日記・コラム・つぶやき

2019年05月28日

降旗康男監督が亡くなった。

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高倉健とのコンビで知られた方ですが、私が生まれて初めて自分のお金で見に行った映画が『あ・うん』だったので、ものすごく淋しいです。

パンフレットに書いてあった、

「現場でスタッフやキャストを怒鳴ったことがない」

という一節に「そんな映画監督がこの世にいるのか」と驚きましたが、数年後に奇しくも現場でご一緒することになり、あの一節が真実以外の何ものでもないことを目の当たりにしたのでした。

というか、あれは降旗監督にはかなり不幸な現場でしたね。

うちの会社のI氏というカメラマンが力をもちすぎており、降旗監督を差し置いて演出するんですよ。最初は主演俳優に対して降旗監督が演技指導をやってたんですけど、ほんとに怒鳴ったりしない紳士だから、人を舐めることしか知らないI氏は監督の演出そっちのけで勝手に演出し始め、結局最後までそれを貫いたのでした。だから降旗監督は「用意、スタート!」「カット!」と号令をかけていただけ。腹の中は煮えたぎっていたんでしょうが、そこは紳士だから何も言わない。少しは文句を言ったらいいのに。これがほんとに高倉健と何本もやくざ映画を撮った人なんだろうか、というのが若輩者だった私の正直な思いでしたが、途中でその見方がガラリと変わります。


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丹波哲郎さんが特別出演的な感じで出るので一日だけ現場を訪れました。「まったくセリフをおぼえてこない」という先輩の言葉は嘘でも何でもなく、ほんとに憶えてない。というか台本を読んですらいない。その場で記録さんからセリフを入れてもらい、自分の芝居にしてしまうのはほとんど神業でしたね。そして何より面白かった。セリフをおぼえてこないろくでもない役者なのに周りの人間すべてを「丹波ワールド」に巻き込んでしまうすごい人でした。

それでいて、I氏が勝手にセリフを言う場所を変えてもまったく動じず、「そうですか。わかりました。録音部さん、さっき俺ここで喋ったけど、次からはこっちになりますから」と気遣いを忘れない。セリフの場所が変わると録音部である私たちの仕事がどう変わるかがすべて計算できている。好き勝手に芝居を変えるI氏とは大違い。単に面白い人ではなく、自分を含めて周囲を常に俯瞰できている人でした。勝新もああいう感じだったんですかね。

それはさておき、すべてのスタッフから愛される丹波さんの出番が終わり、みんな笑顔で「お疲れさまでした!」と挨拶する。あのI氏も挨拶している。しかし丹波さんはI氏になど目もくれず、号令をかけていただけの降旗監督のもとへ駆け寄り、

「フルさん、フルさん、ねぇフルさん! いいワインが手に入ったんだよ。今度一緒に飲もうよ」

と完全に相好を崩してじゃれるように言っていたのが印象的でした。東映で同じ釜の飯を食った仲、しかもそれなりに知られた監督なのにI氏にいいように使われている降旗監督に対して、丹波さんはいろいろ思うところがあっただろうけれど、ただ「いいワインを一緒に飲もうよ」とだけ誘った。

友だちとはそういうものなんだな、とあのとき痛感させられました。

降旗監督はどこまでも紳士だから丹波さんみたいに相好を崩すということはなく、恥ずかしそうに笑みをこぼしていただけでしたが、「戦友」の誘いが心の底からうれしかったようです。

天国で一緒にいいワインを好きなだけ飲んでください。




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2019年05月17日

昨日の『5時に夢中!』でとても興味深いニュースが取り上げられていた。

詳しくはこちらの記事をお読みください。⇒マレーシアの女性が自殺 インスタでの質問に7割が死ぬべきと回答

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この子は「死/生、選ぶの手伝って」と自身のインスタグラムにアンケートを投稿、D=death=死、L=life=生という二者択一で、何と69%の人がDと回答、この少女はその直後に飛び降り自殺したとか。

このニュースがなぜ私の心を激しく突き動かすのかよくわからないまま書きます。

まず、番組コメンテーターの岩井志麻子は、
「ネットやツイッターが悪いんじゃなくて、この子の家庭や学校でどういう問題を抱えていたかを考えなきゃいけない。相談や占いと同じで、他人の意見を聞きたい人はたいていすでに答えをもっている。この子が死にたいとなぜ思ったかを追究しなければ」
と正論を語っていました。

とはいえ、
「マレーシアの
青年・スポーツ相はツイッターに、「自国の若者の心の健康状態を心から懸念している」と投稿し、「真剣に捉えなければならない国家の問題。国全体での議論が必要だ」と訴えた」と記事にあるので、別にネットが悪いという議論は最初からないようです。


マネーの虎「51%」
かつて『マネーの虎』という番組がありました。一代で財を築いた海千山千の社長たちが老若男女の事業計画を吟味して要求する金額を出すか出さないか。「マネー成立です」「ノーマネーでフィニッシュです」という吉田栄作のフレーズが懐かしい。

それはともかく、この番組のご意見番の堀之内社長はいつもこんなことを言っていました。

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「成功する確率が50%ならやめておいたほうがいい。でも51%あるなら賭けてみるべきだ」

成功確率が過半数なら挑戦せよと。しかし自分の事業計画の成功確率が50%か51%かなんていったいどうやって計算するんだといつも疑問でした。

マレーシアの少女はそれがわからないからインスタでアンケートを募ったわけですよね。過半数なら死のうと。岩井志麻子の言うとおり、自殺という答えはすでに出ていたはずだから、もしL=生が過半数だったとしても他の方法を試していたはずです。インスタがダメならツイッターで、とか。あるいはそれもダメなら窓を開けて次に家の前を通る人が男だったら死ぬとか。

と、ここまで書いてきて「あれ?」と思いました。


「自分は殺された」というメッセージ
私も過去に自殺を図ったことがあります。別に誰にも相談しませんでした。もう死ぬしかないと思ったから。死んだほうがいい確率100%だと思っていました。それが間違いだったのかどうかはいまだにわかりません。あのとき死んでいたほうが幸せだったのかもしれないと思うことはよくあります。

確かなのは、私には背中を押してくれる人や言葉は必要なかったということです。あのときはSNSなんかなかったというのもありますが、不特定多数の人にアンケートを募るなんてバカな真似は絶対しなかった。というか、できなかった。本当に絶望した人間は情報を発信なんかしない。できない。そんな余裕があるなら死んだりしない。

深刻な内容のアンケートではあるけれど、あれはただの遊びだと思う。「これは遊びです」という見えないメッセージを読み取って多くの人がD=死と回答したのでしょう。別にネットがどうとか、匿名だから死ねと平気で言えるとかいう問題ではない。アンケートの主が「これは遊びです」というメッセージを発しているからです。自分自身を弄んでいるからです。

さらに思うのは、あの少女は、ネットという不特定多数の目に晒される「51%」がほしかったのではないか、ということ。

死ぬ自分の背中を押した人間がたくさんいたという証拠を残したかった。
「自死」ではなく「他殺」という証拠を残したかった。自分は周りから殺されたのだと。自分はあくまで被害者なのだというメッセージ。

しかしながら、いくらそういうメッセージを残したところで、その前提に「これは遊びです」という最初のメッセージがあるから遊びのメッセージにしかならない。おそらくD=死に投票した人たちはあまり罪悪感を感じていないんじゃないでしょうか。死んだ少女はそのことにはまったく思い至らず、悲劇の主人公を最後まで演じきったことに満足して死んだのでしょう。

だから、この事件は、少女の主観では「悲劇」だけれど、客観的には「喜劇」なのです。先日感想を書いたカズオ・イシグロの『日の名残り』が一人称で書かれたがゆえに最高の悲喜劇になっていたのと同じことでしょう。(『日の名残り』の感想は⇒こちら

おそらくこの事件が私の心を鷲づかみにしたのは、悲劇と喜劇が同居しているからなのでしょう。そういう映画が大好きだし。


再び「51%」
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考えてみれば、撮影所を辞めて脚本家を志そうと決意したときは、確かに51%の自信がありました。絶対に50%ではなかった。

たぶん、ポジティブな方向に行動するときは51%の確信でいいんだと思うんです。堀之内社長はだからやはり正しかった。

でも、ネガティブなことに51%はよろしくない。100%の絶望がなければ死んではいけない。

100%が必要なことに気づかず、51%以上あればいいと考えた少女は、何もわかってないという意味において、また、遊びというメッセージを発しているという意味においても、「悲劇」ではなく「喜劇」の主人公というべきでしょう。






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2019年05月16日

昼休みにテレビで「ゆたぼん」という10歳のユーチューバーが取り上げられていました。




何でも、宿題をやるのがいやで、やらないと居残りさせられる。さらに、大人の言うことに唯々諾々と従うクラスメイトがロボットに見えて、こんなところにいると自分もロボットになってしまう、というのが不登校の理由だそうです。

同僚さんが「ただのわがまま。いじめを受けていて不登校ならわかるけど、宿題がいやだからってただのわがままじゃないか」と言ってましたが、まったく同意。別に学校に行ったらロボットになるわけじゃない。ロボットにならないという強い決意があれば周りに染まることはない。

親御さんは心理カウンセラーとかで、「子どもを自由に生きさせて何が悪い」と主張しているそうですが、悪いに決まってるじゃないか、というのが本稿の主旨です。


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『バカの壁』の養老孟司先生は、かつてこんなことを言っていました。

「小さい子どもに本音を教えてはいけません。徹底的に建前を教えるべき。学校はそういう場です。建前を押しつけてそれに反発して出てくるのがその子の本当の本音。最初から本音を教えてはいけません」

あるいはこんな言葉もあります。

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フランス現代思想家の内田樹先生は武道家でもあり、師匠から絶対にやってはいけないことを最初に叩き込まれたそうです。

それは、「いいとこ取り」。

いろんな人の教えのいいところだけをチョイスして自分で組み立てるやり方ですね。

なぜこれがダメかというと、いいとこ取りをするためには何が良くて何が悪いか判別する目をもっていることが前提となる。なぜこれから学ぶ者にそんな能力があるのか。最初はすべての人のすべての言葉を受け入れなさい、ということだそうです。

ゆたぼんの父親の言葉で一番だめだと思ったのは、次の一節です。

子どもたちは自ら学ぶべき事を学ぶべきタイミングで自ら学んでいくと信じています 

なぜこれから学ぶ者に「学ぶべきこと」や「学ぶべきタイミング」がわかるのでしょうか?

学校に行けばいろんなことを教えてくれます。

宇宙はどうやって生まれたか。
生物はどのように進化してきたか。
人間はどのような歴史を歩んできたか。
なぜ昼間の空は青く見えるのか。なぜ夕焼けは赤く見えるのか。
2月はなぜ28日までしかないのか。
100チームでトーナメント戦をすると試合数は全部で何試合になるか。

まだ何も知識の詰まっていない子どもにはすべてが新しくて面白いはず。テストで点を取るために勉強している人はテストが終わったら全部忘れてしまいますが、本気で勉強していればたいていのことは憶えています。

だから、ゆたぼんはものすごく損をしていると思う。自分で自分の可能性を狭めてしまっている。そして、あろうことか父親がそれに加担しているという笑えない大損の連鎖。

ゆたぼんはおそらく型にはまるのがいやなのでしょう。その気持ちはよくわかるけれど、型を否定するためには、まずその型にはまってみることが大事。これはある映画監督の教え。

とにかく、まだ年端もいかない子どもに「自由」などを教えては意味をはき違えるだけだからやめたほうがいい。不自由な時間があるから自由な時間が活きてくるのだから。





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