2019年10月25日

久しぶりに再見した『妖怪人間ベム』もとうとう終わってしまいましたが、何度も見たあの結末に、これまでとはぜんぜん違う感慨をもつことができました。

前回までの記事
「階段を這う手首」(有神論と無神論の対立)
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボット⁉)
「博物館の妖奇」(妖怪人間は「心」の問題)


人間になる方法をついに見つけた!
妖怪人間とは「心」の問題だと前回お話ししましたが、最終第26話で中心になる素材は心というか「魂」です。


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ベムたち正義感にあふれた妖怪人間とはまったく違う姉妹の妖怪が現れ、彼らは街で人間たちを拉致してきてその魂を喰らっている。ベロも肉体と魂に分離させられて喰われかけます。


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何とかベムとベラが助けに来てベロは助かりますが、姉妹妖怪の所業を見ていたベムとベラは「あること」に気づいてしまいます。それは「自分たちが人間になる方法」です。

肉体と魂を分離させられるなら、自分たちの魂を人間の肉体に植えつければいい。「どうしてこんなことに気づかなかったのか」とベムは自嘲気味に言います。

「悪い奴らをやっつければ人間になれる」というのはただの「思い込み」であることは前回までの記事で何度も言ってきました。そしてその思い込みを彼らに植えつけたのは他でもない、彼ら三匹を生み出したマンストール博士です。

しかし、ベムたちは「本当に人間になれる方法」を知ってしまいます。

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ベロと同じ年恰好の男の子を見たベラは「あの子にベロの魂を乗り移せば……」とベムに囁きます。

そうです。彼らはもう少しで人間になれたのです。しかし彼らはやはりマンストール博士が作った「心」に逆らうことができなかった。

「ベロの魂を移せばあの子が死んでしまう」

いくら悪い人間であろうと「人間だけは殺してはいけない」それがマンストール博士がプログラムしたベムたちの「心」であったことは「墓場の妖怪博士」の回でお話ししたとおりです。

だからベムたちは人間になる方法を知ったにもかかわらず、それを実行できない。そればかりか、

「俺たちのような存在がいなくなれば、人間たちに悪さをする悪鬼羅刹の類をやっつけることができなくなる」

とベムは主張し、ベラも従います。どこまでもプログラムされた「心」から彼らは解放されることがない。


枷は主人公の心のあり方にこそ
よく作劇の基本に「主人公に枷を設けよ」というのがありますが、あれを単純に「主人公の足を引っ張る脇役」と解釈してしまうととんでもなくつまらないドラマになってしまいます。(かつての私がそうでした)

『仁義なき戦い』など名作の数々を遺した笠原和夫さんは「枷は主人公の心のあり方にこそ求めるもの」と言っています。

ベムたちもマンストール博士がプログラムした「心」が手枷足枷となっています。「心」の通りにしか動けない。(ちなみに、人間の「心」とロボットの「機能」はどう違うと思いますか? 実は違いなんてない、というテーマで描かれるのが業田良家先生の『機械仕掛けの愛』です)


ベムたちはどうなったのか
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人間になれる方法を捨て、人間になれない方法、つまり悪鬼羅刹の類との戦いに戻ることを選んだベムたちが最後どうなったのかわからないまま物語は幕を閉じますが、あのまま焼け死んだのか、それともナレーションにあるようにどこかで生きているのか。私はどっちでもいいと思います。

問題は、彼らが死んだか生きているかではありません。彼らが人間になれる方法を知ったのにそれを捨てたということです。自分たちの「心」が手枷足枷となって捨てざるをえなかった。

もし彼らに「心」なんかなかったら人間になれた。悪を憎む心なんかもたされてしまったために永久に人間になれなかった妖怪人間の哀しみ。

それで充分ではないでしょうか。(おわり)


蛇足
マンストールってmanstallって綴るんじゃないですかね? コンピュータにソフト(機能)を植えつけることをインストール=installといいますが「マンストール」は「人間の心を植えつける」という意味では?







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