テレビ

2020年07月18日

石原さとみ主演の木曜ドラマ『アンサング・シンデレラ 病院薬剤師の処方箋』の第1話、なかなかよかった。

何しろあの隠れた名作『ようこそ、わが家へ』の黒岩勉さんが脚本を書いているので、内容自体はたいしたものではないけれど、構成がしっかりしているというか、このシーンの次はこれしかないという直線的な脚本構成にしびれました。

とはいえ、第1話を見るかぎりでは一番面白いのは、真矢ミキ演じる薬剤部部長の軽さですね。


真矢ミキ
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あの軽さは、おそらくですが、昔はスパルタで新人教育していたけど、時代が変わり、ちょっと言っただけでパワハラと言われてしまう、だから新人や部下との距離の取り方がわからなくなっていることから来ているのではないか。真矢ミキの小芝居がとても楽しい。


主人公を襲う理不尽
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「感謝されたいんなら薬剤師には向いてないかもね」

と石原さとみは新人の西野七瀬に言います。この『アンサング・シンデレラ』は医師ばかりが感謝される業界で決して日の目を見ない存在でありながら、医師よりも患者のことを考える薬剤師が主人公。感謝されないどころか、患者のことを考えるあまり処罰されそうになるなど、主人公を襲う暴力的な理不尽さは充分で、これからの展開が楽しみですが、私はお話には満足だけど演出にちょいと不満があります。


シャッター
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薬剤部ではこのように緑色の服を着たエキストラが何人も主要俳優の前や後ろを通ります。薬剤を運ぶ人たちですかね。

彼らは「シャッター」と呼ばれる役割をもっています。主役の前を通って消えたかと思うとまた逆から通ったりするからそう呼ぶんですが、私はこのシャッターの数をもっと増やしたほうがいいように思いました。

そりゃ、実際の病院薬剤部ではあの程度の運び屋しかいないのかもしれませんが、桜井ユキが言うように猫の手も借りたいほど忙しい部署なので、その慌ただしさを表現するためには、ウソとしか思えないほどの、画面を埋め尽くしかねないほどのシャッターを使ったほうがよかったんじゃないでしょうか。



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これはオフショットですが、1話のクライマックスは、ゲストの女の子同士の別れが描かれました。

桜が散るなかでの別れなんですが、ここでも桜の花びらの量が足りないと思いましたね。もっと大量に散らせるべきだと思う。それこそ画面を埋め尽くしかねないほどに。

あざといぐらいの手法で見せるべきシーンだったと思うだけに残念。

とはいえ……


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クライマックス前のこのシーンは何とも言えない味わいがあってよかったですよね。(何かさっき感想を書いた『のぼる小寺さん』に似たシーンですけど)

でも、あくまで私は真矢ミキを目当てに来週以降を楽しみにしますがね。











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2020年07月12日

『逃げるは恥だが役に立つ ムズキュン特別編』もついに今日が最終回でした。


前回までの記事
逃げ恥の経済学①贈与と返礼(給料前払いとよけいな家事労働)
逃げ恥の経済学②炊き込みご飯とぶどう(藤井隆の役割)
逃げ恥の神話学①星野源を救い出すヒーロー・新垣結衣
逃げ恥の経済学③と神話学②カラダを贈与するガッキーと返礼しない星野源


恋愛劇に経済観念をもちこんだのが斬新だった『逃げ恥』ですが、最初の記事の冒頭で書いたように、私は初放送時、最終回に違和感を覚えてしまったんですよね。みんなが絶賛するようには面白いと思えなかった。

でも今回はめっちゃ面白かった。

その原因は、以前は「経済」にしか目が向いていなかったのに対し、今回は「神話」の面がちゃんと見えていたということでしょうか。比較神話学を援用してシナリオを書いていたくせにこの体たらく。。。

それはさておき、最高だった第10話と最終話の感想を述べましょう。


経済学(搾取のない結婚などありえない)
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第9話のラストで、お互いがお互いを好きだという気持ちを確認し、一夜を共にします。

そして、二人が本当の夫婦でないと知った古田新太がリストラ対象者として星野源をリストアップするところで幕を閉じました。

第9話では、優秀なシステムエンジニアである星野源は再就職先には事欠かないまでも、どうしても収入減は避けられない。そこで本当は家事労働者である新垣結衣を法律上の妻として迎え入れる、つまり、入籍しましょう、とプロポーズするわけですが、それは「好きの搾取です」とガッキーは逃げてしまう。

初放送時、私はここにまず違和感をもちました。なぜなら「資本主義に搾取はつきもの」だからです。

ある労働者の労働力を金銭に換算した額をAとします。彼に支払われる賃金をBとします。すると、必然的にA>Bとなります。A=Bとはなりません。もしそうなれば雇用主の食い扶持がなくなるし、新たな設備投資などもできなくなります。AとBをイコールで結びつけたければ、

A=B+C

とならざるをえません。このCが労働者が搾取される金額です。Cがない以上資本主義は成り立ちません。だから、結婚を経済活動ととらえる『逃げ恥』的世界観でいえば、「搾取のない結婚生活などありえない」ということになります。

逃げ恥の経済学①贈与と返礼(給料前払いとよけいな家事労働)の記事で書いたように、このブログのシリーズの文脈に照らし合わせれば、Cというのはおそらく「贈与」です。

労働者は資本家に「搾取」されているのではなく、あらかじめ贈与している。それに対して資本家は賃金という名の「返礼」をしている。

資本主義を資本家による搾取としてではなく、労働者の贈与から始まる健全な経済活動と捉える、というのがこの『逃げ恥』独自の哲学だと今回初めてわかりました。

以前の稿を読んでいただければわかりますが、ガッキーと星野源はずっと贈与と返礼を繰り返してきました。返礼ができずにクライシスに陥ったときもあった。でも、基本的にこのカップルは原始時代の沈黙交易のように、純粋な想いが根底にある。

その純粋さを星野源は汚してしまった。汚れちまったガッキーは逃げるのが筋です。ここに違和感をもってしまった私が間違っていたわけです。


経済学(青空市)
ガッキーは真野恵里菜からの頼みもあって、地域の商店街の青空市を提案し、その手配をすることになります。

これはもう完全に「贈与」ですよね。「私がやりますよ」という贈与(=供給)。その贈与に対して最低賃金という名の「返礼」が行われるんですが、ガッキーにはそれが物足りない。

「給料払ってるんだからやって当たり前だろ」などと言われてはムカつくのも当たり前。そんなことを言う人間はきちんと「返礼」していないことになります。

ガッキーは「愛情」という言葉で表現しますが、要は気持ちですね。「対価を払ってるんだから働くのは当たり前」。それでは経済は立ち行かない。

給料払ってるんだから働け。
働いてるんだから給料よこせ。

そんな殺伐とした職場で働きたい人間はいないでしょう。でもいまの日本ではこういう考え方が横行しているような気もする。(だからこそ、アンチテーゼとしてこの『逃げ恥』という物語が語られる必要があったのでは?)

そして、「会社も夫婦も同じ」というのがこの『逃げ恥』の独創です。

とはいうものの、それまで賃金がもらえていたのに結婚した途端、同じ労働をしているのに無給になる。それはいや。気持ちはわかる。

でも、恋愛とか結婚をそういうふうに捉えること自体がどうなんだろう、と思うのもまた事実。


『アンナ・カレーニナ』
話はガラッと変わって、この『逃げ恥』は途中からトルストイの『アンナ・カレーニナ』のように、二組のカップルを対比させて描くことでメインプロットを深める話型をとっています。(この世のラブストーリーの大半は『ロミオとジュリエット』か『アンナ・カレーニナ』のパクリです)

初見時は石田ゆり子と大谷亮平の恋愛劇がガッキー&星野源のカップルにどう関わってくるのかまったく見えていませんでした。


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大谷亮平に猛アタックする内田理央は、もう49歳の石田ゆり子の年齢をあげつらって攻撃しますが、我らが石田ゆり子はこんな痛快な返しをします。

「あなたがいま否定したものに、これからあなた自身がなるのよ。自分の未来がなりたくないものだなんて悲しくない? そんな呪いからはいますぐ逃げてしまいなさい」

ガッキーは家事労働とタウン誌のライター職と青空市の世話役の三足の草鞋に疲れはて、

「家事はそれぞれが勝手にやればいいんじゃないですか。だから私が食事作らなくても掃除しなくても文句言わないでください」

と風呂場に閉じこもってしまいます。


神話学(ヒーロー⇔アンチヒーロー)
このときのガッキーは完全にダークサイドに堕ちてしまっています。かつては星野源がダークサイドに堕ちたアンチヒーローだったのに、いまはガッキーのほうがアンチヒーロー。

だから今度は星野源がヒーローとしてガッキーを救い出してやらねばならない。

彼は風呂場の扉を介してやさしい言葉をかけます。ガッキーの心は開きかけますが、まだ完全ではない。

それが青空市本番の日……


呪い
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第1話から自分のことを「小賢しい」と言っていたガッキーに対し、星野源は当たり前のように言います。

「小賢しいって上から目線ですよね。僕は一度もみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったことありません」

ガッキーの自虐的な「小賢しい」はまさに石田ゆり子の言う「呪い」だった。星野源の「俺はプロの独身」というのも「呪い」だった。

呪いから完全に解き放たれたガッキーは素直な気持ちで「大好き!」と言います。あの新垣結衣の笑顔の何とかわいらしいこと。

そしてサブプロットがメインプロットに絡んできた瞬間の何と気持ちのいいこと。


神話学(共同ヒーロー)
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ダーツゲームを借りて二人の行く末をあれやこれやと描いてましたが、二人はこれから何があっても「共同ヒーロー」でいればいいと思う。共同経営者ではなく。

生活していればいずれどちらかがアンチヒーローとして転落する。そしたらもう一人が救い出せばいい。二人ともがアンチヒーローにならないよう気をつけていればいい。

もしかすると、アンチヒーローに転落すること自体が「贈与」なのかもしれない、という気もしてきました。

資本家による搾取を悪として捉えず、労働者からの贈与だと捉えるように、ダークサイドに堕ちることも相手への「贈与」と捉えてみる。

自分が転落することで、もう一人が「ヒーロー」として屹立する場を贈与している。贈与された者は二人の仲をより強固にするという「返礼」をする。それを何度も繰り返して本当の「夫婦」になる。

経済と神話。

二つのまったく違う側面から見てきたこの『逃げ恥』ですが、意外なことに二つが密接に絡まっていたのでした。このからくりに気づけなかった初見時の自分を恥じます。







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2020年07月11日

WOWOW製作、岡田惠和さんの脚本によるリモート撮影ドラマ『2020年五月の恋』を見たんですが、うーん、やっぱり私はこういうのは面白いと思えません。(以下ネタバレあります)


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別れた夫婦の夫(「元夫」と書いて「もとお」という名前なのは笑いましたが)のほうが間違いなのかそれともわざとなのか、元妻に電話をかけてしまったことから二人のあれやこれやが始まるんですが、やっぱり最初から最後まで画像のように二人が分割画面でしか登場しないというのは致命的じゃないでしょうか。

これはテレビドラマであって映画ではないけど、

「映画とはつまるところ、人と人が出逢うことである」

という蓮實重彦の言葉があります。テレビドラマだって映像作品なのだから同じでしょう。

もともと出逢っていた二人がいまは電話で声だけをやり取りしている。吉田羊の芝居が絶妙で、泣きの芝居などグッとくるシーンもあるにはあるんですけど、どうしても二人が直接出逢わない、触れ合わない、触れ合いたいけど触れ合えない、などの微妙な心理の綾を表現するには声のやり取りだけでは無理があります。

ラスト、どうやって幕を閉じるのかと思ったら、救急車の音が近づいてきて、二人とも同じ音を聞いている。もしや! と思ってベランダへ飛び出すと、向かいのマンションなのか、隣なのか上か下かわかりませんが、二人は意外に近いところに住んでいたことが判明して終幕。

うーん。。。


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結局、最後まで二人はこういう感じですよね。心理的にはかなり近寄ったし、作品世界内では物理的にも近いことがわかるんですが、映像的にはそっぽを向いたまま。どうしてもフレーム外の「出逢い」をそのまま映してしまうと「リモート撮影」ということにならない。

この二人はもともと出逢っている仲ですが、映画史では、まったく出逢っていなかった二人が最後で出逢う作品があります。

『街角(桃色の店)』『ダイ・ハード』『(ハル)』など。

『2020年五月の恋』における二人は最後に物語の「意味」的には出逢う(再会する)ことになるんですが、結局それが物理的に描かれないことに憾みが残ります。

蓮實重彦の講義を受けた黒沢清監督は、ある映画を見てくるように言われ、次の週に「何が見えましたか?」という、見えたものだけを答えなければ叱責される講義に一番衝撃を受けたそうです。

『2020年五月の恋』で、作中人物二人の出逢いが「見えた」でしょうか? 

もうリモートとかそういうことにこだわらずに、二人が抱き合うところまで撮っちゃったらよかったのでは? というのが偽らざる正直な感想です。


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『リモ止め』などリモート撮影作品を見て思ったこと







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