スクリーン

2020年07月11日

『アリー/スター誕生』を超えたとかいうキャッチコピーは何か怪しかった。だって、あの映画、たいしていい映画だと思えなかったから。


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でも嘘ではなかった。どころか最後は滂沱の涙。いや~、ごっつぁんでした。(以下ネタバレあります)


手持ちカメラ問題
最近の、特に低予算映画の流行である手持ちカメラがこの映画ではあまり見られなかったことがまず好もしいと思った最初の点。

確かに手持ちで撮っているところもあるけれど、まぁまぁ意味のある手持ちというか、三脚にカメラを据えてしっかり撮ったカットと手持ちのカットを無造作につなぐという監督が何も考えていない昨今の映画とは一線を画していると思いました。

個人的な好みを言わせてもらえば、もっと「ここぞ」というところだけにしてほしかった。でもカメラに関してイライラさせられることが少なく、落ち着いて見ることができました。


主人公の服役理由
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冒頭、刑務所を出所するところから始まりますが、いったい何の刑で入っていたのか少しも示されない。タグを付けられているというセリフがあったので、イギリスだから性犯罪なのかな、と思っていました。

でも、なかなかどういう理由でかは示されないまま後半へ。そして初めて明かされたのが「麻薬をやって、子どもたちの部屋にクスリを投げ入れた」と。うーん、予想とはぜんぜん違ったけど、えらく引っ張ったわりにはたいしたことのない罪でした。あれなら最初のほうでばらしていても別段問題はなかったと思う。


「君の伝えたいメッセージは?」
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ジェシー・バックリー演じるローズリンという女性はカントリー歌手として世に出ることが何よりの夢で、映画が始まってからずっと音楽の聖地ナッシュビルを目指します。

貯めたお金でいこうとするも金や荷物を盗まれ帰郷。

次は友人がパーティを開いてくれてそこで歌って彼女の歌に投資してくれることになる。そこで過去の罪のことについてその友人の旦那から脅迫まがいのことを言われてしまい、まったく歌えなくなって頓挫。

次は、パン屋に20年勤めて貯めたお金を母親がポンと渡してくれる。「私は遠い世界のことを知らない。未来を見てきなさい」と、それまでの頑固ママがウソのように主人公の夢を叶えてくれる。

で、ナッシュビルに行くも、カントリー博物館みたいなところをめぐって、そのあと誰もいないステージで歌っていると入ってきたバンドマンたちがバック演奏してくれる。でも彼女が歌っているのは既製楽曲。

著名なプロデューサーから彼女はこんなことを言われていた。

「歌唱力は抜群だ。でも君の伝えたいメッセージは何なんだい?」

絶句してしまうローズリン。楽器は何もできず、作詞も作曲もせず、ただ既製楽曲だけを歌ってきた日々。

これには私も身につまされました。

撮影所を辞めて脚本家を目指し始めたばかりの頃、ある著名な脚本家に自作シナリオを送ったんですが、感想が来たのには狂喜乱舞したものの、

「あなたのシナリオは技術的にはとてもよくできています。でもあなたの体臭が感じられません。もっと自分の個性を出すようにしてください」

ローズリンとまったく同じことを言われてしまったわけです。

そしてこんな呆然とした顔になった。


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彼女はナッシュビルをあとにして故郷のグラスゴーに帰ります。え、ここで終わっちゃうの⁉ んなアホな。

と思ったら、舞台は突如「1年後」へ。

歌う以外に何もできなかったローズリンが何とギターをもっている。必死で憶えたんですね。そして歌うのは自分が作詞(おそらく作曲も)したであろう楽曲。

「すべてを捨てて夢を追おうとしたこともあったけど」

みたいな歌詞のあとに彼女の渾身の「メッセージ」が歌われます。

「ここが一番。故郷が一番」

歌うべき何のメッセージももたないくせにナッシュビルしか眼中になかったローズリンが紆余曲折の末に出した「人生の結論」はとてもありきたり。でも大事なのは結論ではなく、そこに至るプロセスのほう。

おそらくあの歌は歌としては凡庸なものだと思う。でも、自分の夢しか考えていなかった女の子が故郷が一番と母親と子どもたちに向かって歌う、というバックグラウンドを知ったうえで聴くとさめざめと泣くほかありません。


wild-rose5 (1)(めっちゃ楽しそう)

そしてジェシー・バックリーの歌唱力が半端じゃない。レディ・ガガを超えたといっても過言ではないでしょう。

素敵な映画をどうもありがとうございました。


Wild Rose
Original Soundtrack
Island
2019-04-11





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2020年03月25日

いまだにこの映画がカンヌでもオスカーでも『パラサイト』に負けたというのが信じられない2019年フランス映画『レ・ミゼラブル』。(以下ネタバレあります)


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つい先日、ブライアン・デ・パルマの8年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』というのを見ましたけど、この『レ・ミゼラブル』のほうがよっぽど「ドミノ」だと感じたのは私だけではないでしょう。

お話の転がし方にも工夫がありますが、私はやはりラジ・リという監督さんの演出力に驚嘆しました。

これは何度も言っていることですが、京都の専門学校に行っていた頃、監督を目指す友人たちは「どう撮るか」ばかり考えていました。

カメラをどう動かすか。
どうつなぐか。
光をどこに当ててどこに当てないか。

などなど。

それも大事でしょうが、役者への演技指導が監督の一番の仕事じゃないの? というのが私のスタンスでした。


荒井晴彦さんの誤解
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脚本家の荒井晴彦さんがよく映画芸術誌上で言っています。「どう撮るか」は監督の仕事だが「何を撮るか」は脚本家の仕事だ、と。

本当にそうでしょうか?

脚本を書いていた者の感覚からすると、脚本にだって「どう」はあると思うんですよね。この題材を映画にする場合、どういう切り口で語るべきか、というのは「どう」の範疇でしょ?

逆に、できあがった脚本に「何を撮るか」はふんだんに盛り込まれているとはいえ、やはり実際の現場に行って実際の役者がそれぞれの役を演じるとなると、そこには「何を見せるか」という問題が出てきます。

つまり演技指導です。脚本には小説と違って必要最小限のことしか書かれてないから同じセリフでもどう抑揚をつけるかとか、喋りながら動くのか、あるいは、立ち止まって喋るのか。脚本にもある程度動きが書かれているとはいえ、そこは役者の生理や全体のバランスを考えて変えていかねばなりません。

セットや衣裳のデザインや光の塩梅なども「何を」のうちに入るのでしょうけど、一番はやはり「役者」ですよね。役者が「何」を担当する。その「何」を演出するのは監督の役目です。

脚本家も「何を撮るか」を書くけれど、監督も現場で「何を撮るか」を形作る。

荒井さんは監督もやってるのになぜそんな大きな誤解をしているのだろうと不思議です。


『レ・ミゼラブル』
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『レ・ミゼラブル』では役者が輝きまくっていました。

私の中の「映画史上最高の演技」は『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンなんですけど、あれに勝るとも劣らない「まるで目の前に実際に存在しているかのような」芝居が繰り広げらていました。

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子どもたちへの演出はもっとよい。この子どもたちはこの映画でかなり重要な役柄を背負っていますけど、物語上重要だからというより、やはり現場での演技指導が卓越していたから印象に残るのでしょう。彼らもジーン・ハックマン並みの芝居を見せてくれます。ラストシーンのあの表情!

とはいえ、ラストははっきりあの火炎瓶を投げて大炎上し、警官が子どもを撃ち殺して……というカタストロフをちゃんと見せ切ってほしかったという思いもあります。あそこで幕というのはちょっと手抜きな気がしないでもない。

カメラも最近の映画特有の手持ちカメラが多く、最初はぐらぐら揺れるカメラに「またか」と辟易しましたが、映画があまりに充実しているので気にならなくなりました。

ただ、ここは手持ち、ここはフィックスという分け方に意味がなかったような……? 「何」を担当する役者があれだけ魅力的なら全編手持ちカメラで撮ってもよかったように思います。(個人的には全編フィックスのほうがいいけど)

とにかく、今年見た映画の中では、臨場感という点では『1917』より素晴らしく、映画全体としても『フォードvsフェラーリ』より上を行くとんでもないものを見たという感じです。

いまはお腹いっぱいで他の映画を見る気になれません。時間と財布が許してくれたらもう一度見に行きたいくらい。


演技指導論草案 (青空文庫POD(大活字版))
伊丹万作
青空文庫POD[NextPublishing]
2014-10-31





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2020年02月01日

ずっと見たい見たいと切望してきた東海テレビ製作による『さよならテレビ』。

監督が傑作『ホームレス理事長』『やくざと憲法』の土方宏史さんということでよけいに期待が高まっていましたが、これが期待にたがわぬ素晴らしい壮大なる「自爆テロ映画」でした。


最初にすべてが……?
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冒頭、土方監督が『テレビの今』という仮題の企画書を見せ、同じ会社の面々に取材を申し込む。テレビがいまどうなっているかを撮らせてほしいと。

で、すぐ机の下にマイクが仕込まれるんですが、「ダメだ、マイクがあると喋れない」となり、お偉いさんたちの猛反発に遭って、

①机のマイクを外す
②打ち合わせは許可を取ってから
③発表の前に必ず試写をする

という三条件を新たに設けて取材が進むことになるんですが、土方監督が「テレビ局内部にカメラを向けることでハレーションを起こすかもしれませんが、それならぜひそれも撮りたい」と言っていたハレーションがまさに起こってましたよね。いつもカメラを向ける側のテレビマンたちが、カメラを向けられれるとキレかかる。マイクがあるとナーバスになって喋れない。いつも取材対象にはそれを受け容れさせているのに……。


三人の登場人物
しかし、そんなことにお構いなしに映画は別の方向に進みます。

登場人物が三人出てきます。

局アナの福島さん(右側)
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派遣社員から一年契約の契約社員になれた新人の渡邊くん
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ベテラン記者の澤村さん(中央)
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これら三者三様のドラマが展開されるんですが、この人たち、すべて「外様」ですよね。

局アナはもちろん東海テレビの社員ですが、カメラを向ける側ではなく向けられる側だから社内でも異質の存在のはず。常日頃からカメラを向けられている人にカメラを向けても意味ないでしょう。

新人の渡邊くんもしかり。まだ半人前以下の彼はカメラやマイクを突きつけるより、自分が被写体になることのほうが多い。それにテレビマンになりたての人間にカメラを向けて「テレビの今」を活写できると思うなんてあまりに馬鹿げています。

澤村さんも中途入社らしく、かなりのベテランのようですが一年契約の契約社員といってましたよね。やはり東海テレビの中では外様。

やっぱり、冒頭でカメラを止めろ! と叫び、渡邊くんのミスを叱り飛ばしていた東海テレビの中枢の人たちのあれやこれやを見せてくれないと意味がない。


自爆テロ=アクロバティック・ドキュメンタリー
おそらくは、撮ったけど編集で切ったのではなく、撮らせてもらえなかったのでしょう。もしくは撮って編集でも残したけど試写をしたら切らされた。そこで土方監督は逆の手を打った。

最後に澤村さんに「このドキュメンタリーも結局、いつもテレビがやってるのと同じでしょ?」と告発してきます。共謀罪で逮捕されたが無罪になった人との対面の場面は最初からマイクなどが仕込まれた「やらせ」だった。そうやってテレビ番組は作られている、この映画だって同じでしょと澤村さんが告発する。

と見せかけて、実はその澤村さんも仕込みなんですよね。あの告発はもともと台本にあるセリフのはず。

だって、最後に「出演者」として三人の名前が出ましたから。被写体ではなく「出演者」です。ドキュメンタリーなのに「出演者」です。

ドキュメンタリーと称していたこの映画は、実は周到に準備された劇映画だった。というか、編集の魔力によって無理やり劇映画にしてしまった。それもかなり不出来な。

映画そのものが、いまの腐ったテレビをそのままなぞるような「腐った映画」たろうとしています。

渡邊くんが地下アイドルのライブに行ったりするのをなぜ見せる必要があるのか。密着取材だから撮るのはいいけど作品のテーマとぜんぜん違うことだから編集で切らないといけないのにあえて残す。

それは、いまのテレビはこういう必要のない場面、テーマや主旨とは関係ないけど、アイドルおたくが情けない顔で握手会に参加してる場面があると視聴率が上がるからですよ、と作者自身が身を挺して訴えるためでしょう。

映画そのものを駄作にすることで「テレビの今」を告発する自爆テロ映画。何ともアクロバティックなドキュメンタリーで、これはかなりの実験作にして野心作だと思いました。

まだまだ映画には可能性が残されていますね。この映画は希望の星です。


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