聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

書籍・雑誌

『中動態の世界』と依存症①TOKIO山口達也の事件をめぐって

私の知っている高名な脚本家は元アル中患者で、精神科で処方された白い粉薬を見せてくれたことがあります。
「これが効いてるときに酒を飲むとめちゃくちゃ苦しくなるんだ」と。
それを聞いて「ん? それって何かおかしくない?」と思いました。

だって、薬を飲めば苦しむのが嫌だから酒を飲まずに済むだろうけれど、逆に言えば薬を飲まなければ浴びるように酒を飲んでいい気分になれるんですよね。もともと依存症患者って弱い意志の持ち主なのだから、医者がそういう患者の意志まかせにするのってどうなんだろうと。誘惑に負けて薬を飲まない選択をしたが最後、また依存症に逆戻りじゃないですか。


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哲学者・國分功一郎さんが小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界 意志と責任の考古学』。

文法の歴史を哲学的に解いていくこの本は、大部分を能動態でも受動態でもない「中動態」という聞きなれない動詞の態についての考察に割かれていますが、最終的に依存症を考える契機になることが目指されています。


「意志」への疑義
プロローグ「ある対話」では以下のような会話が収められています。(かなり編集してます)

「依存症というのは、意志や本人のやる気ではどうにもならない病気なんだってことが日本では理解されていない。もう絶対にやらないと決意するとダメなんだ」
「それは理解に苦しみます。酒をやめる、薬物をやめるというのは、やはり自分がやめるということなのだから、やめる意志が大切になってくるんじゃないですか」
「しっかりした意志をもって、努力して、絶対にやらないぞ、と思っていると逆にやめられないんだよ」

やめる強い意志をもったほうがダメとはいったいどういう理路によって?


中動態とは何か
現在、日本語でも欧米のさまざまな言語でも、動詞は「能動態」と「受動態」しかないと思われています。しかし、かつては能動態でも受動態でもない「中動態」というものがかつてインド=ヨーロッパ諸言語でも日本語でも存在したと。しかも、原初の言語には中動態しかなかった、というんですね。

では、その中動態とはいったいどのような態か。
「能動態では、動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する中動態では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」

例えば、「生まれる」「眠る」「寝ている」「想像する」「成長する」などの動詞の主語は、その過程の行為者であって同時にその中心であるから中動態で表される。
逆に「曲げる」「与える」などの動詞の場合は、主体から発して主体の外で完遂する過程を示しているから能動態なんだそうです。
そして、現在は「能動態⇔受動態」という対立がほとんどの言語にありますが、その前は「能動態⇔中動態」(外態⇔内態)の対立しかなかったと。つまり、かつて受動態というものはなかった、というから驚愕です。


かつて「主体」はなかった!?
普通、我々は、何かをしようという意志をまずもち、その意志を遂行する、と思ってますよね。目の前の醤油を取ろうと思い、そして実際に取ると。
でも、脳科学の観点からは、事態は実は真逆らしいのです。まず醤油を取り、そのあとで「醤油を取ろう」という意志が生まれるのだと。嘘のようなホントの話。


中動態の世界に「意志」はない
さて、古代ギリシアでは「能動態⇔中動態」の対立しかなったので「意志」を表す言葉がなかったとか。
なぜなら、能動態も中動態も、つまり動詞というものはもともとは「出来事」を描写する言語でしかなかったから。
それがギリシア以後の社会の発展、つまり国家や社会という枠組みが強化されていくと、秩序を維持していくために数々の法が作られる。法とは悪行の責任を問うものであり、責任を問うためにはその行為の主は誰かが問題とならざるをえない。そうして受動態が生まれ、中動態は衰退の一途をたどった。中動態が衰退すると、それまでの「能動態⇔中動態」という対立の図式が崩れ、「能動態⇔受動態」という新しい対立の図式が生まれた。

そこに初めて「意志」という概念が誕生したと著者は言います。


「責任」と「意志」
著者は寝坊した学生を使ってこんな例え話をします。

「ゲームが好きで、やめられずにだらだら続けて夜更かしをする。それだけなら内なる自分の誘惑に負けた受動的な行為かもしれない。しかし、その学生が翌日講義の最中に居眠りをして怒られるとすると、途端に前夜のゲームは能動的な行為とみなされてしまう。明日は朝から講義があるから早く寝ようとゲームをやめることもできたはずなのに続けた。だから能動的にゲームを続けたのだ。おまえにはその責任があると」

つまり、意志をもった行為だったから責任を負わされるのではなく、責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。




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だから、例えばTOKIOの山口達也は退院したその日に焼酎を一本空けてしまい、強制猥褻行為に及んで芸能界から追放されかかっていますが、多くの人が口をそろえて言うのは、

「酒が悪いのではなく飲んではいけないのに飲んだ山口が悪い。意志の弱さを反省しろ」

というまったき正論ですが、しかし、これはまさに山口達也が責任を負うべき行為に及んだと判断されたから能動的に酒を飲んだという「意志」が出現したのですね。もし大酒を飲んでも女子高生を家に呼んで無理やりキスするなんてことをしなければ責任を問われないし、それなら当然のこと弱い意志が問題になることもなかった。

実際、「リーダーの城島茂のほうが酒好きで山口より城島のほうがアル中の疑いが濃厚」という記事も見ましたが、「まったく他人に迷惑をかけない飲み方をしているならいくら飲んだってかまわない」とも書いてありました。

事件を起こしたから弱い意志が問題になり、事件を起こしてないから問題にならないのは当たり前だろう。

という声が聞こえてきそうですが、私はそうは思いません。

だって、城島はいまのところ問題を起こしてないだけで、これから起こす可能性があるんですよ。いま戒めなければ山口と同じ轍を踏む可能性は充分にあります。
そもそも山口達也は職場でも酒の匂いをプンプンさせていてみんなが薄々感づいていたらしいじゃないですか。なのに誰も咎めないからあんな破廉恥なことをしでかしてしまった。でも事件を起こすまで、つまり責任を問われる事態になるまで誰も彼の意志の弱さを問題にしなかった。

責任を負わせてもよいと判断された瞬間に突如「意志」という概念が出現する。これがいま現実に起こっています。中動態を知らない私たちにも、中動態の世界に生きていた古代人の精神の名残りがあるのでしょう。

しかし、ここで疑問が湧きおこります。

じゃあ、意志ってほんとは存在しないの? ただの幻想なの?

著者はそれも違うと言うから話はややこしい。

続きの記事
②薬を飲むのは自発的な行為か
③断酒会の意味



伊藤詩織『ブラックボックス』(自らの痴漢間違われ事件を交えて)

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ジャーナリスト伊藤詩織さんが元TBS記者・山口敬之氏にレイプされたと告発する『ブラックボックス』。

私が注目したのは次の3点。

①レイプにかぎらず証拠が「ブラックボックス」の中にある場合はどうすればいいのか
②レイプ直後は「レイプされた」とは思わない
③レイプ大国スウェーデン!?

そこにプラス、
④私自身の痴漢実体験で思ったこと

まず、①レイプにかぎらず証拠が「ブラックボックス」の中にある場合はどうすればいいのか、ですが、


正義のセ
吉高由里子が新米検事を演じる『正義のセ』第3話では結婚詐欺師が1千万円を騙し取った証拠がブラックボックス内にある。伊藤さんのように密室内で行われた犯罪ではないけれど、目撃者も監視カメラもないところで大金が授受されたと裏付ける証拠がどこにもない。証拠がなければ起訴できない、となるところをしらみ潰しに当たっていくうちに隠れた証拠を見つけることができ起訴に至るわけですが、あれはフィクションだから都合よく証拠が見つかるけれども、現実には証拠が完全にブラックボックス内にあって手も足も出ないケースは多々あるように思います。

合意があったかどうか、というのもねぇ。そんなの被疑者があったといえば、なかったとは立証できないわけでしょ。目撃者も記録映像もないブラックボックス内で行われた犯行であれば、拒否したといくら被害者が訴えても認めてもらえない。

しかも、伊藤さんの場合は目撃者とかカメラの映像とかいろいろ証拠があるにもかかわらず権力側の都合でもみ消されてしまった。100%クロだとわかっているのに、逮捕状も出たのに逮捕できない。起訴もできない。しかも検察審査会でも不起訴相当という判断。このあたりの経緯はすでに知っていましたが、やはり権力者におもねる人間が得をするというのはいつの時代にもあることとはいえ怒りを禁じえません。


被害届を出すのが遅れただけで
伊藤さんは、レイプされた直後は「レイプされた」とは思わなかったそうです。なぜなら、相手が顔見知りだから。どうしてもレイプというと「暗闇で見知らぬ男に羽交い絞めにされて…」という場面をイメージしがちですけれど、顔見知りによる犯行のほうがダントツで多いとか。それで被害者にレイプされたという自覚がなく、被害届を出すのがどうしても遅れてしまう。

『正義のセ』第1話でも、パワハラ上司に暴行を受けた部下がすぐに被害届を出すことも考えるけれども「そんなことをしたら会社にいづらくなる」と逡巡して事件から一週間後に被害届を出します。それが原因で「本当に暴行を受けたのならすぐに出すだろう」と思われてしまい、「上司を陥れるためだったのでは?」という意見が大勢を占める。伊藤さんの場合もまったく同じで「なぜ被害届をすぐ出さなかったのか」と詰問されたとか。

すぐに被害届を出さないと出したほうが疑われるというのは納得いきませんね。そりゃ相手を陥れるためにそういうことする人もいるんだろうけど、もう少し警察も司法も人間心理を勉強したほうがいいのではないでしょうか。

人間心理といえば、「セカンドレイプ」というのもひどい。アメリカの病院で医師から「傷はついてないから大丈夫」と言われたそうですが、いやいや心の傷のことを少しも考えていないのは医師として失格じゃないのか、と思ってしまいました。

それから、「処女ですか」という質問の無神経さ。
『女教師』という映画でレイプされた主人公が同じことを話題にされます。「処女じゃないんなら別にいいのでは」という意見が出る。なぜ??? 伊藤さんも同じ疑問を提示していますが、そもそも、女性に処女かどうか聞くなんておかしいでしょ。普通の会話なら絶対聞かないじゃないですか。それが相手がレイプされたとなると平気で聞けてしまうのはどういうことか。


レイプ大国スウェーデン!?
何と、人口10万人あたりの各国のレイプ件数は、
1位スウェーデン 58.5件
2位 イギリス 36.4件
3位 アメリカ 35.9件

68位 インド 2.6件
87位 日本 1.1件

日本ってこんなに少ないの? というより、スウェーデンなど北欧ってこういう犯罪は少なそうなイメージがあるけど……と最初は思いましたが、著者の解説を読んでなるほどと膝を打ちました。

まず、これは警察に被害が届けられた件数なのですね。しかも、日本などでは、たとえば父親から何度も性的虐待を受けても「1件」とカウントされるのに対し、スウェーデンでは実際に暴行が行われた回数でカウントするので、同じ人から100回受けたら100件となるらしい。

それから、スウェーデンは女性警察官の比率が日本よりもかなり高いので被害届を出しても男性から心ない質問を受けることも少ないし相談もしやすい。被害者の受け皿が整っている北欧だからこそ件数が多くなり、日本のように被害者のことをまるで考えていない国は少なくなる、という数字のマジックなのでした。


私の実体験
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私は以前、こういう混雑した電車内で痴漢と間違われました。前に立っている女性がどんどん押されてこっちにお尻が押し付けられるようになってきたため、右足を比較的すいてる左側へ移そうとしてふくらはぎで女性のお尻をなでるような形になってしまった。
やばい! と思って女性を見ると、キッと鋭い目で睨んできました。幸い、それですんだからよかったようなものの、もし「この人痴漢です!」と言われていたら、と思うとゾッとします。両手は本をもっていたので目撃者が名乗り出てくれたら無罪放免になったかもしれませんが、もし誰も証言してくれなければそれこそ「ブラックボックス」。

ただ、私は間違って逮捕されずに済んでよかった、で終わりですが、その女性は痴漢に遭ったと信じているわけで、その傷は一生消えないでしょう。

と思ったのは、この本を読んでのことで、ずっと「捕まらずにすんでよかった」としか思っていませんでした。自分には何も後ろ暗いことはない、手でなでたわけでは絶対にない、自分はシロだ! という自覚があるから、その女性が「自分は痴漢に遭った」と思い込んでいることには考えが至りませんでした。

だから、男性諸氏はもうちょっと性犯罪とかセクハラとかに自覚的になったほうがいいと思うのです。法律的にシロであっても一生消えない傷を負わせている場合があるのだから。

そこから根本的に変えないと、最初の第一歩「正義のセ」すら実現しないと思った次第です。




酸欠状態になりながら小説を書くということ

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一週間ほど前に「小説を書き始めました」と題した日記を書きました。(→こちら

しかし、あまり書き進められていません。なぜかというと、書くと酸欠状態になるからです。

今回の小説は決してフィクションではありません。フィクションなら脚本でやればいいわけで、わざわざ小説になんかしなくていい。小説を書くなら日本の伝統である私小説を書きたいと常々思っていました。だから「自分のダメダメな半生」を徹底して批判的に描く、というのがテーマなんですが、これが書いてて本当につらい。

しかも二人称で書いているんです。

最初は一人称で書くつもりだったんです。脚本は三人称しかありえないけど、小説なら一人称が可能。どうせ小説を書くなら小説にしかできないことをやろう、と思いましてね。

でも、頭の中に奔流のように浮かび上がってきた文章は二人称だった。つまり、私が語り手となって、私自身に「おまえは本当に情けない」などと責めてくる内容なわけです。画像はそういう意味をこめています。(私が語り手なのだから本質は一人称ですが)

私はもともとつらいことに遭遇すると呼吸が止まってしまう性分でして、書いてるときおそらく息が止まってしまってるんですね。気がつくと頭がボーっとして吐き気がして失神しそうになる。何とか外に出て新鮮な空気を吸って落ち着かせるも、とにかくつらくてそれ以上書けない。

で、翌朝、起きたときからしんどいわけです。別に食べすぎたわけでもないのに朝から胃がもたれている。とりあえずヨーグルトを少量食べるだけにしても、胃は一日中もたれ続ける。そのうえ何もする気が起こらない。

そんな日が二日続くと次は書けるんですよ。昨日書いたときは酸欠にならないようにできるだけ意識的に深呼吸しながら書いていました。幸い酸欠にはならずにすみましたが、それでも書き終わったらぐったりして横にならざるをえず、寝れたらいいのにこれがまったく眠れない。

というわけで、今日も朝11時に起きましたが、起きた尻から胃がもたれている。何もする気が起こらない。だから今日は予定どおり休養日。

しかし、こんなつらい思いをしてまで書く必要があるんだろうかと疑問に思う。でも、書きたいわけではなく、書かねばならないという義務感で書いているので、書く必要はあるのでしょう。書き終えたら、新しい自分になれるのかもしれない。そうじゃないかもしれない。

わからないから最後まで書きます。


続きの記事
二人称小説『撃つべきはおまえの目』脱稿!



小説を書き始めました


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自分でもびっくりの展開なんですが、昨日から小説を書いています。

え、脚本しか書いたことのないおまえがなぜ小説? と思った方々のために順を追ってご説明いたしましょう。


小説と脚本はぜんぜん違う
前々から「小説を書いたらどうか」と言う人は結構たくさんいたんですよね。
でも断っていました。だって脚本家にもなれないのに他のジャンルに手を出すなんておかしいし、そもそも私は映像と音響で物語を編むことをやりたいのであって、文章表現をやりたいわけではない。映画と小説はまったく別物。

これは映画表現に精通している人なら誰でも知っています。だから専門学校時代の友人に言われたことは一度もありません。言ってくるのはみんな素人さんです。どちらも言葉を駆使して物語を編むから同じようなものだと思っている。でも、小説は文学だから言葉を手掛かりにしないと絶対にダメですが、脚本は別に言葉じゃなくてもいいんですよ。絵で描いたほうがわかりやすければ絵で描けばいい。実際に「絵コンテ」というものを使って監督とカメラマンは打ち合わせをします。
ただ人間は言葉を手掛かりにしたほうが多くの人とイメージを共有しやすいからたまたまみんな言葉で書いてるだけの話。脚本は言葉で書かれなければいけないなんて決まりはありません。あると思い込んでいるだけです。

それにね、小説は文章表現がすべてというか、そこに作品の命がありますが、脚本では文章を殺すことが肝要です。三島由紀夫のような華麗な文体などというのは脚本にとっちゃ百害あって一利なしです。

というわけで、小説書いたら? と言われるたびに逆に反発して「俺は脚本だけを書くんだ」と息巻いていました。


でも小説を書きたい気持ちはあった
とはいうものの、小説を書きたい気持ちはあって、もともと読むのは好きだし、一番好きな小説家といっても過言じゃないジム・トンプスンのような一人称小説にはずっと憧れていました。映画は三人称しかありえないけど、小説なら一人称で書ける。いや、一人称でないとわざわざ小説を書く意義はないんじゃないか。
書きたい内容も、いままで私はダメダメな人生を送ってきたので、そういう己の半生を振り返る私小説的なもの。脚本ではまったくのフィクションを書くからどうせ小説を書くならノンフィクション的なのがいいなぁ、なんて。調べる手間もいらないし。

でも、前述の理由により実際に書いたことはありませんでした。ただの一行も。


急転直下!
2月の終わりに去年出したシナリオコンクールでめちゃ久しぶりの一次落選という憂き目に遭い、また脚本への意欲がさらに燃え上がりました。落ちると燃えるタイプなのでね。
というわけで小説のことなんかまったく頭になかったんですが、おととい、ある出来事をきっかけに突如として小説の文章表現が頭の中に沸き上がってきたのです。

小説を書きたい、書こう、とか、そういう気持ちが湧き上がることなく、ただ文章だけが頭に湧き上がってきた。もう夜遅かったのでパソコンに向うことなく寝床に入ったんですが、何だか興奮して少しも眠れない。

で、気がついたら書いてましたね。小説作法なんか勉強したことないんで見よう見まねで。

別に小説家になりたいと思って書いているわけではありません。書きたいとすら思っていません。

書かなければならない。これが一番近い。

脚本なら前回書いたところまでを読み直して書き直してから続きを書くんですが、今回はまったく読み直していません。怖いんですよ。あまりにひどそうで。
しかも、これ、調べてみたら文学史的にはかなり珍しい手法のようです。手法というか形式なのかな。そんなのド素人に可能なのか、ほんと自信ないですが、小賢しい計算でそういう手法に至ったのではなく、頭に湧き上がったときからそういうものだったのだから仕方がない。これで行くしかない。

だから三文小説というのもほめすぎになるような代物ができあがる可能性は高いですね。

でも、「書かなければならない」んだから書きますよ!


続きの記事
酸欠状態になりながら小説を書くということ
二人称小説『撃つべきはおまえの目』脱稿!

久米宏です!(『ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を読んで)

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この本はかなり詳細です。つまり、かなり面倒な内容ともいえます。
最後の「簡単にまとめてみる」をお読みいただくと、一瞬にして本書の内容がわかります。


巧妙なツカミ
素直な私はその「簡単にまとめてみる」から読んでみました。確かに概要はわかる。でも概要でしかないから詳細を是が非でも知りたくなる。最後のまとめから読んでください、なんて書いてある本って普通ないですよね。(あるのか?)
少なくとも私は久米宏の術中に完全にはまってしまい、夢中で最初から読み始めたのでした。
テレビとラジオの両方で50年もの長きにわたり視聴者の心をつかんできた著者ならではのツカミのうまさですね。

この本で最も感動的なのは、248ページのくだりなんですが、


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僕は『ニュースステーション』を始めるときに、殺される覚悟をした。

うーん、かっこいい! 

しかし、とりあえずそこは後回しにしまして・・・


「なぜ全員合格させなかったのか!」
久米宏はアナウンサーになりたかったわけではないそうです。当時は大学の就職部に希望を出して推薦をもらわなければ就職試験を受けられなかったそうで、学業の成績が悪すぎて普通の会社は受けられなかった久米宏は、ラジオで「アナウンサー募集」というのを聴いて、これなら就職部を通さなくても受けられそうだと、とりあえず受けてみたら合格だった。しかも最終面接では寝坊して遅刻。それでも合格だったというのだから相当気に入られたみたいです。

しかし、その気に入られ方というのがまたすごくて、試験は7次まであり、彼は1次から2次、2次から3次と進むうちにだんだん腹が立ってきたとか。その都度落とされる人間がいるから。
最後のほうでは「また何人か落とすんでしょう? いったいどんな権利があってあなた方は人間に優劣をつけるんですか」と生意気に迫ったこともあるそうな。それでも落ちずに最終面接。
最終面接には8人残り、4人だけ合格。そのあとでアナウンサーの数が足りないとなり、一般職で受かった者から特に声のいい者をまともな試験もなしにアナウンサーとして採用した。「じゃあ、あのときなぜ8人とも合格にしなかったのか!」と食って掛かったらしい。

やはり、報道のTBSと言われていただけに、そういう「反骨精神」が気に入られたんでしょうね。あと、「何が何でもアナウンサー」じゃなかったから、肩の力が抜けていたのもいい方向に影響したと思われます。

さて、久米宏といえば何と言っても『ザ・ベストテン』と『ニュースステーション』ですが……


久米宏の中の『ザ・ベストテン』と『ニュースステーション』
大韓航空機撃墜事故をどこのニュース番組も伝えないので、『ザ・ベストテン』の冒頭で、「それにしてもなぜあんなにソ連の奥深くまで侵入したんでしょうね」と言ったとか。

僕にとって『ザ・ベストテン』は時事的、政治的な情報番組であり、のちの『ニュースステーション』のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。二つの番組は僕の中では表裏の関係をなしていた。

なるほど。これがこの本のタイトルの所以なわけかと納得したけれど、想定内の話でもある。どうにも想定外だったのは以下のような話。


情報量を常に均一にする
テレビカメラのズームレンズの中には「中玉」というのがあり、それが手前に来るとカメラが引いてワイド画面になる。中玉が引くと自分のクロースアップになる。(いまのカメラに中玉はないそうです)

中玉の位置を見ながら「画面の情報量」を常に意識していたとか。黒柳徹子は派手なドレスをいつも着ているから視覚的な情報量が多い。ツーショットのときはどうでもいいことを喋り、自分のアップになったときに「これぞ」ということを喋るように意識する。そうすれば、視覚情報と聴覚情報の和が常に一定になる。それを生放送で毎週やっていたというのだから恐ろしいまでの頭の回転の速さ!


殺される覚悟
僕は『ニュースステーション』を始めるとき、殺される覚悟をした。言いたいこと、言うべきことは言おう。言いたいことを言えば僕を殺したいと思う人間が出てくるかもしれない。しかし、それで殺されても仕方がない。殺されるのが怖いからといって口を噤むことだけはするまいと思った。

黒柳徹子の家に呼び出され、「辞めるのをやめるよう」説得されても応じず、『ザ・ベストテン』を強行降板して始めた『ニュースステーション』。絶対に失敗できない状況で常に心掛けたことは・・・

まだ誰も言ってないことを言おうと、朝刊に書いてあったこと、昼のワイドショーで誰かが言ったことはすべて除外。そのうえで「これなら行ける!」と思ったことをまず記憶して、さらに本番直前にトイレに行って憶えたことをすべて水に流す。

原稿の下読みは常に黙読。音読してしまうと本番で音読したときの新鮮さが失われるから。

うーん、普通なら音読してリハーサルするところでしょうが、そういうのは凡人の考え方らしい。

小宮悦子と小谷真生子は実際には仲がよかったそうだけれど、マスコミは「不仲」と騒ぎ立てた。それならそれを大いに利用しようじゃないか、と「人と人は仲良くしなければ」という話題になると、「ね、小宮と小谷も仲良くするように」と言ってみたら取り上げてくれる雑誌があった。

小宮悦子といえばいつも久米宏から「悦ちゃん」と呼ばれていたけれど、あれもプレーボーイのイメージがある自分と女性のキャスター共演ということで絶対関係を疑う人がいるという計算から「悦ちゃん」と呼んでいたそうな。呼びたい呼びたくないの問題ではなく、「生粋のエンターテイナーとして視聴者の期待には応えなければならない」というプロ意識の表れだそう。(ヒッチコックが「自分がどこに出てくるか見つけるのも観客の愉しみだから」と、いやでしょうがなかったエキストラ出演を遺作まで続けたのとまったく同じですね)

キャスターやアナウンサーではなく、一人の人間として番組の中に存在する。ニュースに対するコメントも、一人の人間としてどう考えるかを言葉にする。そんなふうに出演者たちが番組の中で「人間として生きている」と感じることができる。いってみれば、僕はニュース番組にストーリーのあるドラマを持ち込みたかったのだ。


異端から正統へ
NHKの『ニュースセンター9時』に対するカウンターとして始まった民放初のプライムタイムのニュース番組だったから、あくまでもNHKが「教科書」で『ニュースステーション』は「くだけた参考書」程度の意識だったらしいけれど、いつの間にかNHKが9時のニュースをやめ、自分たちが教科書になった。

もうこの時点で情熱は失われていたのでしょう。あとは辞めるまでのことが簡単に綴られているだけ。

「革命」は成功した。王は倒した自分が王になるのはいや。気持ちはもう次の革命に。『ニュースステーション』が実際に終わるまでの後半10年ぐらいは降板するしないの情報が飛び交ってばかりでしたからね。

そういえば、いまやってる民放共同企画の池上彰が5人のつわものと対談する番組。今日がたけしで明日が久米宏なんですよね。どんな話が飛び出すか。括目して見たい。




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