文化・芸術

2019年05月07日

昨日は『早春スケッチブック』の最終回を見て、またも号泣。そして、またぞろ自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪に陥りました。

詳しくはこちらの日記をお読みください⇒『早春スケッチブック』(慚愧の念に耐えられない)

もう脚本家の夢を諦めて早や4年。諦めたといっても友人が監督する短編アクションのシナリオを書いたり、コンクールに出す用のシナリオを書いたり、東京のプロデューサーから企画コンペに参加してと言われてプロットを書いたりしていました。

それでも、やっぱり「もうかなわぬ夢はあきらめたほうがいいのではないか」とも思っていました。

最近じゃ、「こんな話はどうか」と天啓が下ることはほとんどなく、「こんな日記はどうか」とブログのことばかり考えている。

それならそれでいいじゃん。どちらも同じ「書く」ってことなんだから、と。

最近、村田沙耶香の『私が食べた本』という書評集を読んでいたら、「また小説でも書くか」みたいな気持ちが芽生えてきました。

しかし、橋本忍のこんな言葉も同時に思い出すのです。

「脚本家から小説家になった人はたくさんいるが、彼らは逃げたのだ。シナリオは設計図だからはっきりした線を引かねばならない。小説は文章表現だから曖昧な線でも許される。彼らはその曖昧さに逃げたのだ」

私が周囲から「小説は書かないの?」と言われても頑なに書かなかったのはこの言葉が常に付きまとっていたからです。

とか言いながらちょうど一年前に小説を書きました。でも三人称の小説だけは書くまいと思っていたら世にも珍しい二人称小説などに手を出してしまいました。

また小説を書こうか、という気持ちはあるのです。やっぱり自分は評論家ではなく作家になりたい。でもシナリオを志しながら小説を書くのは「逃げる」ことだからやめておこう。

やっぱり自分はドラマをやりたい。文章表現ではなく、具体的な人間が対立葛藤を演じる「劇」をやりたい。

この10連休(正確には8連休プラス1休)には少しは創作ノートを開こうと思っていたのですが、春先の疲れが残っていたのかまったくできず。懸案の台所掃除すらできなかった。

今日は連休明けということでやたら忙しく、帰ったらすぐ寝ようかと思っていたんですけど、アデルのライブアルバムを聴きながらカズオ・イシグロの『日の名残り』なんぞを読んでいたら創作意欲に火がつきました。

というか、東京で最後に書いた、いや書こうとして書けなかったシナリオをアレンジしたアイデアが湧き出てきました。

どんなアイデアかって? それは内緒。

書くのです。永遠の夢に向かって。




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2019年04月02日

昨日昼前に新元号が「令和」と発表されました。

何でも、新元号関連のツイートが450万もあったらしく、そのせいなのか休憩時間に覗こうとしてもアクセスできませんでした。

さて、今回の改元で、またぞろ「新元号なんか興味ない」などという人をたくさん見かけましたが、私に言わせれば「カッコつけているだけ」。斜に構えている自分に酔っているだけだと思う。普通の日本人なら興味あるでしょう。

というか、「元号不要論」がまた幅を利かせてきました。役所である外務省が、これからは元号を使わず西暦で行くとか。まぁ外務省は外国が相手だからそれは致し方ない。しかしながら、外国と一口に言っても西暦を使っているところばかりじゃない。イスラム歴の国と文書を交わすときはどうするんだろう(これまでどうしてきたんだろう)という素朴な疑問が湧きます。

元号がないほうが計算をしやすいという利点があるのはわかりますし、コンピュータで何でも処理するようになった現在、改元の度にシステムを変えるのはいろいろと面倒だし金もかかる。

だから元号不要論があるのは理解できます。理解できますが、私は元号はあったほうがいいと思います。

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(平成の画像を使ったのは、単に菅が嫌いだから)

改元という「フィクション」
西暦にしろ和暦にしろ、時間的な区切りというのは「フィクション」にすぎません。

動物を見ればわかります。彼らは日付とか曜日に関係なく生きています。大晦日から元日になる瞬間に何らかの感慨を抱くなどということがありません。世紀末に不安になったり、新世紀を迎えて祝ったり、そんなことをするのは人間だけです。人間にはフィクションが必要なのです。

古来、元号というフィクションに一番求められたのは、「気分を変える」というものでした。飢饉や災害でしょっちゅう改元されていました。暗い時代といまとの間に「結界」を張ったわけですね。

いまは一世一元になりましたが、明治、大正、昭和、平成、ときて、令和。まだ「れいわ」という音の響きと「令和」の字面に馴染めませんが、そのうちに馴れるでしょう。平成だって最初は「ダッセー! 昭和のほうがかっこいい」と思ってましたから。

俗に「景気は気から」と言われますが、改元をきっかけに好景気になるかもしれません。人間は気分で生きているのだから充分ありえることです。


フィクションから意味が生じる
1990年だから平成2年ですか、キネ旬で「80年代ベストテン」という特集がありました。選者の一人である大久保賢一氏が、日本映画界の80年代に関してこんなコメントを寄せていました。

「1980年から1989年までの10年間という区切りには何の意味もない。あえて意味を見出だすなら、それは『ツィゴイネルワイゼン』から『どついたるねん』に至る荒戸源次郎の10年ということになる」

意味がないと言いながら自分で意味を言っちゃってますね。

そうなんですよ。確かに1980年代という区切りには何の意味もありません。フィクションにすぎないのだから。しかし、いったん区切ってしまえば何らかの意味を読み取ってしまうのが人間という生き物の性です。

意味があるから区切るのではありません。
区切るから意味が生じるのです。

意味が生じるということは、その区切られた時代に思い出が生まれるということ。

「80年代」「90年代」「2000年代」「2010年代」「2020年代」という区切りと、「昭和」「平成」「令和」という区切り。

西暦と和暦の両方使えば、人生は豊かになります。

だって、我が身を振り返る回数が増えるのだから。今年2019年は平静を総括し、来年は2010年代を総括する。総括とは反省のこと。反省すればより良い明日がやってくる。

元号が絶対必要だというわけではありません。そのほうがより良い人生が遅れるんじゃないかと申し上げる次第。

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2019年01月26日

さっき気になるツイートを見かけました。 確かにおっしゃる通り、と言いたいところですが、本当にそうでしょうか?


両方大事の哲学
私は、創作にかぎらず、○○よりも××が大事、という考え方が好きではありません。

小学4年生のときの担任O先生が、肝臓がいかに大切な臓器であるかを説明するときにこんなことを言いました。

「肝臓は心臓よりも大事なんですよ」

いやいや、心臓がなかったらすぐ死んでしまうじゃないか! それぐらい肝臓が大事だという気持ちはわからないでもないけれど。

それと同じで、脚本の書き方を学ぶことより脚本そのものを読むことのほうが大事という意見に私は与することができません。

高校1年のときの哲学(倫理)の担任だったI先生は、プラトンやアリストテレスを読む暇があったら『北斗の拳』を読めという変な教師でしたが、あの先生の信条は、

「両方大事」

というものでした。

有名な話があります。
「100匹の羊がいて、そのうちの1匹がいなくなった。その1匹を犠牲にして残りの99匹を守るのが政治家の仕事。99匹を犠牲にしてでもいなくなった1匹を探し求めるのが芸術家の仕事」
というアレ。

アレをI先生は一刀両断にしました。政治家であろうと芸術家であろうと、99匹を守りながら1匹を探すべき。両方大事、すべて大事なんだと。

よく脚本家がいかにシナリオが大事かを言うために、

「いいシナリオから悪い映画ができる場合もあるが、悪いシナリオからいい映画ができることはない」

という言葉を引き合いに出しますけど、それってこの言葉の表の意味だけですよね。裏には「演出や演技、撮影、編集などすべてがいい仕事をしないといい映画はできない」という意味が隠されているのに。

だから「両方大事(すべて大事)の哲学」はこの世のすべてのことに応用すべき真理だと思うのです。


落書きのすすめ
脚本そのものを読むことが大事であることは論を俟ちませんが、その前にまず書くことが大事なんじゃないでしょうか。

絵を例にとれば簡単です。誰も幼い頃に絵の描き方なんか学ばないし、名作絵画を見ることすらしません。まず落書きをします。それから描き方の勉強をする。そうすれば、描けない線の描き方がわかる。出せない色の出し方がわかる。

くだんのツイート主さんもおそらくはまず書くことが前提で、その次に脚本そのものを読みなさいと言ってるんだと思うのですが、しかしながら、先に2、3本書いているのであれば、書き方の本を読んでもいいと思います。それから名作脚本を読んでもいいのでは?

だって、読むのだって書き方の勉強の一部でしょ?

もしかすると、最近の脚本家志望者は名作脚本を読まないから、もっと読めと言いたいのか。

でも、読むことは書き方の勉強の一部なんだから、まったく書かずに読んでもわからないでしょう。ある程度自分で書いて「こういうときはどう書けばいいんだろう?」という自分なりのクエスチョンをもって読まないと意味がない。いきなり読んだってわからないでしょう。少なくとも私は、生まれて初めて脚本を読んだときまったくわかりませんでした。面白いのかどうかさえ。

だから、まず最初に書く、という順番さえ守れば、

「書くことと読むことの両方大事」
「読むことと書き方を勉強することの両方大事」


というのが私の結論です。
どちらかがより大事、どれかひとつが一番大事なんてありえません。




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