聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

哲学

AI自動運転社会は永久にやってこないと思う件

最近AIに関する本を3冊読みました。

『人工知能の哲学 生命から紐解く知能の謎』
『AI原論 神の支配と人間の自由』
『AI vs.教科書が読めない子どもたち』




半年前に『人工知能は資本主義を終焉させるか』を読んだとき(感想は→こちら)現在最も計算の速いスパコンが100億年かかる計算を瞬時にやってのけるAIがもうすぐできると書かれていて、そんなすごいものができたらどうなるんだろうと、興味と恐怖が交錯しました。
が、著者が主張する「シンギュラリティ」は絶対ないだろうな、と何の根拠もなく思いました。

今回読んだ3冊はその根拠を見事に提示してくれる本でした。(あんまりシンギュラリティに否定的な人の本ばかり読むと偏ってしまうので、近々肯定的な人の本もまた読んでみるつもりです)


自律システムと他律システム
3冊の著者は、シンギュラリティを否定するどころか、AIの開発自体が無理と言い切ります。

え!? AIってすでにたくさんあるじゃん。ポナンザもそうだし、ルンバだってそうでしょう?

という声が聞こえてきそうですが、あれらは正確に言うとすべて「AI技術」にすぎず「真の意味でのAI」ではないそうです。

そのときキーになるのが「自律システム」と「他律システム」というワードです。



自律システムとは我々人間や他の生物すべてがもっているもので「自己増殖」できるのが特徴だとか。逆に他律システムは人間が何らかの指令を出さないかぎり動けないシステムで自己増殖ができない。
この場合の自己増殖とは、自分で自分の知能を高めていくということで、自律システムさえ確立されればAIがさらに高度なAIを作ることができる。その先にシンギュラリティが起こるかもしれないし、少なくとも『ターミネーター』のように機械と人間の戦争は避けられない気がします。

いま巷で「AI」と呼ばれているものはすべて他律システムだそうです。ポナンザだって作った人が「なぜこんなに強くなっているのか」と話したらしく自律的に強くなっている感じがしますが、最新の棋譜をどんどん入力してやらないとディープラーニングは不可能ですし、そもそもポナンザは将棋以外に何もできませんから「知能」とは呼べません。




話題の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で口酸っぱく語られているのは「いまのAI技術は単なるコンピュータであり、コンピュータは四則演算しかできない。数学で記述できる言葉は論理・確率・統計だけでその他は不可能」というものです。ポナンザが強いのはその論理・確率・統計から最善手を導くためのビッグデータを所有し、かつ演算能力が異常に高いだけ、ということになります。


グーグルの事実上の撤退
さて、AIが車を運転することで言葉の真の意味での「自動車」が近々街を走り、バスやタクシーの運転手は職を失うだろうと言われていますが、私はこれら3冊の本を読んでかなり懐疑的になりました。

車を運転するためには何より「自律システム」であることが求められます。無人運転の電車といえば神戸のポートライナーが走りで、いまは全国各地にあるんでしょうけど、あれなら線路の上を走るだけだし、二重扉で人身事故が起こることもないし、どこで止まるかも決まっているから他律システムでも大丈夫なんですよね。
ただ、ちょうどこないだの大阪府北部地震のとき私はまさにポートライナーに乗っていましたが、ああいうときはもう人間が出て行って安全を確認しなくてはいけない。他律システムではそれが無理。

それが無理なら道を車で走るなどもってのほかでしょう。突然子どもが飛び出すかもしれないのにどうやってそれを避けるのか。

そして、避けられなかった場合の「責任」はいったい誰が取るのか。責任は生身の肉体をもった人間にしか取れません。死刑とか懲役というのは肉体の苦痛を伴いますが肉体をもたないAIに責任を取らせることはできません。では開発者や販売者に責任を負わせればいいのでしょうか?

ちょっと前まで自動運転車を開発して売り出すと息巻いていたグーグルが、それを撤回してはいないものの、だいぶトーンダウンしているとか。それはやはり「責任」。もし事故を起こしたら自分たちが責任を取らないといけなくなるので、飛び出してきたものが轢いてはいけないものか大丈夫なものか、瞬時に判別できる画像認識ソフトを開発して自動運転車を製造する別会社に売って、責任は回避するつもりらしいと書かれていました。

なるほど。でもそれって「事故を起こす可能性がかなり高い」と認識しているんですよね。人間はミスをする生き物だからいまだに交通事故がなくなりませんが、AIによる自動運転に移行するのなら「絶対に事故に遭わない」ように設計してくれないと乗る人は誰もいないでしょう。

それもこれもいまの「AI技術」が「真の意味でのAI」ではないからです。他律システムだからです。自律システムとは、前述のとおり自分で自分の知能を高めていくことができることです。人間が1の能力のAIを作ったらあとは自分でそれを1.001倍していく。それを異常なスピードで繰り返せば近い将来シンギュラリティが到来するでしょう。


人間に「心」を作ることは可能か
しかしながら、グーグルが開発に躍起になっている画像認識ソフトですら無理らしい。なぜか。

『人工知能の哲学』で詳述されていますが、我々生物は「錯視」によってこの世界を認識しているそうです。この世が本当にこのような姿、つまり人間が認識している通りの姿だとは誰にも言えません。人間が認識できるのは4次元までですが、本当は12次元(13次元だったか)という物理学者もいます。客観的にどういう世界かは永久に誰にもわからない。でも「錯視」によって主観的に世界を認識することはできるし、実際にみんなそれをやって生きている。

錯視を論理・確率・統計の言葉で作り上げることができるでしょうか? ごく普通に考えて錯視はまったく論理的じゃないですよね。

コンピュータの礎を作ったアラン・チューリングは「脳を作るぞ」と息巻いてチューリング・マシンの開発に着手したそうですが、人間には脳は作れるかもしれませんが心は無理でしょう。心は脳に宿っていると思っている人が多いですが(私も昔はそう思っていました)心がどこに宿っているのか、最新の科学ではまだわかっていないし、特に脳科学では「心は脳にある」という考え方は否定されているそうです。

自律システムが可能になるためには「心」を開発しないといけないのですが、どうもAI開発者は人間の脳と同じものさえ作ればいいと考えているらしい。脳ならすでに開発できている気がします。パソコンもスマホも、いわんやポナンザやルンバも「脳」と言ってかまわないと思う。

でも、問題はやっぱり「心」ですよ。主観的に物事を認識することができなければ「自律システム」ではない。脳なら頭蓋骨から取り出してどういう具合になっているのか観察できるから模倣して作ることも可能でしょうが、心は外側から観察できません。自分の心を内側から見つめることしかできない。だから人間に脳を作ることはできても心は作れない。そして、心を作れない以上は自分で自分の知能を高める自律システムの開発は絶対に不可能です。

というわけで、AIが自動車を運転する社会は永久にやってこないと思うのです。

関連記事
AI婚活に見る「プラセボ(偽薬)としてのAI』


批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


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批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで、「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



『中動態の世界』と依存症③断酒会の意味

(承前)①TOKIO山口達也の事件をめぐって
   ②薬を飲むのは自発的な行為か


激情に駆られている人は「強制」の状態にある
山口達也の事件について、多くの人が「酒で傷んだ体を治すために入院していたのに、退院したその日に焼酎一本空けてしまうなんてけしからん」「酔っぱらって前後不覚の状態だったと言ったって、飲んだのは山口自身じゃないか。自業自得だろう」とかいろいろ意見が飛び交っています。

それらはどれも正論なのでしょうが、中動態の観点からすると、山口達也も彼を批判する人たちも同じ「強制」の状態にあるのです。山口は酒という外部の刺激に圧倒されて猥褻行為に及んでしまったし、彼を批判する人たちも、山口達也の愚行という外部の刺激に圧倒され我を失っています。彼らはみな「まったき強制」の状態にあります。


松岡昌宏の会見
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TOKIOの他の4人の会見で、特に松岡昌宏の言葉に感動した、という人が大勢います。私も感じるものが多かったですが、彼の言葉は、はたして「自由」(自分の本質の表現)なのか、それとも「強制」(外部の刺激に圧倒されている状態)なのか、はたしてどちらなのでしょうか?

私はどちらでもある、と思います。

『中動態の世界』の著者、國分功一郎さんは、中動態の世界では、まったき自由もまったき強制もないと言います。山口達也など依存症患者も、彼らを感情的に非難する人たちも、まったき強制の状態にあるわけだから、中動態の世界に生きていないことになります。

でも、松岡昌宏は中動態の世界に生きていると思うのです。それは「完全に自由になってもいないし、完全に強制の状態にも陥っていない」ということ。

松岡以外の3人は、どうもあまり自分の言葉で語っている気がしないんですよね。事務所からこう言えと文字通り強制された部分もあるだろうし、世間受けするためにはどういうふうに言うのが一番いいかという計算が透けて見えます。

松岡だって事務所からの指示はあったでしょうが、他の3人が芝居がかっているのに対し、彼だけは芝居に見えない。自分の本質を表現している。つまり「自由」の状態にある。とはいっても涙を流したり唇を震わせたり、激情に駆られている面も否めないから「強制」の状態でもある。

自由と強制のはざまで揺れ動く。まさに中動態の世界に生きているからこそ多くの人の耳目を集めたのでしょう。


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山口達也はボロボロ泣いているだけで、完全な「強制」の状態ですね。酒に強制され、自分が犯した罪に圧倒されてしまっている。一番ダメな状態です。
彼は、松岡昌宏のように、自分の本質を表現するように語らねばならない。いまは無理でも。


断酒会の意味
今回、断酒会というものの意味が初めてわかった気がします。
映画の中でしか見たことありませんが、同じ依存症患者同士で体験談などを語るのって、いったい何の意味があるのかいままでよくわかりませんでした。同類相憐れんでいるだけじゃないの? と。

でも、違うんですね。断酒会で体験談を語るのは治療にとても有効だそうです。

だから、やっぱり薬を飲むのは自発的行為ではないのです。医師に言われたから飲んでいるだけ。そして薬が効いている状態で酒を飲むと気持ち悪くなるから酒と縁遠くなる。それは外部の刺激に圧倒され「強制」に陥っているだけ。それだけでは酒は断てない。
かといって、強い意志をもつこともダメ。それは外部からの「やめるべき」という刺激に圧倒されているから。
酒を断つためには「自由」の境地が必要。

自由になるためには、強制と自由のはざまで揺れ動くためには、断酒会で体験談を話すのが有効なのですね。それも、心にもないことを言うのではなく、松岡昌宏のように自分の言葉で話す。自分の本質を表現するように話す。それが依存症克服のカギだと。

何だか当たり前の結論になっちゃいましたが、でも、自分の本質を表現するように周りが誘導するのも大事なのでしょう。だから、強い意志で克服しろ、とか、だからおまえはダメなんだ、と叱責するだけでは何の解決にもならない。

山口達也は松岡昌宏の言葉に応えないといけないと思う。せっかく仲間がお手本を示してくれたのだから。


自分自身の病気を考える
ならば、私自身はどうでしょうか。

いままで自発的に薬を飲んでいたけれども、本当は非自発的であることがわかりました。ずっと「強制」の状態にあったのですね。

もしかすると、脚本を書いていたのは自己の本質を表現するためだったのかもしれない、と初めて思い当たりました。そして、いまは脚本ではなく小説という形で自分の半生を徹底して批判的に書くということをやっている。それって強制の状態から無意識に自由を志向しているのかもしれない、などと。

いろいろなことを考えさせてくれた『中動態の世界』に感謝します。




『中動態の世界』と依存症②薬を飲むのは自発的行為か

(承前)①TOKIO山口達也の事件をめぐって

依存症を克服するには「意志」は関係ないことがわかりました。逆に「強い意志をもとう」と思っているとダメであると。
では、患者の意志に任せて薬を処方することってほんとに治癒に役立つんだろうか、という疑問が湧きおこります。


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そもそも、薬を飲む、というのは、自発的な行為なのでしょうか。

私自身、精神科の薬を30年近く飲んでいますが、はたして自発的に飲んでいるのか、それとも医者からこれを飲むようにと言われているから飲んでいるのかよくわかりません。


カツアゲされることと乞食に恵むこと
『中動態の世界』の著者、國分功一郎さんは、主にハンナ・アーレントの哲学を援用して、カツアゲによって金を差し出すことは自発的行為か否かと過激な問題提起をします。

脅されて金を相手に渡すのは、脅されたからという理由があるにせよ、自分の意志で財布から金を出して相手に差し出すのだから、自発的行為だというのが「意志」という言葉を知らなかったアリストテレスの考え方だそうです。でも、普通の考え方としておかしいですよね。脅されてるわけだから非自発的行為でしょ、と。

では、乞食に金を恵むのはどうか。
それは自発的行為に違いない、と普通は思いますが、カツアゲと同じく外部からの刺激で行動を起こしている以上、カツアゲが自発的行為でなければ乞食に金を恵むのも自発的ではないことになります。

え、それっておかしいよ! というのがごく普通の人の直感でしょう。この直感を直感に終わらせないのが「中動態」という哲学なのです。


「方向」ではなく「質の差」
著者はここからスピノザの考え方を援用します。スピノザは中動態という概念を知らなかったので、もっぱら能動か受動かを問題にします。能動か受動か、ならば「する⇔される」の考え方かというとそうではないと。

普通の考え方なら、自分→他者という方向なら能動、自分←他者という方向なら受動であると見なされます。
しかし、それだと脅されて金を差し出すのが能動か受動かがわからない。乞食に金を恵むのも外部の刺激があって金を出す以上、まったき能動とは言えない。

「方向」を問題にするからわからなくなるのであり、大事なのは「質の差」だというのがスピノザの考え方らしい。

つまり、乞食に金を恵むのは自分の本質から出た行為だと。困っている、かわいそうだという感情が心に湧き起こり、金を恵む。憐憫の感情というその人の本質を表現しているからこれは能動的な行為となる。

逆にカツアゲは、外部の脅しによって無理やり金を差し出さねばならないわけで、外部の刺激に圧倒され、その人の本質よりも外部の本質のほうが色濃く表現されている。だからこのような行為は受動的な行為なのだと。


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「受動」から「能動」へ 「強制」から「自由」へ
山口達也は酒という外部の刺激に負けて酒を飲んだ。そして酒の影響で前後不覚の状態で女子高生に無理やりキスをした。これらはすべて山口達也という人間の本質より、酒の本質のほうが色濃く表現されているから受動的な行為となる。
そして受動とは「強制」の状態にあることだというのがスピノザと著者の主張です。だからといって酒が山口に猥褻行為を強制した、だから酒が悪い、と言ってるんじゃないですよ。むしろ依存症患者は強制の状態にあるからダメなんだと。強制の状態を脱却しなければ、というのが著者の主張のようです。

そのためには、できるだけ自分の本質を表現する能動的な行為をせねばならない。そのような状態が「自由」であると著者は言います。決して「自由なる意志」をもって何事かをなすのが自由ではなく、自分の本質を強く表現する行為が本当の「自由」なのだと。

山口にかぎらず、私の知人の元アル中患者も、すべての依存症患者は、まず本人が酒なり薬物という外部によって刺激される、つまり「強制」の状態にある。少しも自由ではない。

前稿で書いたように、アルコール依存症患者が飲む白い粉薬。あれを飲んで酒を断とうという強い「意志」をもつことが治癒の糸口なのではなく、大事なのは自己の本質を表現して「自由」になることらしい。

まったき能動もまったき受動もない。酒や薬物など外部からの刺激に圧倒されている依存症患者も、自分の本質を表現できる余地がある。そこに依存症を克服するカギがありそうです。


アルコール依存症を治す薬の是非
では依存症患者にとって、薬を飲むことが自己の本質を表現することなんでしょうか? でも、それなら、強い意志をもって薬を飲むことを別の言い方にしているだけで何も変わらない気がします。
それに、薬が効いている状態で酒を飲むと気持ち悪くなって酒を飲めなくなる。それはそれで、今度は薬という外部からの刺激に圧倒されている状態です。少しも強制から脱却できていない。

あるサイトで著者のインタビューを読むと、最近は糖尿病患者の治療でも、単にカロリーを制限するだけでなく「食事を楽しむ」ことを重視すると治療の効果が上がるそうです。

ということは、薬をとてもおいしいものにするとか? あの薬はおいしかったんだろうか。そんなことは一言も聞いてないし、ごく普通の苦い粉薬にしか見えませんでしたが。

一方で、うちの犬は毎月フィラリアの薬をもらってきますが、昔は苦かったのでソーセージやチーズに混ぜたりしてやらないといけませんでした。最近のやつは薬そのものがとてもおいしくできているらしく、喜んで食べます。

そういうことなの? え、それだけの話? そのためにあんな難しい本を書いたわけじゃないはずですが……?

と、ここまで書いてきて気づいたのが、TOKIOのメンバー松岡昌宏の会見でした。おそらくあの会見に依存症を解くカギがあるんじゃないかと。

続きの記事
③断酒会の意味



『中動態の世界』と依存症①TOKIO山口達也の事件をめぐって

私の知っている高名な脚本家は元アル中患者で、精神科で処方された白い粉薬を見せてくれたことがあります。
「これが効いてるときに酒を飲むとめちゃくちゃ苦しくなるんだ」と。
それを聞いて「ん? それって何かおかしくない?」と思いました。

だって、薬を飲めば苦しむのが嫌だから酒を飲まずに済むだろうけれど、逆に言えば薬を飲まなければ浴びるように酒を飲んでいい気分になれるんですよね。もともと依存症患者って弱い意志の持ち主なのだから、医者がそういう患者の意志まかせにするのってどうなんだろうと。誘惑に負けて薬を飲まない選択をしたが最後、また依存症に逆戻りじゃないですか。


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哲学者・國分功一郎さんが小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界 意志と責任の考古学』。

文法の歴史を哲学的に解いていくこの本は、大部分を能動態でも受動態でもない「中動態」という聞きなれない動詞の態についての考察に割かれていますが、最終的に依存症を考える契機になることが目指されています。


「意志」への疑義
プロローグ「ある対話」では以下のような会話が収められています。(かなり編集してます)

「依存症というのは、意志や本人のやる気ではどうにもならない病気なんだってことが日本では理解されていない。もう絶対にやらないと決意するとダメなんだ」
「それは理解に苦しみます。酒をやめる、薬物をやめるというのは、やはり自分がやめるということなのだから、やめる意志が大切になってくるんじゃないですか」
「しっかりした意志をもって、努力して、絶対にやらないぞ、と思っていると逆にやめられないんだよ」

やめる強い意志をもったほうがダメとはいったいどういう理路によって?


中動態とは何か
現在、日本語でも欧米のさまざまな言語でも、動詞は「能動態」と「受動態」しかないと思われています。しかし、かつては能動態でも受動態でもない「中動態」というものがかつてインド=ヨーロッパ諸言語でも日本語でも存在したと。しかも、原初の言語には中動態しかなかった、というんですね。

では、その中動態とはいったいどのような態か。
「能動態では、動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する中動態では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

例えば、「生まれる」「眠る」「寝ている」「想像する」「成長する」などの動詞の主語は、その過程の行為者であって同時にその中心であるから中動態で表される。
逆に「曲げる」「与える」などの動詞の場合は、主体から発して主体の外で完遂する過程を示しているから能動態なんだそうです。
そして、現在は「能動態⇔受動態」という対立がほとんどの言語にありますが、その前は「能動態⇔中動態」(外態⇔内態)の対立しかなかったと。つまり、かつて受動態というものはなかった、というから驚愕です。


かつて「主体」はなかった!?
普通、我々は、何かをしようという意志をまずもち、その意志を遂行する、と思ってますよね。目の前の醤油を取ろうと思い、そして実際に取ると。
でも、脳科学の観点からは、事態は実は真逆らしいのです。まず醤油を取り、そのあとで「醤油を取ろう」という意志が生まれるのだと。嘘のようなホントの話。


中動態の世界に「意志」はない
さて、古代ギリシアでは「能動態⇔中動態」の対立しかなったので「意志」を表す言葉がなかったとか。
なぜなら、能動態も中動態も、つまり動詞というものはもともとは「出来事」を描写する言語でしかなかったから。
それがギリシア以後の社会の発展、つまり国家や社会という枠組みが強化されていくと、秩序を維持していくために数々の法が作られる。法とは悪行の責任を問うものであり、責任を問うためにはその行為の主は誰かが問題とならざるをえない。そうして受動態が生まれ、中動態は衰退の一途をたどった。中動態が衰退すると、それまでの「能動態⇔中動態」という対立の図式が崩れ、「能動態⇔受動態」という新しい対立の図式が生まれた。

そこに初めて「意志」という概念が誕生したと著者は言います。


「責任」と「意志」
著者は寝坊した学生を使ってこんな例え話をします。

「ゲームが好きで、やめられずにだらだら続けて夜更かしをする。それだけなら内なる自分の誘惑に負けた受動的な行為かもしれない。しかし、その学生が翌日講義の最中に居眠りをして怒られるとすると、途端に前夜のゲームは能動的な行為とみなされてしまう。明日は朝から講義があるから早く寝ようとゲームをやめることもできたはずなのに続けた。だから能動的にゲームを続けたのだ。おまえにはその責任があると」

つまり、意志をもった行為だったから責任を負わされるのではなく、責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。




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だから、例えばTOKIOの山口達也は退院したその日に焼酎を一本空けてしまい、強制猥褻行為に及んで芸能界から追放されかかっていますが、多くの人が口をそろえて言うのは、

「酒が悪いのではなく飲んではいけないのに飲んだ山口が悪い。意志の弱さを反省しろ」

というまったき正論ですが、しかし、これはまさに山口達也が責任を負うべき行為に及んだと判断されたから能動的に酒を飲んだという「意志」が出現したのですね。もし大酒を飲んでも女子高生を家に呼んで無理やりキスするなんてことをしなければ責任を問われないし、それなら当然のこと弱い意志が問題になることもなかった。

実際、「リーダーの城島茂のほうが酒好きで山口より城島のほうがアル中の疑いが濃厚」という記事も見ましたが、「まったく他人に迷惑をかけない飲み方をしているならいくら飲んだってかまわない」とも書いてありました。

事件を起こしたから弱い意志が問題になり、事件を起こしてないから問題にならないのは当たり前だろう。

という声が聞こえてきそうですが、私はそうは思いません。

だって、城島はいまのところ問題を起こしてないだけで、これから起こす可能性があるんですよ。いま戒めなければ山口と同じ轍を踏む可能性は充分にあります。
そもそも山口達也は職場でも酒の匂いをプンプンさせていてみんなが薄々感づいていたらしいじゃないですか。なのに誰も咎めないからあんな破廉恥なことをしでかしてしまった。でも事件を起こすまで、つまり責任を問われる事態になるまで誰も彼の意志の弱さを問題にしなかった。

責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。これがいま現実に起こっています。中動態を知らない私たちにも、中動態の世界に生きていた古代人の精神の名残りがあるのでしょう。

しかし、ここで疑問が湧きおこります。

じゃあ、意志ってほんとは存在しないの? ただの幻想なの?

著者はそれも違うと言うから話はややこしい。

続きの記事
②薬を飲むのは自発的な行為か
③断酒会の意味



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