2019年09月19日

三谷幸喜の劇場映画監督第8作の『記憶にございません!』は、例えば「映画芸術」の熱心な読者だったりする人から「こんなのはただのファンタジーだ」「政治というものを舐めている」みたいなお叱りの声がたくさん届きそうな映画でしたが、政治がメインの話じゃないから別にいいんじゃないでしょうか。

メインプロットは「悪辣だった人間が真人間に変わる」というビルドゥングス・ロマンであり、その主人公が総理大臣というだけのこと。主人公が変わらなければこの国はどうなる? という大きな問題があったほうが変わることの爽快さが倍増するという狙いでしょう。政治映画をやりたかったわけじゃないんだからこれでいいと思います。

ただ、これでいいというのは、あくまでも政治的なあれやこれやが「これでいい」のであって、シナリオには大きな問題があると思います。

この映画の題材は「政治」ではなくあくまでも人間の「変化」です。そしてそのための仕掛けが「記憶喪失」。記憶とは「情報」です。情報の扱い方に問題があるのです。(以下ネタバレあります)


主人公と観客の同化
o (1)

映画は主人公が記憶喪失になった直後から始まります。病院をさまよい出ると、道行く人たちの話から彼が総理大臣であることがわかる。幼い頃の記憶しか残っていない彼は「観客と一緒に」さまざまな情報を得ていきます。

妻と疎遠になっている
息子はグレかけている
史上最低の総理大臣である
実権は官房長官が握っている
野党第二党の党首と愛人関係にある
政治ゴロからヤバい写真を買った

などなどの情報を我々観客は主人公とともに知ります。最初めっちゃ恐いですよね。登場する人物が何者か主人公(観客)だけがわからない。いまの言葉の意味はいったいん何だろう? この人との関係は? 次に何が起こるのか? 次々に浮かぶ疑問と恐怖を主人公と共有し、彼が忘れてしまった情報を観客は彼と一緒に知り、記憶をなくす前の個人的事情からこの国の内情までを知ります。

主人公が知っていく体になってはいますが、実は作者が観客に教えてるんですよね。よく、その仕事や事情に疎い人物を出して彼/彼女に教える形で観客に細かい情報を伝える手法が取られますが、あれの最も壮大なバージョンですね。何しろ総理大臣ですから。世の中のすべての人が彼のことを知っている。でも彼自身は自分のことを知らない。主人公を総理大臣にしたのはだから炯眼とさえ思うわけです。

しかし!


戦略の分裂
images

妻の石田ゆり子と首席秘書官のディーン・フジオカは愛人関係にあるんですが、それは「我らが分身」の中井貴一総理がまったくあずかり知らぬところで明かされます。息子が反抗的なのは中井貴一も知っていますが、酔っぱらって補導されたことは知りません。観客だけに明かされます。

これは端的にダメではないでしょうか?

せっかく、映画内世界のすべての情報を主人公と一緒に知っていくという、まるで観客自身が記憶喪失になったかのようなスリルと興奮に水を差しています。主人公が知っている情報量と観客が知っている情報量を常に等しくしてなければならないはず。

確かに、中井貴一が妻の不倫を知るのは最後のほうがいいでしょう。佐藤浩市がスキャンダル写真を売って新聞に載ったときに知ったほうが「そんなこと知らなかった!」となって窮地をどう脱出するか楽しみが増すし。息子の補導も草刈正雄官房長官がスキャンダルとして出したために主人公が初めて知る……

いやいや、これはまったく正確な説明ではありませんね。

中井貴一が妻と秘書官の関係を知るのは佐藤浩市から買った写真が額縁の裏に隠しているのを見つけたときです。新聞に出る前に知っている。
息子の補導のほうは、何と中井貴一は最後まで知ることがない。草刈正雄がスキャンダルとして世に出そうとしますが、佐藤浩市が拒否したため、その情報は最後まで主人公が知ることはありません。

これでいいのでしょうか? なくした「情報」を取り戻すこの物語において。その取り戻し方が「主人公と観客が一緒に」という基本戦略だったこの映画において。

これは「戦略の分裂」であるとも言えるし「主人公と観客の一体化の分裂」とも言えます。


本当のご都合主義
妻の不倫を最初のほうで知ってはまずい。総理にとってのスキャンダル、そこからの起死回生の大逆転のために最後まで知らないことにしたい。その気持ちはわかります。しかしながら、主人公と一緒にさまざまな情報を知っていく面白さを追求したこの映画において、それは基本戦略を反故にするということ、つまり観客への裏切り行為ではないでしょうか。(そして最大の裏切り行為はラストです)


b9073ea42caeb4938c7026a2f4d4f84d9441c422 (1)

物語が始まる前に佐藤浩市に2000万払っていれば彼は登場してこない。登場しなければヤバい写真の存在を事前に売っておくことができない。それはわかります。

だけど「買ったけど金は払ってない」って完全におかしいですよね? 金を払っていたら佐藤浩市は登場しない。でも買ったことにしないと、つまり中井貴一が写真をすでに受け取っていることにしないと、序盤で佐藤浩市が不倫写真を中井貴一に見せてしまう。それを避けるために「買ったけど金を払っていない」という設定にしているんでしょうが、金をもらってないのに写真を渡すなんて金だけが目的の佐藤浩市の信条と完全に矛盾する。

こういうのを本当の「ご都合主義」というのです。日米首脳会談であんなにはっきりアメリカの要求を拒絶したらとんでもないことになる。「あれが丸く収まるなんてご都合主義だ!」と言う人も世の中にはいるのでしょうが、前述のとおり、私はそっちのご都合主義は別にいいと思います。その程度なら「人間は変わろうと思えば変われる」という青臭いテーマに合うし。

でも、妻の不倫に関する情報の錯綜はどうにもしっくりきませんでした。そうしたくなる気持ちがよくわかるだけに。


記憶はいつ回復したのか?
額縁の裏に不倫写真を隠してあるのを見つけ、新聞に出る前に妻の不倫を知ってしまうのはどうなんでしょうか? あれだけ「好きなタイプだ」と言い、党首討論の場を借りて妻に「愛してる!」と絶叫していた総理にしては、何の葛藤もなさそう。

って、もしかすると、写真を見つけたときが記憶が回復したときなんでしょうか?

最終的に記憶が元に戻るというのは大切なことです。嘘をついたために転がる物語なら必ず嘘がばれなければいけないし、失われた記憶は元に戻らないといけない。物語の鉄則です。

でも、「いつ」戻ったのかは明確にしないといけないんじゃないでしょうか。記憶喪失をめぐる物語が「いつの間にか記憶喪失は治ってました」で終わってはあまりに恰好がつかない。刑事物語において「いつの間にか犯人は逮捕されていました」というのと同じですから。

もっと言えば「実は戻ってました」ではなく、主人公と観客が一緒に記憶の回復を体験するようにしないといけない。

「アレ問題」も同じ意味でダメでしょう。閣僚の一人から「アレはアレということで」というやつ。最初は話を合わせていた中井貴一が最後のほうで「アレはやめときましょう」と言う。アレが何を指すかわからないのになぜ? と思いましたが、あのときすでに記憶が戻っていたのですね。でもそれが事後的にわかるのはやっぱり前半との整合性が取れていないと言わざるをえません。終盤の中井貴一はもはや「我らが分身」ではない。

開巻と同時に主人公に同化した観客が、最終的に主人公に裏切られる。それがこの映画の正体です。


宮澤エマ
EB62OTqVUAAut5d

アメリカ大統領の通訳役として出ていたのがこの人、宮澤エマ。

最初、英語も日本語もうまいので「本物の通訳を連れてきたのか?」と思ったほど。でも大統領が木村佳乃なのになぜ? よく見ると顔に見覚えがある。誰だろう??? だいぶたってから宮澤エマと気づきました。

ハーフで英語がうまく、当然芝居もうまい。しかも映画初出演らしく変な色がついていない。いいキャスティングだと思います。いまごろオファーが殺到していることでしょう。


fdfdfdeee (1)

三谷幸喜によれば「中井貴一主演でコメディを作りたい」ということで始まった企画らしく、なるほど、実に楽しそうに、実にうまく演じています。今年の主演男優賞は総ナメかも。

役者への演技指導が素晴らしいし、その芝居をできるだけワンカットで見せようという映像演出などはよかっただけに、脚本のご都合主義がとても残念です。







  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントする

名前
 
  絵文字