2019年07月25日

小沼勝監督が小水一男の脚本を風祭ゆきの主演で撮った1980年ロマンポルノ作品『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今……』。

これが何度見ても面白いんですが、その面白さの源流に何があるのか、いままでよくわかりませんでしたが、今日やっとわかったような気がしました。


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物語
まず、風祭ゆき演じる専業主婦は、実業家の夫と二人で暮らしており、夫は風俗嬢の女と不倫中。その女が暴漢に殺され、彼が犯人であるかのような写真まで撮られる。暴漢たちは「あんたの奥さんを抱かせてくれたら警察には言わない」というので夫は呑む。そして風祭ゆきは暴漢たちに犯される。帰ってきた夫は「女房を犯されたアホな亭主といわれる。一番の被害者は俺なんだぞ」とひどいことを言う。

風祭ゆきは、翌日、暴漢たちに会い、金を払う。実は夫を風俗嬢と別れさせてほしいと彼らに頼んでいたのだ(つまり風俗嬢もグルで死んだふりをしていただけ)。犯されたとき指を強く噛んだので、暴漢の指に傷があるのを見てすべてを悟る風祭。「あんたの旦那が犯していいって言ったんだぜ」と暴漢が言う。「嘘!」と風祭は信じないが、「鍵を貸してくれた」と物的証拠を突きつけられたので受け容れるしかない。

何だか入り組んだ物語ですが、単純化すると、風祭ゆきは夫の不倫をやめさせてくれとやくざな男たちに依頼した。が、彼女に欲情した男たちは、依頼を逆手にとって風祭を犯す。さらにあんたの亭主が許してくれたとばらすことで彼女を絶望させ、また犯す。

つまり、夫の不倫とそれをやめさせようとした妻、というごく普通の設定なのに、依頼した男女の奸計によって主役二人が泥沼地獄に陥れられる。


主体と客体
能動的に動いていると思っていた人間(風祭と夫)が実は受動的な立場に立たされていたわけです。しかも、夫は暴漢が風祭を犯すところを実は覗いていた。つまり、彼は主体を回復する行動をひそかにしていたんですね。この覗き行為によって、風祭ゆきだけが100%の客体として劇中のヒエラルキーで最下位に追いやられます。

という設定がユニークなんですが、この映画は主人公にとって逆境以外の何ものでもないシチュエーションを主人公自身がひっくり返すんですね。(ほとんどの映画はそういう仕組みですけど)

男が女を抱く。男が女を襲う。つまり、男が主体で女は客体である、というのがこの映画の初期設定です。

が、これを風祭ゆき演じる主人公がひっくり返す、つまり風祭が主体として屹立し、ヒエラルキーの最上位に返り咲くところにこの映画の一番の面白さがあります。


ヨットの管理人の役割
風祭夫妻はヨットを所有していて、その管理人として若い男を雇っているんですが、彼は風祭に欲情しまくりなのに彼女の水着姿を見て自慰行為にふけることしかできない。風祭は「何してるの?」と余裕たっぷりに言って海に飛び込み、若者は忸怩たる思いに襲われます。このシーンは映画が始まってすぐです。つまり、まだ風祭ゆきが客体でしかないとき。客体でしかない女に主体的にからかわれる若い男の鬱屈した思いに身がよじれてしまいます。

この場面では、風祭はまだ暴漢たちの企みを知らないから、自分が主体であると勘違いしてるんですね。だから本当は客体でしかないのに主体的に振る舞えてしまう。主人公が無知であるがゆえに若い男は弄ばれるのです。

中盤、背後のからくりを知ってしまった風祭は、自分が客体でしかないことを思い知らされます。自分が依頼した男たちがレイプ犯だった。しかも彼らに鍵を渡したのが夫だった。どこまでも客体である自分に打ちひしがれていると、またあの若い男が現れます。

風祭ゆきは彼に「あたしが好きなら抱いてみなさいよ」と言い放ちます。若い男は踏ん切りがつかない。風祭は笑います。

「どうせあなたの恋人は5本の指よ!」と。

あの若い男が主人公の逆襲に一役買っているところがミソですね。彼がいなければ風祭ゆきは客体から主体へと変貌を遂げることができなかったでしょう。若い男の意気地のなさを笑い飛ばす風祭ゆきは主体として覚醒を始めます。

このあと、くだんの風俗嬢を街で見つけた夫もからくりを知り、風祭が別れさせてくれと依頼していた事実を知ります。

この構成も絶妙ですね。風祭ゆきの覚醒のあとに夫がすべてを知る。つまり、この時点で夫が最下位の客体として物語の底に追いやられている。風祭ゆきの覚醒の前に夫がからくりを知ったら、両者の知っている情報量が同じになってしまいます。風祭ゆきが覚醒しかけたときに夫がすべてを知ることで、風祭はさらに最下位から上へ、夫は上から最下位へ、という立場の逆転に勢いが出ています。


風祭ゆきにとっての「主体」とは?
さて、風祭ゆきにとって「主体」として行動するとはどういうことでしょうか?

若い男に「あたしを抱いてみなさいよ」と挑発したように、男に自分を抱かせることでしょう。男が女を抱くのではなく、抱かせる。男が女を襲うのではなく、女が襲わせる。

その象徴が、だだっ広い一本道を歩く風祭ゆきを学生の群れが好奇の目で見る数シーンでしょう。

風祭ゆきは「そんな扇情的な恰好をしてるから襲われるんだ」みたいな、被害者の女性を責める言葉が出てくるような衣装を常にまとっています。

暴漢に襲われ、裏のからくりを知ったあとでもそんな恰好をしているのは、「襲われる女」ではなく「襲わせる女」として、真に主体的な存在として屹立するためでしょう。

だから、クライマックスで、若い男の手引きで家に侵入してきた学生たちに輪姦される場面を見ていても、もはや襲われてかわいそう、というような感情は湧いてきません。襲わせている女のしたたかさを感じてしまう。

射出された白濁液は、射出したというよりは風祭ゆきが吸い取っているように見えます。女王蜂が働き蜂が作ったローヤルゼリーを吸い上げるように。逆に、「見ろよ、このおっさん、女房が犯されてるのに勃起してやんの」と馬鹿にされる夫は、完全に堕落したダメな奴に成り下がります。

ヨット管理人の若い男は風祭を犯そうとしますが、うまくいかない。そして彼は管理人を辞めます。

ラスト、次の管理人としてあるサーファーの男に声を掛けようと走る風祭ゆきで映画は幕を閉じますが、彼女が「あの子、かわいい」と言って決めることから考えて、前任者と同じく「5本の指が恋人」のような男を探していたのでしょう。

もう夫では満足できない。男に襲わせる女であり続けるためには、純で奥手な男を生贄にする必要がある。

ラストシーン以降、風祭ゆきは何人もの男を毒牙にかけて生きていくはずです。物語は永遠に続くのです。

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