映画

2019年07月18日

『007』の最新作で、ジェームズ・ボンドは引き続きダニエル・クレイグが演じるものの、彼はMI6を辞め、後任の007を黒人女性が演じるというニュースが映画ファンの間でにぎわっています。


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ラシャーナ・リンチという女優さん。

私もそれはないだろう! と思いました。いくらジェームズ・ボンドじゃなく007というコードを受け継ぐだけといっても、007といえばジェームズ・ボンドであり、ジェームズ・ボンドといえばショーン・コネリー、ロジャー・ムーア、ピアース・ブロスナン、ダニエル・クレイグといった英連邦の色気たっぷりの役者が演じてきたわけですから。

この問題について、

「やっぱりジェームズ・ボンドは白人男性でないと」
「女性を007にするなら、別のシリーズを作ればいいではないか」
「もうポリコレはたくさん!」

という声があがっているようですが、私もこのニュースですぐ思ったのは「女性が007の映画なんて見たくない」というものでした。上の三つの意見のうち、後者二つには完全同意します。

が……


寅さんが女性だったら?
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『男はつらいよ』の寅さんが女だったらみんないやでしょ? みたいな声も見ました。私もいやです。そんな『男はつらいよ』(というか『女はつらいよ』になるのか)は見たいと思いません。

冒頭に述べたように、007が女性というのはいやです。007はずっと女たらしの男だったわけだから、それをいくらボンドじゃないとはいえ女性に替えてもなぁ、と。だから、女性がスパイの別のシリーズを作ればいい、という意見に激しく同意します。男たらしの女スパイシリーズは面白そう。

でもそれはあくまでも「映画」の側からの意見であって、「ポリコレ」とは何ら関係ありません。ポリコレや「差別」「ジェンダー」の問題とは分けて考えないといけないと思います。


「黒人」と「女性」
このニュースに関し、『ロッキー』を引き合いに出している記事を見ました。

「いまはもう『ロッキー』が作れない。白人が黒人をやっつける映画なんかもう作れない」

いやいや、ロッキーは1作目では自分自身と闘っているんだし、2作目ではアポロと戦って勝ちますが、別に白人が黒人をやっつけるとかそういう映画ではない。それに、あの二人は3作目では厚い友情で結ばれるわけでね。

『ロッキー』の話はともかく、007黒人女性問題において「やっぱりジェームズ・ボンドは白人男性でないと」という声には「それは嘘だろう!」と言いたくなります。


イドリス・エルバ
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多くの人が忘れてしまっているようですが、ほんの1年前に「新ジェームズ・ボンド」としてさまざまな俳優の名前が挙がっていました。その中に黒人のイドリス・エルバもいたんですよね。

いま調べてみると、イドリス・エルバがインタビューで、

「ジェームズ・ボンドが黒人なんてありえないと言われて傷ついたよ」

と言っていたのを初めて知りましたが、今回のようにポリコレがどうのこうのとお祭り状態になったりしませんでした。

「ついに黒人ジェームズ・ボンドが誕生するのか⁉」

という、期待に満ちたコメントもありました。イドリス・エルバは色気たっぷりだから歓迎する人もたくさんいたと思われます。


男は女が恐い?
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だから、やっぱり今回の騒動で焦点になっているのは「黒人」ではなく「女性」だと思う。

ちょうど昨日、芥川賞と直木賞の発表がありました。直木賞は候補の6人がすべて女性というのが話題になりました。芥川賞も5人中3人が女性で、本屋大賞もここ数年は女性作家の作品が連続して選ばれている、と。女性が活躍しているのはいい傾向だというよりは、男性にとって脅威だ、みたいな言い方でした。

芥川賞も直木賞も選考委員の男女比は5:4だから、選ぶ人の性別は特に関係ないようです。単純に女性作家の作品のほうが質が高いのでしょう。受賞できなかったけど最有力候補と言われていた『平場の月』を読みましたが、とてもよかった。

女性の能力のほうが高いというのは、去年、どこかの大学の医学部で女子受験生の点数を一律減点して男子を優遇していた一件で明らかになりました。概して女子のほうが点数が高いのです。それはおそらく他の分野でも同じなのでは? 単にいままで男性優位社会だったから世に出られない女性が多かっただけで。

先日、アリストテレスの『詩学』を再読したんですが、「女性が男性よりもすぐれた人物を演じる劇などあってはならない」みたいな文章があって驚きました。大昔はこういうのが当然で、当の女性たちも男尊女卑の思想に洗脳されていたと思われます。

最近は男女平等ということで女性の社会進出が増えてきた。男性は自分たちの既得権益が脅かされると戦々恐々。007問題もそういうことではないの?

私もポリコレは嫌いですが、「それはポリコレだ!」というのを錦の御旗に性差別やジェンダーの問題をなきものにしようとする論調はもっと嫌いです。

いまポリコレを盾に反対の声を挙げるなら、イドリス・エルバの名前が挙がったときにも同じようにポリコレを盾に反対しなきゃ。あのとき反対した人たちはあくまでも「黒人のジェームズ・ボンドなんて」という差別意識からだったわけだし。

以下は蛇足です。


女性が「主体」の映画
かつてグリフィスは「映画とは何か」との問いに、

「女と銃だ」

と答えたという逸話があります。

その「女」と「銃」ってどちらも「客体」ですよね。「主体」である男が客体たる銃を所有し、客体たる女を奪ったり守ったり殺したりするのが物語の定型だということでしょう。


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ゴダールの『映画史』で、アルドリッチの名作『カリフォルニア・ドールス』が引用されるシーンがあります。画像のうちの片方の女性がリングの外からロープを飛び越えて相手にジャンプするカットだったと思いますが、ナレーションでこんなことが語られていました。

「映画の中の女性が初めて『主体』として描かれた歴史的瞬間だった」

いま書いている脚本は女性が主役なんですが、常に念頭に置いているのは、グリフィスの「映画とは女と銃だ」を否定する、ということです。先述の「男たらしの女スパイシリーズは面白そう」というのも、女が主体的に男を客体として扱う映画ってとても痛快な気がするからです。私は男ですけど、もう「女と銃」は古いと思う。

女性が主体として屹立する映画を目指します!







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2019年07月17日

御年83歳のロバート・レッドフォードの俳優引退作『さらば愛しきアウトロー』。これが久々に色気たっぷりで艶のある映画でした。(以下ネタバレあります。ご注意を)


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拳銃を見せない演出
10代の頃から強盗に手を染め、脱獄と強盗を繰り返した実在の人物を描いているんですが、この男は「銀行強盗」と聞いてすぐイメージされる粗野な感じとは真逆で、窓口の人間に拳銃をチラリと見せるだけで大金をかっぱらっていたとか。共通する証言は「とても紳士的」「いい人にしか見えなかった」。最後のほうで明らかにされる証言は「彼は一度も拳銃を撃ったことがない」。

だからなのか、ロマンチックな邦題とはぜんぜん違う“The Old Man And The Gun”という原題なわけですが、この重要なモチーフである拳銃をこの映画はまったくと言っていいほど見せません。

確かに、窓口でレッドフォードが拳銃を見せているんだろうな、と思わせるカットはあります。窓口係が明らかに動揺してすぐ金を用意しますからね。でも拳銃そのものは見せない。

では、いつ拳銃を見せるのか。


シシー・スペイセクの動揺シーンのみ
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逃げる途中にたまたま知り合った未亡人シシー・スペイセクと恋仲になるんですが、そのスペイセクがレッドフォードの車のグローブボックスをふと開けたときに拳銃が入っていて動揺するシーンで初めて拳銃が観客にも見せられます。

この直後、家に帰ったスペイセクがお湯を沸かそうとやかんに水を入れるんですが、そのとき「あぁ、銀行強盗と言ってたのはほんとだったのね」という感じで一点を見つめてぼんやりします。で、水があふれて慌てて蛇口を止める。

最近の普通の映画なら、水があふれる手元をアップで見せることが多いじゃないですか。でもこの映画の監督デビッド・ロウリーはそうしない。

「映画とはまず見せ、そのうえで語るものである」とは、かのアレクサンダー・マッケンドリックの名言ですが、その前段階である「何を見せて何を見せないか」という問題に非常に意識的だと思います。(とはいえ別にこれは新しいわけでも何でもない。古典的ハリウッド映画はすべてこういう作法で作られていました)

では、なぜ強盗のシーンで拳銃を見せないのか。


「ラクな人生より楽しい人生」
とは、「君なら強盗なんかしなくてももっとラクな人生が送れるだろう」と言われたときの主人公の返答です。

彼は大金を得てラクな人生を送るのが目的ではなく、強盗そのものが楽しくてやっている。

だから彼は拳銃を撃たない。撃つことで誰かが傷つくのは本意じゃない。それじゃ少しも楽しくない。盗む俺も盗まれた銀行もいい思い出しか残らない。そんな思いで強盗を重ねていたのでしょう。

窓口係に拳銃をチラ見せするのもあまり本意ではなかったのでしょう。でも見せないかぎりは盗めないからしょうがなく、ということだったのでしょうね。

ただ、映画は拳銃を見せない。拳銃などという物騒なものは楽しい人生がモットーの主人公のこの映画にはふさわしくないという適切な判断。

そして唯一見せるのは、心を許せる異性が拳銃を見て動揺するときだけ。楽しくあってはいけない場面だけ観客にも見せる。こういうのを「映像演出」というのだと思います。


脱獄ハイライト
捕まったレッドフォードを訪ねたスペイセクに、彼は「いままで幾度も脱獄してきた。今回もするつもりだ」みたいなことを言います。

そのとき、10代から直近までの脱獄ハイライトになるんですが、最終盤であのような見せ方をすることに最初はちょっと戸惑いました。

でも、スペイセクの「最後までここにいれば?」というたった一言でレッドフォードは脱獄しなかったことが明らかになり、のけぞりました。すごい作劇。こういうオチにするためのハイライトだったのか、と。

ただ、最後のオチはまだあって、レッドフォードにすれば恋仲のスペイセクの言葉が脱獄しなかった一番大きな理由なんでしょう。脱獄すれば逃げ続けなければいけない。それより満期出所したあとのスペイセクとの生活を楽しもう。どこまでも楽しい人生を追い続ける主人公に見ているこちらも心が浮き立つばかり。

なのに、最後に自分を追っていたケイシー・アフレック刑事に電話していると目の前に銀行。そしてまたやってしまった、というオチにはさらに心が浮き立ちましたね! しかもさらに4回も!!!

好きな女は大事。でも……という男のロマン。

こんな映画が引退作だなんてめちゃくちゃ素敵じゃないですか。
役者がみんなよかった。レッドフォード、スペイセクは言うに及ばず、ダニー・グローバーもトム・ウェイツも。みんな年寄りなのに色気がある。ケイシー・アフレックは相変わらず好きになれませんでしたが。

音楽もよかったですね。ジャズで押し通すのかと思ったら後半は突然キンクスがかかったり、選曲が見事でした。


さらば愛しきアウトロー
ダニエル・ハート
Rambling RECORDS
2019-06-26





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2019年07月09日

ついに今週末からロードショーされる『トイ・ストーリー4』公開に先立ち、前作『3』がテレビ放映されました。


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前回、『新聞記者』の感想(⇒こちら)で、「善と善」の対立にしないといけないという私の主張(というかおおもとはある高名な脚本家)がわからないと友人に言われまして。

言葉が足らなかったかもしれませんが「善」というのは「善人」という意味ではありません。「その人の言い分に納得できる」「その人にも同等の理がある」ということです。どうしても安倍政権を批判している映画だから政権側にも理があるというと反安倍派の人たちは「そんなものがあるか!」と感情的になってしまうみたいで。どうしても政治のことになると頭に血が上ってしまうのが人間という生き物のようです。

そんなときに『トイ・ストーリー3』の放映。劇場で見て以来の鑑賞でしたが、これがすばらしく「善と善」の対立になっていて、いい見本だと筆を執りました。


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「悪意」のないドラマ
このロッツォという名のクマのぬいぐるみがとんでもなく悪い奴なんですが、彼が悪い奴になってしまったのには理由があるんですよね。

ウディにとってのアンディのような、素敵な持ち主の女の子にかわいがってもらっていたのに、ハイキングに出かけたときその子が眠ってしまい、親が寝かせたままおもちゃを全部置いたまま帰宅してしまった。ひたすら待つが持ち主は来ない。自分たちの足で何とか帰ると、同じぬいぐるみの新しいのを買ってもらっていた。

捨てられたと思ったロッツォは一緒に捨てられた仲間たちと「捨てられたおもちゃの帝国」を作り上げ、そこの支配者として君臨している、と。

確かにウディが指摘するように、持ち主に新しい代わりができたのはロッツォだけで他のおもちゃは帰る余地があった。それを一緒にダークサイドに道連れにしたのはロッツォの悪意でしょうが、ハイキングで置き去りにされてダークサイドに堕ちたからそうなったわけで、じゃあ、置き去りにしたのはなぜかというと、女の子が寝てしまったから。両親はおもちゃのことなんて頭にないし、なくしたら新しいのを買えばいいと思っている。子どもは子どもの原理、親は親の原理で行動しているだけ。

誰にも悪意がない。悪意によって対立を生むのではなく、そういうのなしでドラマを組み立てろよ、というのがくだんの脚本家の指導でした。『新聞記者』では生物兵器という世界中を敵に回しかねない極悪を根っこに設定しているので「無理やり感」があるんですよね。『トイ・ストーリー3』は見事にそれを体現しています。


底流する「別れの予感」
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ここからは純粋に『トイ・ストーリー3』の感想ですが、アンディが大学に行く年齢になり、ウディやバズと遊ぶことがないという背景が何とも哀しいですね。「出会いは別れのはじまり」とhwvあよく言いますが、いつかはおもちゃ離れしなきゃいけないときが来る。いつかは親元を離れないといけないときがくる。いつかは親しい者との死別のときがやってくる。(飼い犬が老犬になっているのが死別の暗示になっています)

とはいえ、アンディはウディたちが慕うだけあって、用済みだと捨てたりはしません。ただウディだけは別にして他のおもちゃを屋根裏に保管しておこうと思っただけ。なのに、ひょんなことから母親がゴミとして出してしまう。ここにも悪意はありません。ロッツォの持ち主の両親と同じく「大人はおもちゃのことなどこれっぽっちも気にしていない」というのが『トイ・ストーリー』の世界観だからです。

考えてみれば、このシリーズは目的地へ向かってまっしぐら! という内容ですね。1作目から3作目まで見事に自分たちの家に帰るお話です。


「運命」に逆らうドラマ
が、この『3』が異色なのは、逃げる唯一の道が溶鉱炉へ通じるゴミ箱というところです。「おもちゃはいずれ飽きられるか壊れるかして捨てられ燃やされる運命だ」とロッツォは言いますが、ウディたちは何とかその運命に抗います。ただの物理的な脱出ではなく、「運命」という神の掌からの脱出になっていて、2作目までとは一線を画す壮大な脱出劇となっています。

では、『4』はどういう脱出劇なのでしょうか? それとも脱出劇ではなく違う趣向の物語なのか。私は『3』を超える新しい脱出劇を見せてほしいと切望しています。「運命」以上の壁はあるのか。いずれにしても予想をはるかに超えるものを見せてくれるはず。

期待してまっせ!






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