聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

『孤狼の血』(役所公司のマル暴哲学がよくわからない)

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ついに見てきました、『孤狼の血』。
白石和彌監督では一昨年の『日本で一番悪い奴ら』をワーストに選んだので、嫌気がさして去年の『彼女がその名を知らない鳥たち』は未見。ただ、ロマンポルノリブートの『牝猫たち』がなかなかよかったし、久しぶりに生きのいい役所広司が見られそうだと楽しみにしていました。

実際、楽しかったですよ。ある程度までは。


役所広司のいいセリフ
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終盤、役所広司が松坂桃李に語る言葉がいいですね。

「わしら、綱渡りの曲芸師じゃ。じゃからの、警察側に落ちてもヤクザ側に落ちても死んでまう。死にとぉなかったら歩き続けるしかないんじゃ」

マル暴刑事の哀しい現実を如実に表していて秀逸。この直後、松坂桃李に両腕を突き出し、
「わしを逮捕して県警に突き出すか?」
というのは、半分冗談でしょうが、半分は本気だったんでしょう。「ここで捕まえてくれたら死なんですむ」あの両腕での拝み方はどっちとも取れる絶妙な味があってとてもよかった。

それから、放火、家宅侵入、暴行、でっち上げ、取り調べの女に○○させるとか、何でもやりたい放題の役所広司が中盤にとても大事なことを言いますよね。

「わしらの仕事はヤクザを生かさず殺さず、飼い殺しにすることとちゃうんか。ヤクザがスーツ着てネクタイ締めて堅気の連中にまぎれて地下に埋もれたらどないするの」

暴対法が準備されていた1988年(実質的には昭和最後の年)という時代背景がよく出ていますね。

ヤクザにはやりたい放題の彼も、監察官として自分のスパイをしていた松坂桃李には暴行もしないし恨み言も言わない。まぁ最初からわかっていたというオチがつくんですが(しかしあの阿部純子という女優さんはとても魅力的)14年前の殺しの疑いがかかっているからにはスパイもつくのが当然だろうという毅然とした態度には惚れ惚れしました。で、このあと、両腕を突き出して「逮捕するか?」のシーンになるわけですが……


役所広司の刑事哲学とは?
上記のような感じでヤクザに対しているのはよくわかります。しかし、あの呉原という街には三つのヤクザ組織がありましたよね。

尾谷組
加古村組
五十子組

五十子組の後ろ盾があって加古村組がのし上がってくる。役所広司は尾谷組に肩入れしてやりたい放題の捜査をやるんですが、これって「綱渡り」になってないじゃないですか。確かに警察かヤクザかという二元論には堕ちてないけれども、ヤクザの中だけにかぎれば完全に片一方に肩入れしてますよね。彼はヤクザみたいではあるけど、あくまでも「刑事」なのに。

「ヤクザは生かさず殺さず飼い殺しにする」のであれば、どちらかに肩入れしちゃだめでしょう。14年前の真木よう子の殺人を内々に処理したというのが動機? でも、それなら、それを盾に尾谷組のいろんな弱みを握れますよね。実際、真木よう子を使って警察上層部の弱みを握っていたわけですから。

ヤクザの中では、尾谷組の味方なのか、それとも加古村組の味方なのか、まったくわからない。
警察内部でも、県警上層部の敵なのか、それとも味方なのか。所轄の刑事たちだけは仲間かと思っていたら違うのかも……とか、真木よう子にすら「あの人、もしかしたら敵かも」と思わせるぐらいの。
警察にとってもヤクザにとっても「いったいあいつは誰の味方なんだ?」と疑心暗鬼にさせる、まるで鵺のようなつかみどころのない役柄でないと「孤狼」とは言えないと思う。


松坂桃李までトチ狂ってしまう
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役所広司が殺されたあと、松坂桃李が何とかしてくれるのかと思ったら、彼はまだ若いからなのか、役所広司以上におかしいことをしでかしてしまいます。

あろうことか、五十子組の組長にして呉原の長老役・石橋蓮司を殺すよう尾谷組の若頭・江口洋介に手引きしておきながら、身代わり出頭しようとした若い衆を差し置いて江口洋介を逮捕してしまう。

あんなことしたら松坂桃李も殺されるだろうし、もう警察とヤクザが完全に決裂してしまって永久に全面戦争が終わらないことになってしまうじゃないですか。数年後に暴対法が施行されるからいいってことですか? まさか!
問題がありながらもそれまでは何とか役者陣の好演もあって楽しんで見ていたのに、江口洋介を逮捕した瞬間は笑ってしまいました。いくら何でもそれはないでしょう。

役所広司の遺志を継ぐのであれば、身代わり出頭とわかっていても普通に若い衆を逮捕して、江口洋介に恩を売っておけば後々の役に立つのに。

最後の、役所広司のライターでタバコに火をつけるというのは、『CURE/キュア』へのオマージュってやつなんですかね。





ネトウヨへの対処法(『万引き家族』をめぐって)

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是枝裕和監督の新作『万引き家族』がカンヌ映画祭の最高賞パルムドールを獲ったことが世間を騒がせています。

私は「日本映画が受賞したからうれしい」という感情がよくわからないのですが、というか、むしろ是枝監督とは相性が悪いので自分は楽しめないんじゃないかなぁ、という不安のほうが強い。

いずれにしろ、またぞろ「日本スゴイ!」案件が来てしまったなぁ、と思っていたら思わぬ伏兵がいました。

「万引きして生計を立てている家族を主人公に描いた映画など国賊映画だ」とか「コレエダとかいう奴は在日に違いない」とか言ってるネトウヨさんたち。なるほど、そう来たかと。


『壁の中の秘事』
かつて若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン映画祭に出品されたとき、同作がポルノ映画ということで「国辱映画」と言われたそうですが、あのときの騒動もこんな感じだったのかなぁと。

見てから言えや、というか、おそらく劇中で描かれる一家は生活保護を受けたくても受けられないから万引きしているのでしょう。不正受給を許さないと息巻く人たちとネトウヨさんたちはおそらく同じ人たちだと思いますが、あなた方が生活保護の基準を厳しくするから作家的想像力によってこういう一家が生み出されたわけだから、この映画が反日だというなら、あなた方も反日では?

と言いたくなるんですが、映画を見てもないのに非難するなんて、と先日ツイートしたばかりなので内容について云々するのはやめましょう。


もしカンヌで受賞していなかったら
『万引き家族』はちょっと前から予告編やってるし、当然ユーチューブにもあるだろうし、新聞、雑誌、ネットその他で宣伝されてるはずだからカンヌの発表前にすでに知ってる人は知ってましたよね。それがパルムドール受賞となったら途端に「万引き家族映画なんて反日的だ!」となる。

もし同じ金賞でもカンヌじゃなくてロカルノ金賞とかだったらそんなに吠えないんでしょう。だって大したニュースにならないから。

逆に、『万引き家族』という邦題をもつ中国映画や韓国映画がパルムドールだったらどうか。これについてもあまり騒がないはずです。日本のマスコミは日本映画が受賞しなければあっさり伝えるだけですからね。

つまり、ネトウヨって大きなニュースに乗っかってるだけなんですね。いろいろ言いたい放題言ってるように見えて、自分たちの発言で世間が騒ぐような案件にだけヘイト運動をする。

決して自分たちでネタを探してきてるわけじゃない。メディアの記事や有名人の発言に乗っかってるだけ。もしそうじゃないのであれば、出品作に選ばれた時点で騒がないとおかしい。

彼らは自分たちの狂騒をメディアが取り上げてくれるのを待ってるだけだから、相手にしてはいけないと思う。

私も頭がカッカしてしまい、今朝方、ネトウヨさんたちに真剣に反論するツイートや、嗤うツイートなどをリツイートしてしまいましたが、いまは削除しました。彼らが一番痛いのは無視されることでしょう。もちろん、同じ思想の人たちからはリツイートやいいねをたくさんもらえるんでしょうけど、たぶん、彼らに最もエネルギーを備給するのは、私たちのような反ネトウヨの冷静さを欠いた反論のような気がします。これまでにも、反論した人間を「在日」と指差すことで溜飲を下げていましたから。

だから、「ネトウヨはけしからん」という論旨のつぶやきをしない、文章を書かないことが一番肝要だと思いますね。今後同じようなことが起こった場合は、「相手にしない」「完全無視」これ以外にないと思いますね。何事もなかったかのように通り過ぎましょう。

至極当たり前のように見えて、これって実は難しいと思います。みんな頭カッカしてすぐ反論しちゃいますから。

↓実際に映画を見た感想はこちら↓
『万引き家族』(我々はみな許されざる者である)


ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件

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ベネディクト・カンバーバッチが「これから仕事をする現場で、男女が同額のギャラを受け取っていない場合はその仕事を断る」と発言したらしいですが(→こちらの記事)やはりこの男は底が浅いと思いました。というか、まるで自分は純粋なフェミニストみたいに言ってますが、もしかすると無意識の女性差別主義者かもしれないな、と。


なぜ「同額」なのか
記事には「給料や機会の平等こそフェミニズムの根幹」とありますが、半分は間違いです。
確かに「機会」は平等でなくてはいけません。でも「給料」はその人がやった仕事に対する対価なのだから「結果」じゃないですか。機会という「入口」と結果という「出口」を一緒にするのは明らかな間違いです。
能力や成果に応じてギャラは変動するのが普通。入口は誰にも平等に開かれていないといけないけれど、出口が平等っておかしいでしょ。能力が高くて成果も高かった人が、低かった人と同じであってはいけない。特に映画界なんて実力が何よりものを言うんだし。

格差はあるのが当たり前です。格差があるのが問題なのではなく、格差が固定化することが問題のはず。貧乏人の子どもは絶対金持ちになれないとか。しかし、「男女同額」というのは「固定化」に一役買うことになりませんかね?

確かに、これまで男優のほうが女優よりギャラが高額だった傾向が高いのは否めません。能力云々に関係なく「男だから」というだけで女性より給料が高い。これは映画界にかぎった話じゃないと思うし、それを是正するのはとても大事なことです。

しかしそれならば「能力の高い女性は能力の低い男性より高いギャラをもらってしかるべき」とならねば論理的におかしい。なのになぜ「同額」なんでしょう?

カンバーバッチの底が浅いというか、かなり問題だと思うのは、「女性が男性より能力が高い可能性」を最初から排除していることです。それは「無意識の女性差別」と見て間違いない。


テニスにおける男女格差
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テニスでは、ちょっと前まで男女の優勝賞金に差がありましたが、いまは四大大会はすべて男女同額らしく、それより下の大会でもすべてそうなのかは知りませんが、40年前とかは男子のほうが数倍も多かったらしい。

だからといって、まったく同じにする必要なんてないと思います。
優勝賞金って何よりもチケット収入が主な財源なんだから、男子の試合に観客が多ければ男子に多く払い、女子の試合に観客が多ければ女子に多く払えばいいだけの話では? 前年度の男子と女子の観客動員の比率をその年の賞金額の比率と同じにする、とか。

実際には、男子の試合の集客率のほうが3倍ほど高いようです(私は女子のテニスのほうが面白いんですけど、そう思って見ているのは少数派とか)。ただ、大会によってばらつきがあるはずなので、男子が女子より3倍の観客を集めたのなら賞金も3倍にすべきだし、2倍なら2倍、1.5倍なら1.5倍。当然、女子が男子より2倍観客を集めたのなら女子が2倍もらうべきです。「男女平等」ってそういうことじゃないの?

だからやっぱり問題は「固定化」なんですよ。すべてを流動的にすればいい。

それから、フェミニストとか男女平等論者がずれてるなぁと思うのは、「男女が平等であればそれでいい」と思っていることなんですよね。

テニスにおける格差は男女だけではありません。
シングルスとダブルスの格差は男女の格差以上です。そりゃそうだと思います。私もシングルスは好んで見るけれどもダブルスなんてほとんど見たことないですから。観客が呼べないのであれば賞金は少なくて当たり前でしょう。しかし、男女平等論者は「男女の格差は許せない」と息巻くのに、シングルスとダブルスの格差には何も言わない。「結果」の平等を問うのであれば、どちらにも反対の声を上げないといけないはずなのに。


「政治的正しさ」は両刃の剣
いまの世の中、「政治的正しさ」こそが正義と思っている人が多いようですが、それは「手段」にすぎないと思う。男だからという理由だけで高額のギャラをもらうのはおかしい。そこに「男女平等」という政治的正しさをもちだして是正していくのは大事なことです。でも、それが「目的」になってしまったら「男女同額」という歪んだ平等主義に行き着くしかない。女性が男性より能力が高い場合でも、男性と同額のギャラしか受け取れなくなってしまいます。

政治的正しさというのは、だから両刃の剣なんです。そんな危険なものはあまり振り回さないほうがいい。

繰り返しますが、「男女同額」という発想の根底にあるのは「女性が男性を上回る可能性などない」という女性蔑視の思想です。


『鬼の棲む館』(神話・宗教・時代の三位一体)

日本映画専門チャンネルでやっていた『鬼の棲む館』。これがべらぼうに面白かった。神話と宗教が絡み、男二人の「英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー」が時代背景とともに見事に描かれています。


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1969年大映作品『鬼の棲む館』
原作:谷崎純一郎『無明と愛染』(「あいぞめ」ではなく「あいぜん」です)
脚本:新藤兼人
監督:三隅研次
出演:勝新太郎(無明の太郎) 
   高峰秀子(楓)  
   新珠三千代(愛染)  
   佐藤慶(高野の上人)




時代背景
まず、高峰秀子演じる楓が「頼もう」と荒れ果てたお堂を訪ねる場面から始まります。そこに住んでいるのは無明の太郎と言われる盗賊とその愛人の愛染。楓は太郎の妻なんですが、愛染に寝取られたと。それで太郎と奪い返しに来た。

そんな楓の気持ちなどお構いなしに、太郎は京へまたぞろ金目のものを盗みに行くと言って出かけます(このとき薪代わりに仏像を叩き斬るのが後半に向けての伏線ですね)。京はひどい戦乱にまみれていて、応仁の乱の時代なのかな、と思いましたが違いました。

太郎がいない間に佐藤慶演じる高野の上人が一夜の宿を求めて訪ねてきます。このとき「京方と吉野方が……」と語っていて、なるほど、南北朝時代なのかと。

鎌倉末期の直後で南北朝時代が舞台というのがこの映画のミソですね。鎌倉末期から持明院統と大覚寺統の間で「両統迭立」の状態にあり、その末期に後醍醐天皇が現れて南北朝時代に突入。皇統が分裂していた時代でした。

この時代背景は後半の展開にかなり大きな意味をもってきます。


英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニー
楓は上人に語ります。
かつて荘園名主だった太郎は戦火で荘園が潰れたために京へ出てきて愛染と出逢い、その愛染によって暗黒面に落とされた。楓はそんな太郎を奪い返しに来たのだと。しかし、実際は愛染に復讐したい気持ちのほうが強いようです。。

そこを上人は鋭く突きます。愛染を「鬼」と罵る楓の心にもまた鬼が棲んでいると。鬼は多かれ少なかれ誰の心にも棲むものだ、というのが真言宗の考え方かどうかは知りませんが、少なくともこの上人の思想ではあるらしい。

では、なぜこの上人はそのような思想をもつに至ったか。やはり上人自身がかつては暗黒面に堕ちたアンチヒーローだったことが大きいのでしょう。
いまは出家して英雄の旅=ヒーローズ・ジャーニーを歩んでいる。かつての自分のような太郎に出会い改心させようとする。が、上人もまた太郎と同じくかつて愛染の誘惑に負けた弱い人間だったことが判明します。上人はかつて貴族で、愛染にそそのかされて人を殺めたことが語られます。太郎と上人は同じ穴のムジナというわけです。そして、再び愛染が色仕掛けで上人に迫る。

で、こんなことになってしまいます。

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己に負け、仏の道を誤った上人は舌を噛み切って自殺します。英雄の旅を完遂できなかった上人の胸中を察するととても悲しい。


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しかし、「仏も私のカラダに負けた!」と高らかに笑う新珠三千代を見た勝新は発作的に彼女をぶった斬ります。そして、上人の遺志を継いで、妻の楓とともに出家をする。

このへんの展開はとってつけたような感じが否めませんが、上人が堕落する直前、太郎が上人の念仏によって黄金色の仏像の強い光に負けたという事実が、彼をして上人の死に様に「仏性」を見えさせたのでしょう。鎌倉仏教が花開いた直後でまだ末法思想の名残もあっただろう時代。しかも、いつ終わるかわからない戦乱の世だった、という時代背景も関係しているかもしれません。


南北朝時代の意味
時代背景の意味がこれでもうわかりましたよね。
かつて太郎は楓と幸せな生活を送っていたけれど、愛染と出逢うことで暗黒面に堕ちた。
その愛染によって暗黒面に堕ちていた上人はそれゆえに仏に道に入って暗黒面から脱却した。
その上人が再び愛染によって暗黒面に堕ちたがゆえに、太郎は暗黒面から脱却した。

上人と太郎はどちらもヒーローズ・ジャーニーを歩んでいますが、どちらかがヒーローのとき、もう片方はアンチヒーロー。

両雄、並び立たず。両統迭立から南北朝へと皇統が分裂していた時代というのがうまく活かされています。

京が戦火の焼かれている時代というだけなら応仁の乱でもいいような気がしますが、やはり皇統分裂のこの時代のほうがテーマがより明確になるという計算なのでしょう。
ただ、両統迭立や南北朝の分裂というのが、愛染のような女の魔性によって引き起こされたものかどうかは浅学のためまったく知りません。


クライマックスで大事なこと
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クライマックスで大事なことは、愛染を斬った太郎がその死骸に抱きつき、号泣することでしょう。
ちょっと前まで愛し合っていた仲だから、ということではないと思います。発作的に斬った、ということへの悔いでしょう。

太郎は上人が死んだ時点で仏の心が芽生えていた。ならば、彼が愛染を暗黒面から救い出し、新しい英雄の旅に歩ませなければならなかったはず。それを気持ちはわかるが発作的に斬ってしまった。救い出すことができなかった、ということへの悔恨と謝意の表れと解釈するのが私流の見方。

彼女は最初から最後まで、ヒーローとアンチヒーローを循環的に行き来するキャラクターではなく、ユング心理学でいうところの「身体のアーキタイプ」なのかもしれません。いや、確実にそうでしょう。ヒーローを暗黒面へ転落させる役どころ。決して変化しない。

だから「鬼」なのでしょう。しかし「鬼は誰の心にも棲んでいる」のです。上人も己の鬼に負けた。太郎も負けかかっていた。太郎を救いに来たはずの楓も鬼退治という妄執に囚われた鬼に成り下がっていた。

だから、愛染は決して身体のアーキタイプではなく、アンチヒーローだと思います。それはヒーローに変容する可能性を秘めた存在ということです。そう考えないと「誰の心にも鬼が棲んでいる」と言った上人が浮かばれません。魔性にだって仏性はひそんでいるのです。それが釈迦の教えだったはず。

だから、太郎のアンチヒーローからヒーローへの変容は、きっかけは上人の死ですが、それだけではまだ完全ではなく、愛染を斬ってしまったことで完全なる変容となったのだと思います。

仏教、それも大乗仏教の国だからこそこういう映画が作れた。キリスト教などの一神教を信仰する人にこういう物語は作れない。私は日本人としてこの映画を誇りに思います。

ただ、惜しむらくは、高峰秀子の役どころがやや狂言回し的なところで終わってしまったところでしょうか。冒頭など、あの勝新をも圧倒する横綱相撲ぶりに瞠目していたんですが、だんだん影が薄くなってしまって……。
太郎の変容はしっかり描かれますが、楓の心に棲む鬼がどうなったか、その顛末が描かれないのはとても惜しいと思います。



『アイ、トーニャ』(暴力の面から考察してはいけない)

トーニャ・ハーディングがナンシー・ケリガンを暴行させた(と言われる)スキャンダルを描いた話題作『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』。

この映画は、トーニャ・ハーディングを徹底して「かわいそうな人」として描くことが主眼のようですが、私はまったく納得がいきません。

いや、別にハーディングが嫌いとか、元夫とそのお友達のケリガン襲撃をまったく知らなかったなんて嘘だろう! なんてことも思いません。

事件のことはリアルタイムで知っていますし、私は判官贔屓の強い人間なのでどちらかといえばハーディングに同情的だったような気がします。(うろ覚えですが)

ケリガン襲撃事件は、いろいろ話がこじれた結果だったと。そういう立場を取るならそれでいいですが、それでは本当に「トーニャ・ハーディングはかわいそうな人でした」ってだけの話じゃないですか。

母親から暴力を振るわれていたことも、とんでもないDV男と結婚してしまうことも、彼の友達に頭のおかしな人たちがいたということも、どれもこれも「彼女はかわいそうな人」と言うための道具ですよね。

貧しい家庭に生まれ、金がないから衣装にもお金がかけられない。審査員に「衣装代に5000ドルくれたら自分で作らなくていいのに」と文句をつけていましたが、あそこをもっと掘り下げるべきでは?



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私はかねてから「フィギュアスケートはスポーツじゃない」と思っています。なぜなら、人間の主観で点数が決まるから。「芸術点」という言葉がすでにスポーツではないことを暗示してるじゃないですか。そして、この映画を見てその感を強くしました。

だって、きれいな衣装を着ていたらそれだけで得点が高くなるんでしょう? そんなのスポーツじゃない。音楽によっても変わってくるし、やはりあれは「芸術」でしょう。そりゃ「スポーツ」の側面もあることは否定しませんよ。

トーニャ・ハーディングの悲劇は「フィギュアスケートを純粋なスポーツとしか捉えていなかった」ことにあると思います。母親も、夫も、周囲の人みんな含めて。

貧しくて幼い頃からクラシックを聴いたり、オペラを見たり、美術展を見に行ったり、そういう体験がまったくなかったわけでしょう? でもスケーティング技術は抜群。それならなぜフィギュアスケートだったんでしょうか? スピードスケートだったらよかったのに。

ハーディングはアメリカ人で初めてトリプルアクセルを成功させることに執着して見事に成功させます。運動神経やスケーティング技術、精神力は申し分ない。でも、どうしてもそれだけでは高い得点が得られないのがフィギュアスケートという競技。



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だから、この人がなぜ娘にフィギュアスケートをやらせようとしたのかがわからない。上流階級の連中を驚かせたかったのか、何なのか。

スピードスケートをやらせていたらあんな事件は起こらなかっただろうし、栄光の金メダリストになれていたかもしれない。衣装に金をかけなければ優勝できないと知っても、貧しいこととろくな芸術に触れたことがない育ちの悪さが影響してトリプルアクセルを飛ぶことしか頭にない。

これらも「彼女はかわいそうな人」という主張の一助にはなっていますが、私は作者が主人公に同情しているだけの映画を面白いとは思えません。

フィギュアスケートを完全なスポーツと捉える主人公と、芸術的側面を重視するお偉方の葛藤劇をもっと掘り下げてほしかった。まだ関係者はみんな存命みたいだから、もっと突っ込んだ取材をして作ってほしかったと思います。

特に母親は主人公に最も影響を与えた人物だし、フィギュアスケートをはじめさせたのも彼女。

どうしても暴行事件が目玉だからか、母親も夫も「暴力」ばかりが前景化するよう描かれてますが、それは違うんじゃないの、と。暴力が原因で主人公が悲劇に遭遇した。それじゃやっぱり「同情」ですよね。

彼女がケリガン暴行事件のことを知らなかったという立場を取るなら、暴力の面から考察してはいけないと思いました。


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