聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

日記・コラム・つぶやき

ついに終わってしまうエキサイトメールサービスの思い出

おとといでしたかね。
私が使っているフリーメールサービス、エキサイトメールにログインすると、「重要」と物々しい感じでお知らせが載ってました。

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うーん、そうなんですか。周りにもエキサイトメールを使ってる人ってほとんどいないので、こういう日がいつかは来るんじゃないかと思ってましたが。
メールサービスを維持するのにどれだけの人手や手間、お金がかかるのか知りませんが、終了ということは結構な赤字だったということなんですね。やっぱり。

6月にはアドレス帳などをダウンロードできるようにしてくれるらしいですが、まぁ私の場合、こないだGoogleアドセンスの審査をお願いするときにgmailのアカウントを取得しているし、そのときに登録アドレスは全部コピペしてあるから大丈夫ですが、そんなことより、ネットを初めてもうそろそろ20年になりますが、始めたときから使っていたエキサイトメールがなくなるというのはものすごく淋しいというか、戦友を亡くすってこんな感じなんだろうかと感慨深いものがあります。

さて、なぜ私がこんなマイナーなメールサービスを使っていたかといいますと、メールアドレスの取得の仕方を教えてくれた友人がそのときエキサイトを使っていたからなんですね。

もともと根がアナログ人間の私は、脚本を書くための調べものもほとんど読書でやっていました。その友人は「ネットのほうが便利だし大量の情報を得られる」と教えてくれたんですけど、別にいいよそんなのは、と消極的でした。するとその友人はわざわざ家まで来てアドレスの取得の仕方を教えてくれたんですね。

どうも私には「他人におせっかいを焼かせる才能」があるようです。映画の専門学校に入ったとき、すぐ仲良くなった友人がスプラッターの大ファンで、私はその手の映画が大の苦手だったんで『悪魔のいけにえ』を見ろ見ろと薦められても拒否してました。するとその友人がわざわざビデオをレンタルしてきて又貸ししてくれたんですね。規約に違反してまで見せたいの? その心意気を無駄にしてはいけないと見てみたところ……これが大当たり! それ以来スプラッターが大好きになってしまいました。

閑話休題。
私はコンピュータとかできれば敬遠したい人間なので(いまもそうです)パソコンというものをもっていませんでした。脚本もワープロで書いてましたから。というわけで、親父がもっていたパソコンでエキサイトメールのアドレスを取得したのでした。

それを機に、いろんな情報をネットで仕入れるようになり、なるほど、これは便利だわいと重宝してます。強引に教えてくれた友人には感謝してもしきれません。彼がいなければ、いまこうやってブログを書いていることもなかったかもしれない。

いろんな会員登録してるサイトでアドレス変更の手続きをしないといけないし、それに何かgmailって使い勝手悪くないですか? いまはGoogleからのメールしか来ませんけど。9月以降になっても新しくメールアドレスを記入するとき、ついエキサイトのアドレスを記入してしまいそう。

というわけで、エキサイトメールのサービス終了というのは、「ついに」「やっぱり」という思いはあるものの、そうはいってもやっぱり悲しいニャ。


『究極の疲れないカラダ』を読んで思ったこと

話題沸騰中の、スポーツカイロプラクター仲野広倫さんの『世界の最新医学が証明した 究極の疲れないカラダ』(アチーブメント出版)を読みました。




完全同意する点
まずは完全同意する点を箇条書きしてみます。

①本書のエクササイズをしていて「おかしいな」と思ったらすぐ中止して医師に相談する。
②どんな治療もそのうちの2割は「プラシーボ効果」と言われている。
③医師から「筋肉をつけなさい」と言われたら、まず自宅で地道にスクワットをすること。
④普通の腹筋運動、背筋運動は腰を痛める。
⑤足腰を強くするためには、一日一万歩歩くより週に2回のスクワットのほうが効果的。
⑥自分の体を治すのは自分自身。医師はその手助けをするだけ。

ざっとあげるとこんな感じでしょうか。

①について補足をすると、間違ったフォームでエクササイズをしていると痛みの原因になります。高校時代バドミントン部で一日1000回素振りさせられていたんですが、間違ったフォームでやっていた友人は肩と肘を痛めてしまいました。鉄は熱いうちに打て。初期の時点でフォームを正すのは大事ですね。

②のプラシーボ効果(偽薬効果)に関しては、私などはもっと割合が大きい気がします。ほとんど気分で生きているので。ただ、この著者は「気分」というものをあまりに過小評価しすぎのような気がします。(これについてはあとで詳述します)


目から鱗だった点
「長年、運動してなかった人が骨粗鬆症の予防として始める運動は何か」という問題の答えが、「負荷の軽い水泳」ではなく「おもりを使った筋トレ」だということ。

この本の最大のキーワードは「機能運動性」で、寝ている状態が最も機能運動性が低い。機能運動性は筋肉を鍛えることによって得られると何度も説かれます。水中では体重が軽くなるので全身の筋肉に負荷がかからなくなり、筋肉が衰える、つまり機能運動性が低くなってしまうとか。これには驚きました。

が……


まったく納得できなかった点
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開脚や前屈ができることのメリットは、ズバリ「開脚や前屈ができる」ということだけ。

ん? ほんとに???

確かに、機能運動性という観点からはそうなんでしょうけど、人間の体ってそれだけじゃないでしょ。

以前読んだ本に、股関節を柔らかくすると、一番太い血管のある腰から大腿部にかけての血行がとてもよくなる。リンパ節の働きもよくなるから免疫力も上がる。疲れが取れやすくなる。って書いてありましたけどね。(その本に書いてあることが間違いという人もいるかもしれませんが、それを言ったらこの本に書いてることも……ということになってしまいますよ)

この本は「疲れないカラダ」と銘打っているのに「免疫力」という言葉がまったく出てこないのには異議申し立てせずにはいられません。

それに前述の「気分」。

著者はアメリカで開業していて、患者さんはみんな超高額の医療費を払っているから、各自レントゲン写真やMRIなどの画像を持参してきて、「あんたに治せるか」と迫り、原因は何か、どういう治療が効果的か、その理由は、などなど根掘り葉掘り聞いてくるそうです。でも日本の患者はそこまでの意識がないと嘆いてますが、何でもかんでも「アメリカが一番」みたいに言うのは日本人の悪い癖だと思う。

著者の、骨のずれを治すと謳っている整骨院や鍼灸院は意味がないという主張にはほぼ同意します。骨がずれてるんじゃなくて関節がずれてるだけ、そのずれを治しても筋肉の使い方が間違っていたらまたすぐずれてしまう。それもそうでしょうし、闇雲にもみほぐして終わりなんて「医療」じゃないというのもそのとおりでしょう。

でも、「気持ちいい」「楽になった」は意味がないというのはどうなんでしょうか。

私はもう1年以上前から整骨院に行かなくなりました。その整骨院では、この本に書かれているのと同じような「正しい筋肉の使い方」を教えてくれたので、それを実践してきたことがまず一つ目の理由。二つ目は、テレビで筋膜ストレッチや骨ストレッチなどのやり方を見て、それも実践すると整骨院に行かなくても簡単に肩こりが治るとわかったことです。

著者に言わせれば、筋膜ストレッチなんかも対症療法に過ぎないということなんでしょうか。ストレッチにはあまり意味がないって何度も書かれてますしね。もっと根本から治さないといけないということ? 確かにそれはその通りでしょうが、ストレッチをして感じる気持ちよさを私は捨てたくない。そして正しい筋肉の使い方では同じ快感は得られない。

著者はプラシーボ効果をネガティブなものと捉えていますが、なぜでしょう? プラシーボ効果って偽の薬でほんとに治っちゃうんでしょ? 仮に治った気がするだけでも別にいいと思う。何でもかんでもアメリカ人のように合理的に考えることだけがすべてではないでしょう。

というか、この著者は「考えすぎ」じゃないですかね。肉体の専門家なのに体で感じる気持ちよさを否定するというのがまったくわからない。体で感じずに頭だけで考えている。

少なくとも、私はこの人に診てもらいたいなんて少しも思いません。
それから、『究極の疲れないカラダ』という題名は「看板に偽りあり」だと思います。『機能運動性にすぐれたカラダ』とでもすべきではなかったでしょうか。


黒沢清の言葉(物語を読むことについて)

ちょうど10年ぐらい前のことをふと思い出したので書きます。


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大阪のシネマテークで黒沢清監督特集上映がありまして足繁く通っていたんですが、そのとき、そのシネマテークの館長で『地獄の警備員』の脚本家でもある富岡邦彦さんを交えたトークショーがあったんですね。

司会の若者二人は関西を拠点に活動する映画批評家とかでまったく名前の知らない人でしたが、蓮實重彦の表層批評にかなり影響を受けているらしく、そのときちょうど上映されていた『叫』の映像がすごいすごいと二人だけで盛り上がっているのを富岡さんが冷めた目で見ていました。

そんな富岡さんも、「もともと僕も荒井晴彦さんが重んじているようなモラル・ミーニングな物語には興味がなかった。映画は映っているものがすべてだと思っていた。ヴェンダースの映画を見て、こいつとは絶対わかりあえると思った」というぐらい蓮實的表層批評の影響を受けている人ですが、そんな富岡さんも内容にはまったく触れず映っているものだけをあげつらってすごいすごいと盛り上がっている二人の若者を非常に冷めた目で見ていたのが印象的でした。

そして、最期の日のオールナイト。黒沢監督が来阪してトークショーが開かれました。

くだんの表層批評の若者二人が再び司会役として黒沢さんにいろいろ訊くんですね。当然ながらすべて画面に関することばかり。映画なんだから映ってることがすべてなのはわからんではないけどちょっと偏りすぎではないか。と思っていたら、高校生っぽい子が質問があると手を挙げた。

「『叫』で、好きにすればいいのよ、と言われた主人公が、そう言われたために逆に何をしたらいいのかわからなくなるというのがとても印象的でした。ミシェル・フーコーが人間は自由にやれと言われたら途端に何をすればいいかわからなくなると言っていますが、『叫』にはフーコーの影響があるのでしょうか」

黒沢さんは「フーコーがそういうことを言ってるんですか? いやぁ、僕は読んだことがないんで何とも言えないんですが…」と言って笑いました。司会の若者二人も笑っています。でも黒沢さんの笑いはフーコーを読んだことがないことを恥じる照れ笑いでしたが(ちなみに私もいまだにフーコーって読んだことないです)司会の二人の笑いは明らかに「嘲笑」でした。

そんな「内容」に関することを訊いてもしょうがないだろう。この人は映画を内容から解放した蓮實の弟子だぞ。とでも言わんばかりの顔で。

すると、黒沢さんが言いました。

「フーコーが具体的にどういっているかわかりませんが、なぜでしょう。人間ってほんとそういう生き物なんですよね。あれやるなこれやるなと言われたら反発していろいろやっちゃうのに、好きにしたらいいと言われたら途端に何もできなくなる。フーコーは読んだことないから影響があるかと訊かれたらないとしか言えません。でも、まったく同じ問題意識を僕も以前からもっています。これは事実です」

と言ったまま、しばらくじっと考え込み、そして、「あ、そうか、俺はそういうことを無意識に考えながらあの映画を作っていたんだ」というような晴れ晴れとした顔になり、

「いや、どうもありがとうございます。そこまで深く読んでいただいて」

司会の二人は完全に小さくなっていました。「あの黒沢清が内容について語っている」というのが相当意外だったようです。

しかしそんなの当たり前でしょう。自分で脚本書くんだし、そうでなくとも内容について考えない映画監督なんていませんよ。


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蓮實重彦だってそうでしょう。
この人が世に出た頃は、内容ばかりについての評論ばかりだったから、「それは違うだろ」とカウンターパンチとして表層ばかりを語っていましたが、しかし、著作をよく読んでみると、

「人物の輪郭がくっきりしているのがいい」
「映画は、脚本と上映時間の問題である」
「この新人監督は、これからも同じレベルの脚本が書けるなら先は明るい」

みたいなことを書いているし、監督としての山田洋次はまったく評価していませんが、脚本家としてはかなり高く評価していたみたいです。

それに数年前、「これからの若い批評家には、映画と社会の関係について論じてもらいたい。なぜ資本主義企業が社会主義を礼賛する作品を量産してきたのか、とか」と言ってましたよね。

おそらく、自分の発言があまりに力をもちすぎたことに危機感をもったんじゃないですか。映画を内容から解放したのはよかった。私自身、蓮實から映画の見方を学ばせてもらいました。でも、それがすべてではない。

内容と表層。どちらも大事。どちらかだけ大事なんてありえない。人間だって肉体と精神のどちらが大事かなんて言えないし、そもそもその二つが密接に絡み合って一個の人間になっている。

映画だって同じはずです。



私は震災を知らない神戸っ子(永久に遠ざかっていく電車)

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今日で東日本大震災でちょうど7年とのことですが、私には何も言えません。阪神大震災のとき、というか震災から1年たった頃、震災をテーマにした脚本を書いたところ東京に住む友人から「阪神大震災ネタはもう古い」と言われたことを生涯呪ってやると思っているし、同じ頃、東京人と思しき人たちが仮設住宅を見て「まだ仮設ってあるんですね」と言ったことも一生忘れないつもり。
だから、「よその人間」が何かを言って当事者の神経を逆なでしてはいけないと思うから3.11については何も言いません。

とはいえ、阪神大震災についても何も言えないのです。あのとき私は朝まで寝ていたのでね。卒業制作の仕上げで忙しく、しかもダビング作業(最終的な音のミックス)の責任者だったので神経がすり減っていたのでした。

神戸の中心地が震度7だったのに対し、そのとき住んでいた京都は震度5だったとはいえ、泊まっていた友人が箪笥を押さえていてくれなかったら頭を強く打って死んでいたかもしれず、それでなくとも電車と代替バスを乗り継いで実家に帰るときまるで戦争ですべて燃えてしまったかのような故郷の街並みを見るとどうにも罪悪感がこみ上げてくるのでした。

よくサバイバーズ・ギルトっていいますよね。生き残った者の罪悪感。私の場合は、スリーパーズ・ギルトですね。あのものすごい揺れそのものを体感していないということが何というか、「乗るべき電車に乗り遅れた」と思わせるのです。

だから「震災」という言葉を聞くのがいやです。罪悪感に駆られるから。乗り遅れた電車がまた来てくれたらいいのだけど、もう永遠にやってこない。

だからなのか、それとも7年と23年という歳月の違いなのか、3月11日は憶えていても1月17日はほとんど忘れています。テレビなどを見て「あ」と思う程度。たぶん思い出したくないのでしょう。みんなが「あの揺れはすごかった」「もう死んだかと思った」と話しているのをただ黙って聞くしかなかったあの頃を思い出してしまうから。自分だけが蚊帳の外に置かれたような、かといって誰が悪いわけでもなく、ただ巡り合わせでそうなっただけなのに、周りは血ヘドを吐いているのに自分だけうまいものを食っているような、あの何とも言えない感じ。もう一回地震が起こって被害に遭えばこの罪悪感から逃れられるのではないか、とも思ったけれど、実際に起こるのはいやに決まっている。偽善者。

その昔、『戦争を知らない子供たち』という歌がはやったけれど、私はさしずめ「震災を知らない神戸っ子」です。

いまでも乗り遅れた電車の背中が見える。見えなくなればいいのにと思う。でも、おそらく一生見えたままなのでしょう。

永久に遠ざかっていく電車

はっきり言って怒ってます!

はっきり言って怒ってます。

おととい、アカデミー賞授賞式での町山智浩さんの発言は問題だと書きましたが、あれについて批判的なコメントをする人がいたんですよね。

それは別にかまいません。何を言おうとその人の自由ですから。

しかし、おとといの時点ではリツイートの数もいいねの数もそれほどではなかったのに昨夜から急増しまして、ある閾値を超えるとこうなるのか、と思うほど反応の数が多くなっているんですが、おそらくそれが原因なのでしょう、批判的なツイートが消えてしまっています。



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ハアアアア???

まったく理解に苦しみます。あれだけ人の言葉に噛みついておきながら、リツイートといいねの数が急増したら削除するの? そのツイートを残していたら不利だという損得勘定なのでしょうが、何の信念ももたずに発言したってことですか。信じられない。

そういえば、ちょうど同じ記事に関することですが、最近Googleアドセンスに広告を出せるよう申請したんですね。世界一厳しいといわれる審査を通過できたことはまことにうれしいかぎりですが、収益が上がっているかと言われると、ほんのちょっとなわけです。

で、昨日から今日にかけてのアクセス数がすごいことになっているとある人に告げたら、「収益はどれぐらい上がっているのか」と聞かれたので、昨日から今日にかけてだけ見ればかぎりなくゼロに近いと答えたところ「それじゃ意味ないね」と。




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ハアアア??? 

まったく意味がわからん。誰も彼も損得勘定だな。恥を知れ。

何かを言う、何かを表現するというのは、その行為自体が楽しい、というのでなければ嘘です。仮に嘘を書いてカネを稼げたとしても私はそれを良しとはしません。もしそれを良しとできるなら最初から何かを書いたり表現したりなんかできないはず。

私はあくまでも書きたいことを書く。それが今回のように結果的にアクセスを増やし、それが運よく収益に繋がれば勿怪の幸いと思って広告を貼ろうと思っただけ。最初から収益を上げるつもりで書く題材を探す人もいるようですけど、そのような人間に何かを書く資格はないと思っています。

それと同じく、人の発言に噛みついておきながら、形勢が不利と見るや自分の発言を削除してしまう輩も最初から何かを発言する資格などないのです。だからそのような恥さらしな真似ができる。

はっきり言って怒ってます!


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