聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

文化・芸術

女と土俵①女人禁制はカネになる

結論から先に言いますと、女人禁制の本当のところの理由は「カネ」だと思います。相撲であれ、大峰山などの霊山であれ何であれ。


女性には「価値」がある
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まるで女性を物のように扱うこのような場面に顕著なように、女性には「価値」があります。価値があるから貨幣と同じように交換の対象となるわけで、男には何の価値もないから交換の主体になるしかない。文化人類学ではそういうことになっているらしいです。確かに洋の東西を問わず女性は交換の対象になっています。

今回の大相撲の女人禁制問題は、人が死にかけているのに人工呼吸をしようと土俵に上がった女性に「下りてください」とアナウンスしたことに世間が怒りの鉄槌を降したことに端を発していますが、あれは非難されて当然でしょう。女人禁制が妥当かどうかはこれからみんなが考えていかないといけない問題ですが、多くの識者の言うとおり、人命より優先される伝統やしきたりなどありません。

ただ、そのせいでみんなヒステリックに「女人禁制などナンセンス!」とがなり立てすぎではないでしょうか。もうちょっと冷静に考えてみようというのがこの記事の眼目です。


山の神は「女」
12年前に脚本家の内館牧子さんが『女はなぜ土俵にあがれないのか』という本を出しました。まったく憶えてないので図書館で借りてきました。まだ読んでませんが、気になる関連書も一緒に借りてきました。

その一冊、『女の領域・男の領域』という本では、「女人禁制」について丸々一章が割かれています。

初めて知ったんですけど、トンネル工事も女人禁制なんですってね。霊山が女人禁制なのと理由は一緒で、山の神は女神だから女性が入ると嫉妬して激怒するからなんですって。

これと同じように、狩猟は山で行われるものだから女人禁制。だけど面白いことに、漁業でも同じように女性は船に乗せない場合が多々あるらしいんですが、それはあくまでも日常的な漁の場合であって、新しく造った船の船おろしには女子を化粧させて乗せたり、豊漁祈願の祭りでは妊娠した女性を乗せるとか。
女性には子どもを産む能力があり、そのために月経の血を穢れとして忌む風習もあれば、逆に生殖能力を利用して豊漁を願うこともある。つまり、時と場合によって何とでも言いかえることができるんですね。


「作られた伝統」とは
言いかえることができると言えば、今回の相撲の女人禁制で識者の多くが口にしていた、「江戸時代には女相撲とか普通にあって、女人禁制になったのはたかだか明治以降。作られた伝統なのになぜ守らなきゃいけないの?」という言説には違和感を禁じえませんでした。
だって、それを言ってしまったら「いつ作られたか明確にわからない伝統」においては女人禁制を認めないといけなくなるじゃないですか。

伝統というのはすべて「作られたもの」なんじゃないの? 比較的浅い歴史しかない伝統を「作られた伝統」とよく言いますが、しょせん伝統なんて人間が始めたものなんだから地球や宇宙の歴史からしたら浅すぎるほど浅い。


経済的な理由で変わる伝統
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大峰山などの霊山で女人禁制なのは「山の神は女で女が入ると嫉妬するから」とされていますが、しかし、神が人を作ったのではなく「人が神を作った」のだから、「女が山に入れない理屈を作るために、男たちが山の神を女にした」のが本当だと思うんですよね。

何のために? 
古来の女人禁制の理由についてはまだわかりません。もっと勉強しないといけない。

ただ、はっきりしているのは、現在の女人禁制の理由は冒頭にも掲げたとおり「カネ」です。

大峰山だって、1970年に女人禁制の結界をだいぶ狭めたそうですが、その理由は「観光による地域振興」とはっきり謳っていたそうですから。それに、若者がみんな都会へ出てしまうから女性も山仕事をしないと追いつかなくなり……ということなんだとか。
しかしそれならすべての結界をなくしてしまえばいいのに、と思いますが、女人禁制をいまに残す最大の理由は「信仰と経済」の問題らしいです。つまり、女人禁制を解けば「一般の山」になる。観光客は増えても信者は来なくなり経済的に疲弊するんだとか。つまりは信者にとって「唯一の山」でありたい、と。

女人禁制を守る理由もカネなら、ゆるめる理由もカネ。

甲子園もそうですよね。おととし、女子マネージャーが甲子園に入ることを許されませんでしたが、同じ甲子園でもプロ野球の始球式を女性タレントがすることがあります。なぜそれは許されるのか。女性タレントを呼んだほうがカネになるからに決まっています。

じゃあ、なぜ高校野球のときはダメなのか。それはたぶん、「唯一性」だと思います。

祇園祭で2001年に山鉾に女性が乗ることが許され、300年ぶりに女人禁制が解かれたということが話題になりましたが、そのときも反対派には「いくら男女平等といってもそういう場がひとつくらいあってもいいと思う」という人が多くいたとか。

今回の「土俵に女は是か非か」の議論でも「そういう場があってもいいのではないか」という人がいる。
そして、「唯一」や「他と違う」というのはそれだけで「価値」つまり「カネ」となります。

だから、土俵に女を上げないというのもそういう唯一性、他とは違う場所≒神聖な場所として担保しておきたいということなのでしょう。

ただ、そう結論した途端に疑問が湧きおこります。

なぜ、「唯一性を担保するために“女人禁制”が要請されたのか」です。「老人排除」でも「障碍者排除」でも「子ども排除」でも「ハゲ排除」でもなく、なぜ女性が排除されるのか。

これはまったくの推測ですが、冒頭に書いたとおり、女性そのものに「価値」があるから男性がそれを恐れてこういうことになったんじゃないかなーと。しかしこれは推測の域を出ません。

まだまだ勉強が必要なようです。(つづく)

血を吸うカメラ(KaoRiさんのアラーキー告発をめぐって)

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自分でも「天才」と称し、そういう振る舞いが「彼らしい」と称賛されることが少しも不思議ではなかったアラーキーこと荒木経惟が16年もの間モデルをしていた女性KaoRiさんから告発されて話題になっています。

ネット上では「アラーキーの写真はもう見ない」とか「アラーキーなんて死刑になるべきだ」などのバッシングも起こっているようです。彼は、ひどい嘘で騙して裸にしたり、脅迫したり、納得できない書面に強制的にサインさせたり、やりたい放題だったので断罪されてしかるべきでしょう。

でも、私自身はあまりそういうことに関心がありません。もっと構造的な問題のほうに興味が……。

と思っていたら、「これはアラーキー個人の問題ではなく、広く芸術一般の問題として捉えるべき」「『撮る/撮られ』『見る/見られる』という権力構造の問題だ」という冷静な卓見もあって、私はこちらに与したい。そして、参照すべきは1960年のイギリス映画『血を吸うカメラ』です。さまざまな工夫が施された映画ですが、一番のポイントは「盲人の目」でしょう。


『血を吸うカメラ』
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物語は、女性にナイフを突きつけ恐怖に歪む表情を撮影する男が、最終的に自分自身にナイフを突きつけ恐怖に歪む自分自身を撮影しながら自死する、というもの。(ちなみに、この主人公は撮影所に勤務する映画監督志望の青年ですが副業としてアラーキーのようなヌード写真も撮っています)

撮る人間が撮られる人間を殺すという、まさに「撮る/撮られる」という権力構造・支配構造ですね。

なぜ主人公がこのような凶行をするようになったかというと、幼い頃に精神科医だった父親が恐怖について研究するために、息子や妻など家族みんなの部屋に盗聴器を仕掛けて完全なる支配者として君臨していた。主人公は眠っているときに大きなトカゲをベッドに投げられ泣き叫ぶところを8ミリカメラで撮られたりするなど、かなりひどい心の傷を負いました。

彼は被支配者として未曽有の恐怖を感じさせられたために、長じてからは自分が支配者になることで傷を癒そうとしたのでしょう。

ところで、私は映画を撮ったことはありませんが、撮られたことはあります。
友人が監督する自主製作映画で俳優として出演しました。そのとき、監督があまり演技指導をしない主義で、「こうしたらどうか」と言うと、いつも「それでいい」という返事しか返ってこなかった。私はそのことがとても不満でしたが、津川雅彦さんも何かの番組で言っていました。「役者は演出されたいんだ」と。もっとああしてこうしてと言われることが快感であると。

だから撮る者は支配者なのだから当然快感を感じますよね。でも、撮られる者も快感を感じているはずなんですよ。KaoRiさんだって撮られることそのものには少なからず快感を感じていたはず。でなければ16年も被写体でいられたはずがありません。実際、告発文にも撮られること自体が不快だったとは一言も書かれていません。

『血を吸うカメラ』の主人公は最後、「恐怖は喜びなんだ」と叫んで自分の首を刺したあと、幼い頃の自分の声を思い出します。「おやすみパパ、手を握って」。

あれだけ恐怖を感じさせられた相手に手を握られると安心して眠りに落ちる。支配者と被支配者の間には何か甘美なものがあるのではないか。監督に何度もダメ出しを食らうとうれしくなる津川さんのような役者も同じ甘美さに酔っているのだと思います。だからといってもちろん、別にいいじゃないかと言いたいわけではありません。冒頭に記したとおり、アラーキーは断罪されてしかるべきです。

しかしながら、アラーキーとKaoRiさんが『血を吸うカメラ』の父子のように「共依存」の関係にあったことは間違いありません。まさにこの共依存こそ「写真」や「映画」に潜む構造的な問題じゃないでしょうか。

一方的に撮られ、撮る者だけが快感を感じるのなら作品を残すことなど不可能です。しかし撮られることそのものに快感を感じれば数多の作品が作られる。おそらく非凡な写真家・映画監督というのはモデル・俳優にそのような「撮られることの快感」を感じさせることに長けているのでしょう。

だから、写真芸術というものがあるかぎり、この「撮る/撮られる」の構造から抜け出ることは不可能です。

と思ったいたら、ある方が「『撮る/撮られる』という関係性から抜け出る手段として『自撮り』がある」と発言されていて、これも卓見だとは思ったものの、『血を吸うカメラ』のことを考えるとちょいと疑問です。あの映画には「撮る/撮られる」という権力構造とは別の仕掛けもあるからです。


自分自身に見られる恐怖
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この画像で最も大事なのはカメラでも三脚に仕込まれたナイフでもありません。カメラの横に大きな円いものがありますね。これは実はなのです。被害者は恐怖で歪む自分自身の顔を見ながら、つまり恐怖する自分に見つめられながら死ぬわけです。

殺人鬼や彼が回すカメラに見つめられる、そういう「撮る/撮られる」「見る/見られる」の関係だけでないところが肝要です。撮られている・見られている自分が「(自分自身を)見る/(自分自身に)見られる」という二重構造になっているわけです。

自撮りでは、自分で自分を見ながら撮るわけですよね。誰か別の人間には見られていなくとも、自分にだけは見られているわけです。これはもうアラーキーのセクハラ・パワハラから完全に離れて「写真」というものの本質の話です。

別の人間に撮られようと、自分で自分を撮ろうと、「自分は撮られている」という感覚からは絶対に逃れられないのではないでしょうか。


盲人に見られるということ
『血を吸うカメラ』にはもうひとつ仕掛けがありまして、それはヒロインの母親が「盲人」であることです。
盲人ならではの勘の鋭さで主人公が何かよからぬことをしていると見ぬくんですが、見ぬかれた主人公は何やら不気味で盲人の目を見られない。その目は何も見えていないのに、見えない目に恐怖する。
これはもしかしたら、主人公が父親に盗聴されていたことから来るものなのかもしれません。父親の目がなくても生活の一部始終を監視されていたのだから。フーコーのパノプティコンのようなものでしょうか。それを盲人の目に感じているのか。
いずれにしても、見えない目にも人は「見られている」という恐怖を感じる生き物だということが肝要です。

この盲人の目というのは、写真芸術で言えば「鑑賞者」ですよね。撮影現場にその「目」はないけれど、いずれ被写体を見るであろう「目」。パノプティコンのようにモデルを支配するはずです。もしかしたら自撮りであれば撮る者がいないぶんよけいにその「見えない目」を意識してしまうかもしれない。いや、意識しなければならない。なぜか。


「血を吸わないカメラ」は存在するか
展覧会などでお披露目される写真にしろ、SNSに載せるための写真にしろ、誰かに見てもらう以上は「撮る/撮られる」の両方を自分がやる、つまりそのような支配構造から自由になったとしても、鑑賞者の「目」が最終的な権力として立ちはだかります。

撮る者の支配からは脱することは可能でしょう。でも、それが広く見てもらう芸術写真・商業写真である以上、見る者の支配からは逃れられない。見てもらわないかぎりは作品として成立しないのだから。それが芸術写真であれエロ写真であれ、誰かに見てもらうために写真を撮るとき、すべてのカメラは「血を吸うカメラ」になるのだと思います。

「血を吸わないカメラ」というものがもしあるとすれば、撮った写真を自分だけで楽しむ、あるいは家族だけで楽しむ記念写真を撮るときだけの存在ではないでしょうか。

ただその場合でも、その写真を共有した人物がネットに上げてしまえば永久に鑑賞者の目に晒されます。つまり、撮る時点では血を吸わないカメラで撮った写真でも、事後的に血を吸うカメラで撮った写真に変容するということです。リベンジポルノなんてその最たる例でしょう。

だから、現代において「カメラはすべて血を吸うカメラである」と言っていいと思います。

カメラマンはモデルの血を吸っている。
モデルはカメラマンに血を吸われている。

両者がこの事実をきちんと自覚していれば被害は最小限に食い止めることができるような気もしますが、構造的な問題である以上、我々人間にそのような芸当がはたして可能なのでしょうか。



『スターウォーズ』が好きになれない理由(宗教と体内時計)

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いま最新作が公開中の『スターウォーズ』シリーズ。

私は少しも好きになれないので最初の三部作しか見てないんですが(実はエピソード1と去年の7も見に行ったんですけど最初から乗れずまったく覚えていません)なぜ好きになれないのかを考えてみました。

これは「SF」じゃないんですよね。

SFとはつまり「sience fiction」。よく「空想科学小説」とかって訳されますけど、この語の要諦は「科学」にあると思います。


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太陽が二つある星
最初の三部作の主人公ルーク・スカイウォーカーが生まれ育った星は、ご覧のように太陽が二つあります。

地球にはもちろん太陽がひとつしかありません。なぜジョージ・ルーカスが二つにしたのかは、おそらく、地球とは違う別の惑星であることを示したかったとか、太陽が二つあるほうが画的に面白いだろうとか、単純な理由なのでしょう。それが悪いとは少しも思いません。

が、どんな理由であれ、「太陽が二つある惑星」と設定した以上は、そこに生まれた知的生命体は地球人とは違うということを科学的に探究すべきだと思うんです。


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地球では一神教が幅を利かせています。それはおそらく太陽がひとつしかないからでしょう。だから太陽が二つある世界では「二神教」が幅を利かせている可能性が高い。

地球には多神教もありますが、この「多」というのがいくつ以上を指すのか判然としません。しかしながら、数学の世界では、三角形以上はすべて「多角形」です。

であるならば、「一神教」と「多神教」の間にある唯一の宗教が「二神教」になると思われます。

いったい二神教とはどんな宗教なのか、太陽がひとつしかない世界で生きる私たちにはまったくわかりませんが、『スターウォーズ』ではそれを探った形跡がまったくないんですね。

もうひとつ問題があります。「体内時計」です。

太陽が二つあるということは、それだけで生命体にものすごい影響を与えると思われます。

地球人の体内時計は25時間。毎朝日光を浴びるたびにリセットされるので、地球の自転周期24時間に合わせて生きていますが、太陽が二つあると厄介ですよね。朝起きてひとつ目の太陽でリセットされて、さらにまた数時間後にリセット・・・寝ようにも寝られないのでは?

太陽が二つあるというだけで自然界はかなり荒れ果てた感じになると思われます。

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もし月も二つあったら…
ルークの星に衛星が何個あったかは憶えていません。それを示す映像があったかどうかもわかりませんが、仮に衛星が二つあったと仮定すると、これまた厄介です。

地球人は月の影響をかなり受けています。だから、「肝」「腎」「腕」「脚」など、体の部位を表す漢字には「月」が入っている。

海もそうですよね。月の引力によって干潮になったり満潮になったりしますが、月が二つ以上あったら、海は大荒れでしょう。航海なんかできないんじゃないでしょうか。

それ以上に、海の中の生物も落ち着いて棲息することができないような気がします。

ということは。

太陽が二つ、月が二つある惑星では、生命がまともに生きていくことができない。それはつまり、「地球のように水と酸素がふんだんにあっても、太陽がひとつ・月もひとつの惑星でないと生命は生まれない」ということなのかもしれません。

ただ、これはあくまでも、太陽がひとつ月もひとつの惑星に住む私たちだから「そんな星ではまともに生きられない」と思うだけであって、その星に住む宇宙人にとってみればごく普通の生活を営んでいるだけかもしれません。

でも、その「ごく普通の生活」っていったいどんなもの?

わかりません。

というか、それを探求するのが「SF」だと思うんですよ。

『スターウォーズ』では、「わからないなりにこう考えてみた」ということをまったく示してくれません。最初から何も考えていないのです。だから好きになれない。



「レディ・ファースト」の真実

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レディ・ファーストって「まず女性から」という言葉どおりの意味ではないんですって。

えーっ、ウッソーーーー!

というか、仮に言葉どおりの意味だとしても、「まず女性が準備して男性を迎える」「まず女性が先に食事を済ませて退出し、男性の会話に加わらない」という極めて男尊女卑的な言葉だったらしいんです。へぇ~~~、ってな感じですね。

女性が取るべき行動を表す言葉だったのに対し、いまは画像のように男性が女性に対してとるべき行動のような意味になっています。

ところが!!

そのさらに前、大元はぜんぜん違う意味だったらしいんですね。

これも、こないだ読んだ佐藤優さんの『学生を戦地に送るには』で知ったことなんですが・・・(あの本は講演を採録したものなので脱線が多いんです)



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レディとはladyで、淑女と訳しますが、もともとはlord、つまり貴族の夫人という意味でした(『ロード・オブ・ザ・リング』の「ロード」ですね。支配者とか神、イエス・キリストという意味もあるとか)。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と5つの爵位があり、それぞれを表す言葉もありますが、妻になるとすべてladyなんだとか。

レディ・ファーストのレディって、実はこのlordのことなんだそうです。lordの女性形がladyなので。

厳格な階級社会であるイギリスでは、下流階級のことをジェントリ(gentry)といいます。

このジェントリよりもロードを優先せよ。つまりは、階級の上の者が先に決まってるだろ、という、きわめてイギリス的というか、階級社会イギリスを象徴する言葉なんだとか。

そういえば、もう15年ぐらい前、ベッカム・フィーバーが起こったとき、こんなことを言う評論家がいました。

「彼がいかに大金を稼ぐスターであっても、喋ったとたん労働者階級であることがわかる」

すごく嫌な物言いだなと思ったんですが、本国イギリスではもっとすごいんでしょうね。おそらくベッカムのような下流階級の人間を蔑む貴族階級の人たちってたくさんいそうです。

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という呼びかけがありますが、あれも、「淑女と紳士」ではなく、「上流階級と下流階級のみなさん」という意味なんだそうです。常に上流階級が先なんですね。

目からウロコ!!!

シナリオを書くときにとても大切なこと

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これは、私がかなり前に書いたシナリオ原稿の文字の部分だけ塗りつぶしたものです。

ある高名な脚本家によると、これだけでこのシナリオがよくないシナリオとわかるそうです。

では次に、数年前に絶賛されたある映画のシナリオを原稿用紙1枚分だけ書いて、その部分を塗りつぶしてみました。


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どうでしょうか。こちらは件の高名な脚本家によると、これだけでかなり読む気にさせるシナリオだとわかるそうです。そういえば、フジテレビのヤングシナリオ大賞を取っていまも大活躍中の別の高名な脚本家も同じことを言ってました。


どういうことかというと、


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ちょっと見えにくいですが、文末を赤ペンでたどってみました。ものすごくギザギザが大きいですよね。折れ線の角度が鋭角になっている。こういうのがいいシナリオの条件だそうです。


最初に見せた私の原稿を赤ペンでたどってみると、


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ほとんどギザギザがありません。これは非常に読みにくいし、読む者の気持ちを萎えさせるシナリオということになるそうです。

どうしてこういう原稿になってしまうかというと、自然にそうなるんじゃないんですよね。コンクールに出す場合には厳密な枚数制限がありますから、削るときに、一文字二文字だけで改行になっているところは、どうしても一文字二文字だけ削除したくなるわけです。

「~~らしいんだよ」
     ↓
「~~らしいよ」

とか、

「とにかく、~~」
    ↓
「兎に角、~~」

とか、

「ただ、それを言ったら~~」
    ↓
「ただそれを言ったら~~」

みたいな感じで強引に2行を1行にしてしまう。そうやっていろんなところを削除してたんですが、これをすると、どうしても画像のように、1行20文字を目いっぱい使ってしまうことになります。で、塗りつぶすと真っ黒になってしまう。

本を読んでいるとき、改行がほとんどないページって読むのしんどいでしょ。あれと同じです。

だから、カットできるところをカットするのは内容を煮詰めるのにとても大事なことですが、できるだけ大きなギザギザを残したまま削っていくことが重要です。

つまり、ひらがなを漢字にして2行を1行にするとか、語尾をちょっとだけ削るとか、読点を省略するとかそういうことじゃなくて、そのセリフそのものをカットできないか、そのシーンを丸ごとカットできないか、と大きな視野に立つことが重要なのです。

かつて、姑息な手で削る作業をしていたからこそ、大いなる自戒と後悔をこめて!!




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