古市憲寿の小説第二作『百の夜は跳ねて』の感想ですが、このところ体調不良というかえらくハイな状態が続いており、最後まで落ち着いて読めなかったので頓珍漢なことを言ってるかもしれませんが、そのへんはご容赦を。図書館に返す期限が今日だったのでね。次の予約入ってるし。無理して読みました。


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盗作問題
巻末に参考文献として記されている『天空の絵描きたち』という小説を盗作したとか、「盗作よりもっと巧妙な何かだ」とか芥川賞選考委員から批判されていますが、私は『天空の絵描きたち』を読んでいないので何とも言えません。盗作やパクリについて一般的な私の意見はこちらの記事を参照してください。⇒パクリ、盗作、芸のうち!(『カメラを止めるな!』をめぐって)

『天空の絵描きたち』の作者が「盗作ではない」と言ってるんだから別にいいのでは? ただ、古市から金もらってる可能性もあるし断定できませんが。


物語について
物語についても特に言うことありません。

高層ビルの窓の清掃人が、清掃していたあるビルの老女からいろんな部屋を「記録」してほしいと依頼され、不法行為に手を出すというのはサスペンスとしては面白いけれど、死んでしまった先輩の声とか市議会議員を目指す母親も含めて全体で何を言いたいのかがよくわからなかった。繰り返しますが、私がハイだったために読み取れてないだけかもしれません。どうかご容赦を。

ただ、以下の「新海誠作品との類似性」についてはハイとかそういうことは関係ありません。


固有名詞の頻出
主人公がもっているスマホは「iPhone」である必要がどこにあるんでしょうか。最初のほうのシーンで主人公の目の前の人間が「ファーウェイ」のスマホを云々という描写があったけれど、ファーウェイである必要性はまったくなかったはず。
主人公が仕事にもっていくお茶が「爽健美茶」である必要は?
主人公はいつも「セブンイレブンの93円のコーヒーを飲んでいる」らしいけれども、「セブンイレブン」である必要はあるのか。単に「コンビニ」でいいのでは?
老女から「記録」の依頼を受けて、わざわざ「ヤマダ電機に行き」と書き「GoProのHERO7 Black」というカメラを買う。カメラには疎いので調べてみると、やっぱりGoProのHERO7 Blackは実在する商品。「電器屋で店員に聞き、高いが性能がすごくいいらしいカメラを買った」ぐらいの描写でいいのでは? GoProのHERO7 Blackでないと成立しない話じゃない。

例えば、ブレット・イーストン・エリスの『アメリカン・サイコ』では、セレブが愛用する名刺やら化粧品やら洋服やら何でもかんでもとことん徹底的に固有名詞を出して、ある「味」を出していました。私はあの味は苦味以外の何ものでもなかったけれど「味」には違いない。

でもこの『百の夜は跳ねて』で頻出する固有名詞にはそういう「味」を少しも感じませんでした。もっと簡潔に描写しろよ、としか思わなかった。


新海誠作品との類似性
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新海誠監督の新作『天気の子』では新宿歌舞伎町の街並みがかなり忠実に再現されています。

そういえば、前作『君の名は。』でも新宿のヤマダ電機がめちゃ忠実に再現されていましたよね。

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何でここまでする必要があるのでしょうか。アニメなんだから架空の街でいいのでは? 現実を忠実に再現しないとリアリティがなくなると危惧してるのかな。

そんなのは杞憂でしょう。私はこれまで新海誠作品を面白いと思ったことはないけれど、リアリティがないと思ったことはないし、そもそも映画なんてしょせんは2時間の作り話なんだから面白おかしくでっち上げればそれでいいと思う。

『百の夜は跳ねて』もまったく同じ過ちを犯していると思いました。現実世界にあるアイテムをたくさん出せば出すほど白けてしまう。(古市作品にも新海作品にも「ヤマダ電機」が出てくるのが何か不気味)

それは私が脚本家を目指していたからかもしれません。

脚本には固有名詞は書けません。「爽健美茶」と書いてもコカ・コーラとのタイアップが実現できなければ画面に登場させることはできません。音楽でも「主人公がキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を聴いている」と書いて講師から叱られたことがあります。使用する権利を買えるかどうかわからないんだから固有名詞は絶対書くな、と。

だからよけいに反応してしまうだけかもしれません。

新海誠監督は46歳。古市憲寿は34歳。別に世代の問題ではなさそうです。

でも、この同じ時代に世に問うて高い評価を受けている作品が、固有名詞を連打したり、現実と同じ画を描くことでリアリティを獲得しようとしているのが、何となくイヤ~な気がするんですよね。


そこに「必要性」はあるのか
と、ここまで書いてきて、単に私が最近の小説をあまり読んでないからかな、とも思います。他の現代小説には固有名詞が頻出するのでしょうか。

ん? そういえば、漱石や谷崎の小説にも「どこそこの何々」と固有名詞が時折出ていたような……? たぶん、古典作品の固有名詞が気にならないのは私がその時代に生きていないから、知らないからというだけでしょう。

では知っている固有名詞だとなぜイヤ~な気がするのか。よくわかりません。

あ、でも、その固有名詞が出てくる意味、必要性があるならOKです。さっき読み始めた原田ひ香の『DRY』には「カルティエ」「ヴィトン」というブランド名が出てきますがちゃんと意味があるから何とも思いません。

やっぱり何の必要性もなく固有名詞を出すのは、リアリティを演出する姑息な手だと思っちゃうんですよね。


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