エッセイ・ノンフィクション

2019年06月08日

ツイッターで知った若松英輔という批評家による『言葉の贈り物』というエッセイを読みました。


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中島らもの、物事を斜め上から捉えるひねくれたエッセイで育った者としてはあまり面白い本ではなかったんですが、「読まない本」というエッセイにだけは瞠目しました。

著者の父親はものすごい読書家だったそうですが、晩年は目を悪くしてしまい本が読めなくなった。読めないのに月に数万円ほど本を買ってくる。特に裕福なわけでもなく逆に資産を取り崩さないといけないくらいだったから、あまり本を買わないように説得した。

しかし何だかんだで説得は不成功に終わり、お父さんは死ぬまで本を買い続けたそうです。

いまはもう亡くなってしまった父親の数多くの「読めなかった本」を前に、著者は「たとえ読んでいなくとも、その本の存在が父に与えた影響は計り知れない」という結論に達します。

昔、横尾忠則さんも言ってました。「積ん読も立派な読書体験だ」と。それに異論はありませんが、若松さんのお父さんが読めないのに本を買い続けたのは「プライド」が大きく関係している気がします。


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去年の暮れに私の父が倒れ、診断の結果、認知症とそうでない境界線上にいると言われました。そこで長兄が『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』という本を読み、私たち弟たちに薦めてくれました。このたびようやく読めたんですが、この本の著者が再三再四にわたって主張するのは、

「認知症患者も一人の人間であり、何をするかわからないからといって柱に縛りつけたり、どうせわからないからと難しい話を最初から避けたり、記憶力の低下をなじったり、そういうプライドを踏みにじる行為をしてはいけない」

ということでした。

著者はまたこうも言います。

「最近は高齢になったら免許返納させることが唯一絶対の正義みたいになっている。でも、車が好きで苦労して試験に合格して晴れて免許が交付されたときの喜びや、家族を乗せて旅行に行った思い出など、免許を返納させることでその人の人生そのものを否定するかもしれないことは勘定に入れておいたほうがいい」


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よくテレビで、

「ブレーキを踏もうとしてアクセルを踏んでしまうような人は絶対に免許を返納すべきだけれど、言い方が問題。頭ごなしに返納しろと迫っても逆上するだけ」

といった指南がなされていますが、ちゃんと実践できているのかどうか。

若松英輔さんのお父さんは、おそらく読書家だったから、本が読めなくなったことでプライドがズタズタになったのでしょう。何とかプライドを保つために読めないとわかっていてもたくさん買い続けた。若松さんが説得しようとして逆上したとかそういう記述はないので、おそらくプライドを傷つけない上手な言い方をしたのでしょう。おかげでお金はたくさん使ったけれど「あのときあんな言い方をしなければよかった」という後悔はせずにすんだし、亡くなったお父さんも不愉快な思いをせずにすんだ。

3日前に安楽死のことを書きましたけど、消極的安楽死に「尊厳死」というものがあります。実際には延命措置をやめるなどのことですが、そういう物理的なことよりもまず、死を前にした人間のプライドを大事にすることが肝要ということに気づかされました。







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2019年04月06日

『コンビニ人間』『地球星人』などで快進撃を続ける村田沙耶香さんのエッセイ集『となりの脳世界』を読みました。

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「右側」を応援する村田沙耶香
一番、おおおお!と思ったのは、

「スポーツを見るときはいつも右側を応援している」

というフレーズですね。

スーパーマリオは左から右に動いて敵をやっつける。みんな左側を応援する。左側のほうが正義で、右側は悪。そういう世間的な価値観を信用できない著者は、右側を応援するようになったらしい。

この「何となく正しいとされているものにそっぽを向く姿勢」はこの本の通奏低音になっています。かといって、左側を応援する人たちを軽侮して孤高を気取るというのでもない。自分は確かにこの世界の住人だしこの世界で生きていきたいのだけど、でも何かちょっと居心地が悪い。

「いま、ここ」も大事だけど「いつか、どこかで」も大事にしたい。この『となりの脳世界』は前半が妄想ばかりのエッセイで、後半が地に足の着いたものという構成になっているのですが、前者が「いつか、どこかで」を希求する著者の真骨頂で、後者は、それでもやっぱりこの世界で生きていきたいという、変人・村田沙耶香のありふれた日常「いま、ここ」が描かれていてよかった。こんな普通の言動や思考もするのね、などと。

以下、特に印象に残ったフレーズを挙げていきます。


いつか、どこかで
「不完全な大人のままで」
私は、そのとき、「死にたかった」。そして、根底ではとても「生きたかった」。

私もそう。いまでも、そう。というか、このフレーズこそ「『いま、ここ』も大事だけど『いつか、どこかで』も大事にしたい」という心の叫びを感じました。

「こそそめスープ」
コンソメスープではなく、コソソメスープだと信じて疑わなかったとか。誰もが「こんそめ」と発音していると知りながら、それは安手の食堂で出すまがいもので、「こそそめスープ」こそ高級店のシェフが作る本物だと思っていた。
はっきり言ってアホですが、ここまで来ると頭が下がる。そして村田沙耶香の脳内世界を訪れたら、一緒に「こそそめスープ」を飲めるそうな。行ってみたい。いつか、どこかで。

「正座が逆の人へ」
つま先を外側に開く独特の座り方をしてしまうそうな。いつか同じ正座の仕方をする人と出逢って楽しく語らいたい。いつか、どこかで。

「背平泳ぎのこと」
正座が逆だからこういう泳ぎ方をしてしまうんでしょうか。ここでも「いつか背平泳ぎの大会が開かれる日のために練習している」とあり、笑いながらも「いつか、どこかで」というこの世では味わえない幸福を感じて哀しくなります。
友だちに背平泳ぎを教えたらみんな嬉々としてやってくれたのはうれしいけど、「しかも、私より上手だった」というのはもっと哀しいか。(笑)

「間違い感動」
クリオネを見に水族館に行ったら、1メートルくらいのクリオネの模型があって、それを等身大のクリオネと思い込んで感動したそうな。
『荒野のダッチワイフ』『処女ゲバゲバ』などで知られる脚本家・大和屋竺も、敬愛する黒澤明がソ連で『デルス・ウザーラ』という映画を撮る、というニュースを見て、なぜか『デルス・ザウルス』と読み違えてしまい、「あの黒澤がついに怪獣映画を!?!?」と大興奮しまくった笑い話を思い出します。天才とバカは紙一重とはよく言ったもの。
「でも、もしクリオネが1メートルもあると勘違いしたその瞬間に地球が滅んだら、私の間違いは訂正されず、私のなかで真実となるのだ。感動っていったい何なんだろう」というのも「真実はどこか他の世界にある」という村田沙耶香の土台があればこそのフレーズでしょう。本当に1メートルのクリオネと出逢えるかもしれません、いつか、どこかで。


似ている自画像
「宝物の棒の想い出」
なぜか子どもの頃、棒を拾う癖があったらしい。でこぼこの道を棒を引きずって歩くときの振動がたまらなく気持ちよかったとか。
私も「快感の追求に執念を感じる」と言われるのでよくわかります。幼い頃、ウンコを我慢することに快感を見出していたんです。我慢に我慢を重ねるとウンコがひゅんと中へ引っ込むでしょ? あの感触がたまらなく気持ちよくて。

「音楽を観る」
音楽を聴くのではなく、観る、という村田沙耶香。音楽から浮かんでくる映像を観るのが好きらしい。共感覚というものかな。私は音楽を視覚的に感じるということはないけれど、色に数字を感じる共感覚は少しだけもっています。白=1、黄=2、橙=4、赤=5、青=6、緑=7、黒=10とか。なぜ3、8、9がないのかはわかりませんが。
そんなことより、一人でニヤニヤしているのが私とよく似ている。頭の中に妄想が渦巻いているのでついニヤけてしまい、「何がそんなに面白いんですか?」って訊かれちゃうんですよ。


かすり傷を重傷と思うかどうか
「バス自意識過剰」
「睡眠と反省」
「親切エレベーター」

これらに共通するのは「かすり傷を重傷と考える」作家というものの性ですね。というか、かすり傷を重傷と勘違いする感受性がないと作家にはなれない。よく経験の量が大事みたいなことを言う人がいますが、量も大事だけど質はもっと大事。何でもないことを大げさに考える、というのはひとつの才能。そんな能力は普通はあったほうが困る。社会不適応者になってしまう。村田沙耶香も作家になれなかったら「変な人」と陰で笑われて一生を終えることになったでしょう。とてもうらやましい。


文章読本
何でもない表現に「文士・村田沙耶香」を感じる箇所がありました。

「わん太の目」
小学校三年生のクリスマス、サンタさんがクマのぬいぐるみをくれた。

普通なら「私はそのときまでサンタクロースが実在すると思っていたのだ」などと注釈をつけるものですが、村田沙耶香はそうしない。「サンタさんがぬいぐるみをくれた」のフレーズだけでそれを表現できてしまっている。「何を書かないか」ということにもとても意識的だと思う。

「生え替わる髪の毛」
そうなのか、やっぱり自分はおばあちゃんに似てるんだなぁ。

これも「おばあちゃん子だった」みたいな注釈を一切加えない。加えなくてもわかるから。

「四度目の出会い」
私は虫は平気なほうだがゴキブリだけは駄目で、見ると惨殺してしまう。

「惨殺」という言葉のチョイスが素晴らしい。一行目から引き込まれる。


というわけで、ますます村田沙耶香さんの作品から目が離せなくなりました。

ビバ! 村田沙耶香!!


『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)
『地球星人』(一人称の万華鏡)

となりの脳世界
村田沙耶香
朝日新聞出版
2018-10-05





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2018年07月18日

名作『夫のちんぽが入らない』の著者こだまさん推薦の『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読みました。
花田菜々子さんという無類の本好きが「X」という出会い系サイトを通して文字通り本をすすめまくる実体験が綴られています。




最高のビルドゥングス・ロマン
これは面白かったですねぇ。
出会い系サイトというと、どうしても美人局とか、女性だったら変態に犯されたり、とても恐いものだと思いがちですが、いや、確かにこの本で実際に花田さんが最初のほうに会った男たちはセックス目的だったようですが、本をすすめる面白い女性という評価が確立すると、そのような変な人との出会いがなくなり、良きにつけ悪しきにつけ「とても変で面白い人たち」との出会いに変わっていくんですね。

そして、あろうことか、出会い系サイトを飛び出して現実世界で逆ナンするようになったり(もちろん本をすすめるのが目的)挙げ句の果てに本をすすめるイベントを実現してしまう。さらに終章の一文にグッときます。

「そして私は『X』へのショートカットをスマホのホーム画面から削除した」

そうなんですね。この本は奇を衒ったタイトルでキワモノ本を装っていますが、実はとてもまっとうでごくごく普通の教養小説=ビルドゥングス・ロマンなわけです。(ビルドゥングス・ロマンとは、主人公の成長を描く物語のこと)

夫と別居することになった著者が「X」の手を借りて逆境を跳ね返し、ついには「X」の助けを必要としなくなる。リアルな世界で生きる力を取り戻すために「X」というバーチャルなツールが必要だったというのはとても今風ですね。

私もこういうふうに出会い系サイトを活用してみようかな、という気持ちが湧き起こりました。でも、どうしても根が臆病だからか、↓こんなふうになってしまわないかと心配なわけです。


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でも、著者は悪意に絡め捕られる危険よりも新しい出会いに賭けて成功したわけで、怖がっているばかりでは何も変わらないなぁと。

そういえば、こんな言葉があります。

百聞は一見にしかず。百見は一感にしかず。百感は一行にしかず。

つまり、たくさん見てもひとつの感動にはかなわない。そして、たくさん感動してもひとつの行動にはかなわない。だから何か行動を起こそうと思う猛暑日の夕暮れでした。著者もこう言っています。

「私が思ってたよりもこの世界は愉快なのかもしれない」


興味を惹かれる数々の本
それにしても著者の博覧強記ぶりには舌を巻きます。巻末に文中ですすめた本の一覧表が載ってるんですが、読んだことがあるのは4冊だけ。藤子・F・不二雄の『モジャ公』というのさえ知らなかった。『カンビュセスの籤』なら読んでるけど。

早速、谷川俊太郎よりメッセージ性が高くて好きだと著者おすすめの『おんなのことば』(茨木のり子)を読んでみました。

最初の『自分の感受性くらい』という詩にガツンとやられました。

「ばさばさに乾いてゆく心を
 人のせいにはするな 
 みずから水やりを怠っておいて
 (中略)
 自分の感受性くらい 
 自分で守れ 
 ばかものよ」

と読者をアジる内容となっています。

他にも史群アル仙なんて漫画家は名前すら知らなかったし、いろいろ読んでいこうと思います。

花田菜々子さん、素敵な読書体験をどうもありがとうございました。


本書で推薦されていた本の感想
『ワイルドマウンテン』




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