか少しもわからない。運転手の子どもを誘拐したとわかっても「権藤さん、あんたは払うよ」と自信満々に言う。ということは三船が基本的にいい人であることを調査済みなわけですよね。重役連中だって同じぐらいの金はもっているわけだし、連中の誰かを狙ったほうがよかったのでは?

ただ、卑劣な重役たちがもし「運転手の子どもだから」という理由で身代金の支払いを拒否したら誰も被害者に感情移入しなくなります。だから脅迫された側が誰であろうと身代金を払うのは致し方ない。でもそうなると持つ者と持たざる者の葛藤劇というテーマが薄まってしまう。

だから、運転手の子どもを間違って誘拐してしまうという原作にもある基本アイデアが誤りなんじゃないかと思うんです。自分の子どもであれば他の重役たちでも身代金は払うでしょう。自分かわいさだけの被害者と、そういう金持ちを憎む貧乏人という設定のほうがよかったように思います。エド・マクベインの「間違った子供を誘拐しても脅迫は成立する」という斬新なアイデアにこだわりすぎたんじゃないでしょうか。


後半はすべてオフにすべきではなかったか
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今回この映画を見ていて一番痛烈に感じたのは、刑事たちが大活躍する後半をまるまるカットすべきじゃないか、ということです。刑事たちと犯人の駆け引き合戦は見応えがありますが、持つ者と持たざる者との葛藤劇というメインテーマと何の関係もないですから。


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しかもですよ、山崎努は共犯者の麻薬中毒者を殺したり、警察の罠にはまってまた別の中毒者を殺しますが、彼はドヤ街の中毒者たちからすれば「持つ者」ですよね。持たざる者として持つ者へ天誅を下そうとする人間が自ら持つ者として持たざる者を殺害する。それはないでしょう。いったいこの映画のテーマは何なのでしょうか。

だから刑事の活躍はすべてオフにする。だって彼らは二人のドラマに何の関係もないから。

そんなことより、三船が山崎努と同じように丘の下から自分の家を見上げる場面が必要だったのではないか。

自分が金持ちだから狙われた。しかし悪いことをやって稼いできたわけではない。と激昂するも、丘の下から自分の豪邸を見上げてみると、確かに醜悪な気がしないでもない。だからといって人の子どもを誘拐していいわけではない。とはいえ、自分も幼い頃は貧しかった。貧乏人の気持ちはわかる。しかし……というふうに三船のゆれる心情を丁寧に追っていったほうがよかったように思います。

そのうえで、ラストの山崎努の絶叫に言葉を失う三船の背中を見せられたら本物の感動があったと思うのです。


天国と地獄
三船敏郎
2015-04-22


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