聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

文化・芸術

最近のアメリカ映画が人物の顔に光をちゃんと当てない件

最近はアメリカ映画を見てげんなりすることが多いです。例えば『ゲティ家の身代金』。

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すべてのカットではありませんが、だいたい室内の画はこんな感じで人物の顔にちゃんと光が当たっていず、表情を読み取りづらいんですよね。
これでは物語の展開がどうこうとかそういうことではなく、単純に見ていてイライラします。

そういえば、先日のアカデミー賞で撮影賞を取った『ブレードランナー2049』もそんな画が多かった。


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これは冒頭のシーンだったと思いますが、この映画もすべてとは言いませんが、人物の顔にちゃんと光が当たっていなくてイライラするんです。そりゃ唸るような画もありましたよ。さすがロジャー・ディーキンス! と喝采を贈りたいカットもありましたけど、最優秀撮影賞というのは大いに疑問が残りました。

先日、感想を書いたスピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』もそんな画が多かったような。

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どれもリアリティを追求しているのはわかります。特にメリル・ストリープのカットなどは夜の室内で本当に暗いのでしょう。しかし肝腎の主人公の表情が読み取りづらいと作品に没入しにくいし、没入していたのに醒めてしまったり。

例えば、『ブレードランナー2049』の35年前の前編であり、『ゲティ家の身代金』の監督リドリー・スコットの監督作品でもある『ブレードランナー』は暗い設定の室内でも役者の顔をしっかり映していました。

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これまで挙げた映画の中でこの映画が一番暗い設定だと思いますね。まぁ続編も闇ばかりなんですが、それでもこのショーン・ヤングの顔はとてもはっきり、そして美しく撮られています。

このような「普通の照明」がなぜいまはあまり採用されなくなったのでしょう。それも「アメリカ映画だけで」ですよね。私があまり他の映画を見てないだけかもしれませんが、少なくとも日本映画であのようなイライラするカットはないです。

リアリティなんかどうでもいいとは言いませんが、少なくとも光がほとんどないはずのハリソン・フォードの部屋でショーン・ヤングの顔がはっきり映るぐらいの照明は別にリアリティを損なうものではないはず。

それとも、最近は三脚にカメラを固定せず手持ちで撮影する映画がとても多いですが、あれみたいに、三脚にカメラを固定するのは時間がかかる(撮影助手が下手だとカメラマンから殴られます)時間がかかればスケジュールを超過し、予算を超過する、だから手持ちで、という場合が多いと推察されますが、照明はもっと時間がかかりますから、少しでも製作費を抑えるために自然光だけで撮ろう、ということなんですかね?
『ブレードランナー2049』はセット費やCGにも多額のお金がかかってるし、少しでも削れるところは削ろうということなのか。でも『ゲティ家の身代金』は潤沢な予算がありそうですが、どうなのかな? 撮り直しでだいぶお金は使ったでしょうが、最初に撮った画に合わせた照明になってるはずですからね。むむむ?

とにかく、人物の顔にちゃんと光を当てて撮ってほしいというのがアメリカ映画ファンとしての切なる願いです。



藤原新也さんが撮ったかわいい犬の写真について

あれはスパイク・リーの『25時』という映画を見に行ったあとのことです。もう14年も前。映画のあと、藤原新也さんの写真展を見に行ったんですよ。


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「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」というキャッチコピーがあまりに有名な写真ですが、この一枚を含めた、個人の写真展としてはまあまあ大規模なものだったんじゃないかしら。(うろ覚えですけど)

そのときに、同じ犬でも死体を食らうような犬ではなく、ものすご~~くかわいい犬の写真も見たんです。



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いささか手前味噌になりますが、これはうちの実家のわんこです。こんな感じで、つぶらな瞳でじっとこちらを見ている写真なんです。うちのわんこは、おそらく私の横にいる親父がもっているジャーキーをじっと見つめていますが、藤原新也さんが撮った犬はじっとレンズを見ている。だから鑑賞者の目と合うんですね。そのためよけいにかわいく見える。

かなりサイズも大きかった写真で、一匹だけじゃなく、三匹くらいのおそらく野良犬の子犬が、確か小雨が降っているなか、じっと藤原さんを見つめている、その写真をこの10年以上探しているのです。

図書館で藤原さんの写真集を全部見ても載ってないし、「藤原新也 犬」で検索をかけても、どうしても「犬に食われるほど……」の犬が出てきてしまうし、いま検索したら昔に比べるとかわいいタイプの犬も出るようになっていますが、それでも私が探しているあの三匹のわんこはどうしても出てきてくれない。

だから、もし「この写真ではないか」というものをおもちの方は、ちょっと見せてもらえませんでしょうか? というお願いの日記です。

コメント欄に画像は添付できないみたいなので、ツイッターで送っていただけると幸いです。よろしくお願い申し上げます。

しかし、よその犬に浮気をしているとかって、うちのわんこが嫉妬するんじゃないかとひやひやしますわ。内緒ですよ。(笑)



『小説禁止令に賛同する』(たとえ世界を変えられなくても)

いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』(集英社)がものすごくおもしろかった。


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映像作品の脚本しか書いたことのない私がつい最近、小説を書いたんですけれど、そのような者からすると読めば読むほど興味深さの募る作品でした。

物語は、近未来、東亜細亜紛争が起こって中国らしき大国に占領され、「東端列島」と呼ばれている日本が舞台で、小説家という咎で投獄されている主人公が占領国の「小説禁止令」に全面的に賛同するという内容の「随筆」を書く、というものです。政治犯が書いているものだから当然、検閲されています。


「小説」を徹底批判する「随筆」という態
この「小説」は「小説禁止令に賛同する」という趣旨で書かれた「随筆」なので、徹底して「小説とはいかに曖昧で取るに足らないものか」ということが述べられます。つまり批判的な文学論なんですね。夏目漱石『行人』、中上健次『地の果て 至上の時』などを俎上に載せて、小説の登場人物・作者・読者の関係を暴き立てる。これが正確な批評になっているのかどうかは浅学の私にはわかりません。なるほどなぁ、と思いながら読むしかなかった。

で、次に「過去形の禁止」。この随筆に似せた小説はほとんどすべての文章が現在形で書かれている。「誰それが何した」と過去形で書くと断定的な感じがしてしまう。断定的な感じがするから、ただのフィクションなのに「本当にそのようなことが起こった」かのように感じられる。これは二葉亭四迷のものすごい発明だとまたぞろ文学論が顔を出すんですが、それは小説ならではの欺瞞であると、政治犯の筆者は言うんですね。

さらに、近代以降の日本文学の伝統である「私小説」のことが述べられたあと、永井荷風『濹東綺譚』『四畳半襖の下張』などを例に挙げて、小説の作中人物がある架空の小説を見つけてその内容を語るという形式のものがなぜか小説というジャンルには多いと。これも例に挙げられている作品を読んだことがないし、その手のものは確かに読んだことはあるにしろ、小説というものをそれほど読んだことがないので当たっているのがどうかまったくわかりません。でも、インタビューを読むといとうせいこう氏はかなりの小説好きらしく(当たり前ですね)おそらく当たっているのでしょう。

ただ、問題は、この「作中人物がある架空の小説を見つけて~~」というのがこの『小説禁止令に賛同する』という傑作のミソなんですよね。
『月宮殿暴走』という小説を確かに読んだと記すも、検閲官によると「そんな作品はない」となり、そうこうするうちに、この「随筆」が『月宮殿暴走』の作中人物が主人公の「小説」へと変容していく。そのあたりは、クライマックスの少し前から明らかなんですけど、やはり胸がすく展開です。


本当に「随筆」のはずだった
著者のいとうせいこう氏のインタビューを読むと、「最初は本当に随筆のはずだった」というから驚きです。
え、だって、各章の終わりには「軽度処置、中度処罰、投与量加増」なんて検閲官による処置の報告が書かれているから、最初から小説だったように思えますが、これはあとから追加したんですかね?
そのへんのことはよくわかりませんが、「随筆と小説の違いって何なんだろう」という興味で随筆を書こうとしたら結果的に小説になったと。

私はいとうせいこう氏の作品を読むのが初めてなので、全作品のうちフィクションとノンフィクションの割合がどれぐらいとかまったく知らないから、氏が小説家なのか随筆家なのかすらわかっていません。ただ、インタビューを読むかぎりではかなりの小説好きと見られ、おそらく随筆よりも小説が好きなのでしょう。だから、随筆と小説の間のぎりぎりのところで随筆に踏みとどまるものを書こうとしたにもかかわらず最終的に小説になってしまった。そこがとてもチャーミングだと思いました。


私の「私小説」
私が書いた私小説は前にも書いたように二人称で書かれています。作者の私が私自身を「おまえ」と名指しし、徹底的に責めぬく内容です。しかし、責めぬきながらも、最後はやはり自分かわいさからか、ちょっとした救いを書いてしまったんですね。

ちょうど、この『小説禁止令に賛同する』のいとうせいこう氏が随筆を書こうと企図しながら最終的に小説になってしまったように、私の作品は私自身を最後まで責め苛むものにしようと企図しながら最後の最後でやさしい言葉をかけてしまった。


「たとえ世界は変えられなくても」
もうかなり前のこと、9.11の直後くらいだったと思いますが、新聞にイタリアの新進気鋭の小説家のインタビューが載っていました。

「書くことで世界は変えられないかもしれない。でも書くことで自分自身が変わることはできる」

まずは自分の足元から、といういい言葉でした。

『小説禁止令に賛同する』はそういう作品のような気がします。小説とはいかにくだらないかを説きながら、実は最初から小説を企図していて、検閲官に喧嘩を売って処刑される主人公。というのは、著者のもともとの意図ではなかった。書いているうちにそうなった。小説を愛する心が作品を変えた。その作品によっていとうせいこう氏が変わったかどうかは知りませんが、変わったと信じる。

私の場合、自分を責めぬく内容を意図しながら、最終的に自分をいたわってしまった。これでいいのか、と思いながらも、あれを書く前と後で確実に自分の内側から変わった気がする。たぶん、最後まで自分を責め苛んでいたら、こんなふうに本を読んだり感想を書いたりできなかったでしょう。もしかしたら死んでいたかもしれない。

書くことで自分自身が変わることはできる。ということを身をもって実感しました。これは映像作品の脚本を書いていたときにはまったく味わえなかった境地です。

『小説禁止令に賛同する』という小説は「書かれた」というより「生まれた」。私の作品も生まれた。その作品によって新しい「私」が生まれた。

僭越ながら、いとうせいこう氏の身の上にも同じことが起こっていると推察します。

氏は「これはやっぱり政治小説ですよ」と言っています。
私にとってこの『小説禁止令に賛同する』は、作者の小説への愛が迸り出た「私小説」なんだがなぁ、と思っていましたが、自分が変わることで世界を変えることを希求している点において、やはり「政治小説」なのかもしれない、と思った次第です。


二人称小説『ヒロポン中毒』脱稿!

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(承前)①小説を書き始めました 
     ②酸欠状態になりながら小説を書くということ


約一か月前から突如書き出した生まれて初めての小説がようやく脱稿できました!

いやぁ~、この1か月、本当にきつかった。酸欠状態にもなったし、酸欠が怖くてなかなか机に向かえなかったり。

まぁ途中からは書きながら深呼吸すると術を身に着けましたが、書き直しもきつかった。何しろ自分で自分を責めぬく内容ですからね。一文一文が突き刺さってくる。

俺はどうしてこんなしんどいものをわざわざ自発的に書いているんだろうと、書きながら笑ってしまったりもしましたが、前も書いたように、これは「通過儀礼」なのでしょう。これを書いたら一皮むけるという確信がありました。

書き終えたいま、本当に一皮むけたかと問われると、ウーン、、、何も変わってないような気がする。としか答えられませんが、おそらくこれからの生活に生きてくるのでしょう。

タイトルは『ヒロポン中毒』といいます。(最初は『撃つべきはおまえの目』とご紹介してましたが、出す直前に変えました)
そもそも小説作法がまったくわかっていないのに加えて、「二人称」なんて手法を選んでしまったから大変。はたしてこれでいいんだろうか、という心配ばかり。でもま、何とか形になってくれました。(読む人が読んだら一文の価値もない、と言われなかねませんが)

文芸社と毎日新聞社共催の「人生十人十色大賞」というのに出そうと思っています。受賞すれば出版されますが、読まないでくださいね。恥ずかしいこといっぱい書いてあるから。じゃあ何で出すんだよ、と言われそうですが、だって、ほら、書いたからには出してみたいじゃないですか。やっぱりね。

とりあえず重荷を下ろすことができてホッとしました。というか、この重荷は最終目的地までもっていけないんじゃないか、今度こそ最後まで書けないんじゃないかと危惧してましたが、杞憂に終わってくれたのが何よりです。  

あとは野となれ山となれ。


      

酸欠状態になりながら小説を書くということ

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一週間ほど前に「小説を書き始めました」と題した日記を書きました。(→こちら

しかし、あまり書き進められていません。なぜかというと、書くと酸欠状態になるからです。

今回の小説は決してフィクションではありません。フィクションなら脚本でやればいいわけで、わざわざ小説になんかしなくていい。小説を書くなら日本の伝統である私小説を書きたいと常々思っていました。だから「自分のダメダメな半生」を徹底して批判的に描く、というのがテーマなんですが、これが書いてて本当につらい。

しかも二人称で書いているんです。

最初は一人称で書くつもりだったんです。脚本は三人称しかありえないけど、小説なら一人称が可能。どうせ小説を書くなら小説にしかできないことをやろう、と思いましてね。

でも、頭の中に奔流のように浮かび上がってきた文章は二人称だった。つまり、私が語り手となって、私自身に「おまえは本当に情けない」などと責めてくる内容なわけです。画像はそういう意味をこめています。(私が語り手なのだから本質は一人称ですが)

私はもともとつらいことに遭遇すると呼吸が止まってしまう性分でして、書いてるときおそらく息が止まってしまってるんですね。気がつくと頭がボーっとして吐き気がして失神しそうになる。何とか外に出て新鮮な空気を吸って落ち着かせるも、とにかくつらくてそれ以上書けない。

で、翌朝、起きたときからしんどいわけです。別に食べすぎたわけでもないのに朝から胃がもたれている。とりあえずヨーグルトを少量食べるだけにしても、胃は一日中もたれ続ける。そのうえ何もする気が起こらない。

そんな日が二日続くと次は書けるんですよ。昨日書いたときは酸欠にならないようにできるだけ意識的に深呼吸しながら書いていました。幸い酸欠にはならずにすみましたが、それでも書き終わったらぐったりして横にならざるをえず、寝れたらいいのにこれがまったく眠れない。

というわけで、今日も朝11時に起きましたが、起きた尻から胃がもたれている。何もする気が起こらない。だから今日は予定どおり休養日。

しかし、こんなつらい思いをしてまで書く必要があるんだろうかと疑問に思う。でも、書きたいわけではなく、書かねばならないという義務感で書いているので、書く必要はあるのでしょう。書き終えたら、新しい自分になれるのかもしれない。そうじゃないかもしれない。

わからないから最後まで書きます。


続きの記事
二人称小説『撃つべきはおまえの目』脱稿!



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