日記・コラム・つぶやき

2020年01月22日

Fさんにまつわるあれやこれや

いまの職場にはとても面白い人がいます。

以下、特徴を箇条書きにしてみます。

・みんなから嫌われている。
・仕事を憶えようとしない。
・そのくせ偉そうに命令だけはする。
・「私は指示する人間です」と自分の地位にあぐらをかいている。
・自分自身を客観視できない。
・顔がドラキュラみたい。

というような感じです。まぁどこにでもいると言えばどこにでもいる輩ですな。

この人(仮にFさんとしましょう)について昨日、仰天してしまうことを聞きました。

何でも、私にパワハラ告発されるんじゃないかと恐れているらしい、と。


なんでやねん

確かに去年、自分のことを棚に上げて他人を非難してばかりなので一喝したこともあるし、その半年後くらいには別の部署の問題児(この人も確かに問題多いけどFさんに比べたらまだまだかわいげがある)のことをトップの人に直談判したことがあり、結構いろんな人に聞こえていたみたいなので、それで恐れているのか。

どちらにしても「パワハラ」という認識はまったく違うでしょう。

あの人はパワーハラスメントをしているのではなく「自分には何ができて何ができないかがわかっていない」ことに問題がある。

自分はこの仕事ができない、あるいは苦手である。

そういう認識をもって初めて「これは誰それに聞いて憶えよう」「こっちは他の人に聞こう」という行動が生まれるわけで、自分にできることとできないこと、わかっていることとわかっていないことの区別がつけられることをほんとの「知性」だという、というのが私の持論なのだけれど、Fさんには「知性」がない。

それが最大にして唯一といっていい問題なのに「パワハラ告発を恐れてる」って、それこそ自分が抱えている問題がわかっていない、つまり知性がないということ。

Fさんに教えてあげたくてうずうずしてしまう。あなたは言葉の本当の意味で頭が悪いんですよ、と。「何かがわからない」ことを頭が悪いとは言いません。「何がわからないかがわからない」ことを頭が悪いというのです。

しかしま、Fさんのおかげでそれ以外のみんなが一致団結できているので、いい効果もあるのかもしれない。(そういえば1年前はHさん以外のみんなで一致団結していたっけ。Hさんはもういまやれっきとした我がチームのリーダーですぜ。愛すべき天然ボケ)


弟子がほしい件
さて、話題はガラリと変わって、別の部署の女性に弟子ができたんですね。と思っていたら、その人が近々辞めると今日になって聞きまして、だからただの引継ぎなんですけど、しかし弟子には違いない。

私もホテルの客室清掃の副責任者をやっていたときは新人にベッドメイクを教えたりする側だったからわかるけれど、その女性が弟子に仕事を教えている姿がとても楽しそうなんですよ。

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そう、確かにあれは楽しい。

弟子がこちらの「教えてあげたい気持ち」をくすぐってくれると教え方にも熱がこもってしまう。

そして、教えているうちに「自分はこういうことがわかっていない」ということに気づかされる。弟子の無垢で素朴な質問にハッとなることがある。

そのとき師匠として「学び直さなければ」という気持ちになる。

よく「地位が人を作る」というけれど、それは「この地位にふさわしい人間にならねば」という気持ちがその人自身を成長させるからでしょう。

だから、Fさんは長らく指導的立場にいたらしいけれど、そういう立場にあぐらをかいて学ぶ気持ちをおろそかにしてきたからあの歳でその地位にふさわしくないどころか、子どもみたいなわがままを言い、挙げ句の果てに「パワハラ告発されるのでは……」などという頓珍漢な疑惑が頭の中で渦を巻いているのだと思う。

私は弟子がほしい。つまり後輩がほしいのだ。別の部署では後輩が何人もいるが、その部署では指導的立場の人間しか教えてはいけないことになっているので師匠になれない。

本来の部署と別の部署と両方の仕事ができるのは実は私だけで(いまのところ)今日はそれをほめてくれる人がいたのだけど、それはあくまでも私が「弟子として優秀」であることにすぎず、やはり師匠として優秀であることも見せなければFさんのことを笑っていられないな、というのもまた事実。

というわけで、嗚呼オレも弟子がほしい、と思った真冬の雨中でした。


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2020年01月18日

先日発表されたアカデミー賞ノミネーションにおいて、演技部門にノミネートされた有色人種が一人だけだったとかで「多様性の欠如」と批判されているとか。

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そこへアカデミー会員でもある小説家のスティーブン・キングが、

「芸術において多様性を考慮したことは私は一度もない。クオリティだけだ。それ以外は間違った行為だと私は思う」

という発言をして非難の集中砲火を浴びているとか。

まったくナンセンス!

キングの発言がじゃなくて、キングが非難されることがです。

キングはちゃんと機会の平等は担保されるべきだって言ってますよね。機会の平等が担保されているかどうかが大事なのであって「結果の平等」まで求めるのは無理筋です。最近はいつでもどこでもPC=政治的正しさばかりを求める人が増えてしまいました。困った風潮だと思います。


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『華氏911』という映画がありました。ジョージ・W・ブッシュを批判することは「政治的に正しい」行為でしょう。しかし、この映画は政治的な主張をすることに躍起になってしまったために致命的な欠陥があります。

それは「ブッシュがアルカイダと結びついている」という作者の言いたいことをナレーションで語るだけ、というもの。映像的な裏付けが何もない。ただ言いたいことを垂れ流しているだけの映画でした。

つまり、政治的主張が正しいからといってその映画が優れていることにはならない、ということです。

多様性というのは大事なことでしょうが、その追求のために作品の質が落ちたんじゃ意味がない。今回ノミネートを逸した作品がそうだとは言いません。ほとんど見てないし、見てない以上は口が裂けても言えない。(しかし世の中には見てない映画のことを語る輩が何と多いことよ)

確かに、結果の不平等は機会の不平等につながります。

「ノミネートされただけでも家が建つ、日本とはえらい違いや」とは、私に映像編集の極意を教えてくださった谷口登司夫さんの言葉ですが、ノミネートされればギャラも上がってオファーも増える。機会の平等を追求するためには白人男性ばかりの会員の構成を是正していくべきです。(すでにいろいろと手は打ってあるみたいですけど)

しかし、それは映画芸術科学アカデミーという「組織」が考えるべきことであって、純粋に「一個人」が投票するときに結果の平等など考えなくていい。

これが面白かった。これもよかったけど、あっちのほうがよかった。

お祭りなんだから無邪気に楽しめばいい。お祭りに政治などもちこんでもらっては困る。






2020年01月05日

私はカラー映画よりモノクロ映画が好きなんですが、その理由がよくわかりませんでした。

先日、カルト傑作と誉れ高い佐藤肇監督の『散歩する霊柩車』を見たんですが、そのときにアッ! と思ったんですよね。もしかしたら……と。


なぜカラーで撮るのか
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日本初のカラー映画は木下恵介監督の『カルメン故郷に帰る』ですが、この頃のカラー映画は「カラーで撮ること」への異常なまでのこだわりがありました。それはヒッチコックや小津、黒澤のような、長らくカラーで撮ることを忌避し続けたフィルムメイカーたちのカラー作品にも感じることです。

もう10年前でしょうか。「映画芸術」に連載していた宮台真司が、

「実写を撮る監督に、まずアニメを監督するのを義務として課してはどうか」

という提言をしていました。アニメは画面の隅々までどういう色にしてどこに影を落として、ということを徹底して考え抜かねばならないから、と。実写だとどうしても現実がカラーなので何も考えずに撮ってもカラーになってしまう。「考えぬいたカラー」ヒッチコックや小津のような美しすぎるほど美しいカラー映画を作るためにはアニメを1本は作ったほうがいいというなかなか建設的な意見でした。

そうです。現実がカラーだから映画もカラーでないといけないなんて決まりはない。いまは「なぜ白黒で撮るのか」という理由は必須でしょうが、「なぜこの映画をカラーで撮るのか」と突きつめて考えて撮っている監督って数えるほどもいないと思う。


言葉が色覚を決定する⁉
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虹が七色とは誰でも知っていますが、って、ええ? 本当? 

あくまで日本語では、ですよね。日本語には虹の色を表す言葉が7つあるということ。何語か忘れましたが、虹が八色の言語もあれば、二色しかない言語もあるそうな。八色の言語を母語とする人が虹を見たら八色に見えるだろうし、日本人には七色に見えるし、二色しか見えない人もいる。

内田樹先生によると、フランス語には「腰」を意味する単語はないそうです。「背中の下あたり」とか「お尻の上のほう」という言い方しかない。だから日本人のように「腰を入れる」という身体運用の仕方をフランス人はもともともっていない。

もともともっていないから「腰を入れるとは何ぞや」と勉強して意識的に腰を入れる動作を獲得するからかの国は柔道大国なのではないかとひそかに思っているんですが、それはさておき……

ということはですよ、同じカラー映画を見ても、その人がどういう言語を話すかによって見え方が違うということになりますよね。


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この『めまい』のワンシーンを見ても、人によって見え方が異なる。私は日本人ですが、虹の色が七色に見えたことがないから(せいぜい五色くらい)同じ言語でも見え方は異なるものなのかもしれません」。


一方モノクロは……
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私が史上最も美しいモノクロ映像を擁する映画と思うのは何といっても『第三の男』! ビデオで見たときはさしていいとは思わなかったんですが、劇場で見て戦慄しました。白と黒の、光と影の芸術を初めて体感した気分でした。(テレビ画面で見る『第三の男』は別の映画です。スクリーンに映したものこそ本物)

それはさておき、「白と黒の~」と言いましたけど、正確には「すべてグレー」ですよね。濃淡があるだけ。だからたぶん、母語が何語であろうと見え方は同じはずなんです。

「映画が白黒から始まってよかった」とは蓮實重彦の言葉ですが、激しく同感。白黒だと世界中の人に同じように見えるからなどといったナイーブな感性を蓮實はもっていないでしょうし、そんなことを言ってるわけでもないんですけど、いまの私にはモノクロ映画が世界平和の象徴のように思えてきた。


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でも、虹が七色に見えるのは世界的に見てもかなり多色らしく、もしかして日本のアニメーションが世界的に人気が高いのは「色づかい」が文字通り「多彩」だからじゃないか。(逆に虹が八色に見える民族にとっては日本のアニメはたいして多彩じゃないのかも)

われわれ日本人が見るアニメと、外国人が見る同じアニメの色はおそらく違うんでしょう。違うけれど、モノクロ映画のように濃淡の違いはあるはず。もとが多彩な色づかいで描かれているから、我々にとっては「色の違い」に感じられるものが「濃淡の違い」という形で認識されているはず。

濃淡といえばモノクロじゃないですか。

何が言いたいかというと、私たちが映画や絵画やアニメを見るとき、根底にあるのは色覚ではないということです。


あるなぞなぞ
昔、こんななぞなぞがありました。

「赤が緑に見えて、緑が赤に見える人が夕焼けの絵を描いたらどんな絵になるか?」

たいていの人は「緑色の夕焼け」と答える。違うんですよね。普通の真っ赤な夕焼けの絵になる。なぜか。

赤が緑に見えるわけだから、その人にとっての夕焼けは緑色です。だから緑の絵の具を出す。でも、その人にとっての緑は、我々正常な色覚をもった人間にとっての赤です。だから真っ赤な夕焼けが描ける。

問題は「真っ赤」や「薄い赤」といった「濃淡」を表現できるかどうか。こればっかりは色覚が正常か異常かに関係なく「才能」の問題。


モノクロは才能/感性の問題
そうです。白黒映画ははっきり「才能」の問題なのです。

小津はカラーを撮らない理由を聞かれて「いまの技術では私の望む赤が表現できない」といったそうな。

後年、真っ赤が印象的な『浮草』『彼岸花』などを撮るから、そのときは望んだとおりの赤が実現できたんでしょうが、それも「濃淡」の問題ですよね。赤い色そのものはカラーフィルムを使えば撮れるんだから。

というわけで、私がカラー映画より白黒映画を好む理由、そして同じカラーでも50年代くらいの「カラーの濃淡」にこだわった映画が好きな理由がわかりました。

カラーの濃淡には才能、いや正確にいえば「感性」が問われる。そしてモノクロの場合、ほぼ直截的に才能/感性の問題となる。

蓮實重彦は「映画は努力でどうなるものでもない。才能の問題だ」といっていましたが、なるほど、稀代の批評家が「映画が白黒から始まってよかった」といった理由もどうやら同じことのようです。