書籍・雑誌

2019年09月07日

大好きなマンガ家、益田ミリさんの最新エッセイ集『しあわせしりとり』(ミシマ社)を読みました。


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私はとんでもない「卑劣さ」を感じました。この本における「卑劣」とは何か。順を追ってご説明しましょう。


タイトルでしりとり?
こんな素敵なまえがきから始まります。

「しりとりには人生が出る。(中略)しりとりには人柄も出る。しりとりで負ける人が好きだ。『めろん』と言いかけて、『ん』で終わることに途中で気づき変更しようとしたものの、結局『めろんぱん』で負けてしっまったオトナを私は知っている。おおらかだ。素敵すぎる。しりとりで負けないうちは人間まだまだという気さえする」

いいですね。とてもいい。そして、次のような文章が続きます。

「この本の編集者が何かを成し遂げたようだ。各エッセイのタイトルをしりとりで繋げることに成功したのだという」

仰天しました。全部で47編あるエッセイのタイトルでしりとりを完成させるという発想が素晴らしいし、それをやり遂げる根気もすごい。その昔、中島らもさんの『しりとりえっせい』という傑作がありましたが、あれは最初からしりとりにする意図をもって書かれていたけど、この『しあわせしりとり』はそんな意図がなかったものをあとからしりとりにしたというからすごい。さすがはミシマ社。考えることが違う。

しかも、読んでいくと、「ぴしゅーっとした道を抜け、パン」と「ん」で終わるタイトルがあって、あれっと思ったら、次のタイトルが「『ん』の入る言葉は?」で見事につながっている。

しかし、これってちょっとできすぎてない? という思いも禁じえなかったんですよね。

私は雑誌や新聞に連載されたものを単行本にまとめた本の場合は、巻末に記されている「初出一覧」をいつも見るんですけど、この本では半分くらい読んで初出をぜんぜん見ていなかったことを思い出し、見てみると、

2015年3月から2018年12月まで朝日新聞に連載された「オトナになった女子たちへ」と文藝春秋2017年7月号に掲載された「今日、うまれた感情が宇宙だとしたら」という日記から構成されていると。

ふうん。でも、それならちゃんと各エッセイの最後に何年何月と書いといてほしいな、と思ったんですが、よく見てみたら!

「三本の書き下ろしを再構成したものです」と最後に書いてある。

ガーン!!!

それって、どうしてもしりとりがつながらないところがあったからそこだけ適当なタイトルのものを書いて強引に繋げたってことでしょ。

うわーーー、卑劣な、何という卑劣な。「著者がしりとりなんてまったく考えずに書いたものを編集者が根気よくしりとりに……」という私の純粋な感動を蹴散らす不埒なふるまい。こんなことが許されようか! いいや、断じて許してはならん!!!

なるほど、だから「『ん』の入る言葉は?」はあとから書いたものなんですね。最後のエッセイも「ん」で終わるから、二つあるとどうあがいてもしりとりは完成しないということか。卑劣な。

他にも「大人の旅ムムム」というのも怪しいと思っています。強引に「む」につなげたかったのでしょう。あと1本の書き下ろしはどれかよくわかりません。くそぉ、どれなんだ!

とまぁ義憤にかられちゃったわけなんですけど、そんなことで怒るのも大人げないというか、こういうのを「大人の事情」と割り切って楽しむのがオトナというものよ、と益田ミリさんなら言うでしょう。

だからもう言いません。以下は純粋な感想です。


「自分が寝ている位置を逆転させる」
布団の上に横になり、目をつむってできるだけ詳細に頭と足が逆さまだとどう見えるかを想像する。そこでパッと目を開けると「あ、逆さまだ!」となるお遊び。

実際にやってみましたけど、あまり驚きがなかったような……? やはり益田ミリさんはとても心がきれいなのですね。


名前をもうひとつプレゼント
イニシャルの存在を知ったのは小学校でローマ字を習ったとき。という益田ミリさんは「名前をもうひとつプレゼントされた気分だった」とのたまう。うーん、この感覚が素晴らしい。私なんかイニシャルを知ったときどう思ったかなんて忘れてるし、忘れてるということは感動とか感謝とかはまったく感じていなかったということでしょうな。


「日記」のなかの素敵な一節
「一週間には名前がついている。月火水木金土日。『今日』に名前があることを急にかわいいと思ってしまった。今日は土曜日。しりとりで『ド』に当たったとき、『ドヨウビ』と答えるのは素敵だと思う」

なるほど、そうやって、「カ」なら「カヨウビ」、「モ」なら「モクヨウビ」と答えて、次の人を「ヒ」攻めにする作戦か。

と、こんなことを考える私はやはり心が汚れている。


「何万人目になりたくない」
これはとても共感しました。「何万人目」というのは、美術館とかで「〇万人目の来館者です」とか言われて記念品をプレゼントされるアレのこと。

益田ミリさんは、「どうか何万人目ではありませんように」と心の中で願いながら展覧会に赴くそうです。私は美術館に行くときはそんなこと忘れているけど、ニュースなんかで見ると「あれはいやだ」と心底思う。インタビューで「お気持ちは?」とかって聞かれても「いや、単に何万人目かというだけなんで」とか正直に答えてしまいそう。

益田ミリさんはマンガ家なので、イラスト入りのページが一番素敵だったりする。

「空がなかったらどこを見ていたんだろう。と思うときもある。空があってよかった」
「水たまりの中に別の国がある。と想像するのが好きだった」


空を見て「なぜ空は青く見えるんだろう」と思ったことはあります。なぜそう見えるのかを調べて物理的な理由は知っています。でもそれじゃ面白くない。

という程度の感性ならもち合わせていますが、「空があってよかった」と思う感性は選ばれた人だけのものですね。

最後まで読み終えて、「あまりにも卑劣」だったのは私のほうだったと自己嫌悪に陥りました。しりとりくらいで怒るようではまだまだですな。


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2019年08月22日

いま、文芸評論家の三浦雅士さんが経済学者・岩井克人さんに聞き書きした『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。




まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白い知見にあふれていて夢中で読んでいます。


奴隷制度は必然だった⁉
この本で一番面白いのは「会社はモノだけれど同時に法人という形でヒトでもあるように、人間もまたヒトであり同時にモノなのだ」というところ。

「人間が生物学的にヒトであるのは自明の理だけれども、社会を営む存在としてのヒトはまず何よりも『法人』という概念によって獲得されたのではないか。つまり、法人である以上は会社と同じくモノでもある。だから奴隷制度は必然だった」

うーん、これはめちゃくちゃ面白い!


ホリエモンの誤算
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ホリエモンのニッポン放送の株買い占めによる乗っ取りが失敗に終わったことが例に出され、次のようなことが語られます。

「堀江さんが『カネで買えないモノはない』といったのは100%正しい。でも、ヒトとしての会社はカネでは買えない」と。

なるほど、あの騒動の本質はそういうことだったのか。


モノとして扱われる体験
今日、病院へ行ってきました。そこでこの本で言われていること「人間はヒトであり同時にモノでもある」を体験したんですね。

精神科なので、最初は↓こんな感じです。

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「人間対人間」といったかんじですね。私の話をよく聞いてくれる。

で、瞳孔の収縮を見ます。いい画像がなかったので、膝関節を見る医者に替えます。

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これは人間をモノとして扱っていますね。このように、人間は相手の人間をヒトとして扱ったりモノとして扱ったりをその場の状況に応じて使い分けていることに初めて気づいたわけです。

よく、ドラマなんかで女が男に「私、あなたの物じゃないから!」とかいう場面がありますが、ああいうふうに、人間をモノとして扱うのは普通よくないこととされています。しかしながら、誰だって人間をモノとして扱ったり扱われたりしている、ということにいまさらながら気づかされた次第。


映画というカウンターカルチャー
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映画も人間をモノとして扱いますよね。特にアクション映画がそうだし、次がポルノ映画かな。いや、どんな映画だって人間の肉体を描いているのだから、すべての映画が人間をモノとして扱っている。

黒沢清監督は、
「愛してると一言つぶやくより、一発ぶん殴るほうが映画においては決定的なのだ」
と言っています。

映画は、人間のヒトとしての心理も描くけれど、同時にモノとして物理的な捉え方もする。映画黎明期のサイレント映画ってどれも役者が不気味で怪奇的じゃないですか。あれは「モノとしての人間」が描かれているからでしょう。

資本主義が花開いた19世紀は近代文学が花開いた時代でもありました。そこでは「個人としての人間」つまり「人間精神」が尊ばれていた。「ヒトとしての人間」ですね。

その19世紀末にモノとしての人間を扱う「映画」というメディアが生まれたのは非常に示唆的ではないでしょうか。

ホリエモンは会社をモノとしてのみ見たために失敗しましたが、近代精神は人間をヒトとしてのみ見ようとした。それもまた片手落ちである。そこに映画というカウンターカルチャーが「モノとしての人間」を復活させた。

「歴史」というものの壮大さを感じるのはこういうときですね。岩井さんと三浦さんはしきりと「最終的には文学の問題だ」と言っていますが、私に言わせれば「すべては映画の問題だ」

そういえば、奴隷制度が廃止されたのも19世紀でした。19世紀は「ヒトとしての人間」と「モノとしての人間」のせめぎあいだったのかもしれません。





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2019年08月12日

脳研究家の池谷裕二さんと作家の中村うさぎさんの対談本『脳はこんなに悩ましい』。

続編の『脳はみんな病んでいる』を先に読んだのですが(感想はこちら⇒「①AIが神になる⁉」「②この世はわからないことだらけ 」)今回は前編を読んでみました。

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もう7年も前に出ているので、いまの脳科学では否定されていることもあるのかも、と思って読みましたが、なかなかどうして、とても面白い。


Googleのせいで、ではなく、おかげで
一番印象的だったのは「Googleのせいで人々の記憶力や思考力が低下している」という俗説について池谷教授が否定的なところでした。

「人は文字を学ぶことで記憶力が減退してしまった」と古代ギリシアの哲人プラトンが嘆いたという逸話が紹介され、さらに、文字がなかったころは教典や神話、伝説の類はすべて口述で次世代に伝えられてきた、だから文字発明以前の人間の記憶力はそれ以降の人間の記憶力とでは比べ物にならない、と。確かに文字という新しいツールのせいで記憶する力は減退した。

しかし文字を使うようになったおかげで文明が発達し、さまざまな文化が花開いた。だから「ワープロを使うから漢字を憶えなくていい」「わからないことがあればググればいい」というのを「退化」と呼ぶのは時期尚早だろう、と池谷教授は言います。

パソコンやGoogleを使うようになったおかげでいままで使ってこなかった新しい能力が開発されている可能性もあると。Googleやパソコン、スマホなどによって人間は新しい進化をし、文明や文化を生み出すかもしれない。なるほど。蒙を啓かれました。

次に仰天したのが、


メールを送る間隔も「べき則」
何を美しいと思うか、という問題について黄金比率というものがありますが、それらをひっくるめて「べき則」というらしい。地震や雪崩もその原則に従っているとか。すべての自然現象はべき則にしたがっていて、べき則に従っているものを「美しい」と感じるらしい。龍安寺の石庭も完璧なべき則とか。

そして、ここからが仰天ポイント。
実はメールを送る間隔もべき則に従っているそうです。何通も連続して送るときもあれば、かなり間隔を置いて送るときもある。用事で忙しいとか、ちょっとここは相手をじらせようとか。しかし、人間がどう考えようと、すべては自然法則の「べき則」に従うことになるんだとか。

ということは「自由意思」というものが非常に揺らいできます。自由に行動しているつもりでもすべては自然の法則に縛られているのか……?

次は、実際に私が実験してみたこと。


5円玉が動く⁉
5円玉の穴に紐を通して吊るす。そのまま手を動かさず5円玉がぐるぐる動いているイメージを頭の中に描くと……あら不思議。5円玉が動いてしまう。

実際にやってみました。ほんとだ! 動く!!! イメージしただけで。

これはもちろんテレパシーとかではなく、強く念じたイメージに合わせて体が動いてしまうらしい。ぐるぐるとは回りませんよ。でも静止していた5円玉がゆらゆら動き始めたときは……恐くなってすぐやめました。

実験といえば、科学とは実験によって再現可能なものを言うとか。だから進化論は科学じゃないという意見があるそうです。なぜなら、過去は一回こっきりで再現不可能だから。ニュートンのリンゴのように再現可能なものを科学と言い、進化論は再現不可能だから科学ではないと言い切る科学者がとても多いそうです。

実験はできないけど、数式で表せるかどうかも重要らしく、いま4割もの小学生が天動説を信じているという驚くべき統計が示されます。しかし池谷教授によると、天動説も地動説と同様、数式で記述できる。数式化できるからには「天動説は間違っている」とは科学的には言えないそうな。へぇ~。


自分にも「心」があると気づいてしまった人間
進化的に考えると、動物は自分よりまず「他者」に心があることを察知する能力を獲得したそうです。

例えばジャングルの茂みでガサゴソと音がしたら、その相手が敵か味方かをすぐに判別しないと死ぬ可能性がある。つまり相手に「意図」があることを仮定し、その「心」を正しく読んで対応することが必要だった。

が、動物はここまで。
人間は「他者に心があるならひょっとすると自分にも心があるのでは」と気づいてしまった。

犬にも心はある。それはうちの飼い犬を見ていればよくわかります。が、彼らは飼い主たちの「心」の動向には過敏すぎるほど気にしているけれど、自分の中にも「心」なるものがあるとは思っていないよう。

一方ヒトは「自分には他者とは異なる心がある」と知ってしまった。「あなたと私は個別な存在である」と。この「私の発見」が心の進化にとって大きなステップだった。次のステップでは、自分の「心」を相手の「心」に読まれないように隠す、つまり嘘をつくようになった。動物は嘘をつかない。


男性が必要ない時代
いま、生命科学的には男性が必要ない時代を迎えつつあるそうです。なぜなら、クローン技術が急速に発達しているから。女性が自分の細胞を複製して自分の子宮で育てて我が子を産むことは既に可能。

しかし本当に「男はいらない」となって女性しかいない世界になったとき、男の目がなくてもやはり女は化粧したりするのだろうか。恋愛感情は生まれるのだろうか、と中村うさぎは問います。

女子校出身のうさぎ女史によると「女しかいなくても恋愛感情は生まれる」らしい。あの子の体に触りたい」という欲求は自然に芽生えるとか。では「恋愛感情は生殖活動のための口実にすぎない」という池谷教授の説は否定されるのか……?


天才中村うさぎ
『脳はみんな病んでいる』でも思ったことですが、中村うさぎという人はほとんど天才ですね。

他の人だったら池谷教授からこんなにいろんな話を引き出せなかったでしょう。

「セックスのときに声が出るから、逆にオナニーのときも声を出したらもっといいのかと大声出してみたら、もう超興奮!」

「薬物中毒者で自分が鳥だと思い込んでいる人がビルから飛び降りた場合と、そんなこと思っていない普通の人が飛び降りた場合、飛距離に差は出るのか?」

などなど、とんでもなくアホな、いやいや、面白い質問が飛び出します。常人には思いつかない。

中村うさぎは相槌うってるだけじゃないか、とか言う人もいそうですが、うさぎ女史あってのこの本だと思いますよ。






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