聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

エッセイ

岡潔の『春宵十話』など2冊を読んだが納得できなかった件について

『数学する身体』で引用されていた岡潔という数学者にとても興味をもったので、早速読んでみました。

『春宵十話』(光文社文庫)
『春風夏雨』(角川ソフィア文庫)

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確かに、思わず膝を打つ名言が多々あって、心酔する人たちがたくさんいるのはよくわかります。

特に、「創造とは、科学的に何かを発明したり芸術的な作品を作ったりすることだけを言うのではない。一日一日をしっかり生きることが本当の創造なのだ」

みたいな意味の言葉が一番グッときましたね。こんなことを平然と言える岡潔という人は只者ではないな、と。

それに、新しく読み始めた『心はすべて数学である』という本でも岡潔の名前がデカルト、スピノザ、カントなんかと一緒に挙がっていて、相当な影響を与えた人なんだなと、いままでほとんど知らなかったこと(名前はかろうじて聞いたことありましたが)を恥じました。

とはいえ、ことあるごとにもち出すのが「戦後、進駐軍は3つのSを巷間に流行らせようとした。セックス、スクリーン、スポーツである」

といっていて、この3つを蛇蝎のごとく嫌う発言が相次ぐんですが、やはり「スクリーン(映画、テレビ)」が人間にとっていけないものだ、という言説には納得できかねます。

テレビはまだわかりますが、それでも良質の番組もあるし(いまなら『新・映像の世紀」とか)映画にいたっては、それを否定されたら私の人生はすべてダメだったってことになっちゃうじゃないですか。

セックスなどは本能、岡さんの言葉でいえば「無明」だからダメなんですって。で、人間の顔に動物性が出てきたのがダメだとおっしゃる。

確かに、子どもたちの顔の無機質さというか、どれを見ても同じような顔というのは私も思います。それは岡潔の時代よりいまのほうがさらにひどいでしょう。岡さんが教育こそ大事だ、いまの教育がダメだから子どもたちの顔がダメになったんだ、という主張には同意します。

が、「動物性」がいけないというところに納得できないんですよ。

人間だって動物じゃないですか。

何か、この2冊を読んでいて強く感じたのは、「人間は他の動物とは違うんだ。他の動物は下等な生き物なんだ」という歪んだ自然観なんですよね。

無差別智とか無分別智とか、仏教用語のせいもあるんでしょうけどひとつひとつの言葉もいちいち抽象的で頭では納得できても腹に落ちてきません。最大のキーワードである「情緒」しかり。

一度は読むべき本であることは間違いないですが、この2冊で頭を熱くするより、『仁義なき戦い』でも見て血沸き肉躍らせるほうがよっぽど健全じゃないのか! 

と、強く思った次第です。


『数学する身体』(運動・思考・情緒)

いまちょいとした話題になっている森田真生さんという在野の研究者による数学エッセイ『数学する身体』(新潮社)を読みました。

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やはり、話題になってるだけあっていい本ですね。

前半は数学史。それも「身体を介した数学史」というところが本書の独創。

ギリシア数学は、パルメニデス(でしたっけ?)らの「この世に運動などない」という詭弁にあらがって、「直線を引く」とか「コンパスで円を描く」とか、「運動」を前面に出して実際に身体を使った幾何学が主流だったんだとか。そもそも当時のローマ数字は数字を表すことはできても「計算」することにはぜんぜん向いてない。ギリシア数学は頭の中で計算することを端から相手にしていなかったと。

で、イスラムやインドの計算が主流の数学が入ってきて、しかも幾何学と代数を同じ土俵で表現できるようになると、身体を使った作図ではなく、初めて数学は身体を離れて頭の中で計算することが主流となる。

そうした「思考」のはてに、エニグマ暗号を解読したチューリングという数学者の理論が基礎となって思考する機械=コンピュータが発明される。

なるほど。

しかし、ここまではただの前段。これを踏まえたうえでの後半が本書の真骨頂。

身体を離れ、人間の手をも離れた数学にあらがった数学者が日本にいた。

それが、岡潔という人。名前は聞いたことあったけど、著書を読んだことないし、何となく知ってる程度でしたが、この本では岡潔という人の少しも数学者らしくない数学者ぶりがあますところなく描かれていて非常に興味深い。

だって、数学者が「情緒」なんてことを言い出すんですよ。
数学者が芭蕉をもち出すんですよ。

そして岡潔の真骨頂は、「数学はゼロから始まる」といったヨーロッパの数学者に対し、「ゼロまでが大切」と当然のように言い放ったこと。

その言葉の著者なりの解釈は、数学を農業に例えると、種子から芽が出て水をやって大きくなって作物ができて・・・という、その最初の種子はゼロである。しかし、種子ができるまでが、つまりゼロに至るまでが本当の過程ではないのか。そこに数学の真骨頂が秘められているのではないか、ということらしい。

うーん、深い。常人には書かれていることは理解できても、「ゼロまでが大切」との言葉からそのような思惟をめぐらすことは至難の業です。禅問答のように「何となくわかった気になる」のは簡単ですがね。

ぜんぜん関係ないですが、「武道の究極の奥義は、微動だにせずして相手の剣先をかわすこと」らしい。でも、意味がわからない。何となくわかった気にはなる。で、私の場合そこで止まったまま。そこで止まらずに思索をつき進めることのできる人が一流と言われる人たちなのでしょう。

森田真生さんという、私よりずっと若いこの本の著者に心から頭を垂れます。

素晴らしい読書体験をどうもありがとうございました。


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