聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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頭の良さとは何か(ABC予想の証明に寄せて)

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数学界の超難問とされる「ABC予想」を望月新一という数学者が証明したと世界を股にかける大ニュースになっています。

望月教授が2012年にご自分のウェブサイトに発表した論文にもちこまれたアイデアが相当独創的かつ難解だそうで、本当に証明できているかどうか査読するのに5年もの歳月がかかったとか。

私などはABC予想なるものの、いったい何が問われているのかがまずわからないのでこれがどれほどすごいことなのか想像もつきませんが、このABC予想が正しいと証明されれば、あの「フェルマーの最終定理」が一瞬にして証明されてしまうらしいです。それほどの「超難問を解決してしまう超難問」だったんだとか。

で、世界の名だたる数学者たちですら査読に5年もかかるわけですから、世間の耳目はもっぱら証明の内容よりも望月教授の人となりに集まってしまうのは仕方がありません。

そこで、「16歳でプリンストン大学に入学し、19歳で卒業、23歳で博士号を取得」という華々しい経歴ばかりが取り沙汰されているようです。




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「19歳で大学に入った俺はどうなるんだ」とか、「23歳で博士号なんて信じられない」「天才ってそういうものなんだ」とか羨望のまなざしが送られています。

しかしですね、望月教授が真に頭のいい人であることは疑いがありませんが、早熟であることだけを取り出して「天才だ」というのはちょっと片手落ちだと思うんですよね。


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頭脳が早熟ということは、肉体に置き換えれば「瞬発力がある」ということです。それも頭の良さのひとつでしょうが、はたしてそれだけなんでしょうか。

仮に、望月教授の証明文を一読しただけで「これは正しい」と理解しえた数学者がいたとしましょう。彼は間違いなく「頭がいい」。でもそれは瞬発力タイプの頭の良さです。

世の中には別のタイプの頭の良さをもっている人たちがいます。




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ABC予想は望月教授の証明が正しいと判断されたばかりですが、そのうち、その証明がどれだけ精緻を極めているか、独創的であるか、ということを世界の数学者たちは理解していくものと思われます。いま高校生ぐらいの数学好きが大学を卒業するころには、「ドクター望月の証明を理解できないなんて数学者とは言えない」という論調が生まれている可能性もあります。

が、いま現在すでに数学者なのに望月教授の証明文の意味が少しも理解できず、数年後、世界の誰もが理解した頃に、まだ理解できない数学者がいたとしましょう。

彼は学界の笑い者になるでしょうが、20年後とか30年後に、「ABC予想の応用にかけては世界一」と世界中から尊敬される存在になっている可能性が充分にあるのです。

彼には瞬発力はないけれど、持久力があった。その持久力で誰よりも深いところまで潜っていけたわけですね。これもまた「頭の良さ」。

望月教授のように誰もなしえなかったことをなしえるのも「頭の良さ」。本を正せば、「ABC予想」という仮説を立てた人も頭がいい。

ざっくり分けただけでも頭の良さにはいろんな種類があるのだから、「あの人みたいに早熟じゃない」などと悲観することはないんじゃないでしょうか。

そもそも他人と自分を比較している以上、仮に世界一の天才でも幸せにはなれません。

どうあがいたって人間の目には「隣の柿は赤く見える」のだから。


日馬富士殴打事件で思うこと(モンゴル力士会という闇を超えて)

日馬富士が貴ノ岩をビール瓶で殴打し、頭蓋骨骨折などの重傷を負わせた事件はまだまだ記憶に新しいというか、いったい事の真相がどこにあるのか、日を追うごとに混沌としてきました。


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最初は、「ビール瓶で殴ったこと」を否定しなかった日馬富士。「その時点で謝罪会見は引退会見であるべきだった」ということを言う人もいました。私も同意見でした。いくら度が悪いといっても素手で制裁したのならともかく、ビール瓶で殴ったら下手したら死にますよ。ほとんど殺人未遂じゃないですか。別に日馬富士が横綱でなくたって品性の問題が浮上しないとおかしい。




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と思っていたら、貴ノ岩の師匠である貴乃花親方が、殴打事件から3日後に被害届を出しておきながら、協会関係者から電話があったときもそんな事件があったなんておくびにも出さなかったとか、当の貴ノ岩も大怪我を負いながら巡業に参加していたとか、よくわからない。

かと思えば、日馬富士も「ビール瓶で殴っていない」と言い出し、同席していた白鵬も「ビール瓶じゃなかった」と証言する。
しかも、日馬富士はビール瓶をつかもうとしたらすっぽ抜けたとか、貴ノ岩はアイスピックで応戦しようとしたから日馬富士の行為は正当防衛だ、という声も上がっているとか。



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私はまったく知りませんでしたが、この事件が起こった酒席というのが「モンゴル力士会」というものだったんですってね。

当事者二人ともモンゴル人なら同席していた証言者もモンゴル人ばかりということですが、現役時代に八百長を嫌いガチ相撲しか取らなかった貴乃花親方は、いくら同郷でも別の部屋のライバル力士と酒宴を共にするということ自体を嫌いっているとか、その貴乃花に影響を受けた貴ノ岩が同郷の大先輩に反旗を翻したのが原因じゃないかとか、いろいろ言われているようです。

ただ、以上のことはもしかしたら「フェイクニュース」かもしれません。「モンゴル人たちが神聖な日本の国技を汚した」とレイシストたちが火のないところに煙を立てているだけ、という可能性もあります。

この事件でいまのところ事実だと判明しているのは、日馬富士が貴ノ岩を殴打して全治2週間の重傷を負わせたこと、そしてこの二人が「モンゴル人同士」ということだけです。

別に私は日本人が関係していないからいい、とか、そんなことを言っているのではありません。仮に「日本人同士」でも同じことを書いていると思います。

つまり、もし、モンゴル人横綱が日本人関取を殴っていたら、または、日本人横綱がモンゴル人関取を殴っていたらどうなっていたか、ということです。

いまだに「横綱の国籍・出自」にこだわる日本人がたくさんいるのですから、もし前者だったら、「モンゴル人はやっぱりダメだ。すぐに辞めてしまえ!」と怒号の渦だったと思うんですよね。貴乃花親方の言動に矛盾点があっても、白鵬の証言があっても、そんなのなかったとばかりに世論は「引退せよ」の一点張りだった可能性が高い。


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そして後者の場合、つまりは稀勢の里が加害者側だったら、ということですが、いま以上に「真実はどこにあるのか」という議論だけが沸き起こって、「引退せよ」という声が掻き消されていた可能性が高い、と思うわけです。実際、モンゴルでは「日馬富士を引退させないで」という声が日増しに高まっているそうですし。

モンゴル力士会という特異な場で起きたから真相が藪の中みたいになってるわけですが、モンゴル人同士だったから、ナショナリズムやレイシズムに惑わされず、とりあえずみんなの言うことをちゃんと聞こう、そして真相をはっきりさせてほしいと、すぐ熱くなって我を忘れやすい日本人にしてはまぁまぁ冷静な態度で見つめていられるのではないでしょうか。だから「日本人同士」でも同じだというわけです。

まだまだ真相はわからないし、どういうふうに決着するのかはわかりませんが、ナショナリズムやレイシズムという感情的なものが入ってこないぶん、同国人同士のもめ事だったのは不幸中の幸いだったという思いは禁じえません。



ケビン・スペイシーの「カミングアウト」から考える

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ケビン・スペイシーが昔、14歳の少年に性的関係を強要したことがあるという咎で批判を浴びています。

ハーベイ・ワインスタインの永久追放で続々とセクハラしていた人たちの悪行が暴露されていっていますが、そのこと自体はいいことだと思います。自分が思春期の頃に大人の男から(女でも)性的関係を強要されていたら、と考えると、その少年のいまだ癒えぬ心の傷がおぼろげながら想像できて胸が苦しくなります。

しかもスペイシーが釈明会見にかこつけて、

「これまで男と女とも付き合ったことがあるが、これからはゲイとして生きていく」

とカミングアウトしちゃいました。


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この発言についてザカリー・クイントが「最悪のタイミングでのカミングアウトだ」と非難しました。

そりゃそうですね。話をそらそうという意図がはっきり見えますから。

ただ、クイントは続けてこういったそうです。

「何か賞をもらったり、栄誉を受けたときにカミングアウトすべきだ。そうすれば世界中のLBGTに勇気を与えることができる」

うーん、スペイシーのカミングアウトがふさわしくないタイミングだったことはわかるんですが、「カミングアウトにふさわしいタイミング」というものがあるということにちょっと驚きを隠せませんでした。


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ちょっと前の『5時に夢中!』で、どういう趣旨の特集か忘れましたが、ゲイバーで働く男性にインタビューしたところ、こんな印象的な答えが返ってきました。

「僕はカミングアウトなんかしてませんしこれからもしないです。何かいまカミングアウトするのが正義みたいな風潮があるじゃないですか。あれには納得できないんです。少なくとも僕は、カミングアウトしたときに両親が感じるショックを考えるととてもできません。墓の中までもっていきます」

別に私は「カミングアウトすべきでない」と言いたいのではありません。ただ、カミングアウトした人に「よくぞ言った」と拍手し、カミングアウトしない人を「潔くない」みたいに言う風潮に疑問を感じているだけです。そういうことを言う人こそがLBGTを差別してるんじゃないんですかね?

カミングアウトというものを広く「宣言」と捉えてみると、例えば蓮實重彦が何度も著書で書いているのが映画監督の引退ですね。

「昔のハリウッド黄金期に活躍した監督たちは、ある程度の年齢に達したら引退するのが普通でした」

フォードやホークスが引退宣言をしたかどうかは知りませんが、最近は宮崎駿監督が何度も引退を宣言し、また先日も撤回したのは記憶に新しいところ。


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撤回自体は悪いことだとは少しも思いません。人間は生きている以上、変化するものですし、「君子、豹変す」という言葉もあるし、「引退と言ってたじゃないか」と非難するほうがおかしい。

そんなことより、「引退宣言」というものが必要なのかどうか、ということです。

高畑勲監督は、同志・宮崎監督の数年前の引退宣言のとき、「何で映画監督が引退宣言なんかするんだよ」と、あるドキュメンタリー番組で言っていました。

引退と言えば・・・


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スポーツ選手は必ず引退宣言しますよね。あれは必要だと思うんですよ。浅田真央のように個人競技の場合だって契約しているスポンサーに対して「もう終わり」という意思表示は必要でしょうし、団体競技の場合は、何より来季も契約したいと考えているクラブや球団に対して選手側から契約の意思なしという表明が必要です。

そして、浅田真央みたいな人気の高い有名選手の場合は、ファンに対して「もう終わり」と意思表明することも必要ですよね。じゃないと、あの人は最近何もやってないみたいだがどうしたんだろう、とやきもきさせることになります。

となると、宮崎駿が引退宣言をするというのも、「人気が高いから」ということは言えるのかもしれません。宮崎アニメを心待ちにしているファンに対し「もう終わり」という意思表示。


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引退宣言に共通するのは、「もう終わり」つまり、「これからの私はいままでの私とは違います」ということなんですね。過去の自分と未来の自分との間に結界を張るような感じでしょうか。同時に、自分と自分を応援してくれていたファンとの間にも結界を張っている。(参照記事「空間の結界、時間の結界」

とすれば、LBGTの人がカミングアウトするというのもまた結界なのでしょう。しかし何のための結界なのか私にはわからない。

スポーツ選手のように誰かと多額の契約があるわけでもなければ、有名映画監督のように世界的人気が高いわけでもない人間がわざわざ「宣言」をする理由あるいは目的。

前述の「カミングアウトしたら両親が悲しむ」という男性は、「自分と両親の間に結界を張ってはいけない」と無意識に思っているのでしょう。

ケビン・スペイシーのカミングアウトが最悪なのは、「過去の過ちを犯した自分」と「これからゲイとして健気に生きていく自分」との間に結界を張ろうとしたからだと考えられます。

では、ザカリー・クイントのように意識的に結界を張るタイプの人はいったい何が目的で、というか、自分と誰の間に結界を張っているのか。

普通に考えると、LBGTに理解のない人間との間に、なんでしょうね。

ただ、どうなんでしょう。何度も言いますが、私は別に結界を張ってはいけないと言いたいわけではありません。

ただ、どう考えてもザカリー・クイントのような考え方の人がどういう目的で結界を張っているのかがわからないのです。「栄誉を受けたときにカミングアウトすれば~」という発言がありましたが、そういう効果のあるカミングアウトはいいが、何も効果がないのなら意味がない、と。うーん、何かそういう「営利目的で結界を張る」というのは違う気がする。

「自分の性的嗜好のことは墓の中にもっていく」と恥ずかしげにつぶやいた男性のほうが、LBGTとそうでない人々の間に結界を張らない、つまり「差別のない社会」を真に希求していると感じるのは私だけでしょうか。


藤井聡太の高校進学を寿ぐ(中学時代の同級生はいま)

私の中学時代の同級生はプロ棋士です。棋士といっても将棋ではなく囲碁のほうですが。

彼は中学の時点ですでにプロで、たまに公休をもらって試合に行っていました。そして高校へは進学しませんでした。

もともと誰とも交わろうとしない、人間嫌いのような面があって、そのうえ大の囲碁好きで「プロとしてやっていくことしか考えていない」ということだったので、高校に進学しないと決めたと聞いて「それはそれでいいのでは」と思っていました。

彼はいまでも第一線のプロです。別に挫折したわけではありません。しかし、囲碁の7大タイトルのうち獲得できたのは通算2期だけ。とはいえ、デビューから30年以上プロとしてやっているのだからかなり成功した部類には入るのでしょう。

相撲でも、白鵬みたいに幕内通算白星歴代1位とか、幕内通算優勝回数歴代1位とか、そんな華々しい活躍をせずとも、いまだに「十両になれれば力士としては成功」らしいですから。

でも、いま思うのは、あの誰とも交わろうとしなかった同級生がもし高校に進学していたら、もっとビッグタイトルをたくさん獲得するすごい棋士になっていたのではないか、ということです。


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だから、将棋のほうの棋士・藤井聡太四段の高校進学を寿ぎたいわけです。

本人は私の同級生と同じく「将棋のことだけ考えていたい」ということだったみたいですが、周囲の説得もあって進学を決めたと。

羽生だって彼と同じで高校なんか行く気がなかった。でも師匠が「将棋とは関係ないことを勉強し、将棋なんか興味がないという人間と交流することが棋士としての幅を作る」と説得して高校へ進学させたそうです。その後の羽生の活躍はご存じのとおり。

別に高校へ行ったらみんなが活躍できるわけじゃないでしょう。高校へ行かずとも棋士として成功した私の同級生もいます。

しかしながら、藤井聡太四段に世間が求めているのは「史上最強棋士」であるはず。現時点で勝率がまだ9割以上のはずですが、あまりに驚異的です。羽生の通算勝率が確か7割ちょっとのはずで、それですらすごすぎといわれる世界で9割を超えるというのは異常。今季プロ野球でぶっちぎりで優勝した広島とソフトバンクですら勝率は6割台の半ばでした。

勉強ばかりしているとバカになるといいます。だから彼がこのまま将棋のみの道へ進んだら勝率が落ちるのではないか。史上最強棋士にはなれないのではないか。


ガリ勉


世間は「ガリ勉はダメ」という。それは真理でしょうが、なぜか学校の勉強に関してだけダメみたいで、将棋やスポーツのガリ勉はOKらしい。それは絶対におかしい。

学校の勉強にしか興味のない人間には将棋やスポーツなど他の分野にも興味をもたせ、将棋にしか興味のない人間には将棋以外のことを勉強するよう促す。それが「教育」というものでしょう。

藤井四段が3年間も高校へ行くのは明らかな「遠回り」です。でも、いまの日本人は遠回りの大切さを忘れてしまっているのではないか。「近道」ばかり求めていないか。

近道ばかり求めているから「役に立つ学問」という言葉が幅を利かせているのではないでしょうか。





体罰はどんな状況でもダメという意見について

まずはシャルリー・エブド事件の話から始めましょう。


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あれはもう3年くらい前ですかね。フランスの「シャルリー・エブド」という新聞がムハンマドの風刺画(というよりあれは単なる愚弄画でしたが)を掲載してテロリストの仕返しを受けた事件がありました。
あれに対して「私たちはみんなシャルリー」というデモが起きて世界中で議論が湧きあがりましたが、あれってフランス特有の現象らしいですね。

敬虔なクリスチャンとして有名な佐藤優氏によると、ロシアなどでは宗教に関するあのような表現は厳しく罰せられるとか。

フランス革命の国では、国家と宗教を峻別することを国是としているため、あのような愚弄画を掲載する自由があるそうです。
一方で、学校の授業で宗教について教えてはいけないとか。イスラム教徒のブルカを一切認めないというニュースも世界を賑わしましたが、あの国では公式には宗教というものは「なかったこと」になっているらしい。イスラム教徒も存在しないし、その教義ももともと「ない」ものなんだと。
そんなバカな!


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ジャズ奏者の日野皓正氏の公衆の面前での往復ビンタが批判にさらされていますが、その批判の急先鋒である尾木ママは、

「体罰はどんな状況であっても許されない」

と発言しています。

この国では、体罰は絶対に許されないと。

これっておかしいですよね?

そもそも「絶対」なんてものはこの世に存在しないことを教えるのが教育者の務めではないの? 絶対に宗教を教えてはならない、というフランスの馬鹿げた国是と相似形をなしてやいませんか?

「臭いものに蓋をする」という言葉がありますが、いま体罰は完全に「臭いもの」になってる気がします。そして、誰もそれを疑わない。
これはもうほとんど「全体主義」です。


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昨日のワイドナショーでは、この問題を取り上げて、

松本は、
「いまは体罰が許されない時代じゃないんだ、というけど、なぜ昔は許されていまはダメなの? 納得のいく説明を誰もしてくれない。体罰を受けた僕たちは少しもひねくれた人間になっていない」

私も体罰を受けたことがある人間ですが、別に普通の人なんじゃない? とよく言われるし、体罰を受けたのは「自分のほうが悪かったからだ」といまでは思っていますよ。

宮澤エマは、
「あの生徒は完全に演奏に入り込んでしまっていたからスティックを奪われたあとも手で演奏を続けようとしたのか、それとも、もともと日野さんと何かあって反抗的に続けようとしたのかによっても答えは違ってくると思うし、日野さんも日頃からこういうことをやってるからその延長でビンタしたのか、それとも公衆の面前だからこそビンタをして教育効果を狙ったのかでも違ってくる」

というように、様々な意見が出て、とても健全な議論になっていましたが、どうもこの国で体罰に関しては、フランスにおける宗教と同じで、議論すること自体がナンセンスみたいになってるのがどうにも苛立たしいかぎりです。

絶対にダメと臭いものに蓋をするんじゃなくて、
「世の中はすべてグレーゾーンである。君たちはこの問題をどう考えるか」
と問うのが教育者の役割なんじゃないんですか? 

それをいまはお笑い芸人が代わりにやっている。世も末とはこのことですな。

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