スクリーン

2019年12月31日

さて、2019年ももう終わり。2010年代も終わり。平成も終わったし、新たな気分で今年の映画ベストテンを。


①ドッグマン(マッテオ・ガローネ監督)
ブラック校則(菅原伸太郎監督)
さよならくちびる(塩田明彦監督)
グリーンブック(ピーター・ファレリー監督)
マリッジ・ストーリー(ノア・バームバック監督)
⑥ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形(藤田春香監督)
ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた(ブレット・ヘイリー監督)
ダンスウィズミー(矢口史靖監督)
さらば愛しきアウトロー(デビッド・ロウリー監督)
⑩嵐電(鈴木卓爾監督)
⑪きみと、波にのれたら(湯浅政明監督)
⑫眠る村(齊藤潤一&鎌田麗香監督)


え? 全部で12本ある? 別にいいじゃないですか。誰が10本って決めたの。

以前にも書いたことですが、ベストテンというのはただの遊びなのに「10本に絞り切れない。ベストテン選びは楽しいけどつらくもある」みたいなツイートを今年も散見しますが、遊びで苦しんでどうするの。絞り切れないんなら12本でも14本でも21本でもいいじゃないですか。

ま、かくいう私も去年まではきっちり10本選んでたんですけどね。ただ、それは簡単にふるい落とすことができたからであって、今年はそれが難しかった。

ベスト5は絶対的存在ですが、あとの7本は横一線。どれもふるい落とせない。というわけで12本並べてみた次第。

例によって選考基準は「図太くて厳しくて哀しい映画」。そして去年から加えた「監督の演技指導力」「俳優の想像力・演技力」。

では、1本ずつ簡単なコメントを。


①ドッグマン
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完全な受け売りになるけれど、週刊文春のシネマチャートで翻訳家の芝山幹郎氏が次のように語っています。
「弱者の逆襲はともかく、濁った海辺の空気と、そこでささくれる男たちの対比が目に刺さる。荒れ方や錆び方が映画的だ
『バハールの涙』にも似た感想を抱きました。荒れや錆びが美しく感じられる。映画ならではの感じられ方。
最後はなぜか『地獄の黙示録』を想起しました。殺しちゃうからかな。でもマーロン・ブランドを殺したマーティン・シーンは新たな「王」となるけど、この映画の主人公はただうろうろするだけ。
私はやっぱり「主人公がうろうろする映画」が好きなようです。「もっと主人公のウロウロを描いてみろよ」という長谷川和彦監督の激励の言葉がいまだに脳裏に残響しているのでしょうか。


②ブラック校則
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この壁画一枚で物語の流れを説明するというのが発明。映画というのは「説明をいかに説明と感じさせないか」だなと改めて思いました。
主役二人のうち、「面白かったら笑うよ」というほう(名前が憶えられてない)はどんどん伸びる気がする。芝居が自然すぎて逆に不自然な気がするくらい。


③さよならくちびる
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今年はハルレオの歌声にしびれまくった年でありましたことよ。
小松菜奈という女優はこれまで好きになれなかったけど、いっぺんに好きになったのでありました。しかしこの傑作が3週間で打ち止めというのには憤りしか感じない。宣伝が足りないのか何かわからないけど、もう少しうまく売ってほしかったと思う。


④グリーンブック
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あのピーター・ファレリー作品がアカデミー賞⁉ ほんの1年前まで誰も信じなかった事態が起こってしまった。
でも、こういう社会的に深刻な問題を取り上げないと栄誉に輝けないというのは問題だと思う。というか、これはアカデミー賞だけでなくすべての「賞」の限界ですかね。
「あのシーン」のマハーシャラ・アリは素晴らしすぎたし、ヴィゴ・モーテンセンもよかったけれど、ヴィゴの奥さん役の女優が一番印象的でした。かわいい。


⑤マリッジ・ストーリー
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感想にも書きましたが、あのシーンが、というか、ほぼすべてのシーンをワンシーン・ワンカットを基本に撮ってくれていたらベストワンだったんですけどね。
しかしあのスカヨハがアカデミー賞に輝く日も近い。あの『のら猫の日記』のあの女の子が。感慨深い。


⑥ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形
友人の強い薦めに感謝します。TSUTAYAに在庫がなかったので、わざわざNetflixに入って(ちょうど30日でぬけたけど)全話視聴したうえで劇場に駆けつけました。
来年4月に正統的な劇場版が公開されるとか。本当なら来月10日が初日だった。あの犯人には怒りしか感じなかったけど、「こんなに他人からやさしくされたのは初めて」という言葉を聞くと、複雑な気持ちになる。
物事は一筋縄ではいかない。それはこの映画のテーマでもありました。


⑦ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた
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何だかんだ言っても、やっぱり『ナタリーの朝』は偉大だった、ということでしょうか。


⑧ダンスウィズミー
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最近の歌が出てこない、昭和の歌ばかりとか、そんなのどうでもいい。ミュージカルという時点で「大ウソ」なんだからリアリズムを追求するのは違うと思う。
失ったものを取り戻す物語。つまり喪失プロット。どうしても物語というのは過剰プロットのほうが多いですから、喪失プロットというだけで心惹かれてしまいます。しかも神話的世界観がそれを裏打ちするのだからなおさら。


⑨さらば愛しきアウトロー
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ロバート・レッドフォード、いい花道になったんじゃないですか。シシー・スペイセクにまだ華が残っていたのもうれしい。役者で魅せる映画。


⑩嵐電
これは何か不思議な映画でした。「面白かった!」と満面の笑みで他人に紹介したくなる類の映画ではないし(観客を選ぶ映画ですから)かといって独りで静かに余韻に浸っていたいかというとそれも違う。虚実皮膜といってわかったつもりになってはいけないのだけど、それしか味わい方がないような気もする。不思議な映画。


⑪きみと、波にのれたら
湯浅政明監督はこれまであまりピンときませんでした。『夜は短し歩けよ乙女』も『夜明け告げるルーのうた』も画作りの面白さは感じても肝腎の物語に没入できなくて。
でも、この映画はノリノリで見ましたね。アニメであんなにうまそうなコーヒーやオムレツは初めて見た。
年初から始まる『映像研には手を出すな』、期待してます!


⑫眠る村
1961年に起きた名張毒ぶどう酒事件に関するドキュメンタリー。死刑囚は愛人関係を清算しようとして、というのが検察の言い分らしいけど、村の人たちは頑なにそれを信じている。おそらくは「愛人とよろしくやっている」ことへの妬み嫉みが根っこにあるのでしょう。たったそれだけのことが人間の判断力を狂わせる。見えているものを見えなくする。おそろしい。(それにつけても東海テレビの取材力のすごさよ。『さよならテレビ』が楽しみでしょうがない)


ワースト
さて、毎年恒例のワーストですが、いつも言っているように、『運び屋』『多十郎殉愛記』『天気の子』『記憶にございません!』『楽園』『ジョーカー』などといった単につまらない作品を選んでも面白くない。

というわけで以下の作品を。


2019ワースト
『新聞記者』(藤井道人監督)
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ノーコメント。


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2019年12月15日

周防正行監督5年ぶりの新作『カツベン!』

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5年ぶりといっても5年前は映画断ちをしていたので『舞妓はレディ』は未見です。『終の信託』もシナリオを読んだだけで見る気が失せたので劇映画としては『それでもボクはやってない』以来でしょうか。個人的には。

そもそも周防さんの映画はそれほど好きじゃないので期待はしていませんでしたが、映画全体は特に可もなく不可もなく、といったところでした。

黒島結菜はかわいいけど「映画の顔」をしていないとか、成田凌はぎりぎり映画の顔と言えるけど、竹中直人や竹野内豊、小日向文世、高良健吾はまぎれもなく「映画の顔」。そんななか「テレビの顔」としか言えない井上真央を使っているのは解せない。

などということはほとんどどうでもよくて、私が瞠目したのは次のシーン。


弁士の説明で映画は変容する
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劇中劇として使われるサイレント映画の『椿姫』。私は当時公開された本物のフィルムを使っているのかと思ったら、この二人、城田優と草刈民代なんですってね。驚いた。製作費を安くするためでしょうか。それともフィルムが残ってない……?

とまぁ、そんな楽屋落ち的なことに瞠目したのではなく、同じ『椿姫』が弁士の説明によって悲恋物語にもなり、爆笑コメディにもなる、というところ。

コメディ的な説明をするのは主演の成田凌がふざけてそういう説明をつけるんですが、ふざけた説明をつけると、悲恋物語がコメディに変容するというのは、わが意を得たり! という気分でした。


↓過去にこんな記事を書きました。↓
町山智浩さんの『市民ケーン』解釈への反論


『市民ケーン』の解釈をめぐって私の解釈は間違いだという人がいたり、解釈を公にするには言論の倫理に則るべきだとか、意味のわからないコメントがたくさん並んでいます。

『カツベン!』における弁士の説明もひとつの「解釈」ですよね。

いや、むしろ、観客は映画そのものよりも弁士の解釈を聴くためにお金を払っている。飲んだくれの永瀬正敏に「ちゃんと説明しろ!」とヤジが飛ぶのがいい例です。

『5時に夢中!』で、周防正行監督が言っていました。

「もともとサイレントは音がない状態として作られたんだから、この映画の脚本を読ませてもらうまで、サイレントは完全に無音の状態で見ていた」

私もそうです。だけど、映画の最後に稲垣浩の言葉が出ていました。

「日本では本当の意味のサイレント映画はなかった。弁士が説明していたから」と。

周防監督は、諸外国でも生伴奏つきの上映がほとんどで完全無音の状態で見ていた観客は世界中探してもいなかったんじゃないかと言っていました。


解釈を聴きたい映画ファン
つまり、当時の観客(特に日本の)は、映画そのものを見ていたというより、弁士の説明を聴きに映画館へ行っていたわけです。

ちょいと前の映画ファンが蓮實重彦の本を読みあさったり、いまの映画ファンが町山さんの言葉を聴きに行ったりするのと同じですね。

周防監督が言うように、完全無音の状態、つまり弁士の説明がなくてもサイレント映画の物語は理解できます。でも、当時の観客はそれでは飽き足らなかった。弁士の「解釈」を聴きたかった。

だから、同じ『椿姫』を悲恋物語として楽しみ、翌日には爆笑コメディとして楽しむという見方ができたわけです。

何が言いたいかというと……

映画の解釈というのは人それぞれであってよい、というごくごく当たり前のことです。

昔の映画ファンは弁士の説明を聴きたかった。
いまの映画ファンは町山さんなど権威ある人の意見をありがたがっている。

いまも昔も一緒じゃないか、と思うかもしれませんが、私はぜんぜん違うと思う。

だって、昔の人は同じ『椿姫』をぜんぜん違う物語として楽しんでますから。違う解釈を楽しむ度量をもちあわせていた。

それがいまでは、たったひとつの解釈しか許さないという狭量な人たちが跳梁跋扈している。ぜんぜん違います。

作者がこう言っているからその解釈は誤りであるとか、ある文献にはこう書いてあるからあなたの解釈が間違っているなどといって自分の解釈を押しつけてくるのは下品きわまりない。


映画体験はきわめて個人的なもの
『椿姫』にしろ『市民ケーン』にしろ、どう解釈しようとその人の勝手。その人にとってその映画がどういう映画だったか、それが大事なわけでしょ。

映画体験はきわめて個人的なものなのだから、『椿姫』を悲恋物語として見てもドタバタコメディとして見ても、その人の自由。

私は町山さんの『市民ケーン』の見方に驚嘆し蒙を啓かれましたが、映画そのものを見ると、やはりそういう映画には思えなかった。

友人は『アイアン・ジャイアント』を見て泣いたそうです。でも同じ映画を見た私はラストシーンで爆笑しました。

それでいい。







2019年12月03日

Netflix製作ながらアカデミー賞に絡むということで一週間限定公開のノア・バームバック監督最新作『マリッジ・ストーリー』。(以下ネタバレあります)


監督の仕事とは?
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いやぁ、実に素晴らしかったですね。

いまは仕事で疲弊しているので寝てしまいそうな予感がしましたが、とにかく脚本の出来がいいのも当然ながらあるけれども、とにかく主役二人の芝居がとんでもなく素晴らしく、眠気が完全に吹き飛びました。

スカーレット・ヨハンソンもアダム・ドライバーも芸達者な俳優であることは周知の事実でしょうが、この『マリッジ・ストーリー』は二人のこれまでのベストでしょう。あれだけの超絶演技を引き出したノア・バームバック監督の手腕が光る一作ですね。

そういえば、映画の専門学校時代、中国語圏の映画で監督のクレジットがなぜ「導演」なのか、という人がいて、「監督の一番の仕事は俳優から演技を導き出すことだからじゃないか」と答えると「あ!」といまさら気づいたかのような顔をしていました、監督した経験がある人ですよ。

別の監督経験のある友人も「誰それが演技賞を総なめしたのは監督の功績と言ってたけど、違うよな」と言ってきたので「何で」と答えると「ウソーー!」と飛び上がらんばかりに驚いていました。監督の一番の仕事は演技指導なのに。

溝口健二みたいに、芝居だけつけてどう撮るかは宮川一夫に任せても大丈夫。
ポール・バーホーベンみたいに「僕は編集はしないんだ。撮影が終わったら素材を編集マンに渡して出来上がりを待つ」と編集にまったく口出ししなくても大丈夫。

でも、演技指導を他の人に任せてしまったら、その監督は監督でなくなってしまう。演技指導する人が本当の監督。以上のような認識を映画作りを目指す人間がもっていないことに愕然となったものですが、それはまた別の話。

とにかく、この『マリッジ・ストーリー』でのノア・バームバック監督の演技指導は素晴らしかったと思います。

ただ……


芝居場でなぜカットを割るのか
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主役の二人が最後のほうで口喧嘩をはじめ、アダム・ドライバーが泣き崩れる素晴らしいシーンがあります。

二人の超絶演技の絶頂場面ですが、私は素晴らしいと思うと同時に、かなりの疑問を感じました。

それは撮り方。正しくは見せ方。

なぜ何度もカットを割ってしまったんでしょう?

アダム・ドライバーが泣き崩れるまで二人のエモーションが高まり続ける場面なわけだから、ワンカットで見せないといけないんじゃないですか?

二人のクロースアップなんかいらない。もっと引いた画でかつては愛し合った男女が男が号泣するまで激しい口論をするその様を「まさにいま目の前で起こっているかのように」見せてほしかった。そのためにはカットを割るべきではなかった。

『once ダブリンの街角で』という映画がありました。

あの映画でも、いままさに歌が生まれる瞬間をカットを割って見せていましたよね。なぜワンカットで見せてくれないのかと再見するたびに思います。

先述のとおり、この映画では不必要なクロースアップが多いと思いました。最後にアダム・ドライバーが息子と会話して落涙する場面だって、もっと引いた画でワンカットで見せてほしかった。役者の芝居を一番重視して抜群の演技指導を施しているのに、それを十全に楽しめる形で見せてくれない。

文句ばかり書きましたが、私はこの映画にアカデミー監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演女優賞、脚本賞を取ってもらいたいと切に思います。(脚本賞の受賞はほぼ当確のような気がしますが。少なくとも脚本家組合賞は取るかと)

なぜ作品賞は応援しないのかって?

やっぱりホームドラマが作品賞って違うと思うんですよね。『クレイマー、クレイマー』あたりからこじんまりした人間ドラマが作品賞を取ることが増えましたけど、アカデミー賞というお祭りにそういう映画はふさわしくないんじゃないかというのが個人的な意見です。


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