文化・芸術

2019年04月02日

昨日昼前に新元号が「令和」と発表されました。

何でも、新元号関連のツイートが450万もあったらしく、そのせいなのか休憩時間に覗こうとしてもアクセスできませんでした。

さて、今回の改元で、またぞろ「新元号なんか興味ない」などという人をたくさん見かけましたが、私に言わせれば「カッコつけているだけ」。斜に構えている自分に酔っているだけだと思う。普通の日本人なら興味あるでしょう。

というか、「元号不要論」がまた幅を利かせてきました。役所である外務省が、これからは元号を使わず西暦で行くとか。まぁ外務省は外国が相手だからそれは致し方ない。しかしながら、外国と一口に言っても西暦を使っているところばかりじゃない。イスラム歴の国と文書を交わすときはどうするんだろう(これまでどうしてきたんだろう)という素朴な疑問が湧きます。

元号がないほうが計算をしやすいという利点があるのはわかりますし、コンピュータで何でも処理するようになった現在、改元の度にシステムを変えるのはいろいろと面倒だし金もかかる。

だから元号不要論があるのは理解できます。理解できますが、私は元号はあったほうがいいと思います。

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(平成の画像を使ったのは、単に菅が嫌いだから)

改元という「フィクション」
西暦にしろ和暦にしろ、時間的な区切りというのは「フィクション」にすぎません。

動物を見ればわかります。彼らは日付とか曜日に関係なく生きています。大晦日から元日になる瞬間に何らかの感慨を抱くなどということがありません。世紀末に不安になったり、新世紀を迎えて祝ったり、そんなことをするのは人間だけです。人間にはフィクションが必要なのです。

古来、元号というフィクションに一番求められたのは、「気分を変える」というものでした。飢饉や災害でしょっちゅう改元されていました。暗い時代といまとの間に「結界」を張ったわけですね。

いまは一世一元になりましたが、明治、大正、昭和、平成、ときて、令和。まだ「れいわ」という音の響きと「令和」の字面に馴染めませんが、そのうちに馴れるでしょう。平成だって最初は「ダッセー! 昭和のほうがかっこいい」と思ってましたから。

俗に「景気は気から」と言われますが、改元をきっかけに好景気になるかもしれません。人間は気分で生きているのだから充分ありえることです。


フィクションから意味が生じる
1990年だから平成2年ですか、キネ旬で「80年代ベストテン」という特集がありました。選者の一人である大久保賢一氏が、日本映画界の80年代に関してこんなコメントを寄せていました。

「1980年から1989年までの10年間という区切りには何の意味もない。あえて意味を見出だすなら、それは『ツィゴイネルワイゼン』から『どついたるねん』に至る荒戸源次郎の10年ということになる」

意味がないと言いながら自分で意味を言っちゃってますね。

そうなんですよ。確かに1980年代という区切りには何の意味もありません。フィクションにすぎないのだから。しかし、いったん区切ってしまえば何らかの意味を読み取ってしまうのが人間という生き物の性です。

意味があるから区切るのではありません。
区切るから意味が生じるのです。

意味が生じるということは、その区切られた時代に思い出が生まれるということ。

「80年代」「90年代」「2000年代」「2010年代」「2020年代」という区切りと、「昭和」「平成」「令和」という区切り。

西暦と和暦の両方使えば、人生は豊かになります。

だって、我が身を振り返る回数が増えるのだから。今年2019年は平静を総括し、来年は2010年代を総括する。総括とは反省のこと。反省すればより良い明日がやってくる。

元号が絶対必要だというわけではありません。そのほうがより良い人生が遅れるんじゃないかと申し上げる次第。

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2019年01月26日

さっき気になるツイートを見かけました。 確かにおっしゃる通り、と言いたいところですが、本当にそうでしょうか?


両方大事の哲学
私は、創作にかぎらず「○○よりも××が大事」という考え方が好きではありません。

小学4年生のときの担任O先生が、肝臓がいかに大切な臓器であるかを説明するときにこんなことを言いました。

「肝臓は心臓よりも大事なんですよ」

いやいや、心臓がなかったらすぐ死んでしまうじゃないか! それぐらい肝臓が大事だという気持ちはわからないでもないけれど。

それと同じで、脚本の書き方を学ぶことより脚本そのものを読むことのほうが大事という意見に私は与することができません。

高校1年のときの哲学(倫理)の担任だったI先生は、プラトンやアリストテレスを読む暇があったら『北斗の拳』を読め、それで哲学は全部わかるという変な教師でしたが、あの先生の信条は、

「両方大事」

というものでした。

有名な話があります。
「100匹の羊がいて、そのうちの1匹がいなくなった。その1匹を犠牲にして残りの99匹を守るのが政治家の仕事。99匹を犠牲にしてでもいなくなった1匹を探し求めるのが芸術家の仕事」
というアレ。

アレをI先生は一刀両断にしました。政治家であろうと芸術家であろうと、99匹を守りながら1匹を探すべき。両方大事、すべて大事なんだと。

よく脚本家がいかにシナリオが大事かを言うために、

「いいシナリオから悪い映画ができる場合もあるが、悪いシナリオからいい映画ができることはない」

という言葉を引き合いに出しますけど、シナリオが大事というのはこの言葉の表の意味だけですよね。裏には「演出や演技、撮影、編集などシナリオ以外のすべてがいい仕事をしないといい映画はできない」という意味が隠されているのに。

だから「両方大事(すべて大事)の哲学」はこの世のすべてのことに応用すべき真理だと思うのです。


落書きのすすめ
脚本そのものを読むことが大事であることは論を俟ちませんが、その前にまず書くことが大事なんじゃないでしょうか。

絵を例にとれば簡単です。誰も幼い頃に絵の描き方なんか学ばないし、名作絵画を見ることすらしません。まず落書きをします。それから描き方の勉強をする。そうすれば、描けない線の描き方がわかる。出せない色の出し方がわかる。

まず最初に2、3本書く。そうすると「こういうときどう書けばいいのか」「どうすればもっと面白くなるのか」という疑問が湧く。その疑問さえもてれば、名作脚本を読まずに書き方の本を読んでもいいと思います。そのあとで名作脚本を読んでもいいのでは?

だって、読むのだって書き方の勉強の一部でしょ?

もしかすると、最近の脚本家志望者は名作脚本を読まないから、もっと読めと言いたいのか。

でも、読むことは書き方の勉強の一部なんだから、まったく書かずにいきなり読んだってわからないでしょう。少なくとも私は、生まれて初めて脚本を読んだときまったくわかりませんでした。面白いのかどうかさえ。

だから、まず最初に書く、という順番さえ守れば、

「書くことと読むことの両方大事」
「読むことと書き方を勉強することの両方大事」


というのが私の結論です。
どちらかがより大事、どれかひとつが一番大事なんてありえません。




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2019年01月09日

伊藤洋司という映画批評家による『映画時評集成2004-2016』という本を読みました。

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蓮實重彦に多大な影響を受けた人らしい批評ばかりですが、蓮實のようにこちらを刺激してくれる言葉はあまりありませんでした。でも言いたいのはこの本の感想ではなく、この著者もまた「作家」と「批評家」を対立概念として捉えているんだな、ということ。


創作=批評
よく、このブログで映画の感想を書いていると、脚本家志望者が批評をするのはいかがなものか、みたいなことを言ってくる人がいます。

なぜ???

多くの人が「創作」と「批評」を対立概念として捉えてるんですよね。でもそれは違うと思う。両者は「いい作品が増え、悪い作品を駆逐する」というゴールが同じという意味において、共闘関係にあると昔から私は思っています。ただやっていることが実際に作るか、作られたものを批評するかの違いだけ。

以前、こんな日記を書きました。→「作家と批評家の違いについて」

違いについて書いただけです。どちらがすぐれているとか劣っているとか、そんなことは書いてませんし、思ってもいません。共闘関係なのだから。目指しているゴールは同じなのだから。

だから、脚本家が批評してもいいと思うし、監督が批評してもいいと思う。

そもそもの前提として「創作=批評」ですよね?


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脚本家の荒井晴彦さんがよく言っているのが「創作というのは批評なんだ」ということ。ハワード・ホークスが『真昼の決闘』への批評として『リオ・ブラボー』を作ったのは有名な話。

同じ脚本家の高橋洋さんも名著『映画の魔』で似たようなことを言っていました。

「真の映画製作は、なぜこうではいけなかったのか、という既存の映画製作システムを疑うところから始まる」

みたいな意味のことが書かれてました。疑うというのは批評的な目をもつということでしょう。


批評家は作家になれなかった人たち?
荒井さんはもう30年ぐらい前から「映画芸術」の編集長として批評活動をしています。盟友の澤井信一郎監督から「あれは敵を作ってるからやめたほうがいい」と忠告されたこともあるとか。そりゃま、舌鋒鋭く批判するからされたほうからすれば「敵」に見えるのかもしれないけど、根っこにあるのは映画への愛情だろうからそれは誤解だと思う。

というか、批評と創作は対立するものだと捉えているからそういう誤解が生ずるんじゃないですか? もっと言えば、批評する者を一段低い者として捉えている。「批評家は実作者になれなかった二流の人間の集まりだ」とは山城新伍の下品きわまりない言葉ですが、同じように考えている作家はたくさんいるのでしょう。

これには批評家のほうにも問題があって、どうも彼ら自身が「自分たちは作家よりも下等」と思っている節がある。

『映画時評集成2004-2016』の伊藤洋司さんも、巻末の青山真治監督との対談で、自分が好きな映画を青山さんも挙げているのがとてもうれしいと言って持ち上げている。作家と同じ価値観を共有できているのがあたかもひとつのステータスでもあるかのように。
作家の仕事が立派なのと同じく批評も立派な仕事だ! と気炎を上げた田山力哉さんのような批評家がいなくなって久しい。

逆に青山さんや黒沢清監督は自分たちより批評家が一段低いとは思っていないはずですよ。思っていたら蓮實重彦から多大な影響を受けたなんて口が裂けても言えないでしょう。


批評は批評家だけのものなの?
そういえば、『映画時評集成2004-2016』の映画本に関する文章の中で気になることが書いてありました。

刺激的な映画本がなく、批評家の言説が機能していないという文脈で、ブログやツイッターの素人批評家のレビューがその代りをしている、それでいいのか、みたいな意味のこと。

うーん、何かエリート意識丸出しというか、素人批評家の文章にもいいものはたくさんあると思うし、別にそれを読んで映画館に足を運んだり、なるほどと思ったっていいじゃないですか。

どうもこの伊藤洋司という人は、「批評はプロの批評家の砦」みたいに思っていて、その砦は自分たち批評家が守らなくては、と思っているらしい。

いやいや、そうではなくて、「映画」という砦を守るために作家と批評家とブロガーやツイッタラーが共闘していくというのがあるべき姿じゃないんですかね?

映画の中で「創作」と「批評」を分けるからおかしなことになる。分けるから「青山真治という映画監督が過去10年で最もすぐれた批評家ではないか。でもそれでいいのか」という言葉が出てくる。何ゆえにそれでいけないのか少しも理解できない。

両者を分けなかったヌーベルバーグの連中は作家になったし、作家になったあとも批評活動してましたよね。大島渚だって助監督時代からものすごい批評を書いていた。あれが健全な姿だと思うのです。


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作家と批評家のどちらがすぐれているわけでも劣っているわけでもない。お互いがお互いにいい刺激を与えればそれでいいと思う。

たぶん、伊藤洋司という人の「最近の映画批評家の仕事に芳しいものがない」という危惧(これが的を射ているのかどうか、ろくに映画本を読まない私にはわからないけれど)は単に考え方の問題ではないんですかね? 日本の批評家ってみんなヌーベルバーグが大好きなのに、彼らのように「遊撃」することがないですよね。そこが根本的な問題ではないかと思った次第です。


映画時評集成 2004-2016
伊藤 洋司
読書人
2017-11-15





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