聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

黒沢清の言葉(物語を読むことについて)

ちょうど10年ぐらい前のことをふと思い出したので書きます。


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大阪のシネマテークで黒沢清監督特集上映がありまして足繁く通っていたんですが、そのとき、そのシネマテークの館長で『地獄の警備員』の脚本家でもある富岡邦彦さんを交えたトークショーがあったんですね。

司会の若者二人は関西を拠点に活動する映画批評家とかでまったく名前の知らない人でしたが、蓮實重彦の表層批評にかなり影響を受けているらしく、そのときちょうど上映されていた『叫』の映像がすごいすごいと二人だけで盛り上がっているのを富岡さんが冷めた目で見ていました。

そんな富岡さんも、「もともと僕も荒井晴彦さんが重んじているようなモラル・ミーニングな物語には興味がなかった。映画は映っているものがすべてだと思っていた。ヴェンダースの映画を見て、こいつとは絶対わかりあえると思った」というぐらい蓮實的表層批評の影響を受けている人ですが、そんな富岡さんも内容にはまったく触れず映っているものだけをあげつらってすごいすごいと盛り上がっている二人の若者を非常に冷めた目で見ていたのが印象的でした。

そして、最期の日のオールナイト。黒沢監督が来阪してトークショーが開かれました。

くだんの表層批評の若者二人が再び司会役として黒沢さんにいろいろ訊くんですね。当然ながらすべて画面に関することばかり。映画なんだから映ってることがすべてなのはわからんではないけどちょっと偏りすぎではないか。と思っていたら、高校生っぽい子が質問があると手を挙げた。

「『叫』で、好きにすればいいのよ、と言われた主人公が、そう言われたために逆に何をしたらいいのかわからなくなるというのがとても印象的でした。ミシェル・フーコーが人間は自由にやれと言われたら途端に何をすればいいかわからなくなると言っていますが、『叫』にはフーコーの影響があるのでしょうか」

黒沢さんは「フーコーがそういうことを言ってるんですか? いやぁ、僕は読んだことがないんで何とも言えないんですが…」と言って笑いました。司会の若者二人も笑っています。でも黒沢さんの笑いはフーコーを読んだことがないことを恥じる照れ笑いでしたが(ちなみに私もいまだにフーコーって読んだことないです)司会の二人の笑いは明らかに「嘲笑」でした。

そんな「内容」に関することを訊いてもしょうがないだろう。この人は映画を内容から解放した蓮實の弟子だぞ。とでも言わんばかりの顔で。

すると、黒沢さんが言いました。

「フーコーが具体的にどういっているかわかりませんが、なぜでしょう。人間ってほんとそういう生き物なんですよね。あれやるなこれやるなと言われたら反発していろいろやっちゃうのに、好きにしたらいいと言われたら途端に何もできなくなる。フーコーは読んだことないから影響があるかと訊かれたらないとしか言えません。でも、まったく同じ問題意識を僕も以前からもっています。これは事実です」

と言ったまま、しばらくじっと考え込み、そして、「あ、そうか、俺はそういうことを無意識に考えながらあの映画を作っていたんだ」というような晴れ晴れとした顔になり、

「いや、どうもありがとうございます。そこまで深く読んでいただいて」

司会の二人は完全に小さくなっていました。「あの黒沢清が内容について語っている」というのが相当意外だったようです。

しかしそんなの当たり前でしょう。自分で脚本書くんだし、そうでなくとも内容について考えない映画監督なんていませんよ。


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蓮實重彦だってそうでしょう。
この人が世に出た頃は、内容ばかりについての評論ばかりだったから、「それは違うだろ」とカウンターパンチとして表層ばかりを語っていましたが、しかし、著作をよく読んでみると、

「人物の輪郭がくっきりしているのがいい」
「映画は、脚本と上映時間の問題である」
「この新人監督は、これからも同じレベルの脚本が書けるなら先は明るい」

みたいなことを書いているし、監督としての山田洋次はまったく評価していませんが、脚本家としてはかなり高く評価していたみたいです。

それに数年前、「これからの若い批評家には、映画と社会の関係について論じてもらいたい。なぜ資本主義企業が社会主義を礼賛する作品を量産してきたのか、とか」と言ってましたよね。

おそらく、自分の発言があまりに力をもちすぎたことに危機感をもったんじゃないですか。映画を内容から解放したのはよかった。私自身、蓮實から映画の見方を学ばせてもらいました。でも、それがすべてではない。

内容と表層。どちらも大事。どちらかだけ大事なんてありえない。人間だって肉体と精神のどちらが大事かなんて言えないし、そもそもその二つが密接に絡み合って一個の人間になっている。

映画だって同じはずです。



『赤い河』(「契約」をめぐる物語)

久しぶりに見ました。ハワード・ホークスの名作『赤い河』。


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この映画が、「ダークサイドに堕ちた主人公が手下の手助けによりヒーローとして復活する“神話”」であることは誰の目にも明らかなのでそれについては何も付け加えることはありません。

今回の発見は、この映画が「契約」をめぐる物語ということに気づいたということですね。劇中で「契約」や「契約書」という言葉が頻発するのにいままでまったく気がつきませんでした。


カウボーイという「仕事」
まず、物語はジョン・ウェインが牛追いの部隊を離脱するところから始まります。「そんなことは許さない」というリーダーに対し、「俺はあんたと契約してない。途中から加わっただけだ」と平然と去っていきます。リーダーも契約がない以上何も言えないようでした。

ジョン・ウェインがダークサイドに堕ちるのは、彼の横暴な振る舞いに対する反発が主な原因ですが、眠っている間に逃げたカウボーイを手下を使って連れ戻させると、そのカウボーイも「あんたとは契約してない」と自らの潔白を主張します。ジョン・ウェインはおそらく最初から「契約」ということが大嫌いなんだと思います。契約書の有無で人間の行動が制限されるなんていやだと。でも、その彼も最初「契約がない」ことを盾にとって離脱したんですよね。

この映画はカウボーイを「職業」として捉えています。どうしても現代人は『真夜中のカーボーイ』みたいにカウボーイを「ファッション」として捉えがちですが、あれはれっきとした職業。そういうところをきっちり描いているのが魅力なんですが、文字で書かれた法律や契約書ばかりを重視するアメリカ社会というのは西部開拓時代からのことなんだな、と勉強になりました。
現代社会も仕事といえばまず「契約書」。しかしそれで本当にいいのだろうか、というのがおそらく脚本家ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの思想なのでしょう。


ウォルター・ブレナンの入れ歯
ジョン・ウェインの唯一の理解者たるウォルター・ブレナンが隊員のインディアンとのポーカーで入れ歯を賭けて負けるシーンがあります。もちろん入れ歯は取られてしまい、ジョン・ウェインに泣きごとを言っても「負けたんだからしょうがなかろう」とは言いませんが、そういう態度で少しも助けてくれません。

ギャンブルでは契約書など取りませんが、負けた以上は賭けた物を相手に渡さないといけないという暗黙の了解事項がある。だけど金ならいいが入れ歯という生活に必要な物でもそれが契約だからと言われたのではたまったものじゃない。

そもそもウォルター・ブレナンはジョン・ウェインに「惚れたから」ついてきただけで、おそらく契約書など交わしていないはずです。それはモンゴメリー・クリフトもそうでしょう。彼らはあくまでも「契約」ではなく「信頼」でつながっているのです。


「神」との契約
砂糖泥棒が立てた大きな音のせいで大量の牛が逃げ、そのせいで優秀なカウボーイが死んでしまう。ジョン・ウェインは聖書の一節を読んで埋葬します。そして砂糖泥棒を殺そうとしますがすんでのところでモンゴメリー・クリフトが止めます。
「殺して埋葬してまた聖書を読むつもりだったのか。なぜ神様とグルになるんだ」と他のカウボーイに責められるんですが、このセリフは重要でしょう。

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この映画では半分以上を空が占めるショットが満載なんですが、神が人間たちを見下ろした映画のように感じます。
そういえば、ブルーハーツの名曲に『青空』というのがあります。

「神様へ賄賂を贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのかい」

ジョン・ウェインは神へ賄賂など贈っていませんが、隊員がみな神と契約を交わしたキリスト教徒である以上、死んだのだから聖書を読んで追悼しているだけ。と彼は思っていますが、おそらく彼は無意識に自分自身が「神」になろうとしている。

その証拠に、ジョン・ウェインは契約を交わしてない者まで「離脱は許さない」と言い出す。契約してないから離脱する。というのは彼が物語の最初にした行為なのに、それを許せなくなってくる。ダークサイドに堕ちるとはこのことですが、ジョン・ウェインはこの時点で、「俺の隊にいる以上は全員俺と契約を交わしているのだ」と思いたいのでしょうね。別の神との契約を絶対に許さない唯一神ヤハウェと相似形を成しています。


眠らせない=眠れない
完全にダークサイドの堕ちたジョン・ウェインに、モンゴメリー・クリフトもウォルター・ブレナンさえもが別れを告げます。
ジョン・ウェインは隊員を眠らせないことで逃げることを防止しようとしましたが、彼を追い出したモンゴメリー・クリフトや他の隊員たちは、今度は「いつジョン・ウェインが追ってくるか」が気になって眠れなくなります。まるでジョン・ウェインが神か悪魔のようです。


「撃ち合い」ではなく「殴り合い」
ジョン・ウェインの後釜に収まったモンゴメリー・クリフトは幾多の苦難を乗り越えてミズーリまで1600頭の牛を無事に運びます。そこで出会った資産家に「すべて言い値で引き取る」と言われ歓喜しますが、そのとき資産家は「契約書を作らねば」と言います。そりゃ契約書がなくてはすべて持ち逃げされるかもしれず、そうなればモンゴメリー・クリフトは手下たちに給料を払えなくなる。だから契約書は絶対に必要なものなんですけど、資産家から契約書を渡されたとき、どうにも暗い顔になっています。ジョン・ウェインから奪った牛だから、というのが通常の解釈でしょうが、私には「契約書」というものがモンゴメリー・クリフトも嫌いだからというふうに思えてしょうがない。



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最終的にこの映画は殴り合いによって解決します。ジョン・ウェインは最初撃ち合いでケリを着けようとするんですよね。拳銃を抜こうとしないモンゴメリー・クリフトに対し「抜かせてやる」と自分の拳銃を抜き、何度も撃つ。

この時代の西部では、相手が抜いたら自分も抜いて撃ち殺してもよかった。『夕陽のガンマン』の冒頭は「どちらが先に抜いたか」をめぐる裁判で、相手が先に抜いたとの証言を得たリー・ヴァン・クリーフは無罪になります。それがこの時代の「法」です。法とは人間同士の契約のことです。

でも、モンゴメリー・クリフトはそのような契約を嫌うがために絶対に抜かない。俺とあんたとはそういう関係じゃなかったはずだ、という涼しい笑みを浮かべるモンゴメリー・クリフトが最高です。その笑顔を見せるためのジャップカットの手法もお見事! そしてジョン・ウェインは拳銃を捨てて殴り合いとなる。殴り合いには法もへったくれもありませんから。

ちょっと前のシーンで、ジョン・ウェインはモンゴメリー・クリフトの許嫁になるであろう女に「俺は息子がほしかった」と言います。息子とはつまり「契約書を必要としない人間」のことでしょう。それが体を張った殴り合いによって(再び)得られる。

だから、正確には「ジョン・ウェインがヒーローとして復活する物語」というよりは「失った息子を再び取り戻す物語」といったところでしょうか。

最後は新しい烙印を二人で決めますが、それについての契約書など存在しないはずです。口約束だけ。それでいいんじゃないの? それだけだとまずくなる社会っておかしいよ! 

最後ほんの数分ですべてが解決するのは、ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの連係プレーによるものだということがようやくわかった次第です。映画において「監督だけの単独プレー」などありえません。


『15時17分、パリ行き』(SF的発想をしてほしかった)

ようやく見てきました。クリント・イーストウッド最新作『15時17分、パリ行き』。

おまえのようなイーストウッド信奉者が封切から3週間もたってから見にいくなんてどういうことだ。
という声も聞こえてきそうですが、正直言いまして怖かったのです。『グラン・トリノ』で俳優を引退してからというもの前作の『ハドソン川の奇跡』を除いてどれもこれも愚にもつかない作品ばかりでしたから。

でも、結果的に『ハドソン川の奇跡』と同じくらい楽しめる作品で安堵しました。ただし「傑作」だとは思いません。「佳作」といったところでしょう。なぜか。


本人が自分の役を演じるという「情報」
この映画では公開前から、実際に起きた事件を、主役3人だけでなく実際にあの列車に乗り合わせた人たちをできるだけ集めて本人たちに自分の役を演じさせた、という情報が出回っていました。

その「事前情報」が観客に与える影響はかなり大きいと思います。

実際、ド素人が演じている割にかなりうまい。それは監督自身が役者であり、それもあまり器用ではない役者だった(←過去形で言わないといけないところが悲しい)ということで、監督経験しかない監督よりもかなりいいアドバイスができたんじゃないでしょうか。

15時17分、パリ行き (1)

映画を見ていると、↑こういう光景が目に浮かぶんですよね。イーストウッドはどんなふうに素人俳優を演出したのか。それも自分自身の役というプロですら難しい役なのに。

という思いが「先入観」として観客の心を支配したはず。この映画の高評価の背景には「素人を使ってよくやった」みたいなところが多分にあるのでは?


セリフつなぎ
演技そのものもいいですが、セリフの途中でカットを割って繋ぐ、いわゆる「セリフつなぎ」が多用されてましたよね。
よくアクション映画などで、アクションがあまり上手でない俳優を使う場合、アクションの途中でカットを割るアクションつなぎが多用されます。
一昔前によくテレビでやってた武富士のCMがそうですよね。めちゃくちゃダンスがうまいように見えて、実は編集でごまかしてるだけという。


1517toParis

列車に乗る前のこのシーンが最も顕著でしたが、3人が喋りまくるこのシーンではセリフつなぎばかりでした。素人の芝居を少しでもうまく見せるための工夫だったのでしょう。


実話=主演作
なぜか最近のイーストウッドは実話ばかり。
俳優引退前も「硫黄島2部作」と『チェンジリング』があり、引退後は『インビクタス』『J・エドガー』『ジャージー・ボーイズ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』、そして本作。他にも『バード』や『真夜中のサバナ』。

ん? 自分が出てない映画ばかり。なるほど。そういうことか!



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例えば『ガントレット』。
クライマックスで10万発の銃弾を浴びますが、誰もイーストウッドが殺されるかも、なんて思わないでしょう? そんなの『白い肌の異常な夜』みたいな珍品だけで、大スターたる彼は決して死なない。ある意味安心して見ていられる。それと俳優引退後の実話ばかりというのはつながっていると思います。

だって、実話なら結末があらかじめわかってますから。「イーストウッドは殺されたりしない」というのと「この映画はテロリストを倒した英雄を描いている」というのは結末があらかじめわかっているという意味では同じです。

だから、学校の先生に心ない言葉を投げられても、軍に入隊して負傷兵への対処の仕方でバカにされても、「彼らは最後は英雄になるのだから」と安心して見ていられる。

でも、素人にしてはうまい、とか、実話ならではの面白さとか、そういうところばかり楽しめるというのは映画としていかがなものか。


マシンガン不発
だって、映画の一番の見せ場である「主人公がテロリストめがけてタックルする場面」。あそこでテロリストがマシンガンの引き金を引きますがなぜか不発。首尾よくタックルが成功して彼らは英雄になれたわけですが、あそこでもし撃たれていたらどうなっていたか。

そこをもっと突っ込まないといけないと思う。

もし不発じゃなかったら彼らの家族は周りから何と言われたか。教師たちは「だからあのとき薬を飲んでおけばよかったのよ」とでも言ったか。軍の上官たちは「ほら、言わんこっちゃない。そもそもあいつは軍人に向いてなかった」とでも言われたか。それとも、英雄になり損ねた悲劇の小市民として悼まれたか。
マスコミの反応はどうだったか。マシンガンを構えているテロリストに丸腰で肉弾戦を挑むなど愚の骨頂だと非難されなかっただろうか。

などなど、SF的な想像力をめぐらして、もしあのとき不発じゃなかったら、という物語を作ることもできたはずなんですよね。

英雄になれなかった、ありえたかもしれないもうひとつの物語

それを現実に英雄になれた本人たちが演じる。そのほうが「事件の当事者を起用する」ことの意味も意義もあったんじゃないか。

この映画は私は楽しめました。それは本人たちが出演しているとか最近のイーストウッドは実話の映画化が多いとかの事前情報と、それなりに映画を見てきたからセリフつなぎが多いことに気づけたとか、あくまでもそういう理由によるものであって、決して子どもの頃に『ガントレット』を見たときのような「映画そのものの力」に感動したわけじゃない。

実際、本人たちが出演していると知らなかったうちの両親はあまり楽しめなかったそうです。


『JFK』(公文書は太陽光線と同じ)

オリバー・ストーン監督の1991年作品『JFK』。

森友学園問題での公文書改竄が世間を賑わせていますが、「公文書といえば、ケネディ暗殺の公式資料が確か去年トランプが公開を承認するも一部は非公開にしたことがあったっけ」と思って久しぶりに見てみようと。

この映画、暗殺事件の唯一の訴追者である主人公の地方検事ジム・ギャリソンの手記を原作としていますが、原作はもうひとつあり、さらにオリバー・ストーンと脚本家ザカリー・スクラーのかなり主観的な思いも入っているので「事実を捏造している」という批判もありました。

映画の内容についてはいまは措きます。次の4枚の画像をご覧ください。


奇妙な光線

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撮影監督ロバート・リチャードソンにアカデミー賞が与えられた照明ですが、どう見ても光の加減が変です。

すべて室内なのに光が強すぎる。室内灯の灯りならもっと室内全体が明るくないといけないのにどれも薄暗い。薄暗いのに人物にだけ細い強烈な光が当たっています。強さから考えたら日光でないとおかしいですが(一枚目は月光でしょうが)窓から入り込んだ日光が部屋全体を照らすことなく人物にだけ降り注いでいるというのはどう考えてもおかしい。

これはリアリズムの見地からすると「ありえない照明」ということになります。光源が何なのか、どこから来ているのか、すべて謎です。
ケネディ暗殺の真相が謎だから光源も謎でいいと考えたのかどうかは知りません。しかし、そうでも考えないとこの光の当て方はあまりに不自然です。

ケネディ暗殺事件の「真相」が書かれたとされる「ウォーレン委員会報告書」は公文書です。大半は一般公開されたようですが、一部のみ国家機密として秘匿されています。その他の資料も極秘扱い。トランプは各方面からの声を鑑みて「一部のみ公開。あとは非公開のまま」と決定したそうですが、あの品性下劣なトランプですら公開を延期しただけで改竄などやっていません。


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公文書=物理法則
翻って日本では、先週辞任させられた佐川国税庁長官の国会答弁に合うように公文書が書き換えられました。本来なら公文書の記述に沿った答弁をしないといけないはずなのに、逆になっている。忖度か誰かの指示かはわかりませんが、あの答弁は佐川長官の「主観的な言葉」にすぎません。『JFK』におけるオリバー・ストーンたちの主張と同じです。
もし、このたびの公文書改竄が「大した問題ではない」のなら、『JFK』の主張に合うようにウォーレン委員会報告書を書き換えたってかまわないことになります。もっといえば、劇中のあまりに不自然な光に合うように太陽光線をねじ曲げてもいいということになります。

そんなことができますか? 神でない人間にできるわけがないし、してはならない。

公文書というのは、そういうものです。100%客観的な事実だけを記してあると決裁されたものなのですから、それは太陽光線をも司る物理法則と同じく、どこまでも厳密なものです。

だから公文書改竄は「神をも恐れぬ所業」と言って過言ではないと思います。人間には許されていないことをやってしまった。「この問題は適当に済ませていま手薄になっている外交にもっと力を」と昨日ある番組で一般市民がインタビューで答えてましたが、「???」でした。

いま国際社会における日本の信用は地に堕ちました。こんな状態でいくら外交努力をしたところですべて無駄です。まずこの問題を徹底究明して断罪されるべき者を断罪し、それからまたコツコツと信用を築き上げていかないと。

何十年もかかるでしょう。神をも恐れぬ所業をやってしまったのですから。



『花と蛇』(神々しい悪魔=谷ナオミ)

田中陽造脚本、小沼勝監督によるロマンポルノの名作『花と蛇』。
これもまた「神話的エネルギー」に満ちた傑作だと思います。


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この映画が刺激的なのは、何といってもたった74分という短い時間の中で二つの物語を展開させていることですね。谷ナオミの物語と、もうひとつはマコトという名の男の物語です。


母親の抑圧から逃れるマコトの物語
まず、映画はマコトの幼少期の回想から始まります。パンパンをやっていた母親が黒人に抱かれているのを見てマコトは黒人の拳銃を抜き取り射殺します。
30歳になったマコトは母親と二人きりの生活を送っていますが、そのときの記憶がトラウマになっておりインポになっています。
母親というアンチヒーローによってインポにさせられた男が、インポを改善し母親の元を巣立つのが物語の眼目となります。


夫に玩具にされる静子の物語
ここで召喚されるのが谷ナオミです。彼女が演じる静子は、マコトが働いている会社の社長夫人でありながら、社長が「普通のセックスでは勃起できなくなった」ために、マコトにSM調教を命じるんですね。社長もまたマコトと同じく勃起不全という「問題」を抱えていますが、もっと大きな問題は、社長がその問題を解決するために静子を部下に差し出して調教を施させるところにあります。本を正せば、静子には将来を約束した男がいたのに社長がカネの力で別れさせたという経緯があった。

つまり、マコトの物語においては母親がアンチヒーローですが、静子の物語においては夫の社長がアンチヒーローです。二人のアンチヒーローによって暗黒面に落とされたマコトと静子がヒーローとして覚醒するか否かが鍵となります。


マコトの覚醒
マコトはまず静子を調教する過程で「こんなに美しい女はいない」とその肉体の虜となり、ついにインポを克服します。しかし、彼の本当の問題はそれではありません。インポの原因となった黒人殺害です。
静子が見たいといった映画で黒人が女をほしいままにしているシーンを見てマコトは思い出します。本当は母親が黒人を射殺して金を奪ったこと、罪を軽くするためにマコトのせいにしたこと。つまり、マコトの記憶は母親によって刷り込まれたニセの記憶だったわけです。

こうして、マコトは母親こそがすべての元凶だと気づき、愛し合っている静子と結婚するんだ、この家を出ていくんだと息巻きます。

普通ならここでハッピーエンドとなるのでしょう。静子だって夫のおもちゃにされているわけだし、マコトと一緒になったほうがよっぽど幸せになれる。マコトの二つの問題、インポと母親の抑圧はどちらも静子によって解決されました。ならば今度はマコトが静子に対してヒーローとなり、彼女を夫から助け出してあげれば二つの物語は容易に解決します。

が、この映画はそのような安直な解決を取りません。静子はマコトと一緒になるのを拒み、あくまでも「私はこの人のもの」と夫のもとへ帰ろうとします。

このシーンで残りあと3分ほど。どういう結末を迎えるのかと思いきや…


どんでん返し(静子の本性)
夫と帰ろうとする静子にすがってマコトは社長の家まで一緒に行きます。そこで3人で乱れた行為をし、静子は二人のほしいままになります。

え、それでは何の解決にもならないのでは?

というこちらの思惑が浅はかであったことがラストシーンで明らかとなります。


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「男なんて汚らわしい。奥様をあんなふうにいじめて」と愚痴を言うメイドに対し、静子は優雅に微笑みながら、

「男なんてかわいいものね」と言って花の匂いを嗅ぎます。

彼女は責められているふりをして責めているつもりの男たちを弄んでいたのでした。調教されるふりをして実は男たちを調教していたのでした。

マコトの物語はそれ単体だけでも一本の映画になるような成長譚ですが、それすら静子の掌の上で転がされていたというのは、マコトの回想シーンから始まっただけに衝撃的です。

このどんでん返しはすさまじい。女は魔性であると思わされます。
神話的には彼女はヒーローではなく、彼女こそ一番のアンチヒーロー、悪の根源ということになるのかもしれませんが、そのような小賢しいことなどどうでもよくなるエンディングです。神々しい悪魔として屹立する谷ナオミの美しさ。

普通に、マコトが静子を助け出す結末にしなかった理由がわかりますよね。それでは女が客体でしかないことになります。

女こそが主体である。

それが田中陽造=小沼勝コンビの主張であり、ひいてはロマンポルノというジャンルが一貫して言ってきたことではなかったでしょうか。


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