敬愛してやまない業田良家先生の最新刊『機械仕掛けの愛』第6巻。
このシリーズは、1話完結形式で「人間の心とロボットの機能は同じではないのか」「人間の心よりもロボットのほうが機能に従順なぶん純粋ではないのか」というテーゼを打ち出していくのが素晴らしいところ。
人間の眼底ばかり覗いていた医療用ロボットが初めて外界に連れ出され、海を見、山を見、この世の美しさを初めて見ることで、なぜ患者たちが目が治るとあんなに喜んでいたかを知る「眼科医ルック先生」も素晴らしかったし、『マトリックス』のような世界を描いた「バーチャル・プリズン」も面白かった。「焚書工場」は『華氏451』の完全パクリじゃないかとは思ったけれど。
それはそれとして、私が一番胸を打たれたのは「宇宙の片すみ清掃社」ですね。
「宇宙の片すみ清掃社」
掃除用ロボットのタスクが、いまは亡きご主人様の墓を丹念に掃除する場面から始まるこの物語の要諦は、タスクがご主人様から聞いた「掃除の心得」。それは……
家の前を掃除していたご主人様が、隣の家の前も掃除をしているのを見たタスクが、
「掃除は我が家の前だけでよろしいのでは?」
と問いかけたところ、
「いいの。宇宙をきれいにしてると思ってるから」
との返答。
「ここはこの町のほんの片すみ。そして日本の片すみ。そして地球の片すみ。広大な宇宙の片すみ。でも、どんなに片すみだろうとこの宇宙を掃除してきれいにしているのに変わりはない。私のひと掃きが宇宙をきれいにしている。そう考えたら楽しくなる。ねえ、この考え、ステキと思わない?」
「スケール」とは……
私は年明けから職場で配置換えがあって、それ自体はいいものの、元の部署といまの部署とを行ったり来たりで疲弊して倒れてしまいました。「なぜ俺だけがこんな苦労をしないといけないのか」と。
でも、そんな恨み言はもうやめようと思います。私の仕事は清掃ではないけれど、確かに社会に貢献する仕事ではある。ほんの少しだけど。
だからタスクのご主人様が言うように「自分のちょっとした仕事が地域社会に、ひいては宇宙に貢献している」という大きなスケールで物事を考えないといけないと思い知らされました。
歴史的名著『映像の発見』の松本俊夫監督は、
「スケールとは、予算の規模や物語の舞台の大きさのことを言うのではなく、時代や社会を見つめる『目』の問題である」
と言っていました。大事なことをすぐ忘れるのが私の悪い癖。隣の人より自分が不遇だとか、そんなことに拘泥せず、宇宙に貢献しているという大きなスケールで考えないといけない。それは、話は変わるけれど、食事するときに「地球の裏側では今日食べるものがなくて餓死する子どもがいる」ということを頭の片隅に入れておくということでもあります。
業田良家先生の転回
しかし、ちょっと待ってよ。この『機械仕掛けの愛』の面白さは人間とロボットの何が違うのか、人間よりロボットのほうがよっぽど人間的だというところが面白いんじゃなかったの?
という声が聞こえてきそうですが……はい、その通りです。
私はこの第6巻でそのような面白さには出逢うことができませんでした。むしろ、ただの機械でしかなかったロボットが、人間の真心に触れて変容する様が描かれています。業田良家先生はシフトチェンジを目論んでいるのでしょうか。
人間の目をロボットは獲得できるのか
ただ、この「宇宙の片すみ清掃社」で、次に印象に残っているのは、先述のご主人様の素敵な言葉を聞いたタスクが「はい、同意します」と言う場面。
ご主人様は「あら、タスク、あなた笑うのね」と言う。タスクは「いえ、笑う機能はついてないはずです」と返す。
でも、確かに「はい、同意します」と言ったときのタスクの目は輝いているように見える。
この目、描くの大変だったろうと思います。本当にキラキラ輝いているのではなく「何となく輝いているように見える」ように描かねばならない。業田良家先生はストーリーテラーとしてずば抜けているだけでなく、やはり絵もうまい。(当たり前ですけど)
ここで大きな問題は、人間の目には前後の文脈によって同じ目でも輝いているように見えたり、笑っているように見えたり、怒っているように見えたりする、ということです。
それは人間の「心」が生み出す技。心と機能に何の違いがあるのかと問いかけてきたこの『機械仕掛けの愛』シリーズですが、ロボットの目も人間のそれと同じように、同じものが違って見える瞬間があるのか、どうか。
第7巻以降はそこらへんの「哲学」を読ませてほしいと切に願います。
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『機械仕掛けの愛』(「心」と「機能」はどう違うのか)
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人間の眼底ばかり覗いていた医療用ロボットが初めて外界に連れ出され、海を見、山を見、この世の美しさを初めて見ることで、なぜ患者たちが目が治るとあんなに喜んでいたかを知る「眼科医ルック先生」も素晴らしかったし、『マトリックス』のような世界を描いた「バーチャル・プリズン」も面白かった。「焚書工場」は『華氏451』の完全パクリじゃないかとは思ったけれど。
それはそれとして、私が一番胸を打たれたのは「宇宙の片すみ清掃社」ですね。
「宇宙の片すみ清掃社」
掃除用ロボットのタスクが、いまは亡きご主人様の墓を丹念に掃除する場面から始まるこの物語の要諦は、タスクがご主人様から聞いた「掃除の心得」。それは……
家の前を掃除していたご主人様が、隣の家の前も掃除をしているのを見たタスクが、
「掃除は我が家の前だけでよろしいのでは?」
と問いかけたところ、
「いいの。宇宙をきれいにしてると思ってるから」
との返答。
「ここはこの町のほんの片すみ。そして日本の片すみ。そして地球の片すみ。広大な宇宙の片すみ。でも、どんなに片すみだろうとこの宇宙を掃除してきれいにしているのに変わりはない。私のひと掃きが宇宙をきれいにしている。そう考えたら楽しくなる。ねえ、この考え、ステキと思わない?」
「スケール」とは……
私は年明けから職場で配置換えがあって、それ自体はいいものの、元の部署といまの部署とを行ったり来たりで疲弊して倒れてしまいました。「なぜ俺だけがこんな苦労をしないといけないのか」と。
でも、そんな恨み言はもうやめようと思います。私の仕事は清掃ではないけれど、確かに社会に貢献する仕事ではある。ほんの少しだけど。
だからタスクのご主人様が言うように「自分のちょっとした仕事が地域社会に、ひいては宇宙に貢献している」という大きなスケールで物事を考えないといけないと思い知らされました。
歴史的名著『映像の発見』の松本俊夫監督は、
「スケールとは、予算の規模や物語の舞台の大きさのことを言うのではなく、時代や社会を見つめる『目』の問題である」
と言っていました。大事なことをすぐ忘れるのが私の悪い癖。隣の人より自分が不遇だとか、そんなことに拘泥せず、宇宙に貢献しているという大きなスケールで考えないといけない。それは、話は変わるけれど、食事するときに「地球の裏側では今日食べるものがなくて餓死する子どもがいる」ということを頭の片隅に入れておくということでもあります。
業田良家先生の転回
しかし、ちょっと待ってよ。この『機械仕掛けの愛』の面白さは人間とロボットの何が違うのか、人間よりロボットのほうがよっぽど人間的だというところが面白いんじゃなかったの?
という声が聞こえてきそうですが……はい、その通りです。
私はこの第6巻でそのような面白さには出逢うことができませんでした。むしろ、ただの機械でしかなかったロボットが、人間の真心に触れて変容する様が描かれています。業田良家先生はシフトチェンジを目論んでいるのでしょうか。
人間の目をロボットは獲得できるのか
ただ、この「宇宙の片すみ清掃社」で、次に印象に残っているのは、先述のご主人様の素敵な言葉を聞いたタスクが「はい、同意します」と言う場面。
ご主人様は「あら、タスク、あなた笑うのね」と言う。タスクは「いえ、笑う機能はついてないはずです」と返す。
でも、確かに「はい、同意します」と言ったときのタスクの目は輝いているように見える。
この目、描くの大変だったろうと思います。本当にキラキラ輝いているのではなく「何となく輝いているように見える」ように描かねばならない。業田良家先生はストーリーテラーとしてずば抜けているだけでなく、やはり絵もうまい。(当たり前ですけど)
ここで大きな問題は、人間の目には前後の文脈によって同じ目でも輝いているように見えたり、笑っているように見えたり、怒っているように見えたりする、ということです。
それは人間の「心」が生み出す技。心と機能に何の違いがあるのかと問いかけてきたこの『機械仕掛けの愛』シリーズですが、ロボットの目も人間のそれと同じように、同じものが違って見える瞬間があるのか、どうか。
第7巻以降はそこらへんの「哲学」を読ませてほしいと切に願います。
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