ロック・ポップス

2020年08月04日

昔、『懐かしのカンツォーネ』みたいな安物のCDをなぜかもっていました。ほんとなぜもってたのかわからない。普通、あんなの買わないし。

でも、カンツォーネのことを「イタリアの民謡」だと思っていた私は、ちょうど兄がミラノに住んでいたこともあって「イタリアの文化を知ろう」と思って買ったのでしょうね。

ただ、完全に騙されていました。

曲がひどかったんじゃないんですよ。どれも活きのいい曲ばかりで、買った直後だけでなく、何度もヘビロテ状態が訪れたほど。

買ってから1年後くらいに映画の専門学校に進学したんですが、そこでヘヴィメタルのバンドをやってる奴がいて、「とにかくいろんなジャンルの音楽から吸収したい」と言っていたので、「カンツォーネなんかどう?」と聞いたら「ぜひ!」というから貸したんですよ。

以下は数日後の彼と私の会話です。

「聴いた」
「どうやった?」
「あんなん聴いてんの?」
「あかん?」
「いや、あかんていうか」
「何」
「だから」
「だから何」
「何ていうかさ、カルチャーショック受けたんよ」
「ほんじゃよかったんや」
「いや悪い意味のカルチャーショックなんよ」

何でも最初はあまりの衝撃で笑いが止まらなかったらしいんですが、聴けば聴くほど「こんなのを聴いてる奴はアホや」という結論に至ったそうな。

とかいいながら「あのカーーーンツォーネ、ダーーーモーレっていうやつはすごかったね」と盛り上がってしまったんですよね。

「カンツォーネ・ダモーレ」というこんな歌です。




サビの部分の2回目、「カ、ア、アンツォーネ、ダ、ア、アモーレ」というところがツボだったらしく、まったく一緒だった私は爆笑しました。

でも彼は最後に言いました。「あんなのを聴いとったらアカン」と。

こうも言ってましたっけ。「これはカンツォーネじゃない」と。

こんなやつだと教えてくれました。当時はYouTubeなんかなかったから、自分で歌って教えてくれました。こんな感じのやつです。




完全に違いますね。そうか、これがイタリアの民謡か。

でも、「カンツォーネ・ダモーレ」をはじめとする、私が買ったCDのカンツォーネは何だったのでしょう?

と思って調べてみたら、「カンツォーネ」というイタリア語は単に「歌」を意味するとか。

うーん、なるほど。私は騙されていたわけです。

あのCDは目先の金ほしさにかなり前に売ってしまいましたが(二束三文にしかならなかったはずなのでもっとけばよかった)いま「カンツォーネ・ダモーレ」を聴いてもカルチャーショックを受けてしまいます。

あの友人も何だかんだ言って楽しんで聴いたみたいだし。もう一人、ハードロックをやってる友人もいて、私らの会話を聴いてかなり興味をひかれたらしく、貸してほしいというので貸したら「同じ感想。笑ったけど、こんなの聴いてたらダメだと思う」

何でだよ! さんざん楽しんだくせに!!

というわけで、最後に、かのCDに収録されていた歌で、「カンツォーネ・ダモーレ」以外でいまだにタイトルも旋律も憶えていた唯一の曲をご紹介しましょう。

これは私がイメージしていた「イタリアの民謡」にちょっと近いかも。「ユッピ・ドゥー」という歌です。おっぱいも見れますよ!





↓「カンツォーネ・ダモーレ」を歌っているのはこの3人。↓
でもこのアルバムに「カンツォーネ・ダモーレ」が入ってるのかどうかはわかりません。

Ricchi E Poveri
Ricchi E Poveri
Sony/Bmg Italy
2011-05-10








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2020年08月02日

T-レックスの歌声にのせた予告編を見て、見る気満々だったロシア・フランス合作の2018年作品『LETO -レト-』を見てきました。

が、これが残念ながらがっかり拍子抜けでした。


視覚的・聴覚的には……
LETO2 (1)

舞台は1980年代前半、つまり東西冷戦時代のレニングラード。国から禁止されている西側の音楽=ロックをこよなく愛し、アンダーグラウンドの世界で演奏をし、アルバムを売買している世界。

映画の感想を書くたびに同じことばかり言ってますが、意味のない手持ちカメラには辟易しましたが、基本的に白黒が好きなので視覚的には楽しめましたね。逆光の捉え方もうまいし、編集のリズムもいい。それに何よりナターシャというヒロインを演じる女優さんがかわいいので最後まで見れました。

音楽も、一番フィーチャーされたのがイギー・ポップの『パッセンジャー』ということで、イギー好きにはたまらなかった。

しかし……


なぜいま「80年代」なのか
いまロシアではプーチンが独裁政治を敷いていて、監督自身も軟禁状態らしく、大衆は自由を奪われている。そこで、同じように自由を奪われていたソ連時代に想いを託したのでしょう。それはわかります。(ロシア以外でもアメリカのトランプや中国の習近平など、ならず者が大国の指揮を執っている時代だからこそ、ということなのでしょう)

1917年のロシア革命で皇帝を処刑し、自由を獲得した。が、スターリンの台頭で全体主義がソ連全土を覆い尽くし、体制側の思想に染まらないはみ出し者は「粛清」された。自由を求めて革命を起こしたはずが、もっと不自由になり、圧政に苦しむことになった。

というのが、ソビエト社会主義共和国連邦の鬱屈だったはずですが、この『LETO -レト-』に登場する若者たちは、そのような鬱屈とは無縁のようです。愛する音楽を禁止する自国への恨みだったり、そういう国に生まれたことへのやりきれなさとか、そんなことをおくびにも出さない。

でも、それが一見不自然に見えないのも事実。しかしながら、不自然に見えない一番の理由は「政治権力が介入してこない」からですよね。

彼らのライブは当局が統制しているみたいな描き方をしていましたが、実際にはそうだったんでしょうけど、会場に警察が踏み込んできて逮捕されたりしてもよかったのでは? 史実を基にしているといっても半分くらいは脚色していると最後にテロップで出たし、実際に逮捕されなくても逮捕されそうになったり、逮捕されたけど脱獄するとか、それぐらいのことは見せてほしかった。


大きな物語=東西冷戦
LETO3

マイクというバンドリーダーとナターシャの二人に、ヴィクトルというアジア系(?)の若者が介入してきて……という恋愛物語は面白かったけど、やっぱりロックを題材にするからには「恋と政治と革命」じゃないといけないのでは?

前景で描かれる物語が「ロックを愛する若者たちのウロウロ」なのはいいけれど、後景には東西冷戦という「大きな物語」があるはずなのに、少しもそれが感じられない。冒頭で「80年代前半のレニングラード」というテロップが出なかったらいつの時代かわからなかった。

逮捕されたりするのはさすがにやりすぎかもですが、彼らが少しも政治的発言をしないのはなぜなんだろう? 政治のせいで当局の監視下でないとライブができないわけでしょう?

彼らを大きく支配しているのは後景の大きな物語なのだから、それと前景との関わりを少しも描かないというのは大いに不満でした。

もしかして……

「音楽に政治をもちこむな」
「映画に政治をもちこむな」

ということなんでしょうか。

そういえば、当ブログの読者さんにも映画の感想しか読まない人がいます。テレビドラマの感想しか読まない人もいるし、社会批評にカテゴライズしたものしか読まない人もいる。

こういうのは日本だけの現象かと思ってましたが、ヨーロッパでも「タコ壺化」が進んでいるのかしらん? 

などと思った梅雨明け直後の夕暮れでした。



Leto (Official Soundtrack)
Первое Музыкальное Издательство
2018-08-24




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2020年06月16日

2003年製作、リチャード・リンクレイター監督による『スクール・オブ・ロック』を再見。何度見ても楽しい名作です。


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スコット・ルーディンの偉大さ
この映画を見るたびに思うのは、プロデューサーであるスコット・ルーディンの偉大さですね。

マイク・ホワイトという脚本家によるシナリオにゴーサインを出した。そりゃ、リチャード・リンクレイター監督の手腕の大きさもありますし、大人たちからの抑圧のために生ける屍のようだった子どもたちがロック魂に目覚めることで生き返るというテーマの普遍性もありますがが、あの穴だらけのシナリオで行けると踏んだスコット・ルーディンはやはり名プロデューサーです。


映画の原理と世界の原理
かつて黒沢清監督は、

「映画は、映画の原理と世界の原理の覇権闘争の場である」

と言いました。

泥棒は泥棒する。殺し屋は殺す。恋人たちは恋をする。それが映画の原理だと。でも、泥棒だって泥棒ばかりしているわけじゃないし、殺し屋もそうそう簡単に人を殺すわけではない。それが世界の原理。二つのせめぎあいで映画は成り立っているという論旨でした。


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バンドをクビになったジャック・ブラックは自分好みのバンドを再結成するための資金稼ぎのために、かつてのバンド仲間であり、いまは教員に成り下がっている友人の名を騙ってお坊ちゃん・お嬢ちゃん学校の教師の座に収まります。

フィクションにおいて「嘘は露見せねばならない」というのは鉄則で、ジャック・ブラックも終盤には化けの皮を剥がされるのですが、それはいいとしても、子どもたちがジャック・ブラックのことをほとんど疑わないのはどう考えても変です。あまりに主人公にとって都合がいい。

ジョーン・キューザック校長はじめ他の教師に言いつける子どもがいたり、親に言いつける子どもがいるのが「世界の原理」のはずですが、そうはならない。それぐらいあの子どもたちは普段抑圧を受けているという設定なのですが、それにしても、算数も社会も関係なく音楽ばかりの授業に疑問を抱かないのはおかしい。これをはたして「映画の原理の勝利」と言っていいものかどうか。


人種問題
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天性のピアニストで、ロックバンドではキーボード担当になるアジア系の坊ちゃんは、「僕は辞めます」とジャック・ブラックに言う。

お、いきなり主人公にピンチ到来かと期待したら、「僕はイケてないから」と。ジャック・ブラックは励ましすぎるほど励まして元の鞘に収まる。


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黒人のお嬢ちゃんは、「太ってるから馬鹿にされる」という。ジャック・ブラックはそんなことないと励ましまくってこれまた何事もなくなるんですが、ここで気になるのは、「アジア系だから」「黒人だから」という人種のことを彼らが少しも出さないことですね。

世界の原理に倣うなら自分の人種のことを口にしてもいいはず。いや、そうでないとおかしい。でも、脚本家のマイク・ホワイトもプロデューサーのスコット・ルーディンもそういう凡百の道は選ばない。

人種なんかなかったことにする。それがこの『スクール・オブ・ロック』の世界観です。

人種問題がいまも大きな問題であることを捨象して話を進めていく。多様な人種から成るバンドに人種問題をもちだしたら「ロック魂に目覚める抑圧された子どもたち」というメインテーマと干渉するサブテーマが容喙してくる。それを嫌ったのでしょう。まことに懸命な判断だと思います。


大人も抑圧されている
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校長を演じるジョーン・キューザックはいつになくえらく美人ですが、それはともかく、彼女も酔えばロックを歌い出す俗人であることが明かされます。

しかしながら、一番の抑圧者であるべき人物が最初から胸のうちでは主人公の味方でいいのでしょうか? 最終的に、スクール・オブ・ロックの演奏を聴いてジャック・ブラックに拍手喝采しに行きますが、そうなることは中盤から目に見えてますよね。

でも、それは「予想」ではなく「期待」なのですね。予想は外さないといけないが、期待には応えないといけない。

おそらく、シナリオだけ読めばジョーン・キューザックの設定はかなり甘いものです。こんな主人公にとって都合のいい設定はダメだ、と大衆コンクールなら一次審査で落とされるでしょう(しょせん大衆コンクールなんてその程度のものです)。

それを、「キャスティングと演出によっては期待に応えるためのものに変えられる」と読んだスコット・ルーディンはやはり偉大なプロデューサーだし、それに応えたリチャード・リンクレイター監督の演出とジョーン・キューザックの演技力には脱帽です。

抑圧されているのは子どもたちだけじゃないというメッセージ。それは、家庭の親たちもそうだった、いや、この世に生きるすべての常識人が抑圧されているのだ、もっとバカになろうよ、というメッセージを声高に歌い上げて素晴らしい。


教師を軽蔑せよ
ジャック・ブラックがあそこまで子どもたちから慕われるのは、いやな勉強の代わりに楽しいロックを教えただけではないでしょう。

その前段として、自分自身への怒りを表出させたことにあると思います。

ジャック・ブラックが曲を作るときに、「ロックは怒りだ。俺への怒りを言ってみろ」といって一人ずつに言わせ、自分の悪口を歌詞にして歌ってみせる。子どもたちはその姿に「こいつは信用できる!」と思ったのでしょう。


ダウンロード

蓮實重彦はかつてこんなことを言っていました。

「私も教師のはしくれとして、学生たちに教師をいかに軽蔑するかということを教えてきたつもりです」

そうか、映画評論家の前にフランス文学者である蓮實があそこまで映画を擁護するのは、ロックとの親和性が高いからなんですね。初めて知りました。



スクール・オブ・ロック (字幕版)
ロバート・ツァイ
2013-11-26





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