聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

小説

『イニシエーション・ラブ』小説と映画(ネタバレ含みます)

ある方面から「小説も映画も面白いから読め、見ろ」と言われたもんで、小説を読み、映画化されたものも見てみました。しかし…

あーつまらなかった。

つまらなすぎる。



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著者の乾くるみさんという方は何でも推理作家さんらしく、なるほど、と合点がいきました。

確かに、「最後の二行ですべてがひっくり返る」という前評判はその通りだと思いましたよ。私もまんまと騙された口です。

だけど面白いですか、これ。

A面と題された前半では、ある男性が自分には不釣り合いなかわいい女性との初恋が綴られ、B面と題された後半で、その男性の後日の姿とおぼしき男性が、その女性との遠距離恋愛がうまく行かず別の女性に乗り換える顛末を描いています。

と、思わせておいて、前半と後半の男性は実は違う人物なんですよね。要は、前半と後半は時系列ではほぼ同時進行で、やや後半のほうが時系列順では少しだけ早い。で、最後の二行でそれが暴かれる、という組み立て方は見事なんですが、どうも釈然としないのです。

もし最後の二行がなければ、男も女も苦い結末ですよね。男は他のもっときれいな女に乗り換えたとはいっても、最初の女が忘れられないし、女のほうも子どもを堕ろすことになったりいろいろつらい目に遭って、最終的に男に捨てられる。

が、実は前半と後半の男が違う人物だとわかった日には、男への哀惜の念は増しますが、ヒロインへの共感は完全になくなってしまいます。

遠距離恋愛からくる寂しさなのか、どうせばれないだろうという遊び心なのか、彼女は彼氏がいるにもかかわらず、独りだとウソを言って前半の主人公と急接近するんですが、二股かけて喜んでる女に対し、腹は立っても共感などできません。


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なぜ前田敦子をキャスティングしているのかはよくわかったんですが(適役!)、小説でも映画でも、「登場人物への愛情」を感じることができませんでした。

通常、物語の語り手というのは、登場人物と一緒に泣いたり笑ったり喜怒哀楽を共にするものですが、この作者がそのように大切なものとして登場人物と向かい合った形跡がありません。

ただ、最後であっと驚かせよう、という「欲望」しか感じられないんです。

どんでん返しのためにキャラクターがあるんですね、この作品は。

だからほんとは推理作家だというのが腑に落ちたんです。

私はあまり好きじゃないから推理小説ってあまり読んでませんが、たまに読むと、「名推理のために事件がある」みたいなところが好きになれないんです。「事件があってそこから名推理が導かれる」ならば好きになれるんですがね。すべては最後であっと驚かせるため。小道具ならまだしも人物まで謎解きの「道具」にしてしまうのは、少なくとも私は好きになれません。(やっぱり推理小説より犯罪小説!!!)

この『イニシエーション・ラブ』も同じでしょう。どんでん返しのためにすべての登場人物たちが作者の「駒」として用意されてしまっています。特に前半の主人公である男性なんか前半だけで完全に使い捨てにされてしまっています。

それじゃあ共感などできるはずもありません。

同じ叙述トリックでも筒井康隆氏の『ロートレック荘事件』にはそんな嫌な臭いはまったく感じませんでした。

なぜかはわかりませんが。


パトリシア・ハイスミス『キャロル』(心が風邪を引いたら…)

パトリシア・ハイスミスが1952年にクリス・モーガンという別名義で上梓した『キャロル』(当時は『ザ・プライス・オブ・ソルト』というタイトルだったとか)を読了しました。

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さすがハイスミスですねぇ。やたらめったら面白い。

主人公テレーズが美しい人妻キャロルと出会い恋に落ちる物語なんですが、ハイスミスらしく全編に常に不穏な空気が漂っていて、読んでる間ずっと宙吊りにされてる感じ。ミステリ作家の歴代1位に選ばれたのも納得の、一大サスペンスですね、これは。

主筋はラブストーリーなんですけど、この先この二人の関係はどうなるのかハラハラしまくり。拳銃が出てきたときなんかはもう「ああ、どちらかが殺されるのか。どっちが殺すのか。やはりテレーズなのか。それだけはダメ!」と架空の人物に心配してしまうほど感情移入しまくり。

そして、ラストは…

これは書かないでおきましょう。

ただ、心が風邪をひいたときは、読み返さないまでも、この『キャロル』の結末を思い出すだけで復活できるんじゃないか。そんな気さえするエンディングでした。もうお腹いっぱい。

トッド・ヘインズ監督によって映画化され、テレーズを演じるのがルーニー・マーラ、キャロル役はケイト・ブランシェットということでおそらくベストキャスティング。賞レースでも堅実な結果を残しており、これは期待できそうです。

本棚には、積読状態のハイスミス本が数冊あります。貪り読みたい気分です。


池波娼婦、若尾娼婦、三田娼婦(娼婦描写の政治学)

このところ娼婦づいてます。

池波正太郎の『娼婦の眼』(講談社文庫)
川島雄三監督、若尾文子主演『女は二度生まれる』
成沢昌茂脚本・監督、三田佳子主演『四畳半物語 娼婦しの』

まずは『娼婦の眼』


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池波正太郎が若き頃にはまだ赤線というものがあり、この連作短編が書かれたのは赤線が廃止された直後の時代なんですが、廃止されても買売春というものがありそれが人間の悲しい性であって、違法行為に手を染めてもたくましく体を売って生きていく女たちの姿が描かれます。

そのコンセプトには一も二もなく大賛成なんですけど、やはり娼婦というと「汚れた仕事」という世間一般のイメージがあるからか、「娼婦は世界最古の職業なのである」と作者自身が言っていて、これは娼婦という仕事の素晴らしさを謳っているというより開き直りとも言い訳とも取れる言葉なんですね。

そのためか、この短編集で描かれる幾人もの娼婦には縁談が持ち込まれるんですが、相手の男がいくら女のことが好きでも娼婦だとわかった途端、手の平を返したかのように「騙したな!」と激怒して去っていく。そんな男の馬鹿さ加減を作者は嗤っているしこちらも笑っちゃうんですけど、しかし、娼婦を否定する存在を描くことで逆に娼婦賛歌にもっていくやり方が私はどうしても好きになれないんですね。

それは、名監督・川島雄三がこれまた名手・井手俊郎と脚本を書いた『女は二度生まれる』でもっとひどくなります。

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若尾文子演じる娼婦は、ある社会的地位の高い旦那・山村聡の二号であり、すし職人フランキー堺や最後まで何が商売かわからない山茶花究らが常客でもあり、さらに童貞君の筆下ろしをする存在でもあり、また、関係はもたないけれどあるエリート大学生を好きになる純粋な存在でもあったりします。

ここには娼婦を否定する人はほとんど出てきません。唯一、山村聡夫人の山岡久乃が山村が死んだときに喧嘩しに来ていろいろ汚い言葉を浴びせかけるくらいでしょうか。それでも山岡久乃は「娼婦」である若尾文子を難じに来たのではなく、あくまでも「愛人」だった若尾に嫉妬していただけです。娼婦という存在を否定しているのではありません。

この映画では終始、娼婦であり金持ちの二号である主人公の喜怒哀楽を何の批評もなしにそのまま純粋に描いています。ラストシーンまでは。

ラストシーンは、いつの間にか結婚して子供までいるフランキー堺と電車の中で一瞬の再会をした若尾文子が次の駅で降りて、たった一人で垣根に座ってため息をつくというものです。このカットがとてもいじわるというか、若尾文子を大ロングショットで撮るのですね。3日前の『レインマン』に関する日記では、主人公を客観的に突き放すならロングショットかフルショットで撮るべきだったと書きました。あれは、「改心したのに時すでに遅しだった主人公に対して『自業自得だったんだよ』という批評の意味を込めてほしかった」という意味でしたが、この『女は二度生まれる』のラストの大ロングショットは「娼婦は好き勝手に生きてるけれど、こんなにも孤独で淋しい存在だ」という批評には違いないですが、それまで主人公を批評する登場人物がいないのに最後の最後で作者たちが主人公に批評を下しています。

『娼婦の眼』ではあくまでも登場人物たちが娼婦を批評するのでした。そして娼婦を批評した人物に対して作者がさらに批評を加えることで娼婦賛歌になっていましたが、『女は二度生まれる』では作者が直接娼婦を批評していて不快でした。作者たちが主人公を見下していて、少しも愛していなかったことが最後の最後で明らかになるなんて、それまでの時間は何だったんだと。この映画は娼婦を馬鹿にしています。すべての観客から唾棄されるべき愚作と断じます。

では、名脚本家・成沢昌茂が監督も務めた『四畳半物語 娼婦しの』ではどういう娼婦の描き方がなされていたのでしょうか。

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画像にあらすじが書かれていますが、『女は二度生まれる』と同様、ここでの三田佳子(と野川由美子)を批評する登場人物はいません。しかし『女は~』とは違って作者が三田佳子と野川由美子を批評することもありません。

最後は、情夫を殺され、殺したのが好きだった糺という男で、すべてを失った娼婦しのが新しい客に抱かれる顔のクロースアップで終わります。『レインマン』で、主人公の心情に寄り添うならクロースアップで撮るべきだと言いましたが、この映画ではまさにそれが実践されているのですね。

別に三田佳子も野川由美子も「娼婦だから」不幸になったのではありません。ただちょっとした運命のいたずらで不幸になっただけです。娼婦だから汚れているとか、娼婦だからこそ尊いとか、そのような善悪二元論とも無縁です。

ただ、悲しい目に遭いながらもそれでも客がついたらその男に身をゆだねなければならない娼婦という存在の哀しみに作者がそっと寄り添うのみです。

これは、いくら悲しくつらい目に遭っても、それでも生きていかなければならない人間全般に対する愛情に通じます。

だから、『四畳半物語 娼婦しの』は傑作だと思うのです。決して溝口ばりの長回しで撮られているから傑作なのではなく(確かにあの長回しの連打は素晴らしかったですが)娼婦を「娼婦」と見ず、「たまたま体を売る仕事をしているだけのただの人間」という捉え方に非凡なものがあったと思います。

池波正太郎でも川島雄三でもなく、監督の経験があるなど知りもしなかった脚本家・成沢昌茂によるこの名もなき一編の映画こそ娼婦物語の傑作と声高に言いたい。

体を売ることは悪か悪でないかという善悪二元論から脱し、「政治的な正しさ」からどこまでも自由なのですから。


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中村文則『悪と仮面のルール』(講談社文庫)

『悪意の手記』『最後の命』に続く中村文則さんの三部作最終作『悪と仮面のルール』を読みました。

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出だしを読むとぐいぐい引き込まれて、終盤近くまでかなり一気に読んだんですが、結果的に、うーん、これもちょっとどうなんだろう、という小説でした。

「邪」の家系に生まれた主人公がその血ゆえに苦しみ、父を殺し、顔を変えて幼馴染の女を探し、JLという名のテロ組織を作って…という内容なんですが、まず「邪の家系」とか冒頭で父に言われる「おまえに地獄を見せてやる」の「地獄」とかの言葉が、ことごとく観念的で具体性がないのが致命傷ではないかと。

フィクションは観念の産物にすぎないと言ってしまえばそれまでですが、しかし、あまりにひとつひとつの言葉が硬く、腹にストンと落ちてこないんですよね。

湾岸戦争やイラク戦争の裏で何があったか、という説明がものすごく長台詞で述べられていますが、「説明するな、描写せよ」といった筒井康隆さんがこの小説を読んだら一笑に付すんじゃないでしょうか。

筒井さんの小説はまったく説明なんてないですもんね。登場人物の性格や来歴、物語の背景など、すべて展開とともにわかるようになっています。

中村さんの『掏摸』や『銃』だって説明的だとか表現が生硬だとかの感想は少しもなかったんですけど、この三部作はすべて読み終わって徒労感だけが残りました。

何か「頭」だけで書いてる感じがするんですよね。具体がない。

それと、自分で解説を書くのはよくないと思うのですが、いかがでしょうか?


中村文則『最後の命』(講談社文庫)

先日、感想を書いた『悪意の手記』の姉妹編ともいえるらしい『最後の命』を読みました。

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うーん、これにも大いに疑問を感じざるをえませんでした。

主人公は、ある精神薄弱の女性を悪辣なホームレスたちにレイプするよう強制された暗い過去をもっています。そして、それが原因で女性と普通の関係をもつことができない。あれが原因だと思えば思うほどどんどんアブノーマルになってしまう。

さらに、そのときのホームレスが死にかけていたところを見殺しにするという過去ももっているんですね。ここまでダークにする必要があるのかというほどの暗さなんですが、あざといとかそういうことじゃなくて、テーマの掘り下げ方が、というか、話の語り方を間違えてる気がしてしょうがないんです。

『悪意の手記』が「人を殺したらどうなるか」という『罪と罰』のモチーフを良くも悪くも中村文則らしい語り方で語っていました。私はまったく乗れませんでしたが、好きな人もたくさんいるのだと思います。

今回の『最後の命』でも、主人公の本棚にドストエフスキーがあるなど、かなり『罪と罰』を意識しているなと思えるところがあります。冴木という男のメールのところなどは『悪霊』のスタヴローギンの手記を意識してるのかな、とか。

それはともかく、この小説では、まず主人公の部屋で女が殺されていて、部屋から出た指紋が主人公と暗い過去を共有する親友のものだった。はたしてその親友は真犯人なのか!? というミステリ仕立てなんですね。私はこの構成に納得がいきませんでした。

最後まで読んでも真相がはっきりしないのは別にいいんです。そういうのたくさんあるし。でも、過去に人を傷つけ、見殺しにしたこともある人間の懊悩を描くのが主眼なのに、殺人事件が起こって、指紋が出ました、あなたの親友のものです、彼は連続婦女暴行犯として指名手配されてます、というサスペンス風の語り口がどうして必要だったのか、少しも理解できないんです。

『悪意の手記』でも、後半、突然登場した女性が物語を解決に向かわせるストーリーの作り方に納得いかないと書きましたけど、この『最後の命』でも、主人公やその親友の内面描写よりもストーリー展開のほうが重視されすぎてはいないか、と思うのです。内面を描くために物語がある、と言う人もいるのかもしれませんが、私にはそうは感じられませんでした。

何というか、古典的ハリウッド映画のような筋立てを借りないと主人公の懊悩を描けないような、苦肉の策のような気がするのです。それか、ミステリ仕立てにしないといまの読者は読んでくれないから、という「計算」が透けて見えるというか。

このあとの『掏摸』にはそんなの少しも感じなかったんですけどね。この前に書かれた『銃』にも感じませんでした。拳銃を拾う、というのがもうかなりサスペンス仕立てなんですが、そこから結末に至るまでの主人公の内面描写には少しもストーリー展開に力を借りたものではなく、純粋にその内面を掘り下げていく描写の連続で、小説を読む醍醐味とはまさにこれよ、とゾクゾク震えたのをはっきり憶えています。

この次の『悪と仮面のルール』と合わせて三部作と言われているらしいですが、すでに購入してあるので読んでみたいと思います。


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