聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

哲学

内田樹先生の『困難な成熟』を読んで

久しぶりに内田樹先生の本を読み、感動に打ち震えています。

『困難な成熟』(夜間飛行)

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ある編集者さんから突きつけられた質問に対しひとつひとつ丁寧に答えていく内容で、

「責任を取ることなど誰にもできない」
「やりたいことをやるだけでは人生の主人公になれない」
「トラブルは『問題』ではなく『答え』である」

などなど、いつもの内田節は健在です。

しかしながら、内容の面白さよりも今回強く感じたのは、内田先生の本の「風通しのよさ」でした。

これまでの著作でも「家にしても組織にしてもできるだけ『風通し』はよくしておいたほうがいい」とおっしゃっていますが、本そのものの風通しのよさについてこれまで何もおっしゃっていませんし、感じたこともありませんでした。

この『困難な成熟』を図書館で借りる前にある分厚い小説を借りてまして、前々から読みたかった作品なんですが、どうも読む気になれなかったんです。

分厚いから気おくれして、というのもあるにはありますが、『困難な成熟』を読んで本当の理由がわかりました。

風通しがよくないんです。

内田先生の文章というのは、改行が多いからそれだけでも余白が多いのに、そのうえフォントにも気を使っていて、かなり細い字体(何というのか知りませんが)なんですね。それに1ページ当たりの行数も、行間が充分に空いて風通しがよくなるように考えぬかれています。

読もうとしていまだに読めない小説は、パッと開いただけで字間や行間が狭くてものすごく息苦しい感じがするんです。だから読もうという気が起こらない。

逆に『困難な成熟』は風通しがよすぎるぐらいいいから、パッと開いただけでスッと入っていけるし、読み出したらもう止まらない。

まぁ、フォントや字間、行間なんてのは著者の内田先生じゃなくて、編集者がやることなんでしょうが、そういう気遣いのできる編集者さんと懇意の仲だというのが内田先生の強みというか、そういう気遣いのできる人でないと内田先生のお気に入りにはなれないのでしょう。

というようなことを思いました。

もちろん、内容もいいです。ご自身でお書きになっているように、「これはもう何度も書いてることだけど」ってなことばかりですが、それでもやっぱり面白い。本当に面白いものは何べん読んでも面白い。

これから、巻末に添えられた「内田樹選・必読書7冊」を読もうと思います。実はどれも読んだことないんです。(汗)




『単純な脳、複雑な私』(「生物」とは何か)

いまちょいとした話題になっている池谷裕二先生の旧著『単純な脳、複雑な私』(講談社ブルーバックス)を読みました。

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高校生に向けた講義録なのでものすごく読みやすいうえにめちゃくちゃ面白かったです。目から鱗の最新(?)情報が満載でしたが、なかでも私が惹かれた話題は「生物とは何か」というテーマでした。

生物の定義とは何か。

いつか死ぬもの。という答えもありえますが、それは、じゃあ死って何? という問いを生み出し、死を説明しようと「生きてないもの」と答えると、「いつか死ぬもの」という最初の答えが「いつか生きてないものになるもの」となってしまって、答えの中に問いが含まれるトートロジーに陥ってしまう。

他にも聞き手である生徒さんの答えがトートロジーに陥っているケースが多く、著者の池谷先生は「生命とは何かを定義しようとするとえてしてトートロジーに陥るのだ」と諭します。

で、例えば、ここに人間そっくりのアンドロイド(アトム君)がいたとして、人間の太郎君はアトム君を人間だと思い込んだまま急な交通事故で死んでしまうとする。太郎君が死んだあとでアトム君が人間ではなくアンドロイドだったことが判明したと仮定すると、太郎君にとってアトム君は人間だったのか、それともアンドロイドだったのか、という恐ろしく深淵な問いが発せられます。

著者の見解は、やはり太郎君にとっては人間だったんだろう、と。というか、結局、その人の主観でしかないのだというのが「生物の定義」らしいのです。その人が「自動ドアは生きている」と思えばその人にとっては自動ドアは生物だし、アイボが生物だと思えば生物、ただのロボットと思えばロボットにすぎない。

1982年製作の大傑作SF映画『ブレードランナー』のクライマックスで、レプリカント(アンドロイド)役のルトガー・ハウアーの死に様を見つめながら主役のハリソン・フォードの次のようなナレーションがかぶさります。(このナレーションのない最終盤やファイナルカット版を私は認めません!)

「彼は自分のことを知りたがった。どこから来て、どこへ行くのか。何年生きられるのか。人間も同じなのだ」

自分は人間だと思っているあなたも、この私も、もしかしたらアンドロイドなのかもしれません。神が造ったアンドロイド。業田良家さんの『機械仕掛けの愛』の感想にも書きましたけど、人間の「心」と、機械の「機能」は同じなのです。ただ人間が自分の機能を「心」と思っているだけです。人間がというか、池谷先生の論旨に従えば「人間の脳が」。

違う! 私は人間だ。と思っても証明する手立てがありません。ロボットはプログラムされてるだけだ、俺はそんなことされてない! と言ってみても、やはりあなたも私も神にプログラムされてその通りに生きてるだけかもしれないのです。私たちにできるのは「自分は人間だと信じる」ことだけです。自分は自分の自由意思で生きていると思い込むことだけです。

実家で飼っているワンコはどうも自分のことを人間だと思っている節がありますが、あのワンコにとって自分は人間なのでしょう。私たちがいくら「おまえは犬だ」と言ってみても、本人(?)が自分を人間だと信じていることを止めることはできません。

それと同じで、私たちが世間の人たちから「おまえはアンドロイドだ」と言われても、自分は人間だと信じられるならその人は永遠に人間でしょうし、アンドロイドなのかな、と思ってしまえばその瞬間にアンドロイドになってしまう。

幸せ、というのもそれと同じなのではないでしょうか。

他人から見て幸せそうかどうかは関係ないのです、おそらく。
自分で自分を幸せな奴と思えるかどうか。自己満足でいいんじゃないですかね。

何だか脳科学とか生命論とはぜんぜん別の感想に行き着いてしまいました。(汗)



空間の結界、時間の結界

先日、当ブログでご紹介した驚異の予言者ババ・ヴァンガさんのことを調べたら、にわかに予言なるものに興味をもちまして。
まぁ、1999年7月が終わるまでは人並み以上に予言には興味をもっていたんですが、ババ・ヴァンガの予言内容を見てみるに相当すごいことを予言してるので、自分の中の「予言熱」が再燃してきたという次第。

で、『予言の日本史』という本を読んでみたんです。あまり面白みのない本だったんですが、この著者は数年前に『葬式は、要らない』という本を出して結構売れたんですよね。私は未読なのであの本の内容に言及することはできませんが、題名については大反対なんです。

昔は「葬式なんていらない」と私も思っていました。自分の葬式もしてほしくないと思っていました。

でも、歳をとるにつれて、それは間違いなんじゃないかと思うようになったんですよね。

葬式は死んだ人のためにあるものじゃなくて、生き残った人のためにあるんじゃないかと。遺された人たちが、死んだ人の死を受け容れるようにするための儀式だと思うんですよ。

結婚式もそうでしょう。儀式を経ることで当人たちが内側から変わることが期待されている。

これは「時間の結界」だと思うんですよね。

ある人の死を境に、それ以前とそれ以後を葬式という儀式で結界を張る。結婚式でもって独身時代と夫婦になった時間の間に結界を張る。入学式、卒業式、成人式、入社式、何でも式と名の付くものはそうだと思います。

むかし、ある落語家のトークショーを聞きに行ったら、落語家が高座に出て扇子を前に置くのは、噺を語る自分と聴くお客さんとの間に結界を張っているんだ、ということを言っていて、なるほどそうなのか、と驚愕したんですよね。

これは「空間の結界」でしょう。

食事のときもそうです。食べ物と自分の間に箸を横に置く。食べる自分と食べられる死んだ生命との間に結界を張っている。そして、「いただきます」の一言によって時間の結界も張る。「ごちそうさまでした」はすべての結界を解消する一言なのでしょう。

「いただきます」って作った人やお金を出した人に対して言うものだと思ってる人が多いみたいですが、間違いじゃないけど、上記のような「結界」という意識をもたずに言っても食べ物のありがたさは一生わからないと思います。

いろいろ生活を振り返ると…

暗くなったらカーテンを閉める、とか、朝起きたらカーテンを開ける、のも空間の結界なのかな、と思ってみたり。

「おはようございます」とか「こんにちは」という挨拶は時間の結界を解消する一言なのかな、と思ってみたり。挨拶する前の「お互いを知らない時間」と挨拶したあとの「顔見知りの時間」の境界に結界を張ってるのではないかと。逆に「さようなら」は結界を張る一言なのかな。よくわかりませんが。

「結界」ということを意識して生活するといろいろ新しいことが見えてくる気がします。



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