哲学

2019年02月18日

先日、映画『ファースト・マン』を見に行ったら、思いがけなく私小説作家の車谷長吉さんの言葉を思い出しました。

2493_TP3_00040R-1024x626 (1)

「宇宙開発とかそんなことに費やすお金があるなら、なぜ飢えてる子どもたちを救わないのか」

正論ですね。100%正しいから少しも反論できない。

『ゼロ・グラビティ』が公開されたとき、脚本家の荒井晴彦さんも同じようなことを言っていました。

「この人たちは宇宙まで行っていったい何をしてるのか。そんなことより地球上の山積みの問題を何とかしようと思わないのか」

しかし私は両者の言い分に納得できないんです。


mig

確かにこのような子どもたちを見ると胸が痛むし、車谷さんや荒井さんの言い分は正しいと思う。でもちょっと待ってよ、と。

宇宙開発や物理学や数学よりも飢えてる子どもを救え。それは「政治的に正しい」から誰も反論できないんですが、宇宙開発や物理学の最新理論の研究にはまったく意味がないかというとそうではないでしょう。

スーパーカミオカンデで粒子を超高速で飛ばして素粒子の秘密を解き明かすとか、そういうのって「ロマン」もあるんでしょうけど、何よりも『ブレードランナー』のセリフを借りれば「我々はどこから来てどこへ行くのか」を探究してるわけでしょ? それって政治的には正しくなくても哲学的な営みだと思うんですよ。

米ソの宇宙開発競争は政治的なものでしたが、宇宙の秘密を解き明かしたいという純粋な欲望は人間なら誰しももっているだろうし、もしもっていないなら、あまりに政治に毒されていると思います。

そりゃ私だって飢える子供を少しでも減らしたいから慈善団体に寄付したりしています。政治的に正しい行いをしている。だから車谷さんや荒井さんのような考え方が悪いとは言いません。

でも、衣食住が足りている人間は宇宙の秘密を研究してはいけない、「我々はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的な探究をすべきでないという主張には賛同できないし、何か胡散臭いものを感じてしまうのです。

「マタイの福音書」にある「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉は常に忘れたくないと思います。そして、今日食う物さえないない子どもたちのことも忘れずに。

別の記事でも書きましたが、どちらかだけが重要なんてありえない。

両方大事!






  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年12月17日

久保明教という学者による講談社選書メチエ『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』を読みました。





この本はAI=人工知能によって人間がどうなるかを探究したものです。

AIというと、自律システムとして自動運転など人間の代わりを務めてもらおうという考え方と、しょせん他律システムにすぎないのだから道具として使いこなせばいいという考え方ふたつに分けられる、でもその二つを対立概念として捉えるのは間違いで、第三の道を考えねばならないと著者は言います。


銃人間
しょせん拳銃は道具にすぎないから人間の意思で使うべきときとそうでないときを峻別すればいい、という考え方が短絡的なことはすぐわかります。拳銃がもつ殺傷能力に魅せられて引き金を引いてしまうことがあるから。その場合、拳銃が自律システムとして人間を操っていると考えることが可能ですが、そうはいっても拳銃を手にした人間が必ずしも引き金を引くとは限らないし、引き金を引かずとも拳銃が懐に入っているだけで気持ちが大きくなって普段とは違う行動をしたりする。拳銃というテクノロジーが人間に影響を与えるというわけです。


既読スルー
別の例では、LINEの既読スルーが取り上げられます。
もともとLINEの既読通知機能というのは開発当初はなかったそうです。サービス開始が東日本大震災の3か月後から始まったため、返信できない被災者たちが「読んだことだけでもわかれば安心できる」ということで付け足された機能なんだとか。初めて知りました。

最初はそういう理由で作られた機能ですが、そのような機能は次第に忘れられていき、既読になったのに返信がない、そのために人間関係のトラブルの原因になる「既読スルー」という概念が生まれました。何とか既読スルーにならないようにお互い返信を繰り返したり、最悪の場合はそれが原因で殺人事件まで起きる。

この本では、そのようなテクノロジーが人間に影響を与え、それによってさらにテクノロジーも影響をこうむり、更新されたテクノロジーがまた人間に影響を与え……という、人間よりAIを上位に置くのでもその逆でもなく、人間とAIが一体になったとき(それがサブタイトルにある「人間なきあと」です)我々はどうなるのかを考察しています。


0.5人称の語り
もともと人間の発語は一人称の語りですが、ネット上、特にツイッターでは「0.5人称」になっている、と著者は言います。

つぶやくといっても現実につぶやくときは完全に独り言の場合もあるけれど、ネット上でそれはありえない。誰かが受信してくれるのを期待してつぶやかれる。どこかの誰かがいいねやリツイートという反応を示したとき、つまりそのつぶやきをきちんと受け止めた人間がいたと認識されたとき、初めてそのつぶやきは一人称となる。それまでは0.5人称なんだと。これは卓見ですね。


でも、私が理解できたのはこれだけ。
この本はとても難しくてよく理解できないのです。もっとわかりやすく書いてほしいとも思うけれど、将棋に詳しくない人はもっとわからないかもしれない。「将棋については何々というサイトで駒の動かし方など見てください」と平然と書いていますが、それは本の書き手として書いてはダメなことでは? 他の人の説明を読まないと理解できない本なんて。

どうもこの著者は頭はとてもいいんだろうけど親切じゃないですね。それに「銃人間」のように「AI人間」が世界に跋扈し人間なきあとの人類学を探究するとは前述のとおりですが、最終的に何を言いたかったのかはよくわからない。

ま、私の頭が悪いだけかもしれませんが。www





  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2018年07月28日

最近AIに関する本を3冊読みました。

『人工知能の哲学 生命から紐解く知能の謎』
『AI原論 神の支配と人間の自由』
『AI vs.教科書が読めない子どもたち』




半年前に『人工知能は資本主義を終焉させるか』を読んだとき(感想は→こちら)現在最も計算の速いスパコンが100億年かかる計算を瞬時にやってのけるAIがもうすぐできると書かれていて、そんなすごいものができたらどうなるんだろうと、興味と恐怖が交錯しました。が、著者が主張する「シンギュラリティ」は絶対ないだろうな、とも何の根拠もなく思いました。

今回読んだ3冊はその根拠を見事に提示してくれる本でした。(あんまりシンギュラリティに否定的な人の本ばかり読むと偏ってしまうので、近々肯定的な人の本もまた読んでみるつもりです)


自律システムと他律システム
3冊の著者は、シンギュラリティを否定するどころか、AIの開発自体が無理と言い切ります。

え!? AIってすでにたくさんあるじゃん。ポナンザもそうだし、ルンバだってそうでしょう?

という声が聞こえてきそうですが、あれらは正確に言うとすべて「AI技術」にすぎず「真の意味でのAI」ではないそうです。

そのときキーになるのが「自律システム」と「他律システム」というワードです。



自律システムとは我々人間や他の生物すべてがもっているもので「自己増殖」できるのが特徴だとか。逆に他律システムは人間が何らかの指令を出さないかぎり動けないシステムで自己増殖ができない。
この場合の自己増殖とは、自分で自分の知能を高めていくということで、自律システムさえ確立されればAIがさらに高度なAIを作ることができる。その先にシンギュラリティが起こるかもしれないし、少なくとも『ターミネーター』のように機械と人間の戦争は避けられない気がします。

いま巷で「AI」と呼ばれているものはすべて他律システムだそうです。ポナンザだって作った人が「なぜこんなに強くなっているのか」と話したらしく自律的に強くなっている感じがしますが、最新の棋譜をどんどん入力してやらないとディープラーニングは不可能ですし、そもそもポナンザは将棋以外に何もできませんから「知能」とは呼べません。




話題の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で口酸っぱく語られているのは「いまのAI技術は単なるコンピュータであり、コンピュータは計算機でしかなく、計算機にできることは四則演算のみ。数学で記述できる言葉は論理・確率・統計だけでその他は不可能」というものです。ポナンザが強いのはその論理・確率・統計から最善手を導くためのビッグデータを所有し、かつ演算能力が異常に高いだけ、ということになります。


グーグルの事実上の撤退
さて、AIが車を運転することで言葉の真の意味での「自動車」が近々街を走り、バスやタクシーの運転手は職を失うだろうと言われていますが、私はこれら3冊の本を読んでかなり懐疑的になりました。

車を運転するためには何より「自律システム」であることが求められます。無人運転の電車といえば神戸のポートライナーが走りで、いまは全国各地にあるんでしょうけど、あれなら線路の上を走るだけだし、二重扉で人身事故が起こることもないし、どこで止まるかも決まっているから他律システムでも大丈夫。
ただ、ちょうどこないだの大阪府北部地震のとき、私はまさにポートライナーに乗っていましたが、ああいうときは人間が出て行って安全を確認しなくてはいけない。人間が出ていかずとも問題を解決できるのを「自律システム」というのです。

それが無理なら道を車で走るなどもってのほかでしょう。突然子どもが飛び出すかもしれないのにどうやってそれを避けるのか。

そして、避けられなかった場合の「責任」はいったい誰が取るのか。責任は生身の肉体をもった人間にしか取れません。死刑とか懲役というのは肉体の苦痛を伴いますが肉体をもたないAIに責任を取らせることはできません。では開発者や販売者に責任を負わせればいいのでしょうか?

ちょっと前まで自動運転車を開発して売り出すと息巻いていたグーグルが、それを撤回してはいないものの、だいぶトーンダウンしているとか。それはやはり「責任」。もし事故を起こしたら自分たちが責任を取らないといけなくなるので、飛び出してきたものが轢いてはいけないものか大丈夫なものか、瞬時に判別できる画像認識ソフトを開発して自動運転車を製造する別会社に売って、責任は回避するつもりらしいと書かれていました。

なるほど。でもそれって「事故を起こす可能性がかなり高い」と認識しているんですよね。人間はミスをする生き物だからいまだに交通事故がなくなりませんが、AIによる自動運転に移行するのなら「絶対に事故に遭わない」ように設計してくれないと乗る人は誰もいないでしょう。

それもこれもいまの「AI技術」が「真の意味でのAI」ではないからです。他律システムだからです。自律システムとは、前述のとおり自分で自分の知能を高めていくことができることです。人間が1の能力のAIを作ったらあとは自分でそれを1.001倍していく。それを異常なスピードで繰り返せば近い将来シンギュラリティが到来するでしょう。


人間に「心」を作ることは可能か
しかしながら、グーグルが開発に躍起になっている画像認識ソフトですら無理らしい。なぜか。

『人工知能の哲学』で詳述されていますが、我々生物は「錯視」によってこの世界を認識しているそうです。この世が本当にこのような姿、つまり人間が認識している通りの姿だとは誰にも言えません。人間が認識できるのは4次元までですが、本当は12次元(13次元だったか)という物理学者もいます。客観的にどういう世界かは永久に誰にもわからない。でも「錯視」によって主観的に世界を認識することはできるし、実際にすべての生物はみんなそれをやって生きている。

錯視を論理・確率・統計の言葉で作り上げることができるでしょうか? ごく普通に考えて錯視はまったく論理的じゃないですよね。

コンピュータの礎を作ったアラン・チューリングは「脳を作るぞ」と息巻いてチューリング・マシンの開発に着手したそうです。人間に脳を作ることはかのうでしょうが、心は無理でしょう。心は脳に宿っていると思っている人が多いですが(私も昔はそう思っていました)心がどこに宿っているのか、最新の科学ではまだわかっていないし、特に脳科学では「心は脳にある」という考え方は否定されているそうです。

自律システムが可能になるためには「心」を開発しないといけないのですが、どうもAI開発者は人間の脳と同じものさえ作ればいいと考えているらしい。脳ならすでに開発できている気がします。パソコンもスマホも、いわんやポナンザやルンバも「脳」と言ってかまわないと思う。

問題はやっぱり「心」なんですよ。主観的に物事を認識することができなければ「自律システム」ではない。脳なら頭蓋骨から取り出してどういう具合になっているのか客観的に観察できるから模倣して作ることも可能でしょうが、心は外側から観察できません。自分の心を内側から見つめることしかできない。だから人間に脳を作ることはできても心は作れない。そして、心を作れない以上は自分で自分の知能を高める自律システムの開発は絶対に不可能です。

というわけで、AIが自動車を運転する社会は永久にやってこないと思う次第です。

関連記事
AI婚活に見る「プラセボ(偽薬)としてのAI』




  • このエントリーをはてなブックマークに追加