聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

学問・資格

「歴史教科書問題」を考える(「生身」を取り戻すために)

私を知っている人はみな異口同音に言うことがあります。

「おまえは生まれる時代を間違えた」

何でも、幕末とか、昭和初期、少なくとも68年革命の頃が合っているらしいです。自分自身でもそう思わないことはありません。

しかし!

一番近い1968年ですら、そんな時代に生まれたら間違いなくボットン便所ですよね。その一点だけだけ取ってみても、私は水洗トイレのある現代のほうがいい。

と言うと、再び異口同音に「時代というものをそういうふうに捉えるとは」と感心されるんですが、逆に私はそういうふうに捉えないことが不思議です。

過去の偉人も、いまこの時代を生きている我々も、みな「生身の人間」です。歴史を考えるとき、この「生身」ということが忘れられていることが多い。


TVタックル

今日の『TVタックル』では、今年の重大ニュースとして「歴史教科書から偉人たちの名前が削除される件」が取り上げられていました。

坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰などの名前が削られることになったわけですが、それぞれの人物を生身の人間として見ていないことが何よりの問題だと思います。

今回の決定に賛成する学者は、

「現在、高校の歴史の授業で教えるべき用語が3000以上あって、そのためには140時間必要で、ひとつの用語あたり2分30秒かかる」

と、負担を減らすことが主眼だと主張していましたが、歴史というものを完全に「データ」として捉えていますよね。

私の高校時代の歴史教師は、

「歴史は物語である。流れである。一問一答式の問題集では歴史の実相には迫れない」

と言っていました。今回の歴史教科書をめぐる決定には「歴史とは生身の人間が織りなす物語」だという観点が完全に抜け落ちています。

歴史を学ぶというのは、その物語そのものをまず受容して、そのうえで未来をどう構築していくかという大局観をもつことでしょう? 


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奇しくも今回削除対象にされた吉田松陰は、そのような教育をしていた真の教育者でしたよね。だから、今回の決定は「教育とは何か」というイデオロギー問題でもある気がします。

だって、大学入試でこれらの人名を出さないことが根幹にあるわけですし。
大局観をもった人間を育てることが教育なのか、受験エリートを生み出すことが教育なのか。

それはともかく、教育者といえば、先述した高校の歴史教師をはじめ、私が教わった中高の社会科の教師は「教科書は嘘ばかり書いてるから使いません」という人ばかりでした。自分でプリントを作ってみんなに配り、授業はそのプリントに沿って行われました。

だから、教科書から削除したら現場の教師は教えなくなる。インプットを減らせば必ずアウトプットも減ると信じている文科省とその追従者は、現場の教師を決して生身の人間とは考えていないのだと思います。

人間とはそんなに単純なものではありません。本来、歴史とはそういうことを学ぶための学問だったはずです。

上杉謙信が武田信玄に塩を送ったエピソードなどは、そのための恰好の教材なのに。


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とはいえ、反対派の武田鉄矢も同じ過ちをしていると思いました。

教科書から「坂本龍馬」の名前が消えても、龍馬という人物を教えたり学ぶことはできます。仮に現場の教師が文科省の言うとおりに龍馬のことを教えなくなったとしても、龍馬について書かれた本はたくさんあるのだから学べます。教師によるアウトプットがなくなれば子どもたちへのインプットがなくなると信じているのだから、賛成派を裏返しただけです。

歴史上の偉人も生身の人間、教師も生身の人間、生徒も生身の人間ということを忘れてしまっていることが本当の「歴史教科書問題」と私は思うのですが、いかがでしょうか。



「大きな物語」は本当に失われたのか?

ポストモダンというものに疎いので見当違いのことを言うかもしれませんが、どうぞご容赦を。

さて、いまという時代を論じるときに「大きな物語が失われた時代」っていう決まり文句がありますよね。

あれって何かいつの間にかそれが当然みたいになってますけど、本当に大きな物語って失われたんでしょうか。

内田樹先生は、「決まり文句を容易に信じてはならない」と様々な本で語ってらっしゃいます。
「一度上げた生活レベルは下げられない」を代表として挙げてますが、「本当にそうなのか」という確認を怠ったまま、大多数の人間が同じことを言ってるから正しいと盲目的に信じて口にしているだけと内田先生は難じています。

「いまは大きな物語が失われた時代だ」というのも同じなんじゃないでしょうか。

戦争や革命などの大きな物語があった時代といまは大きく違うかもしれませんが、それでもやっぱりいつの時代でも、「人間は〝世界史″の中で生きている」のですからね。

確かに、大きな物語が失われたような気はします。だけど、それって主観的なものなんじゃないのかな、と。

「いまは大きな物語が失われた時代だ」と言う人は自分の視座からしかものを見てないんじゃないですかね? だから自分が歴史の大きなうねりの中にいることが見えない。

銀河系を真横から見た想像図がありますけれど、ああいうふうに超絶的なまでに客観的に自分の立ち位置を見つめないと、銀河系が回っていて、その中の太陽系も回っていて、地球はその太陽の周りを回っていて、自分はその渦中にいる、ということが見えないんじゃないかと。

「いま/ここ」にいながらにして、未来から「いま/ここ」を見る視座を獲得することが重要なんだと思います。

どんな時代でも「大きな物語」はありますよ。
「いま/ここ」の視座からは見えないだけで、後年になって「あぁ、あの頃はこうこうこういう大きな物語な中に自分はいたんだな」と誰しもが思うんじゃないでしょうか。


「将来役に立つ学問」という傲慢

もう結構旧聞に属することかもしれませんが、文科省が人文科学など文系の学問は実社会に出てから役に立たないからとかいう理由で学部ごと廃止すると言いだして問題になりましたが、これはまことに愚かなことです。


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尾木ママは、「一番役に立つ学問は哲学、倫理だ。文系の学問こそ役に立つ」と言ってますが、そういうふうに反論するのは敵の土俵で戦うことになってしまって良くないと思います。

「将来役に立つ」かどうかで学問を評定することが愚かなのです。

とはいえ、「役に立たないことこそが人生を豊かにするのだ、無駄なことが大事なのだ」という言説も、結局は学問を役にたつかどうかで評定しているという意味では文科省の政治家・官僚たちと同列でしょう。

私はまず「役に立つ」より「将来」のほうに大きな問題があると思うのですよね。

例えば、中学生なんかが「数学なんて勉強したって将来役に立たない」と言う。確かに一理あるかもしれません。しかしながら、十年後、二十年後の自分が数学と縁のない仕事に就いてるかどうかなんて、なぜ「いま」の時点でわかるのでしょうか。

いま役に立っていないものは将来も同じように役に立っていないはずだ、という前提で彼らは文句を言っていますが、それは論理的に誤ってますよね。誰も将来の自分がどうなってるかなんてわからない。未来を見通せる人間はいません。

「将来役に立つ」とか「将来役に立たない」とかいう言説はすべて「未来を見通すことができる」という神を畏れぬ傲慢な精神から発しているのです。

もっと謙虚にならなければ。将来自分がどうなっているかわからない。だから、いま必要と思われるものだけでなく、こんなの不必要としか思えないものもきちんと学ぶ。

本来そういうことを教えるのが「学校」であり、「学問」の礎だと思うのですが…。



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