書籍・雑誌

2019年04月15日

『5時に夢中!』エンタメ番付1月場所で中瀬親方が大絶賛していた松本剛さんの『ロッタレイン』をやっと読むことができました。(以下、ネタバレあります)

だいぶ想像と違う内容でいい意味で裏切られました。

だって、大人の男が血のつながってない13歳の妹と出逢って……と聞くと、『ロリータ』みたいなのを思い浮かべるじゃないですか。

しかもその少女の外見はこんなんだし。↓



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しかも我らが主人公はこんなちょっと風采の上がらない男だし。↓


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だから、30歳の男が13歳の少女に恋してしまうも、少女の魔性に振り回されてひどい目に遭う物語なのかな、と思ってました。私の好きなフィルムノワールってそういうお話が多いし。

でも、この『ロッタレイン』は大人の男と年端のいかない女の子との「純愛」を描くんですね。これは相当にハードルが高い。


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最初はこんな感じの出逢い方で、だから主人公がひどい目に遭う話かと予想したんですが、彼女(初穂という名前)にとって主人公は本妻の息子で、お妾さんの娘である初穂にとっては「正しい側の人間」なんですね。学校では「二号の子ども」と後ろ指さされてひどいいじめを受けているし、主人公が自分たちを恨んでいるに違いない。だからつっけんどんな態度を取る。

でも二人はある事件をきっかけに急接近します。


あやうい女心
初穂のクラスメイトでモテ男の奥野にいきなりキスされるんですね。最初は受け入れているのかと思いきや、現場を目撃した主人公が怒り狂って殴り飛ばす。ここは嫉妬もあるんでしょうが、主人公は過去にとんでもないパワハラ上司と自分の恋人が浮気している現場を目撃しており、そのことが脳裏をかすめてあのような暴虐に及んだのでしょう。嫉妬だけならあそこまで突発的な暴力は振るわないと思う。

もともと初穂が奥野のことをどう思っていたのかわからない。その後、「好きじゃない」とはっきり言いますが、いきなりキスするという一件がなければどうだったかはよくわかりません。ともかくも、そのような破廉恥な行為に及んだ奥野を殴り飛ばした主人公と自分のことを初穂は「私たち」と表現するようになる。

しかし、ここですでに二人が相思相愛なのかどうかはよくわかりません。どうしても外見がよくて色気もある少女が、主人公の指先をなめて「もうあんなことしないで」なんて場面を見ると、主人公を幻惑しているだけではないのか、という疑惑が消えてくれません。

最終的に二人は怪文書のせいで東京まで逃げ、そこで二人だけの生活をしようと誓い合うも、初穂だけ父親のもとへ帰る。しかしそれは戦略で、父親が転勤でオーストラリアのパースに行くことになり、それについていくだけ。6年後には帰ってこられる。その6年後のためにいまは離れるのだと。6年たてば正式なカップルとして誰に恥じることもなく堂々と付き合える。

ということに表面上はなっていますが、何か安心できません。

そう言っているだけで、初穂は主人公を裏切るのではないか。意図的ではなくとも、魅力的な子だからパースで知り合った男の子といい仲になって主人公のことなど忘れてしまうんじゃないか。というサスペンスが残ったままです。いわば、宙吊りのままこの物語は幕を閉じます。


憲法と法律
初穂の本心がどこにあるのかは作者にすらわかってないのかもしれませんから、以後はわかることだけ話題にしましょう。

この『ロッタレイン』で思い出したのは「憲法と法律」の違いですね。

「自白は証拠にならない」というのは憲法に書かれているんですが、なぜ刑事訴訟法とかじゃなく憲法かというと、憲法は軸足を国民のほうに置いているから。国民の権利を最大限保障し、権力者の暴走を防ぐのが憲法。逆に、権力側が国民を縛るためにあるのが法律。こういう罪を犯したら何年刑務所に入らねばならないとか。だから「自白が証拠にならない]というは憲法に書かれていないとおかしいことになります。


世間という名の権力
主人公が再就職する運送会社の社長さんはこう言います。

「人を好きになるのは理屈じゃないもんな! 世間とか周りの声とかそういうのはいーの!」

でも、この社長さんは、怪文書が回ってくると態度を変えます。従業員も「こんなの信じてないよ」などと言いながらもはや完全な敵です。

それもこれも、初穂が13歳だからです。主人公がやっていることは「淫行」であり、それは違法であると。

ピエール瀧の事件でも「違法な行為だから」処罰されて当然だという意見が多々見られますが、先述したように、法律というのは権力側に軸足を置いています。世間が権力と一体化して「人を好きになるのは理屈じゃない」という当たり前のことを許さない。世間という名の権力が主人公と初穂を追い詰め、そしてあのラスト。というのがこの『ロッタレイン』のあらましなのですが……


もう一度、初穂の気持ち
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この出逢いのとき、「初穂にとって主人公は正しい側の人間」と言いました。だから「来ないで」と言い、つっけんどんな態度を取る。

ということは、やはり初穂は主人公との6年後の再会を希求しているんじゃないか。

主人公は「間違った側の人間」ですもんね。自分と関係をもてば淫行罪に問われる。それでも彼は初穂と一緒に暮らそうという。そんな主人公に初穂は「自分の側の人間」という気持ちを抱いているはずです。だから「私たち」なのでしょう。

愛人を作り、本妻や主人公を苦しめてきたくせに正義の側の人間然としている父親についてパースに行くというのは、だから絶対ウソとか演技ではない。

と私は思うのですが、ここまで考えても、それでもやっぱり宙吊り感から解放されません。彼らの6年後を実際に見るまでは。

ということは永遠にわからないということ。これから読み返すたびに悶絶してしまいそうな稀有なマンガ体験でした。







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2019年04月06日

『コンビニ人間』『地球星人』などで快進撃を続ける村田沙耶香さんのエッセイ集『となりの脳世界』を読みました。

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「右側」を応援する村田沙耶香
一番、おおおお!と思ったのは、

「スポーツを見るときはいつも右側を応援している」

というフレーズですね。

スーパーマリオは左から右に動いて敵をやっつける。みんな左側を応援する。左側のほうが正義で、右側は悪。そういう世間的な価値観を信用できない著者は、右側を応援するようになったらしい。

この「何となく正しいとされているものにそっぽを向く姿勢」はこの本の通奏低音になっています。かといって、左側を応援する人たちを軽侮して孤高を気取るというのでもない。自分は確かにこの世界の住人だしこの世界で生きていきたいのだけど、でも何かちょっと居心地が悪い。

「いま、ここ」も大事だけど「いつか、どこかで」も大事にしたい。この『となりの脳世界』は前半が妄想ばかりのエッセイで、後半が地に足の着いたものという構成になっているのですが、前者が「いつか、どこかで」を希求する著者の真骨頂で、後者は、それでもやっぱりこの世界で生きていきたいという、変人・村田沙耶香のありふれた日常「いま、ここ」が描かれていてよかった。こんな普通の言動や思考もするのね、などと。

以下、特に印象に残ったフレーズを挙げていきます。


いつか、どこかで
「不完全な大人のままで」
私は、そのとき、「死にたかった」。そして、根底ではとても「生きたかった」。

私もそう。いまでも、そう。というか、このフレーズこそ「『いま、ここ』も大事だけど『いつか、どこかで』も大事にしたい」という心の叫びを感じました。

「こそそめスープ」
コンソメスープではなく、コソソメスープだと信じて疑わなかったとか。誰もが「こんそめ」と発音していると知りながら、それは安手の食堂で出すまがいもので、「こそそめスープ」こそ高級店のシェフが作る本物だと思っていた。
はっきり言ってアホですが、ここまで来ると頭が下がる。そして村田沙耶香の脳内世界を訪れたら、一緒に「こそそめスープ」を飲めるそうな。行ってみたい。いつか、どこかで。

「正座が逆の人へ」
つま先を外側に開く独特の座り方をしてしまうそうな。いつか同じ正座の仕方をする人と出逢って楽しく語らいたい。いつか、どこかで。

「背平泳ぎのこと」
正座が逆だからこういう泳ぎ方をしてしまうんでしょうか。ここでも「いつか背平泳ぎの大会が開かれる日のために練習している」とあり、笑いながらも「いつか、どこかで」というこの世では味わえない幸福を感じて哀しくなります。
友だちに背平泳ぎを教えたらみんな嬉々としてやってくれたのはうれしいけど、「しかも、私より上手だった」というのはもっと哀しいか。(笑)

「間違い感動」
クリオネを見に水族館に行ったら、1メートルくらいのクリオネの模型があって、それを等身大のクリオネと思い込んで感動したそうな。
『荒野のダッチワイフ』『処女ゲバゲバ』などで知られる脚本家・大和屋竺も、敬愛する黒澤明がソ連で『デルス・ウザーラ』という映画を撮る、というニュースを見て、なぜか『デルス・ザウルス』と読み違えてしまい、「あの黒澤がついに怪獣映画を!?!?」と大興奮しまくった笑い話を思い出します。天才とバカは紙一重とはよく言ったもの。
「でも、もしクリオネが1メートルもあると勘違いしたその瞬間に地球が滅んだら、私の間違いは訂正されず、私のなかで真実となるのだ。感動っていったい何なんだろう」というのも「真実はどこか他の世界にある」という村田沙耶香の土台があればこそのフレーズでしょう。本当に1メートルのクリオネと出逢えるかもしれません、いつか、どこかで。


似ている自画像
「宝物の棒の想い出」
なぜか子どもの頃、棒を拾う癖があったらしい。でこぼこの道を棒を引きずって歩くときの振動がたまらなく気持ちよかったとか。
私も「快感の追求に執念を感じる」と言われるのでよくわかります。幼い頃、ウンコを我慢することに快感を見出していたんです。我慢に我慢を重ねるとウンコがひゅんと中へ引っ込むでしょ? あの感触がたまらなく気持ちよくて。

「音楽を観る」
音楽を聴くのではなく、観る、という村田沙耶香。音楽から浮かんでくる映像を観るのが好きらしい。共感覚というものかな。私は音楽を視覚的に感じるということはないけれど、色に数字を感じる共感覚は少しだけもっています。白=1、黄=2、橙=4、赤=5、青=6、緑=7、黒=10とか。なぜ3、8、9がないのかはわかりませんが。
そんなことより、一人でニヤニヤしているのが私とよく似ている。頭の中に妄想が渦巻いているのでついニヤけてしまい、「何がそんなに面白いんですか?」って訊かれちゃうんですよ。


かすり傷を重傷と思うかどうか
「バス自意識過剰」
「睡眠と反省」
「親切エレベーター」

これらに共通するのは「かすり傷を重傷と考える」作家というものの性ですね。というか、かすり傷を重傷と勘違いする感受性がないと作家にはなれない。よく経験の量が大事みたいなことを言う人がいますが、量も大事だけど質はもっと大事。何でもないことを大げさに考える、というのはひとつの才能。そんな能力は普通はあったほうが困る。社会不適応者になってしまう。村田沙耶香も作家になれなかったら「変な人」と陰で笑われて一生を終えることになったでしょう。とてもうらやましい。


文章読本
何でもない表現に「文士・村田沙耶香」を感じる箇所がありました。

「わん太の目」
小学校三年生のクリスマス、サンタさんがクマのぬいぐるみをくれた。

普通なら「私はそのときまでサンタクロースが実在すると思っていたのだ」などと注釈をつけるものですが、村田沙耶香はそうしない。「サンタさんがぬいぐるみをくれた」のフレーズだけでそれを表現できてしまっている。「何を書かないか」ということにもとても意識的だと思う。

「生え替わる髪の毛」
そうなのか、やっぱり自分はおばあちゃんに似てるんだなぁ。

これも「おばあちゃん子だった」みたいな注釈を一切加えない。加えなくてもわかるから。

「四度目の出会い」
私は虫は平気なほうだがゴキブリだけは駄目で、見ると惨殺してしまう。

「惨殺」という言葉のチョイスが素晴らしい。一行目から引き込まれる。


というわけで、ますます村田沙耶香さんの作品から目が離せなくなりました。

ビバ! 村田沙耶香!!


『コンビニ人間』(マニュアルという宗教)
『地球星人』(一人称の万華鏡)

となりの脳世界
村田沙耶香
朝日新聞出版
2018-10-05





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2019年03月31日

昨年末に『戻り川心中』を読んではまってしまった連城ミステリ。先日読んだ『夕萩心中』はどれも乗れないものばかりでしたが、『戻り川心中』に勝るとも劣らない短編集と言われる『宵待草夜情』、大変美味でございました。


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いや、最初はね、『夕萩心中』みたいな感じかな、と思ったんですよ。冒頭の「能師の妻」なんかは『戻り川心中』所収の佳編「桐の柩」と同じトリックだし、続く「野辺の露」、表題作の「宵待草夜情」どちらも好きなタイプの作品ではなかった。

はっきり申し上げて、ここで読むのやめようかと思いました。『戻り川心中』で熱狂したものの、『夕萩心中』が同じ「花葬シリーズ」なのにえらくレベルが違ったということもあり、『戻り川心中』だけの人なのかな、と高をくくってしまいそうになりました。

ところが! ちょいと間を開けて読み進めることにしました。すると……

第四編の「花虐の賦」に完全にやられてしまいました。

このお話は、「後追い自殺」をモチーフとしています。ある劇作家であり演出家でもある男が突然自殺してしまう。彼に名女優として育てられた女が、男の四十九日の法要を済ませた日に自殺する。誰もが「女が死んだ男の後を追って自殺した」と思う。

しかし事態は逆で、男のほうが女の後を追って自殺したんですね。

ええっ!? 先に死んだほうが後追い自殺??? 

ここがこの「花虐の賦」の素晴らしさです。

いや、本当の素晴らしさはそこではない。先に死んだほうが後追いだったというトリックに隠された、その男の狂おしいまでの女を想う気持ちこそが素晴らしい。言ってしまえば「くだらない男のプライド」なんですが、そのくだらなさを、くだらないがゆえに納得してしまう人間という存在の不思議。先に死ぬことで後追い自殺を成立させる男のあまりに手の込んだやり方が「本格ミステリ」と呼ばれる所以なのでしょうが、解説で泡坂妻夫さんがいみじくも言っている通り、「普通なら探偵小説の『小説』よりも『探偵』のほうに重きを置くけれども、連城さんは『探偵』と『小説』の両方を重んじ、どちらをも成立させてしまうところが非凡だ」ということになりましょうか。

決してトリックが素晴らしいのではなく、そのトリックを支える人間という生き物のどうしようもない哀しさが浮かび上がってくるところにこの「花虐の賦」の素晴らしさがあります。

そして最終編「未完の盛装」。

手の込み方ではこちらのほうが断然上でしょう。何しろ15年前の殺人、去年の殺人、さらにそこから第三、第四の殺人が起こる。
15年前の殺人の時効をめぐるサスペンスも読ませるし、時効が成立したところで明らかになるあと三つの殺人。それらが時効を成立させるためのあまりに手の込んだトリックと見せかけて、実は……という内容。

私は実は「本格ミステリ」というのが苦手でして、何かこう、トリックのためにキャラクターが利用されてるような感じが好きになれないんですが、「花虐の賦」もこの「未完の盛装」も手が込みすぎているのにそれを不自然と感じさせない男と女の狂おしいまでの愛憎が浮かび上がってくるのが素晴らしい。

何しろ「未完の盛装」では共犯関係にある男と女が、実は別々の目的で動いていたというだから驚きです。だから「共犯」ではなく一方が一方を騙していたんですけど、なぜ騙さなくてはいけなかったのか、なぜそんな手の込んだことをするのか、というところに理があるから感動するほかない。

手の込んだトリックを弄する作中人物のリアリティが、読んでいる自分に跳ね返ってくる快感があります。もし自分が彼あるいは彼女でも同じことをするかもしれないと思わせられる。

お見事! 途中でやめなくて本当によかったです。


【新装版】宵待草夜情 (ハルキ文庫)
連城三紀彦
角川春樹事務所
2015-05-15





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