経済・政治・国際

2019年05月27日

MBSの映像’19『壊憲 ~この国の憲法は、どこへ~』をとても興味深く見ました。

安倍自民党が推し進める改憲運動を「壊憲」と断じる慶応大学名誉教授・小林節さんを主軸にしたドキュメンタリー。やはり「映像’19」は力のある番組が多いですね。


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憲法遵守義務は誰にある?
小林節さんは恥ずかしながら何となく名前を聞いたことがある程度でしたが、なかなか骨のある人だと思いました。もともと改憲派だったらしいですが、自民党の改憲草案を見て護憲派に鞍替え。転向のそしりを恐れない。

知らない人が多いですが、「自白に証拠にならない」ことは憲法に明記されています。なぜ刑事訴訟法とかでなく憲法なのか。それは憲法と法律が権力者と一般大衆のどちらに軸足を置いているかが違うからです。

憲法は何よりも権力者の暴走を防ぐのが目的で制定され、一般大衆を守るのがその役目。
対して、その憲法の枠組みの中で権力者が一般大衆を縛るのが個々の法律(何々の罪を犯したら刑務所に入らねばならないなど)。

なので「自白は証拠にならない」(現実の司法はそうなっていませんが)というのは、だから憲法に明記されていないとおかしいわけです。

小林節さんが護憲派に鞍替えしたのは、自民党の改憲草案が「国民に憲法遵守義務を謳っている」から。権力者の暴走を防ぐのが憲法なのだから本来は政治家や官僚に憲法遵守義務があるのに、国民にその義務を負わせる。それはおかしいだろう、と。


国民投票時はCM規制なし⁉
これも恥ずかしながら知らなかったんですが、選挙のときは規制があるCMが、国民投票ではまったく制限なしだそうです。

だから、改憲派が物量作戦でCMなどを投下するのは目に見えている。立憲民主党の枝野幹事長も危機感を抱いているらしく、昨日こんな記事がすでに出ているそうです。いま知りました。⇒枝野氏「CM規制優先を!」

番組では、例えばAKB48などの人気グループが「古い時代よ、さようなら。新しい時代の風が吹く」みたいな歌詞を歌えば改憲派に風が吹く。憲法とか改憲とか9条とかそんな言葉を出さなくとも自分たちに有利な風を吹かせることができることに危機感を滲ませていました。


アダルトビデオ製作者たちへの講習会
小林節さんがとても素晴らしいと思ったのは、アダルトビデオ製作者たちを招いて表現規制と闘おうという集会を開いていることですね。

「国民の自由を規制するには、まずエロ規制というのが一番やりやすい。エロ規制から始まって、いつの間にかすべてを規制されるんです」

確かに、エロ規制となると大っぴらに反対しにくい。そういうところから入ってくるだろうから先手を打ってAV製作者たちに講習会を開くというのは蒙を啓かれるというか、なるほど、本当に偉い学者というのはそういうところもちゃんとケアするんだなと感心しきりでした。

とにかく、改憲そのものは否定しませんが、やはり憲法遵守義務を国民に負わせる安倍自民党憲法草案には真っ向から反対せねば、と決意を新たにした次第です。





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2019年05月03日

平成から令和へ移行するとき、いい機会だからと赤坂憲雄さんの『象徴天皇という物語』という本を読んでいました。別に天皇の退位・即位とは関係なく、職場で「あ、これって天皇制だな」と思う出来事があったからです。その日の帰り、本屋に寄るとこの本を見つけたので購入しました。

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はっきり言って、この本は私にはあまりに難しくてついていけませんでした。著者自身が「この頃の私が書く本はすべてわかりにくい」とあとがきに書いていますが、それならわかりやすく書き直してから文庫にしてよ! と思うものの、この本がきっかけである文章を読み直せたのだから良しとしましょう。この本で最初に引用される、坂口安吾の『堕落論』です。


天皇を利用する国民
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ずっと前に読んでから一度読み返しただけなので完全に忘れてましたが、安吾は敗戦に際して書いたこの随想の中で、「天皇制」を激しく攻撃しています。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何がゆえに彼ら自身が最高の主権を握らなかったか。それは、彼らが自ら主権を握るよりも天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分がまず真っ先にその号令に服従してみせることによって号令がさらによく行き渡ることを心得ていた」

「藤原氏の昔から、最も天皇を冒瀆する者が最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から天皇を盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒瀆のかぎりを尽くしていた」

そして安吾の舌鋒はそのまま日本国民に襲い掛かります。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、他ならぬ陛下の命令だから忍びがたいけれど忍んで負けよう、という。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
 われら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ち向かい、土人形のごとくバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまた情けない歴史的大欺瞞ではないか」


天皇制という政治形態がどういうものかは日本人なら誰でも知っていましょう。時の権力者はみな天皇を「玉」として担ぎ上げ、自らの権力を正当化してきました。

しかし安吾は、それは権力者だけが天皇を利用してきたのではなく、我々国民もそうだったのだと看破していました。


職場の天皇
いまの職場にも「天皇」がいます。何の力もなく、ただのお飾りにすぎないという意味もあるけれど、「利用される玉」として。

その人物を仮にZ氏としましょう。そしてZ氏が使い物にならないからと会社が新たに雇ったのがY氏。Y氏は立場としては私たちより上だけれど一番の後輩。だからまずみんながやっていることを憶えないといけないのに憶えようとせず、会社から仕事のやり方を変えるよう指示を受けているとかで、ずっと以前からのやり方を変えようとする。実際、先週やり方が変わりました。なぜ入ってきたばかりの輩が、しかも仕事を憶えようともせず、憶えてないのだからこれまでのやり方の良し悪しもわからない輩が出しゃばるのか! と休憩時間は愚痴合戦で、そこにY氏が入ってきてまたもビッグマウスぶりを発揮するので、我慢ならなくなった私は、

「まず仕事を憶えるところから始めたらどうですか。仕事を憶えようともしない人間が変えようとしたって誰もついてきませんよ」と言いました。すると、Y氏は、

「私はZ氏の了解を取ってやり方を変えただけだ」

と言いました。なるほどね、Z氏という後ろ盾を利用して権勢をふるおうというわけか。まさに藤原氏や将軍家と同じですね。

そこからさらに言い合いがあったんですけど、Y氏はZ氏だけでなく「会社」という後ろ盾も利用する。何かほんとに日本の政治家みたい。

だって、

会社-Z氏-Y氏
アメリカ-天皇-政府


この二つは構造的にまったく同じじゃないですか。天皇という隠れ蓑だけでは足りなくなるとアメリカをもちだしてくる。


私の心の中の天皇制
というわけで『象徴天皇という物語』という本を読んでみたんですが、そこから安吾の『堕落論』『続堕落論』を読んでみると、これは厄介な問題だなと思ったんです。

だって、Y氏だって会社では力をもった人ですけど、会社を出たら安吾が攻撃した一般大衆と同じ名もなき人。安吾は、冒瀆しながら同時に崇拝するというアクロバットなやり方をやめて、厭なものは厭といい、好きなものを好きといおう。それは「堕落」には違いないけれど、そういう堕落からしか日本の再生はありえない。天皇制がある以上、日本の再生はありえないと論をまとめるんですが、悲しい哉、安吾の主張もむなしく、天皇制は平成から令和となった現代にも息づいています。

それは当然のことながら、この人たちが存在するという意味ではありません。



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日本国憲法に書かれた象徴天皇という意味ではなく、天皇制という思想が深く日本人の心に内面化されているということ。

天皇制とは権力の二重構造を利用した「正当化」「責任逃れ」のカラクリのことです。Y氏を批判する私の心にもおそらくそのような、言葉の真の意味で堕落した心性が巣食っているはずなのです。

まず、そういうところを自覚するところから始めないと、天皇制を存続するにしても廃止するにしてもいずれの議論も無意味に帰す気がします。もし天皇制を廃止したとして、私たち日本人はそのような状態に耐えられるのか。耐えがたきを耐えられたのは天皇の命令があったからなんですがね。

日本国憲法には「天皇は日本国の象徴=シンボル」と書かれています。が、おそらく本当は「天皇が日本国の象徴」なのではなく「天皇制が日本国民の象徴」なのだと思います。

(つづく)


堕落論 (280円文庫)
坂口安吾
角川春樹事務所
2011-04-15





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2019年02月18日

先日、映画『ファースト・マン』を見に行ったら、思いがけなく私小説作家の車谷長吉さんの言葉を思い出しました。

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「宇宙開発とかそんなことに費やすお金があるなら、なぜ飢えてる子どもたちを救わないのか」

正論ですね。100%正しいから少しも反論できない。

『ゼロ・グラビティ』が公開されたとき、脚本家の荒井晴彦さんも同じようなことを言っていました。

「この人たちは宇宙まで行っていったい何をしてるのか。そんなことより地球上の山積みの問題を何とかしようと思わないのか」

しかし私は両者の言い分に納得できないんです。


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確かにこのような子どもたちを見ると胸が痛むし、車谷さんや荒井さんの言い分は正しいと思う。でもちょっと待ってよ、と。

宇宙開発や物理学や数学よりも飢えてる子どもを救え。それは「政治的に正しい」から誰も反論できないんですが、宇宙開発や物理学の最新理論の研究にはまったく意味がないかというとそうではないでしょう。

スーパーカミオカンデで粒子を超高速で飛ばして素粒子の秘密を解き明かすとか、そういうのって「ロマン」もあるんでしょうけど、何よりも『ブレードランナー』のセリフを借りれば「我々はどこから来てどこへ行くのか」を探究してるわけでしょ? それって政治的には正しくなくても哲学的な営みだと思うんですよ。

米ソの宇宙開発競争は政治的なものでしたが、宇宙の秘密を解き明かしたいという純粋な欲望は人間なら誰しももっているだろうし、もしもっていないなら、あまりに政治に毒されていると思います。

そりゃ私だって飢える子供を少しでも減らしたいから慈善団体に寄付したりしています。政治的に正しい行いをしている。だから車谷さんや荒井さんのような考え方が悪いとは言いません。

でも、衣食住が足りている人間は宇宙の秘密を研究してはいけない、「我々はどこから来てどこへ行くのか」という哲学的な探究をすべきでないという主張には賛同できないし、何か胡散臭いものを感じてしまうのです。

「マタイの福音書」にある「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉は常に忘れたくないと思います。そして、今日食う物さえないない子どもたちのことも忘れずに。

別の記事でも書きましたが、どちらかだけが重要なんてありえない。

両方大事!






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