聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

書籍・雑誌

宇宙開発と飢餓問題(両方大事の哲学)

先日、映画『ファースト・マン』を見に行ったら、思いがけなく私小説作家の車谷長吉さんの言葉を思い出しました。

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「宇宙開発とかそんなことに費やすお金があるなら、なぜ飢えてる子どもたちを救わないのか」

正論ですね。100%正しいから少しも反論できない。

『ゼロ・グラビティ』が公開されたとき、脚本家の荒井晴彦さんも同じようなことを言っていました。

「この人たちは宇宙まで行っていったい何をしてるのか。そんなことより地球上の山積みの問題を何とかしようと思わないのか」

しかし私は両者の言い分に納得できないんです。


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確かにこのような子どもたちを見ると胸が痛むし、車谷さんや荒井さんの言い分は正しいと思う。でもちょっと待ってよ、と。

宇宙開発や物理学や数学よりも飢えてる子どもを救え。それは「政治的に正しい」から誰も反論できないんですが、宇宙開発や物理学の最新理論の研究にはまったく意味がないかというとそうではないでしょう。

スーパーカミオカンデで粒子を超高速で飛ばして素粒子の秘密を解き明かすとか、そういうのって「ロマン」もあるんでしょうけど、何よりも『ブレードランナー』のセリフを借りれば「我々はどこから来てどこへ行くのか」を探究してるわけでしょ? それって政治的には正しくなくても哲学的な営みだと思うんですよ。

米ソの宇宙開発競争は政治的なものでしたが、宇宙の秘密を解き明かしたいという純粋な欲望は人間なら誰しももっているだろうし、もしもっていないなら、あまりに政治に毒されていると思います。

そりゃ私だって飢える子供を少しでも減らしたいから慈善団体に寄付したりしています。政治的に正しい行いをしている。だから車谷さんや荒井さんのような考え方が悪いとは言いません。

でも、衣食住が足りている人間は宇宙の秘密を研究してはいけない、「我々はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的な探究をすべきでないという主張には賛同できないし、何か胡散臭いものを感じてしまうのです。

「マタイの福音書」にある「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉は常に忘れたくないと思います。そして、今日食う物さえないない子どもたちのことも忘れずに。

別の記事でも書きましたが、どちらかだけが重要なんてありえない。

両方大事!




『十二人の手紙』(読者を楽しませるあの手この手)

「週刊文春エンタ!」で徹夜必至と紹介されていた井上ひさしさんの『十二人の手紙』(中公文庫)を読みました。(できれば作品を未読の方は以下の感想は読まないでください。特にネタバレはしてませんが読まないほうが楽しめるかと)

徹夜はしなかったというか、もう徹夜なんかできる歳じゃないだけで、徹夜するほど面白いという惹句に嘘はないでしょう。13の手紙や書簡から成る短編集なのにひとつの話が終わってもすぐ次が読みたくなる。もうページをめくる手が止まらない。

ミステリと紹介されてましたが、謎解きとかそういうものではなく、正確にはサスペンスでしょうね。シリアスなサスペンスもあればコミカルなものもあり、ほとんどホラーじゃないかと思えるものもあったりするなど多種多彩。

手紙なのですべて一人称で書かれています。どうも去年、二人称の小説を書いたからか、小説における「人称」というものにこだわってしまうのですが、この一人称しかありえない書簡体小説において、プロローグ「悪魔」というのは純粋な一人称小説ですが、他のものはすべて「複数の一人称小説」になっています。

つまり、手紙の書き手が複数いるということです。手紙なんだから当然ですよね。書けば返事が来るのだから「悪魔」のような形が特別で、他の作品が普通のあり方でしょう。

で、その複数の手紙の書き手によって、ウソが暴かれたりする。そのウソも意図的で悪いウソもあれば、微笑ましいウソもあり、さらには書き手すらウソとわかってない無意識のウソもある。この無意識のウソを扱ったものが私には一番面白かったですね。タイトルを挙げれば「隣からの声」「シンデレラの死」というところ。こわい。

あとは「鍵」なんていう本格ミステリかと思わせておいて喜劇として収束するものも面白いし、「里親」みたいにダジャレがカギになっているのも悪くない。「葬送歌」の底意地の悪さも面白い。たぶん井上ひさしさんの周りにこういう「悪い小説家」がいたのでしょう。

とか言いながら、解説でも書いてありましたが、「赤い手」と題された作品が一番この短編集の精髄のような気もします。

これは手紙ではなく、出生届や死亡届、死亡診断書、転入届、転籍届、欠席届、洗礼証明書、誓約書、起訴状など公的文書だけを使って、私生児として産まれ修道院に引き取られた不幸な身の上の少女が、キャバレーのホステスに身をやつし、そして車に轢き殺されるまでの悲劇を語り尽くしてしまうのです。

これには唸らされました。もう40年も前にこんな斬新な作品が書かれていたのかと。もっと早く読みたかったと後悔しています。「赤い手」の最後2ページほどだけがその少女の手紙になっていて、これが泣かせるんです。

エピローグでは、プロローグ「悪魔」で悪役だった男に復讐しようと、無残にも愛人の子を殺してしまった女の弟がホテルに立てこもる事件を扱っているんですが、何とそれまでの12の作品の登場人物がそのホテルに泊まっているという設定で人質に取られるんですね。

最後の短編の終わり方が難しいんじゃないかと思って読み進めていたんですが、そう来たか、と。

天才としか言いようがないですね。井上ひさしさんの作品はこれまで1冊しか読んだことなかったんですが、これからもっと読んでいこうと思います。
いやぁほんと、こんなド傑作をこの歳になるまで読んでいなかったとは不覚のうえにも不覚ですわ。


十二人の手紙 (中公文庫)
井上 ひさし
中央公論新社
2009-01-25


「東京には地方紙がない」(定点観測の重要性)

いま内田樹先生の新著『常識的で何か問題でも? 反文学的時代のマインドセット』を読んでいて、まだ読み終わってないんですが、途中になかなか刺激的なことが書かれてあったので、それだけでもここでご紹介しようと思い。

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この本は『AERA』の「eyes」という巻頭コラムばかりを集めたものなので一つ一つがとても短いんですが、私が「おおお」と思った文章は2016年10月に書かれたもので、現時点ではもう移転してしまった築地市場の豊洲移転でいろいろ問題が表面化してきていた頃のものです。

何ゆえに都政の醜悪な暗部がこれまで表面化しなかったか、という問いに対し、著者は「東京に地方紙がないからだ」と断定します。全国紙の東京版はあっても東京地方紙がない、と。

へぇ~~~! ちょっと前まで東京に住んでいながら知りませんでした。

著者によると、アメリカでは近年、地方紙が激減しているそうです。調べてみると、日本でも地方紙が激減しているみたいです。→こんなになくなっていたなんて! 最近休廃刊になった地方新聞一覧


さて、ベルというカリフォルニアの小さな町では、1998年ごろに地元紙が休刊になったとか。

で、何が起こったかというと、市の行政官が500万円ほどだった年俸を十数年かけて6400万円まで引き上げたそうです。他の公務員たちも自分たちの給与を増額した。ベル市民は10数億円もの自分たちの血税を公務員や政治家に奪われた。

なぜか。

地元の地方紙がないから市民はそんなことが行われているとはまったく知らなかったから。役所や議会や地裁に記者が取材に入らないから簡単にできてしまう。

著者は続けてこう語ります。

確かにネットからの情報供与はある。だが、ネットはニュースを高速で広める力は抜群だが、「今日のところは何も起きていない」領域を定点観測はしない。しかし、忍耐強い定点観測なしには変化の兆候を感知することはできない。ジャーナリストが定点観測をやめたらニュースはもう「ニュース」にならない。

ベルの実態を調査した委員は、
「市民が自腹を切ってでも地方紙を残し、役所や議会を監視する記者を置いておけば、巨額の税金の無駄遣いを防ぐことができただろう」と忠告したそうです。

ただし、と著者は最後に恐ろしい一言を付け加えます。

ただし、この忠告は記者が「統治機構の監視人」であることを前提にして成り立つ。日本のメディアにその前提は適用できるのだろうか。



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とりあえず私にできることは、地元紙・神戸新聞を守ることですね。購読を考えてみようかしら。





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