聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

『ブリグズビー・ベア』(脇役が誰一人として主人公に牙をむかない)

傑作と評判の高い『ブリグズビー・ベア』を見てきましたが、着想は素晴らしいのに……と残念でなりません。

主人公ジェームスは幼い頃から定期的に届く『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオが楽しみでしょうがない日々を送っているが、わけのわからないままに警察に保護され、やさしい両親だと思っていた夫婦が実は誘拐犯で、実の親が待っていることを知ります。
そして『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオは誘拐犯夫婦が作った偽物の映画で、主人公が見てきた世界はすべて嘘っぱちだった。だから『ブリグズビー・ベア』はもう続きが見られない。それなら自分で作ろう!

誘拐犯夫婦が作っていたと知ったジェームスは嘆くどころか「それはすごい!」とガッツポーズをするし、続きが見られないと知っても嘆かずに自分で作る息巻く。ここらへんの感情表現や積極的な行動は素晴らしく、なるほど、これは噂にたがわぬ傑作だ。

と、思っていたんですが……


ホームドラマなのに「家族」がきちんと描かれない

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誘拐犯を逮捕した担当刑事グレッグ・キニアはジェームスが『ブリグズビー・ベア』の続きを作るというとめちゃくちゃ積極的に手伝いますが、刑事はそんなに暇じゃないだろうというツッコミ以前に、主人公にとってとても都合のよい人物になってしまっています。

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対して、クレア・デインズ演じるカウンセラーは『ブリグズビー・ベア』なんて嘘っぱちだったんだから続きを作るのなんてやめなさいと諭す。

手伝う人間と反対する人間がいるならいいじゃないかという声が聞こえてきそうですが、それは↓この人たちが担うべき役割でしょう。

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ジェームスの実の両親。
彼らが25年ぶりに帰ってきた息子に対する思いを吐露するシーンがほとんどないのはどういうわけでしょうか。
グレッグ・キニアが押収した小道具をもってきたときも「それは犯人のものだ」と怒りますが、結局それら小道具を家の中に入れることを了承してしまう。なぜ? あそこは断固として反対しなければ。

父親は猛反対するけれど、母親が「あの子にはブリグズビー・ベアしかないのよ」と言って夫婦の間に亀裂が入ったりすると面白かったんじゃないかというか、クレア・デインズの役割を父親が担い、グレッグ・キニアの役割を母親が担えばよかったのでは? 刑事とカウンセラーを絡ませるより、もっと家族の葛藤を描かないとダメでしょう。だってこの映画は「偽物の両親に育てられた男が実の両親のもとに帰って再生するまで」という物語なわけでしょう? なのに家族以外の人物が大きな役割を担いすぎなのです。


ジェームスの作る『ブルグズビー・ベア』について
父親は一度だけ「25年も待ったのに犯人が作っていた偽物の番組に熱中するなんて!」みたいなことを言って激昂しますが、いつの間にやら『ブリグズビー・ベア』作りを手伝っている。

理由は、「見てみたらとてもクールだった」

そりゃないだろうと思いました。いくら面白くても憎き犯人が作っていた作品の続編なのに。
だから、父親はラスト近くまで反対し続けるけれど、ジェームス自身や母親とのやり取りを経て「この子には『ブリグズビー・ベア』しかないんだ。悔しいけど」という悟りの境地に達したとき初めて手伝えたんじゃないでしょうか。

だから、ジェームスの作る『ブリグズビー・ベア』は面白い必要がない。むしろ、つまらないほうがよくないでしょうか? 

面白いから作る・手伝うのではなく、駄作にしかならないと最初からわかっているけど、それでもこの子にはこの作品を作ることしかないから手伝おう、というほうがよかったように思います。

妹も長らくの間、実質的に一人っ子だったはずで、それが兄の出現によってそれまでの生活が掻き乱されているはずなのに、えらくジェームスに対して好意的ですよね。パーティーに誘ったり『ブリグズビー・ベア』作りも両親と同じく熱心に手伝う。パーティーで知り合った友人たちもみんなとても協力的。

脇役の誰一人として主人公に牙をむかない。牙をむきかける瞬間は何度もあったはずなのにスルーしてしまった。もっと毒のあるホームドラマになる可能性があったのに何とも残念です。



『女と男の観覧車』(もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいのでは?)

ウディ・アレンの新作『女と男の観覧車』。

冒頭のコニーアイランドで若い女が練り歩くシーンは明らかにダグラス・サーク『悲しみは空の彼方に』へのオマージュでしたね。
オマージュといえば、サークの50年代メロドラマを現代に蘇らせようとしているのがトッド・ヘインズ。2002年の『エデンより彼方に』がいまだに印象深いですが、そのトッド・ヘインズがマイケル・カーティスの『ミルドレット・ピアース/深夜の銃声』を連続ドラマとしてリメイクしたことはあまり知られていない。あの連ドラに主演したのがまさに『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットでした。
この映画の舞台も50年代だし、ダグラス・サーク→トッド・ヘインズ→ケイト・ウィンスレットという感じでつながっているのですね。


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さて、そのケイト・ウィンスレットのややオーバーアクション気味の芝居が鼻につくこの映画では、前作からアレン組の一員となったヴィットリオ・ストラーロが撮影監督の任についています。巷間ではストラーロの光の捉え方が絶賛されているようですが、私はまったくいいと思いませんでした。

いや、いいと思ったショットもたくさんあったんですよ。

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↑こういうのとか。

↓こういうのも。

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暖色系のアンバーが基調となっているこの映画の良さを表すいいショットですね。

しかし……

初めてケイト・ウィンスレットとジャスティン・ティンバーレイクが愛を交わす場面で、ケイト・ウィンスレットの顔がアンバー一色になり、かと思うとサァーっと寒色系のブルー一色になったりするのがどうにも好きになれません。同じようなライティングが義理の娘ともめる最後のほうのシーンでもありましたが、とにかくダサい。原色に近いくらいの強いフィルターを使って暖色と寒色をまぜこぜにするというのが、何の意図があるのかわからないし、これ見よがしな感じがしてまったく好きになれない。
それに、ケイト・ウィンスレットが登場するシーンとラストシーンで、顔が飛んでしまうくらい強い光を当てていますが、あれもダサい。あんなのストラーロじゃなくても撮れるでしょう。

ヴィットリオ・ストラーロが撮影した映画で私のお気に入りは、

『ディック・トレイシー』
『シェルタリング・スカイ』
『地獄の黙示録』

あたりですが、『女と男の観覧車』のような何の意図も感じられないライティングはなかったですよね。『ディック・トレイシー』は原色たっぷりでしたが、あれは原作のマンガの色をそのまま表現しようという意図があった。でも『女と男の観覧車』には何の意図もありません。ただ「こういう画を撮りたい」という欲望しか感じられない。監督の要望通りに撮っただけでしょうが、しかし、アレンは何ゆえにあのようなダサい画を求めたのか。

私にとって、ウディ・アレン作品の撮影監督といえばカルロ・ディ・パルマです。アレンといえばカルロ・ディ・パルマといってもいいくらい。しかし調べてみると、カルロ・ディ・パルマと組んでいたのは『ハンナとその姉妹』(1986)から『地球は女で回ってる』(1997)までのほんの10年ちょっとだけなんですね。おそらくそこで病に倒れたのでしょう。2004年に亡くなるまで何も撮っていません。

アレンはその後、

スヴェン・ニクヴィスト
ダリウス・コンジ
ヴィルモス・ジグモンド
ハリス・サヴィデス

といった錚々たる名前と一緒に仕事をしていますが、カルロ・ディ・パルマほど相性の合う人とは巡り合えていないようです。

カルロ・ディ・パルマが撮っていた頃はほぼワンシーン・ワンカットでした。アレンは自身が役者でもあるから芝居をとても大事にする。カルロ・ディ・パルマにはワンカットで撮る技術に長けていたからアレンは彼に頼りきりだったと推察します。
ただ、ワンカットで撮るためには美術監督がそのようなセットを組んでくれないといけない。アレンはずっとサント・ロカストという美術監督と組んでいますが、同じ人と組んでいるのになぜワンカットで撮れないセットにOK出したのか、まったくわかりません。

この『女と男の観覧車』はとにかくカットバックがものすごく多かったですよね。でも、イーストウッドみたいにカットバックを自家薬籠中のものにした監督とは違い、アレンは役者の芝居を細切れで見せる監督ではありません。だから編集の呼吸が悪い。イーストウッドならここぞというところでつなぐからため息が出るほど素晴らしいカットバックになるんですが、アレンにはそのような腕がないからどうにも見苦しい。

光や色に執拗にこだわるから役者への演技指導がおろそかになっている気がしました。私はケイト・ウィンスレットの大ファンですが、この映画の彼女のオーバーアクションには辟易させられました。単純に芝居が下手な女優にしか見えませんでした。

もうヴィットリオ・ストラーロとは組まないほうがいいと思います。


『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(なぜあんな撮り方を)

話題の映画『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』。うーん、ちょっとよくわからない映画でしたね。


テーマの問題
もちろんメインテーマには賛同します。
だいぶ前に『町山智浩のアメリカの今を知るTV』で紹介されていたときから面白そうだと思っていたし、それに何よりあの「男女同額のギャラ」を求めたベネディクト・カンバーバッチとはぜんぜん違いますから。(そこらへんのお話については→「ベネディクト・カンバーバッチは女性差別主義者かもしれない件」 を参照してください。映画で描かれたテニスの男女間格差についても触れています)




ビリー・ジーン・キングはあくまでも男子と女子のチケットの売り上げが同じなんだから賞金も同じにせよ、と。至極まっとうな要求です。だからベネディクト・カンバーバッチにはまったく賛同できない私ですが、ビリー・ジーン・キングには100%賛同します。

しかし、ビリー・ジーンがレズビアン(というかバイセクシュアル?)なのは事実であるとしても、「性別」のメインテーマと「性的嗜好」のサブテーマがひとつの物語としてうまくリンクしていない気がしました。「男と女のどちらが上か」という問題と、「女を性愛の対象にする女」というマイノリティの問題ってぜんぜん別だと思う。

でもメインテーマそのものには賛同しているので、クライマックスのスティーブ・カレルとの決戦は手に汗握りましたね。結果は知っていても、編集でごまかすような撮り方をせず、ワンラリーをほぼワンショットに収める撮り方には好感がもてました。

しかしながら……


撮り方の問題
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私が「なぜあんな撮り方をしたんだろう」と疑問に思うのは、画像のようなショットですね。

これはエマ・ストーンのクロースアップですが、普通にカメラを寄せて撮っているのではなく、少し離れたところにカメラを置いてズームレンズで寄った撮り方です。すぐ手前の女性の後頭部がピンボケしているからわかります。ズームで寄ると被写界深度が浅くなるので必然的にすぐ手前やすぐ奥のピントがボケてしまう。

この『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』におけるクロースアップは、すべてではありませんが半分はこのようなわざわざカメラを離してズームで寄るという撮り方がされていました。でも、なぜそのような撮り方をするのか少しも理解できませんでした。

もっと普通に撮ればいいのに。ずっとそう思いながら見てましたね。
クライマックスのテニスシーンにはそのようなショットがなかったからよけいに開放感があって面白く見ました。

もしかして、そういう狙い?(笑)


最近のアメリカ映画が人物の顔に光をちゃんと当てない件

最近はアメリカ映画を見てげんなりすることが多いです。例えば『ゲティ家の身代金』。

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すべてのカットではありませんが、だいたい室内の画はこんな感じで人物の顔にちゃんと光が当たっていず、表情を読み取りづらいんですよね。
これでは物語の展開がどうこうとかそういうことではなく、単純に見ていてイライラします。

そういえば、先日のアカデミー賞で撮影賞を取った『ブレードランナー2049』もそんな画が多かった。


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これは冒頭のシーンだったと思いますが、この映画もすべてとは言いませんが、人物の顔にちゃんと光が当たっていなくてイライラするんです。そりゃ唸るような画もありましたよ。さすがロジャー・ディーキンス! と喝采を贈りたいカットもありましたけど、最優秀撮影賞というのは大いに疑問が残りました。

先日、感想を書いたスピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』もそんな画が多かったような。

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どれもリアリティを追求しているのはわかります。特にメリル・ストリープのカットなどは夜の室内で本当に暗いのでしょう。しかし肝腎の主人公の表情が読み取りづらいと作品に没入しにくいし、没入していたのに醒めてしまったり。

例えば、『ブレードランナー2049』の35年前の前編であり、『ゲティ家の身代金』の監督リドリー・スコットの監督作品でもある『ブレードランナー』は暗い設定の室内でも役者の顔をしっかり映していました。

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これまで挙げた映画の中でこの映画が一番暗い設定だと思いますね。まぁ続編も闇ばかりなんですが、それでもこのショーン・ヤングの顔はとてもはっきり、そして美しく撮られています。

このような「普通の照明」がなぜいまはあまり採用されなくなったのでしょう。それも「アメリカ映画だけで」ですよね。私があまり他の映画を見てないだけかもしれませんが、少なくとも日本映画であのようなイライラするカットはないです。

リアリティなんかどうでもいいとは言いませんが、少なくとも光がほとんどないはずのハリソン・フォードの部屋でショーン・ヤングの顔がはっきり映るぐらいの照明は別にリアリティを損なうものではないはず。

それとも、最近は三脚にカメラを固定せず手持ちで撮影する映画がとても多いですが、あれみたいに、三脚にカメラを固定するのは時間がかかる(撮影助手が下手だとカメラマンから殴られます)時間がかかればスケジュールを超過し、予算を超過する、だから手持ちで、という場合が多いと推察されますが、照明はもっと時間がかかりますから、少しでも製作費を抑えるために自然光だけで撮ろう、ということなんですかね?
『ブレードランナー2049』はセット費やCGにも多額のお金がかかってるし、少しでも削れるところは削ろうということなのか。でも『ゲティ家の身代金』は潤沢な予算がありそうですが、どうなのかな? 撮り直しでだいぶお金は使ったでしょうが、最初に撮った画に合わせた照明になってるはずですからね。むむむ?

とにかく、人物の顔にちゃんと光を当てて撮ってほしいというのがアメリカ映画ファンとしての切なる願いです。



『レディ・バード』(道徳的だから面白くない映画)

やっと見てきました。グレタ・ガーウィグ監督、シアーシャ・ローナン主演による『レディ・バード』。
しかしながら、これが去年アメリカでベストフィルムを争った映画というのが本当に信じられない。


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「#道徳的ではないけど大好きな映画」というハッシュタグ
主人公はクリスティンという名前なのに「レディ・バード」だと主張し続けます。何か理由があるんだろう、その理由は最後に明かされるんだろうとは思ってましたが、ただ母親と和解するための小道具だと知ってげんなりしました。

レディ・バード=鳥女という名前の理由は明言されずじまいでしたが、おそらく憧れの東海岸に飛んでいきたいという願望の表れなのでしょう。それはいいんですが、母親が「クリスティン」と呼んでも「レディ・バードよ!」と親がつけてくれた名前を拒絶し、自分でつけた名前を頑として主張してやまない。
それが最後、母親の願いとは逆に憧れのニューヨークへ行くと母親の手紙が届いていて、「妊娠を望まなかったけどあなたを授かって~~」といった母親の愛情が綴られている。それでバーで知り合った男と、
「名前は?」
「デビッド」
「神を信じてる?」
「信じてない」
「親がつけてくれた名前は受け入れてるのに神は受け入れないのね」

という会話が交わされて、「あたしはクリスティン」と初めて本名で名乗る。つまり親からの愛情を受け入れる。で、母親に感謝の念たっぷりの留守電を残して終幕となるわけですが、こんなお話のどこがおもしろいんでしょう?

主人公はカトリック系の学校に通ってるんですが、整体とされるパンをおやつ代わりに食べたり、信仰心というものがない。シスターの車にもいたずらしたするけれど、このへんは面白いですよね。「笑えるから許す」と言われたり。なぜ面白いかというと「不謹慎」だからです。「不道徳」だからです。

ちょっと前からツイッターでは「#道徳的ではないけど大好きな映画」というハッシュタグが流行っています。結構いろんなツイートがあるんですけど、私は違和感を禁じえない。「道徳的ではないけど~」ということは「映画は道徳的だから面白い」というのが基本にあるわけですよね。でも、そもそも映画って不道徳なもんじゃないですか。昔は「映画なんて不良が作って不良が見るもの」と言われていました。映画に道徳を求めるなんて愚の骨頂だし、わざわざ「この映画は不道徳だけど面白い」とツイートしてる人の気が知れない。

と思っていたら、「道徳的じゃないけど私が大好きなものは映画そのものだ」という心あるツイートをしている人もいて心が休まりましたが、『万引き家族』に対して「立膝で飯を食うなんてありえない」などとイチャモンをつける人がたくさんいるこのご時世では、そういうまともな言説ほど埋没してしまうようでやりきれません。


母親との葛藤は充分に描かれたか
話を『レディ・バード』に戻すと、母親に反発していた娘が母親に感謝の念を示す物語とようやくできます。しかしながら、母親に反発していた描写がそれほどありません。確かに、地元の州の大学なら学費が割引になるから地元の大学に進学してほしいと願っていた母親と最初は大喧嘩になってましたが、映画全体を通してそれがメインの葛藤を成すような作劇になっていなかったように思います。

百歩譲って母親との確執がメインであったとしても、親に感謝することが大人への第一歩という「政治的に正しい」思想には共鳴することができません。
正しくないと言っているのではありません。正しいからこそ乗れないのです。よく中高生が新聞に投書して「いじめはいけない」ものすごい正論を言ってますよね。あれと同じだと思いました。


蛇足ながら素朴な疑問ですが、親の愛情を受け入れることと神を信じることって通底しているものなんですか? クリスチャンじゃないからわかりませんでした。





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