聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』(禍々しさと可笑しさと)

近くの劇場で急遽上映が決まったらしい『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』。監督はあのジョージ・パン・コスマトスの息子パノス・コスマトス。予告編を見て何とも言えぬ禍々しさが気になったので見に行きました。

いや、もうこれはニコラス・ケイジの新たな代表作というか、私にとっては『ワイルド・アット・ハート』に次いでケイジ兄貴がはじけた映画として記憶に刻まれそうです。


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ニコラス・ケイジって基本的に好きじゃないんです。この顔で主演スターを張ってるというのが私にはよくわからないんですよ。この顔なら普通脇役ばかりでしょ。叔父さんの七光りがなければ絶対スターになれてないと思う。

しかし、この『マンディ』は『ワイルド・アット・ハート』のようにニコラス・ケイジという特異な役者を活かしまくった稀有な映画だと思いました。

さて、マンディというのはニコラス・ケイジの奥さんの名前で、人里離れた山奥で木こりをやっているケイジに深く愛されているのですが、この奥さんがカルト集団みたいなのに惨殺されて、我らがケイジ兄貴が復讐の鬼と化すというのが『マンディ』のあらまし。

カルト集団の頭目も何が目的なのか少しもわからないし、何かヴェノムみたいな怪人も出てきますし(『ヴェノム』は未見ですが)はっきり言ってよくわからないこの映画。

最初はね、途中退席しようかと思ったんですよ。だって、マンディが惨殺されて復讐の鬼と化すまでに75分もかかるんですよ。全体は120分そこそこなのに。クレジット入れたら120分ない。いくら何でも時間かかりすぎ。

でもね、そこまでを我慢すれば実に楽しい時間が待っています。

楽しい? 血みどろの復讐劇が? という声が聞こえてきそうですが、この映画は非常なる可笑しみに満ち溢れているのです。

ちょうど昨日、WOWOWでやっていた『マザー!』というのを見たんですけど、あれもよくわからない映画で、不条理なホラーを目指したのか何なのか。一番残念なのは可笑しみがないことなんですね。笑えない。不条理をやるならブニュエルみたいに笑わせてほしいんですけど、恐がらせようとするばかりで逆に白けました。

でもこの『マンディ』は笑えるんですよ。

まず、奥さんを目の前で惨殺されたケイジ兄貴がトイレで号泣するんですが、いつものようにトチ狂った芝居には定評のあるケイジ兄さんなので、このシーンが異常に笑えるんですね。

さらにヴェノムみたいな怪人をやっつけるところで、どうやってやっつけたのかよくわからないんですけど(この映画はわからないことだらけ!)ヴェノムが血をドバーッと吐くんですね。でニコラス・ケイジがその血を浴びるんですけど、その顔が笑える!

さらにここ。↓↓↓




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復讐を果たしたケイジ兄貴は車を運転して帰路につくんですが、いつもなら助手席に乗って微笑んでいる奥さんを夢想してこんなすごい目で笑うんです。このカットはもう爆笑もんでした。劇場で笑ってたのは私一人だけでしたが。www

とにかく、この映画は本当にわからないことが多すぎるし展開がのろいので、万人向きじゃないと思います。むしろ「何だこの映画は」と眉をひそめる向きのほうが多いんじゃないでしょうか。

でも私は大いに楽しみました。何より、ニコラス・ケイジという役者を使って面白い映画を作った監督はこれまであまりいませんから。

パノス・コスマトス。この先どういう映画を作るのか、目が離せません!
(ちなみにこの記事には「ヨーロッパ映画」というタグをつけていますがアメリカ映画じゃなくてベルギー映画なのでね。念のため)


許せない映画⑤『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』

「許せない映画」とは、面白いのにそれを上回る残念なところがある映画のことです。

カンニングを犯罪映画のように描いてスリリングと話題沸騰の『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』も私にとってはそんな許せない映画でした。

まず、どこがよかったかを言いましょう。

顔のドラマ
まず、『ゴッドファーザー』がアル・パチーノの顔の変化の物語として捉えられていたように、この映画でも主人公リンの顔の変化を如実に捉えているところが素晴らしい。


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実に映画的ですね。


答えは常にわかっている!
次に内容についてですが、受験戦争が過熱しているらしいタイで人もうらやむほどの知性をもったリン、そしてのちに仲間になるバンクという男。この二人の「頭の良さ」に作者たちは少しも疑義をはさみませんよね。そこがいい。

この二人にとっていくら難しい問題でも「答えは常にわかっている」。わからなくてサスペンスが生じて勉強を頑張るならただのお勉強ドラマです。この映画を犯罪映画たらしめているのは二人が正解しか知らないというところにあります。そして100問以上の解答をすべて暗記できるほどの完璧な記憶力の持ち主というところにも。

金庫の中に金があるのはわかっている。どうやってそれを盗むかだ。というのと同じです。強盗団も彼らに感情移入している観客も、その金が誰のどういう金かなんてまったく気にしませんよね。

だからこの映画でも「どんな問題か」「答えは何か」などということにはいっさい頓着しません。「勉強不足で答えがわからない!」なんていう世界の原理には目もくれず、二人は常に答えを知っている、なぜなら二人とも天才だから。という「映画の原理」を採用します。当たり前のようでこういうの結構難しいんですよね。脚本書いているとどうしても世界の原理に引きずられてしまいがちなので。

では、そのような面白さを超える「残念なところ」とは何か。


神話的世界観


超エリートにもかかわらずカンニングというビジネスに手を出し、ダークサイドに落ちてアンチヒーローとなった主人公が、父親の愛情によってヒーローとして再出発するまでが描かれますが、どうもこの結末には違和感を禁じえません。

主人公を助け出す父親が好調に賄賂を贈っていたことが主人公の最初の動機だったわけですよね。この世はすべてカネなんだと。

とはいえ、父親だって愛娘のために喜んで寄付したお金だと主張してるし、あれは嘘ではないでしょう。子どもの目には汚いカネにしか見えないかもしれないが、あの賄賂=寄付がなかったらそもそも彼女はエリート校に入学できなかったわけだし。

私は神話的世界観に彩られた映画が好きだし、そういう観点から映画をいつも見ていますが、こういう「必要悪」を描く場合、神話的な善悪二元論というのはそぐわないと思うんです。

もう一人の天才バンクが、なぜか捕まったにもかかわらずまだまだカンニングビジネスをやる気でリンを勧誘しますよね。でもリンは「すべて喋ってもいいわよ」みたいな感じで父親のもとへ。

うーん、解せません。

まず、なぜ一番及び腰だったバンクがやる気に満ちているのかがわからないんですが、それはこの際どうでもよろしい。私はリンの「物分かりの良さ」のほうが気になります。

犯罪映画の面白いところって、悪人にも善なる部分があったり、善人にも悪人の面があったり、そのあたりの境目が融けあって単純に善悪二元論に還元できなくなるところにあると思うんですが、この映画の作者たちは結局のところ「カンニング=絶対悪」と捉えているようで、カンニング大作戦を見に行った観客としては「それはないよ!」と言いたくなります。

それでは「カンニングに精を出したけど、あれは若気の至りでした」と言ってるようなものですから。そんな映画ダメでしょう。

結局、主人公リンがカンニングビジネスをやる最初の動機たる父親の賄賂。あれについての突っ込み=考察が浅いからこうなってしまったんじゃないですかね?

賄賂でもあり、寄付でもある。
汚いカネでもあれば必要なカネでもある。
善悪二元論では還元できない微妙なところを素通りしてしまった憾みが残ります。

そこを素通りしなければ、

カンニングは悪い行為である。でも必要な行為でもある。

という、まったく新しい地平を切り拓けた可能性もあったと思います。

確かに私は悪人。でも私みたいな悪人がいなければ不幸になる人がいる。そういう受験戦争っておかしくない? という痛烈な社会批判もできたはずなんですが。


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主人公がいい顔してるだけに惜しい!


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①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』
④『ゴースト・ドッグ』


黒澤明『天国と地獄』の疑問点

久しぶりに黒澤明監督『天国と地獄』を見ました。



最初がVHS、次が劇場、次がテレビで今回もテレビ。この映画については面白かったりそうでもなかったり、そのときによって見方がえらく変わるんですが、今回初めて感じた疑問点を記します。


「持つ者」と「持たざる者」
この映画の肝は、黒澤自身が言っていたように、

「脅迫対象者の子どもでなく、別の子どもを誘拐したとしても脅迫は成立する」

ということでしょう。そこから次の本当の肝が出てきます。

「三船敏郎演じる権藤常務は、いま使わなければ意味のない大金を身代金として支払ってしまい、会社を追放される」

最終的に身代金はほぼ全額返ってきますが、時すでに遅し。権藤は会社を追放され、邸宅は競売にかけられることが決定しています。

誘拐して脅迫するのは医学生の山崎努ですが、彼は夏は暑くて眠れない、冬は寒くて眠れないところに住み、丘の上の冷暖房完備の豪邸を見て憎しみを募らせて犯行に及んだと最後に明かされます。つまりこれは「持つ者」と「持たざる者」との葛藤劇なんですよね。

なのに、その持つ者が他人の子どものために身代金を払うような情に厚い人間に設定していいのだろうか、という疑問が湧きます。

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三船は最初は「身代金は絶対払わない」と断言しますよね。出資者から募った5千万で頑固者の社長やろくでもない靴を作って儲ければそれでいいと考える最低な重役たちから会社を守らなくてはならない。町工場の東野英治郎の言葉にあるように、三船は厳しいけれど一生懸命働く従業員のことをちゃんと見る目をもった人間で、株の買い占めをひそかに進めていたマキャベリスト的な側面もあるけれども、基本的に頑丈な靴とファッショナブルな靴は両立しうると考えるロマンチストであり、それを実行する力も技術もある。

三船はとてもいい人なのです。だから結局、情にほだされて身代金を払ってしまう。重役たちみたいに悪い奴じゃないし、三橋達也のように常にどちらにつくほうが得かを考える卑劣な性格でもない。一本気すぎるから敵が多いだけ。

だから、持たざる者・山崎努はなぜ三船の子どもを狙ったのか少しもわからない。運転手の子どもを誘拐してしまったとわかっても「権藤さん、あんたは払うよ」と自信満々に言う。ということは三船が基本的にいい人であることを調査済みなわけですよね。重役連中だって同じぐらいの金はもっているわけだし、連中の誰かを狙ったほうがよかったのでは?

ただ、卑劣な重役たちがもし「運転手の子どもだから」という理由で身代金の支払いを拒否したら誰も被害者に感情移入しなくなります。だから脅迫された側が誰であろうと身代金を払うのは致し方ない。でもそうなると持つ者と持たざる者の葛藤劇というテーマが薄まってしまう。

だから、運転手の子どもを間違って誘拐してしまうという原作にもある基本アイデアが誤りなんじゃないかと思うんです。自分の子どもであれば他の重役たちでも身代金は払うでしょう。自分かわいさだけの被害者と、そういう金持ちを憎む貧乏人という設定のほうがよかったように思います。エド・マクベインの「間違った子供を誘拐しても脅迫は成立する」という斬新なアイデアにこだわりすぎたんじゃないでしょうか。


後半はすべてオフにすべきではなかったか
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今回この映画を見ていて一番痛烈に感じたのは、刑事たちが大活躍する後半をまるまるカットすべきじゃないか、ということです。刑事たちと犯人の駆け引き合戦は見応えがありますが、持つ者と持たざる者との葛藤劇というメインテーマと何の関係もないですよね。


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しかもですよ、山崎努は共犯者の麻薬中毒者を殺したり、警察の罠にはまってまた別の中毒者を殺しますが、彼はドヤ街の中毒者たちからすれば「持つ者」ですよね。持たざる者として持つ者へ天誅を下そうとした人間が自ら持つ者として持たざる者を殺害する。それはないでしょう。いったいこの映画のテーマは何なのでしょうか。

だから刑事の活躍はすべてオフにする。だって彼らは二人のドラマに何の関係もないから。

そんなことより、三船が山崎努と同じように丘の下から自分の家を見上げる場面が必要だったのではないか。

自分が金持ちだから狙われた。しかし悪いことをやって稼いできたわけではない。と激昂するも、丘の下から自分の豪邸を見上げてみると、確かに醜悪な気がしないでもない。だからといって人の子どもを誘拐していいわけではない。とはいえ、自分も幼い頃は貧しかった。貧乏人の気持ちはわかる。しかし……というふうに三船のゆれる心情を丁寧に追っていったほうがよかったように思います。

そのうえでラストの山崎努の絶叫に言葉を失う三船の背中を見せられたら本当の感動があったと思うのです。


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