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2019年05月17日

昨日の『5時に夢中!』でとても興味深いニュースが取り上げられていた。

詳しくはこちらの記事をお読みください。⇒マレーシアの女性が自殺 インスタでの質問に7割が死ぬべきと回答

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この子は「死/生、選ぶの手伝って」と自身のインスタグラムにアンケートを投稿、D=death=死、L=life=生という二者択一で、何と69%の人がDと回答、この少女はその直後に飛び降り自殺したとか。

このニュースがなぜ私の心を激しく突き動かすのかよくわからないまま書きます。

まず、番組コメンテーターの岩井志麻子は、
「ネットやツイッターが悪いんじゃなくて、この子の家庭や学校でどういう問題を抱えていたかを考えなきゃいけない。相談や占いと同じで、他人の意見を聞きたい人はたいていすでに答えをもっている。この子が死にたいとなぜ思ったかを追究しなければ」
と正論を語っていました。

とはいえ、
「マレーシアの
青年・スポーツ相はツイッターに、「自国の若者の心の健康状態を心から懸念している」と投稿し、「真剣に捉えなければならない国家の問題。国全体での議論が必要だ」と訴えた」と記事にあるので、別にネットが悪いという議論は最初からないようです。


マネーの虎「51%」
かつて『マネーの虎』という番組がありました。一代で財を築いた海千山千の社長たちが老若男女の事業計画を吟味して要求する金額を出すか出さないか。「マネー成立です」「ノーマネーでフィニッシュです」という吉田栄作のフレーズが懐かしい。

それはともかく、この番組のご意見番の堀之内社長はいつもこんなことを言っていました。

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「成功する確率が50%ならやめておいたほうがいい。でも51%あるなら賭けてみるべきだ」

成功確率が過半数なら挑戦せよと。しかし自分の事業計画の成功確率が50%か51%かなんていったいどうやって計算するんだといつも疑問でした。

マレーシアの少女はそれがわからないからインスタでアンケートを募ったわけですよね。過半数なら死のうと。岩井志麻子の言うとおり、自殺という答えはすでに出ていたはずだから、もしL=生が過半数だったとしても他の方法を試していたはずです。インスタがダメならツイッターで、とか。あるいはそれもダメなら窓を開けて次に家の前を通る人が男だったら死ぬとか。

と、ここまで書いてきて「あれ?」と思いました。


「自分は殺された」というメッセージ
私も過去に自殺を図ったことがあります。別に誰にも相談しませんでした。もう死ぬしかないと思ったから。死んだほうがいい確率100%だと思っていました。それが間違いだったのかどうかはいまだにわかりません。あのとき死んでいたほうが幸せだったのかもしれないと思うことはよくあります。

確かなのは、私には背中を押してくれる人や言葉は必要なかったということです。あのときはSNSなんかなかったというのもありますが、不特定多数の人にアンケートを募るなんてバカな真似は絶対しなかった。というか、できなかった。本当に絶望した人間は情報を発信なんかしない。できない。そんな余裕があるなら死んだりしない。

深刻な内容のアンケートではあるけれど、あれはただの遊びだと思う。「これは遊びです」という見えないメッセージを読み取って多くの人がD=死と回答したのでしょう。別にネットがどうとか、匿名だから死ねと平気で言えるとかいう問題ではない。アンケートの主が「これは遊びです」というメッセージを発しているからです。自分自身を弄んでいるからです。

さらに思うのは、あの少女は、ネットという不特定多数の目に晒される「51%」がほしかったのではないか、ということ。

死ぬ自分の背中を押した人間がたくさんいたという証拠を残したかった。
「自死」ではなく「他殺」という証拠を残したかった。自分は周りから殺されたのだと。自分はあくまで被害者なのだというメッセージ。

しかしながら、いくらそういうメッセージを残したところで、その前提に「これは遊びです」という最初のメッセージがあるから遊びのメッセージにしかならない。おそらくD=死に投票した人たちはあまり罪悪感を感じていないんじゃないでしょうか。死んだ少女はそのことにはまったく思い至らず、悲劇の主人公を最後まで演じきったことに満足して死んだのでしょう。

だから、この事件は、少女の主観では「悲劇」だけれど、客観的には「喜劇」なのです。先日感想を書いたカズオ・イシグロの『日の名残り』が一人称で書かれたがゆえに最高の悲喜劇になっていたのと同じことでしょう。(『日の名残り』の感想は⇒こちら

おそらくこの事件が私の心を鷲づかみにしたのは、悲劇と喜劇が同居しているからなのでしょう。そういう映画が大好きだし。


再び「51%」
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考えてみれば、撮影所を辞めて脚本家を志そうと決意したときは、確かに51%の自信がありました。絶対に50%ではなかった。

たぶん、ポジティブな方向に行動するときは51%の確信でいいんだと思うんです。堀之内社長はだからやはり正しかった。

でも、ネガティブなことに51%はよろしくない。100%の絶望がなければ死んではいけない。

100%が必要なことに気づかず、51%以上あればいいと考えた少女は、何もわかってないという意味において、また、遊びというメッセージを発しているという意味においても、「悲劇」ではなく「喜劇」の主人公というべきでしょう。






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2019年02月26日

大阪府が公立小中学校へのスマホ持ち込みを解禁するニュースが1週間たっても巷を賑わせているようです。

直接のきっかけは昨年6月の震災で、安否確認のためということらしい。

しかし、いくら安否確認のためといっても、スマホを解禁したら依存症になる、授業が混乱する、スマホをもってない子がいじめられるなどなどいろんな反対の声が上がっているようです。


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私はこのように休み時間に外で遊ばずスマホをいじる子どもが増えないように工夫するなら別にいいと思っています。

依存症については、すでに依存症の子どもってたくさんいると思う。学校が終わったらスマホばっかり見てるとか。いまさら学校で解禁したところでそういう子が増えるとは思わない。いま依存症じゃない子は学校に持ち込んでも依存症になることはないでしょう。

逆に、これをいい機会に外で遊ぶ楽しさを教えてやってほしい。
最近は公園とかでも鬼ごっことかかくれんぼとかドロケイとか缶蹴りとかやってる子どもたちほとんどいませんよね。子どもの数自体が減ってるのもあるんでしょうが、外で遊んだら危険だとアホな親が禁止してる場合も多そう。

特に小学校で大事なのは勉学よりも体力作りだと思う。体育と食育をきちんとするならあとはそれほど大きな問題じゃないだろうし、安否確認できる利点のほうが多いのではないか。

食育といえば、私の高校時代、保健体育の先生が、

「いまは魚を切り身で食べるやろ。あれはアカン。ちりめんじゃことかめざしとか、その生物のすべてをいただく『全体食』が大事」

と言っていました。

全体食? それがスマホ解禁と何の関係が?

国語の教科書ですよ。

日本の国語の教科書では、作品の抜粋しか載ってないじゃないですか。あれ、ほんとよくないと思う。ひとつの物語を最初から最後まで全部読むのが大事。

また、世界史の先生はこう言っていました。

「欧米の学校では、ある本を読んでレポートを提出するという課題がある。学校の図書館に生徒の数だけ本をそろえているからそういうことができる。日本の学校は1冊ずつしかないからとうていできない。世界史を理解するために必読の本がたくさんあるのに子どもたちに読ませることができない」

と嘆いていました。

だから、スマホなどタブレット端末の持ち込みOKにすることで、電子書籍で読めるようになるんじゃないか。あの先生の夢がかなうんじゃないか、という期待があるんです。

私自身は電子書籍が苦手です。兄貴がキンドルで中島敦の『山月記』を読んでるというので見せてもらったことがあるんですが、大好きな作品なのに少しも頭に入ってこない。でもデジタル・ネイティブ世代ならそんなことはないでしょう。むしろ日本の学校図書館に世界の古典を生徒の数だけそろえるなんて金銭的にも無理だろうし、そもそもそんな巨大な図書館を置ける土地がないのだから、スマホなどで電子書籍を読めることは教育効果が高いと思う。

家で読んだらいい?

いやいや、教室でみんなと同じものを読むのがいいんじゃないですか。ブックマークとかも簡単にできるだろうし、授業で聞いたことを書きこんだりもできるんじゃないの? よく知らないけど。

それに家で独りで読むと黙読になるでしょう? みんなで音読するのが大事だと思う。寺子屋みたいに『論語』の素読をするとか。そのためには『論語』をまるごともってないと。

マンガもいいと思うんですよ。下手な小説よりマンガのほうが面白いし真実に迫ったものは多い。「学校でマンガなんてけしからん」とか言う保守的な人間は相手にしないほうがよろしい。真面目なテーマを扱ったマンガばかりじゃなくてギャグ漫画とかもね。教室全体が笑いに包まれるなんて素敵。

とにもかくにも、国語は教育の基幹だから安否確認だけに使うんじゃなく、「読書における全体食」の楽しさ、大切さを子どもたちに教えてやってほしいと思います。

もちろん費用は税金で。自費だと家で読むことすらできない子もたくさんいるでしょうし。出版社も学校が買うぶんについては大幅に安くするとかね。再販制度があるから無理? いやいや、そういうのを変えていくために国会があるんでしょ。


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2019年02月22日

高校野球で球数制限のルールが導入するという新潟高野連に対して、日本高野連が再考を求めた問題。

確かに、一人のピッチャーに連日連投させるのは肩や肘によろしくない、将来を嘱望されるピッチャーほど連投を強いられるから制限するのはいいことだという意見と、いやいや、それではエース級が一人しかいない弱小校が圧倒的不利になる、はたまた、高校で野球をやめる生徒を球数だけで交代させていいのか、という感情論も出ているようです。


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私もこの球数制限には大反対ですが、上記のような理由ではありません。

何よりも「100球」というデジタルな数字で区切ることが大いに疑問。個人差があるのになぜ一律100球なのか。

みんな頭の中がデジタルになってしまっていると思います。

球数が問題なんじゃない、大事なのは登板間隔だと、1日おきの投球なら大丈夫と言う人もいますが、それだって結局はデジタルな数字を論拠にしてる点では大差ない。

この問題についての意見を読んでいると、誰それは1試合で何球投げたとか、数字ばかりが前面に出てきています。それっておかしくないですか?

横浜のエースとして延長17回を一人で投げた松坂大輔。あのときの監督は「あいつならまだ投げられる」と確信していたそうです。練習のときから常に全員のコンディションや性格などを頭に入れ、「こいつはまだまだ」「でもあいつはもう代えてやらないと」と考えていたとか。何球とか何イニングとかそういうことじゃなくアナログな感覚。

結局のところ、指導者がちゃんと気を配っていればいいだけの話で、なぜ「(デジタルな)ルール」として制限せねばならないのかが少しもわからない。

勝つために一人のエースを酷使しないように指導者を教育することのほうが大事だろうし、何より一番大事なのは子どもたちへの体育指導じゃないですか? そこをおろそかにしてルールだけ変えても野球が面白くなくなるだけ。最近の子どもたちは幼い頃から冷房の効いたところで育つから汗腺の数が少ない。だから熱中症になりやすい。学校だけじゃなくて家庭での体育や食育がとても大事。

マウンドに立ってから何球とかそういうことじゃなくて、マウンドに立つまでのほうがよっぽど大事なのに、なぜそういうことを言う人がほとんどいないんでしょうか。

肩を壊す球児を減らしたい。それはわかります。

でもそれなら本から正さないと。試合というのは末端であって、本は日頃の生活ですよ。生活を大人がちゃんと見ていてやること。





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