聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

スクリーン

『レディ・プレイヤー1』に感じた不満(サマンサの顔の痣)

スティーブン・スピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』。
昨日は興奮して絶賛記事を書きましたが(→こちら)今日は不満に思ったことをひとつ。


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主人公ウェイドと恋に落ちるサマンサの顔の痣なんですよね。いや、痣があること自体がいけないのではないし、美しい顔が台無しだとかそういうことでもありません。

ジャッキー・チェンの確か『香港国際警察/NEW POLICE STORY』だったと思うんですが、顔に傷ができた恋人に「そんなのたいしたことない」とジャッキーが言ってめでたく結婚します。

私は正直な話、ウッソーーーー! と思いました。

『レディ・プレイヤー1』でも、顔に痣があることを気に病むサマンサに対し、ウェイドは「そんなことぐらい」とまったく気にしない感じで、ラストでキスしまくる場面でもまったく意に介していない。

私はここが不満なのです。

昨日の激賞文では、「昔から語り継がれてきた『友情』『愛情』を大事にする」という通俗的なテーマが大変いいと書きました。この「人は見た目じゃない」というのもそれに属するものかもしれません。

しかし。

街中でたまに顔に傷痕ややけどの痕のある人を見かけますよね。そのときハッとして目をそらしませんか? 「見てはいけないものを見てしまった」という感じで。

傷のある顔、特に女性の顔は見るだけでものすごい罪悪感に駆られるんですよね。おそらく見られたほう、というか、目をそらされたほうも傷ついている。見知らぬ者同士でも多大なストレスに見舞われるのに、それが恋人同士とか夫婦とかだと毎日顔を合わせるわけだから相当なものでしょう。少なくとも私はその罪悪感に耐えられる自信がない。

確かに人は見た目じゃないけれど、この映画ではそこについて深く考えた形跡が少しもない。

愛する人の顔の傷や痣に耐えられるか否か。というのは、それだけで1本の映画や小説のテーマになりうる深いものを孕んでいると思う。それを「人は見た目じゃない」という一言で片付けてしまうのはいかがなものか。

考えた末に「人は見た目じゃない」となるなら、ぜんぜんいいんですけど。



『レディ・プレイヤー1』(青臭い「昭和映画」の傑作!)

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スピルバーグの新作『レディ・プレイヤー1』を見てきました。直近に見に行ったのが『ペンタゴン・ペーパーズ』なので、同じ監督の新作を続けて見に行ったことになります。どちらかが名画座の旧作とかじゃなくて、どちらも封切。映画を見始めて30年近くたちますが、たぶん生まれて初めてです。

さて、『レディ・プレイヤー1』は、かな~り面白かったですね。『ペンタゴン・ペーパーズ』では落とし穴にはまってしまったスピルバーグも水を得た魚のようにみずみずしい映画を作ってくれました。(『ペンタゴン・ペーパーズ』の私の感想はこちら→「正義は目を曇らせる」

のっけから度肝を抜かれました。できるだけ事前情報を入れないように予告編も目をつむってましたから。ただ、ツイッターで「オタク礼賛映画」とか「ガンダムが出てくる」などの情報を見てしまった。

とはいえ、これはオタク礼賛映画じゃないですよね。最終的にオアシスを受け継いだ主人公が火曜と木曜はオアシスを休みにして恋人との情事に耽るわけですから。「オタクたちよ、現実を取り戻せ!」という強烈なメッセージは逆にオタク批判なのでは? 批判というよりは激励かな。

それはともかく、この『レディ・プレイヤー1』は「スピルバーグにしか作れない映画」だと思いますね。
そう思う理由は3つで、「演出力」と「70を越えた爺さん」で同時に「永遠の子ども」であることでしょうか。

まず演出力。

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そりゃのっけからこんな映像を見せられるのはスピルバーグだけでしょう。史上最高の映画作家かどうかはわかりませんが、その一人であることは間違いありません。

次に「70を越えた爺さん」ですが、この映画、2045年が舞台で、ヴァーチャルゲームにうつつをぬかしてばかりいる若者を主人公にしたSF映画のくせして、めちゃくちゃ「古いタイプの映画」ですよね。いや、「古い」というのはほめ言葉なんですよ。

以前、こんな日記を書きました。町山智浩と白井佳夫への反論(三幕構成と起承転結)

『HANA-BI』を見て「起承転結に則った映画はもう古い」と断じた白井佳夫と、『ダンケルク』について「従来の三幕構成は今後廃れるのではないか」と言った町山智浩はどちらも間違っているのではないかというものですが、スピルバーグは古典的三幕構成で新しい映画を作っちゃいましたね。

憶えているかぎりでこの映画の簡単な構成を書くと、

2045年の世界とオアシスの説明(15分、状況設定)
主人公ウェイドが最初の鍵をゲット(30分、プロットポイントⅠ)
サマンサ(アルテミス)との出逢い(60分、ミッドポイント)
ウェイドの演説によって百万の味方を得、IOIとの全面戦争に突入!(95分、プロットポイントⅡ)
ウェイドがオアシスを継承、サマンサとキス(130分、結末)

どうです。見事までの三幕構成。古典的ハリウッド映画の作法を自家薬籠中のものにしてきたスピルバーグならではの構成ですね。この構成にするためにカットしたシーンやショットも多いのではないでしょうか。

それから、「古い」といえば、この映画ではいろんな昔の映画のタイトルが出てきます。

『シャイニング』
『ブレックファスト・クラブ』
『フェリスはある朝、突然に』
『サタデー・ナイト・フィーバー』
『ザ・フライ』
『アイアン・ジャイアント』

そして映画じゃないけど我らが『機動戦士ガンダム』!!

『アイアン・ジャイアント』以外はすべて80年代の作品ばかり。たぶん、スピルバーグとしては自分が少年だった頃の50~60年代の映画を使いたかったんじゃないかと推察しますが、「自分の映画で育った人たちには80年代の映画こそふさわしい」という判断だったのでしょう。
そして大事なのは、これらの映画を見たことなくてもタイトルを知らなくても物語の理解の妨げにならないこと。当たり前だけどとっても大事。

さて、80年代といえば日本では昭和。ガンダムも79年から80年にかけてだし。しかし、いままで「どのモビルスーツが好きか」という話を幾人としたかわかりませんが、みんなジオン軍のモビルスーツを挙げるのに、なぜ劇中の日本人は「ガンダム」なんでしょう? 地球連邦軍のモビルスーツが好きという人間には会ったことないんですけど。(ちなみに私のお気に入りは「シャア専用ザク」と「ゲルググ」です)

それはさておき、オアシスの創始者ハリデーが好きな女性とデートするもキスして次のステップに踏み出せなかったことがゲームを解く鍵になっていますが、サイモン・ペッグ演じる親友との訣別にはもっと後悔していた、というラストはよかったですね。「あなたこそ『バラのつぼみ』だった」というセリフもいい。

結局この映画は、友だちを大切にする、人を好きになる、それが大事という太古の昔から人間が語ってきたことを繰り返しているだけ。主人公ウェイドの「言葉にすると寒いと言われそうだけど、生きがい、友だち、愛」というセリフ。本当に寒いというか青臭いですよね。

でも青臭いからいいんですよ。70を越えてもいまだ子どもの心をもったスピルバーグだからこそこういうことを臆面もなく言える。結局、世界を変えるのはいつだって青臭いこと言ってる奴ですから。ホリエモンみたいな「金さえあれば何でも買える」なんて言う奴は大嫌い。この映画の悪役はまさにホリエモンみたいな奴でしたよね。

逆に、古臭い価値観が好きになれないという人もいるかもしれませんが、私は古いタイプの人間なのでこういうのは大好き。別に価値観とかそんなのは古風でいい。意匠が新しければそれでいい。



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どうです。この深みのある画面。同じヤヌス・カミンスキーでも『ペンタゴン・ペーパーズ』とはぜんぜん違う。

もちろん、いつもブイブイうるさい私のことだからこの映画にも不満はあります。でも、それはまた今度。(笑)

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『ペンタゴン・ペーパーズ』(正義は目を曇らせる)

スピルバーグの新作というか、すでに前作になっちゃいましたが、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見てきました。


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アイゼンハワー、トルーマン、ケネディ、ジョンソンの4つの政権が国民に嘘をつき、勝てる見込みがないと知りつつベトナム戦争に突き進んでいった最高機密をめぐる物語。

自分の都合の悪いニュースはすべてフェイクニュースだと切り捨てる現トランプ政権への批判として至極まっとうな映画だと思うし、いったんニューヨークタイムズにリークされてトップ落ちの憂き目に遭うも、今度は自分たちワシントンポストが全文書を手に入れる。そこから最高裁判決を鑑み、掲載してジャーナリズム魂を守って投獄されるか、それとも闇に葬るかの選択を迫られるも、メリル・ストリープ社主の鶴の一声で掲載に至る。ここらへんは、すべてこうなるとわかっていても興奮しますよね。

というのは私の本当に言いたいことではありません。本当に言いたいのは、スピルバーグは自分たちの政治的信条は正しい、我々は正しい映画を作っているんだと思うあまり目が曇ってしまったのではないか、ということです。


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そう思ったきっかけは、役者です。
メリル・ストリープ、トム・ハンクスといった当代随一の役者陣が出演しているのに「演技合戦」が見られませんよね。トム・ハンクスなら眠っていてもあの程度の芝居は可能でしょうし、何より「色気」がない。メリル・ストリープはじめ女優も男優も色気のある人間として演出されていない。


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これらのシーンには「女」の色気が少しだけ滲み出ていますが、メリル・ストリープならもっとできるはずなんですよ。
ズバッと言ってしまえば、すべての役者が政権批判を訴えるための「駒」にしかなっていないんです。

スピルバーグはどうしても映像演出の面ばかり語られますが、彼は演技指導の達人です。
そうはっきり認識したのは『リンカーン』のとき。ダニエル・デイ・ルイスにあれだけの芝居をさせるというか、彼は油断すると「やりすぎる」人じゃないですか。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なんてシリアスドラマなのに私は彼のオーバーアクションにずっと笑っていました。そんな暴れ馬を『リンカーン』ではちゃんと制御していました。他にも『ミュンヘン』は渋すぎる俳優陣のアンサンブルが見事でしたし、何よりあの映画のエリック・バナ、ダニエル・クレイグ、ジャフリー・ラッシュたちには「色気」があった。

スピルバーグはインタビューで、トランプ政権が発足してすぐにブラックリストにこの脚本があると知り、すぐに準備して撮影・仕上げをして年内公開にこぎつけたといいます。その馬力には感心せずに入られませんが、政治的主張をしようという心意気が前面に出すぎというか、正しい主張のこもった物語をわかりやすく伝えることだけに神経が行きすぎたんじゃないかと思われます。この映画に役者の色気がないのはそのせいでしょう。

もう一度この画像。

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何かどっちも薄暗いと思いませんか? あまりに画面にメリハリがない。とてもあのヤヌス・カミンスキーが撮った画面と思えません。

俳優にも色気がなければ、画面にも色気がない。あのような芝居・映像にOKを出したスピルバーグは、おそらく自身の政治的主張の正しさによって目が曇っていたと思われます。

かつてスパイク・リーは「政治的主張だけが映画のすべてであるはずがない」と言いました。

その言葉はそのまま『ペンタゴン・ペーパーズ』への批評になると思います。



『ワンダーストラック』(おそらく人生初の映画)

トッド・ヘインズ監督の新作『ワンダーストラック』を見てきました。

これがどうも「人生で初めての映画」となったようです。そんなたいそうな話ではありません。以下は感想でも批評でもなくただの日記と思って読んでください。


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監督がトッド・ヘインズというだけで見に行ったので、どういう内容かはまったく知りませんでした。
すると、いきなりデビッド・ボウイの『スペース・オデッセイ』がかかったりするので、やはりこの監督のセンスの良さを感じずにはいられませんでした。が、肝心の内容が……。

二つの時代を行ったり来たりするんですね。それがわかった時点で急激に熱が冷めました。私は時間軸をいじくる映画が好きじゃないんですよ。橋本忍脚本の名作の誉れ高い『切腹』も好きじゃないし。クリストファー・ノーランの『メメント』なんて言語道断だと思っているし。そういえば『ダンケルク』も時間軸をいじってたっけ。

ああいう映画ってこちらの「頭脳」しか刺激してこないでしょ。たとえば『ゴッドファーザー』とか『仁義なき戦い』を見て頭脳が刺激されますか? ああいう真の名作は観客の「腹」を撃ちぬいてくるんですよ。それが最近は頭脳に来る映画が氾濫している。

監督とは旧知の仲のエド・ラックマンが撮っているとは思えない雑な映像にも興味がもてないというか、ああいう70年代B級映画風の画がほしいなら別のカメラマンと組めばいいのに。とか、ぜんぜん気持ちが映画に入っていかない。

時計を見るとまだ30分ちょっとしかたっていない。ここで決意しました。「出よう」と。

私は「もうこの映画から得るものは何もない」と確信できたら躊躇なく途中退出する人間です。「もったいない」とよく言われますが、私に言わせれば時間のほうがもったいない。料金は前金で払っていていつ出ようが変わらないんだし。

というわけで、ペットボトルを鞄に入れて出ようとしたんですが、そのとき、主役の少年が財布を盗まれたんですよね。

お、これはちょっとどうなるの? と、あとほんの少しだけ見てみようと思って座り直したのでした。

直後のシーンで探していた書店が見つかるも移転していて、移転先を黒人少年が教えてくれる。主人公は耳が聞こえないから黒人少年が何と言ったかわからず彼の後をつける。

この二人の出逢いかたがよかったというか、ごく平凡な出逢い方なのに、なぜか死ぬまでこの二人は親友同士でいるんじゃないだろうかと思わせる出逢いに惚れ惚れとしてしまったのでした。

「映画とはつまるところ、人と人が出逢うことだ」

とは、蓮實重彦の至言ですが、いっぺんにこの映画が好きになってしまいました。

というわけで、結局最後まで見てしまい、「もう出る」と決意したにもかかわらず最後まで見た初めての映画となった、というわけです。

しかしながら、少年と少女の関係とか何の変哲もないものだったし、最後まで見た甲斐は少なかったのであのときの直感は正しかったのかも。

でも、少年の母親がすでに死んでいると知った黒人少年の戸惑いを捉えたショット。あの画のアングル、サイズ、影の落とし方はさすがエド・ラックマンと思いましたぞ。


『15時17分、パリ行き』(SF的発想をしてほしかった)

ようやく見てきました。クリント・イーストウッド最新作『15時17分、パリ行き』。

おまえのようなイーストウッド信奉者が封切から3週間もたってから見にいくなんてどういうことだ。
という声も聞こえてきそうですが、正直言いまして怖かったのです。『グラン・トリノ』で俳優を引退してからというもの前作の『ハドソン川の奇跡』を除いてどれもこれも愚にもつかない作品ばかりでしたから。

でも、結果的に『ハドソン川の奇跡』と同じくらい楽しめる作品で安堵しました。ただし「傑作」だとは思いません。「佳作」といったところでしょう。なぜか。


本人が自分の役を演じるという「情報」
この映画では公開前から、実際に起きた事件を、主役3人だけでなく実際にあの列車に乗り合わせた人たちをできるだけ集めて本人たちに自分の役を演じさせた、という情報が出回っていました。

その「事前情報」が観客に与える影響はかなり大きいと思います。

実際、ド素人が演じている割にかなりうまい。それは監督自身が役者であり、それもあまり器用ではない役者だった(←過去形で言わないといけないところが悲しい)ということで、監督経験しかない監督よりもかなりいいアドバイスができたんじゃないでしょうか。

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映画を見ていると、↑こういう光景が目に浮かぶんですよね。イーストウッドはどんなふうに素人俳優を演出したのか。それも自分自身の役というプロですら難しい役なのに。

という思いが「先入観」として観客の心を支配したはず。この映画の高評価の背景には「素人を使ってよくやった」みたいなところが多分にあるのでは?


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演技そのものもいいですが、セリフの途中でカットを割って繋ぐ、いわゆる「セリフつなぎ」が多用されてましたよね。
よくアクション映画などで、アクションがあまり上手でない俳優を使う場合、アクションの途中でカットを割るアクションつなぎが多用されます。
一昔前によくテレビでやってた武富士のCMがそうですよね。めちゃくちゃダンスがうまいように見えて、実は編集でごまかしてるだけという。


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列車に乗る前のこのシーンが最も顕著でしたが、3人が喋りまくるこのシーンではセリフつなぎばかりでした。素人の芝居を少しでもうまく見せるための工夫だったのでしょう。


実話=主演作
なぜか最近のイーストウッドは実話ばかり。
俳優引退前も「硫黄島2部作」と『チェンジリング』があり、引退後は『インビクタス』『J・エドガー』『ジャージー・ボーイズ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』、そして本作。他にも『バード』や『真夜中のサバナ』。

ん? 自分が出てない映画ばかり。なるほど。そういうことか!



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例えば『ガントレット』。
クライマックスで10万発の銃弾を浴びますが、誰もイーストウッドが殺されるかも、なんて思わないでしょう? そんなの『白い肌の異常な夜』みたいな珍品だけで、大スターたる彼は決して死なない。ある意味安心して見ていられる。それと俳優引退後の実話ばかりというのはつながっていると思います。

だって、実話なら結末があらかじめわかってますから。「イーストウッドは殺されたりしない」というのと「この映画はテロリストを倒した英雄を描いている」というのは結末があらかじめわかっているという意味では同じです。

だから、学校の先生に心ない言葉を投げられても、軍に入隊して負傷兵への対処の仕方でバカにされても、「彼らは最後は英雄になるのだから」と安心して見ていられる。

でも、素人にしてはうまい、とか、実話ならではの面白さとか、そういうところばかり楽しめるというのは映画としていかがなものか。


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だって、映画の一番の見せ場である「主人公がテロリストめがけてタックルする場面」。あそこでテロリストがマシンガンの引き金を引きますがなぜか不発。首尾よくタックルが成功して彼らは英雄になれたわけですが、あそこでもし撃たれていたらどうなっていたか。

そこをもっと突っ込まないといけないと思う。

もし不発じゃなかったら彼らの家族は周りから何と言われたか。教師たちは「だからあのとき薬を飲んでおけばよかったのよ」とでも言ったか。軍の上官たちは「ほら、言わんこっちゃない。そもそもあいつは軍人に向いてなかった」とでも言われたか。それとも、英雄になり損ねた悲劇の小市民として悼まれたか。
マスコミの反応はどうだったか。マシンガンを構えているテロリストに丸腰で肉弾戦を挑むなど愚の骨頂だと非難されなかっただろうか。

などなど、SF的な想像力をめぐらして、もしあのとき不発じゃなかったら、という物語を作ることもできたはずなんですよね。

英雄になれなかった、ありえたかもしれないもうひとつの物語

それを現実に英雄になれた本人たちが演じる。そのほうが「事件の当事者を起用する」ことの意味も意義もあったんじゃないか。

この映画は私は楽しめました。それは本人たちが出演しているとか最近のイーストウッドは実話の映画化が多いとかの事前情報と、それなりに映画を見てきたからセリフつなぎが多いことに気づけたとか、あくまでもそういう理由によるものであって、決して子どもの頃に『ガントレット』を見たときのような「映画そのものの力」に感動したわけじゃない。

実際、本人たちが出演していると知らなかったうちの両親はあまり楽しめなかったそうです。


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