テレビ

2019年09月05日

クローズアップ現代+「“改名”100人 ~私が名前を変えたワケ~」を興味深く見ました。


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何でも、日本では年間に4000人以上もの人が改名しているそうです。1日に11人超も。

番組で取り上げられていたのは、

①キラキラネームだから
②性転換したから
③親に虐待を受けてきて、その親の名前の一部が自分の名前にあるから
④元受刑者で、就職など社会生活に支障をきたすから
⑤出家したから

などなどの理由が主なものでした。


名前は呪い
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この人が一番長い時間をかけて取り上げられていました。元「王子様」という名前の男性。母親が自分にとって王子様のような存在だから、という理由で、父親には無駄で出生届を提出したそうです。

この人が言うには、

「自分の親はバカですって自己紹介するようなものなんですよ」

と言ってて、かねてからキラキラネームに批判的な私はそりゃそうだろうな、と思いました。生まれたばかりの赤ん坊が未来永劫赤ん坊のままだと思っているのです。成人し、社会に出、やがて老年を迎えるという「時間」の概念が決定的に欠落している。「いま」しか見えていない。(しかし、現在の中高生のキラキラネーム保持者のうち改名を望んでいる人はごくわずかとか。でもそれはまだ社会に出ていないからでしょう)

親に虐待を受けていて、その親の名前の一部が自分の名前にもある女性は、

「名前は呪い」

と言っていました。元受刑者は「名前は爆弾」だと。

言葉というのは(特に漢字は)もともと「呪い」だから、どんな名前でも呪いだと思うんですよね。

昔、個人情報の入力業務をしていたとき「止(とどむ)」という名前の人がいました。あぁ、この人は何をやっても中途半端で終わっちゃったんだろうな、と思いました。そんな名前をつけたら暗示にかかってしまう。

「呪い」というのは暗示にかけるための呪文です。だからどんな名前でも暗示にかかる。まともな名前ならまともな暗示にかかるから大丈夫。


これから名前はオープンになる⁉
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クローズアップ現代にいつも出てくる宮田裕章教授。(ネットで「FFキャラ」と書かれていて何だと思ったら「ファイナルファンタジーみたいなキャラ」ということだとか。ふうん)

この宮田教授が「これから名前はもっとオープンになっていくだろう」というんですね。

もともと日本では名前はオープンで、元服や結婚など人生の節目で何度も名前が変わった。それが明治5年の「複名禁止令」で完全にダメになった。「選択的一人一名主義」と言われるもので、要は、明治政府が天皇を父とし国民をその赤子とする中央集権国家を作り、さらに欧米列強に伍していく富国強兵政策を推進していくために、国民を一元的に管理する必要があった。そのために一人にいくつも名前があると管理しきれいないので生まれてから死ぬまでたったひとつの名前しか許されなくなった、と。

しかし、と宮田教授は言います。

個人番号などで一元的に管理する制度は整っているわけだから、もう選択的一人一名主義を貫かなくてもよい。これから名前はもっとオープンになるのではないか。

つまり、昔のように人生の節目節目で自由に改名できるようになるのではないか、と。


女性が強いワケ
昔から思っていることですが、男性より女性のほうが強いとか、結婚した男性は等しく妻の尻に敷かれるとか言われるのは、結婚によって女性の姓が変わるからじゃないかと。

下の名前は変わらないけど、苗字が変わるだけで、やはり内面もまた変わるんじゃないですかね。元服で名前を変えていたように、名前が変わることでより人間として成熟する。

だから夫婦別姓にしたい人はしたらいいけど、私自身は結婚することがあれば自分の苗字を相手の苗字に変えたいと思っています。名前が変わると世界が違って見えるんじゃないかとワクワクするんです。

番組で性転換した男性二人はものすごく幸せだと言ってたじゃないですか。

ということは、もし将来、自由に改名できるようになったら、みんなが人生の節目節目でガラリと内側から変わることができるわけで、この閉塞した時代に風穴を開けることができるんじゃないか、それならいますぐにでも法律を改正して「自由改名OK!」にしてほしいと切に思います。

(宮田教授とセットで出演することの多いノンフィクション作家の石井光太という人は、改名したいと訴える元受刑者に「そのままの名前でいろ。悪いことしたんだから報いを受けるのは当然だろう」みたいなスタンスでものすごく嫌でしたね)






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2019年09月04日

先日、廉価版DVDが発売された往年の名作アニメ『妖怪人間ベム』。

第2話の感想としてこんなものを書きました。

 

ベムが言う「悪いやつを懲らしめていいことをしていれば俺たちはいつかきっと人間になれる」というのは「宗教」だという主旨でした。

そして今日見た第9話の「すすり泣く鬼婆」。ここでも宗教というか「信仰」の問題が語られます。


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強烈なラストシーン
この「すすり泣く鬼婆」のあらすじは、

土砂降りの中を走る馬車があり、ベロが中に入れてもらう。まだ若い母親と盲目の息子。彼らは一夜の宿を求めて山奥の山荘に入れてもらう。が、そこの女主人に不穏なにおいを嗅ぎつけたベロが忍び込むと、女主人の正体はとんでもない鬼婆だった。ベロはベムに助けを求めて一件落着。

というものです。

いやいや、それじゃ片手落ちだよ! という声が聞こえてきそうです。

そう、この「すすり泣く鬼婆」で一番強烈な場面はラストです。

母子のために骨を折り、絶体絶命のベムを助けて鬼婆を助けたのはベロなのに、指が三本しかないのを咎められ、鬼婆の仲間だったと誤解を受け、号泣するのです。(しかしこのDVDでは「その坊主には指が三本しかないんだぞ」というセリフがカットされてるじゃないですか。「完全版」を謳っておきながら……

それはともかく、私も昔はこのラストが強烈なインパクトをもっていると思っていました。それは今日でも変わりはありませんが、ベムの「いつか人間になれる」という信仰という観点から見ると、別の場面が妙に気になるのです。


鬼婆の信仰(神と悪魔の違いとは?)
鬼婆は牛の生首か何かを祭壇に祀り、次のような祈りを捧げます。

「おお、サタン様、いつになったら私に若い美しい女の顔をくださるのでしょうか。私はこれまで96人の人間を捧げてきました。今日も3人の人間を捧げます」

この鬼婆もまた敬虔な「信者」です。ベムの信仰対象は「神」であり、鬼婆のそれは「悪魔」という違いはあります。しかし、悪魔というのは鬼婆にとっては「神」ですよね? 神を信じる者からすれば悪魔に感じられるだけの話であって、鬼婆の主観ではサタンというのは神です。(そもそもサタンはルシファーという名の元天使)

ベムたちも醜い妖怪人間から普通の人間になりたがっている。
鬼婆も醜い鬼から若くて美しい女になりたがっている。

どこが違うというのでしょう? 

ただ、そのための手段が「無辜の者を殺す」か「そんな悪い奴を懲らしめて弱い者を助ける」かの違いだけ。

その違いは確かに大きすぎるほど大きい。でも、「信じる」という点では何も違いがありません。


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キリスト教徒から見ればイスラム教徒は「テロリスト」にしか見えないのかもしれませんが、彼らのほとんどはごく普通の人間です。しかし、「あいつらは悪魔を信仰している」と偏見の目で見ている人もいるのでしょう。

結局、人間は自分が信じたいものを信じているだけ。アリストテレスの「人間の目には自分の見たいものしか見えない」というのと根っこは同じでしょう。

ベムたちは神を信じたいが、鬼婆は悪魔を信じたい。だから生贄として殺す。


「すすり泣く鬼婆」のテーマ
この「すすり泣く鬼婆」のテーマがようやくわかってきました。

ベロの号泣で幕を閉じるこの回で大事なのは、「それでもやっぱり信じる」ということなんですね。

指が三本しかない。たったそれだけで化け物扱いされ、自分が退治した鬼婆の仲間との誹りを受けたベロは、それがきっかけで人間に強い恨みをもち、悪魔信仰に流されてもおかしくありません。

でもベロにはベムがいます。徹底した有神論者のベムは「涙が涸れたとき、自分の行いが正しかったことを知るだろう」と断定します。

よくそんなこと言えるな、と笑ってしまいましたが、このウソのような信仰心の篤さによってベラもベロも正常でいられるのです。

そう、「信じる者は救われる」というのはこういうことだったのか、という感じですね。強い恨みがあっても、その恨みをポジティブな方向へ舵取りできる者が身近にいれば悪の道に迷い込むことはない。

なるほど、それがこの回のテーマか!


答えのない問題
しかし「正常」とは何でしょうか? 「ポジティブ」とは? はたまた「悪」とは? 「正義」とは?

うーん、わからない。『妖怪人間ベム』が50年たっても古くならないのは、おそらく人類滅亡の日まで答えの出ない問題に果敢に挑戦しているからでしょうか。


蛇足
変身して醜い体になると思っている人が多いですが、醜い体が彼らの正体で、変身して人間の姿になっているんです。だってオープニングの生まれてすぐの彼らは醜い体だったじゃないですか。あれが正体です。もし人間の姿が正体ならなぜ「早く人間になりたい!」のか。もうなってるじゃん。







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2019年08月27日

山田太一さんの1979年作品『沿線地図』、昨日が最終回でした。

前回までの記事
①まるで自画像のような
②両親たちのウロウロ
③父親の落とし穴
④脚本家の苦心
⑤前面に出てきた笠智衆
⑥口紅はいらない
⑦仰天の笠智衆!


白紙の便箋
笠智衆の遺書は二枚の便箋で、二枚目はまったくの白紙でした。あの白紙の二枚目に何か意味があるのでは? と誤解しているかもしれない若い人のために一言書き記します。

あれはただの作法です。一枚だけをたたんで封筒に入れるとペラペラで頼りないので、一枚だけで足りても白紙をつけてしっかりした状態にするのです。だからあの白紙の二枚目にはそれ以上の意味はありません。


思わず笑ってしまう
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正直に言います。
物語が終わってエンディングクレジットが流れ始めた途端、笑ってしまいました。

え、これで終わっていいの? おじいさんの自殺は何だったの? 古い世代と新しい世代の「生き方」の違いを問うテーマはどうなったの? あの長い浮気話は何のためだったの? と。

先週のラスト、祖父役の笠智衆が自殺をしたという知らせが入り、一体どういうことか、そしてこの連続ドラマはどういうふうに収束するのかと思っていたら……

何てことはない。ただすべてが丸く収まって終わり。すべてが、というのは違うかもしれませんが、あれだけ激烈だった親子6人の葛藤はまるで何もなかったかのように終わってしまいました。

後半は笠智衆の自殺もまるでなかったかのような感じでしたよね。

「一か月後」となり、横浜支店長の辞令が下った児玉清の送別会のシーンになる。なぜ家族のドラマで会社の送別会が? しかもそこに広岡瞬が現れて真行寺君枝が堕ろしてない、堕ろしたと嘘をついて5か月になるのを待ち、それから児玉清に言おうと母さんが言ったと。それは河原崎長一郎と岸惠子も承知している、と。

完全に児玉清の視点から描くから視聴者もその情報を彼と同時に知りますが、「え?」となりますよね。いつの間にそんなふうに話が進んでるの? だいたい一番「堕ろせ」と言い出しそうな河原崎長一郎が賛成しているというのはご都合主義ではないのか。

堕ろすかどうかで議論するとき、岸惠子が児玉清に「おじいさんがなくなってご自分を責めていたときのあなたのほうがずっとよかったわよ!」となじりますが、無理やり葛藤を作っている感が否めませんでした。


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喉に好き刺さる「自殺」
私にとってフィクションにおける自殺の原体験は漱石の『こころ』です。高校生になるまでフィクションの自殺に遭遇したことなかったのかと言われそうですが、自殺の理由を深く考えたのはあれが初めてでした。

でも、当時は物語を読むという習慣がなかったので(マンガは読んでたけど)特に自分なりの考えはありませんでした。Kはお嬢さんを横取りした先生に当てつけの意味で死んだのだ、先生はそのことを後悔してKへの謝罪として死ぬのだ、それをわざわざ乃木大将の名前を出して明治の精神に殉じるなどと屁理屈をこねているだけだ、と。

いまだにKと先生の自殺の理由は議論の対象なのでしょう。フィクションにおける自殺の理由はわからないほうが面白いのです。だから笠智衆の遺書に理由が何も書かれていなかったのを見たとき、ホッとしました。何か書かれていて、それがもとで事態が収束したのでは少しも面白くない。

でも、はっきりわからなくても推理できる何かがあるんじゃないかとも思っていました。『こころ』も2回読むと、Kがあまりの求道者のためにお嬢さんに恋をした自分を罰したんじゃないか、とか思いましたし。

でも、この『沿線地図』を何回見直しても笠智衆の自殺の理由にいろいろ気がつくということはなさそうです。(昨日一度見たきりなのでわかりませんが)

老い先短い自分が死ぬことで事態が収束することを祈ったのか。でも、それはどちらかというと作者である山田太一さんの願いだったような気がします。

自分や息子の児玉清の生き方を否定され、いまの若者の価値観がわからない。かわいい孫が宇宙人にしか見えないことへの絶望か、とも思いますが、それぐらいで死ぬだろうか、とも思う。

人が自殺するのにはいろんな理由がある。それはわかります。私も死のうとしたことがあるので「人はひとつの理由だけでは死なない」と強く思います。

ということは、笠智衆にも複数の理由があったのか。

しかしそれは明示されない。明示はされないが、そういう理不尽に耐えながら生きるのが人生だよ、というのが山田太一さんのメッセージなのだろうか。

あの結末を見たいまとなっては、「口紅はいらない」というあの口紅で右往左往していたときのほうがよっぽど面白かったような気がする。

でも、とも思うのです。

自殺の理由がはっきりしないのはフィクションではよくあることですが、あの衝撃の自殺がまるでなかったかのような登場人物たちの溌溂としたラストには、何か喉に突き刺さるんですよね。

はっきり言って、昨日見たときは「この2か月は何だったんだ」と怒っていましたが、いまは「あれは何だったのだろう」と否定的な意味ではなく、妙に気になるのです。

前半の面白さに比べて後半が尻すぼみになってしまっただけの失敗作かもしれません。そっちの可能性のほうが高いのでしょうが、いまの私にとってこの『沿線地図』は「妙に気になる作品」です。

それはやはり、自殺の理由がはっきりしないからでしょう。もし私があのとき死んでいたら、家族や友人たちは「本当の理由」を探してウロウロしていたことでしょう。それを思うと、やはり駄作だと切って捨てることができません。

思い起こせばこのドラマは、私と同じように、若者たちが人生をわざと踏み外すところから始まりました。それが、まったく別の人物とはいえ、はっきりしない自殺で幕を閉じる。

後半はあまり自分の過去に思いをはせることはありませんでしたが、最後の最後で自分と向き合わねばならなくなりました。どこまでも自分の人生にリンクした作品でした。ここまで自分のことが描かれていると感じたのは太宰の『人間失格』をおいて他に思いつきません。





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