聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

書籍・雑誌

田中陽造と石井輝男と成瀬巳喜男

『田中陽造著作集 人外魔境篇』を読みました。



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この本は前半と後半があまりに違っていてそこが面白いんですけど、後半の「異能人間」や「犯罪調書」ももちろん面白いんですが、私は前半の映画の話のほうが好きです。

なかでも「石井輝男論」が面白かった。

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つい先日、石井監督の『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』を見まして、やや他の猟奇ものに比べて迫力が劣るかなとは思いましたが、やはり面白いことには違いなく、このような題材を扱う(阿部定にインタビューまでしている)人ってどういう人なのか、これまで石井輝男の作品は何本も見てますが、その人となりはまったく知らなかったので、陽造さんの「石井輝男論」を面白く読んだ次第です。



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まったく知りませんでしたが、石井輝男はあの成瀬巳喜男の弟子だったそうです。成瀬の名作に『おかあさん』という田中絹代主演の作品がありますが、石井輝男は『続おかあさん』でデビューするはずだったそうです。

驚き! 結局、会社の都合でその企画は中止になり、まったく違うアクションものでデビューを果たすそうですが、もし『続おかあさん』でデビューしていたら石井輝男という映画監督はまったく違う道を言っていただろうと陽造さんならずとも思ってしまいますね。

そして、石井輝男は成瀬のことをめちゃくちゃ尊敬していて、スタッフを少しも叱らない成瀬が、石井輝男にだけはきつく叱ったことがあるらしく、

「成瀬さんが俺にだけ心を開いてくれた」

と、やたらうれしかったとか。

成瀬が死んだとき、撮影を中止にして社葬に駆けつけたらしく、陽造さんが「それじゃあ、あなたは少しも異常じゃなくてまるっきり正常じゃないですか」と問うと、

「そうです。正常じゃなけりゃ異常に興味は向きませんよ」

とサングラスの奥でニヤッと笑んでいたとか。

含蓄に富んだ言葉ですね。




どーかしてるぜ!! 「数値化信仰」の現代ニッポン



内田樹先生の『日本の覚醒のために』という講演集を読みました。


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相変わらずの内田節炸裂ですが、他の本で読んだことばかりだったので読み物としてそんなに面白いものではなかったです。

ただ、ひとつ新しくなるほどと思ったのは、「いまの日本は数値しか価値基準がなくなってしまった」という箇所で、その好個の例として「国会での審議時間」を挙げてらっしゃいました。

「今回成立した法案では〇時間の審議しかなされなかった。消費税導入のときは△△時間、他の法案では☓☓時間もあったのに、という批判が成立してしまうことに危機を感じます。国会での審議が十分かどうかをただ何時間という数値に置換できるという考え方には同意できません」

という言い分で、なるほど、確かにそうだな、と思います。


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おととい、バルサからパリ・サンジェルマンへの移籍が決まったネイマールに関しても、移籍金がこれまでの最高額の2倍以上だとか、妥当な金額かばかりが議論されています。

過去の移籍金トップ10なる記事もあって、移籍金額だけで序列をつけている。そんなことにどれほどの意味があるのか私にはさっぱりわかりません。

金額のほかに、この移籍劇には「10番」をめぐる思惑も背景にあるんですよね。バルサの10番はメッシだから少なくとも彼が引退するまで10番を身に纏うことは不可能。でPSGと契約して念願の10番を手に入れたと。
サッカー選手にとって10番は特別な番号ですけど、今季から新しくレアルの10番に選ばれたモドリッチがいみじくも言っています。「背番号がプレーするわけではない」。
でもネイマールはあくまでも10番という数字にこだわってしまったのですね。そしておそらくバルサ時代の2倍と言われる年俸にも。



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ちょっと前に勤めていたコールセンターでも、評価の対象はもっぱら「通話時間」と「後処理時間」そして「保留時間」だけでした。

つまり、すべて短ければいい、そして「取った件数」が多ければいい。

しかし、なかには独り暮らしで話し相手がおらず、とにかく話を聞いてほしくてたまらないお婆さんもいれば、情理を尽くして自分の言うことをわかってもらいたい、というお客さんもいます。

そういう人の話に耳を傾けたら通話時間は長くなるし、当然取る件数は減ります。

じゃあ、「聞くべき情報は聞き取りましたので」と電話を切ってもいいの? 違うでしょ。お客さんがどれぐらい満足したか、数値に置換できないことは「なかったこと」にしてしまうなんて、どーかしてるぜ! としか思えません。



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別にこの事件だけじゃないですが、障碍者を「役に立たないから」という理由で迫害しようとする人たちの「役に立つ」という概念はおそらく「数値化できる」ということなのでしょうね。

健常者よりも仕事の「スピード」が遅い。
稼ぐ「お金」が少ない。
そのくせ「医療費」がかかるうえに「自己負担率」は低い。
そのうえ、電車やバスが「無料」になるのは許せない。

数値化できる、ということは普遍化できるということで、先日、クローズアップ現代+で森達也監督が言ってましたが、「どんな事件にも特殊性と普遍性がある」わけですが、森さんは世間ではこの事件の特殊性にばかり目が行っているが普遍性にも目を向けようよ、という主旨の発言でした。

しかし、障碍者を「数値化」して差別しようとする人たちは、決して一人一人の「特殊性」を見ていない、ということでもあると思うんですね。

それは、お客さん一人一人の特殊性をまったく見ずに、一週間でその人が受けた電話の本数、通話時間の総和から平均値を割り出して、それだけを評価の対象にするコールセンターと何も違いはありません。

相模原障碍者大量虐殺事件は、そういうところにも根っこがある気がします。

いま職探しをしていますが、1分間にどれだけの文字を打てるか、工場に勤めていたときは1日にどれぐらいの商品を作っていたか、どの会社にどれだけの期間在籍していたか。聞かれるのはそんなことばかりです。

数値化できないことは評価の対象にしない。というかできない。

仄聞するところによると、最近は料理のレシピで「食塩を適量入れる」とか「砂糖少々」などと表現するとクレームがつくらしいです。
大さじ一杯、小さじ一杯、5mlとか「数値」で説明してもらわないと料理できないんですって。

まさに「どーかしてるぜ!」な世の中ですな。




福田恆在『人間・この劇的なるもの』(劇・死・花)



福田恆在さんの『人間・この劇的なるもの』読了。
いやはやとにかく素晴らしい読書体験でした。


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私ごときが偉大な先人の偉大な思想を論評するなんてもってのほか。

だから、この本のどういうフレーズにグッと来たか、そこだけを書き記したいと思います。(言葉通りではありません。主観的な採録ですのであしからず)


「個性などというものを容易に信用してはならない。そんなものは自分が演じたい『役割』にすぎぬ」

「死によって生は完結する。死によってしか完結しえない」

「古代の人々が祭儀に託したのは、生きながら死を経験することだったのではないか。祭儀は自らの生を燃えあがらせるためにあったのではないか」

「演劇は祭儀でなければならない。劇作家は祭祀であり、主人公もまた祭祀でなければならない」

「劇は究極において宗教的なものであった。その本質は今日もなお失われてはならぬ」

「自由ということ、そのことに間違いがあるのではないか。自由とはしょせん奴隷の思想ではないのか」

「自然は厳しい『形式』をもっている。太陽や月の運行によって私たちは生かされている。だから形式を否定する自由というものはそもそも間違っている。私たちは形式によって初めて人生全体と交合できる。初めて『生きている』と言えるのではないか」


シェイクスピア研究や自ら劇作に励むなかで、人生を演劇として見つめる独特の人生観、人間観が展開されています。

自然という「形式」の枠組みの中で生を謳歌するのが本当の人生だ、と。決して自由になってはならない。自由は個人主義の限界をあらわにするだけだ、形式こそ「全体」へと至る道である、みたいなことも書かれています。

福田恆在さんの言う「全体」とは、宗教や祭儀という言葉から察するに、おそらく「神」ということなんでしょうね。そんなワードはひとつも出てきませんが。

そして、私が一番グッと来たフレーズは、以下のもの。

「我々は博物学でも博物学者でもなく、生きた『花』を求めているはずだ」

本書でもちらっと触れられる世阿弥の『風姿花伝』の一節、

「鬼しか演じられないのはその程度の役者。花を演じられてこそ本当の役者」

を思い出しました。




藤井聡太と宗教改革②「神」をめぐって



深井智朗という哲学者による好著『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(中公新書)を読んで、カトリックへのプロテスタント(抗議)として生まれたルター派(古プロテスタンティズム)と、ルター派へのさらなるプロテスタントとして誕生した洗礼主義ともいわれる新プロテスタンティズム。二つのプロテスタントがあることを知りました。

ここまでの前置きに関しては昨日の日記をお読みになってください。

①「王」をめぐって


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将棋は「王」を詰めたほうが勝つゲームです。
こないだ藤井聡太四段に取材したNHKスペシャルでは「王」と言ってましたが、ほんとは「玉」ですよね。でも王が座るところを玉座というから一緒なのかな。

そこらへんには大変疎いのですが、ともかく、将棋は「王」をめぐるゲームであって、『プロテスタンティズム』という本を読んでいて自然と藤井四段の顔が浮かんだんですね。


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これは彼の大好物であるラーメンを食わせる店に頼まれて書いた色紙だそうですが、彼が考案した詰将棋の問題も書かれています。

詰将棋というのはとても変なものです。なぜなら、上の画像のような局面は普通の将棋ではありえないからです。しかも詰めるほうの持ち駒以外の駒はすべて「王」の側の持ち駒ということになるんですね。

Nスペで印象的だった藤井四段の言葉は、

「これからも将棋と詰将棋の両方やっていきたいです」

というものでした。

なるほど。やはり「将棋」と「詰将棋」は別物らしい。

それが私には、「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」の違いと相似形のように見えます。

かたや、聖書に返るべく法王を否定しながらも、国家の「王」の存在は頑なに守った宗派。
かたや、法王も「王」もどちらも認めない宗派。

普通の将棋は、自分の「王」(国王)を守りながら相手の「王」(法王)を詰めにかかります。
詰将棋は、自分たちの「王」(法王)はすでにいないのが大前提で、そのうえで相手の「王」(国王)を詰めにかかる。

似ていませんか?

Nスペで確か渡辺竜王が言ってましたっけ。

「プロになったら詰将棋をほとんどしなくなる人もいる」

そういう人は、プロになると同時にルター派こそ自分の宗派と決めた人なのでしょう。
逆に藤井四段は、対局以外にも詰将棋選手権にも積極的に参加してどちらにも同じ比重を置いてやっていきたいらしい。

ルター派でもあり、同時に洗礼主義者でもある。同時に二つの宗派でトップにならんと欲するのが藤井四段の真骨頂。


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宗教に擬するならば、「王」だけでなく、「神」に該当するものがないといけませんが、これはやはりポナンザという名前のAIでしょう。

Nスペでは、というか、最近の棋界では、AIが形勢の有利不利を判定しているとか。しかもまったく間違えない。全知全能の神といって差し支えないかと。

ルターは、聖書に書いてあることに返ろうと主張し、その帰結としてプロテスタンティズムが生まれたわけですが、それはつまるところ、「神」の言葉に従いましょう、ということだったはず。

最近はAIがどういう手を指したか、という研究がすさまじいらしく藤井四段も相当研究しているそうです。それは、これまでの文脈からすれば、「AI=神」の言葉に従う、ということになりましょう。

ただ、AIは恐るべき計算能力で最善手を選ぶことは可能ですが、詰将棋の問題を作ったという話は聞いたことがありません。

AIは全知全能に見えて、実は「創造主」の資格がありません。つまり、「神」ではない。

では、誰が「神」なのか。

それは、詰将棋の問題を、それも二十何手詰めなどというプロでも解けない難問を作ってしまえる俺たち人間だ! と藤井四段はじめ詰将棋好きの棋士たちは言っている気がしてなりません。

「将棋」においては「神」に従い、「詰将棋」においては「神」を乗り越え、自分こそが「神」だと高らかに宣言する。

おそらく、これからの「将棋」は藤井四段のような「詰将棋好き」しか勝てなくなるのではないかとひそかに思っています。

AIの差し手を研究しながら同時にAIのできないことをやる。

それが藤井聡太という弱冠14歳の天才が始めた「将棋改革」なのだと思うのです。





藤井聡太と宗教改革①「王」をめぐって






深井智朗という哲学博士による『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(中公新書)を読んで無類の知的興奮を感じています。
そして同時に、デビュー以来29連勝という金字塔を打ち立てた、稀代の天才棋士・藤井聡太四段の活躍にも。


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マルティン・ルターの宗教改革の実情とはどんなものだったか。

中学や高校で習った「免罪符」という訳語は間違いだそうです。「贖宥状」なんですって。

いずれにしても、まだ印刷技術が発明されていなかった16世紀初頭のヨーロッパにおいて、聖書を読んだことのある人は限られており、バチカンの法王の聖書解釈がそのままカトリック信徒たちの守るべき教義だったそうですが、ルターはそれに異を唱え、聖書に書いてあることに返りましょうよと、当時としてはかなりラディカルな問いかけをしたわけです。

そして、カトリックへのカウンターとしてのプロテスタント(「抗議」の意)という教派ができるわけですが、ここで問題なのは、プロテスタント=ルター派というわけではない、ということなのですね。

上の画像にもあるように、同じプロテスタントにも保守主義とリベラルとがあり、ルター派は保守主義に属するそうです。

ルターが保守主義だって? 当時絶対的権威だった法王に楯突いたのに⁉ という疑問が湧くでしょうが、著者の論は単純にして明快。
カトリックとは何かというと、生まれると同時に洗礼を施される、つまり、親と同じ教派を受け継ぐ、あるいは、生まれた地域がカトリックならその人はカトリックという、著者の喩えをそのまま借りれば、公立学校みたいなものであり、自分自身で選ぶことができないと。

ルターは贖宥状を否定し、聖書の教えを絶対とする抗議をして新しい宗派を生み出しはしたものの、このあたかも公立学校のような形は残ったと。ひとつの政治的支配領域にひとつの宗教、つまりはひとつの国家にひとつの教会という形態を保持した点において保守主義なんだとか。これを「古プロテスタンティズム」というらしいです。

一方、リベラルなプロテスタンティズム(=新プロテスタンティズム)はどういうものかというと、「洗礼主義」と言われるように、生まれたときに洗礼するのではなく、自分がどの宗派の洗礼を受けるかを自分で決める。だから国境線がどこを走っているかなんてことに関係なく、好き勝手に教会を、公立学校ではなく私立学校のように作ることが可能、と。

古プロテスタンティズムは19世紀初頭に統一を果たしたドイツに根づき、新プロテスタンティズムはアメリカにおいて強烈に根づいたと。

どうも著者のもっとも言いたいことは、アメリカという特異な国の心性のようですが、私の興味はルター派のほうです。

ルター派はナチスが台頭してきたとき、諸手を挙げて歓迎したわけでもないけれど、否定したわけでもなかったそうです。ひとつの国家にひとつの教会。それを実現するためには「王」が必要だ、というのがルター派の考え方だったらしいのです。
ルター派はヒトラーを新しい「王」として迎え入れようとした、ということなのでしょう。

前置きが長くなりました。


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本題はこの人の話なんですが、続きは明日にでも。

キーワードはこちら。









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そう、「王」です。

続きの記事
②「神」をめぐって



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