聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

日記・コラム・つぶやき

本当の「勉強」とは何か

ちょっと前に、博士号を取得した人の数と論文数において日本は先進国中ダントツの最下位という報告が出た際、

「もう大学は職業訓練校になればいい」

というとんでもない意見をツイッターで見かけました。


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努力は嘘をつく?
よくスポーツ選手が「練習は嘘をつかない」と言います。練習をすれば着実に実力が上がる、と。それは確かに真理でしょう。ただし、自分のどこがよくないかを見極め、そこを矯正しつつ同時に長所を伸ばすにはどうしたらいいかを考えてやれば、という条件付きで。それをせずに闇雲に長く練習しても疲弊するだけでしょうが、ちゃんと考えながらやればまさに「練習は嘘をつかない」。

職業訓練校で勉強するのも同じようなものでしょう。
ワードで文書作成できるようになった、エクセルの関数を憶えた、グラフ作成ができるようになった、フォトショップが使えるようになった、ドリームウィーバーを憶えた、フォークリフトの免状を取った、etc.

自分が何を知らないかを見極め、そこを補強する勉強をしていけば、就職の道は勉強時間に比例して広く開けていくはずです。

しかし、本当の勉強というのは「努力が嘘をつく」ものなんですよね。


勉強すればするほど……
本当の勉強というのは、勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされる営みのことです。1冊の本を読めば知らないことがたくさん出てきて、あれもこれも読まないと……という気持ちになる。そして読めば読むほど知らないことがどんどん無尽蔵に増えていき「自分は何もわかっちゃいない」と途方に暮れる……。

私は高卒なので大学の内情についてはまったく知りませんが、本当の勉強がそういうものだということは身をもって知っています。大学は職業訓練校になればいいと本気で言える人は、本当の意味での勉強をしたことのない人なのでしょう。


谷崎潤一郎『神童』



先日、谷崎潤一郎の傑作中編『神童』を再読しました。
主人公は幼くして古今東西の書物に通暁したまさに「神童」で、とにかく学問にしか興味がない。だから学校の授業がつまらなくて眠ってしまう。

しかし、そこが彼の本質的な欠点なのですね。本当の意味での勉強をしていたら学校の授業がつまらないということはありえません。いくら古今東西の書物に通暁していても、目の前の生身の肉体をもった教師が語る言葉には世界中の書物が束になってかかってもかなわない「力」があります。主人公はそれがわかっていない。自分は神童であり、いろんなことを知っていて教師よりも頭がいいという自惚れがあるから授業中に居眠りをしてしまう。最近、「ネットでいろんな情報を仕入れられるから講義が退屈」という学生が増えているらしいですが、彼らはまさに『神童』です。

本当の勉強をしていれば、自分はまだまだ何も知らない、だから誰でもいいから教えてほしいと教師の講義を集中して聴くでしょう。そこには何かがある。つまらないと断じる前にまずは聴いてみる。主人公が神童で終わってしまうのは「たくさん勉強したから自分は賢い」と、勉強時間や読んだ本の冊数に比例して自分の知識や教養が上がっていると勘違いしているからです。

勉強すればするほど己の勉強不足を思い知らされ、したたかに打ちのめされる。そういう「蟻地獄」に自らはまりこむ自虐的な営為にこそ「勉強」というものの本質があります。

だから、大学を職業訓練校にせよ、なんていうのは、「本当の勉強」を実行したことも、その甘美な味わいも知らない者の戯言にすぎないと思うのです。


雨男から晴れ男へ!

実は、私は雨男です。いや、雨男でした。

なぜ過去形なのかはとりあえず措くとして、まず、なぜ自分を雨男だと思っていたか、そこからお話ししましょう。


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意識しだしたのは高校生くらいの時分だったか、20歳すぎてからか定かではありませんが、とにかく、天気予報で「いつ降ってもおかしくない」と言っていると、必ずと言っていいほど家を出た途端に雨が降り始めるんですね。で、家に着くとやむ。これで雨男じゃないと思うほうがおかしい。

でも、その程度なら雨男とは言えない、という人もいるんですね。人はどうしてもネガティブな経験が頭に定着するから、家を出た途端に雨が降ってばかりと思いがち。家を出たら晴れたこともあるはずなのに忘れているだけだと。

うーん、なるほど。そういう考え方もあるか。浅はかだった。

と思っていたのは7年前まで。

7年前にシナリオコンクールで受賞したんですが、その電話があった日が雨だったんですね。そして約1か月後の東京での授賞式。表参道のおしゃれなホテルで開催されたんですが、まさにその日が土砂降り。あのときに確信しました。「やはり俺は雨男なんだ」と。

ところが!

ここに来て、変わりつつあるのです。

先週の超強力な台風の日、電車が止まって帰れなくなる可能性が高いということで職場の同僚さんはほとんどがお休みでした。一部の偉い人と近くから歩いて来てる人だけ来ていて、私も歩きだから当然出勤しました。

すると、何と行きも帰りもまったく降られなかったんですね。職場にいる間に土砂降りになって、帰る頃には完全にやんでいました。

そのときはあまり意識してなかったんですが、昨日の夜、ちょっと買い物に近くのスーパーまで行ったところ、雨が降ってるので傘を差して行ったんですがすぐにやみ、そして買い物を済ませて家に帰り着くと同時に土砂降りになったのです。

しかも!

今朝出勤するときも雨が降っていたのに、私が傘を差した途端に雨がやんだ……!


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これはもしかするともしかして、相当な運気が来ているのかもしれません。

『王様のレストラン』で、無能な支配人を演じる西村雅彦が「とてつもなく永い厄年が続いているだけなんだ」と息巻いて実際にその厄年が終焉しましたが、私の永い厄年ももうそろそろ終わりに近づいているという暗示でしょうか。

甘いわい、ってな声が聞こえてきそうですが、そういう声には耳を傾けません。

雨男から晴れ男へ! この運気は大事にせねば。


やはり映画は映画館で見たほうがいいと思う理由

ちょうど1年前にこんな日記を書きました。→映画は映画館で見るべき最大の理由はこれだ!

私の考えは少しも変わりませんが、やはり「べき論」というのはちょっと押しつけがましい気がしないでもないので、今日は「映画館で見たほうがいい」と思う理由を書きます。


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ちょっと前に誰かのツイートで、
「家で独りで見るよりも、映画館で見たほうが種々雑多なエピソードと一緒に『エピソード記憶』として記憶されるから、映画館で見たほうがいいよ」
みたいなことを言ってる人がいましたが、それには一もにもなく賛同します。が、私の主張はぜんぜん違う角度からです。私の主張といっても偉い人の受け売りですけど。


kurosawakiyoshi

黒沢清監督が、『アカルイミライ』のメイキングで言っていました。

「映画館は自分と世間とのずれを知る場だと思っています。自分は悲しいのに笑っている人がいるとか、思わず笑ってしまったけど他の人は誰も笑っていないとか。人間の価値観は人それぞれだということを映画館で映画を見ることで思い知らされたんです」

確かにそうですね。家で独りで見ているぶんにはこういう感覚は味わえない。

価値観の違いといえば、こないだ驚愕したのが、あと5分で終わるというときにトイレに走る人がいたことです。え、マジで??? いま出ちゃうの、と。

もう一刻の猶予もままならない状態だったのかもしれませんが、もしかすると映画そのものが何分で何時ごろ終わるということを把握せずに見ている人もいるんだろうな、と。

私は構成の勉強のために、始まって何分でどういうエピソードが起こって……と時計で時間を測りながら見るので、予告編が何分で映画本編が何分で終演が何時何分というのは常に把握してから劇場入りしていますが、そういう人はおそらくごくごく少数派なのでしょう。

だから、あと5分でトイレに走る人を見たときに「え、マジで?」と思ったのはもしかすると私だけだったのかもしれない。トイレに走った人が特異なんじゃなくて、その人を特異だと思った私のほうが特異だったという可能性は大いにあります。

自分がどれだけ特異な存在か、またはどれだけ世間と同じ価値観をもっているかを確認できる。それが料金に含まれているのだからお得ですよね。

映画は人間を描くもの。その人間とはどういうものかを映画館で見たほうが深く理解できるのではないか。

だから、家に閉じこもって独りで見るのはもったいないと思うのです。


兵庫県立長田高等学校のリカちゃん人形

ちょっと前に実家に帰ったら、なぜか母校の兵庫県立長田高等学校同窓会の会報が私の名前あてで届いてまして。

驚愕!!!


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ちょっとこれを見てくださいよ。→長田高校100周年記念

何ゆえにリカちゃん人形???

記念すべき創立100周年事業がこんなんでいいのか!!!

しかも「オリジナル」とか称してますが、リカちゃん人形はタカラのオリジナルであって長田高校のオリジナルではない。(いまはトミー社と合併してタラカトミーというらしいが)

しかもですよ。上のリンク先には前のページがあって、それが→こちら

何と「オリジナル リカちゃん人形」とかいいながら、いろんな学校が記念事業としてこんな子供だましな人形をメーカーと結託して儲けようという目論見らしい。創立110周年とか60周年とか違いはあるけど。

しかし長田高校は中でも一番記念すべき「100周年」じゃないですか。恥ずかしくないのか!

ライバルの神戸高校や兵庫高校の100周年記念事業はどんなのだったか調べてみると、コミュニティホールを設立とか式典開催とかそういう地味だがごくごくまっとうなもので、リカちゃん人形なんて販売して喜んでるのは長田だけだぞ。そんなんでいいのか!

中内功や宮崎市長はどうでもいいし、宇垣美里も伊藤利尋もどうでもいいが、あの淀川長治さんを悲しませていいはずがない。

いまからでも遅くないからやめてケロ。



関西人は必ず話にオチを求めるという「都市伝説」について

昨日、関西ローカルの番組で鈴木奈々が「関西の人はオチのない話をすると何で怒るの!?」と言っていました。

うん。確かに、もうかなり前にタモリも『笑っていいとも』で同じことを言ってたし、とにかく関西以外の出身者はそういうコメントをする人がこれまでにもたくさんいました。番組では関西出身の芸人が「そんなの当たり前だろう」と答えてましたが、ほんとに? と私はいつも思うのです。

結論から申しますと、「関西人はオチのない話に怒る」というのは都市伝説だと思う。


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そりゃ↑こんな感じで「なあなあ、聞いて聞いて」と近寄ってきた場合はオチがなかったら怒ります。しかしこういう場合って別に関西人でなくともオチを期待してると思うんですよね。

で、もし↓このような顔で「聞いて聞いて」と近寄ってきた場合は、

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明らかにシリアスな感じなので最初からオチなど期待しないし、実際オチはありません。文句を言うこともない。

だから、実際はオチがない話すべてに怒るわけではなく、オチを期待させておいたくせに……という場合に怒る、ということでしょう。

関西人同士で話をしていたら、オチがない話なんか山ほどありますよ。「関西=お笑い」というイメージが強すぎてこのような都市伝説が生まれたのでしょう。

しかし……

もしかすると「関西人はオチのない話に怒る」というのは本当かもしれない、とも思うのです。

どういうことかというと、関西人同士ならオチがなくても怒らないけど、関西以外(特に東京)の人がオチのない話をしたら「ここは関西やで。オチがない話は許さんぞ」みたいな感じで東京人をからかいの対象にする。
関西に一歩でも入った以上は笑いを常に意識せよ、みたいな「お笑いのエリート意識」みたいなのが出てきてしまうんじゃなかろうか。

関西人の東京への敵対心はすごいですからね。ま、実際はコンプレックスなんですが。
だから、関西人と話をするときに大事なのは「オチがある話をする」ことではなく、「私は東京から来た」とか「大阪や神戸はたいしたことない」みたいな態度を取らないことだと思うわけです。
それさえしなければ、オチがない話をしても大丈夫だと思います。(たぶん)



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