聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

文化・芸術

AI婚活に見る「プラセボ(偽薬)としてのAI」

今朝の『上田晋也のサタデージャーナル』で「AI婚活」が取り上げられていました。
主に「ビッグデータ」を活用するという主旨で、自分が狙っている女性がいろんな人に会いまくっているとか、そういう裏事情を勘案してAIがおすすめの相手を紹介するというもの。
しかし、いつだったか『ワールドビジネスサテライト』で紹介されたときはもう少し違う主旨でした。


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AIが人間の盲点を突く
AIの紹介によってお見合いに至る確率が格段に上がるというのは同じですが、ビッグデータとかそういうことよりも「人間の盲点」をAIが突く、という感じの説明だった記憶があります。

数日前に「AIが車を運転する社会は永久にやってこないだろう」という主旨の日記を書きましたが(→こちら)それは現在のAIが「真の意味でのAI」ではなく、つまり「自律システム」ではなく「他律システム」だから、というものでした。AIはしょせん「コンピュータ」であり、コンピュータとはつまるところ「計算機」であり、計算機にできることは「四則演算」だけです。

AIは人間みたいに間違ったりしないから大丈夫、みたいなことを言う人がいますが、確かに間違わないけれど、それは「四則演算を間違わない」というだけの話です。

とはいえ、WBSで紹介されていたAI婚活はそこを逆手に取った戦略でした。


AIを使いこなす
つまり、人間は自律システムであるがゆえに自分の感覚をあてにしすぎる。しかも事は恋愛や結婚という「フィーリング」が何より重視される場ですから、よけいに理詰めで考えたりしない。

そこで、絶対に計算を間違わないAIに徹底して理詰めで考えてもらう。その末に紹介された相手は「もし自分だけで選んだらこの人は真っ先に落としていた」と思うような人が紹介される。そして実際に会ってみるととてもフィーリングが合って結婚に至る、と。

自律システムたる人間が自分たちの作った他律システムの権化たるAIをうまく活用していると思いました。

だから、これからの時代はAIをうまく使いこなすことが重要になると思われます。


「AIだから……」というプラセボ
しかしながら、水を差すようですが、お見合いに至る確率が格段に上がっているのは「プラセボ(偽薬)効果」の面のほうが大きいと思うんですよね。薬のような外見をしているけれど何ら薬効のない偽薬を飲んだだけで本当に症状がよくなるというアレ。


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去年でしたか、投了の局面から一手だけ戻し、投了したほうをAIがもって芸能人と対戦するという番組がありました。第一人者である羽生善治が解説をしていましたが、ポナンザがまったく意味不明の手を打つことがあって司会者が羽生に解説を求めると「いやぁ、よくわかりませんが、でもポナンザが指した手なので……」と言っていました。
20年ほど前、羽生が7冠を達成したころはいわゆる「羽生マジック」というやつにすべての棋士がきりきり舞いさせられ、プロ棋士ですら「いやぁちょっとよくわかりませんが、羽生さんが指した手なので……」と言っていたもんですが、その羽生がいまやAIに同じことを言う。隔世の感を禁じえませんが、おそらくAI婚活でお見合いする人も同様なんだろうと思います。

AIが薦めてるんだからとりあえず会ってみようか、と。機械は間違わないからすべてを機械に任せてしまえ、と考える人が増えているご時世ですから、「とりあえず会ってみれば」と他の人間から薦められてもおそらく会わないんでしょうね。AIが言うんだからピッタリの相手かもしれない、となる。実際に会うと何か違うと思う場面も多々あるのでしょうが、「AIが選んだ相手」という情報がプラセボ効果となって結婚に至る。

それは本当の意味で「自律システムである人間が他律システムにすぎないAIを使いこなしている」ことにはなりません。逆に、他律システムにすぎないAIに支配されている。

まぁでも、この場合はそれでいいんじゃないでしょうか。それで結婚できるなら。それで幸せになれるなら。幸福かどうかなんてしょせんは人間の錯覚にすぎませんから。そういえば「錯視こそ生物が自律システムたる所以」と『人工知能の哲学』という本に書いてありましたっけ。なるほど、そういうことか。

AIに仕事を奪われる人はたくさん出てくるでしょうが、AIには絶対にできないことはたくさんある。AIにできることは大いにやってもらい、できないことはもちろん人間がやる。そうやってうまく共存すればいいだけの話だと思います。

繰り返しますがAIは計算機にすぎません。電卓が発明されてもパソコンが発明されても人類はそれらを使いこなして文明を発達させてきたのだから、何も恐れることはありません。いままでと同じように自分たちの代わりに超高速の計算機として働いてもらえばいいのです。

ということをAI婚活のニュースを見て感じた次第。


AI自動運転社会は永久にやってこないと思う件

最近AIに関する本を3冊読みました。

『人工知能の哲学 生命から紐解く知能の謎』
『AI原論 神の支配と人間の自由』
『AI vs.教科書が読めない子どもたち』




半年前に『人工知能は資本主義を終焉させるか』を読んだとき(感想は→こちら)現在最も計算の速いスパコンが100億年かかる計算を瞬時にやってのけるAIがもうすぐできると書かれていて、そんなすごいものができたらどうなるんだろうと、興味と恐怖が交錯しました。
が、著者が主張する「シンギュラリティ」は絶対ないだろうな、と何の根拠もなく思いました。

今回読んだ3冊はその根拠を見事に提示してくれる本でした。(あんまりシンギュラリティに否定的な人の本ばかり読むと偏ってしまうので、近々肯定的な人の本もまた読んでみるつもりです)


自律システムと他律システム
3冊の著者は、シンギュラリティを否定するどころか、AIの開発自体が無理と言い切ります。

え!? AIってすでにたくさんあるじゃん。ポナンザもそうだし、ルンバだってそうでしょう?

という声が聞こえてきそうですが、あれらは正確に言うとすべて「AI技術」にすぎず「真の意味でのAI」ではないそうです。

そのときキーになるのが「自律システム」と「他律システム」というワードです。



自律システムとは我々人間や他の生物すべてがもっているもので「自己増殖」できるのが特徴だとか。逆に他律システムは人間が何らかの指令を出さないかぎり動けないシステムで自己増殖ができない。
この場合の自己増殖とは、自分で自分の知能を高めていくということで、自律システムさえ確立されればAIがさらに高度なAIを作ることができる。その先にシンギュラリティが起こるかもしれないし、少なくとも『ターミネーター』のように機械と人間の戦争は避けられない気がします。

いま巷で「AI」と呼ばれているものはすべて他律システムだそうです。ポナンザだって作った人が「なぜこんなに強くなっているのか」と話したらしく自律的に強くなっている感じがしますが、最新の棋譜をどんどん入力してやらないとディープラーニングは不可能ですし、そもそもポナンザは将棋以外に何もできませんから「知能」とは呼べません。




話題の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で口酸っぱく語られているのは「いまのAI技術は単なるコンピュータであり、コンピュータは四則演算しかできない。数学で記述できる言葉は論理・確率・統計だけでその他は不可能」というものです。ポナンザが強いのはその論理・確率・統計から最善手を導くためのビッグデータを所有し、かつ演算能力が異常に高いだけ、ということになります。


グーグルの事実上の撤退
さて、AIが車を運転することで言葉の真の意味での「自動車」が近々街を走り、バスやタクシーの運転手は職を失うだろうと言われていますが、私はこれら3冊の本を読んでかなり懐疑的になりました。

車を運転するためには何より「自律システム」であることが求められます。無人運転の電車といえば神戸のポートライナーが走りで、いまは全国各地にあるんでしょうけど、あれなら線路の上を走るだけだし、二重扉で人身事故が起こることもないし、どこで止まるかも決まっているから他律システムでも大丈夫なんですよね。
ただ、ちょうどこないだの大阪府北部地震のとき私はまさにポートライナーに乗っていましたが、ああいうときはもう人間が出て行って安全を確認しなくてはいけない。他律システムではそれが無理。

それが無理なら道を車で走るなどもってのほかでしょう。突然子どもが飛び出すかもしれないのにどうやってそれを避けるのか。

そして、避けられなかった場合の「責任」はいったい誰が取るのか。責任は生身の肉体をもった人間にしか取れません。死刑とか懲役というのは肉体の苦痛を伴いますが肉体をもたないAIに責任を取らせることはできません。では開発者や販売者に責任を負わせればいいのでしょうか?

ちょっと前まで自動運転車を開発して売り出すと息巻いていたグーグルが、それを撤回してはいないものの、だいぶトーンダウンしているとか。それはやはり「責任」。もし事故を起こしたら自分たちが責任を取らないといけなくなるので、飛び出してきたものが轢いてはいけないものか大丈夫なものか、瞬時に判別できる画像認識ソフトを開発して自動運転車を製造する別会社に売って、責任は回避するつもりらしいと書かれていました。

なるほど。でもそれって「事故を起こす可能性がかなり高い」と認識しているんですよね。人間はミスをする生き物だからいまだに交通事故がなくなりませんが、AIによる自動運転に移行するのなら「絶対に事故に遭わない」ように設計してくれないと乗る人は誰もいないでしょう。

それもこれもいまの「AI技術」が「真の意味でのAI」ではないからです。他律システムだからです。自律システムとは、前述のとおり自分で自分の知能を高めていくことができることです。人間が1の能力のAIを作ったらあとは自分でそれを1.001倍していく。それを異常なスピードで繰り返せば近い将来シンギュラリティが到来するでしょう。


人間に「心」を作ることは可能か
しかしながら、グーグルが開発に躍起になっている画像認識ソフトですら無理らしい。なぜか。

『人工知能の哲学』で詳述されていますが、我々生物は「錯視」によってこの世界を認識しているそうです。この世が本当にこのような姿、つまり人間が認識している通りの姿だとは誰にも言えません。人間が認識できるのは4次元までですが、本当は12次元(13次元だったか)という物理学者もいます。客観的にどういう世界かは永久に誰にもわからない。でも「錯視」によって主観的に世界を認識することはできるし、実際にみんなそれをやって生きている。

錯視を論理・確率・統計の言葉で作り上げることができるでしょうか? ごく普通に考えて錯視はまったく論理的じゃないですよね。

コンピュータの礎を作ったアラン・チューリングは「脳を作るぞ」と息巻いてチューリング・マシンの開発に着手したそうですが、人間には脳は作れるかもしれませんが心は無理でしょう。心は脳に宿っていると思っている人が多いですが(私も昔はそう思っていました)心がどこに宿っているのか、最新の科学ではまだわかっていないし、特に脳科学では「心は脳にある」という考え方は否定されているそうです。

自律システムが可能になるためには「心」を開発しないといけないのですが、どうもAI開発者は人間の脳と同じものさえ作ればいいと考えているらしい。脳ならすでに開発できている気がします。パソコンもスマホも、いわんやポナンザやルンバも「脳」と言ってかまわないと思う。

でも、問題はやっぱり「心」ですよ。主観的に物事を認識することができなければ「自律システム」ではない。脳なら頭蓋骨から取り出してどういう具合になっているのか観察できるから模倣して作ることも可能でしょうが、心は外側から観察できません。自分の心を内側から見つめることしかできない。だから人間に脳を作ることはできても心は作れない。そして、心を作れない以上は自分で自分の知能を高める自律システムの開発は絶対に不可能です。

というわけで、AIが自動車を運転する社会は永久にやってこないと思うのです。

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最近のアメリカ映画が人物の顔に光をちゃんと当てない件

最近はアメリカ映画を見てげんなりすることが多いです。例えば『ゲティ家の身代金』。

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すべてのカットではありませんが、だいたい室内の画はこんな感じで人物の顔にちゃんと光が当たっていず、表情を読み取りづらいんですよね。
これでは物語の展開がどうこうとかそういうことではなく、単純に見ていてイライラします。

そういえば、先日のアカデミー賞で撮影賞を取った『ブレードランナー2049』もそんな画が多かった。


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これは冒頭のシーンだったと思いますが、この映画もすべてとは言いませんが、人物の顔にちゃんと光が当たっていなくてイライラするんです。そりゃ唸るような画もありましたよ。さすがロジャー・ディーキンス! と喝采を贈りたいカットもありましたけど、最優秀撮影賞というのは大いに疑問が残りました。

先日、感想を書いたスピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』もそんな画が多かったような。

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どれもリアリティを追求しているのはわかります。特にメリル・ストリープのカットなどは夜の室内で本当に暗いのでしょう。しかし肝腎の主人公の表情が読み取りづらいと作品に没入しにくいし、没入していたのに醒めてしまったり。

例えば、『ブレードランナー2049』の35年前の前編であり、『ゲティ家の身代金』の監督リドリー・スコットの監督作品でもある『ブレードランナー』は暗い設定の室内でも役者の顔をしっかり映していました。

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これまで挙げた映画の中でこの映画が一番暗い設定だと思いますね。まぁ続編も闇ばかりなんですが、それでもこのショーン・ヤングの顔はとてもはっきり、そして美しく撮られています。

このような「普通の照明」がなぜいまはあまり採用されなくなったのでしょう。それも「アメリカ映画だけで」ですよね。私があまり他の映画を見てないだけかもしれませんが、少なくとも日本映画であのようなイライラするカットはないです。

リアリティなんかどうでもいいとは言いませんが、少なくとも光がほとんどないはずのハリソン・フォードの部屋でショーン・ヤングの顔がはっきり映るぐらいの照明は別にリアリティを損なうものではないはず。

それとも、最近は三脚にカメラを固定せず手持ちで撮影する映画がとても多いですが、あれみたいに、三脚にカメラを固定するのは時間がかかる(撮影助手が下手だとカメラマンから殴られます)時間がかかればスケジュールを超過し、予算を超過する、だから手持ちで、という場合が多いと推察されますが、照明はもっと時間がかかりますから、少しでも製作費を抑えるために自然光だけで撮ろう、ということなんですかね?
『ブレードランナー2049』はセット費やCGにも多額のお金がかかってるし、少しでも削れるところは削ろうということなのか。でも『ゲティ家の身代金』は潤沢な予算がありそうですが、どうなのかな? 撮り直しでだいぶお金は使ったでしょうが、最初に撮った画に合わせた照明になってるはずですからね。むむむ?

とにかく、人物の顔にちゃんと光を当てて撮ってほしいというのがアメリカ映画ファンとしての切なる願いです。



藤原新也さんが撮ったかわいい犬の写真について

あれはスパイク・リーの『25時』という映画を見に行ったあとのことです。もう14年も前。映画のあと、藤原新也さんの写真展を見に行ったんですよ。


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「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャッチコピーがあまりに有名な写真ですが、この一枚を含めた、個人の写真展としてはまあまあ大規模なものだったんじゃないかしら。(うろ覚えですけど)

そのときに、同じ犬でも死体を食らうような犬ではなく、ものすご~~くかわいい犬の写真も見たんです。



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いささか手前味噌になりますが、これはうちの実家のわんこです。こんな感じで、つぶらな瞳でじっとこちらを見ている写真なんです。うちのわんこは、おそらく私の横にいる親父がもっているジャーキーをじっと見つめていますが、藤原新也さんが撮った犬はじっとレンズを見ている。だから鑑賞者の目と合うんですね。そのためよけいにかわいく見える。

かなりサイズも大きかった写真で、一匹だけじゃなく、三匹くらいのおそらく野良犬の子犬が、確か小雨が降っているなか、じっと藤原さんを見つめている、その写真をこの10年以上探しているのです。

図書館で藤原さんの写真集を全部見ても載ってないし、「藤原新也 犬」で検索をかけても、どうしても「犬に食われるほど……」の犬が出てきてしまうし、いま検索したら昔に比べるとかわいいタイプの犬も出るようになっていますが、それでも私が探しているあの三匹のわんこはどうしても出てきてくれない。

だから、もし「この写真ではないか」というものをおもちの方は、ちょっと見せてもらえませんでしょうか? というお願いの日記です。

コメント欄に画像は添付できないみたいなので、ツイッターで送っていただけると幸いです。よろしくお願い申し上げます。

しかし、よその犬に浮気をしているとかって、うちのわんこが嫉妬するんじゃないかとひやひやしますわ。内緒ですよ。(笑)



『小説禁止令に賛同する』(たとえ世界を変えられなくても)

いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社)がものすごくおもしろかった。


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映像作品の脚本しか書いたことのない私がつい最近、小説を書いたんですけれど、そのような者からすると読めば読むほど興味深さの募る作品でした。

物語は、近未来、東亜細亜紛争が起こって中国らしき大国に占領され、「東端列島」と呼ばれている日本が舞台で、小説家という咎で投獄されている主人公が占領国の「小説禁止令」に全面的に賛同するという内容の「随筆」を書く、というものです。政治犯が書いているものだから当然、検閲されています。


「小説」を徹底批判する「随筆」という態
この「小説」は「小説禁止令に賛同する」という趣旨で書かれた「随筆」なので、徹底して「小説とはいかに曖昧で取るに足らないものか」ということが述べられます。つまり批判的な文学論なんですね。夏目漱石『行人』、中上健次『地の果て 至上の時』などを俎上に載せて、小説の登場人物・作者・読者の関係を暴き立てる。これが正確な批評になっているのかどうかは浅学の私にはわかりません。なるほどなぁ、と思いながら読むしかなかった。

で、次に「過去形の禁止」。この随筆に似せた小説はほとんどすべての文章が現在形で書かれている。「誰それが何した」と過去形で書くと断定的な感じがしてしまう。断定的な感じがするから、ただのフィクションなのに「本当にそのようなことが起こった」かのように感じられる。これは二葉亭四迷のものすごい発明だとまたぞろ文学論が顔を出すんですが、それは小説ならではの欺瞞であると、政治犯の筆者は言うんですね。

さらに、近代以降の日本文学の伝統である「私小説」のことが述べられたあと、永井荷風『濹東綺譚』『四畳半襖の下張』などを例に挙げて、小説の作中人物がある架空の小説を見つけてその内容を語るという形式のものがなぜか小説というジャンルには多いと。これも例に挙げられている作品を読んだことがないし、その手のものは確かに読んだことはあるにしろ、小説というものをそれほど読んだことがないので当たっているのがどうかまったくわかりません。でも、インタビューを読むといとうせいこう氏はかなりの小説好きらしく(当たり前ですね)おそらく当たっているのでしょう。

ただ、問題は、この「作中人物がある架空の小説を見つけて~~」というのがこの『小説禁止令に賛同する』という傑作のミソなんですよね。
『月宮殿暴走』という小説を確かに読んだと記すも、検閲官によると「そんな作品はない」となり、そうこうするうちに、この「随筆」が『月宮殿暴走』の作中人物が主人公の「小説」へと変容していく。そのあたりは、クライマックスの少し前から明らかなんですけど、やはり胸がすく展開です。


本当に「随筆」のはずだった
著者のいとうせいこう氏のインタビューを読むと、「最初は本当に随筆のはずだった」というから驚きです。
え、だって、各章の終わりには「軽度処置、中度処罰、投与量加増」なんて検閲官による処置の報告が書かれているから、最初から小説だったように思えますが、これはあとから追加したんですかね?
そのへんのことはよくわかりませんが、「随筆と小説の違いって何なんだろう」という興味で随筆を書こうとしたら結果的に小説になったと。

私はいとうせいこう氏の作品を読むのが初めてなので、全作品のうちフィクションとノンフィクションの割合がどれぐらいとかまったく知らないから、氏が小説家なのか随筆家なのかすらわかっていません。ただ、インタビューを読むかぎりではかなりの小説好きと見られ、おそらく随筆よりも小説が好きなのでしょう。だから、随筆と小説の間のぎりぎりのところで随筆に踏みとどまるものを書こうとしたにもかかわらず最終的に小説になってしまった。そこがとてもチャーミングだと思いました。


私の「私小説」
私が書いた私小説は前にも書いたように二人称で書かれています。作者の私が私自身を「おまえ」と名指しし、徹底的に責めぬく内容です。しかし、責めぬきながらも、最後はやはり自分かわいさからか、ちょっとした救いを書いてしまったんですね。

ちょうど、この『小説禁止令に賛同する』のいとうせいこう氏が随筆を書こうと企図しながら最終的に小説になってしまったように、私の作品は私自身を最後まで責め苛むものにしようと企図しながら最後の最後でやさしい言葉をかけてしまった。


「たとえ世界は変えられなくても」
もうかなり前のこと、9.11の直後くらいだったと思いますが、新聞にイタリアの新進気鋭の小説家のインタビューが載っていました。

「書くことで世界は変えられないかもしれない。でも書くことで自分自身が変わることはできる」

まずは自分の足元から、といういい言葉でした。

『小説禁止令に賛同する』はそういう作品のような気がします。小説とはいかにくだらないかを説きながら、実は最初から小説を企図していて、検閲官に喧嘩を売って処刑される主人公。というのは、著者のもともとの意図ではなかった。書いているうちにそうなった。小説を愛する心が作品を変えた。その作品によっていとうせいこう氏が変わったかどうかは知りませんが、変わったと信じる。

私の場合、自分を責めぬく内容を意図しながら、最終的に自分をいたわってしまった。これでいいのか、と思いながらも、あれを書く前と後で確実に自分の内側から変わった気がする。たぶん、最後まで自分を責め苛んでいたら、こんなふうに本を読んだり感想を書いたりできなかったでしょう。もしかしたら死んでいたかもしれない。

書くことで自分自身が変わることはできる。ということを身をもって実感しました。これは映像作品の脚本を書いていたときにはまったく味わえなかった境地です。

『小説禁止令に賛同する』という小説は「書かれた」というより「生まれた」。私の作品も生まれた。その作品によって新しい「私」が生まれた。

僭越ながら、いとうせいこう氏の身の上にも同じことが起こっていると推察します。

氏は「これはやっぱり政治小説ですよ」と言っています。
私にとってこの『小説禁止令に賛同する』は、作者の小説への愛が迸り出た「私小説」なんだがなぁ、と思っていましたが、自分が変わることで世界を変えることを希求している点において、やはり「政治小説」なのかもしれない、と思った次第です。


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