スクリーン

2020年09月06日

いつもは映画の時間的構成を研究するために時間を計りながら見る私が、ついに最後まで時計を見なかったハードボイルド映画『ブラック校則』、思う存分楽しみました。(以下ネタバレあります)

今朝感想を書いた『メランコリック』や最近の映画は邦洋関係なくグラグラ手持ちカメラが多くて辟易するしかない今日この頃ですが、この映画はちゃんと三脚にカメラを据えて、さほど動かさずに撮っているのが好印象。

しかも編集が絶妙なまでにうまい。特にシーンの終わり。余韻を残したくてカット尻を長くしたくなるようなところでも容赦なくスパンっと割って次のシーンに行くからテンポがいい。

かつて専門学校で編集をやっていた頃、監督が「もっと余韻を」と言ってばかりで、「いや、短く割ったほうが余韻が出る場合もある」といくら言ってもわかってくれませんでした。

『ブラック校則』は人物の感情に流されず、語るべきことだけを語り、見せるべきことだけを見せてくれる。この映画が「ハードボイルド映画」だと思うのはこの意味においてです。


まるで大島渚のような
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最近、瀬戸内寂聴先生の『97歳の人生相談』という本を読んだんですが、「青春は恋と革命」というフレーズがたくさん出てきます。この映画がまさしく「恋と革命」の映画だったので何とも胸が熱くなりました。

大島渚の初期作品に似てると言っては大げさかもしれませんが、でも、『愛と希望の街』や『青春残酷物語』に通底しているものがあると思います。まったく真逆で苦い結末に至る『日本の夜と霧』にたぎっていた政治と革命に賭けた青春の熱き血潮とも相通じるものがある。


ブラック校則についての映画にあらず⁉
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この映画の何よりの勝因は、劇中で扱われるブラック校則を「地毛が茶色でも黒く染めるか、地毛証明書を提出すべし」という一番有名なアレたったひとつに絞ったことですね。

いろいろ取材したら「こんな変な校則もある」「こんなえげつない校則もある」とレアな校則が出てきたんじゃないかと推察します。たぶん周防正行だったらそういう蘊蓄ドラマにしてしまったと思いますが、この映画の脚本家・此元和津也さんとその他プロデューサーや監督はそうしなかった。素材の新鮮さ・珍奇さよりドラマの充実に賭けた王道的な作劇が素晴らしかった。

この映画はタイトルどおりまさにブラック校則がらみのあれやこれやの事件が起こって最後に革命にいたる物語なわけですが、ブラック校則そのものよりも、そのような校則が罷り通っている学校の中での「政治力学」に的を絞っていて、とてもよかった。

政治力学とはつまるところ学校内の権力闘争の形を借りた「人間ドラマ」のことです。この映画を見れば人間が「政治的動物」であることがよくわかります。


権力をめぐる人物像
・でんでん、ほっしゃん。が演じる、学校内の秩序を保つことを唯一の目的と考えている「体制派」の教師たち。
・教師の中でも剣道部の顧問のように被支配者寄りの人間もいる。
・ほっしゃん。の体罰動画を撮影し、陰の権力者になるミチロウ。ミチロウに付き従うことで権力のおこぼれをもらっている二人の腰巾着。
・ブラック校則のせいで退学寸前まで行く希央(まお)という少女。自由のためなら現在も未来も捨ててもいいというやさぐれ特攻隊タイプ。
・希央の友人の外国人たち。彼らはこの国で冷遇されてきたため希央の気持ちがよくわかる。この外国人の存在はでかい。日本の学校の問題だからと日本人だけ出さず、自然とアメリカに隷従する日本という国の姿も浮かび上がる仕掛けになっています。
・希央に惚れたのがきっかけで革命を成就させる主人公の創楽(そら)と、創楽の親友で「面白ければ笑うよ(だから嘲笑はしないよ)」がモットーの中哉。

以上のような人物が織りなす政治力学=人間ドラマなんですが、何より素晴らしいのは、それぞれの人物の説明や人間関係の変化、ドラマの深化を「校舎の壁」たったひとつで見せたことですね。


校舎の壁ですべてを見せる!
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最初は「Farewell dear M」とだけ書かれた落書きが、新たな落書きを次々に呼び寄せ、画像のような落書きに発展するんですが、自由を渇望する創楽や中哉に同調する者もいれば、彼らを嘲笑する者もいる。

嘲笑というのは「マウンティング」ですよね。どもる生徒を嘲笑うのもマウンティングのひとつでしょう。でも中哉はそれだけは絶対しない。最初に「Farewell dear M」と書いたのは中哉ですが、マウンティングしてくる奴にさらなるマウンティングは絶対しない。

本当は誰もがブラック校則の理不尽さを身をもってわかっているはず。だから最初から全員主人公の味方。本当はマウンティングなどせず同調したい。でも人間はそんなに正直ではない。

先日読んだ池内紀さんの『ヒトラーの時代』では、多数派でなければ安心できない普通の人たちがナチスを支えた、と主張されていました。

マンガ『会社員でぶどり』ではブラック企業の論理にからめとられ社畜になることが「多数派」でそこに安住し、会社に文句を言いながらも隷従することのバカバカしさが告発されていました。

『ブラック校則』でも事情はまったく一緒ですね。誰もが最初から主人公や希央の味方なのに、少数派になることをおそれて彼らを排斥しようとする。そして、誰もが「いまどっちが多数派か」を計算している。創楽と中哉が多数派と見れば一気に宗旨がえするつもりなのでしょう。それが人間だよという徹底したリアリズム。厳しくて図太い映画だと思います。

そんなあれやこれやを「校舎の壁」だけで見せる潔さがとてもよかった。

最近の映画やテレビドラマでこういう話をやるなら、LINEやツイッターでやり取りされる言葉が画面を埋め尽くすとか、よくあるじゃないですか。ああいう手垢にまみれたことをせず、しかもSNSでどうのこうのというセリフすらない。実際は生徒同士でものすごいやり取りがなされているはずなのに、それを全面カットして校舎の壁ひとつに賭けた。これはすごいことだと思います。

しかも、校舎にこっそり落書きする生徒を教師が見つけそうになって……とか、そういうサスペンスもいっさいなし。メインテーマに関係ない描写には目もくれない態度には喝采を贈りたくなりました。


暴力を全面否定する「現代映画」
クライマックスは、希央の退学をめぐる職員会議を止めようと主人公が火災報知機を鳴らし、すべての生徒と教師が校庭に集うなか、ほっしゃん。が向かった放送室には「剣道未経験の剣道部顧問(主人公たちの担任」)が胴着を着て待っている。

ここは、おお! あのいかにも弱そうな担任がほっしゃん。を撃退してくれるのかと期待が高まりましたが、そうはならないというか、それを許さないのが少なくともいまの日本の現状なんだな、と。

私は「暴力が必要なときもある」というのが基本スタンスですが、それでは暴力を嫌ういまの観客には受け入れられないと作者たちが考えたのかどうかは定かじゃありません。ともかく担任はほっしゃん。にやられてしまう。代わりにミチロウがもっている動画が決め手となって革命は成功する。いまの時代に暴力革命はダメだよ、ということでしょうか。ここはちょいと複雑。

ところで、でんでんに対して緊張しまくって何を言うのか忘れたという創楽に「がんばれ、創楽!」という声がかかりますが、あれが誰が発した言葉なのかを明らかにしないのもいいですね。

だってあれは生徒全員の声だから。特定の誰かの声ではない。


ひとつだけ疑問点
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革命のあとは全員で仮装ということになります。どうしてこうなるのは見ていただくとして、みんなで校則違反というのはどうなんですかね。

多数派に安住するな、というメッセージを読み取っていた私はちょいと戸惑いました。このシーンでは「仮装してこない人間」のほうが偉いんじゃないの? と。

ん? そういえば、このシーンで希央が髪の毛を部分的に赤く染めてましたが、制服や顔面に文字を書いたりはしてませんでしたっけ? 見落とした。もしそうなら、希央こそが偉い! ということなんですね。しかし見落としたのは痛恨のきわみですばい。

脚本家の此元和津也さんも監督の菅原伸太郎さんも名前すら知りませんでしたが、これから要注目の才人と感じました。

素敵な映画をどうもありがとうございました。


(2020・9・6追記)
もう誰も撮れなくなってしまったアメリカ映画
かつてヴィム・ヴェンダースの名作『パリ、テキサス』について、脚本を書いたサム・シェパードが、

「これはアメリカ映画だ。もう誰も撮れなくなってしまったアメリカ映画だ」

と絶賛したそうですが、この『ブラック校則』もカットバックを主体にした古典的ハリウッド映画の作法で作られています。

しかも、クライマックスで創楽が「希央が好きなんだ」と全校生徒に向かって告白したとき、聞いているその他大勢の生徒たちとカットバックするのではなく、後者の裏で聞いている希央とカットバックするのが素晴らしいと思いました。

あそこでは告白を聞いて唖然となる聴衆は重要ではないという判断。簡単なようでいてこれはとても難しい。

いまはコロナでハリウッド映画がろくに公開されず欲求不満が募っていたところなので、こういう「精神的アメリカ映画」を見れて幸せです。


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『ヒトラーの時代』と『会社員でぶどり』

ブラック校則
でんでん






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2020年08月02日

T-レックスの歌声にのせた予告編を見て、見る気満々だったロシア・フランス合作の2018年作品『LETO -レト-』を見てきました。

が、これが残念ながらがっかり拍子抜けでした。


視覚的・聴覚的には……
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舞台は1980年代前半、つまり東西冷戦時代のレニングラード。国から禁止されている西側の音楽=ロックをこよなく愛し、アンダーグラウンドの世界で演奏をし、アルバムを売買している世界。

映画の感想を書くたびに同じことばかり言ってますが、意味のない手持ちカメラには辟易しましたが、基本的に白黒が好きなので視覚的には楽しめましたね。逆光の捉え方もうまいし、編集のリズムもいい。それに何よりナターシャというヒロインを演じる女優さんがかわいいので最後まで見れました。

音楽も、一番フィーチャーされたのがイギー・ポップの『パッセンジャー』ということで、イギー好きにはたまらなかった。

しかし……


なぜいま「80年代」なのか
いまロシアではプーチンが独裁政治を敷いていて、監督自身も軟禁状態らしく、大衆は自由を奪われている。そこで、同じように自由を奪われていたソ連時代に想いを託したのでしょう。それはわかります。(ロシア以外でもアメリカのトランプや中国の習近平など、ならず者が大国の指揮を執っている時代だからこそ、ということなのでしょう)

1917年のロシア革命で皇帝を処刑し、自由を獲得した。が、スターリンの台頭で全体主義がソ連全土を覆い尽くし、体制側の思想に染まらないはみ出し者は「粛清」された。自由を求めて革命を起こしたはずが、もっと不自由になり、圧政に苦しむことになった。

というのが、ソビエト社会主義共和国連邦の鬱屈だったはずですが、この『LETO -レト-』に登場する若者たちは、そのような鬱屈とは無縁のようです。愛する音楽を禁止する自国への恨みだったり、そういう国に生まれたことへのやりきれなさとか、そんなことをおくびにも出さない。

でも、それが一見不自然に見えないのも事実。しかしながら、不自然に見えない一番の理由は「政治権力が介入してこない」からですよね。

彼らのライブは当局が統制しているみたいな描き方をしていましたが、実際にはそうだったんでしょうけど、会場に警察が踏み込んできて逮捕されたりしてもよかったのでは? 史実を基にしているといっても半分くらいは脚色していると最後にテロップで出たし、実際に逮捕されなくても逮捕されそうになったり、逮捕されたけど脱獄するとか、それぐらいのことは見せてほしかった。


大きな物語=東西冷戦
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マイクというバンドリーダーとナターシャの二人に、ヴィクトルというアジア系(?)の若者が介入してきて……という恋愛物語は面白かったけど、やっぱりロックを題材にするからには「恋と政治と革命」じゃないといけないのでは?

前景で描かれる物語が「ロックを愛する若者たちのウロウロ」なのはいいけれど、後景には東西冷戦という「大きな物語」があるはずなのに、少しもそれが感じられない。冒頭で「80年代前半のレニングラード」というテロップが出なかったらいつの時代かわからなかった。

逮捕されたりするのはさすがにやりすぎかもですが、彼らが少しも政治的発言をしないのはなぜなんだろう? 政治のせいで当局の監視下でないとライブができないわけでしょう?

彼らを大きく支配しているのは後景の大きな物語なのだから、それと前景との関わりを少しも描かないというのは大いに不満でした。

もしかして……

「音楽に政治をもちこむな」
「映画に政治をもちこむな」

ということなんでしょうか。

そういえば、当ブログの読者さんにも映画の感想しか読まない人がいます。テレビドラマの感想しか読まない人もいるし、社会批評にカテゴライズしたものしか読まない人もいる。

こういうのは日本だけの現象かと思ってましたが、ヨーロッパでも「タコ壺化」が進んでいるのかしらん? 

などと思った梅雨明け直後の夕暮れでした。



Leto (Official Soundtrack)
Первое Музыкальное Издательство
2018-08-24




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2020年07月26日

城定秀夫監督の最新作『アルプススタンドのはしの方』がとんでもなく素晴らしかった。今年のベストワンという人がいるのもうなずけます。


残念なタイトル
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タイトルは残念でした。いや、この見せ方のことではありません。字体も色もいいと思う。

そういうことではなくて、『アルプススタンドのはしの方』の「方」は「ほう」にすべきじゃなかったか、ということです。

アルプススタンドのはしの方
アルプススタンドのはしのほう

上は最後だけ漢字なので少しだけバランスが悪いように思います。ま、好みの問題ですが。

そんなことより……


戦略
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アルプススタンドのはしのほうだけでドラマを展開させる企画はひとつの発明ですよね。(球場の中の廊下とかが舞台になったりもするけど)

もともとは高校の演劇部がやった舞台劇らしいですが、見事に「映画」になっていました。

その要因のひとつはやはり「カメラ」でしょう。


カメラ
私は常々「意味もなく手持ちカメラで撮るのやめて」と言っていますが、この『アルプススタンドのはしの方』は後半、手持ちで撮ったショットが散見されましたが(試合展開が動きまくるのに合わせていたのでちゃんと意味があった)前半の落ち着いたシーンはすべて三脚にカメラを据えて普通に撮っていました。それだけで好もしく思えてしまうのがいまの映画。内外問わず。

クレーンでググっと上がるショットもありましたが、基本的にアルプススタンドで接写しようと思ったらクレーンを使うしかないのかしら。

私が現場にいた頃はクレーンを1日レンタルすると100万かかると聞きました。いまはいくらくらいするのだろう。仮に同じ100万だとしても、10日借りたらそれだけで1000万でしょう? かなりの低予算映画みたいだからそのへんどうやりくりしたのかぜひ知りたい。

長回しを基本に撮られていますが、黒木ひかり(この子しか役者の名前がわからなかった)演じる吹奏楽部部長の久住がガリ勉で友だちのいない宮下にお~いお茶を差し出すところなど、ここぞというときはクロースアップの切り返しになる。

基本といえばそうですけど、最近は基本をおろそかにした映画が多いので、とてもうれしい。

カットを割るべきときしか割らない。かつての古典的ハリウッド映画はすべてそういう作法で作られていたはずですが、その遺伝子を受け継ぐ映画を久しぶりに見れて本当に幸せ。


見えないものが見える!
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『映像の発見』という名著中の名著を書いた松本俊夫監督は、

「映らないものを見せるのが映画だ」

みたいなことを言っていて、『映像の発見』を教科書にシナリオを書いてきたという荒井晴彦さんも同様の主張をしています。


矢野君が見える!
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『アルプススタンドのはしの方』で「映らないもの」といえば、当然のことながら野球の試合ですよね。そして重要人物でありながらついに登場しない「園田」と「矢野」という部員も映らない。

でも、映画を見ていたら彼らの顔が見えてきますよね。

エースの園田のせいで試合では絶対に投げられない控え投手だった藤野は「しょうがない」と野球部を辞めたところから物語が始まります。

強制的に応援しに連れてこられた演劇部の安田と田宮は、去年の関東大会で田宮がインフルエンザで出演できなくなり、台本を書いてその芝居に賭けてきた安田は「しょうがない」と自らを慰めている。

勉強しかできなくて学年1位だけが取り柄だった宮下は、黒木ひかりの吹奏楽部部長で園田の彼女に学年1位の座を奪われる。宮下は園田のことが好きなので恋敵に追い落とされた。それもまた「しょうがない」。

でも、劇中「しょうがない」などという言葉が辞書にない人物がいて、一人目が野球部の矢野。

彼はどうしようもない下手糞なのに人一倍練習に励む。藤野はそんな矢野を馬鹿にしている。でも9回裏の大事な局面で矢野が打席に立ちます。

ただし送りバント要員として。矢野は見事に監督の期待に応えて送りバントを成功させる。送りバントとは劇中でも語られるように、自分はアウトになって味方のランナーを進めること。矢野はおそらく送りバントの練習を必死にやってきたのでしょう。

そして田宮が「矢野君、すごくうれしそう」と言います。安田は「顔見えないじゃん」と突っ込みますが、おそらく矢野君は本当にうれしそうな顔をしていたと思う。それをカメラは矢野君には背を向けたまま、「矢野君、すごくうれしそう」という田宮の笑顔だけを捉えることで「映っていない矢野君」を見せることに成功している。お見事!


黒木ひかり=久住
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「しょうがない」という言葉を知らない人物二人目は、黒木ひかりの久住。

彼氏の園田にLINEを送ってもほとんど返事が来ない。うまくいっていないらしい。もう別れるしかないのか。最終回の前に一言送ろうとするけど、やめる。でも彼女は「しょうがない」とは思わない。やる気のない部員を叱咤し、LINEは送らないがもっと大きな音を贈ることにする。その決意と行動が素晴らしい。


厚木先生
喉が使い物にならないくらい大声を出して応援する茶道部顧問の厚木先生もまた矢野と同じ「しょうがない」を知らない人物でしたね。

「しょうがない」なんて言うな! という暑苦しい教師ですが、世界を変えるのはあのような人物だというのが作り手たちの信条なのでしょう。

演劇部の田宮、吹奏楽部の久住、そして厚木先生の三人によって、矢野君の顔や人となりが見えてしまう。これぞ映画のマジック!!

矢野君は練習の甲斐あってプロに入ったことがラストで示されますが、これはほとんどファンタジー。人生はそんなに甘いものではない。

でも、頑張れば報われるというファンタジーを映画というメディアが信じられなくなったら終わりだろう、というのもまた作り手たちの思想信条なのでしょう。


「しょうがない」は呪いの言葉
では、この『アルプススタンドのはしの方』という映画は、ファンタジーばかりを語っているのでしょうか? 現実的な不条理や理不尽さは描かれていないのでしょか?

まさか!

何度も上に書いている「しょうがない」がそれですよね。「しょうがない」は自らを縛り、自らを罠にはめる呪いの言葉だというのも、これまた作り手たちの思想信条なんだと思います。

『仁義なき戦い』を書いた笠原和夫さんは、

「枷は主人公の心のあり方にこそ求めよ」

と説きました。

まさに登場人物はみな「しょうがない」という心に巣食う呪いに縛られていました。でも、周囲から馬鹿にされる「能天気」な人間がそれを取り払う。

しょうがないと現実を見つめるより、もっとバカになろう。自分が犠牲になって周りを生かす送りバントしかできなくても、その先にきっと光が見えてくる。

それを信じられるか否か。おそらくその力を「才能」というのです。







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