テレビ

2019年10月28日

MBSの映像’19『えん罪漂流記 ~元看護助手が失った16年~』をとても興味深く見ました。といっても批判的にね。番組では「検察が悪い」と主張していましたが、私はそうは思いません。というか、この番組スタッフは検察と同じ体質だと思いました。


事件の経緯
2003年5月に滋賀県近江市の病院である男性が死亡。人工呼吸器が外れており、警察はアラーム音が鳴ったのに看護師の誰も気づかず死なせてしまった業務上過失致死で捜査を始めました。

そこで参考人として聴取された西山美香さんが人工呼吸器を外したと「自白」をしてしまいます。優秀な兄を二人もち、自身は発達障害を抱えている。強烈なコンプレックスをもって生きてきたためにやさしい言葉に弱い。取り調べの若い刑事がそういう境涯に理解を示してくれたので西山さんは彼に恋をしてしまう。そして彼の望むとおりに「ストーリー」を作り上げてしまった。


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ここはどうしようもなく哀しいですね。発達障害の人は急な環境の変化にも弱いらしく、突然取り調べというストレス過多な状況に置かれたことも影響したであろうと医師の推測。

とはいえ、警察が自白を強要したわけではないし、逮捕前の自白。しかも業務上過失致死として捜査していたのに突然「殺人の自白」を得たためにその線で捜査するようになったのはごく普通の流れのように思います。

アラーム音を聞いた人がいないために二転三転する西山さんの証言に合うように、アラーム音を1分間だけ消すボタンの存在を無理やり探し出し、おそらく「それを押したんだろう」と誘導尋問的に問いただしたのでしょう。西山さんは気に入られたい一心で肯定してしまった。


検察の取り調べは?
よくわからないのは、検察の取り調べがどのようなものだったのか少しも伝えてくれないことですね。西山さんは警察には自分からウソの自白をし、裁判ではウソだったと主張したとはいうけれど、番組が「悪の本丸」だと断定する検察の取り調べがどういうものだったか、西山さんがそこで何をしゃべったかを少しも伝えてくれません。


検察が負けを認める
しかもですよ、放送直前の今月23日に、それまで「有罪立証をしてみせる」と息巻いていた検察がそれを断念する、さらに1回だけの公判で結審してほしいと弁護団に通知したそうで、今年度中にも大津地裁で開かれる再審で無罪確定することになったとか。よかった。

よかったけれど、検察が自ら非を認めたにもかかわらず、元東京地検特捜部の弁護士・若狭勝さんまで出して検察の非をあげつらうのは納得いかない。そりゃ放送日までに取材し直す時間がないのはわかります。でも、最終的に検察が自分から非を認めたのに番組全体の主張が「検察が悪い」というのはいかがなものか。


本当に悪いのは……
若狭さんが言っていたように、検察が当初は有罪立証すると息巻いていたのは「最高裁で確定した判決がころころ変わるようではいけないと考えている」のでしょう。でも、そのこと自体が悪いことだとは思えません。最終的に判決が変わることを容認したわけだし。

やっぱり、本当に悪いのは責任逃れのために「人工呼吸器が外れていた」と証言し、最終的に「外れていたかどうかわからない」とウソをつきとおした「A看護師」じゃないんですか? 1時間おきに痰吸入せねばならないのにそれを怠った。死亡を確認したあと人工呼吸器を外したのはどう考えてもAさんですよね? ならAさんに取材しないといけないのでは? 取材をお願いしてもたぶん拒絶されたんでしょうけど、Y刑事なる人物の取材拒否の場面は映すのにA看護師に拒否されたことは伝えない。


裁判所も
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それと裁判所も悪いですよね。

逮捕前と逮捕前日、そしてその後と、アラーム音に関する西山さんの供述がころころ変わっているのにそこに何の疑問も抱かなかった。

さらに、発達障害の西山さんは数をカウントすることが難しい。頭の中で60数えてアラーム音を消すボタンを押していたというのはかなり怪しいと簡単にわかるはず。

さらに、死んだ人のカリウム(でしたよね)の量が不自然で、自然死であることが濃厚。そういうことも裁判では証言があったはずなのに、自白だけを信用した罪は重い。


先入観と固定観念
A看護師と裁判官への取材がない、取材拒否の映像やナレーションすらないのは非常に不満です。

この番組は「冤罪事件ではいつでも検察が悪い」という先入観と固定観念に惑わされすぎていると思う。

それは西山さんのウソの自白に沿って「ストーリー」を捏造した警察と検察、さらにそれを信用した裁判所と何が違うというのでしょうか。

検察が負けを認めたのに「検察は判決がころころ変わることを嫌う」そういう体質が悪いという主旨の番組を放送する。放送日程が決まっているから。もともとそういう企画意図(ストーリー)だったから。

同じ穴のムジナじゃないですか。





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2019年10月27日

早くも今年の最終クールの連ドラが始まってもう1か月がたとうとしています。今回見始めたのは6本。

とはいえ、初回で見るのやめようと決意したのが半分の3本もあります。ちょっと率が悪すぎ。でも、あとの3本のうち2本はこの時点で最後まで見るだろうと確信できているから、まぁいいか。

では、見始めた順に簡単な感想など。


『リカ』
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初回はかなり面白かったです。「雨宮リカです。28歳です」の自己紹介に戦慄し、物語の運び方がほぼ完璧で間然するところがない。牟田桂子という脚本家さんは名前すら知りませんでしたが、これからこの人の書くものなら何でも見ようとさえ思ったほど。

プロットの運びは2話以降もうまいんですけど、主人公のあまりの悪辣さというか、どんどんただの「変な人」になってませんかね? 初回でうるさい師長を殺す場面など喝采を贈ってしまうほど悪役の主人公に感情移入していたんですが、だんだんそれができなくなってきています。

昨日の第一部最終話では、それまですべて自分で殺していたのが、別の人間を脅迫して殺させていました。ああしておけばその人が小池徹平を殺してくれるということなんでしょうが、あれは完全に「作者の都合」ですよね。だいぶ白けた。

ただ、27時間テレビで休みをはさみ、第二部からは大谷亮平のストーカーになるらしく、キャラクターが一新されるから最後まで見ますよ。第一部で唯一の生き残り、夏菜の出番はあるのでしょうか。気になります。


『同期のサクラ』
「高畑充希はいつも同じような役ばかり」と批判されているようです。私は彼女の出演作をほとんど見てないのでそのへんはわかりませんが、これも『リカ』同様、主人公がただの「変な人」なんですよね。

同じ遊川和彦さんの大ヒット作『家政婦のミタ』の主人公も変な人でしたが、あの底なしの暗さというか、なぜ笑顔を見せないのかという根底の設定に説得力があったので少しも変とは感じず、感情移入しまくりで見ていました。遊園地で子どもの分の食事も買って少しも食べずに帰る場面とか。

でもこの『同期のサクラ』はただ変な人が変なことをしているだけで少しも乗れません。社長の挨拶にあんなに食ってかかるなんてただのアホじゃないですか。


『俺の話は長い』
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小池栄子が出てるなら何でも見ると決めているので見始めただけですが、これが今クールの目玉ですね。

30分×2本立てというのはやや看板に偽りありという感じですが。一応、サブタイトルをつけているから話が分かれているようにも感じますが、ずっと同じひとつの話が続いているだけというのが本当では? クドカン『マンハッタン・ラブストーリー』や三谷幸喜『王様のレストラン』のように各回がぜんぜん違う話、違う主人公になっているわけじゃない。

ま、それはさておき、何よりニートの生田斗真に対して、全否定派の小池栄子と全擁護派の安田顕(この二人が夫婦というのがよろしい)、擁護派だけど心配している母親の原田美枝子、否定派だけど心の底では慕っている姪っ子の清原果耶。主人公の周りの人物配置が絶妙です。

どうも清原果耶ばかりが絶賛されているようですが……


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確かに昨日のこの場面の直後、「俺もハルミンのこと好きだったんだけど」と打ち明けられたときの顔の歪め方がとんでもなく素晴らしく、まだ17歳であんな芝居ができるなんて末恐ろしすぎる。(でも、かつてはああいう役を原田美枝子がやっていたんですよね。隔世の感)

でも、やっぱりこの作品世界を根底から支えているのはこの人ですよ!


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昨日の「だったらちゃんとしろよ! 30過ぎて親から金せびってんじゃねーよ!!」といって涙を隠せない芝居は本当に素晴らしかった。

生田斗真が小金を貯めているのは何のためなのか。また店をやるため? それではつまらない。この先の展開から目が離せません。

ところで、初回と二回目は中島悟という監督さんが撮っていて、魚眼レンズなどレンズワークが巧みでした。狭い室内をできるだけ広く見せようという演出意図が感じられてとてもよかったんですが、昨日の3回目は監督が変わったためにそういうカットがほとんどなくなってしまって残念でした。映画と違いテレビドラマで映像演出を楽しめるなんてあまりないのでね。


『おいしい給食』
武田玲奈が見たいというだけの理由で見始めましたが、ひどくつまらなかった。献立に関する蘊蓄をナレーションで語りながら給食を食べる。そこに何のドラマがあるというのでしょうか。かなりませた子どもが一人いて気になりますが、30分が異常に長いので見限りました。


『左ききのエレン』
池田エライザが見たいというだけの理由で見始めましたが、うーん、かわいいのはいいんですが、少しも「天才」に見えない。でも、物語そのものは悪くなさそうだし、どういう展開になるかまだ見えないのでとりあえず次は見ますよ。最後まで見れるかどうかわかりませんが。


『決してマネしないでください。』
NHK総合の土曜11時半というのは最近破竹の勢いの枠なのでとりあえず見てみたんですが、これも蘊蓄を語るばかりで少しもドラマになっていない。馬場ふみかのキャラはなかなか天然でよさげでしたが、これも30分が異常に長かったので見限ることに。


というわけで、『俺の話は長い』と『リカ』は最後まで見ることになりそうです。来週から始まる『歪んだ波紋』は生き残れるでしょうか。去年の『フェイクニュース』と同じテーマのようで期待してるんですがね。




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2019年10月26日

山田太一さんのエッセイ集『月日の残像』(新潮文庫)を読みました。


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脚本以外の山田太一さんの文章を読むのは実は初めてだったんですが、最初はだいぶ戸惑いました。

あんまり面白いと思えなかったんですよ。途中で読むのやめようかなと思ったくらいで。でも、山田太一アディクトとしてはそれは不遜だと思い直し、最後まで読んだんですが、これが正解でした。

小林秀雄賞受賞とあるんですが、批評じゃなくてエッセイだし何で? と思ってたんですが、「消えた先の夢」と題された章を読んで大納得しました。


向田邦子への反発と共感
山田さんは生前の向田邦子さんと話をしていると、向田さんが「私、すんだ脚本はどんどん捨てちゃうの」というので、「それはどうかなぁ」とかすかな反発を覚えたそうな。

ただ、その頃はまだテレビ草創期で、ビデオがなかったからすべて生放送。前のシーンで会社で上司に怒られていたサラリーマンが次のシーンでは自宅で風呂上がりのシーンとかだと、上司の小言をできるだけ長くして、その間に俳優とスタッフが隣のセットに移り、着替えや湯上がりの雰囲気を出すためのセッティングをする。

そういう大急ぎの作業を毎日のようにやってるから、みんながみんな「終わったら次」という感じで撮影済みの台本をゴミ箱に捨てる場面を山田さんは何度も目撃したそうです。ビデオが発明されてもとても高価だったから再放送を1回したら新しい作品のために上から録画して使っていたとか。しかも20回から30回。そんなに繰り返し使ったら画質がかなり落ちてしまうと思うけど、それほど高価だったということなんでしょう。

「作品が消える」という事情は現在も同じだそうで、DVDで残るとはいっても、小説が本として残るのと同じようなもので、自分の作品が世から消えていく儚さを感じない作家はいないのではないか、向田さんの言葉はすぐに消えていく自分の仕事に対して先手を打つようなものだったのではないか、と山田さんは述懐します。


『七人の刑事』
一転して、ある日届いた不思議な本の話になります。それは往年の名作ドラマ『七人の刑事』に関するもので、羊崎文移(ようざきふみい)という人の『「七人の刑事」を探して 1961-1998』という本。

『七人の刑事』はタイトルは知ってるけど、1961年から1969年までの放送で、しかも前述のとおりビデオのない時代、または何度も使い回す時代だから、382回も続いたシリーズなのに残っているのはただ1作のみ。当然私は見たことがない。

著者の羊崎という人は、どこかに眠っているはずだと探し回るけれどもほとんど成果がない。そうやって「ここ5年で20年分の人生を費やしたような気分だ」とまでいうほど骨身を削って書いた本が山田さんのもとに届いた。

そして読んで驚いた。こんなものを誰が読むのかと。

脚本家や演出家、俳優へのインタビューなど普通に読めるところは80ページほどで、残りの360ページあまりが単なる「リスト」なんだそうです。

孫引きになりますがそのまま引用すると、

『木枯の通る街』昭和三十六年十二月六日放送。脚本・光畑碩郎、演出・蟻川茂男、出演・津村悠子、檜敦子、久保賢、他。
『幻の女』昭和三十七年三月十四日放送。脚本・津田幸夫、演出・西村邦房。
(内容)一杯機嫌で行きずりの女と外泊した気の弱いサラリーマンをめぐって事件が起きる……。


すべてこんな調子で俳優の名前があったりなかったり、(内容)もあったりなかったり。こんな代物をいったい誰が読むのかと。私も同じことを思いました。


批評家としての山田太一
でも、ここからが山田さんの真骨頂です。

これは羊崎という人の「詩」なんじゃないかと山田さんは言います。限られた人だけが享受できる詩なのだと。

膨大な名前のリストから記憶、空想、感情が湧きおこるだろうし、何よりところどころの「欠落」こそが詩なんじゃないかと。

「羊崎さんはこのドラマの映像があちこちで発見されDVDで全作誰でも見られることを願っている一方で、実はそんな日の来ることを怖れてもいるのではないだろうか。この膨大な欠落こそ詩であり、そこから作品を想像する愉しさに比べれば、全作そろったときの喜びは、何かむき出しで余情に欠けるということはないだろうか」

うーん、深い。忘れていた大切な何かを取り戻させてくれる言葉ではありませんか。

例えば、私はバッド・ベティカーは見てないもののほうが圧倒的に多いし「全部見れたらいいな」といつも思っている。でも、あの映画はこんな感じなのかな、あれはこういう映画なのかな、という想像を実際に見たときの感動が超えたことはあまりない。

見たいと切望する時間が長くなればなるほど、脳内映画のほうが圧倒的に面白くなってしまっている。自分の頭の中の「詩」が、映画本体の詩情に勝ってしまう。


じんのひろあきの座右の銘
脚本家のじんのひろあきさんの座右の銘は「人生はいつでも文化祭前夜!」だそうな。

その真意はおそらく「いつでも文化祭前夜のような緊張感をもって努力に勤しもう、そして翌日の本番を夢想して楽しもう」ということなんでしょう。永遠に前夜の酔いの中に眠っていたい、というのは、先日感想を書いた梅崎春生の書名を借りて「怠惰の美徳」と呼んでみたい気もする。しかし、文化祭というものもドラマや映画と同じく当日を迎えたら「すぐに消えてしまう」ものだと考えれば別の感慨が湧いてきませんか?

実際に文化祭当日を迎えたら作ったり準備したもののすべてがすぐに消えてしまう。向田邦子が消える仕事の先手を打って終わった台本をすぐ捨てるといううのとは逆に、すぐに消えてしまうようなものは絶対に作らないぞ、という決意表明のように感じられてくる。ずっと残るものだけを作るのだ、でもそれは絶対にかなわない、という創作者の悲哀を帯びてもくる。

まぁ、じんのさんはたぶんそんなこと考えてないと思うけど、そういうことを考えさせてくれる力が山田太一さんの「消えた先の夢」という文章には漲っています。

『「七人の刑事」を探して 1961-1998』というほとんどの人間に価値のない本を読んで、そこに意外な「詩」を読み取った山田太一さんはやはり一流の批評家だと思います。







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