聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

スクリーン

許せない映画③『グレイテスト・ショーマン』

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『ラ・ラ・ランド』のスタッフが結集したという謳い文句で大ヒット中の『グレイテスト・ショーマン』。なるほど、歌と踊りのシーンはノリノリで見れますが、この映画は非常に大きな問題を抱えており、私は決して許してはいけない映画だと思います。

過去の許せない映画はこちら。
①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』

まず、ヒュー・ジャックマン演じる主人公は貧しいというただそれだけで好きな女の父親から蔑まれ「娘はきっと戻ってくる。おまえとの貧しい生活に耐えきれなくなって」というひどい言葉を浴びせられます。この富者が貧者を見下す世界で主人公がどのように「ヒーロー」として名を上げるか、というのがこの映画の眼目となります。


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主人公はまず小人やヒゲ女、巨漢にノッポ、シャム双生児などなど異形の者たち(フリークス)を集めた見世物小屋を作り、そこで歌を踊りを披露して人気を博します。

フリークスも異形であるというただそれだけで虐げられてきた者たちであり、貧しいというだけで差別されてきた主人公と同じ身の上です。の、はずが……

歌姫レベッカ・ファーガソンが仲間に加わってからはその歌があまりに素晴らしいために主人公はフリークスを迫害し、歌姫と二人だけでツアーに出ます。

「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」

というカント哲学の要諦がありますが、主人公はフリークスを手段としてしか見ていなかったことが明らかになります。彼はダースベイダーのように暗黒面に堕ち、アンチヒーローとなってしまったわけです。

ここまでがちょうど半分。いわゆるミッドポイントというやつですが、ここから主人公がどのようにフリークスと折り合いをつけヒーローとして甦るかが眼目となります。

ですが、歌姫に逆恨みされてスキャンダルを仕組まれ、しかもサーカス小屋に放火されてすべてを失った主人公は酒場でやけ酒を飲んでいると、フリークスが入ってきて、何と彼を許すのです。

え、何で???

彼らは怒らなければならないはず。確かに「あなたのおかげで舞台に立てた」という気持ちはわかります。劇評家の「あらゆる人を同じ舞台に立たせた」という言葉もわかりますが、それは結果論であって、主人公はただ金儲けの手段として彼らを利用しただけです。

だから、彼はフリークスに謝らないといけないし、フリークスだって容易に許してはダメです。ここにこそこのドラマの要諦があるはずなのです。なのに主人公は彼らに簡単に許してもらい、さらに片腕のザック・エフロンがこっそり金を貯めていたとかで簡単に再起できます。

何じゃそりゃ。

主人公はヒーローとして復活しますが、それはフリークスが彼を甘やかしているからです。作者たちが主人公を甘やかしている。

そして大事なことは、主人公のみならず、作者たちもがフリークスを目的として扱わず手段としてのみ扱っているということです。まともな人間として相手にしていない。彼らを締め出し暗黒面に堕ちた主人公と作者たちは同類です。

というわけで、この『グレイテスト・ショーマン』は決して許してはいけない映画ということになります。派手な歌と踊りに騙される人もいるかもしれませんが、これは絶対に許してはいけない!



『犬猿』(理想的な「善と善」の対立ドラマ)

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ある高名な脚本家から教わったとても大切なこと。

「君は善と悪の対立でドラマを作ろうとしている。それじゃダメなんだ。善と善が対立するようなドラマじゃないと人の心は打たない。どちらにもそれなりの言い分があり、どちらの言い分にも納得できる。それこそが豊かなドラマだ」

吉田恵輔監督の『犬猿』はまさにそういう映画でした。
前作『ヒメアノ~ル』では、最初共感していたはずの主人公に最後は少しも共感できなくなり、最初は恐怖の対象でしかなかった殺人鬼に最後は共感してしまうという離れ業をやってのけましたが、この『犬猿』では非常にオーソドックスなドラマ作りがなされています。

ある犬猿の仲の兄弟と姉妹の愛憎がクロスする物語。


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兄弟
窪田正孝と新井浩文の兄弟は、刑務所から出所したばかりで弟に迷惑ばかりかけている兄と、そんな兄を嫌悪し、見下している弟。
兄は弟に迷惑を掛けながらもそんな自分を嫌悪している。弟に罪滅ぼししたくても弟は受け容れようとしない。そもそも兄を密告したのは弟であり、兄はそれを恨んでいる。弟はヤクザな兄を見下し、兄はくそ真面目な弟を見下している。
「何だおまえ」とどちらもが言う。


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姉妹
江上敬子と筧美和子の姉妹は、親から受け継いだ下請けの印刷会社を切り盛りする切れ者だけどブサイクな姉と、姉とは似ても似つかぬ、といってもそれほど美人でもない微妙な女優志望の呑気な妹。
姉は見た目がいいだけで得をしている妹に嫉妬しながらも、同時にろくにパソコンを使いこなせず英語の勉強も身につかない妹を見下している。妹は見た目がいいことを鼻に掛けているし、「お姉ちゃんは社長だから責任があるの」とかばってみせたりもするが、何だかんだ言いながらやっぱり姉を見下している。
「何よあんた」とどちらもが言う。

4人全員にそれぞれの言い分があり、どの人物の言い分にも納得できる。私はこういう脚本が書けなかったので激しく嫉妬します。


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流血事件による幕切れ
数々のスッタモンダの末に、二組とも流血事件によって大団円を迎えるのですが、自傷にせよ他傷にせよ、暴力によって事態が解決に向かうというのはいささか安直な気もしました。ただ、両者とも和解のあとのオチがあるので、あれでいいような気もします。(でもやっぱりこの映画で血は見たくなかったとは思いますね、やはり)

しかし・・・


『ダーティハリー』
「善と善」の対立というが、おまえが大好きな『ダーティハリー』は「善と悪」の対立ドラマじゃないのか。と言う人もいそうですが、それは違うと思います。


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『ダーティハリー』の悪役・蠍座の男は「トラブルメーカー」にすぎないというのが私の解釈です。

主人公ハリー・キャラハンと真の意味で対立を演じているのは、彼の上司、署長、市長、そして弁護士と判事です。

弁護士や判事は「なぜ令状を取らなかった。令状がなければ証拠として認められない」と言います。確かにその通りだけれどハリーは「そんなことしてたら人質が殺されていた」と返します。これもごもっとも。どちらの言い分にもそれなりの理があります。だから『ダーティハリー』も「善と善」の対立ドラマなわけですね。

もしかすると、同じ勧善懲悪なのに『ダーティハリー』のような時代を超えた名作と、忘れ去られたあまたの凡作がありますが、その差は、「善と善」の対立まで深く掘り下げられているか、「善と悪」の対立で終わっているかの差なのではないか。

これは研究すべきテーマですね。



『スリー・ビルボード』(たったひとつの回想シーンが)

私はかつてある高名な脚本家から、

「君の脚本は意外性を求めすぎている。もっとオーソドックスに構えたほうがいい」

と叱られたことがあります。


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アカデミー賞レースを賑わせている『スリー・ビルボード』を見てきました。
何しろ監督賞にノミネートされている『ダンケルク』や『レディ・バード』より受賞の可能性が高いというのですから、そういう意味でも楽しみな映画でした。

しかし・・・

結局、この映画って何が言いたいんだろう? 作者の真意がわからない映画でした。というか、昔の自分の脚本を読んでいるような気恥しさがありました。(以下ネタバレあります)

最初の10分ぐらいはグッと乗ったんですよ。


それぞれの「言い分」
まず最初の、主人公ミルドレットが3枚の看板を見つけるシーンがただならぬ雰囲気を醸し出していて心を鷲づかみにされました。そしてこのシーン。


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ミルドレットは、レイプのうえ殺された娘の事件の捜査がまったく進展しないことに業を煮やし、町の大きな看板3枚に文句を並べたてます。「レイプされ殺された」「逮捕はまだ」「なぜだ、ウィロビー署長」と。

そのウィロビー署長は末期がんに冒されており、ミルドレットもそれは知っています。「知ってて実名を出して広告を出したのか」とウィロビーはじっとミルドレットの横顔を見つめます。ここまでがおよそ10分ぐらいですが、傑作を予感させる出だしだったんですよね。

何がいいと言って、「悪人」が出てこなさそうだったので。ミルドレットにはミルドレットなりの言い分があり、ウィロビーはじめ警察には警察の言い分がある。どちらの気持ちもわかる。ウィロビーを末期がん患者と知っていながら「死んでから広告出しても意味ないでしょ」と少しも悪びれないミルドレットの気持ちもわかるし、「知ってて広告を出したのか」というような表情を見せるウィロビーにも彼なりの言い分があります。

つまり、「善と悪」の対立ではなく、「善と善」の対立になっていると感じたわけです。

それが・・・



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ディクスン登場
ウィロビーの部下にディクスンという差別主義者の警官がいるんですが、彼が出てきてからだんだんおかしくなる一方でした。

彼は別に犯人隠匿しているわけでもないのに警察を非難されたというだけでミルドレットを目の敵にしますが、彼の登場によって「善と善」の対立が「善と悪」の対立に変わってしまいました。

いや、もっといえば、「悪と悪」でしょうか。

ミルドレットは看板に放火されたことを恨んで警察署に放火し返します。が、この行動はあまりに常軌を逸していないでしょうか。あの時点ですでに看板に広告を出した効果は充分あるんだから、あそこまで激怒する理由がわからない。

それに何より、ミルドレットが犯人や警察にだけ憎しみを燃やしているのが少しも理解できません。


一度だけの回想シーン
おそらく娘が殺される日の朝なのでしょうが、ミルドレットと娘は喧嘩して、「レイプされたって知らないから」と怒って出ていく娘に対しミルドレットは「レイプされたらいいわ」と吐き捨てます。それが最期の別れとなってしまった。ミルドレットには自責の念もあるはずなのに、少しも自分を責めません。あの回想シーンを挿入するからには、一番責められるべきは自分自身じゃないのかという葛藤を描かないといけなかったはず。なのに警察ばかりを攻撃するモンスターになってしまっています。

ウィロビー署長も、突然自殺する展開には驚愕しましたが、いくら末期がんといっても、町を守る警察官としてちょっと無責任すぎませんかね。遺書に書かれていた妻子への想いは理解できます。しかし、彼には父や夫としてだけでなく、警察署長という大切な務めもあるのだから、ちゃんと仕事を引き継いでから死ねばよかったんじゃないですか? 性急にすぎるし、ウィロビーもミルドレットもいったいどういう行動原理で動いているの少しもわからない。意外性を求める作者たちの顔がちらつきました。

そして極めつけは先述のディクスンです。
彼は、ウィロビーが自殺したことを恨んで広告屋を屋根から突き落とします。その気持ちはわかります。が、新署長にクビと言われて潔く引き下がるのは少しも彼らしくありません。しかも彼はミルドレットの放火によって大やけどを負ったのに、心を入れ替えて真犯人究明に乗り出します。

え、何で???

ミルドレットのせいで死にかけたのだから、いくら「こいつらが犯人では?」と思える会話が聞こえてきたって、前半の彼の行動原理からしたら「奴らが犯人だな。あの女には教えないでおこう」とほくそ笑むんじゃないんでしょうか?

さらには、彼らは犯人ではなく、戦地でいろいろあったものの軍人のため守られていることがわかります。おそらく中東でレイプなど悪行の限りを尽くしてきたのでしょう。ディクスンはミルドレットに電話を掛けて、一緒にアイダホまで彼らを殺しに行くところで終わります。

「ほんとに殺すのか」「道々考えましょ」というセリフからはどこまで本気か推し量りかねますが、アイダホまで実際に行こうとするのがまったくわからない。

ミルドレットはいったい何がしたいんでしょう? 罪悪感を感じながらも警察への敵意しか見せず、最後は犯人じゃない男たちを殺しに行く。いくらレイプ魔には違いないといっても、それは「理屈」じゃないですか?

この監督はやはり「意外性」に取りつかれすぎだと思います。意外性を優先させるから人物の行動原理が歪んでしまっているのです。


『はじまりのボーイ・ミーツ・ガール』(「夢は素晴らしい」というイデオロギー)

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今年の映画初めは『はじまりのボーイ・ミーツ・ガール』。
しかしこれがいきなり今年のワースト候補。とにかくイデオロギー的にまったく納得できません。(以下ネタバレあります)

何よりも、失明の危機にあるヒロインが治療を拒否しているということに納得いきません。チェリストの夢を優先するために治療せずに音楽院に行くと言い張るのですが、え、何で? と。音楽が夢だから聴覚異常なら治療するけど視覚異常は治療しないってことでしょうか。そんなバカな。彼女はまだ若すぎるほど若い。治療してから音楽院に行ってもいいんじゃないの?

この映画の根底には、「夢を追いかけるのはとっても素敵なこと」というイデオロギーが流れていますが、私は健康より夢を優先させる考え方には同意できません。

彼女が主人公の男の子に近づくのが、好きとかそういうことじゃなくて自分の目の代わりになってもらおうとした、というのは面白かったです。

でも、いま「主人公」といいましたが、夢を取るか治療を取るかという葛藤の狭間にいる女の子じゃなくて、彼女に恋する男の子が主人公というのがこの映画のすべてを象徴している気がします。

最終的に健康よりも夢を優先させること自体は悪いことだとは思いません。

が、そこに何の葛藤もないのが問題なのです。普通なら、目を取るか夢を取るかで葛藤する女の子が主人公でしょう。そうじゃないのは、作者たちが「夢のためなら視覚なんか捨ててもかまわない」と何の葛藤もなく信じているということです。その悩みのなさに腹が立ちました。

二人の登場のさせ方も悪い。

オープニングクレジットはとても素敵で「これは新年早々いい映画が見られそうだ」と思ったんですが、次のカットでいきなり女の子のアップ。

そして、彼女の目が悪いらしいという描写があって、登校の途中で主人公がいきなり登場。彼女を陰から見ています。彼女は彼のいつもの行動に微笑むんですが、主人公の日常も少しだけ描いてから尾行のシーンに行くべきだと思います。登場のさせ方に何も工夫がない。

それに、最初にヒロインの目が悪いとわかる描写をしてしまっていいのでしょうか。
主人公が一方的にヒロインを尾行したり教室でチラ見したりしていると、いきなり彼女から勉強を教えてくれたり手をつないできたりドキドキしてたら実は利用されていた。観客も主人公と一緒に驚き、彼女を責める主人公に肩入れする。

でも、「目が見えなくなるの」というヒロインの言葉にまた観客も主人公と一緒に驚愕する、という構成にしたほうが絶対いいと思います。あくまで、彼を主人公にするなら、ということですが。

とにかく、作者が思想的にも演出的にも何も考えていないことがはっきりわかったのでイライラさせられっぱなしでした。




『パーティで女の子に話しかけるには』(自由であること)

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話題のジョン・キャメロン・ミッチェル監督『パーティで女の子に話しかけるには』を見てきました。

見終えて思ったことは、誰の言葉か忘れたけれど、

「未完であること、劇的であること、過激であること、芸術でないこと」

という創作の極意を表した四つの言葉を思い出しました。この『パーティで女の子に話しかけるには』はまさにそのような映画でした。

とにかく斬新だし、ラストシーンのあとも永遠に物語は続いていくようになっているし、何より芸術でない。パンクが芸術であってたまるかという宣言。



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何しろ「エル・ファニングが異星人を演じる」という予備知識しかもたずに見に行ったので、開巻早々、何のバンドか忘れたけれどパンクロックがかかり、さらに主人公の部屋にセックス・ピストルズやダムドのアルバムジャケットが飾ってある時点でもっていかれてしまいました。

しかも、あまり好きではないエル・ファニングが画像のようにシャウトしてしまうのね。



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ニコール・キッドマンという当代随一の美人女優にまでパンクさせてしまうミッチェル監督のすごさ。

物語は、異星人が出てきたり、「摂食するか否かという議論」があったり、肉体の乗っ取りがあったり、いろいろ複雑に入り乱れていますが、簡単に言ってしまえば「愛し合っているが住む世界の違う男女が別離の悲しみを経験したのち、女が産み落とした子どもが男のもとを訪れる」という至って古典的かつシンプルなものです。

古典を斬新にしたのは、やはり「パンクロックを通して悲恋物語を謳い上げる」という発想でしょう。

「パンクって何?」というセリフが何度も出てきますが、私自身イギー・ポップやセックス・ピストルズ、MC5やバズコックス、スティッフ・リトル・フィンガーズなどを好んで聴いているものの、あまりその定義はよく知りません。

主人公は「自由だ」みたいな答えをします。他にもいろいろ答えてましたが忘れました。細かい定義などどうでもよろしい。一番大事な「自由」さえ憶えていれば。

古代ギリシア人は、この世界を構成するのは四つの元素であり、それは「空気」「水」「火」「土」で、それらを総称して「四大」と呼びました。

エル・ファニングの星では「6つのコロニー」というものがあるらしく、「心」か「精神」がまずあって、他は忘れましたが、ただひとつ異質だったのが「声」ですね。声がこの世界を構成する大事な要素である、という発想はまさしく異星人のものです。凡百の地球人にはそのような発想はふつう出てきません。

ただ、そういう斬新な発想を可能にする方法がひとつだけあって、それが「自由になること」です。

映画のテーマと作法が見事にリンクしています。

「未完であること~」の言葉の最後に「自由であること」を付け加えてもいいのかもしれません。



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セットや衣装、ライティングの配色も素晴らしくて目で楽しめるのも素晴らしい。

昨日の 『女神の見えざる手』の感想 では書くの忘れましたが、最近のアメリカ映画(アメリカ映画には限らないかもですが)には手持ちカメラがあまりに多い。『女神の見えざる手』もカメラが揺れすぎ。だから落ち着いて見られない。

『パーティで女の子に話しかけるには』でも手持ちカメラはあります。でも、芝居場ではちゃんと三脚にカメラを据えて撮っています。おそらく、スケジュールの関係で「絶対に三脚を使う場面」と「最悪手持ちでいい場面」とに分けたのでしょう。実際、手持ちカメラが使われているのは芝居場ではないシーンばかりでした。

しかし、「声」がこの宇宙の最も重要な要素というのはあまりに斬新な発想です。もしかしたら、「音楽」があるのはこの大宇宙の中で地球だけなのかもしれない。だからエル・ファニングたちは地球に来たんじゃないか。

そんな気にもさせてくれる「本物の音楽映画」でありました。

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