聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

政治思想

今月BSプレミアムで忠臣蔵映画が1本も放映されない件

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今日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日ですが、毎年12月といえばNHKのBSプレミアムで忠臣蔵映画が2本とか3本とか放送されるのに何で1本もないんだろう」と不思議だったんです。

が、このたび内田樹先生の『街場の天皇論』を読んで合点がいきました。



先日、今上天皇の退位の日が再来年の4月30日に決定しました。
去年の夏に、退位のご意向という「お言葉」を発せられてから政府は有識者会議を開いていつにするか模索していたようですが、約1年半かけてようやく決まったんですね。

『街場の天皇論』には非常に面白い記述が出てきます。(確か以前の本にも同じことが書いてあったような気がしますが、まぁこれはいつものことですね)

『忠臣蔵』は映画だけでもさまざまなバリエーションがあって、もとは『仮名手本忠臣蔵』という歌舞伎ですし、普通の芝居でも忠臣蔵はたくさんあります。テレビドラマもある。

バージョンによってそれぞれあの物語のある部分をカットしたりキャラクターを変えたりしている。堀部安兵衛の性格がぜんぜん違ったり、もとはといえば『仮名手本忠臣蔵』には安兵衛は出てこないらしいです。目からウロコ!

で、どこをカットするかはもちろん、それぞれの作者たちに任されているわけですが、「松の廊下」をカットしているものもあれば「赤穂城明け渡し」をカットしていたり、信じられないことにクライマックスというべき「討ち入り」をカットしているものさえあるらしいです。これも目からウロコ。それじゃあ『忠臣蔵』じゃないじゃん! と一瞬思いますが、忠臣蔵を忠臣蔵たらしめているのは別の場面らしいのです。

どんなバージョンでも絶対にカットされない場面というのがあって、それは何と「大石内蔵助が京都の茶屋で遊興に耽るシーン」なんだそうです。

そういえば、中学の時分に学校で見に行った先代・片岡仁左衛門の『仮名手本忠臣蔵』はまさにこの京都で遊興に耽る内蔵助を描いた一場でした。

何でこんな本筋と関係ないところを、と不満に思ってほとんど寝てしまいましたが、実は『忠臣蔵』の要だったんですね。30年目の真実。

なぜカットされないかというと、この遊興の場面というのは、討ち入りの意志があることを吉良家や幕府に知られないように、内蔵助が「敵を欺くにはまず味方から」ということで遊び呆けて、確か部下の浪士たちから叱責される場面もあったんじゃないかしら。寝ながらたまにチラチラ見ていた舞台上では確かそんな場面が演じられていたような・・・?

内田先生の卓見を引用しますと、

「『忠臣蔵』というのは不安のドラマなのである。大石という仇討プロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して浪士たちの生殺与奪の権を握っている人物が本当のところ何を考えているのか、まったくわからない」

「本当に討ち入りはあるのかという同志たちの猜疑心、討ち入りはいつなのかと怯える吉良家、切腹という公式の裁定に対してテロリズムに訴えられる幕府の不安、血なまぐさいスペクタクルを期待している大衆の苛立ち」

「このような『いったいどっちなのか、やるとしたらいつなのか』という不安がぎりぎりのどころまで高められたうえで『いざ!』と大石が号令をかけるとき、この過度に引き延ばされた非決定状態は劇的な形で解決される」

「全権を握っている人間が何を考えているかわからないとき、日本人は終わりのない不安のうちに様々な解釈を試みる。そのときに日本人の知性的・身体的なセンサーは最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するよう日本人の集団が力動的に構成されている」

中心が虚であるとき・・・
全権を握っている人間が何を考えているかわからないとき・・・

もうおわかりですよね。

日本人の中心に位置するのはこの人以外にありえません。


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そして、この人が「生前退位の意向」なるものが「本当は何を考えているかわからない」という状態を生み出したのは、我々一人一人もその渦に巻き込まれたのだからわかりますよね。「いったいあのお言葉の真意はどこにあるのか」と侃侃諤諤の議論が展開されました。

天皇には、安倍某がやろうとしている改憲を少しでも引き延ばそうという意図がある、という内田先生と同じ見解を私ももっていますし、「ただもうしんどくなっただけなんじゃないの?」という解釈だって成り立ちます。(違うと思うけど)

しかしながら、この国を大日本帝国へ戻そうとしている安倍政権は、「天皇」という神輿を利用して全権掌握しようとしているのだから、『仁義なき戦い』のように「ただの神輿のくせに」みたいなことは言えません。それでは神輿を担ぐ資格を剥奪されてしまいます。だから1年半もかけて退位の日程を決めないといけなかった。

だから、中心という虚が何を考えているのか、と日本中が騒いだあの頃を安倍某は思い出したくないのでしょう。

神輿に意思などあってはならないと考える安倍某は、意思を表明した天皇にかなり苛立ったと言われていますが、大本営と化したNHKはそこのところを忖度し、忠臣蔵映画を放映しないんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。

(しかし、忠臣蔵のクライマックスが大石が「いざ!」と討ち入り決行を宣言する場面だったとは。だから討ち入りそのものはカットしても成り立つんですね。もう問題のすべてが解決してしまっているから。なるほど)

「尊王攘夷」の真実(『学生を戦地へ送るには』より)

昔から幕末の「尊王攘夷」というのがよくわからなかったんです。


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「尊王」って、天皇に実権を戻して親政をしてもらおうという思想でしょ。
対して、「攘夷」とは、「夷」つまり「外国」=「日本ならざるもの」をやっつけるということですよね。「夷狄」「蝦夷」の「夷」ですね。

黒船が来る前から「倒幕派」と言われる人たちがいて、彼らはもちろん「尊皇派」です。それに対して幕府に味方するのが「佐幕派」。
一方、「攘夷派」に対抗する思想は何かというと、言うまでもなく「開国派」ですよね。

だから、


倒幕派⇔佐幕派
 |    | 
攘夷派⇔開国派


横の対立はすぐ理解できるけれども、なぜ上下の縦線が結びつくのか。

だって、尊王=倒幕というのはあくまでも内政問題。攘夷か開国かは外交問題のはずなんです。なのに、なぜこの二つが合体したのか。

佐藤優さんの『学生を戦地へ送るには 田辺元「悪魔の京大講義」を読む』を読んでその謎が解けました。




博覧強記の著者による解説では次の通りです。

幕府の最高権力者は「将軍」だけれども、それはあくまでも略称であって、正式には「征夷大将軍」という。初代征夷大将軍の名前は坂上田村麻呂。


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征夷大将軍とは、東北の夷狄やアイヌをやっつけて朝廷を守れと天皇から任命された人のこと。日本ならざるものをやっつけるのがこの人の役目。

なのに、黒船でペリーがやってきたとき、徳川将軍は朝廷に内緒で勝手に友好条約を結んでしまった。

「日本ならざるものをやっつけるのが主たる任務であるはずの征夷大将軍が何をやっている! やはり徳川に日本の行く末は任せられない。俺たちが代わりに征夷=攘夷してやる!」

という声が沸き起こって倒幕派と攘夷派が結びついた、ということらしいのです。



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えらく単純なことなのに、いまのいままでわからなかったとは。恥ずかしいかぎり。




藤井聡太と宗教改革②「神」をめぐって



深井智朗という哲学者による好著『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(中公新書)を読んで、カトリックへのプロテスタント(抗議)として生まれたルター派(古プロテスタンティズム)と、ルター派へのさらなるプロテスタントとして誕生した洗礼主義ともいわれる新プロテスタンティズム。二つのプロテスタントがあることを知りました。

ここまでの前置きに関しては昨日の日記をお読みになってください。

①「王」をめぐって


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将棋は「王」を詰めたほうが勝つゲームです。
こないだ藤井聡太四段に取材したNHKスペシャルでは「王」と言ってましたが、ほんとは「玉」ですよね。でも王が座るところを玉座というから一緒なのかな。

そこらへんには大変疎いのですが、ともかく、将棋は「王」をめぐるゲームであって、『プロテスタンティズム』という本を読んでいて自然と藤井四段の顔が浮かんだんですね。


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これは彼の大好物であるラーメンを食わせる店に頼まれて書いた色紙だそうですが、彼が考案した詰将棋の問題も書かれています。

詰将棋というのはとても変なものです。なぜなら、上の画像のような局面は普通の将棋ではありえないからです。しかも詰めるほうの持ち駒以外の駒はすべて「王」の側の持ち駒ということになるんですね。

Nスペで印象的だった藤井四段の言葉は、

「これからも将棋と詰将棋の両方やっていきたいです」

というものでした。

なるほど。やはり「将棋」と「詰将棋」は別物らしい。

それが私には、「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」の違いと相似形のように見えます。

かたや、聖書に返るべく法王を否定しながらも、国家の「王」の存在は頑なに守った宗派。
かたや、法王も「王」もどちらも認めない宗派。

普通の将棋は、自分の「王」(国王)を守りながら相手の「王」(法王)を詰めにかかります。
詰将棋は、自分たちの「王」(法王)はすでにいないのが大前提で、そのうえで相手の「王」(国王)を詰めにかかる。

似ていませんか?

Nスペで確か渡辺竜王が言ってましたっけ。

「プロになったら詰将棋をほとんどしなくなる人もいる」

そういう人は、プロになると同時にルター派こそ自分の宗派と決めた人なのでしょう。
逆に藤井四段は、対局以外にも詰将棋選手権にも積極的に参加してどちらにも同じ比重を置いてやっていきたいらしい。

ルター派でもあり、同時に洗礼主義者でもある。同時に二つの宗派でトップにならんと欲するのが藤井四段の真骨頂。


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宗教に擬するならば、「王」だけでなく、「神」に該当するものがないといけませんが、これはやはりポナンザという名前のAIでしょう。

Nスペでは、というか、最近の棋界では、AIが形勢の有利不利を判定しているとか。しかもまったく間違えない。全知全能の神といって差し支えないかと。

ルターは、聖書に書いてあることに返ろうと主張し、その帰結としてプロテスタンティズムが生まれたわけですが、それはつまるところ、「神」の言葉に従いましょう、ということだったはず。

最近はAIがどういう手を指したか、という研究がすさまじいらしく藤井四段も相当研究しているそうです。それは、これまでの文脈からすれば、「AI=神」の言葉に従う、ということになりましょう。

ただ、AIは恐るべき計算能力で最善手を選ぶことは可能ですが、詰将棋の問題を作ったという話は聞いたことがありません。

AIは全知全能に見えて、実は「創造主」の資格がありません。つまり、「神」ではない。

では、誰が「神」なのか。

それは、詰将棋の問題を、それも二十何手詰めなどというプロでも解けない難問を作ってしまえる俺たち人間だ! と藤井四段はじめ詰将棋好きの棋士たちは言っている気がしてなりません。

「将棋」においては「神」に従い、「詰将棋」においては「神」を乗り越え、自分こそが「神」だと高らかに宣言する。

おそらく、これからの「将棋」は藤井四段のような「詰将棋好き」しか勝てなくなるのではないかとひそかに思っています。

AIの差し手を研究しながら同時にAIのできないことをやる。

それが藤井聡太という弱冠14歳の天才が始めた「将棋改革」なのだと思うのです。





藤井聡太と宗教改革①「王」をめぐって






深井智朗という哲学博士による『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(中公新書)を読んで無類の知的興奮を感じています。
そして同時に、デビュー以来29連勝という金字塔を打ち立てた、稀代の天才棋士・藤井聡太四段の活躍にも。


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マルティン・ルターの宗教改革の実情とはどんなものだったか。

中学や高校で習った「免罪符」という訳語は間違いだそうです。「贖宥状」なんですって。

いずれにしても、まだ印刷技術が発明されていなかった16世紀初頭のヨーロッパにおいて、聖書を読んだことのある人は限られており、バチカンの法王の聖書解釈がそのままカトリック信徒たちの守るべき教義だったそうですが、ルターはそれに異を唱え、聖書に書いてあることに返りましょうよと、当時としてはかなりラディカルな問いかけをしたわけです。

そして、カトリックへのカウンターとしてのプロテスタント(「抗議」の意)という教派ができるわけですが、ここで問題なのは、プロテスタント=ルター派というわけではない、ということなのですね。

上の画像にもあるように、同じプロテスタントにも保守主義とリベラルとがあり、ルター派は保守主義に属するそうです。

ルターが保守主義だって? 当時絶対的権威だった法王に楯突いたのに⁉ という疑問が湧くでしょうが、著者の論は単純にして明快。
カトリックとは何かというと、生まれると同時に洗礼を施される、つまり、親と同じ教派を受け継ぐ、あるいは、生まれた地域がカトリックならその人はカトリックという、著者の喩えをそのまま借りれば、公立学校みたいなものであり、自分自身で選ぶことができないと。

ルターは贖宥状を否定し、聖書の教えを絶対とする抗議をして新しい宗派を生み出しはしたものの、このあたかも公立学校のような形は残ったと。ひとつの政治的支配領域にひとつの宗教、つまりはひとつの国家にひとつの教会という形態を保持した点において保守主義なんだとか。これを「古プロテスタンティズム」というらしいです。

一方、リベラルなプロテスタンティズム(=新プロテスタンティズム)はどういうものかというと、「洗礼主義」と言われるように、生まれたときに洗礼するのではなく、自分がどの宗派の洗礼を受けるかを自分で決める。だから国境線がどこを走っているかなんてことに関係なく、好き勝手に教会を、公立学校ではなく私立学校のように作ることが可能、と。

古プロテスタンティズムは19世紀初頭に統一を果たしたドイツに根づき、新プロテスタンティズムはアメリカにおいて強烈に根づいたと。

どうも著者のもっとも言いたいことは、アメリカという特異な国の心性のようですが、私の興味はルター派のほうです。

ルター派はナチスが台頭してきたとき、諸手を挙げて歓迎したわけでもないけれど、否定したわけでもなかったそうです。ひとつの国家にひとつの教会。それを実現するためには「王」が必要だ、というのがルター派の考え方だったらしいのです。
ルター派はヒトラーを新しい「王」として迎え入れようとした、ということなのでしょう。

前置きが長くなりました。


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本題はこの人の話なんですが、続きは明日にでも。

キーワードはこちら。









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そう、「王」です。

続きの記事
②「神」をめぐって



中江兆民『三酔人経綸問答』(平凡の非凡と『マルコムX』)



「いまこそ読まれるべき書」と聞いたので、中江兆民の『三酔人経綸問答』(光文社古典新訳文庫)を読んでいたく感銘を受けた、というか、マルコムXの伝記映画を作ったスパイク・リーの怒りを思い出した、というのが今日のお話です。



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三人の登場人物による思想劇で、

南海先生
洋楽紳士
豪傑君

この三人が、19世紀末における国際政治の舞台で日本がいかなる外交政策を取るべきか、ということを議論するんですが、

まず、洋楽紳士がカントの『永遠平和のために』の影響をうけまくったのか、自由・平等・絶対平和を唱え、ダーウィンの進化論も交えながら「世界は戦争をしない方向へ進化すべきだ」みたいなことを言い、かと思えばそれに異を唱える豪傑君が「この帝国主義の時代、ヨーロッパではフランスとドイツが争い、イギリスとロシアは東アジアで覇権を争っている。ならば最も現実的な方策は『軍備拡張』と『対外侵略』しかあるまい」と自説を講じる。

これに対し、酒杯をグイグイ空けながら二人の議論を聞いていた南海先生は、

「二人の言うことはまったく対極の意見だけれども、その急進的なところにおいてまったく同じである。酒席の雑談ならば奇抜を競うのもよかろうが、国家百年の大計とあってはいたずらに奇抜や新味を求めて喜んでいるわけにはいきません」

その南海先生の持論はというと、

「外交政策については、努めて友好を重んじ、国の威信を損なうことがないかぎり決して国威と武力を誇示することをせず、言論、出版、様々な規制については次第に緩やかにし、教育の実施、商工業の活動は次第に充実を図る、などです」

というもので、このあまりに平凡な言説を急進派の洋楽紳士と豪傑君は「子どもの意見みたいだ」と嗤うんですが、先述の通り南海先生は「漸進的」であることを尊ぶ。「平凡の非凡」というやつですね。

なるほど、極左たる洋楽紳士のやり方でも国は破滅しましょうし、極右たる豪傑君のやり方でも破滅は免れないのは歴史が教えるとおり。

南海先生はこうも言います。

「『賜った民権』を『回復した民権』にしていくほかはない」と。

いまの日本に当てはめれば、「賜った民権」とはアメリカから押しつけられた日本国憲法であり、それを安倍某がやろうとしているように急進的にではなく、あくまでも漸進的に日本国民自らが「回復した民権」に変えていかねばならない、ということになるだろう、と訳者である鶴ヶ谷真一さんは言います。

さて、ここで登場するのが、スパイク・リーが1992年に発表した『マルコムX』という映画です。


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三酔人による政治問答はあまりに面白いんですが、訳者の鶴ヶ谷さん曰く、

「この本を読んで、もっぱら直接的な政治的メッセージだけを読み取ったならば、その人はこの類まれな作品を最も貧しく読んだことになるだろう」なんですって!


まさに私がそういう貧しい読者だったわけですが、ここですぐ脳裏に浮かんだのがスパイク・リーと『マルコムX』でした。

スパイク・リーは、あるインタビューでこう語っていました。

「確かに俺の映画では政治的主張をたっぷり盛り込んである。だがね、それだけが映画のすべてであるわけがないんだ。批評家は俺の映画を見てもっぱら政治的主張の是非ばかりを論じたがる。誰も俺の映画のライティングやセット・衣裳の配色を論じようとしない。そもそも彼らは見ていないんだ」


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確かに『マルコムX』はアカデミー賞で主演男優賞と衣装デザイン賞にノミネートされましたが、誰もこの映画のデザインの素晴らしさをうんぬんすることはありませんでした。

同様に、『三酔人経綸問答』も政治的な主張だけでできているわけではない、ということなんだそうです。

ううう、私は政治的な主張だけを読むという愚を犯してしまいました。というか、こういうところが「政治」を扱うときの難しさなのでありましょう。

政治的にも美学的にも一級品を作り上げた中江兆民とスパイク・リーには、ただただ敬服するばかりです。





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