文化・芸術

2020年05月22日

前回の記事
小説を書き始めました(二作目)

20年前に思いついたは小説。ちょっと前まで超繁忙期だったのでなかなか本腰を入れられなかったんですが、最近は結構しこしこと書いております。

というのも、繁忙期が過ぎ去ったのもありますが、コロナのせいで職場が二班態勢になってましてね。1日おきの出勤なので時間があるのです。

2日に1回しか仕事しないのに給料は満額もらえるらしく、めっちゃおいしいやん! とみんなで狂喜乱舞したりもしましたが、いまはみな口をそろえて「しんどい」と言っています。

だって、出勤して、休んで、また出勤してっていうリズムに体がなかなか慣れてくれないんです。2回か3回働くと3連休たちょっと働くとまた3連休。休んでばかりなので出勤するのが億劫すぎる。何もないのに「行きたくねえ」と思いながら行っています。

とまぁ仕事の話はともかく小説ですが、緊急事態宣言も解除され、休業要請も解除され、明日は1か月半ぶりに映画に行こうかなと考えてるほどコロナ禍も収まってきましたが(でもまだまだ第1波)いま小説を書くにあたって、コロナ禍のことを素通りしていいものだろうかと思ったんですよね。

20年前に思いついたアイデアなので当然コロナのことなど無関係です。ですが、コロナを盛り込まないと、いま小説を書く、いま何かを表現することの価値が薄まってしまう気がして。

とはいえ、すべての作品がアクチュアルでなければいけないなんて決まりもないだろうし、と逡巡した末に、コロナを盛り込むことにしました。パオロ・ジョルダーノだって『コロナの時代の僕ら』なんて本を出してるしね。あれはエッセイだけど。

この変化が吉と出るか凶と出るかはわかりません。

ただ確実なのは、主人公はもちろんのこと、脇役の人物たち、特に敵役に対する愛情が完全に芽を出したということ。(コロナを盛り込んだおかげではないが)

これは吉兆。

しかし、作品にとって愛情は必要条件であって充分条件にあらず。

技術と根気で何とか面白いものにしたいと意気込んでいます。

そうそう、今日、アイドル評論家・中森明夫さんの『青い秋』を読み始めましたんですが、教えられること多。あれはいいですよ。まだ3分の1しか読んでないけど。


青い秋
中森 明夫
光文社
2019-10-22





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2020年04月19日

2年前に生まれて初めて小説なるものを書きましたが、またぞろ書こうとしています。

2年前に書いたときのことについてはこちらの記事を参照してください。⇒小説を書き始めました(一作目)


思いついたのは20年前
ジム・トンプスンの一人称小説がもともと好きで、脚本は三人称しかありえないけど文学なら一人称が使える、もし小説を書くことがあればぜひ一人称で書きたい、と思っていました。

ところが、2年前に書いたのは二人称小説でした。私が私自身を「おまえ」という呼称を使って責める内容だったんですが、本質的には一人称。

でも、もっと前に一人称小説の構想はあったんです。

あれは2000年だからちょうど20年前ですか。詳しくは書けませんが、どこからともなく一人称小説の構想が湧き上がってきました。(「湧く」とか「浮かぶ」という言い方をしますが、実感としては「天から降ってくる」という感覚に近い。これは実際に書いたことのある人ならわかってくれるはず)

しかし、そのときゴジこと長谷川和彦監督から注意されました。

「君は映画をやりたいと思っているのだから脚本を書くべきだろう」

うん、確かにその通りだと簡単にやめてしまいました。

ゴジさんは「一口に小説といってもハードボイルドみたいなのもあるけど」とは言っていました。

誤解している方がたくさんいますが、ハードボイルドとはヘミングウェイが創始した「文体」のことであって、探偵物語とかハードな物語とかの「ジャンル」のことではありません。状況と動きとセリフだけで描写するというのは脚本と同じで、だからゴジさんもハードボイルドなら……という感じで言ったのでしょう。

やめたとはいえ今日まで憶えていたのですから、自分にとってよっぽど魅力的なアイデアだったのでしょう。


逃げるのはいや
黒澤組で有名な橋本忍さんの『複眼の映像』にこんなことが書いてありました。

「脚本家から小説家になった者が多くいるが、彼らは逃げたのである。シナリオは設計図だからはっきりした線を引かなくてはいけない。だから難しい。文学は曖昧な表現でも許されるしそこに味があるなどと評されることもある。彼らはその曖昧さに逃げたのだ」

この言葉を読む前から同じことを思っていました。だから「小説を書いたら?」という呑気な助言を拒否してきました。

脚本家の夢をあきらめて都落ちしてから、あきらめたくせに脚本を構想し、実際に書いたことはあります。

でも、どれもダメだったうえに、決定的だったのは去年の夏ですね。5年前にあきらめる決断をしたときに書いていたものの突破口が見えた気がしたので本腰を入れて取り組んだんですが、結局「自分は脚本家にはなれない」という冷厳な事実に再度直面させられただけでした。

というわけで、長らく創作から遠ざかっていましたが、やはり書くことから逃れることができないのか、2年ぶりに小説を書こうなんていう気になってきました。

橋本忍さんに言わせれば「逃げている」ということになりますが、まぁそれでもいいじゃないですか。大好きな創作に打ち込めるなら。

まだ考え始めたばかりで(だから「小説を書き始めました」というのは違いますね。「考え始めました」ですね。でも考えるのは書くことの大切な一部です)当初のアイデアが膨らんでいるのか脱線しているのかすらわからないありさまですが、まぁいいでしょう。

いまは仕事が繁忙期なのでほとんどノートに向かう時間がありませんが、少しずつ書いていく予定です。


続きの記事
二作目の小説、その後



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2019年11月10日

横尾忠則現代美術館で開催中の「自我自損展」に行ってきました。


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作者である横尾忠則さん自身がキュレーター(学芸員)を務めるという珍しい展覧会。

タイトルの「自我自損」とは、エゴに固執すると損をするという意味の造語で、自らの旧作に容赦なく手を加えて新たな作品へと変貌させたり、同一人物による作品とは思えないほど大胆にスタイルを変化させる、横尾さんの絶えざる自己否定と一貫したテーマである「自我からの解放」という意味がこめられているそうです。

「エゴに固執すると損をする」というのはまさしくその通りですね。

以前、映画の専門学校に通っていたときはエゴに固執する人間ばかりでした。「自分はこういう映画を作りたい」「自分はこうしたい」ということに固執するばかりで周りの意見を聞かない。それって「自分は絶対的に正しい」ということが前提にあるのでやめたほうがいい、といくら諭してもダメでした。

つまらなかった映画を二度と見ないと堂々と宣言する人も多かった。それも「この映画はつまらないという自分の判断が正しい」ということを前提にしているのでやめたほうがいい。そのときの体調やものの見方が合わなかっただけかもしれない。もう一度見たらすごく面白いかもしれない。そういう可能性を最初から放棄している。

「君子豹変す」という言葉があるように、周りの意見を聞き入れて自分の意見や考え方を変えることをおそれてはいけない。生きている以上はどんどん変わるのが普通。

その学校に行っていたときは「『タクシードライバー』が一番好きな映画」と言ってたんですが、歳をとるほどにそれほど好きではなくなりました(つい最近『ジョーカー』を見たのをきっかけに再見しましたが、やはりそんなにいい映画とは思えません)。まだSNSなんかなかったころ、ヤフーの掲示板で「あなたのオールタイムベストテンは?」という質問に『タクシードライバー』を入れなかったら「なぜ入ってないのか」と訊かれまして、好みなんか変わっていくのが本当だといってもキョトンとした顔をされました。「一貫した自分」なんて幻想にすぎないのに。


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今回の展示で私が一番心打たれたのはこの『ミケランジェロと北斎の因果関係』というやつなんですが、はっきり申し上げて、美術展なのに絵画よりも横尾さんの言葉のほうがよっぽど印象的でした。

2階から3階へ移ると、入り口に「ゲスト・キュレーター:横尾忠則のQ&A」というのが掲げてありました。

――今回のコンセプトは何ですか?

「コンセプトはない、というのがコンセプトです。作品はすべてその日の気分で選びました。別の日に選んだらまったく別の作品を選んだでしょう。私にとって気分や生理というのはとても重要なものです」

素晴らしい! 気分というのはとても大事。シナリオでも「初稿はハートで書け」って言いますもんね。しっくり来るか来ないか。「しっくり」というのはクローネンバーグふうに言えば「内臓感覚」ですね。

腑に落ちる、っていうじゃないですか。「腑」というのは五臓六腑の腑で内臓のこと。内臓的にしっくり来るかどうかが一番大事。頭で考えてはいけない。「リライトには頭を使え」というように、ハートや内臓でしっくりこなかったものだけを頭を使って補正していく。

「通常の展覧会では、キュレーター選びが私のキュレーションです。そこに学芸員の批評が表れる。私はそういう批評を見たい。要は人のふんどしで相撲を取っているわけですが、相撲の取り方に口出しはしません」

一流の人ならではの言葉ですね。他人がどういう選び方、配置の仕方をするかを大いに楽しむ。批評への批評はしない。

「自分の作品の解説はしたくありません」

そりゃそうでしょう。

幼少の頃に見た、教育テレビでやっていた美術番組を思い出しました。

ダリを中心にいろんな抽象画が紹介されて、ある日本人の抽象画家が「この絵にはこういう意味がこめられているんじゃないか」「この絵のこの部分はこういうことなんじゃないか」と解説していくんですが、最後にその人自身が描いた抽象画を解説する場があって、

「自分の絵を自分で解説するというのは好きではありません。なぜなら、自分で解説してしまったら作品がそこで終わってしまうからです

別に作者の意図通りに見なくちゃいけないなんてルールはないけれど、作者の意図だけが唯一の正解でその通りに見なくちゃいけないと勘違いしてる人はとても多いですからね。

その人は、ある程度までは解説してましたけど、「これ以上は私自身にもわかりません」と言っていたのが印象的でした。一緒に見ていた父は「それがホンマやろうなぁ」と言ってましたが、確かにそうなんでしょう。とても正直。

横尾さんもたぶん、自分の絵を十全には解説できないでしょう。そもそも解説なんていらない。邪魔になるだけ。

「見に来た人には『作品と対話してください』とだけ言いたい」

その通り。今回の展示ではあまりいませんでしたが、もっと大きな「フェルメール展」とか「ゴッホ展」「プラド美術館展」なんかに行くと、作品そのものより解説を読んでばかりの人って多いですよね。いったい何をしに来たんだか。

映画も同じ。見たあとに他人の感想ばかり読んでいる人は「映画との対話」ができていないと思います。

私はそれをバロメーターにしています。見たあとに他人の言葉を読みたくなったら映画との対話ができていなかった、何も読まずに自分の感想をまとめられたら対話ができていた証拠だと、ね。

「横尾さんにとって展覧会とは何ですか?」という質問に対し「僕のパンドラの匣の蓋を開ける行為です」という言葉もよかったなぁ。






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