手越祐也が無期限活動自粛という処分を下されました。

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自粛期間中に一度ならず二度、三度と酒席を設けていたのが理由だそうで、そりゃできるだけ三密を回避しなくちゃいけないときに軽率すぎるという非難は的を射ているでしょうが、そこまで叩かれないといけないこととは到底思えないんですよね。

社会学者の古市憲寿は、検察庁法改正で危うく定年延長されそうだった黒川某の賭け麻雀のほうがよっぽどヤバい案件であって、手越の件はそこまでバッシングする必要があるのかとまっとうな意見を述べていました。


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山田孝之も活動自粛までは追い込まれてはいないけれど、祖母のいる沖縄に家族で旅行に行っていて非難されましたよね。

先週のワイドナショーで中尾明慶が「高齢の人がいるからこそ行っちゃダメだと思うんですよ。感染させちゃうかもしれないわけだし」と言っていましたが、これも至極まっとうな意見だと思う反面、本当にそうか? と思ってしまったのも事実。

だって、「こういうときだからこそ」会いたかった可能性もあるじゃないですか。山田孝之が会いに行かなくても近隣の誰かから移されて死んでしまうリスクは充分ある。そしてもし感染して死んだらもう二度と対面できないんです。死に顔にも会えないんですよ。その前に会っておきたかったという可能性はある。

私たちは、志村けんが死んだときのニュースにもっと驚き、憤るべきではなかったか。


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死体からも感染する可能性がある。だから対面させない。それは至極まっとうな対処の仕方に見えるけれども、実は至極非人間的な対処ですよね。死に顔にさえ会わせないんだから。まるで戦争で死んだ息子が骨になって帰ってきたみたい。志村けんのお兄さんも、岡江久美子の旦那・大和田獏も同じような苦言を呈していました。それってどうなの、と。

ちょうど一週間前、BS1スペシャルで「コロナ新時代への提言 ~変容する人間・社会・倫理~」(6月3日深夜に再放送予定)という番組が放送されました。


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左から哲学者の國分功一郎さん、霊長類学者で京大総長の山極寿一さん、歴史学者の飯島渉さん。

一番印象的だったのは『中動態の世界』のインパクトがいまだに強烈な國分功一郎さんの言葉でした。

イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンが、次のようなことを言ったというんですね。

「生き延びることだけが唯一絶対の正義という社会とはいかがなものだろうか。死者は遺族にも会えず葬儀もしてもらえない。これは『死者の権利』の蹂躙である」

この発言はヨーロッパ中で大炎上したそうです。感染を広げないためには当たり前のことではないか、と。

でも、疫学的には当たり前のことであっても、もう一度そこを疑ってみようよ、というのがアガンベンの主張らしく、國分さんも100%アガンベンの主張に同意しているわけではないみたいですが、「哲学者とは人々にとってのアブのような煙たがられる存在のこと」というソクラテスの言葉を引き合いに出し、いまこういう炎上発言をするアガンベンは本物の哲学者と言っていいだろうということでした。傾聴に値します。

感染を広げないことはいま何よりも重要かもしれない。でも、「それだけが重要」になってはいけないと強く思います。

疫学的なものの見方だけがすべてではない、というのはいま構想中の小説にも活かせそうです。感謝。






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