聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

文化・芸術

ツイッターが苦手な理由

こうやってブログをやっていますが、ツイッターもやってまして、まぁあっちはブログの拡散用に始めただけなんですけど、やってみると面白いので楽しんでやっています。

とはいえ、ツイッターは苦手なんです。どうにも140文字以内で書かなければいけないというのが、ね。

ブログは字数制限がないからいいのかな、でもあまり長くなったら嫌がられるのでは、と思って最近はだいぶ書いてからだいぶ削除して投稿してるんですがね。

何で字数制限があるほうが苦手なのかな、と考えるに、おそらく「言葉を操ろう」としているからだ、という結論に至りました。

え、ブログだって言葉を操って書いてるんじゃないの? という声が聞こえてきそうですが、決してそうではありません。

例えばシナリオを書く場合、作者が登場人物を操ってはいけないのです。登場人物が作者である自分自身を操るように仕向けなければいけない。操られることに快感を感じないと生きた人物は描けません。

これは映画の感想とか単なる意見を綴るときも一緒で、言葉が自分自身を操らないと面白い文章になりません。他人様が面白いと思うかどうかなんてわからないけれど、少なくとも自分で読み返して面白いと思える文章は、言葉に操られないかぎり書けないのです。

斉藤和義の名曲『歌うたいのバラッド』の冒頭は、こんな歌詞になっています。

嗚呼、歌うことは難しいことじゃない
ただ声に身を任せ、頭の中をからっぽにするだけ

まず、言葉が口をついて出て、その出た言葉に身をゆだねればあとは自然に・・・というものなのです。

頭で考えてはいけません。

『小説家を見つけたら』という映画がありました。あれで小説家役のショーン・コネリーが言っていました。

「初稿はハートで書け。リライトには頭を使え」

逆にいうと、リライトの段階に至らないかぎり頭は使わないのです。
喋るときに「自分が口を動かして言葉を喋って」ないでしょ? 言葉が口を動かしているという感覚のはずです。誰だって。なのに、書くときになるとみんな構えてしまって(つまり頭で考えてしまって)順逆を間違えてしまうんですね。

と、以上のようなことがわかっていながら、ツイッターでは言葉を操ろうとしてしまうのですね。短いほうが頭使うじゃないですか。俳句とか川柳を考えるときってものすごく知恵絞らないと書けないですもの。

「ツイッターよりもブログのほうが本領ですね」と知り合いから言われたことがありますが、おそらく、言葉を操るのが好きじゃないのです。というか、言葉に操られるのが好きでたまらないのでしょう。

本を読んでいるときだって、「私が文章を読んでいる」のではなく、「文章が私を導いてくれている」という感覚ですから。

でも、ツイッターで文章を綴るときは、自分を客体に置く、という芸当ができない。だから逆にそういう芸当ができる人、短い文章で鋭く物事の本質をついてしまえる人を尊敬しているのです。


福田恆在『人間・この劇的なるもの』(劇・死・花)



福田恆在さんの『人間・この劇的なるもの』読了。
いやはやとにかく素晴らしい読書体験でした。


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私ごときが偉大な先人の偉大な思想を論評するなんてもってのほか。

だから、この本のどういうフレーズにグッと来たか、そこだけを書き記したいと思います。(言葉通りではありません。主観的な採録ですのであしからず)


「個性などというものを容易に信用してはならない。そんなものは自分が演じたい『役割』にすぎぬ」

「死によって生は完結する。死によってしか完結しえない」

「古代の人々が祭儀に託したのは、生きながら死を経験することだったのではないか。祭儀は自らの生を燃えあがらせるためにあったのではないか」

「演劇は祭儀でなければならない。劇作家は祭祀であり、主人公もまた祭祀でなければならない」

「劇は究極において宗教的なものであった。その本質は今日もなお失われてはならぬ」

「自由ということ、そのことに間違いがあるのではないか。自由とはしょせん奴隷の思想ではないのか」

「自然は厳しい『形式』をもっている。太陽や月の運行によって私たちは生かされている。だから形式を否定する自由というものはそもそも間違っている。私たちは形式によって初めて人生全体と交合できる。初めて『生きている』と言えるのではないか」


シェイクスピア研究や自ら劇作に励むなかで、人生を演劇として見つめる独特の人生観、人間観が展開されています。

自然という「形式」の枠組みの中で生を謳歌するのが本当の人生だ、と。決して自由になってはならない。自由は個人主義の限界をあらわにするだけだ、形式こそ「全体」へと至る道である、みたいなことも書かれています。

福田恆在さんの言う「全体」とは、宗教や祭儀という言葉から察するに、おそらく「神」ということなんでしょうね。そんなワードはひとつも出てきませんが。

そして、私が一番グッと来たフレーズは、以下のもの。

「我々は博物学でも博物学者でもなく、生きた『花』を求めているはずだ」

本書でもちらっと触れられる世阿弥の『風姿花伝』の一節、

「鬼しか演じられないのはその程度の役者。花を演じられてこそ本当の役者」

を思い出しました。




オオカミをめぐる宗教試論(犬の誕生)



人は誰でも、『ブレードランナー』のレプリカントたちと同じ欲求をもっています。
クライマックスで、死にゆくルトガー・ハウアーを見つめながら語られるハリソン・フォードのあの素晴らしいナレーション「彼は自分のことを知りたがった。どこから来て、どこへ行くのか。人間も同じなのだ」に感動しない人間を私は容易には信用しません。

それはともかく、なぜか理由はわかりませんが、昨日仕事中に「狼の語源は『大神』だった」という何かの本で読んだ知識を思い出しまして。

それからつらつらいろんなことが頭の中を駆け巡り、古代の人間がなぜ狼を飼い馴らして犬を生み出したのかがわかったような気がしました。


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狼が大神、つまり神様だったというのは日本だけなのか東洋全体のことなのかはよく知りません。ただ、西洋では狼は恐れるべき存在であり、駆除せねばならない対象だったのと違い、日本では田畑を荒らす鹿などを食ってくれる「益獣」と思われていたそうで、それで神様として崇められていたんだとか。

私は「歴史」というものにもともと関心があるほうですが、特に古代に執着しています。なぜなら、そこに人間の無意識を読み込むことができるから。近代以降の文学は、「意識」というものがあることを知った人間が書いているから、それらをいくら読んでも「人間の本当の姿=無意識」に触れることはできないと思っています。

古代の神話や伝説を読んでこそ人間の本当の姿がわかる。だから21世紀以降の文学や映画だって、「神話」でなければならない。神話的エネルギーに満ちた物語を読みたい/見たい。

それは「どこから来て、どこへ行くのか、自分のことを知りたがった」哀しいレプリカントたちとまったく同じ欲求といっていいでしょう。


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聖書や古事記には人類創世や国造りの神話が語られていますが、どこの神話でも「神が世界やこの国を造った」ということになっています。

私自身は「神」の存在を信じていますが、キリスト教やイスラム教みたいに人間と同じ姿の神様がいるなんて少しも信じていません。骨の髄まで日本人なので八百万の神々を信じているだけ。

しかし信じているといっても、やはり、神が人を造ったのではなく、神が降臨してこの国を治めるようになったのでもなく、「人が神を造った、この国を治めるための口実として神を利用している」というのが真実である、という醒めた思いもあります。

誰もがそう思いながらも、心のどこかで神頼みをしてしまう。

だから、この全宇宙を見渡している超越的存在が我々を造ったという転倒した論理を編み出さねばならなかったのでしょう。


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だから犬が誕生したんじゃないか、というのが私の考えです。

大神の「大」とは「聖なる」という意味だそうですが、ともかく、神である狼を飼い馴らす。それは、神が人間を造り、神が命令して人間がそれに従うという転倒した論理をさらに引っくり返そうという古代人のもがきだったんじゃないか。

神を飼い馴らし、家畜化して自分たちの子分にする。

神が人間を造ったというフィクションを必要としながら、それを否定したい哀しい葛藤を感じます。

西洋では狼は神ではなかったというのは先述したとおりですが、人間を上回る力をもった超越的存在という点では一緒でしょう。まぁこのへんはかなり牽強付会の感を否めませんが。

とりあえず、神話や宗教に並々ならぬ関心をもつ私がなぜ犬好きなのかはわかった気がしました。



清水富美加出家で「宗教」を考える③(芸能界という教会からの逃走)

清水富美加出家引退騒動で「宗教」について考える日記第3弾。

前回までの記事
①「とりあえずビール」だって宗教です! 
②ドナルド・トランプ=大川隆法 

今回はいろんな人が清水富美加を批判していますが、その代表格としてこの人を。いま最も嫌いな人間といっても過言ではない宮根誠司。


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別にこの人だけじゃなく大概の人が「無責任だ」「ただの仕事放棄だ」という正論をぶってますが、常々「正論」を疑うことを是としている私はどうにも胡散臭いものを感じてしまうのです。

だって、本人は自殺未遂を図るぐらい事務所から押し付けられた仕事がいやだったのでしょう? 

ちょっと前に電通社員が過労のあまり自殺した事件がありましたが、あの女性に対して「仕事なんだからしんどいのは当然。プロ意識がない」という主旨の発言をした人がいたとか。文字通り死者に鞭打っていると思いますが、清水富美加への宮根誠司をはじめとする「識者」の正論はそれとほとんど変わらないと思います。

月給5万円だったということについても、
「芸能界とはそういうところだ」
「みんなそういう時期を乗り越えてきた」
それは少しも間違っていないのでしょうけど、結局それって「ゲーノーカイ教」という宗教ですよね? 「宗教」といって悪ければ「イデオロギー」です。「幻想」です。みんながそう信じていることにすぎません。

芸能界だけでなく、広く社会一般の常識として「突然仕事を辞めるなど大人のすることではない」とされています。私もそういう常識をもっていますが、それだって「イデオロギー」です。みんなが同じ「幻想」を共有しているから「常識」とされているだけであって、「事実」ではありません。



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彼女の場合、親が幸福の科学の熱心な信者だったらしく、「自分で選んだものじゃないからダメだ」という論調も支配的です。

では、逆に自分の意思で選んだのであればOKなんですか? であるならば「幸福の科学はインチキだ、まやかしだ」とは言えなくなってしまいますよ。

昨日の『ワイドナショー』で、社会学者の古市憲寿が「結局、芸能事務所を移ったってだけの話なんですか?」と鋭い質問をしていました。清水富美加は人肉を食べたり水着を着て男の性欲の対象になるのをやめて、「人を幸せにする仕事をしたい」と幸福の科学が製作する映画に出演するというニュースを受けての素朴な疑問でした。

この疑問に対し、MCの東野をはじめ出演者がほんの一瞬だけ黙り込みました。あの一瞬の沈黙がすべての答えでしょう。

清水富美加は「芸能界という教会」から幸福の科学に乗り換えただけです。

二つの神の狭間で引き裂かれそうになり自殺未遂までした女の子が安寧を求めて片方を捨てただけの話。捨てるためにはゲリラ的に辞めるしかなかった。もし正当な手続きで辞めようとしても妨害されたでしょう。それは指原莉乃も指摘していました。

日本人は無宗教とよく言われ、我々自身がそう思い込んでいますが、無宗教の人間などいませんし、この騒動を宗教問題ではなくただの「職場問題」に矮小化してしまっているのはよくないと思います。

「はじめに言葉ありき」
言葉をもってしまった人間は何かを信仰しなければ生きていけません。人間にとって「客観的な事実」など存在しません。人間にあるのは「主観的な事実」、つまり「幻想=宗教」だけです。

「神なんか絶対信じない」という青木雄二のような筋金入りの無神論者は「無神論という宗教」を信じているのですから。

おわり


 

清水富美加出家で「宗教」を考える②(ドナルド・トランプ=大川隆法)

昨日の 「とりあえずビールだって「宗教」です!) に続く、清水富美加引退騒動をきっかけに宗教について考える日記第2弾。

「運転免許」も「スマホ」も「神」で、「とりあえずビール」も「宗教」といいました。


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例えば、以前面接で、「なぜ運転免許をもってないんですか?」と聞かれました。求人票には「資格不要」とあったのに聞かれました。「仕事とは関係ありません。なぜもってないのかを聞きたいんです」というから、「なぜといわれましても…まったく興味がありませんので」と答えると、「なぜ興味がないんですか?」と聞いてくる。

まるで、成人した人間は車に興味をもち、運転免許をもっているのが人として当然のような言い方。いまの若者は車に関心のない人が多いらしいですが、ある世代以上の人は「18歳になったら運転免許を取る」のが人間として「正しい」らしい。

若者からするとガラケーしかもってない私のような人間は「とっても変」らしいんです。それだけでダメ人間の烙印を押されたこともありました。

居酒屋に行っていきなりジュースを頼むと「空気読めよ!」的な文句が飛んでくる。だから酒が大嫌いな私はシューハイやカクテルを飲みます。「とりあえずビール」というか「まず最初はアルコールを頼む」というのが人間としてのあるべき姿とか。へぇ~~~。

でも、それってほとんど「宗教」ですよね? それが言いすぎならば「イデオロギー」といえばわかりやすいでしょうか。

運転免許をもってない者はダメ人間である、というのは決して「事実」ではなく「人々がそう思い込んでいること」にすぎません。すなわち「イデオロギー」です。

そして「イデオロギー」とは「妄想」です。「宗教」とは「妄想」のことです。「神」は妄想の産物であり、妄想にすがりつかないと生きていけないのが人間という生き物の哀しい性です。

あれはヨハネの福音書でしたっけ。「初めに言葉ありき」と。言葉をもってしまった人間は妄想の末に「神」というフィクションを生み出し、自ら生み出したフィクションに命令されるという形で社会を秩序立てることに成功しました。

そのような、人間が人間らしく生きるための方便としてキリスト教やイスラム教、仏教などの宗教は活用されました。だから「古来の宗教ならまだいいけど新興宗教なんてもってのほか」となるのでしょう。古来の宗教が「由緒正し」く感じられるのは、ひとえに「人間社会への貢献度が大」だからです。新興宗教はやはり古来の宗教に比べて社会構成への貢献度が低いため、「信者から金を巻き上げている」という声が上がるのでしょう。

でも、ここで気をつけたいのは、事実かどうか確かめもせずに「新興宗教はインチキだ、まやかしだ」と叫ぶのもまた「イデオロギー」であり、すなわち「宗教」だということです。

だからこの世は「イデオロギー=宗教」で溢れ返っています。




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メディアが流す不利な情報をすべて「フェイクニュース」だと切り捨てるこのお人は、「事実」を「イデオロギー=宗教」にすり替えようとしています。

この人の言動はほとんどアホの放言ですが、アホと切り捨てるには不気味すぎます。おそらくその理由は、「妄想」を「事実」として社会を秩序立ててきた古来の人間社会のあり方とは真逆のベクトルをもっているからだと思います。「事実」を「妄想」にすり替えて自分の立つ地盤を強固にしようとしている。

この男の言動に吐き気を催す人は、「新興宗教なんてもってのほか」と思い込んでいる人とおそらく心理構造は同じです。(私自身がそうです)

トランプは新興宗教の教祖になろうとしている。〇〇教とは言わないだけの話でね。だから大川隆法とトランプはおそらく同型の人物です。ただ、「宗教法人のトップ」か「世界一超大国のトップ」かという違いがあるだけ。

ここで再度気をつけないといけないのは、トランプこそフェイクだというのもまた、事実確認を怠っているかぎりは「フェイク=宗教」だということです。

深淵を覗きこむとき深淵もまたこちらを覗きこんでいるし、怪物と戦うときに気をつけねばならないのは自分自身が怪物になってしまわないこと。

この話はまだ続きます。
次はおそらくこの人が主人公となるでしょう。 


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清水富美加は「せっかく成功した芸能界を捨てて宗教に走った」といわれていますが、はたして本当にそうなのでしょうか?

続き
③芸能界という「教会」からの逃走





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