聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

スクリーン

『万引き家族』(我々はみな許されざる者である)

おぞましい会話がありました。

息子の祥太が捕まったことから家族が離散する第3幕に突入しますが、ここで祥太の妹のユリ(本名はジュリ)が本当の両親のもとに返されて、記者たちからの質問を受けます。

「ジュリちゃんは昨日は何を食べたんですか?」
「オムライスを」
「それはお母さんが?」
「はい、私が作りました」

この会話のおぞましさはスプラッターホラーよりも気色悪かったです。あの母親が実はとんでもない虐待母で「自分で作った」なんて嘘に決まってますが、よく考えてみると、おぞましさの原因はどうもそういうところにあるわけではないみたいです。

現実のニュースを見ていてもありますけど、捕まった人間たちだけが悪くて、自分たちは善なる者である、という空気。善人だけが集まって「まともな」会話をしているのだ、とでも言いたげな気色悪さ。

確かにリリー・フランキーたちがやっていたことは少しも正しくないことだけど、ジュリじゃなくてユリを家に連れ帰ったのはやっぱり「誘拐」じゃなくて「保護」ですよね。でも法律ではそうならない。ならば間違っているのは法律のほうでは? 何かがおかしい。


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しかしながら、「何かがおかしい」と思っていたのは、誰よりも息子の祥太だったらしく、「わざと捕まった」と最後に彼自身が告白します。車上荒らしもかなり嫌がっていたし、何よりも死んだ樹木希林の隠していた金をリリー・フランキーと安藤サクラが「あのババアこんなにもってやがってぜ」と懐に入れるのを見つめる目のまっすぐさ。妹のユリが万引きしようとしたからそれを隠すために自分が犠牲になった、というのが直接的な動機でしょうけど。

いずれにしても彼は正しいことをしたんですよね。こんな生活は間違っていると。彼もまたユリと同じくどこかで拾われてきたんですが、あの家族の中で生き抜くには正義感が強すぎた。彼は家族よりも法律や倫理を優先させてしまった。

でも祥太の正しさには、記者たちの会話のような気色悪さはまったく感じません。なぜなら、彼自身が「本当にこれでいいんだろうか」という幼い心なりに考えた痕が見られるから。それに、わざと捕まったことの贖罪に、リリー・フランキーと一晩共にしに来ますしね。

逆に世間の大人たちは何も考えていない。
これが正しくてこれは悪いこと。と、きっちり色分けされた世界で、正しいことだけを選択してきて目が曇ってしまっているのでしょう。リリー・フランキーたちは、万引きや盗みが悪いと自覚してやっている。自分たちは「許されざる者」だという自覚がある。正論をかざす人間には、自分もまた許されざる者だという自覚がないんですね。あの気色悪さの正体はこれか、と。

「家族」と「法律」の間で引き裂かれる存在がいた。それが息子だった。だけど誰も恨んでいない。それはやはり彼らが「本当の家族」だからでしょう。なのに法律は彼らを引き裂く。何かがおかしい。
「捨てたから拾った。誰が先に捨てたのって話でしょ」と安藤サクラは取り調べで言いますが、あのセリフは射程距離がとてつもなく長い。

「万引きは悪いことだからこの映画も悪い映画だ」とかって言ってる人たちって、あのレポーターや高良健吾ら役人たちと同じ側の人たちですよね。
そういう輩から映画を守るためにも、この素晴らしい傑作をできるだけ多くの人に見てもらいたいと思います。

ただ、蛇足ながら付け加えると、リリー・フランキーと安藤サクラの夫婦が、サクラの前夫を二人で殺して一緒になったという前歴は不要じゃないですかね。
正当防衛という判決が出たとはなっていますが、そういう設定にしてしまうと「まじめに働いているのに給料だけでは生活できず万引きに手を染めている」というワーキングプアの困窮度合いが薄まってしまいかねないのでは? そりゃそんな前歴があったらまともな職にも就けないし自業自得でしょ、と思う人が増えてしまうと思う。

何だかんだ言っても、やはり家族離散の原因が内側にあった、というのがいいですね。安藤サクラの同僚はユリを見たらしいですが、クビを免れるために黙ってくれていたし。やはり家族映画なのだから家族の内部から崩壊してこそ、と思います。『ゴッドファーザー』や『東京物語』と同じ。でもあの名作2本が崩壊して終わるのに対し、この『万引き家族』は崩壊しても絆は残っている。そこが素晴らしい。

あとは、やはり男の子として、松岡茉優のおっぱいには瞠目しました。(笑)


『孤狼の血』(役所公司のマル暴哲学がよくわからない)

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ついに見てきました、『孤狼の血』。
白石和彌監督では一昨年の『日本で一番悪い奴ら』をワーストに選んだので、嫌気がさして去年の『彼女がその名を知らない鳥たち』は未見。ただ、ロマンポルノリブートの『牝猫たち』がなかなかよかったし、久しぶりに生きのいい役所広司が見られそうだと楽しみにしていました。

実際、楽しかったですよ。ある程度までは。


役所広司のいいセリフ
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終盤、役所広司が松坂桃李に語る言葉がいいですね。

「わしら、綱渡りの曲芸師じゃ。じゃからの、警察側に落ちてもヤクザ側に落ちても死んでまう。死にとぉなかったら歩き続けるしかないんじゃ」

マル暴刑事の哀しい現実を如実に表していて秀逸。この直後、松坂桃李に両腕を突き出し、
「わしを逮捕して県警に突き出すか?」
というのは、半分冗談でしょうが、半分は本気だったんでしょう。「ここで捕まえてくれたら死なんですむ」あの両腕での拝み方はどっちとも取れる絶妙な味があってとてもよかった。

それから、放火、家宅侵入、暴行、でっち上げ、取り調べの女に○○させるとか、何でもやりたい放題の役所広司が中盤にとても大事なことを言いますよね。

「わしらの仕事はヤクザを生かさず殺さず、飼い殺しにすることとちゃうんか。ヤクザがスーツ着てネクタイ締めて堅気の連中にまぎれて地下に埋もれたらどないするの」

暴対法が準備されていた1988年(実質的には昭和最後の年)という時代背景がよく出ていますね。

ヤクザにはやりたい放題の彼も、監察官として自分のスパイをしていた松坂桃李には暴行もしないし恨み言も言わない。まぁ最初からわかっていたというオチがつくんですが(しかしあの阿部純子という女優さんはとても魅力的)14年前の殺しの疑いがかかっているからにはスパイもつくのが当然だろうという毅然とした態度には惚れ惚れしました。で、このあと、両腕を突き出して「逮捕するか?」のシーンになるわけですが……


役所広司の刑事哲学とは?
上記のような感じでヤクザに対しているのはよくわかります。しかし、あの呉原という街には三つのヤクザ組織がありましたよね。

尾谷組
加古村組
五十子組

五十子組の後ろ盾があって加古村組がのし上がってくる。役所広司は尾谷組に肩入れしてやりたい放題の捜査をやるんですが、これって「綱渡り」になってないじゃないですか。確かに警察かヤクザかという二元論には堕ちてないけれども、ヤクザの中だけにかぎれば完全に片一方に肩入れしてますよね。彼はヤクザみたいではあるけど、あくまでも「刑事」なのに。

「ヤクザは生かさず殺さず飼い殺しにする」のであれば、どちらかに肩入れしちゃだめでしょう。14年前の真木よう子の殺人を内々に処理したというのが動機? でも、それなら、それを盾に尾谷組のいろんな弱みを握れますよね。実際、真木よう子を使って警察上層部の弱みを握っていたわけですから。

ヤクザの中では、尾谷組の味方なのか、それとも加古村組の味方なのか、まったくわからない。
警察内部でも、県警上層部の敵なのか、それとも味方なのか。所轄の刑事たちだけは仲間かと思っていたら違うのかも……とか、真木よう子にすら「あの人、もしかしたら敵かも」と思わせるぐらいの。
警察にとってもヤクザにとっても「いったいあいつは誰の味方なんだ?」と疑心暗鬼にさせる、まるで鵺のようなつかみどころのない役柄でないと「孤狼」とは言えないと思う。


松坂桃李までトチ狂ってしまう
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役所広司が殺されたあと、松坂桃李が何とかしてくれるのかと思ったら、彼はまだ若いからなのか、役所広司以上におかしいことをしでかしてしまいます。

あろうことか、五十子組の組長にして呉原の長老役・石橋蓮司を殺すよう尾谷組の若頭・江口洋介に手引きしておきながら、身代わり出頭しようとした若い衆を差し置いて江口洋介を逮捕してしまう。

あんなことしたら松坂桃李も殺されるだろうし、もう警察とヤクザが完全に決裂してしまって永久に全面戦争が終わらないことになってしまうじゃないですか。数年後に暴対法が施行されるからいいってことですか? まさか!
問題がありながらもそれまでは何とか役者陣の好演もあって楽しんで見ていたのに、江口洋介を逮捕した瞬間は笑ってしまいました。いくら何でもそれはないでしょう。

役所広司の遺志を継ぐのであれば、身代わり出頭とわかっていても普通に若い衆を逮捕して、江口洋介に恩を売っておけば後々の役に立つのに。

最後の、役所広司のライターでタバコに火をつけるというのは、『CURE/キュア』へのオマージュってやつなんですかね。





『アイ、トーニャ』(暴力の面から考察してはいけない)

トーニャ・ハーディングがナンシー・ケリガンを暴行させた(と言われる)スキャンダルを描いた話題作『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』。

この映画は、トーニャ・ハーディングを徹底して「かわいそうな人」として描くことが主眼のようですが、私はまったく納得がいきません。

いや、別にハーディングが嫌いとか、元夫とそのお友達のケリガン襲撃をまったく知らなかったなんて嘘だろう! なんてことも思いません。

事件のことはリアルタイムで知っていますし、私は判官贔屓の強い人間なのでどちらかといえばハーディングに同情的だったような気がします。(うろ覚えですが)

ケリガン襲撃事件は、いろいろ話がこじれた結果だったと。そういう立場を取るならそれでいいですが、それでは本当に「トーニャ・ハーディングはかわいそうな人でした」ってだけの話じゃないですか。

母親から暴力を振るわれていたことも、とんでもないDV男と結婚してしまうことも、彼の友達に頭のおかしな人たちがいたということも、どれもこれも「彼女はかわいそうな人」と言うための道具ですよね。

貧しい家庭に生まれ、金がないから衣装にもお金がかけられない。審査員に「衣装代に5000ドルくれたら自分で作らなくていいのに」と文句をつけていましたが、あそこをもっと掘り下げるべきでは?



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私はかねてから「フィギュアスケートはスポーツじゃない」と思っています。なぜなら、人間の主観で点数が決まるから。「芸術点」という言葉がすでにスポーツではないことを暗示してるじゃないですか。そして、この映画を見てその感を強くしました。

だって、きれいな衣装を着ていたらそれだけで得点が高くなるんでしょう? そんなのスポーツじゃない。音楽によっても変わってくるし、やはりあれは「芸術」でしょう。そりゃ「スポーツ」の側面もあることは否定しませんよ。

トーニャ・ハーディングの悲劇は「フィギュアスケートを純粋なスポーツとしか捉えていなかった」ことにあると思います。母親も、夫も、周囲の人みんな含めて。

貧しくて幼い頃からクラシックを聴いたり、オペラを見たり、美術展を見に行ったり、そういう体験がまったくなかったわけでしょう? でもスケーティング技術は抜群。それならなぜフィギュアスケートだったんでしょうか? スピードスケートだったらよかったのに。

ハーディングはアメリカ人で初めてトリプルアクセルを成功させることに執着して見事に成功させます。運動神経やスケーティング技術、精神力は申し分ない。でも、どうしてもそれだけでは高い得点が得られないのがフィギュアスケートという競技。



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だから、この人がなぜ娘にフィギュアスケートをやらせようとしたのかがわからない。上流階級の連中を驚かせたかったのか、何なのか。

スピードスケートをやらせていたらあんな事件は起こらなかっただろうし、栄光の金メダリストになれていたかもしれない。衣装に金をかけなければ優勝できないと知っても、貧しいこととろくな芸術に触れたことがない育ちの悪さが影響してトリプルアクセルを飛ぶことしか頭にない。

これらも「彼女はかわいそうな人」という主張の一助にはなっていますが、私は作者が主人公に同情しているだけの映画を面白いとは思えません。

フィギュアスケートを完全なスポーツと捉える主人公と、芸術的側面を重視するお偉方の葛藤劇をもっと掘り下げてほしかった。まだ関係者はみんな存命みたいだから、もっと突っ込んだ取材をして作ってほしかったと思います。

特に母親は主人公に最も影響を与えた人物だし、フィギュアスケートをはじめさせたのも彼女。

どうしても暴行事件が目玉だからか、母親も夫も「暴力」ばかりが前景化するよう描かれてますが、それは違うんじゃないの、と。暴力が原因で主人公が悲劇に遭遇した。それじゃやっぱり「同情」ですよね。

彼女がケリガン暴行事件のことを知らなかったという立場を取るなら、暴力の面から考察してはいけないと思いました。


『タクシー運転手』(「生活」と「政治」の見事なリンク!)

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話題の韓国映画『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』。

この映画は韓国史上非常に重要な「光州事件」を扱っているのですが、無知な私は見に行く直前にウィキペディアで事件のあらましをほぼ初めて知った次第。事件の名前は知っていたけれども実情なんかまるで知らなかったし、あのドイツ人記者がいなかったら世界に知られることもなかっただろうなんてことはもっと知りませんでした。

まず、タクシー運転手のソン・ガンホ演じる主人公が金目当てのためにドイツ人記者を乗せて光州事件に遭遇する、という設定がすごくいいと思います。あの人、「政治」とかぜんぜん興味なさそうでしょ。


英雄を「神輿」として描く
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トーマス・クレッチマン演じるドイツ人記者は完全な「神輿」として描かれていますね。『仁義なき戦い』で松方弘樹の名セリフがあります。
「親父、あんた結局わしらが担いどる神輿やないの。神輿が一人で歩けるいうんなら歩いてみぃや!」
トーマス・クレッチマンも一人では歩けない、ソン・ガンホが運転してやらないと何もできない神輿です。このドイツ人は光州事件を世界に知らしめた英雄だそうですが、それをただの神輿にしてしまったこの映画の脚本家は天才だと思います。

もし彼を主人公にしていたら少しも面白い映画になっていなかったでしょう。なぜなら彼は最初から「政治」に興味があるジャーナリストだから。ソン・ガンホのように「政治に目覚める」ということがない。
ドイツ人記者が英雄なのではなく、タクシー運転手を英雄として描く。その英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーは、「政治に興味のないソウル在住のタクシー運転手が、光州事件を目の当たりにして政治に目覚める物語」として語られます。
では、どのようにして目覚めるかというと……


生活者ソン・ガンホ
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初期設定として、主人公ソン・ガンホは生活に汲汲としています。妻が病気で死に、父子だけで生きていくのが精一杯だった。だから彼はドイツ人記者を光州まで乗せるのだって金のためだし、危ないと見るや料金を受け取っているのに逃げようとする等々、前半は生活に汲汲としているだけで政治には興味がないごく普通の市井の人として描かれます。

何よりも生活には金が要るし、隣家の坊やに娘が怪我させられたと知るや文句を言いにいくも、母親から逆ギレされてほうほうの体で逃げ帰ってきて何とか傷の治療だけはしてやる。この子には俺しかいない。だから稼ぐのだ! と光州まで行くんですが、政治に興味のない彼は殺されそうになるとドイツ人記者が撮っていた8ミリカメラを「渡しちゃえば?」なんて軽いことを言って逃げ延びようとする。どこまでも生活に汲汲としている人。政治なんか俺には関係ないという人なのですが……


「政治」と無縁の「生活」などありえない
ちょうど1カ月前ですかね、佐川前国税庁長官の証人喚問があったころ、
「もう政治の話はうんざり。好きな映画の話だけしていたい」
とツイートしていた人がいて、開いた口がふさがりませんでした。

だって、このまま安部政権が延命して独裁政権になってしまったら安穏と映画を楽しむ生活なんか不可能になっちゃうんですよ。政治と無関係な生活などありえないのに何を言ってるんだろうと。

ソン・ガンホはまさにそういう類の人でした。生活に必要な金を稼ぎ、娘の成長が楽しみな毎日。それだけでいい。でも、それも軍事政権があのまま続き、民主化されていなければどうなっていたことか。


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逃げようとしたソン・ガンホは地元・光州のタクシー運転手から難詰されます。「料金を受け取ったんなら目的地まで連れて行かなきゃいけないだろう」と。

それでしょうがなくドイツ人記者をデモの現場まで連れて行き、殺されかけて改心します。ように見えますが、軍が同胞を殺している凄惨な現場を見て心変わりしたというより、同業者から説教されたのが効いたんだと私は見ます。

なぜなら、この映画では「生活」と「政治」はリンクするものだということ、政治に無縁な生活などありえないことがテーマだからです。

後半のソン・ガンホは神輿たるトーマス・クレッチマンをソウルまで送ることが何よりの目的になります。ここで大事なのは、ソン・ガンホは純粋に政治的信念からそのような危険な行為をしたわけではないということです。
ソン・ガンホは生活のためにタクシー運転手をやっている。タクシー運転手とは何か。料金をもらってお客さんを目的地まで送り届ける職業である。だから彼はトーマス・クレッチマンに言いますね。「私は運転手。あなたはお客さん。お金をもらった以上はソウルまで連れて行く」と。同業者から説教されことが彼を変えました。

韓国政治史的には、あのドイツ人記者をソウルまで送り届けることは純粋に「政治的な行為」でしょう。主人公にも「この人を送り届けなければこの国に未来はない」という思いはあったかもしれない。でもその一念だけならそこらへんにある政治映画と何も変わりがありません。

生活の糧を得るために、すでに受け取った10万ウォンのために、この人を無事にソウルまで送り届けるのだ、という運転手としての信念がまず先にあることが肝要です。
ラスト、軍に追走されたときも助けてくれるのはデモ隊の学生ではありません。同業のタクシー運転手たちです。「お客さんを無事に目的地まで!」という労働者・生活者としての「信念」と、韓国国民としての「愛国心」の融合。

「生活のため」が即「国のため」にリンクする作劇。お見事!



『レディ・プレイヤー1』に感じた不満(サマンサの顔の痣)

スティーブン・スピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』。
昨日は興奮して絶賛記事を書きましたが(→こちら)今日は不満に思ったことをひとつ。


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主人公ウェイドと恋に落ちるサマンサの顔の痣なんですよね。いや、痣があること自体がいけないのではないし、美しい顔が台無しだとかそういうことでもありません。

ジャッキー・チェンの確か『香港国際警察/NEW POLICE STORY』だったと思うんですが、顔に傷ができた恋人に「そんなのたいしたことない」とジャッキーが言ってめでたく結婚します。

私は正直な話、ウッソーーーー! と思いました。

『レディ・プレイヤー1』でも、顔に痣があることを気に病むサマンサに対し、ウェイドは「そんなことぐらい」とまったく気にしない感じで、ラストでキスしまくる場面でもまったく意に介していない。

私はここが不満なのです。

昨日の激賞文では、「昔から語り継がれてきた『友情』『愛情』を大事にする」という通俗的なテーマが大変いいと書きました。この「人は見た目じゃない」というのもそれに属するものかもしれません。

しかし。

街中でたまに顔に傷痕ややけどの痕のある人を見かけますよね。そのときハッとして目をそらしませんか? 「見てはいけないものを見てしまった」という感じで。

傷のある顔、特に女性の顔は見るだけでものすごい罪悪感に駆られるんですよね。おそらく見られたほう、というか、目をそらされたほうも傷ついている。見知らぬ者同士でも多大なストレスに見舞われるのに、それが恋人同士とか夫婦とかだと毎日顔を合わせるわけだから相当なものでしょう。少なくとも私はその罪悪感に耐えられる自信がない。

確かに人は見た目じゃないけれど、この映画ではそこについて深く考えた形跡が少しもない。

愛する人の顔の傷や痣に耐えられるか否か。というのは、それだけで1本の映画や小説のテーマになりうる深いものを孕んでいると思う。それを「人は見た目じゃない」という一言で片付けてしまうのはいかがなものか。

考えた末に「人は見た目じゃない」となるなら、ぜんぜんいいんですけど。



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