2019年08月22日

いま、文芸評論家の三浦雅士さんが経済学者・岩井克人さんに聞き書きした『資本主義から市民主義へ』(ちくま学芸文庫)を読んでいます。




まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白い知見にあふれていて夢中で読んでいます。


奴隷制度は必然だった⁉
この本で一番面白いのは「会社はモノだけれど同時に法人という形でヒトでもあるように、人間もまたヒトであり同時にモノなのだ」というところ。

「人間が生物学的にヒトであるのは自明の理だけれども、社会を営む存在としてのヒトはまず何よりも『法人』という概念によって獲得されたのではないか。つまり、法人である以上は会社と同じくモノでもある。だから奴隷制度は必然だった」

うーん、これはめちゃくちゃ面白い!


ホリエモンの誤算
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ホリエモンのニッポン放送の株買い占めによる乗っ取りが失敗に終わったことが例に出され、次のようなことが語られます。

「堀江さんが『カネで買えないモノはない』といったのは100%正しい。でも、ヒトとしての会社はカネでは買えない」と。

なるほど、あの騒動の本質はそういうことだったのか。


モノとして扱われる体験
今日、病院へ行ってきました。そこでこの本で言われていること「人間はヒトであり同時にモノでもある」を体験したんですね。

精神科なので、最初は↓こんな感じです。

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「人間対人間」といったかんじですね。私の話をよく聞いてくれる。

で、瞳孔の収縮を見ます。いい画像がなかったので、膝関節を見る医者に替えます。

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これは人間をモノとして扱っていますね。このように、人間は相手の人間をヒトとして扱ったりモノとして扱ったりをその場の状況に応じて使い分けていることに初めて気づいたわけです。

よく、ドラマなんかで女が男に「私、あなたの物じゃないから!」とかいう場面がありますが、ああいうふうに、人間をモノとして扱うのは普通よくないこととされています。しかしながら、誰だって人間をモノとして扱ったり扱われたりしている、ということにいまさらながら気づかされた次第。


映画というカウンターカルチャー
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映画も人間をモノとして扱いますよね。特にアクション映画がそうだし、次がポルノ映画かな。いや、どんな映画だって人間の肉体を描いているのだから、すべての映画が人間をモノとして扱っている。

黒沢清監督は、
「愛してると一言つぶやくより、一発ぶん殴るほうが映画においては決定的なのだ」
と言っています。

映画は、人間のヒトとしての心理も描くけれど、同時にモノとして物理的な捉え方もする。映画黎明期のサイレント映画ってどれも役者が不気味で怪奇的じゃないですか。あれは「モノとしての人間」が描かれているからでしょう。

資本主義が花開いた19世紀は近代文学が花開いた時代でもありました。そこでは「個人としての人間」つまり「人間精神」が尊ばれていた。「ヒトとしての人間」ですね。

その19世紀末にモノとしての人間を扱う「映画」というメディアが生まれたのは非常に示唆的ではないでしょうか。

ホリエモンは会社をモノとしてのみ見たために失敗しましたが、近代精神は人間をヒトとしてのみ見ようとした。それもまた片手落ちである。そこに映画というカウンターカルチャーが「モノとしての人間」を復活させた。

「歴史」というものの壮大さを感じるのはこういうときですね。岩井さんと三浦さんはしきりと「最終的には文学の問題だ」と言っていますが、私に言わせれば「すべては映画の問題だ」

そういえば、奴隷制度が廃止されたのも19世紀でした。19世紀は「ヒトとしての人間」と「モノとしての人間」のせめぎあいだったのかもしれません。





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