映画

2019年07月07日

大絶賛御礼の映画『新聞記者』を見てきました。非常にタイムリーな映画と聞いていたのでずいぶん期待していたのですが、これがトンデモ映画のお手本のような作品でした。

1015762_01

外務省から内閣情報室に出向している杉原(松坂桃李)が元上司・神崎(高橋和也)の自殺をきっかけに政権の闇を暴くべく、機密資料を新聞記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)にリークする。

というのが全体のあらまし。

このあらまし自体がよくないとは思いません。が、それをどうプロットとして組んでいくか、はたまた、「機密資料」とは何なのか、といったことがあまりにあんまりなので白けてしまいました。


勧善懲悪でいいのか
AS20190703003229_commL

主人公が勤める内閣情報室。こんなに薄暗いって変でしょ? 「ここは悪の巣窟です」という印象操作(誰かさんのお得意の言葉ですね)にしか感じられない。

この映画では、政権側は全員悪人で、それを暴こうとする主要人物がすべて善人という設定になっていて、善が悪を懲らしめる内容になっていますが、それって都合の悪い人間を情報操作で社会的に抹殺する官邸と何が違うというのでしょうか? 

しかも、極秘資料というのが「大学の名を借りた生物兵器の研究所」というトンデモ設定。

そこまでして官邸を「悪」の設定にするのは、単にこの映画の原作者や彼女に共鳴するリベラル派の人たちが、映画の中だけでも政権に煮え湯を飲ませて溜飲を下げようという歪んだ欲望としか思えない。反政権を唱える人物を反日分子だと決めつけ攻撃するネトウヨと何が違うというのでしょう。

以前、私が書いたシナリオを読んだ高名な脚本家がこんなことを言いました。

「君は『善と悪』の対立で葛藤を作ろうとしている。それじゃダメなんだ。悪の側が作為的な悪になってしまうし、そもそもの問題として『善と善』の対立にしなきゃいけない。どちらの言い分にも理がある。そうしないと深みのあるドラマは生まれない」

この『新聞記者』はトンデモ設定を根幹に据えたためにドラマ全体がものすごく安っぽいものになってしまっています。


国民が出てこない
この映画では、政権のスキャンダルを暴きたてて倒せば問題がすべて解決する、みたいになっていますが、本当にそうでしょうか?

前川喜平さんや伊藤詩織さん、加計学園の問題、公文書改竄など映画と同じいろんなスキャンダルが現実に起こりましたが、内閣支持率はいっこうに下がりません。支持し続ける国民が多数いるのです。

国民の支持というのが「政権側の理」ですよね。だから、主役の新聞記者は政権のトンデモな悪を暴くのではなく、政権を支持する国民と対立させないといけなかったんじゃないでしょうか。

れいわ新選組の山本太郎の動画を見ていると「この国で一番偉いのはあなたたち国民ですよ」といつも言っています。でもこの『新聞記者』ではそういう言葉や思想は皆無でした。聞こえてくるのは、ただ「あいつらをやっつけたい!」という声だけ。

そういえば政治家も出てきませんよね。官僚ばかりで。政治映画なのになぜ?


松坂桃李の動機は?
48059586012_a378a47222

松坂桃李が自分の社会的生命を賭けてリークする動機もよくわかりませんでした。直前に子どもが生まれますが、流れとしては「この子のためにもこの国をまともにしなきゃいけない」という思いを感じました。そして「向こうが誤報だと主張したら僕の実名を出してもらって結構です」とまで言う。なのに記事が出たあと上司の田中哲司から出産祝いを渡され「外務省に戻りたいならいまもってる情報は全部忘れるんだ」と言われて目が泳ぐ。

あれは結局、子どもが枷になってシム・ウンギョンを裏切るということを暗示しているんでしょうか? だとしたらそれまでの流れは何だったの? というか、子どもを人質に取られることぐらい簡単に想像がついただろうに。

逆に、もし最後の表情がシム・ウンギョンと最後まで共闘するという決意だったのなら、なぜ田中哲司から「この記事は君じゃないよな?」と言われたとき「私です」とはっきり答えなかったのか。「外務省に戻りたくないのか」と訊かれたとき「結構です」となぜ答えなかったのか。それ以前に、資料をリークした時点で辞表を出すんじゃないですか、普通は。クビや左遷は覚悟の上なら自分から辞表を叩きつけてくれたほうが見ているこちらは喝采を贈ったんですが。


羊の絵
物語を推進する役目を担った羊の絵はよかったですね。映画なんだからやはり「画」で勝負してほしい。

とはいえ、あの絵が子どものために描いた絵じゃなかったらシム・ウンギョンは神崎の家に入れてもらえなかったわけでしょう? ちょっとご都合主義な感じがしました。それにもとの羊の絵と違う点があって、サングラスをかけてるみたいに目だけ黒く塗りつぶされてましたが、あれはどういう意味があるんでしょうか? 国民は盲目だという意味? それならそれを匂わすセリフを生前の神崎に言わせておかないと観客に伝わらない。

というわけで、今年のワースト候補がついに登場。といった感じですね。ベストワン候補がまだ登場していないのに。。。


補遺
「善と善」の対立がわからないという方はこちらの記事を参照してください。⇒『トイ・ストーリー3』(「善と善」の対立とはこれだ!)






  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年06月24日

サミュエル・フラー監督の1963年作品『ショック集団』を約25年ぶりに再見しました。初見時はそれほど面白いと思わなかったんですが、今回は異常なまでに面白く、若かりし頃の不明を恥じたくなるほどでした。

とはいえ、この映画は何とも奇妙なんですね。脚本構成がものすごく変というか、いや変だからダメだというんじゃなくて変だからこそ傑作になったと思うのです。(以下ネタバレあります)


ShockCorridor32

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

これが物語のあらましですが、これは「あらすじ」ですね。「プロット」ではない。プロットというのは「運び」のことで、観客が知る情報を順に出していかねばならない。


脚本にひそむ大いなる矛盾
上記のあらすじがプロットと決定的に違うのは「ジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために」というところです。彼がなぜ精神病院に潜入するのか、素晴らしい記事を書いてピューリッツァ―賞を受賞するためと語られますが、「何を調べるのか」については伏せられています。詳細を忘れていた私は「精神病院の内情を告発する記事を書くつもりなのかな?」と思ったほど。

実際に入院してから「殺人事件があった」「スローンという人間が殺された」「目撃者がいる」という情報が小出しにされます。しかし、スローンという人間が患者なのか、看護人なのか、医者なのか、はっきり説明されません。最後に患者だとわかりますが、それまではどういう人が殺されたのかわからない。いつ(朝か昼か夜か)どこで(病室か治療室かトイレか廊下か)殺されたのかについては最後まで何の説明もありません。


ShockCorridor4
(このショットの独特の触感!)

最終的に、新聞記者をペテン師だと言って目の敵にしているロイドという看護人ではなく、いつも柔和な笑顔で人畜無害な印象を与えるウィルクスという看護人が犯人であることが判明します。「ウィルクスが殺した。あいつは知能障害の女を慰み者にしていた」という証言を得て、主人公はウィルクスに暴行し、白状させます。

これ、すごく変ですよね? 
だって、主人公自身がウィルクスが犯人と聞いたあとに記憶をなくし、「俺が犯人だ」「いや院長だ」「いやキャシーだ」と言ってわけがわからなくなる。だから「ウィルクスが犯人だ」という証言だってまったくの妄想かもしれないわけです。なのに主人公はそれを100%信じて自白を得る。


ShockCorridor1

この映画は主人公が狂っていく過程を丁寧に追っていきます。中には黒人なのに白人至上主義者だと言って他の黒人にリンチを加える患者もいる。患者の言うことは信用ならないというのを基調にしながら、こと殺人事件の証言だけは100%真実であるという立場を取っています。

もう一度言いますが、だからダメな映画だと言いたいわけではありません。このような矛盾した立場を採用した結果、『ショック集団』という映画は傑作サスペンスになったと考えます。

では、なぜサミュエル・フラーはこのような変な考え方で脚本を書いたのでしょうか?


メインプロットのネタバレ
ShockCorridor32

もう一度、上記のあらすじを記しましょう。

「新聞記者のジョニー・バレットは殺人事件の謎を解くために恋人キャシーの反対を押し切って統合失調症を装い、事件のあった精神病院に潜入する。そこで目撃者たちの証言を聞くうちに、彼自身が本当に狂ってしまう」

殺人事件の真相はサブプロットであり、あくまでもメインプロットは「狂人のふりをした主人公が本当に狂ってしまう」という、典型的な「ミイラ取りがミイラになる」物語です。

恋人のキャシーは、最初からこの計画に反対します。彼がほんとに狂ったらどうするのかと。

つまり、メインプロットのオチは最初からばらされているわけですね。「最終的に主人公はほんとに狂っちゃうんですよ。この映画はミイラ取りがミイラになるお話ですよ」とファーストシーンでばらしている。

だから、メインプロットの興味は結末ではなく、過程にこそあります。その過程には何があるかと言えば、「犯人は誰か」というサブプロットです。

メインプロットのオチはばらしているからサブプロットの謎で引っ張ろうという計算なわけですね。

ただ、メインプロットの過程、つまり「どのように狂っていくか」というのをみっちり描写するためには、他の患者たちの狂っている様を入念に描かなくてはいけない。サブプロットも大事ですが、メインプロットの過程そのものを入念に描くことのほうがよっぽど大事。犯人捜しを入念にやるとメインプロットがメインプロットでなくなってしまうという危惧があったのでしょう。

だからサミュエル・フラーは「もしかすると患者の証言は妄想かもしれない」「だから裏付けを取らなければ」「でもその裏付けも妄想だったら……?」という「世界の原理」が入ってくると、映画全体が煩雑でわかりにくくなってしまうと考えたのだと思います。

「患者は嘘ばかり言っている。でも事件に関する証言だけは真実である」という「映画の原理」を採用した。この決断はすごいと思います。だって完全に矛盾してますから。でも矛盾していていいんだ、矛盾を解消しようとすれば冗長な映画になってしまうから。

この勇気ある決断のおかげで、精神病院の内実や、患者たちの生活が詳細に描写され、そんなところにいたら正常な人間も狂ってしまうというメインプロットに説得力が与えられます。一方でサブプロットの殺人事件の謎はいとも簡単に解決され、100分というちょうどいい上映時間で幕を閉じることができたわけです。

こういう「映画の原理」を勇気をもって採用できるからこそサミュエル・フラーは「B級映画の巨匠」と呼ばれるんだな、と認識を新たにした次第です。


ショック集団(字幕版)
ピーター・ブレック
2017-09-06









  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年06月21日

もう15年以上前のことですが、『インファナル・アフェア』が公開されたとき、うちの親父がこんなことを言いました。

「素晴らしかった! 香港映画ってジャッキー・チェンしかないのかと思ってたけどこういうのもあるんやね」

いやいや、ジャッキーの前にはブルース・リーがいるし、後にはチョウ・ユンファにチャウ・シンチー、ジョン・ウーにウォン・カーウァイなどいっぱいいるぜよ!

なんてことはもちろん主張していません。仮に香港映画界にジャッキーしかいないとして、その何がいけないのか、と心の中で毒づきました。ジャッキーだけでも充分すごいじゃないかと。

でも親父は映画ファンだから別にいいのです。楽しむためにお金を払っているのだから、ジャッキー・チェンなんかつまらないと断じてもそれはそれで尊重せねばならない。

私はイーストウッド作品やヒッチコックの信奉者だけれど、イーストウッドなんか面白くないという人の意見は尊重せねばならない。いつも気に入らない映画は容赦なく貶している私のような人間は、人一倍反対意見を尊重せねばならない。でないと自分の意見を言えなくなっちゃう。

しかし、映画作りをしている人、これから志そうという人がジャッキーを貶すのは我慢ならないというか、そんな輩に映画を作る資格なんかない! というのがこの記事の主旨です。

これがジャッキーじゃなければいいんですよ。「ヒッチコック好きは無能な映画ファン」と断じるタランティーノの意見はそれはそれで傾聴に値するものでしょう。

しかし、ジャッキーだけは別です。なぜかって? 答えは簡単。


JackieChan1

老齢と言っていい最近の作品はともかく、若い頃は一歩間違えば死ぬシーンをノースタントで演じていました。再起不能かと言われるほどの事故に遭っても、治ったらまた同じことに精を出す。文字通り映画作りに命を懸けていました。

そういう姿を見て素直に「すごい!」と思えないような人に映画を作る資格はありません。こんなことは小学生でもわかる理屈です。

でも、多いんですよね、映画人志望者でジャッキー・チェンを軽侮する人。

私が通っていた映画の専門学校でもそういう人はいました。上記のような話をして、「ジャッキーを軽く見る奴はいますぐやめるべきだ」と言ったら暗い顔でうつむいた人間が何人もいました。

あるレストランでバイトしてたときも映画監督志望者がいましたが、「ジャッキー・チェンなんかダメですよ」と言ったので、上記のようなことを滔々と述べて叱ったら真っ赤な顔をしてうなずいていました。(言いたいことはたくさんあったんでしょうけどね)


JackieChan2

とにかく、ジャッキーに限らず、映画作りに命を懸けている人間を軽く見る者に映画を作る資格はないと断言します。




  • このエントリーをはてなブックマークに追加