聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

血を吸うカメラ(KaoRiさんのアラーキー告発をめぐって)

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自分でも「天才」と称し、そういう振る舞いが「彼らしい」と称賛されることが少しも不思議ではなかったアラーキーこと荒木経惟が16年もの間モデルをしていた女性KaoRiさんから告発されて話題になっています。

ネット上では「アラーキーの写真はもう見ない」とか「アラーキーなんて死刑になるべきだ」などのバッシングも起こっているようです。彼は、ひどい嘘で騙して裸にしたり、脅迫したり、納得できない書面に強制的にサインさせたり、やりたい放題だったので断罪されてしかるべきでしょう。

でも、私自身はあまりそういうことに関心がありません。もっと構造的な問題のほうに興味が……。

と思っていたら、「これはアラーキー個人の問題ではなく、広く芸術一般の問題として捉えるべき」「『撮る/撮られ』『見る/見られる』という権力構造の問題だ」という冷静な卓見もあって、私はこちらに与したい。そして、参照すべきは1960年のイギリス映画『血を吸うカメラ』です。さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」でしょう。


『血を吸うカメラ』
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物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死する、というもの。(ちなみに、この主人公は撮影所に勤務する映画監督志望の青年ですが副業としてアラーキーのようなヌード写真も撮っています)

撮る人間が撮られる人間を殺すという、まさに「撮る/撮られる」という権力構造・支配構造ですね。

なぜ主人公がこのような凶行をするようになったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。

彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。

ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。
友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしてこうしてと言われることが快感であると。

だから撮る者は支配者なのだから当然快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。KaoRiさんだって撮られることそのものには少なからず快感を感じていたはず。でなければ16年も被写体でいられたはずがありません。実際、告発文にも撮られること自体が不快だったとは一言も書かれていません。

『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。

あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。だからといってもちろん、別にいいじゃないかと言いたいわけではありません。冒頭に記したとおり、アラーキーは断罪されてしかるべきです。

しかしながら、アラーキーとKaoRiさんが『血を吸うカメラ』の父子のように「共依存」の関係にあったことは間違いありません。まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題じゃないでしょうか。

一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られることそのものに快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。

だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。

と思ったいたら、ある方が「『撮る/撮られる』という関係性から抜け出る手段として『自撮り』がある」と発言されていて、これも卓見だとは思ったものの、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。あの映画には「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。


自分自身に見られる恐怖
PeepingTom
この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実はなのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、つまり恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。

殺人鬼や彼が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。

自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。これはもうアラーキーのセクハラ・パワハラから完全に離れて「写真」というものの本質の話です。

別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分は撮られている」という感覚からは絶対に逃れられないのではないでしょうか。


盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。
盲人ならではの勘の鋭さで主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。
これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーのパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。
いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。

この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。


「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまりそのような支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。

撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは「血を吸うカメラ」になるのだと思います。

「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけの存在ではないでしょうか。

ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。

だから、現代において「カメラはすべて血を吸うカメラである」と言っていいと思います。

カメラマンはモデルの血を吸っている。
モデルはカメラマンに血を吸われている。

両者がこの事実をきちんと自覚していれば被害は最小限に食い止めることができるような気もしますが、構造的な問題である以上、我々人間にそのような芸当がはたして可能なのでしょうか。



『死刑執行人もまた死す』(原題が複数形の理由は?)

脳科学者・中野信子さんによる『シャーデンフロイデ 他人を引きずり下ろす快感』(幻冬舎新書)を読みました。

誰かがちょっと失敗したときに感じる喜びの感情のことをドイツ語で「シャーデンフロイデ」というらしいですが、この本は「嫉妬」や「妬み」(この二語は心理学上は厳密に区別されるとか)に関する内容がいつの間にやら、「愛」や「正義」を盾に世の中を良くしようとするあまり、他者に対して残虐になるごく普通の人たちの恐ろしさを説いて終わります。

それを踏まえたうえで、フリッツ・ラングが戦時中にアメリカで撮った傑作『死刑執行人もまた死す』を見ると、いままでとは違った感慨がありました。「手に汗握る痛快無比なサスペンス」と思っていましたが、こちらの心をグサリと刺してくる「自己言及映画」がその正体でした。


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ナチスに占領されたチェコを舞台に、「死刑執行人」と恐れられたラインハルト・ハイドリッヒ暗殺事件という史実を基に練り上げられた物語です。

もちろんのこと、ナチスとナチスに与する者が「悪」として描かれています。

しかし、それにしても、原題は「HANGMEN ALSO DIE!」で、ハイドリッヒは一人だけなのになぜ「HANGMAN」ではなく「HANGMEN」と複数形なのかずっと不思議でした。それが今日やっと解けました。


国家のためのロボット
ハイドリッヒ暗殺犯ブライアン・ドンレビーは、チェコを愛するがゆえにハイドリッヒを殺しました。が、ナチスは民衆に密告を奨励し、暗殺犯が捕まらないかぎりは無辜の市民を処刑すると脅して無関係の人間を人質として連行します。暗殺犯は「自分が自首すれば誰も殺されないですむ」と懊悩しますが、「君はナチスが亡びたあと祖国再建のために必要な人間だ」と説得され、自首しないことを選びます。

妙です。
確かに暗殺犯ドンレビーは懊悩しています。同胞に説得される結構長いシーンは野田高悟ふうに言えば「演じられなければならない場面」です。ですが、ひとたび説得されるや、自分のせいで人質としていつ処刑されるかわからない身になったウォルター・ブレナンや彼の娘である主人公(はたして本当に彼女が主人公なのかどうかはいまは措きます)の苦しみなどないかのように、盗聴している敵の裏をかいたり、まるでロボットのように粛々とナチスとの戦いを遂行していきます。

主人公の女ですら妙です。
最初は父親が人質になったので暗殺犯ドンレビーをゲシュタポに売ろうとします。その心情は理解できます。が、馬車の御者らが妨害し、さらに「ゲシュタポに行くつもりだった」という声を聞いた路上の民衆に囲まれて密告を断念します。
そのあとはまるで密告という行為がこの世に存在しないかのようにブライアン・ドンレビーを売ることが少しも頭をよぎらないようです。ちょっとはそういうことを口走ったりしてもおかしくないのに。
しかも最後は父親が殺されるんですよね。暗殺犯である英雄ブライアン・ドンレビーのせいで。なのに彼女の悲しみやドンレビーへの恨みを描くことなく映画は終わります。

この映画では一人一人のキャラクターが「人間」ではなく「国家のためのロボット」ように描かれています。ドイツ人もチェコ人も同じです。


売国奴チャカをめぐって
後半の主眼は、ドンレビーが暗殺犯だと悟られないことと、同胞をナチスに売っていた売国奴チャカを成敗することが同時に進行します。結局、チェコ人たちは売国奴チャカを暗殺犯に仕立て上げることに成功し、正義は勝つ!みたいな凱歌を高らかに歌い上げる歌声がオーバーラップして幕を閉じますが、『シャーデンフロイデ』を読んだ私にはとてもハッピーエンドには見えませんでした。

手に汗握るサスペンスであることは変わらないし、裏切り者チャカが殺されるシーンなど痛快無比ですが、しかし、結局この映画はチャカを告発して成敗しておきながら、チャカを告発し断罪するこの映画そのものを告発しています。

国家のためにならない者は排除する。それはナチスが党是としたものです。チャカを許せないと思い、彼が殺されるシーンでカタルシスを感じる観客もまたナチスと同根なのでは? というラディカルな問いかけ。

だから、「HANGMEN」とは私たち民衆のことなのでしょう。複数形である理由がやっとわかった次第です。あのラストの凱歌は決して勝利の歌ではなく「新たなる全体主義の歌」なのだと思います。

ナチスは確かに悪の権化である。しかし人間である以上、誰しもナチスなのだ、誰もがヒトラーなのだという過激なメッセージは、監督や脚本家がドイツ人だからこそできたことなのかもしれません。




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坂元裕二さんに学ぶ「超簡単! キャラクターのつくり方」

古くは『東京ラブストーリー』、最近のものでは『anone』『カルテット』などの脚本家・坂元裕二さんから教わったことを開陳しちゃいましょう。


超簡単! キャラクターのつくり方
まず「男のあるある」を順番に端から全員言わされました。憶えているものを挙げると、

「虚勢を張ることが男らしいことだと勘違いしている」
「プライドが高い」
「女に対して支配欲がある」
「ナルシストが多い」
「意外に傷つきやすい」
「彼女の過去の恋愛にこだわりすぎ」

次に「女のあるある」に移り、

「福山雅治が好き」
「レディファーストされるのが当たり前だと思っている」
「女だってスケベなくせに下ネタを言う男が嫌いとかわけのわからないことを言う」
「男に勘違いさせるために生まれてきたのではないか」
「行列に並ぶのが好き」
「クーポンを使う男が嫌い」
「何でもカワイイを連発する」

などなど。

全員が一つ一つ言うわけですからこれだけでもかなりの時間がかかります。いったい何のために? と思っていたら、驚愕しました。

「ここに挙げられた男と女をすべて入れ替えてみましょう」と坂元さんはホワイトボードの「男」を「女」に、「女」を「男」に書き替えました。ついでに「好き」を「嫌い」、「嫌い」を「好き」にも適宜書き換えられました。するとどうでしょう!

男のキャラクター案
「福山雅治が好きな男」
「下ネタを言う女が嫌いな男」
「行列に並ぶのが好きな男」
「クーポンを使う女が好きな男」
「何でもカワイイを連発する男」

女のキャラクター案
「虚勢を張ることが女らしいと思っている女」
「レディファーストされるのを嫌がる女」
「下ネタを言う男が大好きな女」
「プライドが高く、男に対して支配欲のある女」
「ナルシストで意外に傷つきやすい女」
「クーポンを使う男が好きな女」
「彼氏の過去の恋愛にこだわる女」

簡単なようであまり思いつかない人物像が浮き上がってきました。男と女を入れ替えるだけで斬新なキャラクターが作れてしまうということに瞠目せざるをえませんでした。

これはあくまでも一例です。ご自分でいろいろやってみてください。

私はこれをヒントに、いまやっているキャラクター作りを進めています。上記の通りのやり方は実践してきましたが、今回新たに思いついたのは、「主人公と脇役のキャラクターを考える順番を逆にしてみる」というもの。

ずーっと、まず主人公を作ってそれから脇役を作るという順番でやってきましたが、脇役を作ってから主人公を作ったら思いもしなかった人物が見えてくる気がしたので。うまく行くかどうかはわかりませんが、坂元さんから教わった「逆転の発想」は大事にしたいな、と。


坂元さんのヤングシナリオ大賞受賞秘話
これは余談ですが、坂元裕二という人がフジテレビのヤングシナリオ大賞を受賞して世に出た人だとは広く知られていますけど、受賞作品は当初は2時間もののシナリオだったそうです。それをあるコンクールに出したら一次で落選し、未練があったので内容はそのままで削りに削って半分の長さに縮めたら大賞をもらったとか。

これは示唆的ですね。

キャラクターが斬新だとか、根本的にお話が面白いとかの前提が必要ではありますが、逆にいうと、仮に斬新で意外性がある内容でも不要な描写がたくさんあると少しも評価されないということですね。

頑張まっていきまっしょい。


黒沢清の言葉(物語を読むことについて)

ちょうど10年ぐらい前のことをふと思い出したので書きます。


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大阪のシネマテークで黒沢清監督特集上映がありまして足繁く通っていたんですが、そのとき、そのシネマテークの館長で『地獄の警備員』の脚本家でもある富岡邦彦さんを交えたトークショーがあったんですね。

司会の若者二人は関西を拠点に活動する映画批評家とかでまったく名前の知らない人でしたが、蓮實重彦の表層批評にかなり影響を受けているらしく、そのときちょうど上映されていた『叫』の映像がすごいすごいと二人だけで盛り上がっているのを富岡さんが冷めた目で見ていました。

そんな富岡さんも、「もともと僕も荒井晴彦さんが重んじているようなモラル・ミーニングな物語には興味がなかった。映画は映っているものがすべてだと思っていた。ヴェンダースの映画を見て、こいつとは絶対わかりあえると思った」というぐらい蓮實的表層批評の影響を受けている人ですが、そんな富岡さんも内容にはまったく触れず映っているものだけをあげつらってすごいすごいと盛り上がっている二人の若者を非常に冷めた目で見ていたのが印象的でした。

そして、最期の日のオールナイト。黒沢監督が来阪してトークショーが開かれました。

くだんの表層批評の若者二人が再び司会役として黒沢さんにいろいろ訊くんですね。当然ながらすべて画面に関することばかり。映画なんだから映ってることがすべてなのはわからんではないけどちょっと偏りすぎではないか。と思っていたら、高校生っぽい子が質問があると手を挙げた。

「『叫』で、好きにすればいいのよ、と言われた主人公が、そう言われたために逆に何をしたらいいのかわからなくなるというのがとても印象的でした。ミシェル・フーコーが人間は自由にやれと言われたら途端に何をすればいいかわからなくなると言っていますが、『叫』にはフーコーの影響があるのでしょうか」

黒沢さんは「フーコーがそういうことを言ってるんですか? いやぁ、僕は読んだことがないんで何とも言えないんですが…」と言って笑いました。司会の若者二人も笑っています。でも黒沢さんの笑いはフーコーを読んだことがないことを恥じる照れ笑いでしたが(ちなみに私もいまだにフーコーって読んだことないです)司会の二人の笑いは明らかに「嘲笑」でした。

そんな「内容」に関することを訊いてもしょうがないだろう。この人は映画を内容から解放した蓮實の弟子だぞ。とでも言わんばかりの顔で。

すると、黒沢さんが言いました。

「フーコーが具体的にどういっているかわかりませんが、なぜでしょう。人間ってほんとそういう生き物なんですよね。あれやるなこれやるなと言われたら反発していろいろやっちゃうのに、好きにしたらいいと言われたら途端に何もできなくなる。フーコーは読んだことないから影響があるかと訊かれたらないとしか言えません。でも、まったく同じ問題意識を僕も以前からもっています。これは事実です」

と言ったまま、しばらくじっと考え込み、そして、「あ、そうか、俺はそういうことを無意識に考えながらあの映画を作っていたんだ」というような晴れ晴れとした顔になり、

「いや、どうもありがとうございます。そこまで深く読んでいただいて」

司会の二人は完全に小さくなっていました。「あの黒沢清が内容について語っている」というのが相当意外だったようです。

しかしそんなの当たり前でしょう。自分で脚本書くんだし、そうでなくとも内容について考えない映画監督なんていませんよ。


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蓮實重彦だってそうでしょう。
この人が世に出た頃は、内容ばかりについての評論ばかりだったから、「それは違うだろ」とカウンターパンチとして表層ばかりを語っていましたが、しかし、著作をよく読んでみると、

「人物の輪郭がくっきりしているのがいい」
「映画は、脚本と上映時間の問題である」
「この新人監督は、これからも同じレベルの脚本が書けるなら先は明るい」

みたいなことを書いているし、監督としての山田洋次はまったく評価していませんが、脚本家としてはかなり高く評価していたみたいです。

それに数年前、「これからの若い批評家には、映画と社会の関係について論じてもらいたい。なぜ資本主義企業が社会主義を礼賛する作品を量産してきたのか、とか」と言ってましたよね。

おそらく、自分の発言があまりに力をもちすぎたことに危機感をもったんじゃないですか。映画を内容から解放したのはよかった。私自身、蓮實から映画の見方を学ばせてもらいました。でも、それがすべてではない。

内容と表層。どちらも大事。どちらかだけ大事なんてありえない。人間だって肉体と精神のどちらが大事かなんて言えないし、そもそもその二つが密接に絡み合って一個の人間になっている。

映画だって同じはずです。



『赤い河』(「契約」をめぐる物語)

久しぶりに見ました。ハワード・ホークスの名作『赤い河』。


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この映画が、「ダークサイドに堕ちた主人公が手下の手助けによりヒーローとして復活する“神話”」であることは誰の目にも明らかなのでそれについては何も付け加えることはありません。

今回の発見は、この映画が「契約」をめぐる物語ということに気づいたということですね。劇中で「契約」や「契約書」という言葉が頻発するのにいままでまったく気がつきませんでした。


カウボーイという「仕事」
まず、物語はジョン・ウェインが牛追いの部隊を離脱するところから始まります。「そんなことは許さない」というリーダーに対し、「俺はあんたと契約してない。途中から加わっただけだ」と平然と去っていきます。リーダーも契約がない以上何も言えないようでした。

ジョン・ウェインがダークサイドに堕ちるのは、彼の横暴な振る舞いに対する反発が主な原因ですが、眠っている間に逃げたカウボーイを手下を使って連れ戻させると、そのカウボーイも「あんたとは契約してない」と自らの潔白を主張します。ジョン・ウェインはおそらく最初から「契約」ということが大嫌いなんだと思います。契約書の有無で人間の行動が制限されるなんていやだと。でも、その彼も最初「契約がない」ことを盾にとって離脱したんですよね。

この映画はカウボーイを「職業」として捉えています。どうしても現代人は『真夜中のカーボーイ』みたいにカウボーイを「ファッション」として捉えがちですが、あれはれっきとした職業。そういうところをきっちり描いているのが魅力なんですが、文字で書かれた法律や契約書ばかりを重視するアメリカ社会というのは西部開拓時代からのことなんだな、と勉強になりました。
現代社会も仕事といえばまず「契約書」。しかしそれで本当にいいのだろうか、というのがおそらく脚本家ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの思想なのでしょう。


ウォルター・ブレナンの入れ歯
ジョン・ウェインの唯一の理解者たるウォルター・ブレナンが隊員のインディアンとのポーカーで入れ歯を賭けて負けるシーンがあります。もちろん入れ歯は取られてしまい、ジョン・ウェインに泣きごとを言っても「負けたんだからしょうがなかろう」とは言いませんが、そういう態度で少しも助けてくれません。

ギャンブルでは契約書など取りませんが、負けた以上は賭けた物を相手に渡さないといけないという暗黙の了解事項がある。だけど金ならいいが入れ歯という生活に必要な物でもそれが契約だからと言われたのではたまったものじゃない。

そもそもウォルター・ブレナンはジョン・ウェインに「惚れたから」ついてきただけで、おそらく契約書など交わしていないはずです。それはモンゴメリー・クリフトもそうでしょう。彼らはあくまでも「契約」ではなく「信頼」でつながっているのです。


「神」との契約
砂糖泥棒が立てた大きな音のせいで大量の牛が逃げ、そのせいで優秀なカウボーイが死んでしまう。ジョン・ウェインは聖書の一節を読んで埋葬します。そして砂糖泥棒を殺そうとしますがすんでのところでモンゴメリー・クリフトが止めます。
「殺して埋葬してまた聖書を読むつもりだったのか。なぜ神様とグルになるんだ」と他のカウボーイに責められるんですが、このセリフは重要でしょう。

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この映画では半分以上を空が占めるショットが満載なんですが、神が人間たちを見下ろした映画のように感じます。
そういえば、ブルーハーツの名曲に『青空』というのがあります。

「神様へ賄賂を贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのかい」

ジョン・ウェインは神へ賄賂など贈っていませんが、隊員がみな神と契約を交わしたキリスト教徒である以上、死んだのだから聖書を読んで追悼しているだけ。と彼は思っていますが、おそらく彼は無意識に自分自身が「神」になろうとしている。

その証拠に、ジョン・ウェインは契約を交わしてない者まで「離脱は許さない」と言い出す。契約してないから離脱する。というのは彼が物語の最初にした行為なのに、それを許せなくなってくる。ダークサイドに堕ちるとはこのことですが、ジョン・ウェインはこの時点で、「俺の隊にいる以上は全員俺と契約を交わしているのだ」と思いたいのでしょうね。別の神との契約を絶対に許さない唯一神ヤハウェと相似形を成しています。


眠らせない=眠れない
完全にダークサイドの堕ちたジョン・ウェインに、モンゴメリー・クリフトもウォルター・ブレナンさえもが別れを告げます。
ジョン・ウェインは隊員を眠らせないことで逃げることを防止しようとしましたが、彼を追い出したモンゴメリー・クリフトや他の隊員たちは、今度は「いつジョン・ウェインが追ってくるか」が気になって眠れなくなります。まるでジョン・ウェインが神か悪魔のようです。


「撃ち合い」ではなく「殴り合い」
ジョン・ウェインの後釜に収まったモンゴメリー・クリフトは幾多の苦難を乗り越えてミズーリまで1600頭の牛を無事に運びます。そこで出会った資産家に「すべて言い値で引き取る」と言われ歓喜しますが、そのとき資産家は「契約書を作らねば」と言います。そりゃ契約書がなくてはすべて持ち逃げされるかもしれず、そうなればモンゴメリー・クリフトは手下たちに給料を払えなくなる。だから契約書は絶対に必要なものなんですけど、資産家から契約書を渡されたとき、どうにも暗い顔になっています。ジョン・ウェインから奪った牛だから、というのが通常の解釈でしょうが、私には「契約書」というものがモンゴメリー・クリフトも嫌いだからというふうに思えてしょうがない。



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最終的にこの映画は殴り合いによって解決します。ジョン・ウェインは最初撃ち合いでケリを着けようとするんですよね。拳銃を抜こうとしないモンゴメリー・クリフトに対し「抜かせてやる」と自分の拳銃を抜き、何度も撃つ。

この時代の西部では、相手が抜いたら自分も抜いて撃ち殺してもよかった。『夕陽のガンマン』の冒頭は「どちらが先に抜いたか」をめぐる裁判で、相手が先に抜いたとの証言を得たリー・ヴァン・クリーフは無罪になります。それがこの時代の「法」です。法とは人間同士の契約のことです。

でも、モンゴメリー・クリフトはそのような契約を嫌うがために絶対に抜かない。俺とあんたとはそういう関係じゃなかったはずだ、という涼しい笑みを浮かべるモンゴメリー・クリフトが最高です。その笑顔を見せるためのジャップカットの手法もお見事! そしてジョン・ウェインは拳銃を捨てて殴り合いとなる。殴り合いには法もへったくれもありませんから。

ちょっと前のシーンで、ジョン・ウェインはモンゴメリー・クリフトの許嫁になるであろう女に「俺は息子がほしかった」と言います。息子とはつまり「契約書を必要としない人間」のことでしょう。それが体を張った殴り合いによって(再び)得られる。

だから、正確には「ジョン・ウェインがヒーローとして復活する物語」というよりは「失った息子を再び取り戻す物語」といったところでしょうか。

最後は新しい烙印を二人で決めますが、それについての契約書など存在しないはずです。口約束だけ。それでいいんじゃないの? それだけだとまずくなる社会っておかしいよ! 

最後ほんの数分ですべてが解決するのは、ボーデン・チェイスとハワード・ホークスの連係プレーによるものだということがようやくわかった次第です。映画において「監督だけの単独プレー」などありえません。


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