小説

2019年09月27日

古市憲寿の小説第二作『百の夜は跳ねて』の感想ですが、このところ体調不良というかえらくハイな状態が続いており、最後まで落ち着いて読めなかったので頓珍漢なことを言ってるかもしれませんが、そのへんはご容赦を。図書館に返す期限が今日だったのでね。次の予約入ってるし。無理して読みました。


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盗作問題
巻末に参考文献として記されている『天空の絵描きたち』という小説を盗作したとか、「盗作よりもっと巧妙な何かだ」とか芥川賞選考委員から批判されていますが、私は『天空の絵描きたち』を読んでいないので何とも言えません。盗作やパクリについて一般的な私の意見はこちらの記事を参照してください。⇒パクリ、盗作、芸のうち!(『カメラを止めるな!』をめぐって)

『天空の絵描きたち』の作者が「盗作ではない」と言ってるんだから別にいいのでは? ただ、古市から金もらってる可能性もあるし断定できませんが。


物語について
物語についても特に言うことありません。

高層ビルの窓の清掃人が、清掃していたあるビルの老女からいろんな部屋を「記録」してほしいと依頼され、不法行為に手を出すというのはサスペンスとしては面白いけれど、死んでしまった先輩の声とか市議会議員を目指す母親も含めて全体で何を言いたいのかがよくわからなかった。繰り返しますが、私がハイだったために読み取れてないだけかもしれません。どうかご容赦を。

ただ、以下の「新海誠作品との類似性」についてはハイとかそういうことは関係ありません。


固有名詞の頻出
主人公がもっているスマホは「iPhone」である必要がどこにあるんでしょうか。最初のほうのシーンで主人公の目の前の人間が「ファーウェイ」のスマホを云々という描写があったけれど、ファーウェイである必要性はまったくなかったはず。
主人公が仕事にもっていくお茶が「爽健美茶」である必要は?
主人公はいつも「セブンイレブンの93円のコーヒーを飲んでいる」らしいけれども、「セブンイレブン」である必要はあるのか。単に「コンビニ」でいいのでは?
老女から「記録」の依頼を受けて、わざわざ「ヤマダ電機に行き」と書き「GoProのHERO7 Black」というカメラを買う。カメラには疎いので調べてみると、やっぱりGoProのHERO7 Blackは実在する商品。「電器屋で店員に聞き、高いが性能がすごくいいらしいカメラを買った」ぐらいの描写でいいのでは? GoProのHERO7 Blackでないと成立しない話じゃない。

例えば、ブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』では、セレブが愛用する名刺やら化粧品やら洋服やら何でもかんでもとことん徹底的に固有名詞を出して、ある「味」を出していました。私はあの味は苦味以外の何ものでもなかったけれど「味」には違いない。

でもこの『百の夜は跳ねて』で頻出する固有名詞にはそういう「味」を少しも感じませんでした。もっと簡潔に描写しろよ、としか思わなかった。


新海誠作品との類似性
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新海誠監督の新作『天気の子』では新宿歌舞伎町の街並みがかなり忠実に再現されています。

そういえば、前作『君の名は。』でも新宿のヤマダ電機がめちゃ忠実に再現されていましたよね。

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何でここまでする必要があるのでしょうか。アニメなんだから架空の街でいいのでは? 現実を忠実に再現しないとリアリティがなくなると危惧してるのかな。

そんなのは杞憂でしょう。私はこれまで新海誠作品を面白いと思ったことはないけれど、リアリティがないと思ったことはないし、そもそも映画なんてしょせんは2時間の作り話なんだから面白おかしくでっち上げればそれでいいと思う。

『百の夜は跳ねて』もまったく同じ過ちを犯していると思いました。現実世界にあるアイテムをたくさん出せば出すほど白けてしまう。(古市作品にも新海作品にも「ヤマダ電機」が出てくるのが何か不気味)

それは私が脚本家を目指していたからかもしれません。

脚本には固有名詞は書けません。「爽健美茶」と書いてもコカ・コーラとのタイアップが実現できなければ画面に登場させることはできません。音楽でも「主人公がキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いている」と書いて講師から叱られたことがあります。使用する権利を買えるかどうかわからないんだから固有名詞は絶対書くな、と。

だからよけいに反応してしまうだけかもしれません。

新海誠監督は46歳。古市憲寿は34歳。別に世代の問題ではなさそうです。

でも、この同じ時代に世に問うて高い評価を受けている作品が、固有名詞を連打したり、現実と同じ画を描くことでリアリティを獲得しようとしているのが、何となくイヤ~な気がするんですよね。


そこに「必要性」はあるのか
と、ここまで書いてきて、単に私が最近の小説をあまり読んでないからかな、とも思います。他の現代小説には固有名詞が頻出するのでしょうか。

ん? そういえば、漱石や谷崎の小説にも「どこそこの何々」と固有名詞が時折出ていたような……? たぶん、古典作品の固有名詞が気にならないのは私がその時代に生きていないから、知らないからというだけでしょう。

では知っている固有名詞だとなぜイヤ~な気がするのか。よくわかりません。

あ、でも、その固有名詞が出てくる意味、必要性があるならOKです。さっき読み始めた原田ひ香の『DRY』には「カルティエ」「ヴィトン」というブランド名が出てきますがちゃんと意味があるから何とも思いません。

やっぱり何の必要性もなく固有名詞を出すのは、リアリティを演出する姑息な手だと思っちゃうんですよね。


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2019年05月11日

カズオ・イシグロを初めて読みました。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』。長兄から深いぞ読めと強く勧められたもので。しかしいまをときめくノーベル賞作家の代表作が150円とはちょっと異常な安値。それはともかく、この小説の「どんでん返し」には瞠目しました。


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大邸宅で長らく執事を務めていた主人公スティーブンスが、新しい主人のアメリカ人から旅行を勧められ、旅先で過去を回想するのが全体のあらまし。

スティーブンスが何度も語るのが、執事にとっての「品格」とは何か、という問題で、同じく執事だった父親の雇主に対する敬意と、雇主を貶める発言をする輩にどういう態度を取ったかなどが語られます。

また、下僕と女中がデキてしまい突然書き置きだけ残していなくなってしまうというエピソードが何度も語られます。ときによっては執事と女中頭というケースもあり、スティーブンスはそのような人たちに理解を示しつつも、あまりに無責任ではないかと批判的でもあります。

雇主への敬意と同僚の女性とデキてしまうことへの嫌悪。

この二本柱で行けると作者は踏んだのでしょう。
実際、この『日の名残り』は、主人公スティーブンスがだいぶ前に辞めた女中頭ミス・ケントンとの再会がクライマックスになることが読者の誰にも明らかなように書かれています。そこでスティーブンスの胸中に何が湧き起こるか、これも誰の目にも明らかなのですが、その直前に描写されるのが、雇主であるダーリントン卿の身に起こる悲劇。

主人に対する敬意と忠誠心を「品格」の中心に据えて一生を生きてきた執事が、それゆえに主人の悲劇を止められなかった。何という皮肉。

そして、ミス・ケントンからは「ずっとあなたが好きだった」みたいなことを言われ(もちろん、そのような直截的な表現はしませんが)スティーブンスは沈みゆく夕日を眺め、日の名残りに身をゆだねながら涙を流す。

品格を何よりも重んじ、自分の心を押し殺すことを重視して生きてきた男が、結局は主人の本当の姿を見誤り、一番身近にいた女性の気持ち・女性への気持ちに対してあまりに盲目だったことを思い知らされる。

しかし、これで終わりならよくある話でしかないし、なぜ一人称で書かれているのかもわからない。

この物語には痛烈なオチがあって、自分のバカさ加減に泣いたスティーブンスは、後ろ向きになってはいけない、新しいご主人様のために前向きにならねば、と思うのはいいんですが、何とあろうことに、

「いままでの自分は真面目すぎた。もっと冗談を言うのが必要ではないか。ジョークの練習をしてご主人様をびっくりさせよう」

という意味の独白で幕を閉じるんですが、このラスト1ページで悲劇が喜劇に変わってしまうところがこの『日の名残り』の勘所でしょう。

いや、そういう問題じゃないでしょ、と突っ込みたくなるというか、これからはジョークが必要とされている、充分練習しよう。って、そういう真面目さが悲劇を生んだことにこの主人公はまったく気づいていない。
そう、彼は何も学んでいないのです。長年の執事人生のために、主人を喜ばせることしか見えていない。ジョークを蔑視していたのに、その気持ちを押し殺して主人を喜ばせるためにジョークの練習をするという。

まったくお笑い草です。というか、それまでスティーブンスの語りに感情移入し、彼と一緒になって喜怒哀楽を共にしてきた読者が、ラスト1ページで一転、スティーブンスのバカさ加減を笑うしかない、ものすごいどんでん返し。

一人称で書かれていた理由がわかりました。

谷崎潤一郎の傑作中編に『神童』があります。あれも、悲劇街道まっしぐらの主人公が一人称で語るんですが、主人公にとっては少しも悲劇ではなく、これから上昇志向だ! みたいな語りで終わるんですが、それを読んでいる読者は何もわかっていない主人公を笑うしかない構造になっていました。

この『日の名残り』も同様でしょう。いや、『神童』が悲劇でもあり同時に喜劇でもあることを匂わせながら物語を進めていたのに対し、最後の1ページでどんでん返しをやってのけた『日の名残り』のほうが一枚上手なのかもしれません。

カズオ・イシグロの主人公への冷徹きわまりない「目」に感動しました。











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2019年03月31日

昨年末に『戻り川心中』を読んではまってしまった連城ミステリ。先日読んだ『夕萩心中』はどれも乗れないものばかりでしたが、『戻り川心中』に勝るとも劣らない短編集と言われる『宵待草夜情』、大変美味でございました。


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いや、最初はね、『夕萩心中』みたいな感じかな、と思ったんですよ。冒頭の「能師の妻」なんかは『戻り川心中』所収の佳編「桐の柩」と同じトリックだし、続く「野辺の露」、表題作の「宵待草夜情」どちらも好きなタイプの作品ではなかった。

はっきり申し上げて、ここで読むのやめようかと思いました。『戻り川心中』で熱狂したものの、『夕萩心中』が同じ「花葬シリーズ」なのにえらくレベルが違ったということもあり、『戻り川心中』だけの人なのかな、と高をくくってしまいそうになりました。

ところが! ちょいと間を開けて読み進めることにしました。すると……

第四編の「花虐の賦」に完全にやられてしまいました。

このお話は、「後追い自殺」をモチーフとしています。ある劇作家であり演出家でもある男が突然自殺してしまう。彼に名女優として育てられた女が、男の四十九日の法要を済ませた日に自殺する。誰もが「女が死んだ男の後を追って自殺した」と思う。

しかし事態は逆で、男のほうが女の後を追って自殺したんですね。

ええっ!? 先に死んだほうが後追い自殺??? 

ここがこの「花虐の賦」の素晴らしさです。

いや、本当の素晴らしさはそこではない。先に死んだほうが後追いだったというトリックに隠された、その男の狂おしいまでの女を想う気持ちこそが素晴らしい。言ってしまえば「くだらない男のプライド」なんですが、そのくだらなさを、くだらないがゆえに納得してしまう人間という存在の不思議。先に死ぬことで後追い自殺を成立させる男のあまりに手の込んだやり方が「本格ミステリ」と呼ばれる所以なのでしょうが、解説で泡坂妻夫さんがいみじくも言っている通り、「普通なら探偵小説の『小説』よりも『探偵』のほうに重きを置くけれども、連城さんは『探偵』と『小説』の両方を重んじ、どちらをも成立させてしまうところが非凡だ」ということになりましょうか。

決してトリックが素晴らしいのではなく、そのトリックを支える人間という生き物のどうしようもない哀しさが浮かび上がってくるところにこの「花虐の賦」の素晴らしさがあります。

そして最終編「未完の盛装」。

手の込み方ではこちらのほうが断然上でしょう。何しろ15年前の殺人、去年の殺人、さらにそこから第三、第四の殺人が起こる。
15年前の殺人の時効をめぐるサスペンスも読ませるし、時効が成立したところで明らかになるあと三つの殺人。それらが時効を成立させるためのあまりに手の込んだトリックと見せかけて、実は……という内容。

私は実は「本格ミステリ」というのが苦手でして、何かこう、トリックのためにキャラクターが利用されてるような感じが好きになれないんですが、「花虐の賦」もこの「未完の盛装」も手が込みすぎているのにそれを不自然と感じさせない男と女の狂おしいまでの愛憎が浮かび上がってくるのが素晴らしい。

何しろ「未完の盛装」では共犯関係にある男と女が、実は別々の目的で動いていたというだから驚きです。だから「共犯」ではなく一方が一方を騙していたんですけど、なぜ騙さなくてはいけなかったのか、なぜそんな手の込んだことをするのか、というところに理があるから感動するほかない。

手の込んだトリックを弄する作中人物のリアリティが、読んでいる自分に跳ね返ってくる快感があります。もし自分が彼あるいは彼女でも同じことをするかもしれないと思わせられる。

お見事! 途中でやめなくて本当によかったです。


【新装版】宵待草夜情 (ハルキ文庫)
連城三紀彦
角川春樹事務所
2015-05-15





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