聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

書籍・雑誌

「生産性の低さ」にこそ価値がある!(『ローカリズム宣言』より)

最近、話題の「生産性」という言葉(もう下火かな?)。何だかいやな言葉だなぁと思っていたら、「生産性が低いことにこそ価値がある」という人が現れました。

内田樹先生の『ローカリズム宣言 「成長」から「定常」へ』を読んで唸りました。杉田水脈の発言より半年も前に「生産性」への絶妙な批評が出ていたんですね。






内田先生は、すべてを数値で換算し、数値に換算できないことには意味がないとするグローバリズムに嫌気が差してUターン、Jターン、Iターンなどさまざまな形で農村に住みつく若者が増えていると前置きして次のようにその理由を語ります。(以下、若干編集してます)

若い人たちが農業を目指す大きな理由のひとつは、現代において農業が例外的に生産性が低いだということにあると僕は思っています。『生産性が低い』ということはひとつのタスクを達成するために多くの人手が要るということです。逆に言えば『生産性が高い』というのはできるだけ少ない人数で多くの仕事を仕上げることができるということです。つまり雇用が減るということ」

「人間が経済的活動をするのは人間的成熟を果たすためです。そうであるなら、できるだけ多くの人間が経済活動に参加することのほうが生産性や利益率や株価よりもはるかに重要です。僕たちが過去20年間のグローバリズム資本主義の推移を通じて学んだことは、それは雇用機会の拡大にも市民一人一人の市民的成熟にも何の関心もないことでした。ということは、グローバリズム資本主義のルールの下で行われているもろもろの営みは言葉の本当の意味での経済活動ではないということです

「都市での賃労働に見切りをつけた若者たちは、別にそこで合理的な経営をしたり、機械化を進めたり、資本の集中による『強い農業』を立ち上げるつもりなのではありません。彼らが農業を志したのは、それが極めて生産の低い仕事だからです」

「そうである以上、まず信頼できる人間的ネットワークを立ち上げることが必要となります。相互扶助・相互支援的な人間のつながりを作り、歓待信頼約束保障という人間的な概念によって人と人を結びつけることが必要となる」

「農業では、ひとつのタスクを達成するために大人数の手が要ります。その人的リソースは『賃金』で雇い入れることはできません。山林の保護とか、水路の確保とか、道路の整備とか、そういうことは誰も一人の力ではできない。自分たちでやるしかない。そのためにはまず私たちと発語しうるような、一人称複数的な主体をこそ農業の主体として立ち上げるしかない」

「農村では他にも、屋根を葺いたり、祭礼を守ったり、寄合に集まったり……とさまざまな活動への参加を求められる。そういう活動を通じて都会から来た若者は次第に一人前の『百姓』に仕上がっていく。そういう漸進的な成熟プロセスが可能なのも、農業がとにかく『人手が要る』仕事だからです。生産性が低いからです」

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うーん、相変わらずの卓見ですね。農業だけでなく、第一次産業と言われる農林水産業はすべて同じでしょう。
私は常々、職業に貴賤なしというけれど貴賤はあると思っています。賤業についてはここでは措くとして、貴業の最たるものは農林水産業だと思っていましたが、それは単に生きるために必要な食べ物を生産するからではなく、その生産を通じて人間的な成熟がはかれるからなのだということがようやくわかりました。

「おまえは生産性が低いからクビにする」
「生産性が低い人間には何の価値もない」
「そんな人間に手厚い保護をする必要などない」

そういうことを言う人間には徹底抗戦しましょうぞ!


tasukeai


こういう風景が復活することを祈って。


本秀康『ワイルドマウンテン』(神話の脱構築)

花田菜々子さんの『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(その感想は→こちら)で推薦されていたマンガ『ワイルドマウンテン』全8巻を読んだんですが、これがとてつもなく面白かった。



この↑表紙にあるかわいい顔した男・菅菅彦は(スガ・スガヒコという名前が素晴らしい)実は地球防衛軍の元隊長でなかなかのやり手軍人だった。が、地球に衝突する可能性の高い隕石を破壊する極秘指令を受けたのにちょっとした手元不如意から撃ち落とし損ね、隕石は中野区に落ちて多数の死傷者を出した。
その隕石の塊が山となって新しい町を形成してワイルドマウンテン町ができ、失意の菅菅彦は軍を辞めて町長として町おこしの役を担う。というのが物語の発端部です。

つまり、菅菅彦は「隕石を撃ち落とし損ねた」というつらい過去をもっており、そこがクライマックスでどう解決されるかが物語の主眼となります。

軍で好き合っていたマリという女の子とワイルドマウンテン町で出会う未亡人との三角関係、さらには親から捨てられたも同然の銀造とその祖父・淵野辺さん、軍の部下などが入り乱れます。そこに「ハガレゴッド」なる宇宙人も登場するからこれはれっきとしたSFなんですね。


wildmountain2 (1)

菅菅彦を抱っこしている大きな薄っぺらい壁みたいなのがハガレゴッドで、この人物(?)は誰の心の内も読める超能力をもっています。菅菅彦は宇宙人がいるとなると町おこしには最適だと胸躍らせますが、ハガレゴッドや他の奇々怪々な生き物たちと仲良くなってしまい、さらに銀造も彼ら以外に友達がいない。友情を何よりも重んじる菅彦は彼らの存在を隠します。

だから、隕石を撃ち落とし損ねた過去をめぐるメインプロットと、ハガレゴッドたちの存在を隠している現在をめぐるサブプロットと、二つのドラマが描かれているわけです。
はたして菅菅彦は軍人として失敗した逆境を順境にできるのでしょうか。そこにハガレゴッドのサブプロットがどう絡まってくるのか。

と思っていると……

別の宇宙人が出てきて香港まで行ってかなり複雑な展開を見せながら、菅菅彦がやはり軍人としてやたら優秀である一面を見せてくれます。
なんていうと、菅彦がめちゃかっこいい男のようですが、未亡人がジャズシンガーで、ジャズなんか聴いたことないのにジャズマニアを気取る可笑しさを演じるかと思えば、軍時代の同僚マリちゃんに告白してオーケーをもらうもあまりにせこいことを言い出したためにマリちゃんから膝蹴りを食らうなど哀しい面ももち合わせています。主人公にふさわしいキャラクター設定ですね。

さて、ハガレゴッドたちの存在がマスゴミのせいで明るみとなり、そのせいで菅菅彦が隕石撃ち落としに失敗した過去まで明らかになります。メインプロットとサブプロットの危機=クライシスがいっぺんにやってきました。さあ、どうなる!?

と、思っていたら……

あっと驚く結末が待っているんですね。神話的想像力に彩られたメインプロットも解決するうえに、サブプロットも解決する。しかもラスト近くはほとんどのキャラクターが殺されてしまうのにそれすらも解決されてしまう。

しかも菅菅彦の問題が解決するだけではありません。ラストシーンに至っては、別のキャラクターの問題が噴出し、そして一気に解決を見ます。

このマンガは菅菅彦ではなく別のキャラクターのドラマなのでした。え? マジで!? 

いやいや、もしかすると、これはやはり菅菅彦の町長としての物語かもしれないし、同時に別のキャラクターの物語かもしれない。どちらも真なのでしょう。そして両方の物語から浮かび上がる「友情」というテーマ。神話の変奏かと見せかけておいて実は神話以上のものを見せる手腕に拍手。お見事!!!

作中人物が作者の狙いを推量したりするんですが、私は普段ああいうメタフィクション的な仕掛けは好きではないんですが、それすらもあの結末は解決してしまうんですね。あれは作者の語りではなく別のキャラクターの語りだったわけですね。ちゃんと整合性が取れてる。ほんと見事としか言いようがない。

『出会い系サイトで実際に70人と~』を読まなければこのマンガを読むことは一生なかったでしょう。著者の花田菜々子さんに厚く御礼申し上げます。もちろん『ワイルドマウンテン』の作者、本秀康さんにも!



AI自動運転社会は永久にやってこないと思う件

最近AIに関する本を3冊読みました。

『人工知能の哲学 生命から紐解く知能の謎』
『AI原論 神の支配と人間の自由』
『AI vs.教科書が読めない子どもたち』




半年前に『人工知能は資本主義を終焉させるか』を読んだとき(感想は→こちら)現在最も計算の速いスパコンが100億年かかる計算を瞬時にやってのけるAIがもうすぐできると書かれていて、そんなすごいものができたらどうなるんだろうと、興味と恐怖が交錯しました。
が、著者が主張する「シンギュラリティ」は絶対ないだろうな、と何の根拠もなく思いました。

今回読んだ3冊はその根拠を見事に提示してくれる本でした。(あんまりシンギュラリティに否定的な人の本ばかり読むと偏ってしまうので、近々肯定的な人の本もまた読んでみるつもりです)


自律システムと他律システム
3冊の著者は、シンギュラリティを否定するどころか、AIの開発自体が無理と言い切ります。

え!? AIってすでにたくさんあるじゃん。ポナンザもそうだし、ルンバだってそうでしょう?

という声が聞こえてきそうですが、あれらは正確に言うとすべて「AI技術」にすぎず「真の意味でのAI」ではないそうです。

そのときキーになるのが「自律システム」と「他律システム」というワードです。



自律システムとは我々人間や他の生物すべてがもっているもので「自己増殖」できるのが特徴だとか。逆に他律システムは人間が何らかの指令を出さないかぎり動けないシステムで自己増殖ができない。
この場合の自己増殖とは、自分で自分の知能を高めていくということで、自律システムさえ確立されればAIがさらに高度なAIを作ることができる。その先にシンギュラリティが起こるかもしれないし、少なくとも『ターミネーター』のように機械と人間の戦争は避けられない気がします。

いま巷で「AI」と呼ばれているものはすべて他律システムだそうです。ポナンザだって作った人が「なぜこんなに強くなっているのか」と話したらしく自律的に強くなっている感じがしますが、最新の棋譜をどんどん入力してやらないとディープラーニングは不可能ですし、そもそもポナンザは将棋以外に何もできませんから「知能」とは呼べません。




話題の『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で口酸っぱく語られているのは「いまのAI技術は単なるコンピュータであり、コンピュータは四則演算しかできない。数学で記述できる言葉は論理・確率・統計だけでその他は不可能」というものです。ポナンザが強いのはその論理・確率・統計から最善手を導くためのビッグデータを所有し、かつ演算能力が異常に高いだけ、ということになります。


グーグルの事実上の撤退
さて、AIが車を運転することで言葉の真の意味での「自動車」が近々街を走り、バスやタクシーの運転手は職を失うだろうと言われていますが、私はこれら3冊の本を読んでかなり懐疑的になりました。

車を運転するためには何より「自律システム」であることが求められます。無人運転の電車といえば神戸のポートライナーが走りで、いまは全国各地にあるんでしょうけど、あれなら線路の上を走るだけだし、二重扉で人身事故が起こることもないし、どこで止まるかも決まっているから他律システムでも大丈夫なんですよね。
ただ、ちょうどこないだの大阪府北部地震のとき私はまさにポートライナーに乗っていましたが、ああいうときはもう人間が出て行って安全を確認しなくてはいけない。他律システムではそれが無理。

それが無理なら道を車で走るなどもってのほかでしょう。突然子どもが飛び出すかもしれないのにどうやってそれを避けるのか。

そして、避けられなかった場合の「責任」はいったい誰が取るのか。責任は生身の肉体をもった人間にしか取れません。死刑とか懲役というのは肉体の苦痛を伴いますが肉体をもたないAIに責任を取らせることはできません。では開発者や販売者に責任を負わせればいいのでしょうか?

ちょっと前まで自動運転車を開発して売り出すと息巻いていたグーグルが、それを撤回してはいないものの、だいぶトーンダウンしているとか。それはやはり「責任」。もし事故を起こしたら自分たちが責任を取らないといけなくなるので、飛び出してきたものが轢いてはいけないものか大丈夫なものか、瞬時に判別できる画像認識ソフトを開発して自動運転車を製造する別会社に売って、責任は回避するつもりらしいと書かれていました。

なるほど。でもそれって「事故を起こす可能性がかなり高い」と認識しているんですよね。人間はミスをする生き物だからいまだに交通事故がなくなりませんが、AIによる自動運転に移行するのなら「絶対に事故に遭わない」ように設計してくれないと乗る人は誰もいないでしょう。

それもこれもいまの「AI技術」が「真の意味でのAI」ではないからです。他律システムだからです。自律システムとは、前述のとおり自分で自分の知能を高めていくことができることです。人間が1の能力のAIを作ったらあとは自分でそれを1.001倍していく。それを異常なスピードで繰り返せば近い将来シンギュラリティが到来するでしょう。


人間に「心」を作ることは可能か
しかしながら、グーグルが開発に躍起になっている画像認識ソフトですら無理らしい。なぜか。

『人工知能の哲学』で詳述されていますが、我々生物は「錯視」によってこの世界を認識しているそうです。この世が本当にこのような姿、つまり人間が認識している通りの姿だとは誰にも言えません。人間が認識できるのは4次元までですが、本当は12次元(13次元だったか)という物理学者もいます。客観的にどういう世界かは永久に誰にもわからない。でも「錯視」によって主観的に世界を認識することはできるし、実際にみんなそれをやって生きている。

錯視を論理・確率・統計の言葉で作り上げることができるでしょうか? ごく普通に考えて錯視はまったく論理的じゃないですよね。

コンピュータの礎を作ったアラン・チューリングは「脳を作るぞ」と息巻いてチューリング・マシンの開発に着手したそうですが、人間には脳は作れるかもしれませんが心は無理でしょう。心は脳に宿っていると思っている人が多いですが(私も昔はそう思っていました)心がどこに宿っているのか、最新の科学ではまだわかっていないし、特に脳科学では「心は脳にある」という考え方は否定されているそうです。

自律システムが可能になるためには「心」を開発しないといけないのですが、どうもAI開発者は人間の脳と同じものさえ作ればいいと考えているらしい。脳ならすでに開発できている気がします。パソコンもスマホも、いわんやポナンザやルンバも「脳」と言ってかまわないと思う。

でも、問題はやっぱり「心」ですよ。主観的に物事を認識することができなければ「自律システム」ではない。脳なら頭蓋骨から取り出してどういう具合になっているのか観察できるから模倣して作ることも可能でしょうが、心は外側から観察できません。自分の心を内側から見つめることしかできない。だから人間に脳を作ることはできても心は作れない。そして、心を作れない以上は自分で自分の知能を高める自律システムの開発は絶対に不可能です。

というわけで、AIが自動車を運転する社会は永久にやってこないと思うのです。

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花田菜々子『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』

名作『夫のちんぽが入らない』の著者こだまさん推薦の『出会い系サイトで実際に70人と会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』を読みました。
花田菜々子さんという無類の本好きが「X」という出会い系サイトを通して文字通り本をすすめまくる実体験が綴られています。




最高のビルドゥングス・ロマン
これは面白かったですねぇ。
出会い系サイトというと、どうしても美人局とか、女性だったら変態に犯されたり、とても恐いものだと思いがちですが、いや、確かにこの本で実際に花田さんが最初のほうに会った男たちはセックス目的だったようですが、本をすすめる面白い女性という評価が確立すると、そのような変な人との出会いがなくなり、良きにつけ悪しきにつけ「とても変で面白い人たち」との出会いに変わっていくんですね。

そして、あろうことか、出会い系サイトを飛び出して現実世界で逆ナンするようになったり(もちろん本をすすめるのが目的)挙げ句の果てに本をすすめるイベントを実現してしまう。さらに終章の一文にグッときます。

「そして私は『X』へのショートカットをスマホのホーム画面から削除した」

そうなんですね。この本は奇を衒ったタイトルでキワモノ本を装っていますが、実はとてもまっとうでごくごく普通の教養小説=ビルドゥングス・ロマンなわけです。ビルドゥングス・ロマンとは、主人公の成長を描く物語のこと。

夫と別居することになった著者が「X」の手を借りて逆境を跳ね返し、ついには「X」の助けを必要としなくなる。リアルな世界で生きる力を取り戻すために「X」というバーチャルなツールが必要だったというのはとても今風ですね。よき。

私もこういうふうに出会い系サイトを活用してみようかな、という気持ちが湧き起こりました。でも、どうしても根が臆病だからか、↓こんなふうになってしまわないかと心配なわけです。


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でも、著者は悪意に絡め捕られる危険よりも新しい出会いに賭けて成功したわけで、怖がっているばかりでは何も変わらないなぁと。

そういえば、こんな言葉があります。

百聞は一見にしかず。百見は一感にしかず。百感は一行にしかず。

つまり、たくさん見てもひとつの感動にはかなわない。そして、たくさん感動してもひとつの行動にはかなわない。だから何か行動を起こそうと思う猛暑日の夕暮れでした。著者もこう言っています。

「私が思ってたよりもこの世界は愉快なのかもしれない」


興味を惹かれる数々の本
それにしても著者の博覧強記ぶりには舌を巻きます。巻末に文中ですすめた本の一覧表が載ってるんですが、読んだことがあるのは4冊だけ。藤子・F・不二雄の『モジャ公』というのさえ知らなかった。『カンビュセスの籤』なら読んでるけど。

早速、谷川俊太郎よりメッセージ性が高くて好きだと著者おすすめの『おんなのことば』(茨木のり子)を読んでみました。

うん、よき。

特に最初の『自分の感受性くらい』という詩にガツンとやられました。

「ばさばさに乾いてゆく心を
 人のせいにはするな 
 みずから水やりを怠っておいて
 (中略)
 自分の感受性くらい 
 自分で守れ 
 ばかものよ」

と読者をアジる内容となっています。

他にも史群アル仙なんて漫画家は名前すら知らなかったし、いろいろ読んでいこうと思います。

花田菜々子さん、素敵な読書体験をどうもありがとうございました。


本書で推薦されていた本の感想
『ワイルドマウンテン』



批判を許容しない社会について

哲学者・中島義道さんの『「思いやり」という暴力』(PHP文庫)を読んで何度も膝を打ちました。



批判のない国ニッポン
この本は旧題が『〈対話〉のない社会』といい、日本人は対話することをできるだけ避ける。そのことにいらだちを募らせる著者が「それでいいのか日本人!」と声高に叫ぶ内容です。

でも、私は「対話」というキーワードよりも「批判」のほうに関心が向きました。とはいえ、この二つの言葉は同じことを表しているのでしょう。対話とは相手を面と向かって批判し、批判された者はその批判を受け容れ、さらに反論して議論を高めていくことだからです。批判のないところに対話はない。

英語教師たちへの感謝を述べる日本人代表の挨拶が紹介されていますが、ただ外国人教師たちへの感謝が述べられるだけなんですね。通り一遍の何の個性もない挨拶に対し、外国人たちは一様に怒ります。

「何の批判もなしにただ感謝だけを述べられても困る」
「建設的な批判がないのはいかがなものか」


というように。


uranaiwohiteisuruhitonotokutyou

批判は悪口?
私はよくこのブログで映画の批判をしていますが、それは日本の映画評論家にはまともな批評をする人がいないからです。面白い映画をいかに褒めるかばかりに神経を注いで、つまらない映画には無視を決め込む。これは製作者たちとの対話を拒否しているということだと思います。

一般の映画ファンも同様で、近頃は何でもネガティブなことを言うと「ディスる」といって非難する。ちょっと前にツイッターで、「映画の悪口は言うもんじゃない」と言っていた人がいました。目を疑いました。批判は悪口なんですって。そりゃま、誹謗中傷の類はそうでしょうが、その人の論旨では批判することが悪口だという感じでした。

映画製作者たちも同様です。去年の暮れに、ある映画監督と相互フォローの関係になりました。その人の映画がちょうど公開されたので見に行ったら少しも面白くなかったので正直に感想を書きました。もちろん誹謗中傷はしていません。建設的な批判をしたつもり。しかし、その監督さんからは何の反応もない。観客との対話を拒否している。

つまり日本では「批判はしてはならない」し、「批判されても受け容れない」のが普通のようです。

でもそれは中島義道さんが忌み嫌う「対話のない社会」そのものです。

だからこれからも建設的な批判をしていくつもりです。



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