学問・資格

2019年07月05日

今日はふと30年前のあるエピソードを思い出しました。

高校時代の数学教師です。名前は憶えていませんが、1年のときだけ受けもってもらったのは憶えています。そして「教え方が悪い」という悪しき評判も。もう定年間近の腰の曲がったおじいさんのような人でした。

ちょいと話が脱線しますが、「教え方が悪い」という言葉、どう思います?

私は非常にけしからんものの言い方だと思います。

教え方が悪いとケチをつけられるということは、いい教え方がどういうものかすでに知っているということですよね? なら授業なんか受けなくてもいい成績が取れるはずじゃないですか。

「教え方」じゃなくて「学び方」でしょう? 「教え方が悪い」という生徒は「学び方」がなっちゃいないと思います。

さて、この話はこれぐらいにして、くだんの数学教師の話です。

いつもは宿題を出した問題を黒板に書かせてそれを添削していくというだけの授業だったんですが、なぜか月1回くらい数学と関係ない話をしてくれました。

そのときも「たまには数学以外の話をしましょう」と、ソ連よりも三重水素を先に見つけていたとかトンデモな話が満載な50分でしたが、はっきりと憶えているのは最後のエピソードです。

中学生だったその先生は、大好きだった女の子に告白するも大失恋してしまい、三重水素の発見に一役買ったという自作の自転車で隣町の隣町の隣町まで突っ走ったそうです。気がついたらものすごく遠いところまで来ていた、と。

ちょうど海岸沿いの道で、砂浜に腰を下ろして、沈みゆく夕日に彩られた海を眺めていたそうです。


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虚心坦懐に寄せては返し、寄せては返す波の動きをじっと見ていると、あることに気づいた、と。

常識的に考えると、波というのは「寄せる」「返す」という二つの動きしかしないわけだから、その二つを1:1のリズムでやっていると思いませんか? と先生は私たちに問いました。

そうですよね。普通そう思う。でも先生は「違うとそのとき初めて知った」というのです。

「とにかく何かを考えようとするとフラれた子のことが浮かぶから、じっと寄せては返すリズムにだけ集中していたらね、驚くべきことに1:1のリズムじゃないことに気づいたんだ。どういうリズムだと思う? 五七五七七なんだよ!」

私たちは爆笑しました。たぶんここまで読んで笑った人も多いことでしょう。この話を誰にしてもここで爆笑するんです。

しかし先生は「笑い事じゃない!」と一喝しました。

「どんなに複雑に見える事柄でも、突きつめていけば単純な法則に行きつく。数学とはそういうことを学ぶための学問です。君たちはそこのところを忘れちゃいけません」

そこでキンコーンとチャイムが鳴り、先生は静かに出ていきました。

息を呑みました。かっこいい。かっこいいとはこういうことなんだ、と。




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2017年12月24日

私を知っている人はみな異口同音に言うことがあります。

「おまえは生まれる時代を間違えた」

何でも、幕末とか、昭和初期、少なくとも68年革命の頃が合っているらしいです。自分自身でもそう思わないことはありません。

しかし!

一番近い1968年ですら、そんな時代に生まれたら間違いなくボットン便所ですよね。その一点だけだけ取ってみても、私は水洗トイレのある現代のほうがいい。

と言うと、再び異口同音に「時代というものをそういうふうに捉えるとは」と感心されるんですが、逆に私はそういうふうに捉えないことが不思議です。

過去の偉人も、いまこの時代を生きている我々も、みな「生身の人間」です。歴史を考えるとき、この「生身」ということが忘れられていることが多い。


TVタックル

今日の『TVタックル』では、今年の重大ニュースとして「歴史教科書から偉人たちの名前が削除される件」が取り上げられていました。

坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰などの名前が削られることになったわけですが、それぞれの人物を生身の人間として見ていないことが何よりの問題だと思います。

今回の決定に賛成する学者は、

「現在、高校の歴史の授業で教えるべき用語が3000以上あって、そのためには140時間必要で、ひとつの用語あたり2分30秒かかる」

と、負担を減らすことが主眼だと主張していましたが、歴史というものを完全に「データ」として捉えていますよね。

私の高校時代の歴史教師は、

「歴史は物語である。流れである。一問一答式の問題集では歴史の実相には迫れない」

と言っていました。今回の歴史教科書をめぐる決定には「歴史とは生身の人間が織りなす物語」だという観点が完全に抜け落ちています。

歴史を学ぶというのは、物語そのものをまず受容して、そのうえで未来をどう構築していくかという大局観をもつことでしょう? 


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奇しくも今回削除対象にされた吉田松陰は、そのような教育をしていた真の教育者でしたよね。だから、今回の決定は「教育とは何か」という問題でもある気がします。

だって、大学入試でこれらの人名を出さないことが根幹にあるわけですし。
大局観をもった人間を育てることが教育なのか、受験エリートを生み出すことが教育なのか。

それはともかく、教育者といえば、先述した高校の歴史教師をはじめ、私が教わった中高の社会科の教師は「教科書は嘘ばかり書いてるから使いません」という人ばかりでした。自分でプリントを作ってみんなに配り、授業はそのプリントに沿って行われました。

だから、教科書から削除したら現場の教師は教えなくなる。インプットを減らせば必ずアウトプットも減ると信じている文科省とその追従者は、現場の教師を決して生身の人間とは考えていないのだと思います。

人間とはそんなに単純なものではありません。本来、歴史とはそういうことを学ぶための学問だったはずです。

上杉謙信が武田信玄に塩を送ったエピソードなどは、そのための恰好の教材なのに。


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とはいえ、反対派の武田鉄矢も同じ過ちをしていると思いました。

教科書から「坂本龍馬」の名前が消えても、龍馬という人物を教えたり学ぶことはできます。仮に現場の教師が文科省の言うとおりに龍馬のことを教えなくなったとしても、龍馬について書かれた本はたくさんあるのだから学べます。教師によるアウトプットがなくなれば子どもたちへのインプットがなくなると信じているのだから、賛成派を裏返しただけです。

歴史上の偉人も生身の人間、教師も生身の人間、生徒も生身の人間ということを忘れてしまっていることが本当の「歴史教科書問題」と私は思うのですが、いかがでしょうか。





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2015年08月19日

ポストモダンというものに疎いので見当違いのことを言うかもしれませんが、どうぞご容赦を。

さて、いまという時代を論じるときに「大きな物語が失われた時代」っていう決まり文句がありますよね。

あれって何かいつの間にかそれが当然みたいになってますけど、本当に大きな物語って失われたんでしょうか。

内田樹先生は、「決まり文句を容易に信じてはならない」と様々な本で語ってらっしゃいます。
「一度上げた生活レベルは下げられない」を代表として挙げてますが、「本当にそうなのか」という確認を怠ったまま、大多数の人間が同じことを言ってるから正しいと盲目的に信じて口にしているだけと内田先生は難じています。

「いまは大きな物語が失われた時代だ」というのも同じなんじゃないでしょうか。

戦争や革命などの大きな物語があった時代といまは大きく違うかもしれませんが、それでもやっぱりいつの時代でも、「人間は〝世界史″の中で生きている」のですからね。

確かに、大きな物語が失われたような気はします。だけど、それって主観的なものなんじゃないのかな、と。

「いまは大きな物語が失われた時代だ」と言う人は自分の視座からしかものを見てないんじゃないですかね? だから自分が歴史の大きなうねりの中にいることが見えない。

銀河系を真横から見た想像図がありますけれど、ああいうふうに超絶的なまでに客観的に自分の立ち位置を見つめないと、銀河系が回っていて、その中の太陽系も回っていて、地球はその太陽の周りを回っていて、自分はその渦中にいる、ということが見えないんじゃないかと。

「いま/ここ」にいながらにして、未来から「いま/ここ」を見る視座を獲得することが重要なんだと思います。

どんな時代でも「大きな物語」はありますよ。
「いま/ここ」の視座からは見えないだけで、後年になって「あぁ、あの頃はこうこうこういう大きな物語な中に自分はいたんだな」と誰しもが思うんじゃないでしょうか。




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