小説

2020年02月08日

いま国内外で注目を集める村田沙耶香さんの最新中編小説集『変半身(かわりみ)』を読みました。


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「ニンゲンを脱ぎ捨てろ」というキャッチコピーにあるように、この小説では、私たちは「ニンゲン」という奇祭をやっている、実はぜんぜん別の「ポーポー」という生き物なのだ、という内容です。

地球(ほんとの地球は丸い星ではなくところどころに島があるどこまでも続く水たまりという設定)の外からやってきたポーポーが、新しい島で繁殖し始める前に、そこで生きていく安全を祈るため祭りを行っていた。それが「ニンゲン」という架空の生き物を演じるという奇祭。それがこの世の正体なのだと。

しかし本当にそうでしょうか?


一人称の罠
二年前に刊行された傑作『地球星人』について、私はこんな感想↓を書きました。

『地球星人』感想(あのラストをどう解釈するか)

『地球星人』のミソは一人称で書かれていることにある、という主張でした。

この『変半身(かわりみ)も一人称で書かれています。しかしながら如何様にも解釈が可能な『地球星人』とは違い、この作品では主人公・陸が実際に幼馴染の高木君が卵を産むところを目撃し、その卵から、上半身がイルカで下半身が人間のような本物のポーポーが孵化する瞬間を目の当たりにします。

そしてラジオもスマホもまったく動かない。これまで自分たちが信じていた地球の歴史、人類の歴史はすべて奇祭「ニンゲン」をまことしやかにするためだった真っ赤なウソだった!

そして陸自身も「自分が孵化している」のを感じます。ポーポーに変身しかけるところで物語は幕を閉じます。

しかし本当にそうなんでしょうか?


村田沙耶香の「宗教」
何の情報ももたない陸は、奇祭「ニンゲン」が終わったという宣言を聞く直前、幼馴染の花蓮にこんなことを言います。

「みんな、自分に都合のいい嘘を信じるんだ。人間ってそういう仕組みなのかな」

花蓮は答えます。

「そうかもね。新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ。次の瞬間には新しい信仰が始まってしまうんだから」

人間は信仰=宗教から逃れられない生き物だというのは村田沙耶香さんの作品に一貫するテーマですよね。みんな「普通教」に囚われているだけだ、と。

『コンビニ人間』では結婚するのが普通、36歳でコンビニでバイトなんておかしいという「普通教」への異議申し立てが主題でしたが、その主人公ですらコンビニという神を信仰しているわけで、どこまで行っても人間は宗教から逃れられないというのは、作者の主張というより、まったく例外のない、この世の数少ない真理のひとつでしょう。

だから、我々は「ニンゲン」という奇祭を演じるポーポーという生き物だというのも、また「信仰」のひとつでしかないというのが私の見方です。

だって、人間は宗教から逃れられないのが真理ということは、この世のもうひとつ奥にある唯一絶対不変の真理には到達できないということです。その前に立ちふさがって別のことを信じ込ませてる「神」という存在がいるのですから。その神を信じているのですから。


世界五分前仮説
哲学者バートランド・ラッセルが提唱した壮大な思考実験に「世界五分前仮説」というのがあります。

この世はたった五分前に生成された、何百年も何億年も前から存在しているように感じるのは、そういう歴史があると信じているからだ、というもの。

この仮説は否定することがかなり困難なようです。

『変半身(かわりみ)』はそれを哲学ではなく文学として提示しました。「自分たちは地球人で、地球には50億年の歴史があり、丸い球体の星で地動説が正しい」というのが千年前に作られた神話。その千年を五分と考えれば五分前仮説となる。

千年が五分だなんておかしい? それもまた数学や度量衡という宗教を信仰しているから出てくる疑問であって、この世の奥にある唯一絶対の真理からすれば少しもおかしくないのかもしれません。

そして、その五分前仮説は否定することが難しい。だから自分たちは実はポーポーであるという「真理」をみんなで信仰しようということになった、というのがこの小説の本当の結末でしょう。

陸はポーポーになったのではなく、ポーポー教を信じるようになっただけにすぎません。ポーポー教もいずれ新たな五分前仮説となるのです。


第2章の巧妙さ
そう解釈できるよううまく描写されているのが第2章の陸の実生活です。

どうも夫は詐欺集団の一人らしく、愛人を作って一週間に五回はセックスをするノルマが課されているとか、他人を騙すために何かを演じる人なんですね。妻の陸もその片棒を担がされている。

現実にはこんな人たちは存在しないでしょうが、でもこれは現代ニッポンの巧妙なカリカチュアでしょう。

みんな何かを演じている。演じることによって詐取し、また詐取されている。

陸はおそらくそのような日常がいやになったのでしょう。それで幼いときに村で「モドリ」という秘祭が行われ、そこから逃げ出した記憶を利用して「自分たちはニンゲンという奇祭を演じるポーポーだったのだ」という新しい現実を信じることにした。

榊というプロデューサーが村に方言がないと観光客が来ないから語尾に「がちゃ」をつけて喋るように、というところから世界がおかしくなってきています。

いや、一人称で書かれているのだから、世界そのものがおかしくなったのではなく、陸の主観で捉えた世界がおかしくなっている、ということ。つまり、世界を見る陸自身がおかしくなっている。


「無」になる瞬間
これが三人称で書かれていたらすべて「客観的事実」として信じるほかありませんが、一人称だから陸の妄想であることを否定できません。現実の世界でおかしくなった自分に整合性をもたせようとしたのでしょう。

でも、主人公の妄想にすぎなかった、つまり「夢オチ」だからつまらないというのは当たらないと思います。

「宗教」である以上、神への信仰告白である以上、一人称で書かれねばならず、一人称で書かれる以上はすべては主人公の妄想だという疑いから逃れられない。

花蓮のセリフ「新しい真実を信じるとき、人間の頭はクラッシュする。その瞬間だけが本当に『無』になれるときなのよ」にあるように、自分が孵化するのを感じるクライマックスで陸は「無」になった。

そして次の瞬間には「自分はポーポーである」という別の宗教を信仰し始めるのです。

私たちにもいずれそういう瞬間が訪れるのかもしれません。まったく新しい自分と出逢う瞬間。まったく新しい世界に溶けこんで行く瞬間。

それこそ「オーガズム」と呼ぶべきものなのかもしれませんね。


関連記事
『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)
『となりの脳世界』感想(いつか、どこかで)

変半身(かわりみ) (単行本)
村田沙耶香
筑摩書房
2019-11-28





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2019年10月21日

梅崎春生の『怠惰の美徳』について先日、ちょっとだけ書きましたが、あのときは後半の短編小説は読んでなかったんですよね。最後まで読んだので、今回はその感想です。


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私小説?
前半のエッセイでいくつか真面目な文学論が載っていて、著者は「私小説は日本文学の悪しき伝統だ」みたいな主張をしているんですが、七つの短編小説はすべて主人公が著者自身を思わせる人物で、しかもその人物の一人称で語られるから、これって私小説じゃないの? それとも私小説に似せたまったくの創作なのかしらん?

と思いながら読み進めると、ひとつだけ「これは絶対創作だろう!」と思えるものがありました。


「百円紙幣」
と題された20ページほどの作品がそれ。

この作品の主人公は、酔うと金を隠す癖がある。日記帳を開いたら十円紙幣が挟まっていて「大いなる拾い物をした」と喜ぶ友人の姿を見て、自分にも同じ癖がついたと。素面の自分に向けたプレゼントとして、酔ったら五円紙幣や十円紙幣や硬貨などもときどきいろんなところへ隠す。素面の自分はどこにいくら挟まっているか探すのが楽しい。

私は最初、私小説というかほとんどエッセイと思って読んでいたので、変な癖をもっていたんだなぁ、一流の文士になるためにはやはりそれぐらいの変態さが必要なのだろう、と思ってしまったけれど、結末に至って「これは創作なり!」と強く思ったわけです。

物語は後半に入ってサスペンスを増していきます。ボーナスが入ったときの百円紙幣が一枚足りないことに気づくも、酔った自分がどこかへ隠したか素面の自分にはわからない。わからないまま引っ越すことになり、引っ越した後になって「鴨居の溝だ!」と思い出す。

でもその部屋はすでに他人が使っている。その他人の素姓を調べて、西木という名のその他人が飲み屋に入っているところを狙って同部屋の友みたいになり、しこたま飲ませて部屋にあげてもらう。鴨居なんか普通は調べないはずだから百円紙幣がそのまま残っているはずだという計算だったが、西木が席を外したすきに手を伸ばすと「あった!」。しかしあったのは十円紙幣が五枚だけ。そこを見つかり「それが狙いだったのか」と問い詰められるも「もともとは俺の金なんだから」と残りの五十円を握りしめて帰ったと。

「西木は金に困るたびに少しずつ使ったのだろう。そしておつりを元の鴨居に隠しておくところに彼の几帳面さがあったわけでしょう」と結ばれるのですが、まぁ、こんなの絶対作り話ですよね。

おつりを鴨居に隠しておくなんて普通しないでしょ。百円を見つけた時点で全部財布に入れるのが普通。考えてみれば、酔った自分が素面の自分のために金を隠すというこの作品の仕掛け自体がまったくの嘘八百。酔った人間がそんなことできるわけがない。そのことに最後になるまで気づかなかった。画竜点睛を欠く。最後にウソとすぐわかるウソを書くなんてもったいない! と思ったんですが……


アクロバティックな仕掛け
いや、しかし、ひょっとしたらできるのかも、という気がしてくる。私は酔ったら前後不覚になって介抱してもらうような酔い方しかしたことないけど、飲み慣れた人間ならちょうどよい酩酊加減のときに金を隠して醒めたら記憶がないというアクロバティックな飲み方ができるのかもしれない。

だから、西木という男がおつりを元の鴨居に隠しておくという嘘八百はあえて意図的に書いたものなのかしらん、と。

つまり、「これはエッセイでもなければ私小説でもない、まぎれもないフィクションですよ」というメッセージなのかも、と。

「私小説は日本文学の悪しき伝統」と主張する人の書くものなのだから、それぐらいのアクロバティックな書き方をしても不思議はない。

最初からフィクションとわかる書き方をすればいいのでしょうが(三人称で書くとか)でも、それをすると酔った自分が素面の自分のために金を隠すという「せこい面白さ」が失われる気がします。あくまでも著者自身が「こんなアホなことをやっていた」という体で話を進めたほうが面白い。

でも私小説ではない刻印を残しておきたいということで、あのようなオチにしたのかな、と思ったんですが、実際のところはどうなのでありましょうや?


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『怠惰の美徳』(ナマケモノの言い分)








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2019年09月27日

古市憲寿の小説第二作『百の夜は跳ねて』の感想ですが、このところ体調不良というかえらくハイな状態が続いており、最後まで落ち着いて読めなかったので頓珍漢なことを言ってるかもしれませんが、そのへんはご容赦を。図書館に返す期限が今日だったのでね。次の予約入ってるし。無理して読みました。


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盗作問題
巻末に参考文献として記されている『天空の絵描きたち』という小説を盗作したとか、「盗作よりもっと巧妙な何かだ」とか芥川賞選考委員から批判されていますが、私は『天空の絵描きたち』を読んでいないので何とも言えません。盗作やパクリについて一般的な私の意見はこちらの記事を参照してください。⇒パクリ、盗作、芸のうち!(『カメラを止めるな!』をめぐって)

『天空の絵描きたち』の作者が「盗作ではない」と言ってるんだから別にいいのでは? ただ、古市から金もらってる可能性もあるし断定できませんが。


物語について
物語についても特に言うことありません。

高層ビルの窓の清掃人が、清掃していたあるビルの老女からいろんな部屋を「記録」してほしいと依頼され、不法行為に手を出すというのはサスペンスとしては面白いけれど、死んでしまった先輩の声とか市議会議員を目指す母親も含めて全体で何を言いたいのかがよくわからなかった。繰り返しますが、私がハイだったために読み取れてないだけかもしれません。どうかご容赦を。

ただ、以下の「新海誠作品との類似性」についてはハイとかそういうことは関係ありません。


固有名詞の頻出
主人公がもっているスマホは「iPhone」である必要がどこにあるんでしょうか。最初のほうのシーンで主人公の目の前の人間が「ファーウェイ」のスマホを云々という描写があったけれど、ファーウェイである必要性はまったくなかったはず。
主人公が仕事にもっていくお茶が「爽健美茶」である必要は?
主人公はいつも「セブンイレブンの93円のコーヒーを飲んでいる」らしいけれども、「セブンイレブン」である必要はあるのか。単に「コンビニ」でいいのでは?
老女から「記録」の依頼を受けて、わざわざ「ヤマダ電機に行き」と書き「GoProのHERO7 Black」というカメラを買う。カメラには疎いので調べてみると、やっぱりGoProのHERO7 Blackは実在する商品。「電器屋で店員に聞き、高いが性能がすごくいいらしいカメラを買った」ぐらいの描写でいいのでは? GoProのHERO7 Blackでないと成立しない話じゃない。

例えば、ブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』では、セレブが愛用する名刺やら化粧品やら洋服やら何でもかんでもとことん徹底的に固有名詞を出して、ある「味」を出していました。私はあの味は苦味以外の何ものでもなかったけれど「味」には違いない。

でもこの『百の夜は跳ねて』で頻出する固有名詞にはそういう「味」を少しも感じませんでした。もっと簡潔に描写しろよ、としか思わなかった。


新海誠作品との類似性
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新海誠監督の新作『天気の子』では新宿歌舞伎町の街並みがかなり忠実に再現されています。

そういえば、前作『君の名は。』でも新宿のヤマダ電機がめちゃ忠実に再現されていましたよね。

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何でここまでする必要があるのでしょうか。アニメなんだから架空の街でいいのでは? 現実を忠実に再現しないとリアリティがなくなると危惧してるのかな。

そんなのは杞憂でしょう。私はこれまで新海誠作品を面白いと思ったことはないけれど、リアリティがないと思ったことはないし、そもそも映画なんてしょせんは2時間の作り話なんだから面白おかしくでっち上げればそれでいいと思う。

『百の夜は跳ねて』もまったく同じ過ちを犯していると思いました。現実世界にあるアイテムをたくさん出せば出すほど白けてしまう。(古市作品にも新海作品にも「ヤマダ電機」が出てくるのが何か不気味)

それは私が脚本家を目指していたからかもしれません。

脚本には固有名詞は書けません。「爽健美茶」と書いてもコカ・コーラとのタイアップが実現できなければ画面に登場させることはできません。音楽でも「主人公がキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いている」と書いて講師から叱られたことがあります。使用する権利を買えるかどうかわからないんだから固有名詞は絶対書くな、と。

だからよけいに反応してしまうだけかもしれません。

新海誠監督は46歳。古市憲寿は34歳。別に世代の問題ではなさそうです。

でも、この同じ時代に世に問うて高い評価を受けている作品が、固有名詞を連打したり、現実と同じ画を描くことでリアリティを獲得しようとしているのが、何となくイヤ~な気がするんですよね。


そこに「必要性」はあるのか
と、ここまで書いてきて、単に私が最近の小説をあまり読んでないからかな、とも思います。他の現代小説には固有名詞が頻出するのでしょうか。

ん? そういえば、漱石や谷崎の小説にも「どこそこの何々」と固有名詞が時折出ていたような……? たぶん、古典作品の固有名詞が気にならないのは私がその時代に生きていないから、知らないからというだけでしょう。

では知っている固有名詞だとなぜイヤ~な気がするのか。よくわかりません。

あ、でも、その固有名詞が出てくる意味、必要性があるならOKです。さっき読み始めた原田ひ香の『DRY』には「カルティエ」「ヴィトン」というブランド名が出てきますがちゃんと意味があるから何とも思いません。

やっぱり何の必要性もなく固有名詞を出すのは、リアリティを演出する姑息な手だと思っちゃうんですよね。


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