川崎市登戸で51歳の男に18人もの子どもたちが刺され、39歳の保護者を含む2人が殺されるという痛ましすぎる事件が起きました。


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またか、という思いとともにすぐ自害して果てた犯人への強い憤りを禁じえませんでした。私もご多分に漏れず「死ぬなら一人で死ね」と思いました。が、それに対して「そういう言葉は控えるべきだ」という人が現れ、賛同する人もいるようです。


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はああああああ!? まったく意味がわからない。


当事者でない者の感情論がなぜダメなのか
賛同する人たちの中には「感情論でこの事件を裁いてはいけない」と言ってる人もいるようですが、無辜の幼い人間たちが一方的に殺傷された事件について何で感情論でものを言っちゃダメなのか少しもわからない。

「被害者の親じゃないんだから」という意見も見ましたが、当事者じゃないとダメなの? それは絶対におかしい。

先日、北方領土問題に関して、「戦争しないとどうにもならないんじゃないですか?」と島民に発言した丸山穂高が日本中から非難を浴びて日本維新の会から除名されました。現在の日本人で戦争の当事者になった人はほとんどいません。日本人が「戦争には何が何でも反対する」と表明してはいけないんですか? まさか! 


上から目線
藤田孝典さんの「一人で死ねは控えてほしい。次の凶行を生まないために」という言葉にすごく反発してしまうもっと大きな理由は「上から目線」じゃないでしょうか。

私はある慈善団体にめちゃくちゃ少額ですが寄付しています。日本円では少額でも、アフリカでは結構な量の子どもの食糧やワクチンが買えるそうです。寄付しているといっても私も貧困層の一人。ですがアフリカの子どもから見れば富裕層。だから寄付という行為は「上から目線」以外の何ものでもありません。

が、金で解決できる問題なら上から目線でいいとしても、人間の尊厳をめぐるときに上から目線はいかがなものかと思います。藤田さんの言うことは頭では理解できます。社会をよりよくしたいという思いから出た言葉なのもわかります。でも腹にストンと落ちてこない。それはやっぱり「上から目線」だからだと思う。

私はかつて自殺を図りましたが、周りから厳しく叱責されました。甘い言葉をささやく人間など一人もいなかった。あのときの私は職場など周囲の人間たちを恨み、自分を悲劇の主人公だと思っていました。親兄弟、友人たちはそんな私の甘さを叱責しました。手を差し伸べてなどくれなかった。あのときの私はそれを恨んだりもしましたが、いまはそれでよかったと思っています。

中でも印象的だったのは、ある友人の言葉です。

「手首を切るなんて助かる可能性のある方法をなぜ選んだのか。ビルから飛び降りれば確実に死ねるじゃないか。なぜおまえはそうしなかったのか」

これは今回の事件における「死にたかったら一人で死ね」と同じですね。でもその友人は私をあえて突き放したのです。「何かおまえのためにできることはないか。手を差し伸べてあげよう」なんて甘い言葉は言わなかった。



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人と人が真正面から向き合うとはそういうことでしょう。上から目線で死にたい人を救うことはできない。


蛇足
よくラッシュアワーに鉄道自殺が起こって電車が止まることがあります。あれについて「もっと人のことを考えろよ!」という言葉を頻繁に見かけますが、あれには同意できません。死のうとしている人間に、電車に飛び込んだら通勤客にどういう影響が出るかという想像はできません。なぜなら間接的な被害だから。でも、他人を殺傷するのは直接的な行為なのだから、その程度のことがダメなことぐらいいくら何でもわかるはず。

死にたい、自暴自棄、そういう気持ちに私は深く共感します。死ぬなとは言えない。でも、もし死ぬなら、そのときは一人で死ぬべきです。



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