聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

『グリーンブック』(いったい俺は何者なのか!)

今年のアカデミー作品賞受賞作『グリーンブック』を先週末に見ましたが、何とも味わいの深く、満腹で万福な感覚を映画で久しぶりに味わわせてもらいました。
以下の文章は感想ではなく、ただの「日記」です。


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『グリーンブック』の絶妙な人物設定
マハーシャラ・アリが演じるドクター・シャーリーという実在の黒人ピアニストは、ヨーロッパで育ったというだけあってフライドチキンの食べ方も知らない高貴な人間で、ヴィゴ・モーテンセン演じる教養がなく粗野なトニー・リップという運転手兼用心棒とは好対照です。

白人相手にピアノを弾く彼は、招かれたレストランで食事をすることを許されない。ロバート・ケネディとも親交があり、日夜白人を喜ばせている彼は同胞であるはずの黒人から快く思われていない。それに加えて映画では軽く触れられるだけですが、ゲイであるがゆえに「男ではない」というふうにも思われている。

それはトニー・リップも同じで、「イタリア系は半分黒人だからな」という差別発言に対し思わず手が出て逮捕されますが、彼もまた「白人でありながら白人ではない」という微妙な立場にいます。


「私はいったい何人なのか!」
画像が見つからないのが残念ですが、この映画で一番の感動ポイントは、それまでトニーに「暴力はいけない」「常に毅然とした態度でいなくては」と説くドクター・シャーリーが、「白人の中では黒人扱いされる。黒人には白人のように爪はじきにされる。私はいったい何人なのか!」と迫害される者の正直な心情を吐露する場面です。これについて異論をはさむ人はほとんどいないでしょう。(ラスト近くで車を止めた警官がまったく差別意識のない人で、「あの時代のアメリカ南部にはああいう人もいたんだ」と胸が熱くなったりもしますが)

いまだ『グリーンブック』の余韻に浸る今日この頃ですが、この「私はいったい何人なのか!」という心の叫びが胸につっかえたままでした。単に映画に感動しただけではないこの感覚は何だろうと思っていたんですが、やっと気がつきました。私自身が同じようなセリフを書いたことがあるのです。


『非国民』
ちょうど10年前ですが、『非国民』というタイトルの脚本を書きました。一言で要約すると「サッカー日本代表の中心選手がワールドカップ開幕直前に代表を辞退したために日本中から非国民扱いされる話」でした。

バルバロイ那覇というクラブに所属する主人公佐藤不二雄が、沖縄とアイヌと在日の差別に直面し、「日本とは何ぞや」と考えざるをえなくなり代表を辞退するんですが、それが原因で殺されます。そしてさらなる悲劇が起こります。不二雄の代わりに代表入りした選手はブラジルから帰化したマリオという男なのですが、このマリオが2014年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会の開幕戦で大活躍して日本はブラジルに勝つ。しかし、そのためにかつての同胞から「HIKOKUMIN!」と罵られ、試合の翌日に自殺します。

大混乱の中でも大会は進行し、ポルトガルが優勝するという筋書きでした。優勝チームの主将も元ブラジル人でインタビューで叫びます。

「私はインディオの血を引くブラジル人だったが、わけあってポルトガルの国籍を取得した。私はいったい何人なのか! マリオは自殺した。不二雄は殺された。いったい誰が殺したのか! 私たちだ。私たちが殺したのだ……」

ずっと忘れていたセリフを思い出しました。「私はいったい何人なのか!」

私自身が似たような感覚に襲われるときがあります。いったい「どちら側」の人間なのか、と。

私は人と違うことを好みますが、「それは普通の日本人っぽくない」とよく言われます。
年相応だと言われることもありますが、実年齢より老成していると言われたこともあるし、子どもっぽいと言われることもあります。
東京生まれの神戸育ちのため、東京弁も関西弁も喋れます。「出身地」はいったいどちらなのか、よくわかりません。
高卒なのに大卒にしか見えないと言われます。学歴を鼻にかける人からは高卒のくせにと蔑みの目で見られます。
「おまえのようにたくさん知識のある奴は知ったかぶりをするのが普通なのに、おまえはそうじゃない」と言われます。その一方で、親譲りの天然ボケのためか「頭がいいのか悪いのかぜんぜんわからない」と言われます。
映画作りを目指す友人からは「批評なんかするな」と言われます。批評家の知り合いからは「物語を作れるなんて驚異の一語」と言われます。
ホワイトカラーの人たちのブルーカラーを蔑む気質が好きになれません。なのにブルーカラーの人たちといると自分だけ異質な気がします。「あなたは私たちの仲間ではない」という視線を感じてしまう。


いったい俺は何者なのか!

あのマハーシャラ・アリの絶叫に多くの人が感動するのは、人間がみな「我々はどこから来てどこへ行くのか」を追究する存在だからでしょう。

差別とは人間をジャンル分けすることです。

性別
年齢
人種
国籍
学歴
出生地
現住所
家族構成
年収

などなど、差別する気などなくても、人は自分以外の人間をジャンル分けして暮らしています。

そして、どちら側でもある人間がおそらく一番苦しい。

そうか、『非国民』とはそういう物語だったのか。

自分で書いたくせにいま初めて知りました。


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『スパイダーマン:スパイダーバース』(垂直ヴィジュアルの妙味)

アニー賞を獲ったとかアカデミー賞を獲ったとか、それだけの理由で見に行ったのでどんなお話なのかまったく知らず、そのためにあまり乗れなかった『スパイダーマン:スパイダーバース』。

話には乗れなかったけど、存分に楽しみました。

まず、ピーター・パーカーの語りから始まって、すぐマイルスという少年に話の焦点が移り、いったいどっちの話なのかと思っているとピーター・パーカーが死んでしまう。なるほど、『エグゼクティブ・デシジョン』みたいなのを狙ったのかな、と思っていたらば、何とピーター・B・パーカーというスパイダーマンが出てきて、このあたり乗れませんでした。中盤で、並行世界のスパイダーマンが集結しているというのがわかって、あ、なるほど、そういう世界観なのね、とは思ったものの、前半で乗れなかったツケで物語には最後まで乗れませんでした。というか、あまり大した話じゃなかったような……?

それよりも「垂直方向を意識したアクション」がとても気に入りました。

こんなのとか、
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こんなのとか、
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こんなのも。
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何か似たようなアングルばかりですが、ほしい画像が見つからなくて。

サム・ライミの『スパイダーマン』シリーズがどうだったか定かには憶えていないんですが(『アメイジング・スパイダーマン』にいたっては1本も見てません)この『スパイダーマン:スパイダーバース』はアクションも垂直方向なら、人物の配置もできるだけ垂直の関係になるように設計されています。

ある高名な脚本家から教わった大切なことのひとつに「垂直方向のアクションを意識せよ」というのがあって、この映画はまさにそれを実践しているとうれしくなりました。

壁に張り付いた状態で会話するシーンがたくさんありましたけど、絶対に人物を水平方向に並べず、垂直の関係においていました。だからカットバックするには、思いきり仰角か思いきり俯瞰か、ということになる。ビジュアルがとてもよかった。

先月公開された『アクアマン』。あれは水中ばかりだから仕方ないのかもしれないけれど、水平方向の人物配置やアクションになっていましたよね。

こんなのとか、
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こんなの。
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話を『スパイダーマン:スパイダーバース』に戻すと、玉に傷なのが、大乱闘になると、いったい何が起こっているのかよくわからなくなること。私は70年代のアメリカ製アクション映画が大好きなんですが、あの頃の映画ってちゃんと何が起こっているかはっきり見せていたしいまの映画に比べたらゆっくりしたアクションだけれど、それで充分だった。いまのアクション映画は見せ方が派手すぎて好きになれません。

とはいえ、「垂直」を常に意識したこの『スパイダーマン:スパイダーバース』は超美味な映画でございましたことよ。


アート・オブ・スパイダーマン:スパイダーバース (SPACE SHOWER BOOKS)
ラミン・ザヘッド
スペースシャワーネットワーク
2019-03-01



『運び屋』(失われた脚本を読む力)

我が永遠のアイドル、クリント・イーストウッド6年ぶりの主演作品『運び屋』を見てきました。公開2日目の土曜日の日中、しかも今日は結構あたたかい。花粉症の人は外に出づらいかもしれないが(私も今日は今季一番ひどい症状)それにしても空席が目立っていたのはとても淋しい。


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実在した高齢の麻薬の運び屋を霊感源として、イーストウッドの実人生と重なる部分も少なくないこの映画、私は少しも面白くありませんでした。

最も敬愛する人だからこそイーストウッド作品はできるだけ批判的な目で見ることにしていますが、ごく普通に見てもこの映画はつまらない。どうせ世間は絶賛一色だろうと思って検索したらやっぱり! ここは「世界一のイーストウッド・ファン」を自認する私が文句を言わねばならないという使命感から筆を執りました。


第1幕の流れが不自然
冒頭、「2005年」というテロップが出て、娘の結婚式に出ず、農園で育てた花のコンテスト会場に行っていた主人公。このあとすぐ「2017年」になります。2005年のシークエンスはほんの5分ほど。娘が12年も口を利いてくれない理由を示したかったのかもしれませんが、オフで充分でしょう。なぜたったあれだけのシーンをオンで描く必要があるのか理解できません。

近代劇の祖、ノルウェーの劇作家イプセンは「それまでの演劇の第5幕から始めた」と言われています。『人形の家』『ヘッダー・ガーブラー』『ロスメルスホルム』などなど、すべてそうなっています。第4幕までの情報を第5幕の中(のセリフ)にぶちこんで、どこを切っても煮えたぎる血が流れ出すドラマ形式が確立されたのは19世紀のことです。

『運び屋』は21世紀の映画なのに。。。

2017年の「ネット花屋のせいで」農園が閉鎖に追い込まれたところから始めたほうがよかったと思います。2005年の娘や妻とのいざこざ、孫娘は主人公を好いていること、そういった情報は孫娘の結婚式を訪ねたときに娘の態度や妻のセリフなどで匂わせればOK。

しかし第1幕にはもっと大きな問題が……

ある男から「車の運転さえできれば可能な仕事がある」と紹介されたところへ行くと、ショットガンをもった男たちが出迎える。主人公が車を止めたときの小さい窓から大きな目だけが覗くカットは素晴らしかった。何とも言えない不気味な肌触りがあって。でもすぐに首をかしげざるをえなくなります。

いきなりショットガンをもった男が出迎えたら気後れするでしょう。いくら朝鮮戦争を経験しているとはいえ退役したあとは農園をやっていただけの普通の老人なのだから。

これを運んでくれと鞄をトランクに積みこまれても、何が入っているのかを訊かないのもおかしいですよね? 「1回目」「2回目」そして「3回目」で初めて麻薬を運ばされていると知りますが、そこからいきなり「5回目」に飛ぶのもおかしいでしょう。なぜメキシコ人たちを問い詰めないのか。金になるからということ? それならそれでそういうシーンを入れないと。


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初めて大金を得るシーンはもっと後でした。

どうもこの映画は主人公のリアクションが変です。

車さえ運転できれば可能な仕事がある。やばそうだ。でも金がほしい。行ってみるとショットガンをもった男たち。やっぱり。俺は何を運ばされているのか。麻薬だった。やばい。もうやめよう。というか、おまえら何で俺にこんな真似をさせる。でも大金をくれた。またやろう。久しぶりに女も抱けた。こりゃいい。

というのがごく普通の流れだと思うんですが、「やばそうだ。でも金がほしい」とか「やっぱり」とか「やばい。もうやめよう」というような当たり前のリアクション=感情が描かれないからぜんぜん乗れないのです。


メインプロットとサブプロット
宣伝文句には「ごく普通の老人が麻薬の運び屋をやることを通じて家族への贖罪をする物語」みたいなことが書かれてましたが、「麻薬の運び屋をやることを通じて」というところが何もないじゃないですか。運び屋をやることと家族への贖罪が別個にしか描かれていない。メインプロットとサブプロットが何ら有機的に結びついていないのです。

ブラッドリー・クーパーとのやりとりに感動した人もいるようですが、確かにいいシーンではあるものの、1回だけの遭遇というのはどうなんでしょう? もっと何度もレストランでコーヒー飲みながらいろいろ説教じみたことを言う(ちなみに私はイーストウッドがコーヒーすする顔を斜め45度から捉えたショットが何よりも好き!)。そのときに彼こそ運び屋だとわかることを口走ってしまうのに、クーパーは彼が白人だからまったく気づかない。ということにすれば、人種問題ももっと色濃く出せたように思います。ビリングで1番目の役者と2番目の役者が遭遇するのが逮捕のシーンを含めて2回だけというのはもったいなすぎます。

もっといえば、娘と疎遠になるんじゃなくて「息子」と疎遠になるべきではなかったでしょうか。ブラッドリー・クーパーを息子に見立てて説教じみたことを言ったり、逆に喋っているうちに許してほしい気持ちが募ってしまい、何の関係もないクーパーに謝ってしまうとか。

そういう描写があれば、法廷で家族と抱き合う主人公を見つめるクーパーの胸にいろいろなことが迫ってきたはずです。それはつまり観客の心にいろいろな感情が生まれるということ。でも実際の映画はぜんぜんそうなっていない。

去年の『15時17分、パリ行き』の感想で「イーストウッドは肝心要のシナリオを読む力がなくなっているんじゃないか」と書きましたが、やはりあれは間違いではなかった。こんな不出来な脚本で行けると踏んだイーストウッドはやはり「老いた」のでしょうか。

それとも、彼は監督である前にまず「俳優」だから、「またカメラの前に立つことができる」という歓びが目を霞ませてしまったのでしょうか。

いずれにしろ残念です。今年でもう89歳。まだまだ撮り続けるはずですが、最低『ハドソン川の奇跡』ぐらいのものは見せてほしいというのが正直な気持ちです。


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