関西では先週から始まった『初めて恋をした日に読む話』の再放送。今日は第4話、第5話でした。

前回、第3話までの感想は↓こちら↓
感想①神話的世界観がすべてを救う


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檀ふみと鶴見慎吾が出てこない
さて、前回の記事では、深田恭子がヒーロー(問題を解決する者)でもあり、同時にアンチヒーロー(問題を誘発する者)でもある構造がこのドラマの要諦だみたいなことを書きました。

が、この構造をもっと深めるとか、この構造を礎に大きな展開を目指すとか、そういう凡百な手を作者である吉澤智子さんは取りません。これはすごいことです。

何しろ、この作品を神話として見た場合、最も大事なのは深田恭子から青春を奪った檀ふみですよね。そして、いま深田恭子が横浜流星を東大に合格させることで新たな檀ふみになってしまうかもしれない。そんな危うさを秘めたところが面白かったのですが、今回、その檀ふみはほとんど出てきません。横浜流星にとっての敵役である父親の鶴見辰吾も出てきません。

横浜流星の鶴見辰吾を見返してやりたいという気持ちが物語を駆動していたはずなのに、これはどういうことでしょう?


「塾講師」というコード
私の恩師のある脚本家は、記号学をシナリオ作法にもちこんだ稀有な方で、「コード」という考え方で人物を造形し、人物関係を構築していくという手法を教えられました。

アニメ『赤毛のアン』の第1話で、アンが駅で待っているとおじいさんが迎えに来る。でも男の子だと思っているからアンが目に入らない。アンのほうは迎えが来ないから不安になる。そのとき確か駅長に相談するんですよね。すると駅長は「わしゃ知らんよ」というすげない態度で引っ込んでしまう。

「こういう描写が初心者にはできない」

と講師は厳しくおっしゃいました。

初心者はとかく脇役をすべて主人公にとって都合のいい人物に描きがち。駅長には駅長というコードがあって、つまり駅長としての職務をまっとうしなくてはいけない。一人の見知らぬ女の子の世話など職務を遂行するうえで邪魔でしかない。だから駅長がアンを手助けしてやるという描写をするのは間違い。すげない態度をとるのが正しい作法だと。

さて、今回の『はじ恋』では、

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こんなことになったり、


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こんなことにもなりましたが、深田恭子はまったく相手の気持ちに気づかない。

それを、

「現代文に解答者の主観的な感想などいらない。作者の意図だけを汲むのが大事」

と教えながら、相手の気持ちをまったく汲めていない主人公の可笑しみと哀しみが描出されるところが非常にドラマティックですが、私はそこよりも、深田恭子の「塾講師」としてのコードの描出を徹底したところに注目しました。


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こんなことになっても「塾講師だから生徒と変な関係になってはいけない」と相手の気持ちを汲むことをおそらく無意識に封じ込め、自分の「青春を取り戻したい」という強い欲求さえ封じ込めてしまう。

挙げ句の果てには、横浜流星が「勉強して大人になったら、先生みたいな大人になりたい」と言われると、さすがに気づくのかと思ったら「塾講師になりたいの?」

爆笑。4話5話は徹底して深田恭子を塾講師というコードの奴隷として戯画化することに腐心していたのが素晴らしい。

3話までで強固な世界観を築いておきながら、次はあえてそこを外して主人公の天然ボケぶりを徹底して描く。こういうのはなかなかできないことです。2時間の映画ではなく連続10話のテレビドラマだからこそできる芸当でしょうか。


「青春」とは何か
4話では塾の強化合宿が描かれましたが、最初に横浜流星を見下す嫌味な連中が出てきました。深田恭子先生は彼らにこんなことを言います。

「一生懸命勉強して、頑張って、頑張って、それで人を見下す人間になってしまったらいったい何のために勉強してきたのってなっちゃう」

深田恭子は「負け犬」という設定だけれど、それでも東大を受験できるほどの秀才ではあったわけで、彼らのようになってもおかしくない素地はあったはず。でもそうはなっていない。教え子の喜びを自分のことのように喜び、彼の悲しみを自分のことのように悲しむことができる。

偏差値で争う場合、自分の偏差値を上げるのもひとつの手ですが、他人の偏差値を下げても同じように自分の成績は上がる。でも、おそらく彼女は友人の偏差値が上がっても一緒に喜ぶような高校生だったんでしょうね。

横浜流星はだから「あんたみたいな大人になりたい」と言ったんでしょうが、ここで大きな問題が出てきました。

深田恭子は横浜流星の学力を上げて東大合格を勝ち取ることが最終目標です。が、その達成のために彼の青春を奪って母親・檀ふみと同じになってしまう可能性を秘めていた。

でも、いまや彼女は学力向上をもたらしただけでなく、人として成長させることにも成功した。横浜流星には彼女が考えるようなきらびやかな青春はない。でも、ある人との出逢いによってそれまでとは違うまっとうな人間になれたなら、なれる可能性を勝ち取れたなら、きらびやかな青春なんかなくてもいいんじゃないかという気もする。

いや、そういうまっとうな人との出逢いこそが「青春」なんじゃないか。

このドラマはそういうことを言おうとしているのか、どうか。


本当の「ヒーロー」?
3話までが神話的世界観の構築。4話5話で主人公を縛るコードの描出。ということは、後半は、逆に横浜流星が深田恭子のコードを解いてやるという転回になるのか。ならば深田恭子がヒーローなのではなく、横浜流星が本当のヒーローなのか。

おそらく来週の6話がミッドポイント。楽しみです。







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