書籍・雑誌

2019年09月18日

イギリス在住のブレイディみかこさんの子育てをめぐるエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が抜群に面白かった。文壇で話題をさらったというのもうなずけます。


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イエローでホワイトで、グリーン?
著者は若い頃に渡英して、現在はアイルランド人の夫と息子と三人でブライトンという町に住んでいます。その息子を通して現代の病巣を見つめるバランスのいい姿勢が全体を貫いているのですが、書名の由来は、息子が宿題で書いた文章「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」から来ています。黄色人種と白人の混血だからブルー(憂鬱)なのかと著者は思うのですが、息子は「ブルーは怒りの意味だと思ってた。添削された」と。はたして息子が書いた「ブルー」はどっちの意味なのかと最初のエッセイは問いかけたまま終わります。

そして最後のエッセイでその答えが!

やっぱりブルーは憂鬱ということだったらしい。でも、環境問題に関心をもち、アメリカのバンド、グリーン・デイが大好きな息子のいまの気持ちは「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」なんだとか。

環境問題がグリーンなのはわかるけど、「嫉妬」という意味もあるのは知らなかった。でも息子が一番グリーンにこめた意味は「未熟」「経験が足りない」ということらしい。なるほど、バナナも大豆も未熟なものは緑ですもんね。(枝豆が熟したものが大豆ですよ~)

移民の子どもだからブルー、混血児だからブルー、そういうのはきっと前時代的なコンセプトなのだと著者は結論します。そして「いまの彼はグリーンなのだ。その色はこれから変わり続けるのだろう」と息子の成長を見守る良妻賢母的な、あ、いや、肝っ玉母さん的な言葉と言ったほうが著者のお気に召しますかね? とにかくそういう一言でこの本は幕を閉じるのですが、何と刊行後も連載は続いているそうで、見事な幕切れだと思ったけれど、「このへんで単行本出せるから結論めいたもの書いてくださいよ」という編集者の要望に応えてのものなのでしょう。加筆・訂正という文言は一切ないし。


では、以下にこの本を読んで特に心に残ったところをつらつらと。


エンパシー
息子の期末試験の問題のひとつが「エンパシーとは何か」で、夫が何と書いたかと聞くと、

「自分で誰かの靴を履いてみること」

と答えたそうな。英語での定型表現で、他人の立場に立ってみるということだとか。日本語に訳すときは「共感」「感情移入」になることが多いとか。

イギリスは現在、EU離脱やテロの問題があり、これらの困難を乗り越えるためにはエンパシーが必要だ、いまはエンパシーの時代だというのが教師の主張らしい。それだけでもイギリスと日本の教育現場の差は大きすぎるほど大きいように思うけど、著者はさらに難しい問題を読者に突きつけます。

エンパシーに似た言葉にシンパシーがあるが、どう違うか。

辞書によると、シンパシーは「他者への同情や理解」。何だ、ほとんど同じじゃないか、と思うけれど、決定的な違いは、エンパシーは「能力」だということ。

シンパシーは、自分と似た境遇の人やかわいそうな人に対して自然に出てくる同情や理解のことだけど、エンパシーは能力だから、自分とは相容れない考えをもつ人や特にかわいそうとは思えない人に対して、その人はどういうことを考えているかを考える力のことなんだそうな。シンパシーは感情の状態、エンパシーは知的作業と言えるとか。なるほど。

しかし日本語にそのような言葉はない。「相手の立場に立って考えなさい」とはよく言われるけれど、それを指し示す単語はない。言葉がないということは概念がないということ。しかし、逆に言えばそういう意味の言葉を作れば概念が生まれるのではないか。明治維新の頃、「演説」「自由」などの訳語を案出した福沢諭吉や、「哲学」「芸術」「理性」などの西周のように。

と思ってちょっとだけ考えたんですけど、エンパシーをどういう日本語にしたらいいか、少しも妙案が浮かびませんでした。。。


いろいろあるのが普通
夫がアイルランド人なので著者の家はローマカトリック。カトリックでは体外受精は禁じられているのに息子はそれで生まれた。大きな声では言えない。いや小さな声でも言えない。ずっと息子に秘密にしていたけれど、小学校の高学年になったときに打ち明けた。かなり複雑な反応をするに違いないと踏んでいたのに、

「クール。うちの家も本物だなと思っちゃった」

と返事が返ってきて驚いたそうな。息子が言うには「いろいろあるのが普通だから」と。

エンパシーという言葉をネイティブに知っているからそう思えるのか。リベラルな著者夫妻に育てられたからそう思えるのか。どちらかはわからないけれど、小学校高学年でそういうことが言えるというのはすごいことだと思う。彼我の差は本当に大きい。


クエスチョニング
日本ではアホな政治家が「LGBTは生産性がないから~」などという発言を普通にしますが、イギリスも同じらしく「同性愛と国益は相反する」と政治家もメディアも同じことを言うそうな。

息子は「LGBTQについて習った」というんだけど、え? LGBTじゃなの? Qって何?

と思ったら、「クエスチョニング」の頭文字らしく、「自分がどういう性的嗜好をもっているかよくわからない人」のことらしい。

試みに調べてみると、さらに進んで「LGBTQIA」という言葉もあるあるらしく、Iはインターセックスで「生まれつき男女両方の身体的特徴をもつ人」の意、Aはアセクシャルで「誰に対しても恋愛感情や性的欲求を抱かない人」なんですって。知らなかった。

クエスチョニングに話を戻すと、以前、新聞のコラムにこんな話が載っていました。

「普通に恋愛結婚をして子どもも二人できた50代の男性が、ある日突然『運命の男』に出逢い、自分が同性愛者であることに気づいた結果、家庭は崩壊したが、男二人で幸せに暮らしている」

そういう人って実際に結構な数いるそうです。若いときに自覚するのかと思ったらそうではなく、運命の人と出逢うことで覚醒するらしい。おそらく「異性愛だけが普通」という抑圧のなかでみんな生活しているから本来のセクシャリティがわからないんでしょうね。

だから、人間はほとんどの人がクエスチョニングなんじゃないの? というのが私の主張。ヘテロと思ってたらゲイやレズビアンだった、という前述の例が多数でしょうが、逆の場合もあるのかも。


セキュア・ベース=安全基地
孤児で里親が何度も変わっている子どもがイギリスにはたくさんいるそうです。親が変わるというのは外界から自分を守ってくれる安定した基地がどんどん変わるのと同じこと。アメリカの心理学者はこれを「セキュア・ベース(安全基地)」と呼んでいるらしい。

そして、「安全基地に恵まれずに育った人間は、どうやって自分が安全基地になったらいいかわからず、子育てで苦しむ」と。

ずっと以前の職場の同僚がこんなことを言っていました。彼は職場の女性と付き合っていたのですが、

「彼女と結婚したいんです。でも子どもがほしいって。それはいやなんです。恐いんです。親からまともに叱られたことがないからどうやって叱ったらいいかわからない」

何と答えたか忘れましたが、なるほど、そういう理由で子どもがほしくない人間もいるのかと。ずっと忘れていたことをこの本が思い出させてくれました。


配偶者
これまで私は著者の配偶者のことを普通に「夫」と表現してきましたけど、著者は「配偶者」というえらく事務的な表現をします。

そういえば、ツイッターのフォロワーさんでそういう呼び方してる人が何人かいました。

そりゃ、著者は女性だから「旦那」「主人」とは呼びたくないという気持ちはわかります。でも「夫」なら何も問題ないような気がしますが……? 夫とか妻とか言わずに「配偶者」「家人」とかって表現するのが「いまどきのクール」なんですかね? 

この本、とても面白かったけれど、「配偶者」の響きだけは好きになれなかったです。






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2019年09月07日

大好きなマンガ家、益田ミリさんの最新エッセイ集『しあわせしりとり』(ミシマ社)を読みました。


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私はとんでもない「卑劣さ」を感じました。この本における「卑劣」とは何か。順を追ってご説明しましょう。


タイトルでしりとり?
こんな素敵なまえがきから始まります。

「しりとりには人生が出る。(中略)しりとりには人柄も出る。しりとりで負ける人が好きだ。『めろん』と言いかけて、『ん』で終わることに途中で気づき変更しようとしたものの、結局『めろんぱん』で負けてしっまったオトナを私は知っている。おおらかだ。素敵すぎる。しりとりで負けないうちは人間まだまだという気さえする」

いいですね。とてもいい。そして、次のような文章が続きます。

「この本の編集者が何かを成し遂げたようだ。各エッセイのタイトルをしりとりで繋げることに成功したのだという」

仰天しました。全部で47編あるエッセイのタイトルでしりとりを完成させるという発想が素晴らしいし、それをやり遂げる根気もすごい。その昔、中島らもさんの『しりとりえっせい』という傑作がありましたが、あれは最初からしりとりにする意図をもって書かれていたけど、この『しあわせしりとり』はそんな意図がなかったものをあとからしりとりにしたというからすごい。さすがはミシマ社。考えることが違う。

しかも、読んでいくと、「ぴしゅーっとした道を抜け、パン」と「ん」で終わるタイトルがあって、あれっと思ったら、次のタイトルが「『ん』の入る言葉は?」で見事につながっている。

しかし、これってちょっとできすぎてない? という思いも禁じえなかったんですよね。

私は雑誌や新聞に連載されたものを単行本にまとめた本の場合は、巻末に記されている「初出一覧」をいつも見るんですけど、この本では半分くらい読んで初出をぜんぜん見ていなかったことを思い出し、見てみると、

2015年3月から2018年12月まで朝日新聞に連載された「オトナになった女子たちへ」と文藝春秋2017年7月号に掲載された「今日、うまれた感情が宇宙だとしたら」という日記から構成されていると。

ふうん。でも、それならちゃんと各エッセイの最後に何年何月と書いといてほしいな、と思ったんですが、よく見てみたら!

「三本の書き下ろしを再構成したものです」と最後に書いてある。

ガーン!!!

それって、どうしてもしりとりがつながらないところがあったからそこだけ適当なタイトルのものを書いて強引に繋げたってことでしょ。

うわーーー、卑劣な、何という卑劣な。「著者がしりとりなんてまったく考えずに書いたものを編集者が根気よくしりとりに……」という私の純粋な感動を蹴散らす不埒なふるまい。こんなことが許されようか! いいや、断じて許してはならん!!!

なるほど、だから「『ん』の入る言葉は?」はあとから書いたものなんですね。最後のエッセイも「ん」で終わるから、二つあるとどうあがいてもしりとりは完成しないということか。卑劣な。

他にも「大人の旅ムムム」というのも怪しいと思っています。強引に「む」につなげたかったのでしょう。あと1本の書き下ろしはどれかよくわかりません。くそぉ、どれなんだ!

とまぁ義憤にかられちゃったわけなんですけど、そんなことで怒るのも大人げないというか、こういうのを「大人の事情」と割り切って楽しむのがオトナというものよ、と益田ミリさんなら言うでしょう。

だからもう言いません。以下は純粋な感想です。


「自分が寝ている位置を逆転させる」
布団の上に横になり、目をつむってできるだけ詳細に頭と足が逆さまだとどう見えるかを想像する。そこでパッと目を開けると「あ、逆さまだ!」となるお遊び。

実際にやってみましたけど、あまり驚きがなかったような……? やはり益田ミリさんはとても心がきれいなのですね。


名前をもうひとつプレゼント
イニシャルの存在を知ったのは小学校でローマ字を習ったとき。という益田ミリさんは「名前をもうひとつプレゼントされた気分だった」とのたまう。うーん、この感覚が素晴らしい。私なんかイニシャルを知ったときどう思ったかなんて忘れてるし、忘れてるということは感動とか感謝とかはまったく感じていなかったということでしょうな。


「日記」のなかの素敵な一節
「一週間には名前がついている。月火水木金土日。『今日』に名前があることを急にかわいいと思ってしまった。今日は土曜日。しりとりで『ド』に当たったとき、『ドヨウビ』と答えるのは素敵だと思う」

なるほど、そうやって、「カ」なら「カヨウビ」、「モ」なら「モクヨウビ」と答えて、次の人を「ヒ」攻めにする作戦か。

と、こんなことを考える私はやはり心が汚れている。


「何万人目になりたくない」
これはとても共感しました。「何万人目」というのは、美術館とかで「〇万人目の来館者です」とか言われて記念品をプレゼントされるアレのこと。

益田ミリさんは、「どうか何万人目ではありませんように」と心の中で願いながら展覧会に赴くそうです。私は美術館に行くときはそんなこと忘れているけど、ニュースなんかで見ると「あれはいやだ」と心底思う。インタビューで「お気持ちは?」とかって聞かれても「いや、単に何万人目かというだけなんで」とか正直に答えてしまいそう。

益田ミリさんはマンガ家なので、イラスト入りのページが一番素敵だったりする。

「空がなかったらどこを見ていたんだろう。と思うときもある。空があってよかった」
「水たまりの中に別の国がある。と想像するのが好きだった」


空を見て「なぜ空は青く見えるんだろう」と思ったことはあります。なぜそう見えるのかを調べて物理的な理由は知っています。でもそれじゃ面白くない。

という程度の感性ならもち合わせていますが、「空があってよかった」と思う感性は選ばれた人だけのものですね。

最後まで読み終えて、「あまりにも卑劣」だったのは私のほうだったと自己嫌悪に陥りました。しりとりくらいで怒るようではまだまだですな。


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2019年08月22日

いま、文芸評論家の三浦雅士さんが経済学者・岩井克人さんに聞き書きした『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。




まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白い知見にあふれていて夢中で読んでいます。


奴隷制度は必然だった⁉
この本で一番面白いのは「会社はモノだけれど同時に法人という形でヒトでもあるように、人間もまたヒトであり同時にモノなのだ」というところ。

「人間が生物学的にヒトであるのは自明の理だけれども、社会を営む存在としてのヒトはまず何よりも『法人』という概念によって獲得されたのではないか。つまり、法人である以上は会社と同じくモノでもある。だから奴隷制度は必然だった」

うーん、これはめちゃくちゃ面白い!


ホリエモンの誤算
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ホリエモンのニッポン放送の株買い占めによる乗っ取りが失敗に終わったことが例に出され、次のようなことが語られます。

「堀江さんが『カネで買えないモノはない』といったのは100%正しい。でも、ヒトとしての会社はカネでは買えない」と。

なるほど、あの騒動の本質はそういうことだったのか。


モノとして扱われる体験
今日、病院へ行ってきました。そこでこの本で言われていること「人間はヒトであり同時にモノでもある」を体験したんですね。

精神科なので、最初は↓こんな感じです。

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「人間対人間」といったかんじですね。私の話をよく聞いてくれる。

で、瞳孔の収縮を見ます。いい画像がなかったので、膝関節を見る医者に替えます。

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これは人間をモノとして扱っていますね。このように、人間は相手の人間をヒトとして扱ったりモノとして扱ったりをその場の状況に応じて使い分けていることに初めて気づいたわけです。

よく、ドラマなんかで女が男に「私、あなたの物じゃないから!」とかいう場面がありますが、ああいうふうに、人間をモノとして扱うのは普通よくないこととされています。しかしながら、誰だって人間をモノとして扱ったり扱われたりしている、ということにいまさらながら気づかされた次第。


映画というカウンターカルチャー
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映画も人間をモノとして扱いますよね。特にアクション映画がそうだし、次がポルノ映画かな。いや、どんな映画だって人間の肉体を描いているのだから、すべての映画が人間をモノとして扱っている。

黒沢清監督は、
「愛してると一言つぶやくより、一発ぶん殴るほうが映画においては決定的なのだ」
と言っています。

映画は、人間のヒトとしての心理も描くけれど、同時にモノとして物理的な捉え方もする。映画黎明期のサイレント映画ってどれも役者が不気味で怪奇的じゃないですか。あれは「モノとしての人間」が描かれているからでしょう。

資本主義が花開いた19世紀は近代文学が花開いた時代でもありました。そこでは「個人としての人間」つまり「人間精神」が尊ばれていた。「ヒトとしての人間」ですね。

その19世紀末にモノとしての人間を扱う「映画」というメディアが生まれたのは非常に示唆的ではないでしょうか。

ホリエモンは会社をモノとしてのみ見たために失敗しましたが、近代精神は人間をヒトとしてのみ見ようとした。それもまた片手落ちである。そこに映画というカウンターカルチャーが「モノとしての人間」を復活させた。

「歴史」というものの壮大さを感じるのはこういうときですね。岩井さんと三浦さんはしきりと「最終的には文学の問題だ」と言っていますが、私に言わせれば「すべては映画の問題だ」

そういえば、奴隷制度が廃止されたのも19世紀でした。19世紀は「ヒトとしての人間」と「モノとしての人間」のせめぎあいだったのかもしれません。





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