聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

哲学

『中動態の世界』と依存症③断酒会の意味

(承前)①TOKIO山口達也の事件をめぐって
   ②薬を飲むのは自発的な行為か


激情に駆られている人は「強制」の状態にある
山口達也の事件について、多くの人が「酒で傷んだ体を治すために入院していたのに、退院したその日に焼酎一本空けてしまうなんてけしからん」「酔っぱらって前後不覚の状態だったと言ったって、飲んだのは山口自身じゃないか。自業自得だろう」とかいろいろ意見が飛び交っています。

それらはどれも正論なのでしょうが、中動態の観点からすると、山口達也も彼を批判する人たちも同じ「強制」の状態にあるのです。山口は酒という外部の刺激に圧倒されて猥褻行為に及んでしまったし、彼を批判する人たちも、山口達也の愚行という外部の刺激に圧倒され我を失っています。彼らはみな「まったき強制」の状態にあります。


松岡昌宏の会見
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TOKIOの他の4人の会見で、特に松岡昌宏の言葉に感動した、という人が大勢います。私も感じるものが多かったですが、彼の言葉は、はたして「自由」(自分の本質の表現)なのか、それとも「強制」(外部の刺激に圧倒されている状態)なのか、はたしてどちらなのでしょうか?

私はどちらでもある、と思います。

『中動態の世界』の著者、國分功一郎さんは、中動態の世界では、まったき自由もまったき強制もないと言います。山口達也など依存症患者も、彼らを感情的に非難する人たちも、まったき強制の状態にあるわけだから、中動態の世界に生きていないことになります。

でも、松岡昌宏は中動態の世界に生きていると思うのです。それは「完全に自由になってもいないし、完全に強制の状態にも陥っていない」ということ。

松岡以外の3人は、どうもあまり自分の言葉で語っている気がしないんですよね。事務所からこう言えと文字通り強制された部分もあるだろうし、世間受けするためにはどういうふうに言うのが一番いいかという計算が透けて見えます。

松岡だって事務所からの指示はあったでしょうが、他の3人が芝居がかっているのに対し、彼だけは芝居に見えない。自分の本質を表現している。つまり「自由」の状態にある。とはいっても涙を流したり唇を震わせたり、激情に駆られている面も否めないから「強制」の状態でもある。

自由と強制のはざまで揺れ動く。まさに中動態の世界に生きているからこそ多くの人の耳目を集めたのでしょう。


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山口達也はボロボロ泣いているだけで、完全な「強制」の状態ですね。酒に強制され、自分が犯した罪に圧倒されてしまっている。一番ダメな状態です。
彼は、松岡昌宏のように、自分の本質を表現するように語らねばならない。いまは無理でも。


断酒会の意味
今回、断酒会というものの意味が初めてわかった気がします。
映画の中でしか見たことありませんが、同じ依存症患者同士で体験談などを語るのって、いったい何の意味があるのかいままでよくわかりませんでした。同類相憐れんでいるだけじゃないの? と。

でも、違うんですね。断酒会で体験談を語るのは治療にとても有効だそうです。

だから、やっぱり薬を飲むのは自発的行為ではないのです。医師に言われたから飲んでいるだけ。そして薬が効いている状態で酒を飲むと気持ち悪くなるから酒と縁遠くなる。それは外部の刺激に圧倒され「強制」に陥っているだけ。それだけでは酒は断てない。
かといって、強い意志をもつこともダメ。それは外部からの「やめるべき」という刺激に圧倒されているから。
酒を断つためには「自由」の境地が必要。

自由になるためには、強制と自由のはざまで揺れ動くためには、断酒会で体験談を話すのが有効なのですね。それも、心にもないことを言うのではなく、松岡昌宏のように自分の言葉で話す。自分の本質を表現するように話す。それが依存症克服のカギだと。

何だか当たり前の結論になっちゃいましたが、でも、自分の本質を表現するように周りが誘導するのも大事なのでしょう。だから、強い意志で克服しろ、とか、だからおまえはダメなんだ、と叱責するだけでは何の解決にもならない。

山口達也は松岡昌宏の言葉に応えないといけないと思う。せっかく仲間がお手本を示してくれたのだから。


自分自身の病気を考える
ならば、私自身はどうでしょうか。

いままで自発的に薬を飲んでいたけれども、本当は非自発的であることがわかりました。ずっと「強制」の状態にあったのですね。

もしかすると、脚本を書いていたのは自己の本質を表現するためだったのかもしれない、と初めて思い当たりました。そして、いまは脚本ではなく小説という形で自分の半生を徹底して批判的に書くということをやっている。それって強制の状態から無意識に自由を志向しているのかもしれない、などと。

いろいろなことを考えさせてくれた『中動態の世界』に感謝します。




『中動態の世界』と依存症②薬を飲むのは自発的行為か

(承前)①TOKIO山口達也の事件をめぐって

依存症を克服するには「意志」は関係ないことがわかりました。逆に「強い意志をもとう」と思っているとダメであると。
では、患者の意志に任せて薬を処方することってほんとに治癒に役立つんだろうか、という疑問が湧きおこります。


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そもそも、薬を飲む、というのは、自発的な行為なのでしょうか。

私自身、精神科の薬を30年近く飲んでいますが、はたして自発的に飲んでいるのか、それとも医者からこれを飲むようにと言われているから飲んでいるのかよくわかりません。


カツアゲされることと乞食に恵むこと
『中動態の世界』の著者、國分功一郎さんは、主にハンナ・アーレントの哲学を援用して、カツアゲによって金を差し出すことは自発的行為か否かと過激な問題提起をします。

脅されて金を相手に渡すのは、脅されたからという理由があるにせよ、自分の意志で財布から金を出して相手に差し出すのだから、自発的行為だというのが「意志」という言葉を知らなかったアリストテレスの考え方だそうです。でも、普通の考え方としておかしいですよね。脅されてるわけだから非自発的行為でしょ、と。

では、乞食に金を恵むのはどうか。
それは自発的行為に違いない、と普通は思いますが、カツアゲと同じく外部からの刺激で行動を起こしている以上、カツアゲが自発的行為でなければ乞食に金を恵むのも自発的ではないことになります。

え、それっておかしいよ! というのがごく普通の人の直感でしょう。この直感を直感に終わらせないのが「中動態」という哲学なのです。


「方向」ではなく「質の差」
著者はここからスピノザの考え方を援用します。スピノザは中動態という概念を知らなかったので、もっぱら能動か受動かを問題にします。能動か受動か、ならば「する⇔される」の考え方かというとそうではないと。

普通の考え方なら、自分→他者という方向なら能動、自分←他者という方向なら受動であると見なされます。
しかし、それだと脅されて金を差し出すのが能動か受動かがわからない。乞食に金を恵むのも外部の刺激があって金を出す以上、まったき能動とは言えない。

「方向」を問題にするからわからなくなるのであり、大事なのは「質の差」だというのがスピノザの考え方らしい。

つまり、乞食に金を恵むのは自分の本質から出た行為だと。困っている、かわいそうだという感情が心に湧き起こり、金を恵む。憐憫の感情というその人の本質を表現しているからこれは能動的な行為となる。

逆にカツアゲは、外部の脅しによって無理やり金を差し出さねばならないわけで、外部の刺激に圧倒され、その人の本質よりも外部の本質のほうが色濃く表現されている。だからこのような行為は受動的な行為なのだと。


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「受動」から「能動」へ 「強制」から「自由」へ
山口達也は酒という外部の刺激に負けて酒を飲んだ。そして酒の影響で前後不覚の状態で女子高生に無理やりキスをした。これらはすべて山口達也という人間の本質より、酒の本質のほうが色濃く表現されているから受動的な行為となる。
そして受動とは「強制」の状態にあることだというのがスピノザと著者の主張です。だからといって酒が山口に猥褻行為を強制した、だから酒が悪い、と言ってるんじゃないですよ。むしろ依存症患者は強制の状態にあるからダメなんだと。強制の状態を脱却しなければ、というのが著者の主張のようです。

そのためには、できるだけ自分の本質を表現する能動的な行為をせねばならない。そのような状態が「自由」であると著者は言います。決して「自由なる意志」をもって何事かをなすのが自由ではなく、自分の本質を強く表現する行為が本当の「自由」なのだと。

山口にかぎらず、私の知人の元アル中患者も、すべての依存症患者は、まず本人が酒なり薬物という外部によって刺激される、つまり「強制」の状態にある。少しも自由ではない。

前稿で書いたように、アルコール依存症患者が飲む白い粉薬。あれを飲んで酒を断とうという強い「意志」をもつことが治癒の糸口なのではなく、大事なのは自己の本質を表現して「自由」になることらしい。

まったき能動もまったき受動もない。酒や薬物など外部からの刺激に圧倒されている依存症患者も、自分の本質を表現できる余地がある。そこに依存症を克服するカギがありそうです。


アルコール依存症を治す薬の是非
では依存症患者にとって、薬を飲むことが自己の本質を表現することなんでしょうか? でも、それなら、強い意志をもって薬を飲むことを別の言い方にしているだけで何も変わらない気がします。
それに、薬が効いている状態で酒を飲むと気持ち悪くなって酒を飲めなくなる。それはそれで、今度は薬という外部からの刺激に圧倒されている状態です。少しも強制から脱却できていない。

あるサイトで著者のインタビューを読むと、最近は糖尿病患者の治療でも、単にカロリーを制限するだけでなく「食事を楽しむ」ことを重視すると治療の効果が上がるそうです。

ということは、薬をとてもおいしいものにするとか? あの薬はおいしかったんだろうか。そんなことは一言も聞いてないし、ごく普通の苦い粉薬にしか見えませんでしたが。

一方で、うちの犬は毎月フィラリアの薬をもらってきますが、昔は苦かったのでソーセージやチーズに混ぜたりしてやらないといけませんでした。最近のやつは薬そのものがとてもおいしくできているらしく、喜んで食べます。

そういうことなの? え、それだけの話? そのためにあんな難しい本を書いたわけじゃないはずですが……?

と、ここまで書いてきて気づいたのが、TOKIOのメンバー松岡昌宏の会見でした。おそらくあの会見に依存症を解くカギがあるんじゃないかと。

続きの記事
③断酒会の意味



『中動態の世界』と依存症①TOKIO山口達也の事件をめぐって

私の知っている高名な脚本家は元アル中患者で、精神科で処方された白い粉薬を見せてくれたことがあります。
「これが効いてるときに酒を飲むとめちゃくちゃ苦しくなるんだ」と。
それを聞いて「ん? それって何かおかしくない?」と思いました。

だって、薬を飲めば苦しむのが嫌だから酒を飲まずに済むだろうけれど、逆に言えば薬を飲まなければ浴びるように酒を飲んでいい気分になれるんですよね。もともと依存症患者って弱い意志の持ち主なのだから、医者がそういう患者の意志まかせにするのってどうなんだろうと。誘惑に負けて薬を飲まない選択をしたが最後、また依存症に逆戻りじゃないですか。


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哲学者・國分功一郎さんが小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界 意志と責任の考古学』。

文法の歴史を哲学的に解いていくこの本は、大部分を能動態でも受動態でもない「中動態」という聞きなれない動詞の態についての考察に割かれていますが、最終的に依存症を考える契機になることが目指されています。


「意志」への疑義
プロローグ「ある対話」では以下のような会話が収められています。(かなり編集してます)

「依存症というのは、意志や本人のやる気ではどうにもならない病気なんだってことが日本では理解されていない。もう絶対にやらないと決意するとダメなんだ」
「それは理解に苦しみます。酒をやめる、薬物をやめるというのは、やはり自分がやめるということなのだから、やめる意志が大切になってくるんじゃないですか」
「しっかりした意志をもって、努力して、絶対にやらないぞ、と思っていると逆にやめられないんだよ」

やめる強い意志をもったほうがダメとはいったいどういう理路によって?


中動態とは何か
現在、日本語でも欧米のさまざまな言語でも、動詞は「能動態」と「受動態」しかないと思われています。しかし、かつては能動態でも受動態でもない「中動態」というものがかつてインド=ヨーロッパ諸言語でも日本語でも存在したと。しかも、原初の言語には中動態しかなかった、というんですね。

では、その中動態とはいったいどのような態か。
「能動態では、動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する中動態では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

例えば、「生まれる」「眠る」「寝ている」「想像する」「成長する」などの動詞の主語は、その過程の行為者であって同時にその中心であるから中動態で表される。
逆に「曲げる」「与える」などの動詞の場合は、主体から発して主体の外で完遂する過程を示しているから能動態なんだそうです。
そして、現在は「能動態⇔受動態」という対立がほとんどの言語にありますが、その前は「能動態⇔中動態」(外態⇔内態)の対立しかなかったと。つまり、かつて受動態というものはなかった、というから驚愕です。


かつて「主体」はなかった!?
普通、我々は、何かをしようという意志をまずもち、その意志を遂行する、と思ってますよね。目の前の醤油を取ろうと思い、そして実際に取ると。
でも、脳科学の観点からは、事態は実は真逆らしいのです。まず醤油を取り、そのあとで「醤油を取ろう」という意志が生まれるのだと。嘘のようなホントの話。


中動態の世界に「意志」はない
さて、古代ギリシアでは「能動態⇔中動態」の対立しかなったので「意志」を表す言葉がなかったとか。
なぜなら、能動態も中動態も、つまり動詞というものはもともとは「出来事」を描写する言語でしかなかったから。
それがギリシア以後の社会の発展、つまり国家や社会という枠組みが強化されていくと、秩序を維持していくために数々の法が作られる。法とは悪行の責任を問うものであり、責任を問うためにはその行為の主は誰かが問題とならざるをえない。そうして受動態が生まれ、中動態は衰退の一途をたどった。中動態が衰退すると、それまでの「能動態⇔中動態」という対立の図式が崩れ、「能動態⇔受動態」という新しい対立の図式が生まれた。

そこに初めて「意志」という概念が誕生したと著者は言います。


「責任」と「意志」
著者は寝坊した学生を使ってこんな例え話をします。

「ゲームが好きで、やめられずにだらだら続けて夜更かしをする。それだけなら内なる自分の誘惑に負けた受動的な行為かもしれない。しかし、その学生が翌日講義の最中に居眠りをして怒られるとすると、途端に前夜のゲームは能動的な行為とみなされてしまう。明日は朝から講義があるから早く寝ようとゲームをやめることもできたはずなのに続けた。だから能動的にゲームを続けたのだ。おまえにはその責任があると」

つまり、意志をもった行為だったから責任を負わされるのではなく、責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。




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だから、例えばTOKIOの山口達也は退院したその日に焼酎を一本空けてしまい、強制猥褻行為に及んで芸能界から追放されかかっていますが、多くの人が口をそろえて言うのは、

「酒が悪いのではなく飲んではいけないのに飲んだ山口が悪い。意志の弱さを反省しろ」

というまったき正論ですが、しかし、これはまさに山口達也が責任を負うべき行為に及んだと判断されたから能動的に酒を飲んだという「意志」が出現したのですね。もし大酒を飲んでも女子高生を家に呼んで無理やりキスするなんてことをしなければ責任を問われないし、それなら当然のこと弱い意志が問題になることもなかった。

実際、「リーダーの城島茂のほうが酒好きで山口より城島のほうがアル中の疑いが濃厚」という記事も見ましたが、「まったく他人に迷惑をかけない飲み方をしているならいくら飲んだってかまわない」とも書いてありました。

事件を起こしたから弱い意志が問題になり、事件を起こしてないから問題にならないのは当たり前だろう。

という声が聞こえてきそうですが、私はそうは思いません。

だって、城島はいまのところ問題を起こしてないだけで、これから起こす可能性があるんですよ。いま戒めなければ山口と同じ轍を踏む可能性は充分にあります。
そもそも山口達也は職場でも酒の匂いをプンプンさせていてみんなが薄々感づいていたらしいじゃないですか。なのに誰も咎めないからあんな破廉恥なことをしでかしてしまった。でも事件を起こすまで、つまり責任を問われる事態になるまで誰も彼の意志の弱さを問題にしなかった。

責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。これがいま現実に起こっています。中動態を知らない私たちにも、中動態の世界に生きていた古代人の精神の名残りがあるのでしょう。

しかし、ここで疑問が湧きおこります。

じゃあ、意志ってほんとは存在しないの? ただの幻想なの?

著者はそれも違うと言うから話はややこしい。

続きの記事
②薬を飲むのは自発的な行為か
③断酒会の意味



中島義道『不幸論』(人生の目標とは…?)



いま、ある脚本を準備していまして、別にそのための取材というわけじゃないんですが、何の気なしに読んでみた、哲学者・中島義道さんの『不幸論』(PHP文庫)がやたら示唆に富んでいて驚きました。


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この世は、特に現代ニッポンは「幸福教」に汚染されている、というのが中島さんの主張で、何でもかんでもポジティブに捉えねばならないだの、人生の目標は幸福になるためだの、そういう能天気な人々への呪詛で充満している本なのです。

中島さんなりの「幸福」の四条件を記すと、

①自分の特定の欲望がかなえられていること。
②その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
③その欲望が世間から承認されていること。
④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと。

いま構想中の脚本は、主人公と準主人公が二人とも相反する「信念」に基づいて行動するもので、その信念が葛藤を演じるわけですが、なるほど、中島さんによれば、それは②を満たそうということなんですね。

もともと①は満たしているわけですが、では③や④はどうかとなると、少なくとも主人公に関しては、どちらも満たしていない。誰からも承認されず(一部には認めてくれる者もいるが)そして愛する者を不幸に陥れてしまう。

じゃあ、どうやって幸福になったらいいのか、と考えあぐねていたんですが、『不幸論』を読んで吹っ切れました。

主人公も準主人公もどちらも「幸福」になどならなくていいのです。なぜなら人生の目標はそれがゴールではないから。

ヒルティの『幸福論』によると、

「人はそれぞれ自分の『かたち』を完成させねばならない」

とあるらしく、「かたち」とは何ぞや。それは、「自分自身」である。と中島さんは言う。

人生の目標は幸福になることではなく、自分自身を選ぶことだ、と。

「幸福になろうとすること、それは自分自身を選ぶことを断念することである。自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の『かたち』選ぶことである」

というのが最終章での恐ろしい言葉。

そして、最終幕にはさらに恐ろしい言葉が綴られます。

「あなたは自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。あなた固有の不幸を生き続け気ねばならないのである」

これは私個人の人生の指針にもなるというか、まさにこういうつもりで生きてきたような気もしますが、それよりも確実なのは、いま書こうとしている脚本に活かせそうということです。

ある信念と信念のぶつかり合いというより、幸福を追求する人間と不幸を追求する人間の葛藤劇として考え直したほうがよさそうな気がしてきました。

中島義道さん、またしても素敵な読書体験をどうもありがとうございました。




プラトン『メノン 徳(アレテー)について』(勉強と創作の意外な関係!?)

光文社古典新訳文庫からプラトンの著作が刊行され始めてからもうだいぶ経つというのに、いままで一冊も読んでなかった。不勉強を恥じます。

さて、まず最初に読んだのは『メノン 徳(アレテー)について』という、プラトン初期の著作です。

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「徳(アレテー)は教えることができるか」と問う若造メノンに対して、「無知の知」の看板を掲げるソクラテスが「そもそも徳(アレテー)とは何か」と問い返すところからこの問答は始まります。

というか、メノンとソクラテスが最終的にどういうところへ着地するかは、プラトンの本文と、翻訳者・渡辺邦夫さんの懇切丁寧な解説、つまり280ページ余の本書を通読すればそれなりにわかります。

というか、ここで語られていることを私が解説したり、感想を述べたりできるものではありません。あまりに深すぎるから。それ以前に難しいし。

ただ、どうしても言っておきたいのは、「探求のパラドクス」に関してソクラテスが返す言葉んついてなんですね。

メノンは、そもそも最初から知らないものを探求などできはしない、とパラドクスを投げかけるんですが、それに対するソクラテスの返答が「想起説」なるもの。

これは、私たち人間は生まれる前からこの世のあらゆる知識をもって生まれてくる。しかし、生まれた瞬間に忘れてしまう。だから学ぶということは、生まれる前の記憶を想起することなのだ、というものなんです。

これ、何かに似てるなぁ、と思っていたら、アレでした。

仏像の彫り師が、木の塊から仏像を彫るとき、「仏像はこの木の塊の中に既に存在している。私の仕事はその周りの余分なものを払いのけるだけだ」と。

つまり、木を彫って仏像を作り上げるのではなく、仏像という作品は既に存在していて、その存在を「発見」してやるだけだ、ということですね。創造とはそういうものなのだ、というとても奥深く、ありがたいお話。

ソクラテスの「想起説」というのも同じだと思うんです。探求すべき知識はすでに全部もっている。内なる知識を発見するだけだ、と。

古代の哲学者と、いつの時代か知りませんが仏像の彫り師がまったく同じことを言っていることに大いに感動した次第です。

おそらく、これは人生におけるあらゆることに通じるオールマイティな考え方なのかもしれません。

プラトンの他の著作も読んでさらに勉強を深めたいと思います。


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