T-レックスの歌声にのせた予告編を見て、見る気満々だった『LETO -レト-』を見てきました。が、これが残念ながらがっかり拍子抜けでした。


『LETO ‐レト‐』(2018、ロシア・フランス)
脚本:ミハイル・イドフ、イリー・イドバ&キリル・セレブレニコフ
監督:キリル・セレブレニコフ
出演:ユ・テオ、イリーナ・スタルシェンバウム、ローマ・ズベール



視覚的・聴覚的には……
LETO2 (1)

舞台は1980年代前半、つまり東西冷戦時代のレニングラード。国から禁止されている西側の音楽=ロックをこよなく愛し、アンダーグラウンドの世界で演奏をし、アルバムを売買している世界。

最近は映画の感想を書くたびに同じことばかり言ってますが、意味のない手持ちカメラには辟易しましたが、基本的に白黒が好きなので視覚的には楽しめましたね。逆光の捉え方もうまいし、編集のリズムもいい。それに何よりナターシャというヒロインを演じる女優さんがかわいいので最後まで見れました。

音楽も、一番フィーチャーされたのがイギー・ポップの『パッセンジャー』ということで、イギー好きにはたまらなかった。

しかし……


なぜいま「80年代」なのか
いまロシアではプーチンが独裁政治を敷いていて、監督自身も軟禁状態らしく、大衆は自由を奪われている。そこで、同じように自由を奪われていたソ連時代に想いを託したのでしょう。それはわかります。(ロシア以外でもアメリカのトランプや中国の習近平など、ならず者が大国の指揮を執っている時代だからこそ、ということなのでしょう)

1917年のロシア革命で皇帝を処刑し、自由を獲得した。が、スターリンの台頭で全体主義がソ連全土を覆い尽くし、体制側の思想に染まらないはみ出し者は「粛清」された。自由を求めて革命を起こしたはずが、もっと不自由になり、圧政に苦しむことになった。

というのが、ソビエト社会主義共和国連邦の鬱屈だったはずですが、この『LETO -レト-』に登場する若者たちは、そのような鬱屈とは無縁のようです。愛する音楽を禁止する自国への恨みだったり、そういう国に生まれたことへのやりきれなさとか、そんなことをおくびにも出さない。

でも、それが一見不自然に見えないのも事実。しかしながら、不自然に見えない一番の理由は「政治権力が介入してこない」からですよね。

彼らのライブは当局が統制しているみたいな描き方をしていましたが、実際にはそうだったんでしょうけど、会場に警察が踏み込んできて逮捕されたりしてもよかったのでは? 史実を基にしているといっても半分くらいは脚色していると最後にテロップで出たし、実際に逮捕されなくても逮捕されそうになったり、逮捕されたけど脱獄するとか、それぐらいのことは見せてほしかった。


大きな物語=東西冷戦
LETO3

マイクというバンドリーダーとナターシャの二人に、ヴィクトルというアジア系(?)の若者が介入してきて……という恋愛模様は面白かったけど、やっぱりロックを題材にするからには「恋と政治と革命」じゃないといけないのでは?

前景で描かれる物語が「ロックを愛する若者たちのウロウロ」なのはいいけれど、後景には東西冷戦という「大きな物語」があるはずなのに、少しもそれが感じられない。冒頭で「80年代前半のレニングラード」というテロップが出なかったらいつの時代かわからなかった。

逮捕されたりするのはさすがにやりすぎかもですが、彼らが少しも政治的発言をしないのはなぜなんだろう? 政治のせいで当局の監視下でないとライブができないわけでしょう?

彼らを大きく支配しているのは後景の大きな物語なのだから、それと前景との関わりを少しも描かないというのは大いに不満でした。

もしかして……

「音楽に政治をもちこむな」
「映画に政治をもちこむな」

ということなんでしょうか。

そういえば、当ブログの読者さんにも映画の感想しか読まない人がいます。テレビドラマの感想しか読まない人もいるし、社会批評にカテゴライズしたものしか読まない人もいる。

こういうのは日本だけの現象かと思ってましたが、ヨーロッパでも「タコ壺化」が進んでいるのかしらん? 

などと思った梅雨明け直後の夕暮れでした。



Leto (Official Soundtrack)
Первое Музыкальное Издательство
2018-08-24


このエントリーをはてなブックマークに追加