エッセイ・ノンフィクション

2020年02月24日

春日太一『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』(文藝春秋)に私の友人がチラッと出てきます。


追放劇の裏話
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365ページの冒頭、

「『車の運転しかできませんが、チームオクヤマに入りたいんです』と言ってくれた本当にいい奴がいました」

と書かれている人です。実際、奥山さんの直属の部下であり、運転手をしていました。運転手といっても、奥山さんの代わりに配給すべきかどうかを決めるべく字幕なしの外国映画を見たり、もちろん製作に関わったり、現場に出たりしていたそうです。(『大統領のクリスマスツリー』に関する暴露話がめちゃ面白かったですが、とてもここには書けません)

1998年1月。役員会の緊急動議で奥山さんは父親の社長ともども追放されました。

私はくだんの友人から裏話を聞きました。彼は滔々としゃべりながら「おまえ、週刊誌に売ろうとしてないか?」「メモする音が聞こえる」などと言ってきました。もちろん私はそんなことしてませんし、するつもりもなかった。でも疑心暗鬼になってしまうほど社内が一変したのでしょう。社内ばかりか世間も。手の平返しの大バッシングでしたから。

オーナー一族に「大政奉還」という形になり、戊辰戦争に負けた奥山親子はいまだに「賊軍」です。著者の春日太一さんも「奥山とは関わらないほうがいい」という「アドバイス」を受けたとか。

私は奥山さんほどの実力の持ち主なら絶対援助者がすぐ現れると楽観的でした。実際、中村雅哉さんというナムコの社長さんが助け舟を出してくれましたが、それでも今日まで20余年、第一線に立っているとはいいがたい。『凶弾』から突っ走った15年ほどの間によほど多くの敵を作ってしまっていたんですね。

ところで、アンチ奥山派による奥山派の粛清はほとんどコメディの様相を呈していたそうです。

「君、この会社から出ていく? それとも残る?」
「残りたいです」
「そう。じゃ稚内へ行ってもらおうか」

などという、『おじゃマンガ山田君』で見たことのあるエピソードもあったとか。

稚内と聞いて途端に「出ていきます」と言った人もいたようですが、ある人は「稚内? ほほう、興味ありますね。具体的な話を聞かせてください」と返したツワモノもいたらしい。もちろん虚勢です。でも相手は途端に慌ててしどろもどろになったとか。笑えた。

くだんの友人はあの追放劇の前に職を辞すことを決めていたそうですが、チームオクヤマ再建のめどが立つまで何とか力を貸してほしいと奥山さんに懇願され、しばらく手伝っていたそうです。

すぐれたプロデューサーというのは「人たらし」なところがあるのでしょうね。

しかも面白いのは、あの周到に根回しされた追放劇の裏で寝返っていた多くの側近たち。当時の奥山さんもインタビューで「おまえもかと訊いたら当然のように『はい』というんですよ。いい社会勉強させてもらったなぁ」と言ってましたが、そういう人たちは「中枢の人たち」によって次々と会社を追い出されたそうです。簡単に裏切る奴は信用ならないと。「会社に裏切られました」と奥山さんに泣きついてきた人もいたそうで、笑えるというか哀しいというか……。

「あんなクーデターを周到に準備できるんだったら何でもっとその力と情熱を映画作りに注がないのか」

と奥山さんは言います。正論ですね。でも正論が通るとはかぎらない、いや、むしろ通らないことのほうが多いのがこの世の厳しさであり愚かさです。


あらかじめ運命づけられた悲劇
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『エリカ38』で組んだ樹木希林が「あなたはカネの匂いがしない」と奥山さんを評したそうですが、深作欣二や菅原文太にデ・ニーロなど、錚々たるスターが奥山さんの復活を願っても叶わなかったのは「カネの匂いのする人間」を敵に回してしまったからなんでしょうね。

さて、その深作欣二というのが奥山さんにとって「偶像」だったのは誰でも知っていますが、「桎梏」でもあったというのは驚きでした。

解任劇のあと、デ・ニーロが「一緒にアメリカで映画を作ろう」と誘ってくれたそうですが、深作欣二のいる日本を捨てられないと踏ん切りがつかなったとか。そうだったのか。それほどまでに「深作欣二」という名前が重かったのか、と。

でも、それならなぜ東映ではなく松竹に入ったんでしょう?

やはり親父さんがいたからですか。「映画会社の中枢にいなきゃ何も変えられないと思った」という箇所がありました。でも結局、東映やくざ映画という「明るく楽しい松竹映画」とは真逆の色に染まっていた奥山さんは『丑三つの村』『その男、凶暴につき』『いつかギラギラする日』といった「松竹にあるまじき映画」を連打してどんどん敵を増やしてしまった。

聡明な人だから、松竹カラーとはぜんぜん違う映画を作っていたら遅かれ早かれああいうことが起こるのはわかっていたと思うんですがねぇ、、、と思ったところである言葉を思い出しました。

深作さんが亡くなったとき、脚本家の高橋洋さんが「映画芸術」の追悼特集でこんなことを書いていました。

「深作欣二は最後まで本当に戦うべき相手とは戦えなかった人だったんじゃないか。『仁義なき戦い』で菅原文太が戦うべきはどう考えても山守組組長の金子信雄なのに、他の奴らとばかり戦っていた。『バトル・ロワイアル』でも本当に戦うべき相手は自衛隊なのにクラスメイト同士で殺しあった。『Ⅱ』では、本当に戦うべき相手は米軍なのに自衛隊と戦っていた」

奥山和由という人にも似た匂いを感じます。本当は東映に入るべきだったのに松竹に入ってしまった。社内革命をやるといっても、最初から東映に入っていればそんな無駄な闘いを演じなくてもよかったはず。

奥山さんの一番好きな外国映画は『ゴッドファーザー』だそうですが、あのギリシア悲劇のような「あらかじめ運命づけられた悲劇」をご自身が演じていたような気がするのです。負け戦になるんじゃないかとどこかで思いながら。心のどこかで破滅願望が少しずつ満たされていくのを感じながら。226への異常なこだわりはそこか来ているんじゃないかと。

もし奥山さんがこの記事を読んだら「そんなわけあるか!」と激怒するかもしれません。

でも、この本を読んだ私にはどうしてもそう感じられてならない。






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2020年01月25日

「私には私の地獄がある」という声に出して読みたい日本語で有名なフリーアナウンサーの宇垣美里が去年エッセイを出していると知り、読んでみました。




タイトルは『風をたべる』。サブタイトルの「makan angin」というのはマレー語でまさに「風を食べる」という意味で、そこから転じて「旅する」という意味になるそうな。初めて行く国や場所で胸いっぱい深呼吸すること、それが「旅」だということらしい。マレーシアは粋な国ですな。

さて、こんな本を読んでいると宇垣の大ファンみたいですけど、さにあらず。むしろ嫌いに近い。じゃあなぜ読んでいるかというと、彼女は私の高校の後輩なので妹のような感覚で応援しているだけ(後輩といっても私が卒業した年にまだ宇垣は生まれていなかった)。

とはいえ、前は「たいしてかわいくもないくせに」なぁんて思っていたけど、いまは結構かわいいと思っていたりする。好きなのかもしれない。好きになりつつある過程なのかもしれない。


悪女を目指す宇垣
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この本には印象的なフレーズが多いんですが、のっけからすごい。
最初の章は「宇垣のすべて」で、子ども時代の思い出や、ふるさと神戸と大学時代を過ごした京都への愛情が綴られているんですが、中学時代に吹奏楽部で顧問の先生から「主役、脇役、監督、脚本家、あなたは何になりたいの」と訊かれ

「誰よりも印象的な悪役で」

と答えたそうな。この言葉を発したときと、次の言葉を知ったのとどちらが先なのかはわかりませんが、ハリウッド女優、メイ・ウエストの言葉が最後のほうで紹介されます。

「Good girls go to heaven,bad girls go everywhere」(いい子は天国へ行ける。悪女はどこへでも行ける」

魅力的な悪女になってやろうじゃないかという宇垣は、級友たちがこぞって言っていたように、

「心の中にアウトローを飼っている」

のでしょう。


絶望を語る宇垣
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そんな宇垣だからやはり誤解されることが多く、絶望することも多いそうな。

次の言葉もすごい。

「諸行無常。人はみんな刺せば死にます。その程度の存在を恐れるでない。すべての喧嘩は法廷で争えます。だから生きぬけ」

人は刺せば死ぬ程度の生き物だから恐るるに足らず。うーん、、、人を見ればカボチャと思えという言葉はあるけれど、ここまで突きぬけた人間観も珍しい。そして、

「世間は厳しい。みんながみんな自分のことをわかってくれるわけじゃない。人生なんて本来哀しいものだし、人と人との間には絶対に埋められない溝がある」

という、ゴダールが『勝手にしやがれ』で語ったことを宇垣も共有しているようだ。いや、正確には脚本を書いたトリュフォーが言いたかったことか。ま、この際それはどっちでもいいが。


夜空のちから
しかし、絶望とともに生きると決めている宇垣も、やはり絶望したときには何かにすがりたくもなるようで、

「人に絶望したときは、空を見上げればいい。そこにあるのは太古からある美しさ。そして何百年も前の人が読んだ物語が輝くのだから」

夜空の星座を見上げて自分を奮い立たせるらしい。

「自分の力で手に入れた幸せは、何よりも尊い」

これは、そうやって耐え忍んで得た幸福を味わい尽くしている宇垣だからこそ言える言葉。私なんかすぐめげてしまうので見習わなくては。

私は小学校の卒業文集に「天文学者になりたかった」みたいなことを書いたくらい星座が好きだったくせに、最近まったく夜空を見ていない。昼間の雲すら見ていない。

何を見ているのか。あくせくする自分の心の中ばかり見つめていてはだめだ。フランスの哲学者アランが名著『幸福論』で書いている。「遠くを見よ」と。宇垣はすでにアランの域に達しているのだ。焦る。


旅する宇垣
一番すごいと思ったのは次のフレーズ。

「旅に出る前は水回りなどを特に念入りにきれいに掃除する。その理由は、帰ってきたとき整理整頓された部屋を見るとすごく気持ちがいいから。帰ってホッと一息ついたとき初めて旅行が完了する」

なるほど! 思い立ったらすぐ旅に出る人間だからこその言葉というか行動ですね。私は出不精で旅行なんて嫌いだからなぁ。一番最後の旅行はもう17年も前。ロンドンとシェイクスピアが生まれた町ストラットフォード・アポン・エイボンにブロンテ姉妹が生涯を過ごした村ハワースを訪ねたイギリス旅行があまりに濃かったからか、スペインに行きたいとか屋久島の縄文杉や出雲大社をこの目で見たいという野望はあるものの行けていない。慢性の金欠病なので宇垣のように思い立ったらすぐという芸当はできないが、いつか行こう。


最後はこのフレーズで締めくくりましょう。

「快適に生きることにストイックであれ」

言い換えれば「欲望に忠実であることに禁欲的であれ」ということか。なかなかうまい逆説。

とにかく後輩にこんなに教えられる経験も珍しい。「人生は死ぬまで勉強」と宇垣も言っているし、「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ」とはガンジーの言葉。

まずは「人はみんな刺せば死ぬ程度の存在」というところから始めてみましょうか。


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2019年12月16日

内田樹先生の自叙伝『そのうちなんとかなるだろう』を読みました。

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内田先生の本はほぼすべて読んでいるので、この本もまた「どこかで読んだような」エピソードが多いです。とはいえ、いつもの評論とは違い自叙伝なので、最初の奥さんが女優だったとかまったく知らなかったこともあるにはありました。でもやっぱりどこかで読んだことのあるエピソードのほうが多かったし、そっちのほうが面白かった。著者自身が書いてて楽しいから何度も同じことを書くのでしょう。

さて、この本を読んで痛切に感じ入ったのも、いつかどこかで読んだエピソードです。

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内田先生は離婚後、娘さんと二人暮らしすることになり、大学での教員仕事よりも子育てを優先する生活にシフトしました。

大きなパラダイム・シフトですね。何しろ大学で研究に勤しもうという人間が研究を二の次にするというんですから。

そして、私のような凡人とはぜんぜん違うと唸ったのは、子育てを優先して生活し、もし時間が空いたら贈り物としてありがたく受け取っていた、というところ。

私は脚本家を目指すという大義名分のためにいくつもの職を辞しました。

やれ、この仕事では帰ってからの時間が少ないだの、やれ、この仕事をやっていては書く体力が残ってないだの、いろいろ理屈をつけては辞めてばかりでした。

それでも脚本家になれていれば何も言うことはなかったかもしれない。でもなれなかったから、職探しするときもろくな職歴がないから書類審査を通らない。高卒だから学歴もないし。

親元で暮らしていたから簡単に辞めても食うには困らなかった。それが災いしてしまった。甘えた気持ちが自分自身を弱くする典型。

内田先生のように、まずは食い扶持を稼ぐ仕事が最優先で、空いた時間があれば天からの贈り物としてありがたく頂戴し、勉学に勤しみ創作に打ち込んでいればプロになれたかもしれない。

私は何も考えていないアホでした。とにかく自由な時間を確保せねばならないと真逆のことを考えていました。まったくもって馬鹿。

内田先生は「これまでやりたくて自分から手を挙げてやりたいと言ってやった仕事はない」と言い切ります。そこには若干の潤色があるような気がしないでもないけど、でもまぁ大方はそうなんでしょう。やれるかどうかわからないけど他の人から頼まれたことをやっているうちに現在のようにたくさんの著書を出すようになった。

成り行きに任せるとは内田哲学の最たるものでしょうが、私は成り行きに任せることができず、運命は自分で切り拓くのだと息巻くだけで、結局何事もなしえなかった。

いまの職場はかつて同僚だった人が粘り強く偉い人に口を利いてくれたから復帰できました。復帰したい気持ちもあったけれど、それよりも、そこまでして戻ってきてほしいという人がいるなら戻ろうと思って戻ったのです。

成り行きに任せる内田哲学をもっと実践していきたい。







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