2019年10月26日

山田太一さんのエッセイ集『月日の残像』(新潮文庫)を読みました。


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脚本以外の山田太一さんの文章を読むのは実は初めてだったんですが、最初はだいぶ戸惑いました。

あんまり面白いと思えなかったんですよ。途中で読むのやめようかなと思ったくらいで。でも、山田太一アディクトとしてはそれは不遜だと思い直し、最後まで読んだんですが、これが正解でした。

小林秀雄賞受賞とあるんですが、批評じゃなくてエッセイだし何で? と思ってたんですが、「消えた先の夢」と題された章を読んで大納得しました。


向田邦子への反発と共感
山田さんは生前の向田邦子さんと話をしていると、向田さんが「私、すんだ脚本はどんどん捨てちゃうの」というので、「それはどうかなぁ」とかすかな反発を覚えたそうな。

ただ、その頃はまだテレビ草創期で、ビデオがなかったからすべて生放送。前のシーンで会社で上司に怒られていたサラリーマンが次のシーンでは自宅で風呂上がりのシーンとかだと、上司の小言をできるだけ長くして、その間に俳優とスタッフが隣のセットに移り、着替えや湯上がりの雰囲気を出すためのセッティングをする。

そういう大急ぎの作業を毎日のようにやってるから、みんながみんな「終わったら次」という感じで撮影済みの台本をゴミ箱に捨てる場面を山田さんは何度も目撃したそうです。ビデオが発明されてもとても高価だったから再放送を1回したら新しい作品のために上から録画して使っていたとか。しかも20回から30回。そんなに繰り返し使ったら画質がかなり落ちてしまうと思うけど、それほど高価だったということなんでしょう。

「作品が消える」という事情は現在も同じだそうで、DVDで残るとはいっても、小説が本として残るのと同じようなもので、自分の作品が世から消えていく儚さを感じない作家はいないのではないか、向田さんの言葉はすぐに消えていく自分の仕事に対して先手を打つようなものだったのではないか、と山田さんは述懐します。


『七人の刑事』
一転して、ある日届いた不思議な本の話になります。それは往年の名作ドラマ『七人の刑事』に関するもので、羊崎文移(ようざきふみい)という人の『「七人の刑事」を探して 1961-1998』という本。

『七人の刑事』はタイトルは知ってるけど、1961年から1969年までの放送で、しかも前述のとおりビデオのない時代、または何度も使い回す時代だから、382回も続いたシリーズなのに残っているのはただ1作のみ。当然私は見たことがない。

著者の羊崎という人は、どこかに眠っているはずだと探し回るけれどもほとんど成果がない。そうやって「ここ5年で20年分の人生を費やしたような気分だ」とまでいうほど骨身を削って書いた本が山田さんのもとに届いた。

そして読んで驚いた。こんなものを誰が読むのかと。

脚本家や演出家、俳優へのインタビューなど普通に読めるところは80ページほどで、残りの360ページあまりが単なる「リスト」なんだそうです。

孫引きになりますがそのまま引用すると、

『木枯の通る街』昭和三十六年十二月六日放送。脚本・光畑碩郎、演出・蟻川茂男、出演・津村悠子、檜敦子、久保賢、他。
『幻の女』昭和三十七年三月十四日放送。脚本・津田幸夫、演出・西村邦房。
(内容)一杯機嫌で行きずりの女と外泊した気の弱いサラリーマンをめぐって事件が起きる……。


すべてこんな調子で俳優の名前があったりなかったり、(内容)もあったりなかったり。こんな代物をいったい誰が読むのかと。私も同じことを思いました。


批評家としての山田太一
でも、ここからが山田さんの真骨頂です。

これは羊崎という人の「詩」なんじゃないかと山田さんは言います。限られた人だけが享受できる詩なのだと。

膨大な名前のリストから記憶、空想、感情が湧きおこるだろうし、何よりところどころの「欠落」こそが詩なんじゃないかと。

「羊崎さんはこのドラマの映像があちこちで発見されDVDで全作誰でも見られることを願っている一方で、実はそんな日の来ることを怖れてもいるのではないだろうか。この膨大な欠落こそ詩であり、そこから作品を想像する愉しさに比べれば、全作そろったときの喜びは、何かむき出しで余情に欠けるということはないだろうか」

うーん、深い。忘れていた大切な何かを取り戻させてくれる言葉ではありませんか。

例えば、私はバッド・ベティカーは見てないもののほうが圧倒的に多いし「全部見れたらいいな」といつも思っている。でも、あの映画はこんな感じなのかな、あれはこういう映画なのかな、という想像を実際に見たときの感動が超えたことはあまりない。

見たいと切望する時間が長くなればなるほど、脳内映画のほうが圧倒的に面白くなってしまっている。自分の頭の中の「詩」が、映画本体の詩情に勝ってしまう。


じんのひろあきの座右の銘
脚本家のじんのひろあきさんの座右の銘は「人生はいつでも文化祭前夜!」だそうな。

その真意はおそらく「いつでも文化祭前夜のような緊張感をもって努力に勤しもう、そして翌日の本番を夢想して楽しもう」ということなんでしょう。永遠に前夜の酔いの中に眠っていたい、というのは、先日感想を書いた梅崎春生の書名を借りて「怠惰の美徳」と呼んでみたい気もする。しかし、文化祭というものもドラマや映画と同じく当日を迎えたら「すぐに消えてしまう」ものだと考えれば別の感慨が湧いてきませんか?

実際に文化祭当日を迎えたら作ったり準備したもののすべてがすぐに消えてしまう。向田邦子が消える仕事の先手を打って終わった台本をすぐ捨てるといううのとは逆に、すぐに消えてしまうようなものは絶対に作らないぞ、という決意表明のように感じられてくる。ずっと残るものだけを作るのだ、でもそれは絶対にかなわない、という創作者の悲哀を帯びてもくる。

まぁ、じんのさんはたぶんそんなこと考えてないと思うけど、そういうことを考えさせてくれる力が山田太一さんの「消えた先の夢」という文章には漲っています。

『「七人の刑事」を探して 1961-1998』というほとんどの人間に価値のない本を読んで、そこに意外な「詩」を読み取った山田太一さんはやはり一流の批評家だと思います。







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