聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

ドキュメンタリー

クローズアップ現代もフェイクニュース⁉(日本のドキュメンタリーの悪弊について)

クローズアップ現代プラスで2夜連続の「フェイクニュース」特集はなかなか見ごたえがありました。

トランプが自分に対する批判はすべてフェイクだと突っぱね、支持者はそれを信じてしまう。何が真実かを見極めることなく、信じたいことだけを信じる風潮に警鐘を鳴らすいい特集だと思いました。

日本でもフェイクニュースが罷り通っていて、昨年末にはDeNAがやっていたサイトが閉鎖に追い込まれたりしました。ウソを信じて善意でその情報を拡散してしまう人もいれば、ウソだろうと思いながらも「面白いから」という軽いノリで拡散してしまう人もいる、というのが昨日の内容でした。

ここで大いなる問題がありました。

面白そうだからリツイートした、リツイートしたかどうか憶えてない、という人の証言がただナレーションとして流されるだけなんですね。



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外国人が日本のドキュメンタリー番組を見て一様に驚くのが、インタビューする対象の顔を撮らない、あるいは撮ってもぼかしを入れたりして誰かわからないようにしていることだといいます。「あれでは番組スタッフがサクラとして喋っていても視聴者はわからないではないか。なぜそんなものが『ドキュメンタリー』として放送されているのか」と。

2004年のマイケル・ムーア監督『華氏911』もそんな映画でした。



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ブッシュが小学校の授業を視察に来ていたときに同時多発テロが起こったんですが、そのとき側近からその情報を受けたブッシュが、動かずに何もしなかったと映画は告発します。

でも、本当にその映像が9月11日のテロ発生時のものなのかどうか判然としませんし、ナレーションで「ブッシュは何もしなかった」と言われても見てるこちらは「ほんとにそうなの?」と思うばかり。

別の場面では、ブッシュ一家とオサマ・ビンラディンとのつながりを指摘して「テロはブッシュの自作自演だ」と主張していましたが、それもナレーションによる情報にすぎません。ちゃんと「見える証拠」を示してほしい。いくら政治的主張が正しくても、それだけではすぐれた映画とはなりません。 

昨日のクローズアップ現代では、広告収入ほしさにブログにウソを書いていた人をちゃんと顔を撮って映していました。後半はドキュメンタリーとしてちゃんと成立していましたが、惜しいのは前半に顔出しNGの人を出してしまったこと、そして「証言」をナレーションとして流してしまったことですね。

おそらく悪意はないのでしょうし、ウソでもないと思います。

でも、日本のドキュメンタリーの悪弊のために、習慣的に無意識的にしてしまったのでしょう。

しかし、いや、だからこそ、非常に危うい。
無意識的にやったことでも、「昨日のクローズアップ現代こそフェイクだ」との謗りは免れません。

フレデリック・ワイズマンのように顔出しできない人には最初からインタビューするべきでないと思います。




『ホームレス理事長』(「きれいごと」が大好きな世間へ)

すぐれたドキュメンタリーを連発することで知られる東海テレビが製作した『ホームレス理事長 ~退学球児再生計画~』を日本映画専門チャンネルで見ました。


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この作品は、三つの面から「きれいごと」という見えない圧力についての映画だと思いました。どういうことか。
内容をおさらいするところから始めてみましょう。


内容
問題を起こして退学処分になった球児たちに再チャレンジの場を与えたいということで2010年に設立されたNPO法人に焦点が当てられています。

金策に走り回る理事長のお話と、甲子園にも行ったことがありながら2002年に体罰で野球界を追放された監督と子どもたちの触れ合いの物語の二本柱で構成されていますが、根本にあるのは「たった一度の過ちですべてが終わってしまういまの日本の社会への異議申し立てをしたい」という理事長の純粋な思いです。

NPO立ち上げ当初は安アパートで電気・ガス・水道全部止められてバナナを晩ご飯に食べていた理事長ですが、家賃滞納のために追い出され、ネットカフェでの生活を余儀なくされます。自分の生活を捨ててでも子どもたちのため、子どもたちのために働く職員たちのためにお金を使う。

そんな理事長の価値観がよく出ているのが、ファーストシーンをはじめ何度も出てくる、ネットカフェでのオセロゲーム。
理事長は独特の考え方でオセロをやります。普通なら角を取れば勝ちに近づくと考えますが、理事長はあえて角を取らせる。角を取られても総枚数が上なら勝ち。肉を切らせて骨を断つに近いでしょうか。

世間への異議申し立てをする人はオセロでも異議申し立てのごとく人とは真逆のやり方で遊ぶ。人間の考え方はそういう些細なところにも如実に滲み出るからとても面白い。

そんな理事長は監督から「愛すべきアホ」と評されるんですが、ここにすべてが集約されているというか、金策にばかり走り回る理事長を監督が批判したり、給料未払いが原因でコーチが辞めると言い出したり、挙句の果てには理事長自身のわがままのために監督がクビになったりするんですが、結局、みんな戻ってくる。純粋な理事長と理事長の理念の賜物である学校を守りたいんでしょうね。

最後に、球児たちのインタビューがあって、

「野球がなかったら…。何かわからん。何か楽しい」

と言って恥ずかしそうに笑う子がいるんですが、あの笑顔こそ、あの学校が教育機関としてうまく行っている何よりの証拠ですね。


ドキュメンタリーの「ルール」?
ただ、世の中、理想だけでは飯は食えないわけで、理事長が金策に走り回った末にとんでもない行動に出ます。


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何と番組ディレクターに向かって「お金貸してください」というんですね。

ここでディレクターは「貸してしまうと私たちの関係性が壊れるから。それがドキュメンタリーのルールなので」みたいなことを言って拒否するんですが、これに私は納得がいかない。

だって、東海テレビはこの理事長の活動に共鳴しているから取材しているんじゃないの? 共鳴しているんなら泣いて土下座する相手に拒否するというのは矛盾しています。これは倫理的な観点からの疑問。

仮に共鳴しておらず、ホームレスになってまで子どもたちのために走り回る理事長を少し突き放して見つめる番組を作りたかっただけで、体罰で追放処分を食らった人を雇っていることへ批判的に接したかったのかもしれませんが、それならそれで、お金を貸して関係性を壊してしまったほうがよっぽど作品が面白くなったと思うんですよ。これは純粋に作品づくりの観点からの疑問。そもそも作品づくりに「ルール」なんてないのでは?

とはいえ、「関係性を壊したくない」というのは方便というか、ほとんど世間からの見えない抑圧がそう言わせたと思うんですよね。

貸したら貸したでその場面は撮って見せないといけないわけで、そうなると世間からの批判があるだろう、だからそれはちょっと…ということだと思うんですよ。

ここで貸したほうがよっぽどこのドキュメンタリーが面白い方向へ転がるんじゃないか、という色気は作者たちにもあったはずです。

でも、「きれいごと」が大好きな世間の目を考えると断らざるをえなかった。


フジテレビがカットした場面
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この監督さんが劇中でビンタを連発する場面があります。(フジテレビはこの場面をカットして放送したそうです)
体罰が原因で追放処分になったのにまた殴った。前夜に両親ともめて手首を切った子どもを殴ったんですが、私はこの監督が間違ってるなんて少しも思いません。監督も自殺を考えたことがあるそうですが、私も両親ともめて手首を切ったことがあります。

私自身はあのとき両親を試そうとかそんなつもりはなく、ただただ絶望して切っただけでしたが、あのときの両親の気持ちを考えると「殴られてもしょうがない」といまでは思います。

いまは「体罰があった」それだけで非難が集中し、殴った教師が左遷されたり解雇されたりしますが、それでいいの? そりゃ殴ったほうが悪い場合もあろうけれど、殴られるほうが悪い場合だってある。どういう原因で体罰が行われたかを少しも考慮せず、ただ一方的に殴ったほうを断罪して終わり。それでは何の解決にもならないし、何より子どもたちに悪影響を及ぼすと思います。

だから、この監督さんが自殺を考えるほど世間から叩かれたことと、ビンタの場面がカットされたこと、番組ディレクターが金を無心する理事長を拒否したことは、この三つはすべて通底していると思うんです。

「きれいごと」という見えない圧力

この魔物とどう闘うか。
東海テレビさんには闘える力があると思うんですが、どうでしょうか。

 
 

終わらない人・宮崎駿、資本主義への抵抗

先日放送されたNHKスペシャル『終わらない人・宮崎駿』を再放送で見ていたく感銘を受けました。


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ドワンゴの会長が人工知能が描いたアニメーションをプレゼンするシーンがありました。

障碍者の友人がいる宮崎駿はあれを「生命に対する侮辱としか思えない」と一刀両断しましたが、その是非はどうでもいいことです。「ゾンビゲームに使えるんじゃないか」とドワンゴ会長は言ってるわけだし、それならそれでいいんじゃないの、と。でも這いずり回ることしかできない友人がいたら同じ感想をもつかもしれません。

それよりも、同席していた鈴木敏夫プロデューサーの「あなた方はどこへたどり着きたいんですか」という質問に対し、ドワンゴのスタッフたちが放った次の一言を問題視したい。

「人間が描くのと同じように描く機械を作りたい」

要はロボットがほしいんですよね。

宮崎駿だってCGを使って毛虫の短編アニメを作ろうとしてるんだし同じじゃないか、という声が聞こえてきそうですが、違います。

宮崎駿は「人間には描けないものをコンピュータなら描けるんじゃないか」という可能性を試してるんですよ。「人間が描くのと同じように描く」のとは雲泥の差です。

例えば、スペイン・バルセロナのサグラダファミリア。
あれって、ちょっと前までは完成までまだ150年か200年くらいかかるといわれてましたが、3Dプリンタ技術のおかげであと15年ぐらいで完成するとか。すごい!

それって、いまこの世に生きてる人が絶対見れないと思われていたサグラダファミリアの完成形を見れるということであって、人間には不可能と思われることを機械が実現してくれたこと自体は素晴らしいことなわけです。

だから、「人間が描けないものを機械に描いてもらう」のは少しも悪いことではありません。

でも、「人間と同じように描く機械」となると話は別です。



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ちょっと前に、内田樹先生の『マルクスの心を聴く旅』という本を読みました。資本主義とは何かを解き明かしそれを超克しようとしたマルクスの思想をみんな読もうよ、という趣旨の本『若者よ、マルクスを読もう』の第3弾というか番外編なんですけど、ここで内田先生はいつもと同じことですが、こんなような意味のことを語っていました。

「資本主義というのは人間の身体性を忘れるのが基本なんですね。資本主義の勃興期には1日に16時間も18時間も働かされた。でもそれでは死んでしまう。人間という生身の体には『食べる』『休む』というのが必要。限界があるんです。でも資本家は限界がないほうが儲かる。労働運動とはそういう生身の限界をめぐる闘争だったと思うんです」

宮崎駿は番組の中で何度も言っていました。

「ぼちぼち行こうよ」

かなりの高齢者になってしまったから若いころのようにはできない。「老い」という限界。その先にある「死」。

人間はいつか必ず死ぬ。でも機械は死なない。もし壊れて使い物にならなくなってもいくらでも代わりがいる。ドワンゴがほしいのはそういう無限機関のようなシステムなのでしょう。

私がこの番組で大問題だと思ったのは、人工知能じゃなくて人間を食い物にする資本主義というシステムのほうです。

宮崎駿が鈴木Pに長編の企画書を見せたら、「でも宮さんが絵コンテ描いたところで死んじゃったら…映画は大ヒットしますよ」。この一言はいくら冗談とはいえ非常に不快きわまりなかったですが、ここにも資本主義の悪魔が潜んでいる気がします。人の死さえも食い物にして金銭を奪い取るシステム。

しかし本当に死んでしまったら…

宮崎駿の代わりはいません。

番組の最後で、CGスタッフが作った映像がすごすぎて逆に闘志が湧いた宮崎駿が映し出されます。

「機械なんかに負けてられないよ」

人間には描けないものを代わりに機械に描いてもらおうとしていた宮崎駿が、ついに「機械には絶対描けないもの」を描こうと奮闘する、というところで番組は終わります。

感動しました。



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