2019年10月23日

往年の名作アニメ『妖怪人間ベム』の感想もいよいよ佳境に入ってきました。

前回までの記事 
「階段を這う手首」(有神論と無神論の対立)
「すすり泣く鬼婆」(神と悪魔の違いとは?)
「墓場の妖怪博士」(ベムたちは妖怪人間ではなくロボット⁉)

前回では第20話「鉄塔の鬼火」まで見たうえでの感想ですが、今回は少し戻って、全26話中で一番恐いと思われる第17話「博物館の妖奇」に関してです。


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「心」という問題
ある男の子が博物館に展示されている棺桶の上の仮面を盗ってきてしまった。正義感にあふれるベロは「それはダメだ。返しに行かなくちゃ」と一緒に返しに行き、そこで様々な怪奇現象に遭遇して死ぬほど恐ろしい目に遭うという物語。

しかし「ベロたちは本当に恐ろしい目に遭ったのかどうか」がこの物語のとても面白いところです。

男の子の祖父が博物館で警備員をやっており、返しに行く手伝いをするのですが、その祖父が口癖みたいに言うのが、

「恐いと思うから恐いものが見えるんだ」

というもの。霊や霊が巻き起こす恐怖の数々は自分たちの心が生み出しているのだと。唯心論ですね。


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実際、この「博物館の妖奇」では周到な演出がなされていて、ベロたちも途中で現れる泥棒たちも「霊に遭遇したかのように」描かれていますが「そういう気がしただけ」のようにも受け取れるようにも描かれています。

そして、全26話の中でこの回だけが、ベロが問題を解決するんですね。いつもはベムとベラの助けを借りないと何もできなかったベロが仮面を棺桶の元の場所に戻して一件落着。何かおかしい。

捕まった泥棒たちも警備員の祖父も「霊には遭遇しなかった」と警察に証言していると聞いたベラは、「恐いと思ったからそんなのが見えただけだろう」と高笑いします。

はたしてベロたちは本当に恐いと思ったから霊が見えただけなのでしょうか? 私の答えは「イエス」です。


マンストール博士の誤算
「階段を這う手首」と「すすり泣く妖婆」を取り上げた回では、ベムたちの「信仰」を問題にしました。信仰とは心の問題です。そして「博物館の妖奇」でも「心」が問題になっています。心が恐怖や悪鬼羅刹の類を生み出すのだと。

そして、墓場の妖怪博士たるマンストール博士は「悪鬼羅刹の類を憎む心」をもったベム、ベラ、ベロを生み出しました。悪い奴らをやっつければ人間になれると思い込んだ妖怪を。

3人は「三つ子」のはずなのになぜかベロだけは失敗作だったようで、とても未熟です。ベムとベラはおそらく「本当の悪鬼羅刹」と「心が生み出した幻影の悪鬼羅刹」を見分ける力をもっている。でも、ベロはそういうレベルにない。そして、われわれ人間はベロと同じレベルなのです。だから、幼い男の子のみならず、泥棒も、さらには「恐いと思うから恐いものが見えるんだ」が持論の爺さんまでもが幻影に惑わされてしまう。

ベムとベラはマンストール博士が生み出した類まれな能力により、完全に「妖怪」として屹立しています。ここでいう妖怪とは「人間に悪さをする悪鬼羅刹」と「幻影の悪鬼羅刹」を見分けられる存在という意味です。

でもベロは中途半端な能力しかないから、彼だけが「妖怪人間」と呼ぶにふさわしいと思うのです。だからほとんどの回でベロが何かに遭遇してベムに助けを求める。ベロが主人公に見えるのはそのせいでしょう。我々に近い存在だから感情移入しやすい。

話がそれましたが、「悪鬼羅刹の類を憎む心」をマンストール博士は生み出すことに成功したのですが、それが結果的にベム、ベラ、ベロの悲劇を招いてしまう。それが最終話「亡者の洞穴」です。


続きの記事
「亡者の洞穴」(あの結末が意味するもの)







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