聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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『死刑執行人もまた死す』(原題が複数形の理由は?)

脳科学者・中野信子さんによる『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)を読みました。

誰かがちょっと失敗したときに感じる喜びの感情のことをドイツ語で「シャーデンフロイデ」というらしいですが、この本は「嫉妬」や「妬み」(この二語は心理学上は厳密に区別されるとか)に関する内容がいつの間にやら、「愛」や「正義」を盾に世の中を良くしようとするあまり、他者に対して残虐になるごく普通の人たちの恐ろしさを説いて終わります。

それを踏まえたうえで、フリッツ・ラングが戦時中にアメリカで撮った傑作『死刑執行人もまた死す』を見ると、いままでとは違った感慨がありました。「手に汗握る痛快無比なサスペンス」と思っていましたが、こちらの心をグサリと刺してくる「自己言及映画」がその正体でした。


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ナチスに占領されたチェコを舞台に、「死刑執行人」と恐れられたラインハルト・ハイドリッヒ暗殺事件という史実を基に練り上げられた物語です。

もちろんのこと、ナチスとナチスに与する者が「悪」として描かれています。

しかし、それにしても、原題は「HANGMEN ALSO DIE!」で、ハイドリッヒは一人だけなのになぜ「HANGMAN」ではなく「HANGMEN」と複数形なのかずっと不思議でした。それが今日やっと解けました。


国家のためのロボット
ハイドリッヒ暗殺犯ブライアン・ドンレビーは、チェコを愛するがゆえにハイドリッヒを殺しました。が、ナチスは民衆に密告を奨励し、暗殺犯が捕まらないかぎりは無辜の市民を処刑すると脅して無関係の人間を人質として連行します。暗殺犯は「自分が自首すれば誰も殺されないですむ」と懊悩しますが、「君はナチスが亡びたあと祖国再建のために必要な人間だ」と説得され、自首しないことを選びます。

妙です。
確かに暗殺犯ドンレビーは懊悩しています。同胞に説得される結構長いシーンは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」です。ですが、ひとたび説得されるや、自分のせいで人質としていつ処刑されるかわからない身になったウォルター・ブレナンや彼の娘である主人公(はたして本当に彼女が主人公なのかどうかはいまは措きます)の苦しみなどないかのように、盗聴している敵の裏をかいたり、まるでロボットのように粛々とナチスとの戦いを遂行していきます。

主人公の女ですら妙です。
最初は父親が人質になったので暗殺犯ドンレビーをゲシュタポに売ろうとします。その心情は理解できます。が、馬車の御者らが妨害し、さらに「ゲシュタポに行くつもりだった」という声を聞いた路上の民衆に囲まれて密告を断念します。
そのあとはまるで密告という行為がこの世に存在しないかのようにブライアン・ドンレビーを売ることが少しも頭をよぎらないようです。ちょっとはそういうことを口走ったりしてもおかしくないのに。
しかも最後は父親が殺されるんですよね。暗殺犯である英雄ブライアン・ドンレビーのせいで。なのに彼女の悲しみやドンレビーへの恨みを描くことなく映画は終わります。

この映画では一人一人のキャラクターが「人間」ではなく「国家のためのロボット」ように描かれています。ドイツ人もチェコ人も同じです。


売国奴チャカをめぐって
後半の主眼は、ドンレビーが暗殺犯だと悟られないことと、同胞をナチスに売っていた売国奴チャカを成敗することが同時に進行します。結局、チェコ人たちは売国奴チャカを暗殺犯に仕立て上げることに成功し、正義は勝つ!みたいな凱歌を高らかに歌い上げる歌声がオーバーラップして幕を閉じますが、『シャーデンフロイデ』を読んだ私にはとてもハッピーエンドには見えませんでした。

手に汗握るサスペンスであることは変わらないし、裏切り者チャカが殺されるシーンなど痛快無比ですが、しかし、結局この映画はチャカを告発して成敗しておきながら、チャカを告発し断罪するこの映画そのものを告発しています。

国家のためにならない者は排除する。それはナチスが党是としたものです。チャカを許せないと思い、彼が殺されるシーンでカタルシスを感じる観客もまたナチスと同根なのでは? というラディカルな問いかけ。

だから、「HANGMEN」とは私たち民衆のことなのでしょう。複数形である理由がやっとわかった次第です。あのラストの凱歌は決して勝利の歌ではなく「新たなる全体主義の歌」なのだと思います。

ナチスは確かに悪の権化である。しかし人間である以上、誰しもナチスなのだ、誰もがヒトラーなのだという過激なメッセージは、監督や脚本家がドイツ人だからこそできたことなのかもしれません。




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『赤い河』(「契約」をめぐる物語)

久しぶりに見ました。ハワード・ホークスの名作『赤い河』。


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この映画が、「ダークサイドに堕ちた主人公が手下の手助けによりヒーローとして復活する“神話”」であることは誰の目にも明らかなのでそれについては何も付け加えることはありません。

今回の発見は、この映画が「契約」をめぐる物語ということに気づいたということですね。劇中で「契約」や「契約書」という言葉が頻発するのにいままでまったく気がつきませんでした。


カウボーイという「仕事」
まず、物語はジョン・ウェインが牛追いの部隊を離脱するところから始まります。「そんなことは許さない」というリーダーに対し、「俺はあんたと契約してない。途中から加わっただけだ」と平然と去っていきます。リーダーも契約がない以上何も言えないようでした。

ジョン・ウェインがダークサイドに堕ちるのは、彼の横暴な振る舞いに対する反発が主な原因ですが、眠っている間に逃げたカウボーイを手下を使って連れ戻させると、そのカウボーイも「あんたとは契約してない」と自らの潔白を主張します。ジョン・ウェインはおそらく最初から「契約」ということが大嫌いなんだと思います。契約書の有無で人間の行動が制限されるなんていやだと。でも、その彼も最初「契約がない」ことを盾にとって離脱したんですよね。

この映画はカウボーイを「職業」として捉えています。どうしても現代人は『真夜中のカーボーイ』みたいにカウボーイを「ファッション」として捉えがちですが、あれはれっきとした職業。そういうところをきっちり描いているのが魅力なんですが、文字で書かれた法律や契約書ばかりを重視するアメリカ社会というのは西部開拓時代からのことなんだな、と勉強になりました。
現代社会も仕事といえばまず「契約書」。しかしそれで本当にいいのだろうか、というのがおそらく脚本家ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの思想なのでしょう。


ウォルター・ブレナンの入れ歯
ジョン・ウェインの唯一の理解者たるウォルター・ブレナンが隊員のインディアンとのポーカーで入れ歯を賭けて負けるシーンがあります。もちろん入れ歯は取られてしまい、ジョン・ウェインに泣きごとを言っても「負けたんだからしょうがなかろう」とは言いませんが、そういう態度で少しも助けてくれません。

ギャンブルでは契約書など取りませんが、負けた以上は賭けた物を相手に渡さないといけないという暗黙の了解事項がある。だけど金ならいいが入れ歯という生活に必要な物でもそれが契約だからと言われたのではたまったものじゃない。

そもそもウォルター・ブレナンはジョン・ウェインに「惚れたから」ついてきただけで、おそらく契約書など交わしていないはずです。それはモンゴメリー・クリフトもそうでしょう。彼らはあくまでも「契約」ではなく「信頼」でつながっているのです。


「神」との契約
砂糖泥棒が立てた大きな音のせいで大量の牛が逃げ、そのせいで優秀なカウボーイが死んでしまう。ジョン・ウェインは聖書の一節を読んで埋葬します。そして砂糖泥棒を殺そうとしますがすんでのところでモンゴメリー・クリフトが止めます。
「殺して埋葬してまた聖書を読むつもりだったのか。なぜ神様とグルになるんだ」と他のカウボーイに責められるんですが、このセリフは重要でしょう。

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この映画では半分以上を空が占めるショットが満載なんですが、神が人間たちを見下ろした映画のように感じます。
そういえば、ブルーハーツの名曲に『青空』というのがあります。

「神様へ賄賂を贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのかい」

ジョン・ウェインは神へ賄賂など贈っていませんが、隊員がみな神と契約を交わしたキリスト教徒である以上、死んだのだから聖書を読んで追悼しているだけ。と彼は思っていますが、おそらく彼は無意識に自分自身が「神」になろうとしている。

その証拠に、ジョン・ウェインは契約を交わしてない者まで「離脱は許さない」と言い出す。契約してないから離脱する。というのは彼が物語の最初にした行為なのに、それを許せなくなってくる。ダークサイドに堕ちるとはこのことですが、ジョン・ウェインはこの時点で、「俺の隊にいる以上は全員俺と契約を交わしているのだ」と思いたいのでしょうね。別の神との契約を絶対に許さない唯一神ヤハウェと相似形を成しています。


眠らせない=眠れない
完全にダークサイドの堕ちたジョン・ウェインに、モンゴメリー・クリフトもウォルター・ブレナンさえもが別れを告げます。
ジョン・ウェインは隊員を眠らせないことで逃げることを防止しようとしましたが、彼を追い出したモンゴメリー・クリフトや他の隊員たちは、今度は「いつジョン・ウェインが追ってくるか」が気になって眠れなくなります。まるでジョン・ウェインが神か悪魔のようです。


「撃ち合い」ではなく「殴り合い」
ジョン・ウェインの後釜に収まったモンゴメリー・クリフトは幾多の苦難を乗り越えてミズーリまで1600頭の牛を無事に運びます。そこで出会った資産家に「すべて言い値で引き取る」と言われ歓喜しますが、そのとき資産家は「契約書を作らねば」と言います。そりゃ契約書がなくてはすべて持ち逃げされるかもしれず、そうなればモンゴメリー・クリフトは手下たちに給料を払えなくなる。だから契約書は絶対に必要なものなんですけど、資産家から契約書を渡されたとき、どうにも暗い顔になっています。ジョン・ウェインから奪った牛だから、というのが通常の解釈でしょうが、私には「契約書」というものがモンゴメリー・クリフトも嫌いだからというふうに思えてしょうがない。



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最終的にこの映画は殴り合いによって解決します。ジョン・ウェインは最初撃ち合いでケリを着けようとするんですよね。拳銃を抜こうとしないモンゴメリー・クリフトに対し「抜かせてやる」と自分の拳銃を抜き、何度も撃つ。

この時代の西部では、相手が抜いたら自分も抜いて撃ち殺してもよかった。『夕陽のガンマン』の冒頭は「どちらが先に抜いたか」をめぐる裁判で、相手が先に抜いたとの証言を得たリー・ヴァン・クリーフは無罪になります。それがこの時代の「法」です。法とは人間同士の契約のことです。

でも、モンゴメリー・クリフトはそのような契約を嫌うがために絶対に抜かない。俺とあんたとはそういう関係じゃなかったはずだ、という涼しい笑みを浮かべるモンゴメリー・クリフトが最高です。その笑顔を見せるためのジャップカットの手法もお見事! そしてジョン・ウェインは拳銃を捨てて殴り合いとなる。殴り合いには法もへったくれもありませんから。

ちょっと前のシーンで、ジョン・ウェインはモンゴメリー・クリフトの許嫁になるであろう女に「俺は息子がほしかった」と言います。息子とはつまり「契約書を必要としない人間」のことでしょう。それが体を張った殴り合いによって(再び)得られる。

だから、正確には「ジョン・ウェインがヒーローとして復活する物語」というよりは「失った息子を再び取り戻す物語」といったところでしょうか。

最後は新しい烙印を二人で決めますが、それについての契約書など存在しないはずです。口約束だけ。それでいいんじゃないの? それだけだとまずくなる社会っておかしいよ! 

最後ほんの数分ですべてが解決するのは、ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの連係プレーによるものだということがようやくわかった次第です。映画において「監督だけの単独プレー」などありえません。


『JFK』(公文書は太陽光線と同じ)

オリバー・ストーン監督の1991年作品『JFK』。

森友学園問題での公文書改竄が世間を賑わせていますが、「公文書といえば、ケネディ暗殺の公式資料が確か去年トランプが公開を承認するも一部は非公開にしたことがあったっけ」と思って久しぶりに見てみようと。

この映画、暗殺事件の唯一の訴追者である主人公の地方検事ジム・ギャリソンの手記を原作としていますが、原作はもうひとつあり、さらにオリバー・ストーンと脚本家ザカリー・スクラーのかなり主観的な思いも入っているので「事実を捏造している」という批判もありました。

映画の内容についてはいまは措きます。次の4枚の画像をご覧ください。


奇妙な光線

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撮影監督ロバート・リチャードソンにアカデミー賞が与えられた照明ですが、どう見ても光の加減が変です。

すべて室内なのに光が強すぎる。室内灯の灯りならもっと室内全体が明るくないといけないのにどれも薄暗い。薄暗いのに人物にだけ細い強烈な光が当たっています。強さから考えたら日光でないとおかしいですが(一枚目は月光でしょうが)窓から入り込んだ日光が部屋全体を照らすことなく人物にだけ降り注いでいるというのはどう考えてもおかしい。

これはリアリズムの見地からすると「ありえない照明」ということになります。光源が何なのか、どこから来ているのか、すべて謎です。
ケネディ暗殺の真相が謎だから光源も謎でいいと考えたのかどうかは知りません。しかし、そうでも考えないとこの光の当て方はあまりに不自然です。

ケネディ暗殺事件の「真相」が書かれたとされる「ウォーレン委員会報告書」は公文書です。大半は一般公開されたようですが、一部のみ国家機密として秘匿されています。その他の資料も極秘扱い。トランプは各方面からの声を鑑みて「一部のみ公開。あとは非公開のまま」と決定したそうですが、あの品性下劣なトランプですら公開を延期しただけで改竄などやっていません。


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公文書=物理法則
翻って日本では、先週辞任させられた佐川国税庁長官の国会答弁に合うように公文書が書き換えられました。本来なら公文書の記述に沿った答弁をしないといけないはずなのに、逆になっている。忖度か誰かの指示かはわかりませんが、あの答弁は佐川長官の「主観的な言葉」にすぎません。『JFK』におけるオリバー・ストーンたちの主張と同じです。
もし、このたびの公文書改竄が「大した問題ではない」のなら、『JFK』の主張に合うようにウォーレン委員会報告書を書き換えたってかまわないことになります。もっといえば、劇中のあまりに不自然な光に合うように太陽光線をねじ曲げてもいいということになります。

そんなことができますか? 神でない人間にできるわけがないし、してはならない。

公文書というのは、そういうものです。100%客観的な事実だけを記してあると決裁されたものなのですから、それは太陽光線をも司る物理法則と同じく、どこまでも厳密なものです。

だから公文書改竄は「神をも恐れぬ所業」と言って過言ではないと思います。人間には許されていないことをやってしまった。「この問題は適当に済ませていま手薄になっている外交にもっと力を」と昨日ある番組で一般市民がインタビューで答えてましたが、「???」でした。

いま国際社会における日本の信用は地に堕ちました。こんな状態でいくら外交努力をしたところですべて無駄です。まずこの問題を徹底究明して断罪されるべき者を断罪し、それからまたコツコツと信用を築き上げていかないと。

何十年もかかるでしょう。神をも恐れぬ所業をやってしまったのですから。



『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、マコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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『丑三つの村』(本当の愛国心とは何か)

おととい、私になりすました怪ツイート事件なるものが発生しました。フォロワーさんに不快なツイートを送ってすぐ消えたそうです。

事情はだいたいわかります。先週こんな記事を書きました。⇒『映画秘宝』創刊者・町山智浩の問題発言について 
おそらく、この記事に反感をもった人の犯行でしょう。他に反感を抱かれるような記事は書いてないし。犯人は町山智浩を批判するなんて許せない、と思ったのでしょうが、私がかねてから町山本を愛読している人間だということを知らないらしい。過去記事か過去ツイートを遡って確かめてほしいもんです。

それはともかく、ずっと前から思っていることですけど、誰かを批判するとその人のことが嫌いだと思う人が世の大半を占めていることは絶対におかしい。「嫌いだから批判する」と思っている。

そんなバカな。「好きだから批判する」んですよ!


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『丑三つの村』と何の関係もないこんな話から始めたのは、この映画が「本当の愛国心とは何か」をテーマとしているからです。


反日=愛国
ドキュメンタリー作家の松江哲明監督が、『靖国』が国会議員の検閲を受けた問題が起こったとき、「もっと反日映画が作られるべきだ」とコメントしていてオオオオと感動したものです。なぜなら、「もっと反日映画を」という言葉こそ真の愛国心の顕れですから。

日本が好きだからこそ、この国のダメなところを挙げて批判をする。それこそが「この国をよりよくしていこう」というムーブメントを起こせる。松江監督の発言にはそういう思いがあったはずです。


「ストーリーフォーカス」と「大きな物語」
『クリエイティヴ脚本術』という本には、焦点が当てられた物語(ストーリーフォーカス)がその背景にある「大きな物語」と密接なかかわりをもたないかぎりその物語は力をもちえない、ということが説かれています。




『丑三つの村』のストーリーフォーカスはもちろん「津山三十人殺し」ですが、背景にある大きな物語はというと、「大日本帝国の物語」ということになります。

古尾谷雅人演じる主人公は、秀才で陸軍師範学校に入るための勉強に明け暮れ、いずれは帝国軍人としてお国のために戦いたいと切望していますが、肺結核と診断され夢は途絶えます。それを根っことして村人を皆殺しにする事件が起きるわけですが、いままで私はこの映画を見て主人公の「戦争」ということをあまり考えていませんでした。ラストの大殺戮シーンがやたら凄惨なうえに感動的なのでね。呆気にとられていたというか。


しかし今回見直してみて初めて気づきました。彼は外敵と戦えなくなった結果、内なる敵と戦争するのですね。あの村が大日本帝国の縮図であることは明らかです。

お国のために産めよ殖やせよじゃ! と叫ぶ絵沢萌子や、お国のために働けんようになったくせにと主人公を傷つける大場久美子らは、二言目には「お国のため」と言いますが、あれは嘘ですよね。みんなそう言ってるしそう言っておけば安全だという自己保身でしょう。最後に殺される池波志乃が、夫の軍服(大日本帝国の象徴)を主人公に向かって投げ捨てながら逃げるシーンがすべてを物語っています。

「美しい国へ」とか「愛国心を」などと言っていた安倍某が実は私腹を肥やすことしか考えていなかったことと相似形をなしています。「村のため」と言いながら人殺しを指揮している夏八木勲が、官僚に公文書改竄を指示した誰かさんにしか見えませんでした。


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彼らは愛国心を利用しているだけ。本当に国のために戦いたかった古尾谷雅人は、ニセ愛国者の彼らを殲滅することが自分の使命だと行動に打って出ます。

ストーリーフォーカスの次元では「個人的な怨念」で行動を起こす主人公ですが、大きな物語の次元では「世直し」なのですね。そしてその世直しのために主人公は「鬼」になることを決意します。


お婆やん殺害
これまでは、主人公の絶対的な庇護者であったお婆やんを殺すのは、劇中で語られる通り「惨劇を起こしたことで悲しませたくないからだ」と思っていました。確かにストーリーフォーカスの次元ではそうでしょう。しかし大きな物語の次元では「鬼」になるためだと初めて知りました。

まだ太平洋戦争が起こる前ですから「鬼畜米英」という言葉はなかったかもしれませんが、外敵を「鬼」と称する精神構造はおそらくあったはずです。主人公は内部の敵をやっつける「鬼」だと自らを規定しました。田中美佐子に「鬼!」となじられた彼は「鬼で何が悪い!」と返しますが、あれは開き直りではないと思います。その証拠にすべての殺戮を終えてもう一度田中美佐子の元に戻ってきた主人公は「鬼が鬼退治しただけじゃ」と呟いて去っていきます。

「鬼」と「神」
それはともかく、ちょっと他の人と違うだけで非国民として主人公を排斥する村人たちは、いまのネット右翼と完全に重なります。公文書偽造が明らかになりネット右翼は鳴りを潜めているらしいですが、権力者が国家の土台を崩そうとしているのだから本当に国を愛しているのなら批判するべきなのです。いま政府を批判する人こそ愛国者であり、批判しない人は愛国者の仮面をかぶった売国奴です。

だから、「鬼が鬼退治しただけじゃ」の前者の「鬼」と後者の「鬼」は意味が違います。「夜叉」という言葉も出てきますが、後者の「鬼」は前者のような本当の鬼を殲滅する「神」のようなものでしょう。

どの宗教でも「神」は鬼のように恐ろしい存在です。でも基本的に「愛」に溢れている。ラスト20分の陰惨きわまりない殺戮シーンがあんなにも感動的なのは、「村のため」ひいては「お国のため」という「本当の愛」に溢れているからだと思います。

完全に蛇足ですが、朝日新聞のスクープ記事が出た時点では政府を擁護していた人たちが、財務省が事実と認めた途端、素早く手の平を返している姿は、大日本帝国バンザイから民主主義バンザイへ手の平返しをした当時のニセ愛国者たちとまったく同じではないでしょうか?


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