音楽

2019年06月13日

新しく作った「平成歌謡」カテゴリの一発目は、ザ・ブルーハーツの『青空』。



初めて知ったんですが、この動画はブルーハーツが初めてNHKに出演したときのもので、問い合わせが殺到したそうです。甲本ヒロトが狂ったように引き攣って歌っているのでヤク中なのか、はたまた、身体障碍者を揶揄しているのか、みたいなことを言う人がいたのでしょう。わからんではない。でも笑える。

そんなことより、やはり『青空』を語るうえで外せないのはそんな情報より、やはり歌詞ですね。


(歌詞・真島昌利)

ブラウン管の向こう側
かっこつけた騎兵隊が
インディアンを撃ち倒した
ピカピカに光った銃で
できれば僕の憂鬱を
撃ち倒してくれればよかったのに

神様にワイロを贈り
天国へのパスポートを
ねだるなんて本気なのか?
誠実さのかけらもなく
笑っている奴がいるよ
隠しているその手を見せてみろよ

生まれたところや皮膚や目の色で
いったいこの僕の何がわかるというのだろう

運転手さん そのバスに
僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める
まぶしいほど青い空の真下で



世間的には、「生まれたところや皮膚や目の色で」というフレーズが一番心に刺さるという声が多いようですが、私は「神様にワイロを贈り、天国へのパスポートを~」というところが一番引っ掛かります。


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ハワード・ホークスの最高傑作『赤い河』の主人公ジョン・ウェインは神様にワイロを贈るわけじゃないけど、意に沿わない者を次々に殺し、埋葬して聖書の一節を読めばすべて終わり。再び旅を続けます。子分のモンゴメリー・クリフトは「なぜ神様とグルになるんだ」とウェインを責めます。

この「神様とグルになる」と「神様にワイロを贈る」というのはほとんど同じ状況を謳っているように聞こえます。

奇しくもこの『青空』の冒頭は、アメリカ合衆国の西部開拓時代を揶揄しています。

『赤い河』はインディアンと対決する話じゃなく白人同士の物語ですが、神様という後ろ盾を利用して殺人を犯しているのは同じです。

この歌が発表されたのは1989年、つまり平成元年ですが、まだベルリンの壁が崩壊する前。昭和天皇崩御、天安門事件と立て続けに大事件があった頃です。

こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める

これは、200年前のインディアン虐殺の時代より少しはましになったかと思ったら少しも変わらないじゃないか、という歴史からの問い詰めという意味なんでしょうか?

答える言葉がなくて、バスの運転手に行き先はどこでもいいから乗っけてくれ、と。


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1999年のアメリカ映画『ゴーストワールド』のラストシーン。封切時に一回見たきりなので詳しい内容は忘れましたが、確か廃線になったはずのバスが来て主人公がそれに乗ってここではないどこかへ旅立つエンディングでした。

『青空』も同じく逃亡の歌なんですね。

昨日の『ホンマでっか⁉ TV』では、「日本人は『逃げる』ということをとても否定的に捉える。立ち向かうことを是とする人が世界でもダントツに多い」と言ってましたが、ブルーハーツはそれに異議を唱える。

逃げるのが何が悪い。こんな世の中なら逃げたほうがましでは?

ちょっと眉をしかめられる内容の歌をふざけた調子で歌うブルーハーツよ、永遠なれ!


青空
Ariola Japan Inc.
2014-04-01









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2019年06月06日

TSUTAYAで渚ゆう子のベストアルバムが500円で売られていたので衝動買いしてしまいました。

渚ゆう子といえば、やはり『さいはて慕情』とか『京都慕情』の人気が高いのでしょう。私も人後に落ちずそういうのが好きでしたが、今回初めて聴いた『大阪慕情』の虜になってしまいました。

あまり有名でないからか渚ゆう子本人が歌った動画がなく、作詞・作曲のみなみらんぼうが歌ったものしかありませんでした。




大阪ミナミの川のほとりの
ぶらり入った飲み屋の女は
手持ち無沙汰の人待ち顔で
一人グラスを傾けていた

酔いにまかせて女が言うには
外は雨だしお客も来ないし
何やあんたにやさしくしたいわ
よけりゃ二階で遊んでゆかないかと

椅子にもたれて片肘ついて
身の上話は九州訛りで
あんたは最初の男に似てるわ
嘘かほんとか悪い気もせず

今夜は悪いがきっとまた来ると
心残りで勘定すませりゃ
首にすがってかぼそい声で
本当にあんたが好きだと泣くよ

三日と置かずに二枚目気取りで
店の女を訪ねてみたら
あの子は二階でいま忙しいと
太った女将が片目をつぶる

大阪ミナミの川のほとりの
ぶらり入った飲み屋の女は
客はみんな最初の男で
よけりゃ二階で遊んでゆけと言う



これはもう解釈がどうとかそんなのはいりませんね。そのまんま。

女の魔性とそれに翻弄される男の哀しい性がユーモアたっぷりに歌われています。

しかし下手糞な歌ですね。ていうか、みなみらんぼうって音楽もやってるんだと驚きました。いまはなにをやってるんだろう、もしかして死んじゃったのかしらと調べてみて「‼‼‼」


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南伸坊と勘違いしてました。アッハッハ!

みなみらんぼうはこちら。

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この二人まぎらわしいんですよ。ずっと前にも勘違いして笑われた記憶が……。

でも、みなみらんぼうってあんな歌声でしたっけ?




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2019年04月29日

昨日、ツイッターでこんなアンケートを実施しました。
ちあきなおみの『喝采』がダントツで1位かと思いきや、得票率は50%。次に多いと思われた「特に何も」は1票だけ。まさかルーベン・マムーリアンの映画に票が入るとは思ってもみませんでした。(あれは傑作ですが知名度は低い)

さて、1972年のレコード大賞で発売からたった3か月で受賞した、ちあきなおみの『喝采』をお聴きください。聴いたことあるよという人もまずは聴いてください。(ユーチューブで「喝采」で検索すると最上位に出てくる二つの動画はなぜか途中がカットされてる不完全版なのでご注意あれ)





作詞:吉田旺 作曲:中村泰士

いつものように幕が開き
恋の歌うたうわたしに
届いた報らせは 黒いふちどりがありました

あれは3年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

ひなびた町の昼下がり
教会のまえにたたずみ
喪服のわたしは 祈る言葉さえ 失くしてた

つたがからまる白い壁
細いかげ長く落として
ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた

暗い待合室 話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 


ちあきなおみの実体験
ちあきなおみ自身に同じような体験があったそうです。だからこれは「メタ」ですよね。歌い手自身が「わたし」と語る一人称の歌詞ですが、その「わたし」がフィクションの「わたし」でもあると同時に、歌手・ちあきなおみ自身でもあるという。ちあきなおみが自分で作詞したのならメタとは言わないかもですが、作詞家はそういう事情を知らないで作詞したらしい。歌い終わって嗚咽するちあきなおみは、レコード大賞を受賞して泣いているのか、それとも歌の中の自身の体験を思い出して泣いているのか。おそらくその両方なのでしょう。


映画化できるか!?
さて、この『喝采』に関して「この時代の歌はみんな3分間の映画だなぁ」と言ってる人がいました。確かに波瀾万丈の人生の断面が描かれているという意味ではそうでしょう。でも、この『喝采』は映画にできない。

なぜなら、この歌に含まれる「時間」と「人称」が問題です。

この歌の主人公にとっての「現在」はどこにあるかというと、最後の「それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる」というラストなのは誰の目にも明らか。でも、それは歌が終わるときに初めて分かることですよね?

映画にするとなると、まずファーストシーン、暗い待合室でヒロインが、数日前にかつての恋人の死を知らせる電報が届いたことを思い出し、3年前の別れを回想し、葬式で言葉を失ったことを回想し、それでも恋の歌を歌い続けるという終幕でいいのでは? 『イヴの総て』や『裸足の伯爵夫人』みたいな回想形式の映画にすればいい。

確かにお話をなぞるだけならそれでもいいでしょう。しかしながら、映画も詩も「お話」だけから成っているわけではありません。


主人公の「現在」はどこにある?
虚心坦懐にもう一度聴いてみてください。この歌の主人公の「現在」はどこにあるのか。

最初の「いつのように幕が開き 恋の歌うたうわたしに」のところで、聴き手は歌い手が電報を受け取ったときがまぎれもないヒロインの「いま現在」だと感じます。いま現在のヒロインが電報を受け取って3年前を回想し、葬式に行って言葉を失う。しかし最後で明らかになるのは、聴き手がいま現在だと思っていた時間はすべて過去であり、回想だったということです。

本当のいま現在のヒロインは、恋を捨て、恋人を亡くし自責の念に駆られながらも、今日も恋の歌を歌うことに、歌うことで喝采を浴びることに悦びを感じているのです。

最後の部分の解釈はいろいろありましょう。後悔に苛まれながらも今日も恋の歌を歌う自分って何なの? 偉そうに歌う資格があるの? という意味にも受け取れます。


この歌詞をどう解釈するか
しかしながら、私の耳には、後悔に苛まれながらも歌っている自分が好き、喝采を浴びる自分が好き、だから、3年前あなたを捨てたのよ、という歌に聞こえます。そういうふうに解釈しないと、

暗い待合室 話すひともないわたしの 
耳に私のうたが 通りすぎてゆく


という部分がなぜ必要なのかわからなくなりますし、「それでも歌う」理由もわからなくなります。本当に後悔と自責の念に苛まれているのなら、もう恋の歌なんか歌わないはず。それでも歌うのは3年前恋人を捨てたのと同じように後悔に苛まれた自分をも捨てたからでしょう。

この部分が「あれは3年前~」と同じメロディで歌われていることが肝要です。3年前恋人を捨てたことを後悔しながらも、いま現在どうしても自分の歌が聞こえてきてしまう。彼女は自分の罪に打ちひしがれながらも、後悔した自分をも捨てようとしている。それでも歌いたいのです。自分には歌しかないと思っているのです。

いつものように幕が開く
降りそそぐライトのその中
それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる 

ここで聴き手は、主人公にとっての現在が最初の「いつものように幕が開き」のところではなく、最後の「いつものように幕が開く」ところだと初めてわかるわけですが、その秘訣はこの歌が「一人称」で歌われていることにあります。一人称の語りが独特の時間構造を生んでいます。

だから、時系列では最後のこのシーンを現在として、回想形式で映画にすると、この歌の本来の面白さが損なわれてしまいます。

『喝采』は、ずっとヒロインに寄り添ってきたつもりの聴き手が、最後の最後で突如現れた現在のヒロインによってせせら笑われる歌です。聴き手を嘲笑うかのように、恋人だけでなく後悔する自分をも捨て、今日も恋の歌を歌う女のしたたかさ。

こういうのを「詩」というのです。「3分間の映画」というのも間違いではないでしょうが、私は決して映画にできない詩というものの奥深さを感じるのです。


微吟
ちあきなおみ
テイチクエンタテインメント
2019-04-17





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