聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

書籍・雑誌

久米宏です!(『ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を読んで)

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この本はかなり詳細です。つまり、かなり面倒な内容ともいえます。
最後の「簡単にまとめてみる」をお読みいただくと、一瞬にして本書の内容がわかります。


巧妙なツカミ
素直な私はその「簡単にまとめてみる」から読んでみました。確かに概要はわかる。でも概要でしかないから詳細を是が非でも知りたくなる。最後のまとめから読んでください、なんて書いてある本って普通ないですよね。(あるのか?)
少なくとも私は久米宏の術中に完全にはまってしまい、夢中で最初から読み始めたのでした。
テレビとラジオの両方で50年もの長きにわたり視聴者の心をつかんできた著者ならではのツカミのうまさですね。

この本で最も感動的なのは、248ページのくだりなんですが、


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僕は『ニュースステーション』を始めるときに、殺される覚悟をした。

うーん、かっこいい! 

しかし、とりあえずそこは後回しにしまして・・・


「なぜ全員合格させなかったのか!」
久米宏はアナウンサーになりたかったわけではないそうです。当時は大学の就職部に希望を出して推薦をもらわなければ就職試験を受けられなかったそうで、学業の成績が悪すぎて普通の会社は受けられなかった久米宏は、ラジオで「アナウンサー募集」というのを聴いて、これなら就職部を通さなくても受けられそうだと、とりあえず受けてみたら合格だった。しかも最終面接では寝坊して遅刻。それでも合格だったというのだから相当気に入られたみたいです。

しかし、その気に入られ方というのがまたすごくて、試験は7次まであり、彼は1次から2次、2次から3次と進むうちにだんだん腹が立ってきたとか。その都度落とされる人間がいるから。
最後のほうでは「また何人か落とすんでしょう? いったいどんな権利があってあなた方は人間に優劣をつけるんですか」と生意気に迫ったこともあるそうな。それでも落ちずに最終面接。
最終面接には8人残り、4人だけ合格。そのあとでアナウンサーの数が足りないとなり、一般職で受かった者から特に声のいい者をまともな試験もなしにアナウンサーとして採用した。「じゃあ、あのときなぜ8人とも合格にしなかったのか!」と食って掛かったらしい。

やはり、報道のTBSと言われていただけに、そういう「反骨精神」が気に入られたんでしょうね。あと、「何が何でもアナウンサー」じゃなかったから、肩の力が抜けていたのもいい方向に影響したと思われます。

さて、久米宏といえば何と言っても『ザ・ベストテン』と『ニュースステーション』ですが……


久米宏の中の『ザ・ベストテン』と『ニュースステーション』
大韓航空機撃墜事故をどこのニュース番組も伝えないので、『ザ・ベストテン』の冒頭で、「それにしてもなぜあんなにソ連の奥深くまで侵入したんでしょうね」と言ったとか。

僕にとって『ザ・ベストテン』は時事的、政治的な情報番組であり、のちの『ニュースステーション』のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。二つの番組は僕の中では表裏の関係をなしていた。

なるほど。これがこの本のタイトルの所以なわけかと納得したけれど、想定内の話でもある。どうにも想定外だったのは以下のような話。


情報量を常に均一にする
テレビカメラのズームレンズの中には「中玉」というのがあり、それが手前に来るとカメラが引いてワイド画面になる。中玉が引くと自分のクロースアップになる。(いまのカメラに中玉はないそうです)

中玉の位置を見ながら「画面の情報量」を常に意識していたとか。黒柳徹子は派手なドレスをいつも着ているから視覚的な情報量が多い。ツーショットのときはどうでもいいことを喋り、自分のアップになったときに「これぞ」ということを喋るように意識する。そうすれば、視覚情報と聴覚情報の和が常に一定になる。それを生放送で毎週やっていたというのだから恐ろしいまでの頭の回転の速さ!


殺される覚悟
僕は『ニュースステーション』を始めるとき、殺される覚悟をした。言いたいこと、言うべきことは言おう。言いたいことを言えば僕を殺したいと思う人間が出てくるかもしれない。しかし、それで殺されても仕方がない。殺されるのが怖いからといって口を噤むことだけはするまいと思った。

黒柳徹子の家に呼び出され、「辞めるのをやめるよう」説得されても応じず、『ザ・ベストテン』を強行降板して始めた『ニュースステーション』。絶対に失敗できない状況で常に心掛けたことは・・・

まだ誰も言ってないことを言おうと、朝刊に書いてあったこと、昼のワイドショーで誰かが言ったことはすべて除外。そのうえで「これなら行ける!」と思ったことをまず記憶して、さらに本番直前にトイレに行って憶えたことをすべて水に流す。

原稿の下読みは常に黙読。音読してしまうと本番で音読したときの新鮮さが失われるから。

うーん、普通なら音読してリハーサルするところでしょうが、そういうのは凡人の考え方らしい。

小宮悦子と小谷真生子は実際には仲がよかったそうだけれど、マスコミは「不仲」と騒ぎ立てた。それならそれを大いに利用しようじゃないか、と「人と人は仲良くしなければ」という話題になると、「ね、小宮と小谷も仲良くするように」と言ってみたら取り上げてくれる雑誌があった。

小宮悦子といえばいつも久米宏から「悦ちゃん」と呼ばれていたけれど、あれもプレーボーイのイメージがある自分と女性のキャスター共演ということで絶対関係を疑う人がいるという計算から「悦ちゃん」と呼んでいたそうな。呼びたい呼びたくないの問題ではなく、「生粋のエンターテイナーとして視聴者の期待には応えなければならない」というプロ意識の表れだそう。(ヒッチコックが「自分がどこに出てくるか見つけるのも観客の愉しみだから」と、いやでしょうがなかったエキストラ出演を遺作まで続けたのとまったく同じですね)

キャスターやアナウンサーではなく、一人の人間として番組の中に存在する。ニュースに対するコメントも、一人の人間としてどう考えるかを言葉にする。そんなふうに出演者たちが番組の中で「人間として生きている」と感じることができる。いってみれば、僕はニュース番組にストーリーのあるドラマを持ち込みたかったのだ。


異端から正統へ
NHKの『ニュースセンター9時』に対するカウンターとして始まった民放初のプライムタイムのニュース番組だったから、あくまでもNHKが「教科書」で『ニュースステーション』は「くだけた参考書」程度の意識だったらしいけれど、いつの間にかNHKが9時のニュースをやめ、自分たちが教科書になった。

もうこの時点で情熱は失われていたのでしょう。あとは辞めるまでのことが簡単に綴られているだけ。

「革命」は成功した。王は倒した自分が王になるのはいや。気持ちはもう次の革命に。『ニュースステーション』が実際に終わるまでの後半10年ぐらいは降板するしないの情報が飛び交ってばかりでしたからね。

そういえば、いまやってる民放共同企画の池上彰が5人のつわものと対談する番組。今日がたけしで明日が久米宏なんですよね。どんな話が飛び出すか。括目して見たい。




内田樹はサイコパス!?(中野信子『サイコパス』より)

『ホンマでっか⁉ TV』で一躍有名になった中野信子先生(しかしさんまってほんとアゲチンですね)の『サイコパス』(文春新書)を読んでいたら、

織田信長と毛沢東はサイコパス。これはよくわかる。
ケネディとクリントンもサイコパス。これももしかすると…と思う。
マザー・テレサもサイコパス。


ウッソーーーーーーー!!!

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しかしこの本には本当にそう書いてあるのですよ。マザー・テレサは慈愛に満ちた100年に1人の聖人ですが、身近なスタッフにはものすごく冷淡だったそうです。

本書ではサイコパスの特徴がたくさん挙げられていましたが、他人への共感が薄い、不安を感じないというのが特に普通の人より顕著だそうです。でも他人への共感が薄ければ困っている人を助けられない気もしますが、それはともかく。

サイコパスっていままでの印象だと「連続殺人犯」とか極端な事件を起こす一握りの人という感じでしたが、この本によると「100人に1人」いるんだとか。それほど珍しいものではなく、何と大企業の経営者や弁護士に特に多いそうです。

リスクを負って大きな決断を下すにはサイコパスの不安の欠如という気質が大いに効力を発揮するそうですし、大嘘を堂々とついて聞く者の関心を引くという気質は弁護士やマスコミ関係の仕事に向いているとか。あとは警察官とかスパイとかにもサイコパスは数多くいるそうです。

警察官?

ここで尊敬してやまないこの人が頭に浮かびました。




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思想家の内田樹先生。

この方はいろんな本で「自分ほど非情な人間はいない」とおっしゃっています。そして、「警察官や官僚など権力側の仕事は自分にとても向いているからものすごい力を発揮したと思う。その代わり国民に多大な迷惑がかかっていたと思うけど」とも。

会ったことないからあくまで本に書いてあることしか手がかりにできませんが、「講演に行くときは何も準備せずその場の空気を吸って何となく語り始める」というのは「不安の欠如」の顕れじゃないでしょうか。

『邪悪なものの鎮め方』とか『呪いの時代』なんて本を書いていますが、それってご自身が邪悪だからでは? いや、でも本当に「自分ほど邪悪な人間はいない」って書いてましたよ!
権力側の職につかなかったのは、ご自分のサイコパス気質に気がついて避けたのかも。武道や能をやっているのも、自分の邪悪さを少しでも鎮めるためなんじゃないかしら。

ん? これこそがあの師匠の多田宏先生から教わったとされる「先の先」なんじゃないですか⁉
いや、これはもう思いつきや冗談ではなく確信に近くなってきました。

何しろあのマザー・テレサですらサイコパスの疑い濃厚なんですから、内田樹先生がサイコパスでも少しも驚きません。それどころか、いつも不安に駆られ取り越し苦労ばかりしている私は爪の垢を煎じて飲ませてもらいたいとさえ思いますね。「勝ち組サイコパス」なわけですから。

いや、決して内田樹先生を貶めようとしてこんなこと書いてるんじゃないんですよ。『サイコパス』w読んでもらえばわかりますが、「サイコパスがいるからこそ人類は進化/深化してきた」というのが趣意ですから。

内田樹バンザイ! サイコパス万歳!!




『うしろめたさの人類学』(「うしろめたさ」と「負い目」の狭間で)

うちの両親は、孫(つまり私の甥っ子)たちに誕生日やクリスマスに現金をプレゼントしています。
お年玉ならいいけどプレゼントを現金でなんて絶対ダメだ、現金がほしいと言ったら怒らなきゃ、といくら私が言っても現金をねだる孫かわいさにいつも現金を贈っています。


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松村圭一郎というエチオピアでフィールドワークを重ねた文化人類学者による『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)で説かれるのは、「贈与」こそが貨幣による商品交換に代わってこの世界を変える契機になりうる、ということです。

「うしろめたさ」とは何かというと、エチオピアでは乞食がぜんぜん珍しくなく、乞食に普通にお金を分け与えることが普通であると。
でも日本では物乞いに現金を与えることを良しとしません。昔イタリアに行ったとき物乞いに少額のお金をあげたんですけど、それを帰国してから言ったらいろんな人から「何でそんなことをしたのか」と非難されました。でも国境なき医師団に寄付しているというと異口同音に「偉い」という。おかしいのでは? 困っている人のためにお金を出す、という意味においては同じなんですけどね。間接的ならよくて直接はよくないというのは理解に苦しむ。

という疑問が本書を読んで氷解しました。

つまり、乞食と自分とでは圧倒的に自分のほうが豊かである。豊かな自分が直接現金を与えると、彼我の格差が顕現してそこに「うしろめたさ」を感じてしまうのだ、と。

仮に、その乞食に家まで荷物をもってもらったとして、その対価としてお金をあげるとなると、これはもう労働力として対価を支払っている、つまり貨幣と商品との交換だから少しも「うしろめたさ」を感じることがない。

寄附金には「対価」という性質はないですが、それはいまは措くとして、現代ニッポンはすべてを貨幣と商品との交換として捉える、つまり「市場」の性格が大きい。それゆえに閉塞感を感じる人が多いのではないか。

著者はまたこうも言います。
社会とは動的なもので、二人の人間の間である「行為」がなされるから「関係」が生まれるのではなく、「関係」という現実が互いの行為によって構築されていくのだ、と。

与える。受け止める。そこに「関係」が生まれる。
蓮實重彦も「映画の中である人物が何かを投げ、それが受け止められるとき、二人の間に親愛の情が生まれる」と言ってましたっけ。蓮實はホークスの『脱出』におけるライターを例に出していましたが、私がこの言葉を読んでいつも想起するのはジャッキー・チェンの『龍拳』。恨み骨髄だったはずの男が実はそれほど悪い男ではなく本当に悪い奴が別にいると悟ったジャッキーに、その男から松葉杖が投げられる。それをしかと受け止めたジャッキーが大逆転勝利を収め、二人は抱き合うという胸のすくラスト。

閑話休題。
いまの日本では「市場」ばかりが幅を利かせていて、だから貨幣と商品との交換だけの関係しかない。

それを克服するには「贈与」することが大事だと。与える。受け止める。そうやって人間と人間の関係を構築していくこと。そうすれば国家と市場経済が一体化して動きが鈍った社会に「スキマ」を作ることができる。この「スキマ」という言葉が「贈与」と並んでこの本のキーワードのようです。交換だけでなくそこに贈与をもちこむことでスキマを作る。それは社会を動かすということ。もともと動的な社会の動きを取り戻すということ。

という著者の主張に一も二もなく賛成なのだけれど、はたしてこれがいまの世の中に有効なのかと考えると途方に暮れてしまうのです。

冒頭に記したとおり、プレゼントさえ現金という形で贈られることがあり、それを当然だと思って育った人間が確実にいます。彼らはもしかすると恋人にプレゼントを渡すとき、将来自分の子どもにプレゼントを与えるときに現金を与えてしまうのではないか、という危惧をもっていました。でもいまはその危惧がもっと大きくなり、与えられる側がプレゼントとして渡された現金を喜んで受け取ってしまうのではないか。つまり、それはおかしいと訴える私のような人間が少数派になりつつあるのではないか、という危惧に変わってきつつあります。

そもそも「贈与」がこれからの社会にとって大事になってくるという主張は、内田樹先生や柄谷行人さんなど私の好きな思想家がすでに言っていることです。
それに、出版元のミシマ社を立ち上げた三島邦弘さんって確か内田樹先生の本の編集者だった人ですよね(間違っていたらすみません)。
だから、この本を読む人ってもともと「贈与が大事だ」「市場価値だけがすべてじゃない」とわかっている人たちなんですよね。

ツイッターをやっていていつも思うのは、似た考え方の人ばかりフォローしているから真逆の考え方をしている人たち(例えばネトウヨとか)のツイートを読むことがないのです。裏を返せばネトウヨたちは私や私がフォローしているアンチ安倍のツイートを読むことがない。

本来、このような本は、現金をプレゼントとして贈ってもいいと考えるような人たち、「それって何の役に立つんですか?」とすぐ訊くような人たち、金銭に換えられないものは価値がないと信じ込んでいる人たちにこそ読まれないといけないと思うんですが、それは難しい。

著者は「だから少しでも与える側の『うしろめたさ』を受け止める側の『負い目』に転換しない工夫が必要だ」というのですが、うーん、具体的にどうしたらいいのかよくわかりません。

最近は落とした物を拾って渡すと怒る人がいますよね。あれって「負い目」を感じているからなんですね。なるほど。「うしろめたさ」を感じるから乞食にお金を与えない。逆に他人に何かしてもらうと「負い目」を感じてしまってお礼を言うどころか怒る。

しかし、大事なのは「与え続ける」ことなのでしょう。わからないと思考停止してしまってはいけない。大事なのは「動き続けること」。社会は常に動いているのだから身も心も動き続けねば。与え続けねば。それがもしかすると内田樹先生の言う「おせっかい」なのかもしれませんね。




アニメ除外の「映画芸術」ベストテン&ワーストテンについて

遅ればせながら、アニメを除外して大騒動の「映画芸術」ベストテン&ワーストテン発表号を立ち読みしてきました。

ポイントは3つですね。
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①アニメ除外は是か非か

①のアニメ除外についてですが、ある人のツイートで、
「せっかく実写とアニメの何が同じで何が違うかを議論する千載一遇のチャンスなのに、どちらも頭に血がのぼっていてもったいない」
という意味の意見がありました。私もまったく同意見。

アニメと実写はもちろんのこと違います。実写では、急に風が吹いてヒロインの長い髪がなびいてそれがすごくいい、とか、ハプニングを取り込んでいけますけど、アニメは100%人為的に作り込まれているのでね。演技だって、肉体や表情だけの芝居も含む実写に比べ、アニメだと声の演技だけだし。それを同列に扱うのはどうかと。

アニメをベストテンから一方的に排除する「理由」は誰の目にも明らかで、去年、荒井晴彦編集長が非難した『この世界の片隅に』がベストに選ばれたからでしょう。とはいえ、「前から違和感があった」というのは嘘ではないと思います。私ですら感じていたわけだし。

でも、『この世界の片隅に』がベストに選ばれたことが「大きなきっかけ」になったことは間違いないわけで、それならそれで堂々と正直に言えばいいと思うんですよ。それを「あれは関係ない」とかいう弁解はいただけません。

「映画芸術」というのは荒井晴彦さんの「主観」で作って売ってる雑誌なのだから(私自身そういうところが好きで定期購読していました)もっと「アニメは実写映画とは違う」と堂々と言えばいいんじゃないですかね。ただ、最近の映画は役者以外はすべてCGやアニメと合成している場合も少なくないわけで、とすると『シン・ゴジラ』とかはアニメ扱いになるんですか? 河村さんという人が「仮想現実に依拠した映画を排除」とかって言ってましたが、どこに「線」を引けばいいんでしょう?

いずれにしても、「アニメ排除」というか「アニメは実写とは違う」というのは荒井晴彦という人の「主観」として受け取ればいいんじゃないでしょうか。もちろん、そのような意見は受け容れられないという「主観」をもつ人だっているでしょうし、議論を深めていけばいいのでは? 実写と仮想現実を合成している映画は「実写」なのか、それとも違うのか。そもそも「何が映画なのか」というところまで。テレビドラマとして作られながら劇場公開されたものははたして映画なのか、どうか。

私はアニメ除外より、次の問題のほうが大きいと思いますよ。

②機械的な点数決め

これまでは「ベストもワーストも10本まで(0本でもOK)」「合計55点のうち1本の最高点を10点として自由に配分できる」という規定が、「ベストもワーストも必ず5本選ぶ」「点数配分は1位10点、2位7点、3位5点、4位3点、5位1点とする」と大幅に変わりました。

なぜこのほうが問題が大きいかというと、「主観」が売りだったはずの映芸が「客観公正幻想」に毒されてしまったと思うからです。確か12年前だと記憶していますが、田中千世子や塩田時敏らが「監督をした」「出演をしている」という理由でキネ旬の選考委員から排除されました。自分の作品に投票されたらベストテンが客観公正でなくなってしまうというキネ旬の判断に対し、荒井さんは「ベストテンが客観公正なんて幻想だよ」と言って批判していました。私もそう思います。(別にベストテンだけでなく映画批評は主観のぶつけあいだと思うし、そもそも人生そのものがそうですよね)

今回の誌面でも「映芸はキネ旬への批評なんだ」と言っています。であれば、徹底的に「主観」を売りにしてほしいんですよ。荒井さんの作品が1位になったりすると「お手盛りだ」といまだに非難する人がいますが、あんなのもはや恒例の「芸」みたいなもんなのだから、「あーやっぱり!」と楽しめばいいと思う。

それよりも、ベストもワーストも全員が5本ずつで点数配分まで決められてしまうと選者の「主観」が薄まって「客観公正幻想」に染まってしまうんじゃないですかね。「アニメは除外」という炎上覚悟の「主観」をぶち上げておいて、一方で「客観」「公正」を売りにするというのは矛盾しています。この矛盾こそが今回の選考基準変更の一番大きな問題と考えます。以下は蛇足です。

③ワーストの点数をベストから引かないこと

ワーストの点数をベストから引くことで順位の逆転が起きるという「底意地の悪さ」が私は好きだったんですがねぇ。それをなくしてしまったら楽しみが薄まってしまうと考えるのは私だけではないと思います。

そりゃ真逆の考え方の人もいるでしょう。確かあれは2004年でしたか、『血と骨』と『誰も知らない』がワーストでも結構な票を集めて瀬々敬久監督の『ユダ』が逆転1位になったとき、前者2本に高得点を入れていた山根さんが「単純につまらない」と言って選考委員を降りちゃったんですよね。今回のようにベストとワーストを別々に選ぶのもいいんですけど、奇しくも今年は「映画秘宝」が、ベスト1位ととほほ1位に同じ映画を選ぶという「快挙」を先にやっちゃったし、やはり映芸にはいままで通りワーストの点数を引くという底意地の悪さを発揮してもらいたいもんです。それもまた映芸の「主観」では?(だって『ユダ』を1位に選ぶなんて映芸にしかできないですよ)

ほんとに蛇足
荒井晴彦さんの名誉のために言っておくと、いままで通りワーストの点数をを引いていたら『幼子われらに生まれ』が逆転で1位でした。決して自分の作品を1位にしたいだけでやってるわけではないということです。

『人工知能は資本主義を終焉させるか』(齊藤元章の大きな誤り)

人工知能と経済学の関係を研究する経済学者の井上智洋さんと、スパコン・人工知能エンジン開発者の齊藤元章さんの対談本『人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点』(PHP新書)を読みました。


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齊藤さんは何でもつい最近、東京地検特捜部に詐欺容疑で逮捕されたらしく(逮捕されたせいで『プロフェッショナル 仕事の流儀』が放送見送りになったのはこの人だったのかと初めて知りました)これはもしかすると齊藤さんの思想が原因の国策捜査なのかな、という気もします。

ことの真偽はまったくわかりませんが、この本は非常に面白いところとあまりにアホすぎるところの差が激しい珍本でした。

面白いと思ったところは、

・『21世紀の資本』のトマ・ピケティの「R>G」という不等式について
・安土桃山時代の日本の軍事力は世界最強だったこと
・累進課税と言いながら、超高額所得者は逆に税率が低くなる
・ベーシックインカムとヘリコプターマネー
・「人類補完計画」

人類補完計画は齊藤さんの計画ですが(『新世紀エヴァンゲリオン』のラストシーンみたいなのを本当にやろうとしているようです。それも地球規模ではなく宇宙規模で)他はすべて井上さんが喋り手で齊藤さんが聞き手になっているときの話ばかり。

だから、井上さんの話は傾聴に値するのですが、齊藤さんの話には納得できませんでした。

人類補完計画だって、ブレイン・ブレイン・インターフェースといって、人間の脳と脳を直接つなぐことによって、すべての人類、宇宙に棲息するすべての知的生命体をひとつにつなぐことなんですが、そのことで私たちが得られる幸福度がどの程度のものかは知る由もありません。

脳と脳を直接つなぐことによって、うつ病の人がどれだけしんどい思いをしているか、ガンで苦しむ人がどれほどの痛みに耐えているか、歩けない人がどれほどの不自由を強いられているかを直接体感できるため他者への共感度が増す、というのはその通りでしょう。

しかし、脳と脳を直接つなぐのだから自分が考えていることが相手に筒抜けなわけですよね。それは嫌です。ほとんどすべての人が嫌なんじゃないですか。

だから、地球人すべての脳をひとつにつなぐよりも、隣の人の脳と自分の脳をつなぐことがまず難しいですよね。不可能では? 

スパコンと量子ニューラル・ネットワークというものを接続すれば、現在のスパコンが計算終了まで100億年かかる問題も瞬時に解決できてしまうという話があって、それ自体は面白い話ですが、人間は機械じゃないので「脳と脳を接続する」ことを嫌がる人のことを少しも考慮していないのはいかがなものでしょうか。

さらに、齊藤さんの夢は「地産地消・個産個消」らしく、地産地消はわかります。こういうのですよね。↓


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近代以前は自給自足の生活でしたが、それはたとえば100人の村があったらその100人ですべてを賄うやり方です。その100人はおそらく分業制だったはずで、絵のように刈り入れは女性がやって、男たちはその間に狩りに行くとか。

しかし、齊藤さんの提唱する「個産個消」というのは、まさに一個人ですべてを賄うやり方なんです。

「個産個消が可能になれば、誰にも頼る必要がなくなり、金銭も不要になるから犯罪も減るし、何より個性と創造性の爆発が期待できる」

うーん、、、本当に犯罪は減るのでしょうか。誰にも頼らなくて済むのでしょうか。

齊藤さんが忘れているのは、「隣の柿は赤く見える」ということです。

「自分に必要なものは自分ですべて賄えるのだから」と齊藤さんは言いますが、人間は必要じゃないものもほしがる生き物なんですよね。

「有名人のサイン」がいい例です。

あれは単なる「直筆の名前」にすぎません。何でそんなものがほしいの? と訊いてちゃんとした答えが返ってきた試しがありません。みんな「他人がほしがっているから、世間が価値があると言っているから」というただそれだけの理由で「自分もほしがっている」と勘違いしてしまうのです。

このようなことはコンピュータの世界に当てはめれば「バグ」に相当するんでしょうが、齊藤さんは「人間は常にバグを生み出し続ける生き物である」ということをすっかり失念しています。

お金のない世界はユートピアであるという主張には同意します。

しかし、そう主張していた人が詐欺を働いていたとして逮捕されました。

もし本当なら齊藤さん自身がバグだったわけだし、国策捜査としてハメられたのだとしたら、東京地検が、もっといえば日本という国家がバグです。

いずれにしても、「バグ」を生み出し続けるのが人の世であることは間違いなく、だから、やっぱり「人類補完計画」なんてアニメの中の夢物語にすぎないと思います。


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