聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

映画

やはり映画は映画館で見たほうがいいと思う理由

ちょうど1年前にこんな日記を書きました。→映画は映画館で見るべき最大の理由はこれだ!

私の考えは少しも変わりませんが、やはり「べき論」というのはちょっと押しつけがましい気がしないでもないので、今日は「映画館で見たほうがいい」と思う理由を書きます。


eigakan

ちょっと前に誰かのツイートで、
「家で独りで見るよりも、映画館で見たほうが種々雑多なエピソードと一緒に『エピソード記憶』として記憶されるから、映画館で見たほうがいいよ」
みたいなことを言ってる人がいましたが、それには一もにもなく賛同します。が、私の主張はぜんぜん違う角度からです。私の主張といっても偉い人の受け売りですけど。


kurosawakiyoshi

黒沢清監督が、『アカルイミライ』のメイキングで言っていました。

「映画館は自分と世間とのずれを知る場だと思っています。自分は悲しいのに笑っている人がいるとか、思わず笑ってしまったけど他の人は誰も笑っていないとか。人間の価値観は人それぞれだということを映画館で映画を見ることで思い知らされたんです」

確かにそうですね。家で独りで見ているぶんにはこういう感覚は味わえない。

価値観の違いといえば、こないだ驚愕したのが、あと5分で終わるというときにトイレに走る人がいたことです。え、マジで??? いま出ちゃうの、と。

もう一刻の猶予もままならない状態だったのかもしれませんが、もしかすると映画そのものが何分で何時ごろ終わるということを把握せずに見ている人もいるんだろうな、と。

私は構成の勉強のために、始まって何分でどういうエピソードが起こって……と時計で時間を測りながら見るので、予告編が何分で映画本編が何分で終演が何時何分というのは常に把握してから劇場入りしていますが、そういう人はおそらくごくごく少数派なのでしょう。

だから、あと5分でトイレに走る人を見たときに「え、マジで?」と思ったのはもしかすると私だけだったのかもしれない。トイレに走った人が特異なんじゃなくて、その人を特異だと思った私のほうが特異だったという可能性は大いにあります。

自分がどれだけ特異な存在か、またはどれだけ世間と同じ価値観をもっているかを確認できる。それが料金に含まれているのだからお得ですよね。

映画は人間を描くもの。その人間とはどういうものかを映画館で見たほうが深く理解できるのではないか。

だから、家に閉じこもって独りで見るのはもったいないと思うのです。


津川雅彦さんの想い出

昨夜、就寝の直前に津川雅彦さんが死去したとのニュースを見て絶句。あまり眠れませんでした。

津川さんといえばやはり『狂った果実』『ろくでなし』『日本の夜と霧』などがいまだに印象深いですが、そういうことは他の人に任せて個人的な想い出を書こうと思います。

もう20年以上前、私は京都の撮影所で働いていましたが、3か月だけ津川さんと現場でご一緒したことがあります。主役の補佐役みたいな役でしたが、私はテレビで拝見してきたイメージから「すごく傲慢で尊大な人なのかな」と思ってたんですよね。

しかし、真逆の人でした。私のようなどこの馬の骨かわからない若造にも心配りを忘れない、人間的にも素晴らしい人でした。

いまでもよく思い出すのは、津川さんが最初のテストと2回目のテストで芝居を変えたときのこと。監督が無能だったので役者さんが勝手に芝居を変えていました。監督が変えたのならその声が耳に入るから対処できますが、役者さんに勝手に変えられると対処できません。

私は録音助手でマイクを振る仕事でした。そのとき津川さんは最初のテストで主役の家に入ってきて、立ったままセリフを言ってから座ったんですよね。でも2回目のテストでは座ってからセリフを喋った。私はいきなり変わったのでめちゃくちゃ慌ててしまい、終わってから技師に「遅れとるぞ」と注意されました。

そのとき津川さんが「いやいや、僕が何も言わずに変えちゃったんでね。マイクマンさん付いてこれるかな、と思いながら……。(私のほうに向き直り)ごめんなさいね。次からはああいうふうになりますので。どうぞよろしく」と深々と頭を下げました。

大俳優からそんなことをされた私は恐縮しまくりで「あ、はい」としか答えられませんでしたが、イメージと違ってものすごく腰の低い人だなぁ、と思ったのを昨日のことのように憶えています。

晩年は『そこまで言って委員会』でたまにお見かけしましたが、政治的立場は完全に真逆で「うーん、津川さんってそういう思想の持ち主なのか……」とやるせない気持ちに襲われるのがいやなのでなるべく見ないことにしていました。

しかし、いくら政治的立場が違っても「津川雅彦という男は相手によって態度や言動を変えず、驕ることのないとても謙虚な人である」という事実は永遠に変わりません。

いつまでも安らかに。

許せない映画④『ゴーストドッグ』

①『ダーティハリー2』
②『L.A.コンフィデンシャル』
③『グレイテスト・ショーマン』

に続く「許せない映画」シリーズ第4弾はジム・ジャームッシュ監督『ゴースト・ドッグ』。

繰り返しますが、「許せない映画」とは、面白い映画なのに面白さを上回る「残念さ」をもってしまった映画のことです。だからいくら許せないといっても『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな単につまらない映画はこの範疇には入りません。

では、ヘンリー・シルヴァやクリフ・ゴーマンの登場がやたらうれしい『ゴースト・ドッグ』の何がそんなに残念だったかというと……




『葉隠』の思想にはまってしまった殺し屋という設定はとてもいいですね。まぁ私が「武士道とは死ぬことと見つけたり」という冒頭の一節にいまだにしびれまくっている、ということもあるのでしょうけど。

劇中、何度も『葉隠』の一節が出てきますが、それ自体はいいんですよ。そして静かに殺しを実行していくところもいいし、ライフルのスコープにアゲハチョウが止まって……という場面なんか詩情豊かじゃないですか。

許せないのは「主人公が『葉隠』の思想に殉じてしまうところ」です。


GhostDog

何だかんだの末に、忠義をもって使えてきた男を殺さねばならなくなる。しかし、忠義を重んじる『葉隠』はそのような行為を許していない。どこまでも主君に忠実たれと謳っている。

ということで、主人公は殺すのではなく殺されることを選ぶのですが、ここがもうとにかく許せない。

かつて自作脚本を長谷川和彦監督に読んでもらったとき、
「君はファーストシーンとラストシーンを思いついたときに『できた!』と思ってしまったんだな」
と指摘されてグウの音も出なかったことがあります。

『ゴースト・ドッグ』もまさにそれでしょう。
「葉隠の思想に心酔する殺し屋がその思想に殉じていく」という物語を思いついたとき、ジャームッシュはおそらく「できた!」と思ってしまったのだと推察します。

その思いつき自体は素晴らしいですが、いったん主人公が生き始めたら作者の思惑などどうでもよく、ただただその人物がどう動きたいか、あるいはどう動くのがふさわしいか、それだけで考えていかねばなりません。

主人公はいくら『葉隠』に書いていることがすべてだと最初は思っていたとしても、殺し屋として数々の仕事を遂行していくうちに「自分の哲学」を築いているはずなんですよね。だから『葉隠』の思想に心酔していた主人公が最後の最後で『葉隠』を脱却するところを見たかったのです。

なのに書物に書いてあることを絶対視して死んでいくなんて私にはただのアホにしか見えませんでした。別に『葉隠』を否定せよと言っているわけではありません。主人公の哲学は何かを見せてほしかった。もちろん映画なのだからアクション=行動としてその哲学を描写するということです。トリュフォーが「クライマックスとは意味のあるアクションでなければならない」と言ってましたよね。

そういえば長谷川和彦監督はこうも言っていました。

「君はたぶんシナリオとは物語のことだと思ってるんだろうが違うんだ。物語と哲学なんだよ」



『ワンダー 君は太陽』(脚本構成の妙とは)

激賞する人が絶えない話題の映画『ワンダー 君は太陽』があさってで終わると知り、滑り込みで見てきました。

wonder1

顔に障碍を抱えた少年オギーとその家族の物語。と聞くと、何やら私の苦手な「人は見た目じゃない」というテーゼを打ち出す映画かと思っていました。そんな当たり前のことを聞きたくて映画館に行っているわけではないのに。と思っていたら、この映画はちょっとひねってるんですね。

いや、人は見た目じゃないというテーゼはそのままです。そこにはいささか鼻白むところがないではない。だって、少年はひどいいじめを受けるけれども「失恋」が描かれませんよね。この先の長い人生を考えるなら、顔のせいで振られるという手ひどい経験を描かないと本当のハッピーエンドではないと思いました。

しかし……

やはりこの映画にはそんな小賢しい言葉をうっちゃる魅力と奥行きがあります。


wonder3

姉ヴィアの描写の素晴らしさ
何といっても白眉はこのヴィアというお姉ちゃんの描写ですね。弟が顔のせいでいじけたりいじめられたり辛いのは痛いほどわかる。でもそのせいで両親はいつも弟の心配をしてばかり。自分のほうを見てくれない。と、こちらもだいぶいじけている。障碍者本人だけでなくその家族も間接的に被害を受けていることをちゃんと押さえています。

ヴィアの章ではヴィアのナレーションで語られ、ヴィアの友人ミランダの章ではミランダのナレーションで語られます。章ごとで語り手が違うんですね。これが面白いと思いました。オギーという主人公を中心に据えた単純な構成だと、差別はいけませんよ、障碍者にはやさしくしましょうという通俗的な映画に堕していた可能性が高い。章ごとに語り手を変えることで物語に奥行きが出ています。

ただ、ヴィアの章がすべてヴィアを主人公にした構成になっているかというとそうではなく、章の最初だけその人の語りで始まりますが、途中から誰目線なのかわからなくなるくらい語りが混乱してしまっています。そこは確かに瑕疵でしょうが、それでも私はこの映画の「構成」の工夫の仕方が気に入りました。


構成の鬼・橋本忍
先日亡くなった橋本忍さんは私の最も嫌いな脚本家でした。弟子の山田洋次監督などいろんな映画人から「構成の鬼」と評されていましたが、私の目には「構成病」にかかった人に思えます。

『砂の器』は普通にうまいと思いましたが(でも好きな映画ではありません)もっと高評価の『切腹』になるともういけません。淀川長治が「頭だけで作った映画」と批判していましたが、まさにその通りと膝を打ったものです。

時間軸をいじりすぎなのです。映画作りとは「時間と空間を組織する」ということに他ならず、脚本家の仕事は特に時間構成を担いますが(空間も少しはね)橋本さんは時間を行ったり来たりすることにこだわりすぎなのです。『生きる』なんかでも。ああいう時間をいじった映画の最たる例がクリストファー・ノーランの『メメント』でしょう。

東陽一監督の講義を受けたとき「構成の勉強をしたかったら『パルプ・フィクション』を見て」と言われました。あれも時間軸をいじっていますが、不思議と気にならない。気にならないどころかやたら面白い。おそらく時間軸をいじることによってプロットを前進させるという「計算」が働いていないからでしょう。だからやっぱりタランティーノは天才だということになりますが、それはともかく。


構成の妙
姉のヴィアをはじめ、ミランダ、ヴィアの恋人のジャスティン、オギーの友人ジャックとサマーなどの描写を通してオギーだけに焦点が当たらないようにしたこの映画の脚本構成は高く評価すべきと思います。さまざまな光が乱反射してオギーの顔を照らす工夫のように感じられました。

オギーがいわれなき迫害を受ける→周囲の手助け→一件落着、という一直線の物語にせず、直線もあれば曲線もあり、アップダウンもある物語構成。こういうのを本当の「構成の妙」というんだと思います。

ただ、それならそれで父親の章、母親の章もあってしかるべきでは? とも思いましたがね。だから結果的には失敗作なのかもしれませんが、私はこの映画の作者たちの野心を高く買いたいと思っています。

満員御礼で不特定多数の人と一緒に映画を見る醍醐味を久しぶりに満喫しましたが、あれだけ入るのなら1日1回の上映でもうしばらく続けられるんじゃないでしょうか。いい映画だし評判もいいのだから興行主にはもう少し考えもらいたいもんです。



『ブリグズビー・ベア』(誰ひとり主人公に牙をむかない)

傑作と評判の高い『ブリグズビー・ベア』を見てきましたが、着想は素晴らしいのに……と残念でなりません。

主人公ジェームスは幼い頃から定期的に届く『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオが楽しみでしょうがない日々を送っているが、わけのわからないままに警察に保護され、やさしい両親だと思っていた夫婦が実は誘拐犯で、実の親が待っていることを知ります。
そして『ブリグズビー・ベア』という教育ビデオは誘拐犯夫婦が作った偽物の映画で、主人公が見てきた世界はすべて嘘っぱちだった。だから『ブリグズビー・ベア』はもう続きが見られない。それなら自分で作ろう!

誘拐犯夫婦が作っていたと知ったジェームスは嘆くどころか「それはすごい!」とガッツポーズをするし、続きが見られないと知っても嘆かずに自分で作る息巻く。ここらへんの感情表現や積極的な行動は素晴らしく、なるほど、これは噂にたがわぬ傑作だ。

と、思っていたんですが……


ホームドラマなのに「家族」がきちんと描かれない

brigsby-bear1
誘拐犯を逮捕した担当刑事グレッグ・キニアはジェームスが『ブリグズビー・ベア』の続きを作るというとめちゃくちゃ積極的に手伝いますが、刑事はそんなに暇じゃないだろうというツッコミ以前に、主人公にとってとても都合のよい人物になってしまっています。

brigsby-bear2
対して、クレア・デインズ演じるカウンセラーは『ブリグズビー・ベア』なんて嘘っぱちだったんだから続きを作るのなんてやめなさいと諭す。

手伝う人間と反対する人間がいるならいいじゃないかという声が聞こえてきそうですが、それは↓この人たちが担うべき役割でしょう。

brigsby-bear3
ジェームスの実の両親。
彼らが25年ぶりに帰ってきた息子に対する思いを吐露するシーンがほとんどないのはどういうわけでしょうか。
グレッグ・キニアが押収した小道具をもってきたときも「それは犯人のものだ」と怒りますが、結局それら小道具を家の中に入れることを了承してしまう。なぜ? あそこは断固として反対しなければ。

父親は猛反対するけれど、母親が「あの子にはブリグズビー・ベアしかないのよ」と言って夫婦の間に亀裂が入ったりすると面白かったんじゃないかというか、クレア・デインズの役割を父親が担い、グレッグ・キニアの役割を母親が担えばよかったのでは? 刑事とカウンセラーを絡ませるより、もっと家族の葛藤を描かないとダメでしょう。だってこの映画は「偽物の両親に育てられた男が実の両親のもとに帰って再生するまで」という物語なわけでしょう? なのに家族以外の人物が大きな役割を担いすぎなのです。


ジェームスの作る『ブルグズビー・ベア』について
父親は一度だけ「25年も待ったのに犯人が作っていた偽物の番組に熱中するなんて!」みたいなことを言って激昂しますが、いつの間にやら『ブリグズビー・ベア』作りを手伝っている。

理由は、「見てみたらとてもクールだった」

そりゃないだろうと思いました。いくら面白くても憎き犯人が作っていた作品の続編なのに。
だから、父親はラスト近くまで反対し続けるけれど、ジェームス自身や母親とのやり取りを経て「この子には『ブリグズビー・ベア』しかないんだ。悔しいけど」という悟りの境地に達したとき初めて手伝えたんじゃないでしょうか。

だから、ジェームスの作る『ブリグズビー・ベア』は面白い必要がない。むしろ、つまらないほうがよくないでしょうか? 

面白いから作る・手伝うのではなく、駄作にしかならないと最初からわかっているけど、それでもこの子にはこの作品を作ることしかないから手伝おう、というほうがよかったように思います。

妹も長らくの間、実質的に一人っ子だったはずで、それが兄の出現によってそれまでの生活が掻き乱されているはずなのに、えらくジェームスに対して好意的ですよね。パーティーに誘ったり『ブリグズビー・ベア』作りも両親と同じく熱心に手伝う。パーティーで知り合った友人たちもみんなとても協力的。

脇役の誰一人として主人公に牙をむかない。牙をむきかける瞬間は何度もあったはずなのにスルーしてしまった。もっと毒のあるホームドラマになる可能性があったのに何とも残念です。



最新コメント
お問い合わせ
お問い合わせは、こちらまでお願いします。