映画

2020年03月29日

本来であれば今日見に行こうと思っていたアメリカ映画『ハリエット』が公開前日に突如延期となりました。


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これまでにも新型コロナウイルスのせいで公開延期になった映画はいろいろありますが、予定通り公開されてるもののほうが圧倒的に多いですよね。

アメリカはすべての映画館が営業できなくなったらしいですが、いまのところ日本では、不急の外出自粛要請の出た東京の映画館が週末営業を休止する程度。神戸ではすべての映画館が営業しています。

だから、新型コロナウイルスのせいで上映できないわけではなく、上映館はあれど「いま公開しても儲からない」と判断された映画が延期になってるわけですよね。(『ムーラン』や『ワンダーウーマン1984』のように、全米公開後に日本公開となっていたのが、全米での公開が延期になったため日本での公開も延期というのはもちろんこの話の対象外です)

いま公開しても儲からない。

それは、いまはいくら映画館が営業していてもみんな濃厚接触を嫌って映画館に行こうとしない。だから……ということなんでしょう。神戸の映画館も押しなべて「いつもの5割から6割程度の入り」だそう。(ただ、ライブハウスやスタジアムと違って映画館ではほとんどの人が口を開かずに黙って見ているだけなので飛沫感染のおそれはかなり低いと専門家が言ってましたけど……それはまた別の話)

『ハリエット』みたいなノースター映画の場合は通常の状態でもそんなにたくさんの観客動員は見込めないから、この状態で公開したら大赤字でしょう。

『ストーリー・オブ・マイライフ』はシアーシャ・ローナンやティモシー・シャラメがはたしてスターなのか否かは微妙ですが、結構地味目な映画だから公開延期というのは賢明な判断のように思えます。

一方で、『三島由紀夫vs東大全共闘』のような好事家しか見ないような映画が、上映館数が少ないにもかかわらず興行ランキングトップテンに入ってくるという状況が出来していて、なかなか面白いな、と。

何が言いたいかというと、予定通り公開に踏み切るか、それとも延期するか、配給会社の判断が見ものというか、映画そのものよりも「この映画は延期したほうがいいのでは?」とか「これは延期しないほうがよかったんじゃないか」とか、そっちのほうが面白くなってきたな、ということ。『ハリエット』の配給会社も会議に会議を重ねたんだろうな、というのが目に浮かびます。何しろ公開前日に延期決定ですからね。

数か月後か1年後にはその正否が判明するわけで、楽しみ。

そういえば、製作された97年秋に日本公開が決定していた『L.A.コンフィデンシャル』が、「拙速に公開してもコケるだけ」と延期に延期を重ね、焦らしに焦らせて翌夏に公開してスマッシュヒットを記録したことが思い出されます。

あれはウイルス禍とは無縁とはいえ、いつ公開するかで儲けが違ってくる状況は同じなわけで、各配給会社の判断が非常に面白い今日この頃。

でも、こんな呑気な話はまだまだ感染とはほとんど無縁だから言えることであって、もっと広がってきたらそれどころじゃなくなるから注意しなきゃ。映画館に行っても手洗いや除菌・消毒は怠らないようにしましょう。

とはいえ、いくら自分が気をつけていても職場で感染者が出て一時的に閉鎖となったら給料が減ってしまう。映画どころじゃないぞ。しかも、今回のウイルスは突然変異しやすいらしいからワクチンができても無意味になる可能性が高いとか。いったいいつまで続くのか。

最後に蛇足。
『ストーリー・オブ・マイライフ』はコロナに関係なく109シネマズで公開する映画じゃないと思いますがね。ウイルス禍を奇貨として単館系にシフトしたほうがいいのでは?




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2020年03月25日

いまだにこの映画がカンヌでもオスカーでも『パラサイト』に負けたというのが信じられない2019年フランス映画『レ・ミゼラブル』。(以下ネタバレあります)


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つい先日、ブライアン・デ・パルマの8年ぶりの新作『ドミノ 復讐の咆哮』というのを見ましたけど、この『レ・ミゼラブル』のほうがよっぽど「ドミノ」だと感じたのは私だけではないでしょう。

お話の転がし方にも工夫がありますが、私はやはりラジ・リという監督さんの演出力に驚嘆しました。

これは何度も言っていることですが、京都の専門学校に行っていた頃、監督を目指す友人たちは「どう撮るか」ばかり考えていました。

カメラをどう動かすか。
どうつなぐか。
光をどこに当ててどこに当てないか。

などなど。

それも大事でしょうが、役者への演技指導が監督の一番の仕事じゃないの? というのが私のスタンスでした。


荒井晴彦さんの誤解
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脚本家の荒井晴彦さんがよく映画芸術誌上で言っています。「どう撮るか」は監督の仕事だが「何を撮るか」は脚本家の仕事だ、と。

本当にそうでしょうか?

脚本を書いていた者の感覚からすると、脚本にだって「どう」はあると思うんですよね。この題材を映画にする場合、どういう切り口で語るべきか、というのは「どう」の範疇でしょ?

逆に、できあがった脚本に「何を撮るか」はふんだんに盛り込まれているとはいえ、やはり実際の現場に行って実際の役者がそれぞれの役を演じるとなると、そこには「何を見せるか」という問題が出てきます。

つまり演技指導です。脚本には小説と違って必要最小限のことしか書かれてないから同じセリフでもどう抑揚をつけるかとか、喋りながら動くのか、あるいは、立ち止まって喋るのか。脚本にもある程度動きが書かれているとはいえ、そこは役者の生理や全体のバランスを考えて変えていかねばなりません。

セットや衣裳のデザインや光の塩梅なども「何を」のうちに入るのでしょうけど、一番はやはり「役者」ですよね。役者が「何」を担当する。その「何」を演出するのは監督の役目です。

脚本家も「何を撮るか」を書くけれど、監督も現場で「何を撮るか」を形作る。

荒井さんは監督もやってるのになぜそんな大きな誤解をしているのだろうと不思議です。


『レ・ミゼラブル』
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『レ・ミゼラブル』では役者が輝きまくっていました。

私の中の「映画史上最高の演技」は『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマンなんですけど、あれに勝るとも劣らない「まるで目の前に実際に存在しているかのような」芝居が繰り広げらていました。

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子どもたちへの演出はもっとよい。この子どもたちはこの映画でかなり重要な役柄を背負っていますけど、物語上重要だからというより、やはり現場での演技指導が卓越していたから印象に残るのでしょう。彼らもジーン・ハックマン並みの芝居を見せてくれます。ラストシーンのあの表情!

とはいえ、ラストははっきりあの火炎瓶を投げて大炎上し、警官が子どもを撃ち殺して……というカタストロフをちゃんと見せ切ってほしかったという思いもあります。あそこで幕というのはちょっと手抜きな気がしないでもない。

カメラも最近の映画特有の手持ちカメラが多く、最初はぐらぐら揺れるカメラに「またか」と辟易しましたが、映画があまりに充実しているので気にならなくなりました。

ただ、ここは手持ち、ここはフィックスという分け方に意味がなかったような……? 「何」を担当する役者があれだけ魅力的なら全編手持ちカメラで撮ってもよかったように思います。(個人的には全編フィックスのほうがいいけど)

とにかく、今年見た映画の中では、臨場感という点では『1917』より素晴らしく、映画全体としても『フォードvsフェラーリ』より上を行くとんでもないものを見たという感じです。

いまはお腹いっぱいで他の映画を見る気になれません。時間と財布が許してくれたらもう一度見に行きたいくらい。


演技指導論草案 (青空文庫POD(大活字版))
伊丹万作
青空文庫POD[NextPublishing]
2014-10-31





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2020年03月21日

星川清司脚本、増村保造監督の名作『陸軍中野学校』を再見しました。(以下ネタバレあります)



やはり素晴らしいですね。まったく色褪せない。

しかしながら何となく変なのはこの映画、戦争を題材にしているうえに、主人公が自分の恋人がスパイと知って殺すという哀しい運命を描いているにもかかわらず、少しも「反戦」というメッセージがないことですね。

脚本家も監督も、主人公たちスパイとして養成された者たちに一片の同情も感じていません。かわいそうだとか「もし自分だったら…」などという感傷とはまったく無縁なんですよね。そこが素晴らしい。


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中野学校創設者を演じる加東大介は、陸軍から「これは」と目をつけた男たちを一堂に集めて、これからは本名も捨ててもらう、スパイとして国に尽くしてもらう、と半ば強制的にスパイとして養成されることを受け容れさせます。

そして、養成の過程で神経衰弱になった男が自殺します。市川雷蔵はじめ他の者すべてが「俺もスパイなんて嫌だ」と言い出す。ここで加東大介がスパイとして国に尽くすことの意義を説き、全員が前言撤回して「俺はやります」と口々に言うんですが、冷静に考えると、このシーン、とても変です。加東大介の説得がうまいからといって、えらくみんな簡単に気持ちを覆しすぎじゃないかと。

この次のトピックは、女に溺れて盗みを犯した者(女体に関する授業があるというのが面白い)を生徒全員で恫喝まがいの説得をして腹を切らせる場面。ここも、本気でスパイになろうとしているからといって、あまりに仲間を殺すことにためらいがなさすぎる。

そう、ためらいがないんですよ。この映画では登場人物が大きな決断をする場面が多々あるにもかかわらず、ためらったり言いよどんだりすることがまったくない。ほとんどないんじゃなくてまったくありません。心の中では様々な葛藤があるんでしょうが、映画の作り手たちはそんなものには少しも興味がないようです。


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最後、婚約者が英国のスパイだと知った主人公が彼女を毒殺するんですが、ここでの市川雷蔵もあまりにためらいがない。加東大介に「おまえが殺せ」と言われても悩むということがない。

淡々と会話をし、淡々と酒に毒を盛り、淡々と飲ませ、淡々と遺書を偽造し、何事もなかったかのように去っていく。

「スパイとして養成された男が、恋人が他国のスパイと知って殺す物語」において、そこに潜む複雑な感情を捨象しすぎじゃないか、と思うのですが、これはおそらく、そういう愁嘆場の多い日本映画が嫌いだった増村保造監督の要請だったのでしょうね。主人公が泣きながら恋人を殺すような映画にだけはしたくない、という。

この映画は異様なまでにハードボイルドです。ヘミングウェイやハメットがペンで映画を書いたらこういう湿り気のない乾いた映画になるんじゃないかと思われるぐらい、どこまでも感傷を排した、それゆえに異様なまでに物事が淡々と進む映画になっています。

だから、主人公がひどいとも、そういう運命を与えた戦争に対して怒りを感じる、ということもありません。中野学校に批判的だった参謀本部の待田京介が女に機密を漏らしていたことを理由に最前線で死んでこいと命令されても、見てるこちらは快哉を叫ぶことがない。ただ粛々と命令を受け容れる待田京介の姿を呆然と見るほかありません。

ただ素朴に「行動」だけを描く。これがこの映画の哲学です。

これは真似しようと思っても簡単にできるものではありません。
人間と時代を見つめる冷静すぎる目(いや、冷酷な目と言っていいかもしれない)が作り手に備わっていなければ絶対に作れない傑作だと思いました。


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陸軍中野学校
市川雷蔵
2015-09-21





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