聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

スクリーン

『ザ・プレデター』(決して「死にたい」と言わない自殺願望者たち)

話題沸騰中の『ザ・プレデター』。実は私はシュワルツェネッガー主演の『プレデター』を30年ぐらい前に見て少しも楽しめなかったので『2』も見てないし、『エイリアンvs.プレデター』とか関連作品もまったく見ておりません。
今回もいくら絶賛されまくってるといっても自分には合わない作品なんだろうとスルーるつもりだったんですが、脚本・監督があのシェーン・ブラック先生と知って慌てて駆けつけたらこれが大当たりでした!!


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よくわからない物語の背景
メキシコで主人公がプレデター(捕食者)と呼ばれる異星人を目撃。政府に拉致されてしまうのですが、ひそかに息子にプレデターから奪ったガントレット(画像の頭の部分とか腕の甲羅の部分)を送っていて、それを息子が誤って起動させてしまったことから、宇宙から別のプレデターがやってきます。

このへん、よくわかりませんでした。何でも、軍の秘密基地で研究対象にされていたのは「プレデター1号」で、宇宙からやってきたのは、いろんな星の一番強い生物の髄液を取り込んで「進化」している奴らしい。
最後のほうで「1号は地球を守ろうとしていたんだ」というセリフがありましたけど、え? じゃあ何でシュワたちは1号と戦ってたんだろう? と、よくわからない。まぁ私がプレデターへの思い入れが皆無に等しいからなんでしょうね。関連作品に詳しい人ならすべて理解できるのかも。

ただ、そのようなことは瑣末なことであって、私が面白いと思ったのは、やはり↓こいつら↓


ナイスガイズなPTSD軍人たち
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彼らは中東で味方を誤射するなど不祥事を起こしてPTSDを発症してしまい、同じグループでセラピーを受けている仲間たち。たまたま主人公と同じバスに乗ることになるんですが、ここの会話が面白い。

「俺はマッケナ」
「俺はネブラスカだ。本名は違うんだが」
「何ていうんだ」
「ゲイロード」
「通称のほうがいいな」

というところは普通にいいとしても、そのあと通称ネブラスカは訊かれてもいないのに他の仲間の紹介をしちゃうんですよね。これは完全に「説明」であって「描写」じゃないよ、シェーン・ブラック先生! と疑問に思いました。

実は、なぜこのようなわざとらしい説明をしたのかが最後に判明するのですが、それはひとまず措くとして、秘密基地から脱走したプレデター1号がお約束通り彼らと鉢合わせして戦うことになります。

普通なら、異星人を見たら逃げますよね。主人公はともかく、他の連中はみんな心を病んでいるのだから当然逃げるんだろうと思ったら戦う気満々で、え、何で? と。誰かが「ツッコミどころ満載の映画」と言ってたのはこういう箇所なのだろうか、と少し引いたんですが、アクション描写が素晴らしく目は画面に釘づけ。

あの連中は、その後も主人公の麻酔銃を受けた紅一点の生物学者が目を覚ましたらどういう行動に出るかで賭けをして子どもみたいに喜んでるし、このお祭りのような底ぬけの明るさは何なんだろうと、戸惑い半分で見ていました。


ようやくわかった「自殺願望」
彼らが異星人と遭遇してもなぜあんなに明るく無邪気なのかが、クライマックスでの死闘でやっとわかりました。火をつけられたプレデターに自ら飛びついて焼け死んだり、プレデターの宇宙船のエンジンに飛び込んで逃げるのを防いだり、彼らは少しも死ぬのが怖くない。いや、積極的に死のうとしている。
腹をぶち抜かれて磔の状態になった二人が、お互いを死なせてやろうと笑顔で同時に発砲するとき、すべてを理解しました。

彼らは死にたかったんだ、と。死に場所を探してうずうずしていたんですね。だからプレデターを初めて見たときも怖がるどころか喜び勇んで戦いに身を投じた。賭けをして喜んだり、主人公の奥さんに下ネタ連発したりするのも自殺願望者の哀しい遊びだったんだな、と。

『太陽を盗んだ男』で、原爆を作ったものの何をしたらいいのかわからない沢田研二に対し菅原文太刑事が「おまえが殺したがっているのはおまえ自身だ!」と喝破して見事に着地が決まるんですが、この『ザ・プレデター』にもまったく同じ感動がありました。

通称ネブラスカに連中の背景説明をいっぺんにさせた理由も同時に理解しました。

「PTSDに罹っていること」と「自殺願望者であること」をできるだけ離したかったのでしょう。PTSD軍人で心を病んでいる説明をいっぺんにさらっとやってしまって、そのあとは子どもみたいにはしゃぐ描写だけに徹する。そうすれば観客は彼らがPTSDに罹った病人であることを忘れ、ただの血に飢えた馬鹿だと思う。そのうえでクライマックスで喜んで死んでいく連中を描くことで彼らの内面の哀しみが浮き彫りになるという計算。

「死にたい」とか「死に場所を探している」なんて一言も言わないからこそ滲み出る哀しみ。背景は説明するけど心の中はいっさい説明しない。うーん、シェーン・ブラック先生、さすがです!(ちなみに脚本はフレッド・デッカーという人との共作)

以下は蛇足です。


主人公の奥さん
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主人公の奥さんがちょっとだけ出てきますが、この人のセリフも記憶に残るものです。
主人公とはすでに離婚しているのか別居中なだけなのかはっきりしませんが、ともかく夫はどういう人かと訊かれると、

「ダメな夫だけど、優秀な軍人よ」

これが「優秀な軍人だけどダメな夫」だと、もう完全に気持ちが離れてしまってますよね。後半に本当の気持ちが出ますから。だけど「ダメな夫だけど優秀な軍人」というのだから少しは気持ちが残っているようです。しかもそれが主人公との直接的なやりとりではなく、他の連中とのやりとりでわかるというのが憎い。

しかし、それなら最後は帰還した主人公とのラブシーンがあってもよさそうなのに、このシーンを最後に奥さんがいっさい登場しないってどういうことよ、シェーン・ブラック先生!



『ペンギン・ハイウェイ』(存在と運動のはざまで)

話題のアニメ『ペンギン・ハイウェイ』を見てきました。これが何だかよくわからない映画でした。(以下ネタバレあります

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小学4年生で「毎日が忙しい」という主人公は日夜勉学に励んでいて、突如現れたペンギンの謎を解こうとします。そこに、見事なおっぱいをもった歯科医院のお姉さんとのあれやこれやとか、クラスメイトとのあれやこれやとか、森の向こうの「海」と名付けられた液状の球体とか、ジャバウォックという邪悪な生き物とか、台風が来て町が騒然となったり、最後はペンギンと当たった「海」が消滅し、「海」と連動していたお姉さんも消えてしまう。

いったい、お姉さんは何者だったのか。
ペンギンは何だったのか。
結局、この映画は何を言いたいのか。

私にはさっぱりわかりませんでした。以下は理解できなかった者の戯言です。


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動かない雲
この森の向こうの草原のシーンで顕著なのが「雲が動かない」ということなんですよね。動いてるカットもありましたがほとんど動いていませんでした。ほんの少しだけ映っている川の流れは常に描かれているのに、雲の動きや風にそよいでいるはずの草の動きもほとんどない。人間の髪が風になびくとかもない。

なんか変だな、と思っていると、クライマックスの台風とか、そのあとお姉さんと一緒に疾走する場面なんかではちゃんと髪がなびいているんですよね。逆に「海」という謎の球体は登場から消滅まで常に動いていました。

予算の問題で、終盤以外は手間暇をかけられないということかな? と思ったのですが、それだと、クラスメイトのお父さんがお姉さんに協力してくれと頭を下げに来る何でもないカットを、わざわざウォーターサーバー越しに描くという手間のかかる演出をしていた説明がつきません。


お姉さんのおっぱい
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このお姉さんのおっぱいに主人公は興味津々なのですが、このおっぱい、実は最後の失踪シーンで揺れていたかどうか見落としてしまいました。しかしながら、それ以外では見事に動かないんですよね。最後、主人公を抱きしめるシーンで彼の頭が胸にうずまって微妙に上下していましたが、しかし、あそこまでおっぱいに執着していた主人公がおっぱいに顔をうずめたというのに何のときめきも示さないのはなぜなのでしょう?


宇宙の本質は「運動」
一昔前、福岡伸一という分子生物学者の表した『生物と無生物のあいだ』という本が話題になりました。生物とは何かを考察した本で、結論は「生物を生物たらしめているのは『時間』だ」というものでした。(←うろ憶え)

最近読んだ業田良家先生の『機械仕掛けの愛』には「この宇宙の本質は『存在』ではなく『運動』なんだ」というセリフがあります。

「時間」と「運動」……前者はともかく後者に関して。

雲が動かない、草木が動かない、おっぱいが動かない。というのは何か意味がありそうな……?

『方丈記』の冒頭、「ゆく川の流れは絶えずして」を思い出させるかのように、この映画の川は絶えず流れています。

「海」はこの宇宙の穴ではないか、と主人公は仮説を立てます。父親から宇宙の果てがどうのこうのというレクチャーを受けたりします。

主人公はペンギンという「存在」、お姉さんという「存在」、そのおっぱいという「存在」を研究対象にします。「存在」というのは「動かない雲」や「そよがない草」「なびかない髪」と同義なのでしょうか。そして、終盤に至って急に髪がなびき草木がゆれ、そして見落としたけどおっぱいもゆれるということであれば、それは作者たちが「この宇宙の本質は『存在』じゃなくて『運動』だよ」と言っている、ということなのでしょうか? 

動かない雲と常に動いている「海」は明らかに対照的ですが、「海」の消滅とともに雲が動き髪がなびくというのは示唆的です。しかしながら何を示唆しているのかはまったくわかりません。

描かれない「勃起という運動」
しかし、この映画は執拗におっぱいにこだわりますが、主人公が興味をもつのは当然としても、あそこまで「おっぱい、おっぱい」とこだわりながら、ついに主人公の「勃起」という「運動」が描かれないのはなぜなんでしょうか?

お姉さんとは何者で、ペンギンや「海」が何を象徴しているのかがわかれば、上記の疑問も解けるのでしょうか。

どなたか教えてください。



『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(この新作は必要だったのか)

いまごろ見てるのかとか言われそうですが、ようやく見てきました。トム・クルーズの新作『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』。週刊文春の星取表で信頼する芝山幹郎さんが満点をつけていたので期待は高まるばかりでしたが……


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うーん、、、ちょっと私には退屈な映画でした。
そりゃ手に汗握ったシーンもありましたよ。芝山さんは「肉体と空間の共振が~」とアクションを絶賛しています。


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そりゃこのシークエンスなんかは鳥肌ものでしたし、ビルの屋上を疾走してそのまま隣のビルに飛び移るのをカットを割らずに見せる場面など「映画の醍醐味とはこれよ!」と56歳とは思えないアクションを見せてくれましたが、それでも、クライマックスの「爆弾のタイムリミット」とか、それを解決する手段とか見せ方とか、あまりに独創性がなくて白けました。

それにジェレミー・レナーが出てこないのはなぜなんだろう、というか、ここからが本題です。

その前に、できればこちらの記事をお読みください。3年前の『ローグ・ネイション』を見たときに書いた記事です。


①私情で動くスパイたち
②ポーラ・ワグナーとの訣別
③最新作『ローグ・ネイション』でわかったトム・クルーズ真の狙い


私は上記の日記で「映画版『ミッション:インポッシブル』は、テレビ版『スパイ大作戦』に対する、20年の歳月をかけた壮大にして絶妙な批評だった」と結論しました。
自分たちを使い捨てにする組織を自分たちで再生する。それが『ローグ・ネイション』の物語の眼目であり、そこにこそトム・クルーズがこだわった「真にプロフェッショナルなスパイ」が描かれていると。

しかし、今度の『フォールアウト』では同じ悪役ソロモン・レーンが出てきて「国家はおまえたちを使い捨てにするだけだぞ」と言います。これについての答えはもう前作で出ているので、あまりに愚問ですね。ソロモン・レーンの言葉として矛盾はありませんが、前作までを見ている観客からすれば「いまごろ何を言ってるの?」ってなもんです。

『ローグ・ネイション』では、国家に使い捨てにされたことで復讐心を燃やすソロモン・レーンと、復讐など考えず粛々と組織の再生に力を合わせるトムたちの友情が描かれました。そのはざまで揺れ動く、ソロモン・レーンと同じ元MI6のスパイ、レベッカ・ファーガソン。
この構図は今回も変わりません。同じ設定、同じ悪役、主役たちにも変わりがなく、はざまで揺れ動く人物も同じ事情で揺れ動いている。これでは「いったい何のために巨額の製作費を注ぎ込んで映画を作ったのか」まったくわかりません。

やはり『ローグ・ネイション』で『ミッション:インポッシブル』はいったん終わったのです。新しい物語を語らなくてはならないはずなのに、アクションだけ盛大になって肝心要の物語は同工同曲というのでは、この3年間はいったい何だったんだろうと悲しくなります。

トム・クルーズもまだ元気とはいえ、次回作の頃には60歳近くですし、ここらで打ち止めにするのがいいんじゃないでしょうか。

奥さんミシェル・モナハンのかなり長い登場シーンもあったし、もういいのでは? もし次回作を作るとしたらトム・クルーズはもう60歳。いくら何でもあれ以上のアクションは無理でしょう。

嗚呼、こんなことなら『ローグ・ネイション』が完結編だったどんなによかったか。




『カメラを止めるな!』(マギー司郎とジャンルの不統一)



ついに見てきました。話題沸騰中の『カメラを止めるな!』。見る直前に盗作騒動などがあって、ほんの少しだけ水を差された形にはなりましたが、私は「ゾンビ映画の撮影中に本物のゾンビが現れるが撮影を続行する」という基本アイデアしか知らない状態で見に行けたので何も影響はありませんでした。ちなみに、盗作疑惑についての私の意見はこちら→「パクリ、盗作、芸のうち!」

以下の感想を一言で言ってしまえば、「マギー司郎の芸を映画化すること自体はいいとしても、方向性が違うのではないか」です。


素晴らしすぎる劇中ゾンビ映画!
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どんだけすごいのかとちょっと構えて見始めてしまいましたが、始まったらそんなのはすぐどこかへ吹っ飛びました。それぐらい劇中ゾンビ映画は素晴らしかった。とはいえ、最初はこのままこの禍々しいゾンビ映画が95分続くのか、と思っていたら、カメラのレンズについた血糊をカメラマンが手で拭き取りますよね。あそこで「あ、カメラマンは作中人物なのか」と誰でも気づいてしまう。ということは……ということで、劇中映画は40分ほどで終わって「1か月前」とテロップが出たときにちょいとテンションが下がりました。そこからまた上げてくれたらよかったんですが……


DVDの特典映像
ロバート・レッドフォードはDVDの特典映像で見られるメイキング映像にかなり否定的だそうです。「映画のマジックが失われるから」と。私は脚本作りの参考にさせてもらったりしてるし重宝してますが、確かにレッドフォードの言い分もわからないではない。

『カメラを止めるな!』は前半が完成した映画で後半がメイキングですよね。で、あのとき舞台裏では実はこうなっていたと種明かしがされる。思わず笑ったシーンもあったし、基本的に最後まで退屈せずに見ることができました。

が、映画全体に満足したかと訊かれたらぜんぜんそんなことはありません。前述のとおり劇中映画にはかなり感動しましたから、あそこで終わってくれたらよかったというのがウソ偽りのない正直な気持ちです。

劇中映画でいろいろ「あれ?」と思うことがありますよね。
カメラマンの手もそうだし、
護身術指南の場面でドアがゴーンと鳴ったり、
なぜか録音マンがゾンビのいる外へ出ていこうとして犠牲になったり、
勝間和代似の監督の奥さんが斧で絶命したはずなのに「あれ何?」と立ち上がったり、
ヒロインが密室で息をひそめているとゾンビの足が近づいてきて……でも去っていく。

などなど、これらの種明かしが後半に々となされるわけですが、それがそんなに面白いとは思えないんです。

逆に、種明かしがないほうが面白くないですか? つまり劇中のゾンビ映画だけで勝負するということ。あの禍々しさはトビー・フーパーの再来かと思ったほどですから。


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結局この映画は家族の再生物語だったんでしょうか。父親を「あいつ」呼ばわりする娘が一仕事やり終えた父親を見直し、父親は失われた父性を回復すると。そのテーマ自体が悪いとは思いませんが、あれだけ素晴らしい劇中ゾンビ映画がそのテーマを表現するための出汁にすぎなかったというのはいただけません。


マギー司郎との決定的な違い
この映画は、前半で素晴らしいマジックを見せておいて、後半はそれ以上の時間を使って延々と種明かしをしていたわけですよね。それがそんなに面白いですか? ただの答え合わせじゃないですか。

たまにテレビでマジックショーを見ますけど、種明かしなんかしないでしょ。種明かしをするのはマギー司郎みたいな人だけです。

マギー司郎は私も好きですが、この映画はマギー司郎と同じく、種明かしのほうに比重を置いています。しかしながら、マギー司郎の場合、マジックそのものがものすごくしょうもなくて笑えますよね。で、種明かしで「やっぱり!」という笑いになる。笑いの相乗効果があるんですよ。

しかし『カメラを止めるな!』では前半がホラーで種明かしがコメディだから面白さが相殺されているように感じられました。冒頭で言った「方向性が違う」というのはそういうことです。無理やり真逆のジャンルを混ぜようとしたから、父と娘のドラマという別のテーマを入れざるをえなくなったんじゃないでしょうか。

だから、マギー司郎の芸と同じく劇中映画もコメディにするべきだったと思います。あんな本気モードのゾンビ映画じゃなくて、脱力系のゾンビ映画。それなら劇中映画そのものの面白さも損なわれないし、種明かしのほうでもよけい笑える相乗効果が期待できたはずです。これはかなり残念。


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こんな素晴らしい顔の役者さんを見つけてくるくらいだから、上田慎一郎という監督さんは相当な目利きだと思います。40分ワンカットの技はかなりのものだったと思うし、もっといい脚本で撮ってほしかったというのが正直な感想です。


『ワンダー 君は太陽』(脚本構成の妙とは)

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

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顔に障碍を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


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姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障碍者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障碍者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたがね。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいもんです。



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