聳え立つ地平線

ありえないものを発見すること、それを写し撮ること、そしてきちんと見せること。

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死は生より本当に不幸なのか(西部邁さんへの自殺幇助に思う)

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先日亡くなった西部邁さんの自殺を幇助した疑いでTOKYO MXの子会社の社員で西部さんの死生観に共鳴していた男性が逮捕されたというニュースを見て、反射的に森鷗外の『高瀬舟』を読み返しました。(『高瀬舟縁起』を合わせても20ページしかないからすぐ読めますよ。できるだけ多くの人に読んでもらいたい)

ある男が、一緒に生活する病気の弟が「自分がこのままだと兄さんが幸せになれない」と言って首を掻き切って死のうとするが、切り方が悪く死にきれず「このままでは苦しい。刀を引いてくれれば死ねる」というから仕方なく引いてやった。とどめを刺したのは兄のほうだが、はたして本当に彼が悪いのかどうか、というお話。

苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪には相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。

と鷗外は疑問を投げかけて小説は終わります。

すっかり忘れていましたが、この弟がなぜ死にきれない状態になったかというと、はっきりとは書かれていませんが、弟は自分さえ死ねばと思いながらも死ぬのが恐かったからです。一思いに喉笛を刺し貫けば死ねるものを恐くて手が震えるものだからすべってしまってうまく刺せなかった。だから兄さん、あんたが最後のとどめを……

私自身、自殺を図ったことがあります。

もうかなり昔のことですが、手首を切って死のうとしたのでした。しかし恐くてうまく切れない。うまく切れない状態が長く続くとだんだん恐くなって死ねませんでした。あのとき手助けしてくれる人がいたら、間違いなく死んでいたでしょう。

ならよかったじゃないか。

と平気で言える人とはたぶん一生わかりあえない。

あのとき手助けしてくれる人がいたら、私は喜んで死んでいったはずだから。

西部さんが主張していた「自裁」とはそういうことでしょう? 死が生より不幸だなどと、いったい誰に決められるのか。

私や西部さんの場合はわからないにしても、はっきり死のほうが幸せだったと言える人がいます。

私の祖父は晩年、毎日生き地獄を味わっていました。

寝たきり生活のため、背中や腰、太ももに至るまでひどい褥瘡ができ、ご飯を食べるために起き上がろうとするとき痛みのために悲鳴をあげていました。席に座るときも悲鳴を上げ、食後ベッドに戻るためにまた悲鳴を上げなくてはいけない。死なせてあげられるならそうしてあげたい、と思ったのは私だけではないはず。

もし自分が歳を取って毎日悲鳴を上げて生きねばならないとしたら、誰かに殺してほしいと思うでしょう。それを否定できる人がいますか?

それを「法だから」の一言で片づけてしまえるのなら、安楽死を認める「法」を作るべきではないのか。

魔女狩りと化したMeToo運動(ウディ・アレン性的虐待をめぐって)

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ウディ・アレンが養女に性的虐待をしていたことに対して、彼の映画に出演した俳優たちがこぞって「出演を後悔している」「この事実を知っていたら出演しなかった」とコメントを出しているニュースが世界中を駆け巡っています。もうアレンのキャリアは終わったという人もいます。

ハーベイ・ワインスタインのセクハラ+パワハラでの永久追放を可能にした「MeToo運動」ですが、これはもはや魔女狩りになってきたと私には感じられます。

ただし、ウディ・アレンが魔女狩りに遭っていると言いたいわけではありません。そうではなくて……

流れを整理しましょう。

この記事を見てください。⇒ウディ・アレンから性的虐待…養女が告白

すでに4年も前に当の養女が性的虐待を告発してるんですよね。それにもっと遡れば、1992年にミア・ファローと離婚する際にも性的虐待疑惑は報じられていました。

92年の段階ではまだ疑惑にすぎなかったから百歩譲って「知らなかった」で済ませてもいいでしょうが、4年前の時点では明らかだったわけですよね。あのときも「アレンはもう終わったか」みたいな論調がありました。

でも、結局終わりにならなかった。それは彼の映画に出た俳優たちがいたということです。少なくとも2014年以降の出演者は何も言えないのでは?

ブリジット・バルドーのように「性的に誘惑して役をもらっておいていまさら言うな」みたいなことを言うつもりはありません。カトリーヌ・ドヌーブの言葉には「よくぞ言った!」と思いましたが、バルドーの言葉は少しも響いてきません。
ハーベイ・ワインスタインなどはかなりの権力者だったのだから、拒否すればもう映画に出られないかもしれないわけで、サルマ・ハエックが『フリーダ』に関するワインスタインとのあれこれを記した手記を読むのは胸が痛みました。

でも、ウディ・アレンはそこまでの力はないのだから、嫌なら出演拒否すればよかったんじゃないの? と普通に思いますね。

繰り返し言いますが、私は「ウディ・アレンが魔女狩りに遭っている」と言いたいわけではありません。性的虐待は十中八九事実だと思うし、一人の人間の未来を奪った罪は重い。



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ウディ・アレンじゃなくて、MeToo運動に加担している人たちが魔女狩りに遭っていると思うのです。

この問題に関して、「いまはウディ・アレンを非難せねばならない。彼を擁護することは許せない」という同調圧力が働いて上記のようなコメントが出ているのではないか。

つまり、MeToo運動に賛同しない者が魔女狩りに遭うようになってしまった。

コリン・ファースは、虐待の一報を聞いて数時間後に「もう彼の映画には出ない」と言ったらしいですが、どう考えてもそんな短時間ではその一報が事実かどうかわかりませんよね。そんな状態で出演拒否声明を出すというのは、無意識に魔女狩りに遭いたくない、もっといえば、アレンを非難する側にいれば安全だという計算も働いているはずです。あくまでも無意識に、ですよ。コリン・ファースがそんな狡賢い計算をする人間だとは少しも思っていません。

しかし人間は弱い。どうしても「いまどう行動すれば一番得か」を考えてしまう。今回の問題で一番悪いのはウディ・アレンでしょうが、「正義」を振りかざしている人たちのほうが私には恐ろしい。

そりゃ、心からの正義感や善意からウディ・アレンを非難している人たちも多数いるでしょう。でも「地獄への道は善意によって舗装されている」という有名な言葉があります。「正義」というものはそれほどまでにたちが悪い。

現在のMeToo運動は、運動を推進している人々が魔女狩りの加害者であり被害者でもあるという「自作自演」の様相を呈してきました。自分が被害者にならないよう無意識に加害者の側に回ろうとする。いくら正しいお題目をかざしていても、結局のところ人間とはそういうものです。

こうなってくると、日本の不倫バッシングと同じで「新たな獲物」を探し求めることになります。ドヌーブだって「獲物」の一人だったわけですよね?

はたして、この運動はどこにどういう形で落とし込まれるのでしょうか。

小室哲哉を嫌いなままでいさせてほしい

気がつけば、好きでも何でもなかったベッキーがテレビに出てると「頑張れ!」と声援を送っている自分に気づく。大嫌いだった海老蔵を見ると親近感が湧く自分に気づく。
つい先日は、不倫が原因で引退会見を開いた小室哲哉。この人も私はほとんど理由もなく嫌いでしたが、何だかあの会見を見ていて「負けるな!」とか「また数年後にヒット曲を作って復活してくれないものか」と応援している自分に気づくのでありました。




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『人はなぜ不倫をするのか』(学校化するニッポン)

の記事でも書いたことですが、なぜ不倫ぐらいのことでギャアギャア騒ぐのかさっぱりわからない。

小室氏は「男女の関係ではない」と言っていて、介護疲れのために介護士の女性に精神的に依存していたと言ってました。
私は嘘ではないと思いますね。詳しくは知りませんが、もう何年も仕事の傍らずっと介護をしていたわけでしょう? それでこのような報道が出て引退を決意したという会見で嘘を言うとは思えない。

もし20年ぐらい前の小室全盛期に不倫報道が出て「男女の関係はない」と言ったとしたら信用しなかったでしょう。やっぱりこの男は嫌いだ、と思ったはずです。

でも今回そうならなかったのは、彼が週刊文春という不倫ジャーナリズムで食いつないでいる下賤きわまりない雑誌にコテンパンにいじめられたからでしょう。

ビートたけしは「ファンがいるのに引退だなんて理解できない」と言ってましたが、それぐらいは小室哲哉もわかってるんじゃないですか。たぶん、文春砲に対する抗議として「引退」という言葉を出したのでしょう。引退しながら復活した芸能人はたくさんいるのだから、いったんは引退して同情を引こうと。

別にそれでいいと思います。それぐらいいまの週刊文春は調子に乗りすぎてます。

ほんとか嘘か知りませんが、週刊文春の新谷編集長という人は、安倍総理や菅官房長官とかなり仲が良く、国会開会前のこの時期に大物芸能人の不倫ネタで世間の耳目を逸らせて官邸をアシストする狙いがあるとか。
もちろん、安倍にしろ菅にしろ直接的に依頼することはないでしょうが、新谷編集長はそのへんを忖度してるんだろうなぁ、と。

不倫バッシングや芸能人の私生活を覗き見するジャーナリズムという風潮がなかったら、ベッキーに声援を送ることも、海老蔵に親近感を抱くことも、小室哲哉が好きになりかけることもなかったでしょう。嫌いなままだったはずです。

そのほうがずっとよかった。

そりゃ、小室哲哉が素晴らしい音楽を作ったから好きになったというのなら、それは喜ばしいことですが、ただ単なる一介の雑誌がゲスきわまりないから相対的に好きになるというのはぜんぜん喜ばしいことではありません。

ここに書いた情報はネット上には溢れていますが、テレビや新聞、雑誌では少しもメジャーではありません。というか、一言も書かれていないし誰もコメントしない。

いまだにネットってメジャーなメディアじゃないんだな、と思う今日この頃です。

黒塗りはなぜいけないのか(『トロピック・サンダー』との決定的な違い)

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『ガキの使いやあらへんで』で浜田がエディ・マーフィの物まねと称して顔面を黒塗りしていた問題。世界中で非難の嵐なのに今日の『ワイドナショー』でも、

「差別の意図はなかった」
「お笑いがどんどんつまらなくなる」

などの頓珍漢なコメントばかりだったのが残念です。

差別を考えるときに大事なのは、「宿命」と「運命」ということだと思うんですよね。

この二つがどう違うかについては、私はいつも伝説の雀鬼・桜井章一さんの定義を参考にしているんですが、

「宿命」とは「本人の意思では変えられないこと」
「運命」とは「本人の意思で変えられること」


ということになります。

だから、自分の親がどういう人間とか、どこで生まれたとか、自分の名前とか、性別、遺伝的な疾患、そして肌の色などは「宿命」です。

これに対して、同じ名前でもハンドルネームやペンネームは「運命」の範疇ですし、どういう仕事に就いて、どこに住んで、誰と結婚するか、などもすべて「運命」です。

差別というのは、「宿命」を茶化すことだと思うんですよ。

エディ・マーフィの物まねと称して顔を黒く塗る。差別の意図はなかったというのはおそらく嘘ではないのでしょう。でも、あれを見た黒人たちは不快になる。それは浜田が黒い肌に生まれた人の「宿命」を背負ってはいないからです。撮影が終わればすぐに元の肌に戻せるのだから。



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もう10年近く前、『トロピックサンダー/史上最大の作戦』という映画がありました。ロバート・ダウニーjrが演じた狂気の役者は、黒人の役を演じるにあたり、黒塗りではなく手術によって本当に肌を黒くしてしまいました。

この映画が『ガキ使』のような非難を浴びなかったのは、黒塗りじゃなかったからだと思います。そりゃま、実際は黒く塗ってるだけですけども、あくまでもお話の中では肌そのものを黒くした、つまり、黒人の宿命を背負った役どころです。

手術で変えられたということは手術で元に戻せるということでもありますが、単に肌を黒く塗るのとでは覚悟のあり方にあまりの差があります。

見た目を黒人に似せるなら、黒人と同じ「宿命」を引き受けるぐらいの覚悟をせねばならない。

黒人たちが肌の色を理由に理不尽な扱いを受け続けているのは「宿命」の範疇の問題ですが、今回、浜田らが非難されたのはただの「運命」の問題です。

運命ならば変えることができるのだから、これを機に考え方を改めたほうがいいと思います。


「歴史教科書問題」を考える(「生身」を取り戻すために)

私を知っている人はみな異口同音に言うことがあります。

「おまえは生まれる時代を間違えた」

何でも、幕末とか、昭和初期、少なくとも68年革命の頃が合っているらしいです。自分自身でもそう思わないことはありません。

しかし!

一番近い1968年ですら、そんな時代に生まれたら間違いなくボットン便所ですよね。その一点だけだけ取ってみても、私は水洗トイレのある現代のほうがいい。

と言うと、再び異口同音に「時代というものをそういうふうに捉えるとは」と感心されるんですが、逆に私はそういうふうに捉えないことが不思議です。

過去の偉人も、いまこの時代を生きている我々も、みな「生身の人間」です。歴史を考えるとき、この「生身」ということが忘れられていることが多い。


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今日の『TVタックル』では、今年の重大ニュースとして「歴史教科書から偉人たちの名前が削除される件」が取り上げられていました。

坂本龍馬、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰などの名前が削られることになったわけですが、それぞれの人物を生身の人間として見ていないことが何よりの問題だと思います。

今回の決定に賛成する学者は、

「現在、高校の歴史の授業で教えるべき用語が3000以上あって、そのためには140時間必要で、ひとつの用語あたり2分30秒かかる」

と、負担を減らすことが主眼だと主張していましたが、歴史というものを完全に「データ」として捉えていますよね。

私の高校時代の歴史教師は、

「歴史は物語である。流れである。一問一答式の問題集では歴史の実相には迫れない」

と言っていました。今回の歴史教科書をめぐる決定には「歴史とは生身の人間が織りなす物語」だという観点が完全に抜け落ちています。

歴史を学ぶというのは、その物語そのものをまず受容して、そのうえで未来をどう構築していくかという大局観をもつことでしょう? 



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奇しくも今回削除対象にされた吉田松陰は、そのような教育をしていた真の教育者でしたよね。だから、今回の決定は「教育とは何か」というイデオロギー問題でもある気がします。

だって、大学入試でこれらの人名を出さないことが根幹にあるわけですし。
大局観をもった人間を育てることが教育なのか、受験エリートを生み出すことが教育なのか。

それはともかく、教育者といえば、先述した高校の歴史教師をはじめ、私が教わった中高の社会科の教師は「教科書は嘘ばかり書いてるから使いません」という人ばかりでした。自分でプリントを作ってみんなに配り、授業はそのプリントに沿って行われました。

だから、教科書から削除したら現場の教師は教えなくなる。インプットを減らせば必ずアウトプットも減ると信じている文科省とその追従者は、現場の教師を決して生身の人間とは考えていないのだと思います。

人間とはそんなに単純なものではありません。本来、歴史とはそういうことを学ぶための学問だったはずです。

上杉謙信が武田信玄に塩を送ったエピソードなどは、そのための恰好の教材なのに。


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とはいえ、反対派の武田鉄矢も同じ過ちをしていると思いました。

教科書から「坂本龍馬」の名前が消えても、龍馬という人物を教えたり学ぶことはできます。仮に現場の教師が文科省の言うとおりに龍馬のことを教えなくなったとしても、龍馬について書かれた本はたくさんあるのだから学べます。教師によるアウトプットがなくなれば子どもたちへのインプットがなくなると信じているのだから、賛成派を裏返しただけです。


歴史上の偉人も生身の人間、教師も生身の人間、生徒も生身の人間ということを忘れてしまっていることが本当の「歴史教科書問題」と私は思うのですが、いかがでしょうか。



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