聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ビデオ

『天使のはらわた 赤い教室』は内部告発の映画である

akaikyoushitsu1

田中登監督『女教師』、小沼勝監督の『山の手夫人 性愛の日々』と並んで、私がロマンポルノで最も愛する名作中の名作、曽根中生監督『天使のはらわた 赤い教室』。
今回再見してみて思ったのは、この映画は「ポルノがポルノを批判する『内部告発』の映画ではないか」ということです。


akaikyoushitsu


ロマンポルノには珍しく蟹江敬三演じる男・村木が主人公。ちなみに続く『赤い淫画』『赤い眩暈』も男が主人公です。名美シリーズという名前で知られていますが、実際は村木シリーズ。

まずはいつものように比較神話学を援用して解剖してみましょう。

夢に溢れた教育実習生だった名美はブルーフィルムの撮影のためにレイプされ、そのために教師の夢も断たれる。あのフィルムを見たと何人もの男に脅されて体をほしいままにされ、もう男を信じられなくなっている。ダースベイダーと同じように暗黒面に堕ちてしまったアンチヒーローです。

対して、村木が演じるエロ本のカメラマンは、ブルーフィルムの中のレイプが本当のことだったと直感し名美を探す。仕事で使うホテルの受付嬢だと判明して会い、あんたの写真を撮りたいともちかけ、また会おうと約束して去る。アンチヒーローを暗黒面から救い出そうとするヒーローですね。でも本当に?

でも結局、村木は濡れ衣でブタ箱に入れられてしまい、約束を果たせない。名美は「あの男だけは違うと思ったのにやっぱり……」と自暴自棄になってしまい、さらなる暗黒面に堕ちていく。村木は3年かけてやっとドヤ街にいる名美を見つける。名美はもう誰も信用していない。

「あんたはこんなとこにいちゃいけないよ」
「じゃ、あなたが来る? こっちに」

答えられない村木を見て、名美は静かにドヤ街へ戻っていく。

最終的に名美を救えなかった村木はヒーローではなかったのでしょうか?

その前に、この映画で最大の「悪」は何でしょうか。名美をレイプした男たちであることは誰に目にも明らかです。彼らがいなければ名美は堕ちることなく教師としての開かれた未来があったわけですから。

しかし、この映画には大きな疑問があります。

村木に濡れ衣を着せたのは誰なのか。
仕事で使っていたヌードモデルが15歳だと発覚して逮捕されるんですが、警察での事情聴取で村木は「万引きで捕まって困っていたのを助けてやって、でも15歳とは知らなかった」と言います。村木が実直な男だというのは観客も知っていますから嘘でないのは明らかです。
でもその15歳の女の手帳には「村木さんに無理やり……」みたいなことが書いてあったと刑事は言います。

そう、村木はハメられたわけです。誰に? 同僚のカメラマンでしょう。村木は俗っぽいエロ写真ではなく芸術的なヌードを撮りたいと切望している男で、そのために同僚からバカにされています。名美との約束を果たせず3年後に時間が飛ぶと村木が編集長になっており、入社したばかりだった若い男も経験を積んだ社員としてバリバリ働いているのにあの同僚カメラマンだけ姿がないので、彼が濡れ衣犯と思われます。

村木は名美をモデルに芸術的な写真を撮りたい。だから彼女を救おうとするのですが、結局その「芸術をやりたい」という気持ちが足枷にもなってしまう。

村木は結局、名美をレイプした男たちと同じ穴のムジナではないか、というのが私の解釈です。確かに彼は名美を救おうとする。でもそれは自分の芸術のためです。本当に名美を愛し自分の身を犠牲にしてでもと思うのなら「あなたが来る? こっちに」というセリフに応えられたはず。それができなかったのは彼が名美を自分の芸術のための「手段」にしようとしただけだったということです。

「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というカント哲学の要諦がありますが、村木は名美を目的として扱っていません。ブルーフィルムを撮影する手段として名美をレイプした男たちと本質は同じです。

村木はヒーローではありません。この映画にヒーローはいません。ヒーローであるかに見えた村木でさえ名美を暗黒面に陥れた側の人間だったことが明らかになって映画は幕を閉じます。

この映画はだから、女の裸を見たい、濡れ場を見たい、という男の欲望を静かに告発する映画でもあると思います。ポルノがポルノを批判する「内部告発の映画」とはそういうわけです。

実に深い映画。やはり真の名作ですね。

関連記事
『山の手夫人 性愛の日々』の神話的構造
『女教師』の神話的構造

『T2 トレインスポッティング』(悔恨と希望と)

T2-trainspotting

もともと1作目がそれほど好きではないということもあり、劇場に見に行かなかった『T2 トレインスポッティング』。あまりに評判がいいみたいなので21年前の前作を再見したうえで鑑賞しました。

もう滂沱の涙! 涙で画面がかすんでしまうとは思ってもみませんでした。

まだ若かった彼らはただの愚か者であり、愚か者なりに自分の人生を歩んでいましたが、21年たってもやっぱり愚か者でしかないという厳しい現実が身につまされます。恋仲だった女は立派な弁護士になっているというのに。

我が身を振り返ってみると、1作目を見たのはまだ20代前半のときでした。そして21年たって40代半ばになってわかったことは、「自分はいつまでたっても子どもで愚か者でどうしようもないバカである」という悲しい現実だけです。悔恨と自己嫌悪。

21年前と確実に賢くなったこともあります。それは、

「歳をとらないとわからないことがある」

ということです。

でも、その「歳をとらないとわからないこと」とは何だろう? と考えると途端にわからなくなる。わからないからいまだに愚か者のままなのでしょう。

昔は、40代の人間ってもっと大人だと思っていました。いろんなことを学び、いろんなことを悟り、若造にはわからないことがわかるようになるんだと漠然と思っていました。でも、実際にこの歳になってわかったことは、「人間はいつまでたっても子どもだ」ということです。

おそらく、20代の私がこの映画を見ても少しもよさがわからないでしょう。後悔するという経験をある程度積まないと理解できない『レイジング・ブル』のような映画ですね。

もしかすると、この映画の良さがわかるということは、少しは1作目を見たときより大人になったということかもしれない。うまく言葉にはできないけれど、それが「歳をとらないとわからないことがわかった」ということの正体なのかもしれない。

というわけでユアン・マクレガーと一緒に、21年前の自分の残像とともに踊るのです。

ユアン・マクレガーのように踊れるかどうか。そこにこれからの人生を生き抜いていく鍵がある気がします。そこに「希望」があるのだと。



T2-trainspotting-ending


一期は夢よ、ただ狂え! 


『フレンチ・コネクション』(スマートな自己言及映画)

泣く子も黙る名作中の名作『フレンチ・コネクション』。

私はユング心理学を援用した比較神話学で脚本の書き方を学んだ人間なので、映画を見るときもそういう観点から見ることがあるのですが、この『フレンチ・コネクション』はその意味でも類まれな面白さをもった映画といえると思います。

ユング心理学(そのものを学んだわけじゃないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが)では、「身体」「心理」「感情」、そしてもうひとつ「霊」というところから人間を考えるそうですが、私は「霊」に関してはそういう映画じゃないかぎりは無視しています。

「身体の物語」
「心理の物語」
「感情の物語」

この3つの側面からこの映画を眺めてみると・・・

①身体の物語
frenchconnection3

何といってもこの映画はこのカーチェイスのシーンが有名です。麻薬密輸グループを逮捕しようと躍起になる主人公ジーン・ハックマンが相棒のロイ・シャイダーと協力して組織の頭目フェルナンド・レイを逮捕しようと奮闘するのが物語のあらましです。

カーチェイス以外にも、中盤に素晴らしい尾行のシーンがあったり、この映画は身体の物語、つまり「アクション映画」として出色の出来栄えです。



②心理の物語
frenchconnection2

問題解決のための謎を解くのが「心理の物語」だそうで、俗っぽい言葉で言うと「サスペンス」とか「ミステリ」ということになります。
この映画では、密輸グループが車をやり取りしていることを突き止めたジーン・ハックマンがいったい車のどこに麻薬を隠しているのか、それを突き止めるのが「心理の物語」です。



③感情の物語
CUa1snsUwAAK-0f

だいたい映画における感情はほとんどが恋愛として描かれますが、同性同士の友情物語の場合もあります。
この映画における「感情の物語」はちょっと特殊で、ソニー・グロッソという役者が演じる財務省の役人とジーン・ハックマンとの確執がそれに当たります。ソニー・グロッソはかつて懇意だった刑事がジーン・ハックマンのせいで死に追いやられたと恨んでおり、二人は何かにつけて諍いを起こします。


④逆転!
この映画は、ジーン・ハックマンとロイ・シャイダーが自分たちで見つけたヤマを解決できるか否か、つまりフェルナンド・レイを逮捕できるかどうかの物語であり、そのために尾行やカーチェイスを経てラストの銃撃戦に至ります。

「心理の物語」はすでに解決されています。「感情の物語」は最初からほとんど味付け程度の意味しかもっていません。だから「身体の物語」にさえケリをつけてしまえばいい。

が、ここで驚くべきことが起こります。

ジーン・ハックマンが「フェルナンド・レイがいた!」とばかりに発砲したら、命中はしたもののその男は何とソニー・グロッソであり、即死していました。それに気づいたロイ・シャイダーは意気消沈してしまいます。でもジーン・ハックマンは少しも驚くことも慌てることもなくフェルナンド・レイを追い求めるところで物語は幕を閉じます。

フェルナンド・レイを射殺していれば「身体の物語」に首尾よく終止符を打てました。それがこの映画の眼目だったはずです。なのに、フェルナンド・レイは逃げ延びてしまうため「身体の物語」は終わりません。(だから「身体の物語」に終止符を打つべく続編が作られます)

しかし、なぜでしょうか?



⑤自己言及
フェルナンド・レイを射殺してしまえばすべて丸く収まったはずですが、しかしそれだと「目的のためには手段を選ばない刑事」に対する批判的な目がなくなってしまいます。

同年に作られた『ダーティハリー』も目的のためには手段を選ばない刑事を描いていましたが、『フレンチ・コネクション』の作者たちは、当時流行り出したそういう刑事ものへのアンチテーゼを打ち出した、というのが私の見立てです。おそらく無意識に。

「身体の物語」に終止符が打たれるはずが、アッと驚く逆転によって、味付け程度だったはずの「感情の物語」が一気に前面に出てきます。
はたして、ジーン・ハックマンは本当にソニー・グロッソとフェルナンド・レイを間違えたのか、それともソニー・グロッソだと確信してどさくさまぎれにわざと撃ち殺したのか。

真相は誰にもわかりません。しかし、それまでのジーン・ハックマンの言動から察するに「わざと」の可能性は大いにあります。ロイ・シャイダーの疑惑の目にも注目したい。(この疑惑の目も「感情の物語」ですね。一枚岩だった二人に初めて感情的な亀裂が入る)

この逆転は、「身体の物語=アクション映画」を楽しみに来た観客に対してほとんど喧嘩を売っているとさえ思えます。最後の最後で「この映画はアクション映画ではなかったんですよ~」と言っているんですから。

凶悪犯が急増した70年代初頭、「はたして目的のためには手段を選ばない刑事」は許される存在なのか、とこの映画は観客に問うてきます。おそらく、ソニー・グロッソが懇意だった刑事はジーン・ハックマンの「俺は法の執行者なのだ」という傲慢で身勝手な性格のせいで死んだのでしょう。

そして、ラストシーンに至って、ジーン・ハックマンはそれを責めたてるソニー・グロッソをももしかしたらわざと殺したかもしれない。いったい何が正義なのか。正義を標榜しすぎるから悪がより凶悪になるんじゃないのかというメッセージも読み取れます。

だから、この『フレンチ・コネクション』は「刑事映画を批評する刑事映画」なのです。ヌーヴェルヴァーグのように直截的なやり方ではなく、もっとスマートなやり方で作られた「自己言及映画」と言えるでしょう。


⑥伏線
最後に、ラストの疑惑の一発の銃弾には伏線がありますよね?


frenchconnection1

フェルナンド・レイの手下に狙撃されそうになったジーン・ハックマンが彼を執念深く追いつめて射殺するシーン。あの有名なカーチェイスの直後です。

このエピソードは、ジーン・ハックマンと狙撃犯との「身体の物語」です。撃たれそうになった者が、逆に撃ち殺してこのエピソードは終わります。

が、このエピソードには「心理の物語」もあります。それは、列車に乗った狙撃犯をどうやって追うか、というサスペンスです。ジーン・ハックマンは迷うことなく一般市民の車を強奪して狙撃犯を追います。

「心理の物語」としての解決にはなっていますが、この「一般市民から車を強奪する」という主人公の行動=キャラクターが、映画全体の「感情の物語」を読み解くカギになっているところも素晴らしい。


CUa1snsUwAAK-0f

アーネスト・タイディマンの脚本、しびれます。

関連記事
『ダーティハリー』の肝は「わからない」というセリフにこそある!

猥褻な『ホワイトリリー』の健全さについて(ロマンポルノリブート)

WOWOWで先月放送された「ロマンポルノリブート」。

ちゃんと見たのは『牝猫たち』と『ホワイトリリー』の2本だけです。
『ジムノペディに乱れる』『風に濡れる女』『アンチポルノ』はあまりに退屈なので途中で見るのをやめました。




20161101-romanporno02


『牝猫たち』はとてもいい映画でした。白石和彌監督といえば『凶悪』にも『日本で一番悪い奴ら』にも乗れなかったので少しも期待してなかったんですが、これは面白かった。

ただ、いい話には違いないんですが、そこまでなんですね。





ent16090316170017-p3


『牝猫たち』になくて『ホワイトリリー』にあるもの。

それは「猥褻さ」でしょう。「淫靡」という言葉がぴったりくるシーンがいくつもありました。

ポルノにかぎらずそもそも映画そのものが淫靡なものじゃないですか。
奇しくも今月『リュミエール!』という映画が公開されますが、1995年12月28日にパリでリュミエール兄弟のシネマトグラフがお披露目されたとき、「グランカフェ」というその店は地下倉庫のようなところだったらしいですし。
それに何より、暗闇の中で光の明滅を不特定多数の人と固唾を呑んで一緒に見るという行為そのものが淫靡ですよね。

だから、ポルノというのは映画本来の淫靡さを再生する試みだと思うわけです。

そういう意味で『ホワイトリリー』は『牝猫たち』と同様の可笑しくて哀しい人間どもを描きながら、同時に淫靡で猥褻で、とてもよかったと思います。

しかし、昔のロマンポルノはもっと猥褻でしたよね。今回の2本の映画で描かれるセックスはすべて合意に基づくもの。つまり「レイプ」がない。犯罪がない。

『ホワイトリリー』では、男と女がむりやり別の人物に命令されて、いやいややるという場面がありましたが、何と男のほうが萎えてしまうという、昔のロマンポルノファンからすると悲しいものでした。やはりあそこは無理やりやってほしかったですね。そうなると男の彼女が乱入して刺す動機を別に作らないといけませんが、それは別の話。
合意に基づく普通のセックスしか描かれないというのは、「ポルノとは猥褻な物語のことだ」と信じて疑わない者にとっては、ちょっと物足りないんですよね~。

『マンディンゴ』と『ジャンゴ 繋がれざる者』

久しぶりにリチャード・フライシャー監督の『マンディンゴ』を見て興奮しまくってます。





まだ白人が黒人を奴隷として使役することが合法だったアメリカ南部を舞台にしたキワモノ映画ですが、これが実に素晴らしい!

上の画像が象徴的ですが、傲慢な農場主ジェームズ・メイスンがいて、その息子ペリー・キングとその妻スーザン・ジョージ、そして彼らが競売で手に入れたマンディンゴ(格闘用奴隷)のケン・ノートンを軸に物語が展開されるのですが、黒沢清監督が言うところの「映画の原理」と「世界の原理」の覇権闘争がとりわけ面白いのです。



mandhingo4


どういうことかというと、ジェームズ・メイスンやペリー・キングは黒人を奴隷として自分たちの思うがままに酷使し、その根底には蔑視の気持ちがあります。それが当時のアメリカ南部の白人として当然の姿でした。ですが、黒人を蔑視しながらも、何度も死闘を制するケン・ノートンに対してペリー・キングが抱いている感情は、ただの「主人」としてのものだけではありません。「いくら金を積まれてもこいつだけは絶対に売らない」というセリフからも明らかなように、彼はこの黒人に同胞愛のようなものを感じています。

ジェームズ・メイスンですら、ケン・ノートンと別の女奴隷の間に子どもが生まれたとき、「黒い虫にしか見えん」と言いながら、好々爺のような目で赤ん坊を見つめていました。やはり同じ人間として赤ん坊はかわいいのですね。

ケン・ノートンだって主人のペリー・キングを尊敬しているし(あの言葉は嘘ではないでしょう)ケン・ノートンが黒人との格闘を制して主人を儲からせたとき、同じ黒人として彼を非難して処刑された奴隷もいましたが、主人付きの女奴隷などは、勝って帰ってきたと知って喜びを隠せない表情を見せます。同じ黒人でもリアクションが真逆です。

「奴隷制は、白人対黒人の図式であって、白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」というのが「映画の原理」でしょう。

とはいえ、この映画が描いているように、白人だからといって必ずしも黒人を100%蔑視しているわけではないし、黒人だからといって100%白人を敵視しているわけでもありません。それが「世界の原理」です。

結局、妻のスーザン・ジョージに子を産ませた(というか誘惑されたから悪いのは妻のほうですが)ケン・ノートンをペリー・キングが殺し、激怒した他の奴隷がジェームズ・メイスンを射殺してこのキワモノ映画は幕を閉じます。

白人が黒人を殺し、黒人が白人を殺す、という「映画の原理」の勝利によって高らかと凱歌を謳いあげるところがこの映画の爽快さです。世界の原理を尊重しながらも、最終的には映画の原理が勝利せねばならない。それが「映画」なのだという断言は感動的です。

一方で、数年前に同じ黒人奴隷を題材にしたこんな映画がありました。



django2


クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』。

この映画では、「白人はみな黒人を蔑視し、黒人はみな白人を憎んでいる」という映画の原理が最初から最後まで優位です。



django1


魅力的な悪役を演じるレオナルド・ディカプリオに顕著なように、彼には黒人の赤ん坊を好々爺のように見つめるジェームズ・メイスンのような資質がまったくない人物として造形されています。登場シーンから殺されるシーンまで彼は一切変化しません。



django_unchained_samuel


確かに、奴隷頭を演じたサミュエル・L・ジャクソンのように、黒人を差別する黒人というは新鮮でした。スパイク・リー監督の『ゲット・オン・ザ・バス』にも出てきましたよね、この手の奴。

『マンディンゴ』より『ジャンゴ』のほうがすぐれていると思われるのは、この奴隷頭の存在だけでしょう。

しかし、この奴隷頭ですら、肌は黒いけれど白人と同じ暮らしをし、同じように黒人を差別し、同じように主人公の激怒を買って白人たちと一緒に殺されるのですから、結局、彼は「白人」の役割しか担っていません。そして彼も最後まで一切変化しません。黒人なのだから少しくらい主人公に同情的な面を見せてもいいのに、そんな場面は少しもない。

主人公ジェイミー・フォックスのメンター的役割をもつクリストフ・ヴァルツは白人ですが、アメリカ人ではなくドイツ人で奴隷制をナンセンスなものと思っているようです。つまり彼は徹頭徹尾黒人側として描かれている。

この映画には、白人側だけど黒人に魅力を感じる人や、黒人側だけど白人を尊敬する人など一人も出てこない。


読書について


ショーペンハウエルの『読書について』という本は決して読書を称揚するような内容ではなく、逆にあまり読んじゃいけないよ、ということが繰り返し語られています。

「本当の思想家とは、書物をたくさん読んだ人ではなく、世界という書物を直接読んだ人のことである」と。

タランティーノはおそらく「映画を見すぎ」なのです。だから『ジャンゴ』のような善が悪を駆逐する痛快な映画を作れはしても、『マンディンゴ』のような深さをもった映画には遠く及ばない。

100%の善人、100%の悪人など映画の中にしか存在しませんから。





LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。